『ゴージャス・タイガー』


――時は、ガーフィールが避難所へ駆け込む半日以上前へ遡る。

 

「でなー?ヘータローがそこで転んで泣きそうになってさー、しかたないからミミが手ぇつないであげたわけ。そしたらティビーもさびしそーな顔するから、もーしょーがないなーって両方と手をつないであげたんだよー」

 

「……あァ、そォかよ」

 

「うん、そー。でねでね!そのまま帰ったらお嬢がすげー嬉しそーでさー!」

 

気のない返事をされるのにもめげず、隣を歩く小柄な少女はけらけらと笑う。

橙色の体毛につぶらな瞳。天真爛漫を絵に描いたような振舞いをする少女は、どういうわけか自分に付きまとってくる敵対陣営の一人――ミミという獣人だ。

 

都市プリステラに到着以来。否、振り返ってみると、ミミがロズワール邸に今回のことで使者として訪れたときから、やけに懐かれてしまっている気がする。

最初はエミリア陣営で、最大戦力である自分を警戒してのものだと疑っていたものの、ここまでの少女の態度と言動からその疑いはほとんど消した。今は素直に、どういうわけか気に入られたのだろう、と考えている。

 

そのどういうわけかの部分が見当がつかず、ガーフィールは首を傾げるばかりだ。

 

――現在、ガーフィールとミミの二人は夕刻前のプリステラを並んで散策している。

といっても、どちらかが一緒に行こうと相手を誘ったわけではなく、ぶらりと旅館を出たガーフィールにミミが勝手についてきた形だ。

できれば一人でいたかったガーフィールだが、その理由を口にするのも憚られて、そういった機微を感じ取る能力が著しく低いらしいミミに気圧されるままに、こうして中身のない会話を交わしながら都市を出歩く羽目になってしまっていた。

 

「ガーフ、変な顔してるー。なんかあった?おもしろーなこと?」

 

「面白ェッことなら景気のいい面ァしてんだろォよ。話したくねェ。っつか、話す義理なんざねェッだろが」

 

「ギリとかニンジョーとかむずかしいこと言ってるとヨシュアみたいになるよ?もっとてけとーに楽しくやってたらいいなとミミは思います!ガーフ、アホみたいに笑った方がかっこいいぞー」

 

「アホみたいにってなんだ、コラァ」

 

あんまりといえばあんまりなミミの言葉に、くわっとガーフィールが牙を剥くと「きゃーっ」と少女が駆け出していく。そのまま少し先まで走ったところで立ち止まり、今のやり取りを忘れたような顔でにこにこ待つ少女を見ていると、何となく今の自分の小ささが馬鹿らしくなってきたような気がするから不思議だ。

 

夕食前の腹ごなしと称して、ガーフィールが剣聖ラインハルトへ手合わせを挑んだのは、今からほんの一時間ほど前のことだ。

王国最強――あるいは、現存する中で世界最強とすら呼び声の高い今代の剣聖。

 

実際に顔を合わせる以前に、スバルからもその実力の程は聞かされていた。

友人であり、恩人でもあり、ちょっと複雑な別れ方をした相手でもあるとスバルが言っていたラインハルト。今回、思わぬ場所で出くわせたのは収穫だ。

スバルも抱えていた気まずさを、どうやら久々の会話で解消することができたらしい。そうして憂いが消えてしまえば、ガーフィールも遠慮する必要はない。

 

ガーフィールにとって、最強の響きは純粋に特別な意味を持つ。

最強であるということ。最強を目指すということ。最強になるということ。

それが男として生まれた以上、産声を上げた瞬間からそびえ立つ目標であるとガーフィールは信じてやまない。

 

誰もが人生という長い道筋を歩く途上で、一度は願いながらもいずれ忘れてしまう『最強』への憧れと夢想。しかし、ガーフィールはそれを忘れたことはない。

常に思い描き、そうあろうと努力し続けてきた。『最強』の称号はガーフィールにとって、男として生まれついたからには目指すのが当然の頂であり、ガーフィールが守りたいものを全て守るために欠かすことのできない条件でもあるのだ。

