『反撃の狼煙』


 

熱い想いに従って、力の限り走り抜けて、その場所へと辿り着いた。

胸の奥で熱い血潮を送り出す心臓と裏腹に、吐く息が白くなるほど空気は冴え冴えと冷え切っていて、そんな極寒の世界に、見つけたかった背中を見つけた。

 

「――――」

 

細く、しなやかな背中が瞳に飛び込んできて、思わず心臓が爆ぜそうになった。

溢れる愛おしさが胸をつくが、かろうじて衝動を堪える。こんなタイミングで、心臓の爆発に任せてキュン死にしている場合ではない。

強く奥歯を噛みしめて、奮戦する背中越しに敵対する相手の顔が見えた。

 

濃い茶色の長い髪と、襤褸を巻き付けたような粗末な格好。何より印象的なのは、他者の人生を踏み躙り、文字通りの食い物にしてきた醜悪な眼光――。

 

「――ライ・バテンカイトス!!」

 

声の限りに吠えて、自分の存在を主張し、相手の注意を惹きつける。

その一瞬だけでも、相手の注意が逸れれば儲けものだ。無論、その分だけ攻撃がこちらへ飛んでくる可能性もあるが、彼女への被害が減らせるなら何のことはない。

込み上げる恋心を燃料に、今なら空だって飛んでみせる。

 

「それで、少しでも勝率が上がるんならだ」

 

凍結する床の手前で足を止め、腹に力を込めてライを睨みつける。その動向に全力で注視し、どんな動きがあっても――、

 

「あ……」

 

そんなスバルの心構えは、とっさに振り返った紫紺の瞳に奪われて砕け散る。

 

「――――」

 

黒瞳と紫紺の瞳と、互いの視線が交差した。

その瞬間、彼女の瞳に浮かび上がった感情の波は膨大で、押し流されそうになる。いつだって、彼女の瞳はこちらの心を搦め取り、溺れさせようとするのだ。

その瞳に宿ったたくさんの感情の全部を、どうにか掬い取りたいと思わせるから。

だから――、

 

「危ないから待って!えっと、私のこと、その、わからないかもしれないけど、あっちが敵!ここは私に任せて!私のこと、わからないかもしれないけど!」

 

慌てて手を振りながら、こちらへ警戒を呼びかける姿に目を瞬かせる。

一拍遅れて、その言葉の意味が呑み込めた。――自分の内側に、これと同じことを言われた『記憶』が確かにある。同時に、起きた出来事に合点がいった。

そして、本当に思う。――ここに最初に辿り着いたのが、自分でよかった。

 

何を言えばいいのか、なんて呼びかけたらいいのか、わかる。

それ以上に、最初になんて呼びかけたかったのか、それが膨れ上がって、

 

「――大丈夫だよ、エミリアたん」

 

困らせたり、心配させたり、待たせてしまって悪かった。

そんな想いを込めて、場違いにも唇を緩めながら頷きかける。そして、その一言で瞳に理解が広がっていく、銀髪の少女を見ながら続ける。

 

右手で天を指差して、腰に手を当ててポージング。

やる必要はなかったが、やってやったら覚悟が決まる。そのために――、

 

「――俺の名前はナツキ・スバル。エミリアたんの、一の騎士!」

 

「スバル――っ!!」

 

「わぶっ!?」

 

決まった、といい顔で言い放った直後、凄まじい勢いで銀髪の少女――エミリアがスバルの下へ突っ込んでくる。

その勢いのまま飛びつかれ、スバルは大きく後ろにのけ反りながら、何とかエミリアの体重を支えきった。心配せずとも、天使の羽のように軽い。無問題。

問題があるとすれば――、

 

「え、エミリアたん!?急でいきなりでビックリしたし、めちゃくちゃ柔らかくていい匂いするね!シャンプー変えた!?」

 

「スバルのバカ!もう、すごーくバカ!いっぱい、いっぱい心配したの!それなのにあんな風に……バカ!バカバカ!」

 

「すげぇ馬鹿って言われてる!いや、言い訳できないんだけど……」

 