 

故に、その頂として名高い男を前にして、疼く牙と爪を押さえる術をガーフィールは持っていなかった。

 

スバルに口添えしてもらい、ラインハルトと手合わせの了承を得た。

剣聖は武の極みにあるとは思えないほど、柔和な印象を保った優男だった。その気になれば片手でへし折れそうなほど、最強という言葉とは程遠い存在。

しかし、強者ほど己の強さを隠すのがうまいことをガーフィールは知っている。普段からピリピリとした気配を放ち続ける自分はさて置き、ガーフィールの知る強者とは常日頃はそう見えないものだ。ロズワール然り、スバル然り。

そしてラインハルトも、それらと同じ領域にあるものと判断した。

 

――手合わせは、砂利を敷いた旅館の中庭で行われることになった。

 

周囲への被害を懸念し、都市の野外へ出るガーフィールの提案を一蹴し、ラインハルトは旅館の中での戦いを主張した。それも『庭を荒らさない』と条件を付けて。

屈辱以外の何物でもない。武の極みにある男とはいえ、それはいくらなんでも自分を舐めすぎている。即座にその見くびったことを後悔させ、外へ引きずり出す。

 

中庭で対峙し、スバルが手合わせ開始の号令をかけるまでガーフィールは牙を剥き出し、その剛腕で赤い英雄の横っ面を弾くことだけを意識していた。

 

「――――」

 

そんな考えは、号令がかかった瞬間に消失した。

 

目の前に立つ男の姿が、瞬きよりも短い刹那の間に一変する。

それまでそこに立っていたはずの優男の雰囲気は彼方へ消え去り、そこに立っていたのは炎か、あるいは一振りの研ぎ澄まされた刃であった。

 

常人ならば、その刃の気配にすら気付けないほど自然体。

ある程度、武を齧ったものなら絶望的な力量差に崩れ落ちるほどの圧迫感。

しかし、ガーフィールはそのどちらでもなかった。

 

ガーフィールは少なくとも、剣聖と手合わせするに値する実力の持ち主だ。

自然体に気付いて戦慄し、圧迫感を前に肝を縮められながらも、ガーフィールは咆哮でその躊躇いを殺し、ラインハルトへと躍りかかった。

 

互いに深手を負わせない範囲での手合わせ――そんな取り決めを忘却した、鋭い爪で相手の喉を抉ろうとする先制攻撃。

 

それがものの見事に空振って体が泳いだ瞬間、ガーフィールは実力差を理解した。

 

「――負けだ」

 

その後、ありとあらゆる角度から多角的な攻撃を仕掛けたが、ラインハルトはそのことごとくを避け、いなし、受け流すことで柔らかに回避した。

おまけにその全てをラインハルトは、手合わせが開始した地点から一歩も動かずにやってのけたのだ。

つまりガーフィールは、ラインハルトの腰から上に全霊を振り絞って敗北した。

 

大振りの隙を突かれて投げ飛ばされ、顔の目の前に拳を突き付けられた瞬間にガーフィールは自分の敗北を宣言した。

剣聖に、剣を抜かせず、自分の得意分野である拳だけの勝負で完全敗北した。

 

その後にラインハルトが何と言っていたのか、スバルが何と言ってくれていたのかはほとんど思い出せない。

ただ、負け惜しみや捨て台詞をぶつけるような無様だけは晒さずに、どうにか一言残して旅館を出てくるぐらいに済ませられたはずだ。

 

自分の内側に渦巻く感情、それがなんなのか判然としない。

答えが出せない感情に打ちのめされたまま、夕暮れが近付く水門都市をガーフィールは一人で答えを探し求める――はずだったのに。

 

「ガーフ!ガーフ!見てみ!見てみー!ほら、夕陽がめちゃめちゃ水面に映っててちょー赤い!コレすごー!すごー!きれー!」

 

きゃいきゃいとガーフィールの周囲を駆け回り、袖を引っ張ったり髪を引っ張ったり肩に圧し掛かってきたり、追いついてきたミミは遠慮も容赦もない。

 

おかげでわざわざ旅館を出てきたのに、一人で落ち込む時間もないほど。

 

「てめェ、さっきッからウザってェなァ、オイ。ちったァ静かにできねェのかよ」

 

「んー、ムリー!」

 

「即答かよッ!」

 

ガーフィールの腕を掴み、ぐるぐると走り回って体を回転させようとするミミ。意外と強いその腕力に引かれて、その場でくるくると回ってしまうガーフィール。

本気で振りほどいて、ミミが追いつけないほど早く走って逃げてしまおうかなんて考えが脳裏を過るが、これで獣人であるミミの身体能力の限界は未知数だ。案外、逃げるガーフィールにも易々と追いついてくるかもしれない。

 

都市の中で目立ちすぎるのも考え物だ。

プリステラへ出発する前に、フレデリカとラムの二人からもかなりきつめに注意を受けている。自分の奇行が理由でエミリアやスバルに迷惑をかけては示しがつかない。迷惑をかけていいのはオットーだけだ。尻拭いが得意な兄貴分だから。

 

「……はァ」

 

「おととっとー。ん?どしたの、ガーフ。なやみゅ……にゃやみ……なややごと?」

 

「悩み事って言いてェのか?」

 

「そう、ナナミゴト!なんかあんのー?言ってみ、言ってみー」

 

結局、言えないままのミミがその場で「しゅっしゅっ」と拳を突き出しながら打ち明けてみろと言ってくる。その頼り甲斐のある小さな体に、ガーフィールは毒気が抜かれる気がして小さく牙を噛み鳴らした。

そのまま視線を水路へ向け、目を細める。

 

「あァ……確ッかに、すげェいい景色じゃァねェかよォ」

 

「でしょでしょ?コレすごー!すごー!」

 

ミミの言葉に話半分だったが、見てみれば水路に夕陽が照り返される光景は目に鮮やかな美しいものだ。世界を橙色に染める上からの夕焼けに、黄色と白の照り返しを孕んだ水面の赤光がたまらなく胸に迫る。

気付けばガーフィールは水路の縁に腰を下ろして、行き交う人波と水路の小舟を眺めながら、ぼんやりと時間を過ごしていた。

 

「ふんふんふーん」

 

座るガーフィールの隣に腰掛けて、足をぶらぶらさせるミミはご機嫌に鼻歌など歌っている。完全な沈黙はできない性格のようだが、それでも鼻歌だけに留まる今は大人しいものだ。半袖のガーフィールの肩口を掴み、頭を左右へ揺すっている。

楽しげな横顔をちらと覗き見て、ミミの体毛の色が夕焼けそっくりな橙色だと遅れて気付いた。思わず手を伸ばして頭を撫でると、ミミが嬉しそうに身を寄せてくる。

 

「ふわふわ?ふわふわー?ミミねー、お嬢もよくさわりにくんの。ふわふわしてて、イヤシケーみたいなこと言ってた」

 

「あー、確かに触りッ心地はいいなァ。その癒し系って、大将もたまに言ってやがっけどこういうッことかよォ。何となくわかんぜ」

 

「ガーフ、イヤラシーされてる?」

 

「それッだとまた意味が変わってきちまってる気がすんなァ!」

 

「あれれ?」

 

ミミが悪意のない顔で首を傾げるので、ガーフィールは思わず笑ってしまう。

それで胸の内の重たいものが抜ける気がするのだから、自分は安い奴だと思えてしまった。敗北感と屈辱感が、素直な反骨心に変換される気がする。

 

「……いきなり最強になれッはずがねェよ。俺様ァ、まだ登ってる最中だ」

 

「おー、このながいながいサイキョーへの坂をなー!」

 

「へッ、なかッなかわかってんじゃァねェかよォ。そうさ、それが最強の道だ」

 

拳を突き上げるミミに、ガーフィールは額の白い傷を指でなぞって答える。

癪な話だが、元気づけられてしまった。一人でいたらいつまでもくよくよと悩んでいた可能性がある。ミミがついてきてくれて、よかったというべきだろう。

 