腕の中、大きな瞳で責め立ててくるエミリアにスバルはたじたじになる。その間もエミリアとは密着状態なので、スバルの心はてんやわんやで語彙も大混乱だ。

ともかく、とスバルは名残惜しいが、エミリアの細い肩を掴んで体を離し、

 

「心配かけてごめん。でも、俺、戻ったから。……復活した?くっついた?完全体ナツキ・スバルになったっていうか、とにかく、大丈夫だから」

 

「あ……」

 

「全てのナツキ・スバルを過去にする。――ナツキ・スバル、爆誕だ」

 

勢いでそうまくし立てて、力ずくでエミリアの安心を勝ち取ろうとする。だが、そんなスバルの考えに、エミリアは目を瞬かせると、そっと指でこちらの胸に触れてきた。

くすぐったく、優しい感触。思わず、スバルが全身で身震いすると、

 

「ちゃんと、一緒になれたの?」

 

「――――」

 

「記憶がないときのスバルも、スバルだったから。だから、スバルが全部思い出してくれても、あの、短い間でも一生懸命だったスバルは……」

 

「――ああ、うん。大丈夫だよ」

 

胸に触れてきながら、たどたどしい言葉でエミリアがスバルの足跡を確かめる。

『記憶』の統合により、一つになったとも、消えてしまったとも解釈できるナツキ・スバルがいて、そのナツキ・スバルと心を通わせた時間が彼女たちの中にもあって。

 

――ああ、ならば、簡単なことなのだ。

 

「俺の中にも、エミリアたんの中にも、『俺』がいたことは確かに残ってる。だから、本当に大丈夫だよ、エミリアたん」

 

「……うん」

 

「だから、こっから先はパーフェクト・ナツキ・スバルにご期待ください。怒涛の展開に溜まってたフラストレーションを起爆剤に、輝く未来にレッツ&ゴーだぜ!」

 

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

 

親指を立てたスバルの笑顔に、エミリアがゆるゆると首を横に振って答える。

そんなつれない態度も愛しくて待ち遠しくて、スバルは何分、何時間、何日でも、こうしてエミリアとイチャイチャしていたいのだが――、

 

「――そろそろさァ、感動のご対面には十分かい?」

 

そう言って、おっかなびっくり触れ合うスバルとエミリアに、遠くから声をかけてくるのは陰湿な笑みを浮かべた『暴食』の大罪司教だ。

ただ、この間、攻撃を仕掛けてこなかった事実にスバルは眉を上げ、

 

「ああ。わざわざ、律義に待っててくれるとは思わなかった。悔い改めたのか?」

 

「『喰い』改めるなんてとんでもないッ!ただ、僕たちってば『美食家』だからさァ。お兄さん的に言うとグルメってやつ?食の喜びを知るものとしちゃぁ、配膳にもちゃぁんと気配りしたいって話なんだよ。テーブルが汚くちゃ興醒めだ。でしょ?」

 

応用し難いテーブルマナーの話をして、ケタケタと甲高い声でライが嗤う。その耳障りな笑い声を聞きながら、スバルは深々と頷いた。

そして、

 

「なるほど、納得した。俺はてっきり……」

 

「てっきり?」

 

「妹が無様にやられたから、ビビッてんのかと思ったんだよ」

 

「――ッ」

 

直後、余裕ぶった笑みを浮かべていたライの表情が豹変した。

笑みは一瞬で掻き消え、代わりに浮かび上がるのは灼熱の赫怒だ。その強烈な怒りに従い、ライの体が凍れる通路を蹴り、瞬く間に突っ込んでくる。

 

「お前に、俺たちのルイの何がわかる――ッ!!」

 

「何にもわかんねぇよ。こっちは一方的に体に入り込まれてただけだ。あいつが何考えてたかなんか知らねぇし、知りたくもねぇ」

 

本気で妹にだけは情があるのか、激昂したライの短剣がスバルへと迫りくる。しかし、スバルは近付いてくる『死』の足音に何ら怯えていない。

激情に支配されたライが、スバルしか見えていないならまさしく狙い通り――、

 

「――私もいるの、忘れないでよ、ね!」

 

「が、ぶッ」

 