「礼でもしてやっか。オイ、ちびっ子。出店でも寄ってッくとすっか。奢って……」

 

「ガーフ、あれ!」

 

「あァ?」

 

尻を叩いて立ち上がり、ミミを買い食いへ誘おうとした矢先のことだ。

まだ座ったままのミミが水路の向こう側を指差し、声につられてガーフィールもそちらを見やる。と、その目が細められた。

 

見れば水路の対岸、そこに停留していた小舟の一つを係留していた縄が解け、水路の流れに乗って無人のまま動き出していた。ただ、問題はそこではない。

 

「ガキんちょたち!」

 

ミミが大きな声で呼ぶのは、その流れてしまった小舟の向かう先――そこには停留する小舟の一隻に乗り込み、舟遊びをしていた五人ほどの子どもたちの姿があった。

子どもたちは小舟の接近に気付いていない。流れに乗った小舟がぶつかれば、転覆して水路へ投げ出される可能性があった。

 

ミミの声に、水路の周辺にいた他の人々もその状態に気付いた。小舟の係留所にいた船主の一人が慌てて駆け出すが、気付くのが遅くて間に合わない。

周りの人々の声に、子どもたちがやっと気付いて顔を青くし、突っ込んでくる小舟を見てパニックになりかけた。

そこへ――、

 

「よォ、チビ共。最初に気付いッた、あのチビの猫姉ちゃんに感謝ッしろや」

 

「ガーフ!」

 

対岸の小舟へと一息に跳躍し、水の上の小舟をほとんど揺らさずに着地する驚異的なバランス感覚。無音に近い着地をしたガーフィールは、子どもたちにとっては突然に降って湧いたようにしか思えなかったことだろう。

牙を剥き、凶悪に笑う目つきの悪い金髪の男。その出現に子どもたちは声もなく硬直し、暴れるものがいないのを好都合にガーフィールは五人の子どもをいっぺんに抱きかかえて再び飛んだ。

 

小舟から脱し、水路の歩行通路へ着地。子どもをそこで解放した直後、背後で小舟同士が激突し、子どもたちが乗っていた小舟がひっくり返る。

そのままいくつもの小舟が連鎖的に衝突に巻き込まれかけるのを、ガーフィールは子どもたちと一緒に引っ掴んでいた小舟を繋いでいたロープを巧みに操って止める。

 

ひっくり返った小舟の動きで抑制し、最初に縄を外れた小舟が下流へ流れていくのも止めて、ガーフィールは一連の騒ぎを最小限の被害で食い止めた。

 

「っとまァ、こんなもんよ!」

 

ロープを改めてしっかりと結び直し、ガーフィールがそう言って騒ぎを締め括ると、その様子を目撃していた人々からワッと歓声と拍手が上がった。

小舟の監視をしていたはずの船主がぺこぺこと頭を下げて感謝を伝えてくるのに手を振り、ガーフィールは照れ臭げに頭を掻く。

と、

 

「お、お兄ちゃん。ありがとうございました」

 

「おォ?」

 

助けた子どもたちが揃って、ガーフィールにお礼の言葉を投げてくる。

振り返るガーフィールの姿に、子どもたちは小舟の上で見せたような怯えた顔を見せずに、ただキラキラとした目を向けてくるばかりだ。

そんな子どもたちとガーフィールの様子に、さらに拍手の音が高くなる。

その音にどこか気分のいいものを感じて、ガーフィールは軽く指で鼻を擦ると、

 

「なに、気にッするこたァねェよ。たまたまの偶然……そうさ、偶然だ。偶然、夕焼けと湿った風が俺様に教えてくれたんだ。常に水に囲まれた水門都市……誰かの涙が流れちまったら、いよいよ水路が氾濫しちまうってなァ」

 

「――――」

 

誇らしげにガーフィールがそう応じると、急に拍手の音が疎らになった。

歓声も途切れ途切れになり、微妙に詰まったような声が並び始める。しかし、そんな周囲と違って目の前の子どもたちの反応は劇的だ。

 

「す、すげー!」「かっちょいー!」「涙のために、危険をかえりみない!」「ひかない!こびない!かえりみない!」

 

ボルテージの上がる子どもたちに、ガーフィールは満足そうに頷いた。

そして、牙をカチカチと鳴らして笑うガーフィールに、子どもの一人が、

 

「お兄さん、お名前はなんて言うんですか?」

 

「名乗るほどのもんじゃァねェよ。でも、あえて言うなら……俺様ァ、虎。そう黄金の虎さ。人呼んで、ゴージャス・タイガー!!」

 

「ゴージャス!」「タイガー!!」

 

両手を斜めに天に伸ばし、体を傾けてポージングを取るガーフィール。

その姿に子どもたちが声を裏返らせて目を輝かせ、同じようにポーズを取る。

 

そうして子どもたちと分かり合うガーフィールの下へ、水路を迂回して駆けてくるミミも目をキラキラと輝かせて、

 

「――ガーフ、かっけー!!」

 

言いながら駆け寄り、合流して一緒にポージングに加わった。

子どもたちとミミと、ガーフィールの高笑いが夕暮れの水路に響き渡る。

 

――もう拍手も歓声も消えて、渇いた笑みを浮かべる船主だけが取り残されたようにぽつんとそれを見守っていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

意気投合した子どもたちを引き連れて、出店で買い食いを果たしたガーフィールは意気揚々と肩で風を切って歩いていた。

 

「そのとき、俺様ァ言ったのさ。『こっから先にゃァ、一歩も進ませねェよ、三下共が。ここァ大将の腹の中。てめェらとっくに罠に落ちてやがんのさ』ってなァ!」

 

「すごー!かっちょいー!」

「わー!しびれるー!」

 

すっかり夕焼け色に染まったプリステラで、武勇伝を語るガーフィールをミミと金髪の少年が囃し立てる。

ちなみに今しがた語っていたのは、この一年の間に起きた出来事の中でも印象深い出来事の一つである、『土蜘蛛ハンティング』の一幕だ。

とある村で大量発生した『土蜘蛛』という魔獣を、スバルとガーフィールとオットーの男三人衆が何故か討伐する羽目になった出来事で、スバルとオットーの悪巧みとガーフィールの戦闘力が十全に発揮された会心の事件でもあった。

 

そんな思い出語りを喜んで聞いているのが、ミミと先ほど助けた子どもたちの中の一人。まだ六、七歳ぐらいの年齢だろうか。金色の髪の少年だ。

愛嬌のある顔立ちに、人好きのする笑顔。将来はなかなかの女泣かせになりそうな素養が備わっているように思える。が、今はガーフィールの武勇伝と生き様に目を輝かせ、人生を誤りかけている一人の少年であった。

 

子どもたちを連れて買い食いを終えたガーフィールは、一応の保護責任ということで子どもたちを一人一人無事に家へ送り届けているところだ。すでに五人の内の四人が無事に帰ったため、この少年が最後の一人ということになる。

 

「それッにしても、チビ共だけでずいッぶん遠くッまで遊びに出てやがったんだなァ、オイ。危ねェんじゃねェのか?」

 

少年の家までの道中、結構な距離を歩いたことにガーフィールが眉を寄せる。

子どもたちが舟遊びをしていたのは、旅館のある一番街とミューズ商会がある二番街とのほとんど境の地点だ。そこまで考え事をしながら目的もなく歩いていた自分も自分だが、まだ幼い子どもたちが出てくるには遠い距離だと思わざるを得ない。

なにせ子どもらの家はさらに奥、都市の三番街にあるという話なのだ。

 

子どもの足では真っ直ぐ目的地を目指しても、小一時間近くかかる距離だろう。

そんなガーフィールの言葉に、少年は歯を見せて笑うと、

 

「たまに、あの一番街のコーエンに歌姫様がくるんだよ。それを見にいったの」

 