勇ましい声と共に、エミリアのすらりと長い足が美しい弧を描いた。それは大きく勢いをつけて旋回し、真っ直ぐ突っ込んでくるライの顔面を迎撃する。

直撃の瞬間、エミリアの氷結戦闘技法『アイスブランドアーツ』が発動し、相手に突き刺さる爪先を氷のブーツが補強しているおまけつきだ。

 

「う、りゃぁぁぁぁ!」

 

白い足に力を込め、エミリアが敵の前歯を砕いた蹴り足を力一杯振り切る。ライの矮躯はその威力に耐えかねて吹っ飛び、凍結した床を滑って通路の奥へ転がっていった。

そこへ、エミリアはさらに掌を向け、生み出される氷杭が容赦なく倒れるルイを追撃、氷塵が通路を埋め尽くし、『暴食』に甚大な被害を与えることに成功する。

 

「決まった!これが俺の煽りと、エミリアたんの可愛い殺意の合わせ技だ!」

 

「それって褒めてるの?」

 

「褒めてるよ!最高!可愛い!結婚したい!」

 

「けっこ……もう、ふざけないのっ」

 

わずかに頬を赤らめ、じろりと睨みつけてくるエミリアの反応は予想外。てっきり、もっとすげなく流されると思っていただけに、スバルの方も照れ臭さが跳ね返ってくる。

 

「いかんいかん、エミリアたんと会えて浮かれすぎだぞ、俺。いちゃつくのはやること全部やって、問題を片付けたあとだ」

 

「スバル!まだやっつけられたかわからないの!だから、油断しないで」

 

「わかってる!これで倒せるんなら、むしろ大歓迎なんだが……」

 

ほぼ同時に感情を立て直し、スバルとエミリアは状況の打開――エミリアは目の前のライ・バテンカイトスを、スバルはプレアデス監視塔を取り巻く問題に意識を向ける。

五つの障害――それはナツキ・スバルのアイデンティティ問題が解決しても、なおも継続して監視塔と、その中にいるスバルの仲間たちを脅威に晒している。

ただ、いくつかの条件の変化はあった。例えば、時間切れを象徴するかのように押し寄せ、塔を丸ごと呑み込んで全てを台無しにする影の猛威だ。

あれは――、

 

「あれが、これまで俺が想像してきた通りのペナルティなら……」

 

影が全てを呑み込む一大事は、以前、『聖域』でも出くわした災厄の再現だ。

あれが起こった経緯は、『墓所』の中でエキドナと話し、彼女に『死に戻り』の全部を打ち明けたことが原因だった。この塔で起きた出来事もそれに類するものだとしたら、あの影が全てをご破算にするのは、『死に戻り』が外部に大きく漏れた場合。

つまりは、スバルの内側にルイ・アルネブがいたことが原因だったはずだ。

 

そのルイ・アルネブが排除され、スバルの内側から彼女の存在が消えた今、あの影がプレアデス監視塔を呑み込むかどうかは五分五分、といったところだ。

だから、それを当てにして、事態をゆっくり進める選択肢はないが。

 

「エミリアたん!俺に考えがある!」

 

「――!わかったわ!じゃあ、それをしましょう!」

 

「まだ何にも言ってないけど!?」

 

スバルの頭の中で選択肢が整理され、それに従って声をかけた途端、何の説明もないのにエミリアからの快諾が飛んでくる。

そのことに驚くスバルに、エミリアは「いいの!」と強く答え、

 

「スバルの考えなら、一生懸命考えてくれたあとに出てきたものだもの!私が今から色んなことを考えて答えを出すより、ずっと信じられるから!」

 

「――ああ、クソ!嬉しいこと言ってくれちゃって!」

 

頭を掻き毟り、スバルはむず痒い信頼に応えるように強く床を踏みしめる。それからスバルは通路の奥、氷塵の舞い散る空間を指差し、

 

「とりあえず、エミリアたん、あいつにもう一発ぶち込んで!」

 

「えい!」

 

どん、と激しい音がして、エミリアが氷塊を通路の奥に落とした。

その躊躇のない一発がライへのトドメになればいいが、それは望み薄というものだ。実際、氷塊の着弾点に目を凝らしたエミリアが、「あ!」と声を漏らし、

 

「スバル!さっきの大罪司教が……」

 

「ちっ、しぶとい野郎だ。けど、ノーダメージってわけじゃないはず」

 

振り返るエミリアの表情から、スバルはライが着弾点から姿を消したと理解する。

そのゴキブリ並みのしぶとさには辟易するが、状況の悪さを察して一度は退けるあたり、勤勉が高じて愚直なペテルギウスや、『謙虚』の類語辞書を持たないレグルスとは違う。

しかし、奴が塔から撤退することはありえない。

 

「エミリアたん!ひとまず、他のみんなと合流だ!人員配置を振り分け直す!それぞれがベストを尽くさないと、この状況は突破できない!」

 

「え!でも、あのまま逃がしていいの?」

 

「正直、さっきので仕留められるんなら仕留めちまいたかったが……」

 

一度は下がった以上、ライも息を整える時間を全力で稼ぎにくるはずだ。その場合、ライを叩くのに必要な時間と、確実性は計算が難しい。

ならばいっそ、この場は作戦行動を優先し、奴の命は預けておく。

 

「心配しなくても、あいつは塔から出ていったりしないよ。しこたまルイのことで……妹のことで煽ってやったからね。勘違いシスコン野郎は引き下がれない」

 

「しすこん……?」

 

「妹想いって意味。あいつらの場合、悪い妹想いだけど」

 

少なくとも、ルイの方にはライやロイ、実の兄たちを慕う気持ちはないようだった。そうとも知らずにルイのために尽くすなら、それは哀れな被害者か、その役割に陶酔しているだけのロールプレイマニアだ。

だが、皮肉なことに、大罪司教の歪みない歪み方だけは信頼できる。

 

「臨機応変、柔軟に対応を変えられる奴は、そもそも大罪司教なんかになってねぇ」

 

それが、これまで大罪司教との望まぬ接触を重ねてきたスバルの大罪司教評価だ。

故に、生き汚いライ・バテンカイトスを追い詰めるのは簡単ではない。その間に、スバルが手を加えない状況はどんどんどんどん悪化の一途を辿るはず。

そうなる前に――、

 

「エミリアたん!みんなのところに!」

 

「ん、わかった!だけど、みんながどこにいるかは……」

 

「――それをスバナビするのは、俺の役目だよ」

 

ナツキ・スバル・ナビゲーションシステム。

――略してスバナビこと、『コル・レオニス』を発動する。

 

「――――」

 

知っている感覚と、知らない感覚の同居した権能の発動は奇妙な感慨を覚える。

自分の脈打つ心の臓の在処を意識し、その自分自身を中心に鼓動を広げるように知覚範囲を拡大する。それは音の反響で周囲を把握する、ソナーのイメージに近い。

ただし、感じるのが仲間の温もりや淡い光で、もっと限定的な感覚ではあった。

――だが、万能性はなく、ただ仲間の存在を感じることだけに特化したそれは、今のスバルたちにとって最も価値のある権能だ。

 

その、権能で感じる淡い光に当たりをつけて、スバルは顔を上げる。

まず、エミリアとの合流を急いだように、次は彼女が先んじて逃がしてくれた面々との合流を優先する。すなわち――、

 

「――まずは、俺の可愛いパートナーを回収する!」

 

△▼△▼△▼△

 

――『コル・レオニス』から伝わってくる感覚から、スバルはプレアデス監視塔で起こっている出来事の大部分を把握しつつあった。

 

あくまで、権能の効果でわかるのは仲間たち個々人の状態と、スバルを中心としたぼんやりとした距離感。仲間の視界が共有できたり、状態がはっきりわかるわけではない。

それでも、傷を負えば傷を肩代わりし、二日酔いになれば二日酔いを引き取れる。それがスバルの『強欲』の権能の効果で、使い道は色々と考えられるものだ。

 

「スバル、大丈夫?顔色が悪いけど……」

 

「ん、ああ、大丈夫大丈夫。いや、ちょっと強がり言ってるけど、まだ平気。このぐらいなら、全然頑張れるよ」

 

並んで通路を走りながら、重い息を吐くスバルをエミリアが心配する。彼女の銀鈴の声音と紫紺の瞳に心をくすぐられながら、スバルは素直な心情を吐露した。

辛い。けど、耐えられる。それが本音だ。

 