「歌姫……っつーと、アレか。確かに歌声はすげェったァ大将も言ってやがったが、俺様ァちっとばかし疑ってかかってんぜ」

 

子どもの無邪気な答えに、ガーフィールは鼻を擦って同意しかねる。

ガーフィールが歌姫リリアナを見たのは、ミューズ商会での極々短時間だ。とはいえ、その短時間でも十分なインパクトを残す程度には、なんというかアクの強い少女だったことは間違いない。ただしそのアクは、歌姫という清廉なイメージとは見事に相容れないものに思えてならないのだ。

 

「ガーフ、歌姫のお歌、聞いてないの?あんなー、なんかすごーだった!」

 

「ちびっ子はちゃんッと聞いてッたのかよォ」

 

「んー!最後まで寝なかったー!ミミすごー!褒めてー!」

 

頭を差し出してくるミミを、ガーフィールはおざなりに撫でる。ミミが「やったー!」と大喜びして駆け出していくと、視線を彼女から少年の方へ戻し、

 

「んで、その歌姫ッ様には会えたのかよォ?」

 

「ううん、ダメだった。ちょっとおそかったって。でも、せっかく遠い一番街まで出てきたから……」

 

「川で遊んでてアレってわけだ。まァ、俺様が間に合ってよかったってなァ」

 

「ゴージャス・タイガー!」

 

「おォよ!」

 

少年が天に手を伸ばすので、ガーフィールも同じように手を伸ばす。

ゴージャス・タイガーここにあり、だ。

 

ただ、そうして元気よくポージングをし合ったすぐ後に、腕を下ろす少年が物憂げなため息をついた。その横顔にガーフィールが首を傾げる。

 

「急にどッしたよ。ため息なんざやめッちまえ。幸せが逃げんぜ」

 

「その、あの……帰ったら、おねーちゃんに怒られるから」

 

「あァ?」

 

少年がおどおどと、姉に怯える姿勢を見せたことにガーフィールは過剰反応。肩を震わせる少年に、「悪ィ悪ィ」と慌てて取り成し、

 

「けどよォ、なんでそんな怒られるなんて話にッなんだよ」

 

「……内緒で、出てきちゃったから」

 

「あー」

 

今日の友達との遠出を、この少年は姉に黙って敢行してしまったらしい。結果、今頃は心配しているだろう家族に、雷が落とされるのが怖くてしょうがないらしい。

その気持ちはガーフィールにもわからなくない。姉という存在は、弟にとっていつまで経っても越えられない壁であり続けるのだ。

十年ぶりに再会し、体が大きくなっていてもそうなのだ。毎日のように顔を合わせて、体格も今では負けている少年の恐怖はもっと大きなものだろう。

 

「わァった。俺様ッにきちっと任せとけや」

 

「え……?」

 

胸を叩くガーフィールの言葉に、少年が驚いた顔を見せる。

その顔を安心させてやるように、ガーフィールは鋭い牙を見せながら笑った。

 

「姉貴のおっかなさァ俺様にもわかっかんなァ。ひと肌脱いでッやんぜ。坊主の姉ちゃんが出てッきたら、俺様がちゃんと援護してやらァ」

 

「おにーさん!」

 

ひしっと感極まった少年がガーフィールに抱き着いてくる。その少年を抱き返してやると、背中にひしっとミミまで抱き着いてきた。

そうして前後にちびっ子を抱き着かせたまま、ガーフィールは決意を新たに少年の家を目指してえっちらおっちら歩き出す。

 

日没が本格的に迫ってきており、どうやら旅館の夕食時間には間に合いそうにない。しかし、今日ばかりはそれもいいだろう。

さすがにまだ、座敷でラインハルトと顔を合わせて平静で食事ができるほどまでは回復できていない。だが、一晩あれば大丈夫なぐらいには持ち直した。

それもこれも、自分をゴージャス・タイガーと慕ってくれる子どもたちや、なんかよくわからない元気をくれるミミのおかげだ。

 

「――フレド!」

 