「――――」

 

エミリアに指摘されたスバルの顔色、それはもちろん、『記憶』を取り戻すために繰り広げられたルイとのすったもんだの影響もある。精神的な摩耗はなかなか回復し難く、すり減った心を立て直すのは容易いことではない。

が、今のスバルを苦しめているのは、もっと単純明快な原因がある。――ラムの負担、彼女が常日頃から味わっている苦しみを、先んじて引き受けているためだ。

 

「無断で傷を引き取るの、ラムは絶対喜ばないだろうけどな……」

 

あれで責任感の強いラムは、自分の負担を他人に肩代わりさせることを絶対好まない。面と向かって「一緒に苦労を背負いたい」とプロポーズすれば、鼻で笑われ、挙句に鼻に蒸かし芋を詰め込まれるのが関の山だ。

なので、ラムの負担は勝手に背負う。彼女に拒否は言わせない。

だから――、

 

「スバル!」

 

通路の角を折れたところで、その先を見通したエミリアがスバルを呼んだ。その呼びかけの意味は、『獅子の心臓』を脈打たせるスバルにはわかっている。

エミリアがライを引き受ける間、戦場を離れ、距離を作っていたはずの仲間だ。

漆黒の地竜と、その背に乗せられた青い髪の少女。手綱を握っているのはその少女と瓜二つの顔をした姉で、傍らにはドレス姿の幼女が立っていて――、

 

「ベア子!!」

「ベアトリス!」

 

「――っ!?す、スバルと、誰だかわからん娘がきたのよ!?」

 

猛然と駆け寄ってくるスバルとエミリアに、振り返るベアトリスが仰天する。が、彼女の驚きに構わずスバルとエミリアはほぼ同時にベアトリスに飛びついた。

そのまま、「わきゃっ」と悲鳴を上げる幼女を抱き上げ、

 

「おお、ベア子!ベア子、お前、軽いなぁ!可愛いなぁ!賢い顔してるなぁ!」

 

「わ、わ、わ、わ……」

 

「見て、ベアトリス!スバルが全部思い出してくれたのよ!あ、でも、私のことはわからないかもしれないんだっけ……でも、スバルは覚えててくれたの!私、それがすごーく嬉しくて……」

 

「ま、待つかしら!待つのよ!知ってる記念日と知らない記念日が同時にきたみたいで、ベティーの頭の中がてんやわんやかしら!」

 

振り回されるベアトリスが、スバルとエミリアの言葉に交互に打ちのめされ、目を白黒させる。しかし、彼女はすぐに掌を突き出し、まずエミリアを黙らせると、

 

「……スバル」

 

「ああ」

 

「ホントに、全部、思い出せたのよ?ベティーのことも、ベティーとどんな風に過ごしてきたのかも、全部?」

 

「ああ、そうだよ。そんな不安そうな顔すんな。全部思い出したし、何ならいくらでも捏造してやれる。俺とお前の、あることないことヒストリアだ」

 

「ないことを捏造する必要はないかしら!ああもう!」

 

抱き上げられたベアトリスが、すぐ近くのスバルの顔を両手で挟む。頬を潰され、ひょっとこ口になるスバルを間近に見て、ベアトリスは深々と嘆息した。

それから、彼女は特徴的な紋様の浮かんだ瞳を震わせて、

 

「スバルは本当に、ベティーを振り回してばっかりなのよ」

 

「お前を退屈させない契約者、ってのが契約条件だったはずだからな。それと、お前は俺のこと、スーパーマンじゃないって言ってたけど……」

 

「――?」

 

「客観的に見て、俺って結構、スーパーマンじゃね?」

 

片目をつむり、ウインクしながらスバルがベアトリスに笑いかける。一瞬、その回答にベアトリスは目を丸くして、すぐに頬を膨らませた。

 

「調子に乗るんじゃないかしら!」

 

「乗せとけよ。乗ってる方が仕事できるタイプだから。あとは……」

 

「――――」

 

ちらと視線を横へ向けると、そこでは憮然とした顔のラムが立っている。彼女は薄紅の瞳を細めて、射抜く――否、貫くような視線をスバルへ突き刺していた。

 

「あー、姉様?」

 

「ずいぶんと、雪解けの早いこと。所詮、バルスらしい空騒ぎといったところね」

 

「……まぁ、実質、一日ぐらいのことだもんな」

 

空騒ぎと言われれば、スバルの方は苦笑する以外にない。

実際のところ、スバルが体感した二十回近い死亡と、それを我が事と受け止めるための精神的負担を思えば、それがたった一日の出来事とはとても思えない。

スバルからすれば、数年は記憶喪失だったような気分だ。

 

「けど、満を持して戻ったぜ。みんなのために百五十パーセントの力が出せる男、ナツキ・スバルをどうぞよろしく」

 

「ハッ!いいわ。何とでも言いなさい。ただ、慈悲深いラムが見逃しても……」

 

「見逃しても?……ばんぐらでぃしゅっ!?」

「うきゃーなのよっ!?」

 

意味深に言葉を区切ったラム、その一言に首を傾げた直後、死角から風を切って叩き込まれる地竜の尾撃にベアトリスごと吹っ飛ばされた。

そのまま、くるくると回ったスバルとベアトリスが柔らかい感触に受け止められる。見れば、それは吹っ飛ぶ位置に回り込んでくれたエミリアだ。彼女は背中側からスバルの体を柔らかく支え、「ふふっ」と微笑み、

 

「パトラッシュちゃんも、スバルが戻ってくれてすごーく喜んでるみたい」

 

「――――」

 

エミリアの視線の先、鼻息を一つこぼした漆黒の威容が立っている。

その強烈な尾っぽの一撃を喰らい、スバルは腕の中で目を回すベアトリスを抱え直しながら、

 

「ひと昔前のツンデレみたいなことを……いや、悪かった。お前にも相当、心配かけたよな。そもそも……」

 

「――――」

 

エミリアの支えを受け、立て直したスバルは鋭い眼光を向けてくるパトラッシュと向き合う。そして、『記憶』がなかった間の、変わらぬ愛竜の献身を思い返して、

 

「ホント、お前にゃ助けられるぜ。愛してる」

 

「――――」

 

「……いつもみたいに、ぶっ飛ばさないのな?」

 

軽い愛の告白をすると、決まって淑女たるパトラッシュのお叱りを受けるのだが、今回のスバルの告白にはそれがなかった。あるいはそれは、

 

「冗談か本気かくらい、この地竜にもちゃんとわかるってことかしら」

 

「……そうさな」

 

いつの間にそんなに仲良くなったのか、ベアトリスがパトラッシュの心中を代弁する。否定の尾撃がない以上、ベアトリスの通訳で間違いないというわけだ。

これでベアトリスが翻訳能力まで身につけると、いよいよオットーのお役御免である。

 

「――レム」

 

そのパトラッシュの背中には、鞍に体を預ける形でレムが乗せられている。

無論、眠り続ける彼女から、スバルの『記憶』が戻ってきたことを喜ぶ声を聞くことはできない。ただ、レムの横顔を見た、スバルの胸中に浮かぶ想いは別だ。

 

「――――」

 

あの白い世界、ルイ・アルネブの甘言に乗せられ、まさしく『暴食』の毒牙にかけられそうになった瞬間、どうしようもない弱虫を蹴り上げる声がなかったら。

本当に彼女という存在は、ナツキ・スバルが自分を忘れても、逃がしてくれない。

だからまた、都合四十回の『死』を乗り越えて、戻ってきてしまう。

 

「と、感慨にふけるのは後回しだ。とにかく、俺の記憶は戻った。みんながその祝賀会を開きたい気持ちは嬉しいけど、状況を一気に片付けよう」

 

「祝賀会とは、ずいぶんと自分を高く見積もったものね。この短い時間で何があったのやら……それに」

 

「――。あ、私?」

 

声の調子を低くしたスバルに鼻を鳴らし、それからラムの視線がエミリアへ向いた。彼女の瞳に浮かんだのは、常の不遜さと、同じぐらいの違和感だ。

ベアトリスの反応からも明らかなことだが、やはり――、

 

「エミリアだよ。覚えてない、っぽいな」

 

「……さっき、ラムたちを逃がしてくれた相手、というのは知っているわ。でも、それだけで、それ以上のことは思い出せない。ベアトリス様は……」

 

「ベティーも、同じなのよ。……『暴食』の権能の効果、ってことかしら」

 

ラムの首肯に、ベアトリスも同じように顔を伏せる。

プリステラで、ユリウスの身に起きたことと同じことが、この塔の中でエミリアの身にも降りかかったのだ。そのことは、痛々しい傷となって尾を引くと――、

 

「はい!私はエミリア、ただのエミリアよ。色々言いたいことはあるけど、ベアトリスともラムとも、おんなじ方向を見てる家族だから!」

 

「――――」

 

「それだけわかってくれてたら、今の私は大丈夫。スバルが覚えててくれてるってわかってから、なんだかすごーく調子がいいの」

 

ふん、とエミリアが白い腕で力こぶを作り、気丈に――否、それは強がりではなく、本心から怖いものなしといった様子で笑みを浮かべていた。

その、あまりに堂々たる振る舞いにスバルだけでなく、ベアトリスも絶句する。珍しいことに、ラムさえも驚きを禁じ得ない様子で目を丸くしていた。

 

「あれ?私、なんだか変なこと言っちゃった?」

 

「……んや、変なことっていうか、めちゃくちゃ格好良かったけど」

 

少しだけ慌てた風なエミリアの反応に、スバルは自分の頬を掻いてそう答える。そんなスバルの一言に遅れ、「そう」と深い息を吐いたのはラムだ。

彼女はエミリアの様子をしげしげと確かめ、

 

「エミリア、と言ったわね。不思議なことに、あなたを見ていると、ラムの頭の片隅がやけにむず痒く感じるの。……レムのときも、同じことがあったわ」

 

「それって……」

 

「あなたのことが頭から消えて、その穴を埋めるのが大変ってことでしょうね。レム以外に、ラムにそんな相手がいるなんて考えにくいけれど」

 

目を細めるラムが、自分の内側から消えたエミリアの存在を指でなぞるように確かめている。そんな彼女のこぼした言葉に、スバルは場違いな感慨を覚えた。

こうは言っているラムだが、彼女がエミリアを大事に思ってくれていたのは、二人の関係を横から見ていたスバルには疑いのないことだ。その積み重ねた時間が失われたのだから、ラムに思い当たる節がないのは当然のことではある。

しかし――、

 

「あなたを見ていて、感じるこの頭の疼きが、ラムとあなたの関係の答えだわ。だから、安心なさい。――ラムは、やられっ放しは嫌いなのよ」

 

「――。それは、私もおんなじよ。絶対の絶対、やり返すんだから」

 

「ええ、億倍返しね」

 

「多いな!?」

 

エミリアとラム、不敵な笑みを交換する二人に、スバルは頼もしさを覚える。

『名前』を奪われ、本来なら孤立し、関係性は瓦解していくしかなかったはずだ。だが、エミリアは孤立に負けず、強く心の芯を保ってくれた。そのおかげで、彼女から始まるはずの瓦解は、スバルやラムたちの土台を崩すことができない。

その上で――、

 

「バルス、献策なさい。ただ、物忘れしていた自分を思い出しただけで、ここまでの失点が取り戻せるとは思わないことね」

 

「言われなくてもわかってるけど、何たる言われようだよ!」

 

ただ、説得の必要なく、協力する姿勢を見せてくれることはありがたい。

なにせ、信頼を積み重ね、状況を説明して、一つ一つの問題に絆を結びながら立ち向かっていくには、この砂海の塔の置かれた窮地は逼迫しすぎている。

故に――、

 

「あの最悪の三兄妹が始めやがった大食い祭りを、俺たちの絆でメタメタにしてやるぜ」

 

「ええ!」

「当然なのよ」

「ハッ!」

 

三者三様の返事があり、スバルはその全てに深々と頷いた。

そして、

 

「――バラバラだけど、帰ってきた我が家感がある!」

 

と、大事の前の小さな、しかし確かな感動を吐き出しておくのだった。