と、そんな感慨に浸っていたガーフィールの耳を、そんな高い声が劈いた。

急な気配にガーフィールが顔を上げると、遠くからこちらへ向かって猛然と走ってくる少女の姿があった。長い金髪をたなびかせる少女は、ガーフィールにしがみついている少年を一心不乱に見つめている。

その声に少年が顔を上げ、少女の方を見て口を開けた。

そして、

 

「おねーちゃ……」

 

「あんた、どれだけ人に心配かけたら気が済むのもうっ」

 

飛びつこうとした少年に、両足から飛び込む少女のダイナミックな飛び蹴りが直撃して、その小さな体が軽々と後方へ弾んでいった。

勢いを殺さず、ひねりを加えた理想的な飛び蹴り――思わずそれを見届けてしまったガーフィールは、美しい着地をする少女に反応が遅れた。

その間に少女はキリリと美人だが鋭い目つきでガーフィールを睨み、その足の甲に踵を叩きつけてくる。

 

「この不審者っ。うちのフレドをどうするつもりだったのよっ」

 

「痛……くはねェが、足どけろや、ちびっ子」

 

威勢のいい啖呵を切る少女に、ガーフィールは静かな声で言い返す。自分の先制攻撃がダメージを与えられなかったことに、少女は怯んだ顔で後ずさった。

ひょっとしたらガーフィールが怒ったと思ったのかもしれないが、ガーフィールは怒るところまではいっていない。というより、まだ驚きが持続している。

 

まさか問答無用で、弟に飛び蹴りをかます姉が出てくるとは思わなかった。

ちなみに蹴り飛ばされた少年は、受け身も取れずに地面に激突する前に、「ぴゃーっ!」と飛びついたミミが抱えて綺麗に地面を転がっていた。

今は二人で立ち上がり、お互いの体の汚れを払っているところだ。

それを目の端で見届けて、ガーフィールはため息をついた。その態度に、

 

「なんなのその態度っ。い、言っておくけど、フレドにもウチにも変なことなんてさせないんだから……う、ウチが怒ったら怖いのよっ」

 

「まず、誤解だって言っとくかんなァ。それッと、受け身もできねェ弟にあんな大技ぶッつけんじゃァねェよ。下手すりゃアレで大ケガすんぜ。わかっかよォ」

 

「うっ……」

 

しゃがみ込み、ガーフィールは静かな声のままで少女に訥々と語りかける。

少年の姉、こちらの少女もまだ幼い。年齢は十歳前後――おしゃまな感じの、ちょっと背伸びしたい年頃といったところか。最初の威勢の良さも少し衰えて、物静かに応答するガーフィールの態度に涙目になりかけている。

見た目だけならばチンピラ一直線のガーフィールだけに、少女も勇気を振り絞ってのことだったのだろう。ある意味、怒鳴り返されるより怖い思いをする結果を招いてしまったのが、少女にとっては不幸なことだった。

 

「ご、ゴージャス・タイガー……おねーちゃんを、あんまり怒らないであげて」

 

と、震える姉を見かねてだろうか。すっかり体の埃を落として、衝撃から立ち直った弟が姉の背中から顔を出してガーフィールに懇願する。姉の方はその弟の様子にプライドを傷付けられた顔だが、それでもガーフィールの視線から弟を庇うだけの威厳は保っていた。出だしはどうかと思ったが、悪い関係ではないと思う。

 

「俺様が悪者みてェになんのァ、イマイチ納得がいッかねェんだけどよォ」

 

「ワルモノ!ワルモノダメだぞー、ガーフ。ゴージャス!タイガー!」

 

とてとて戻ってきたミミが、ジャンプしてガーフィールの頭を小突いた。痛みはないが、なんとも腑に落ちない一撃と言わざるを得ない。

さてそのまま、姉弟とガーフィールたちの不毛な睨み合いが続く。

かと思われたが、

 

「お姉ちゃん。フレド。二人とも、どこにいったの?」

 

再び、この膠着状態を崩したのは余所からの声だった。

女性の柔らかな声に、弾かれたように姉弟が顔を見合わせる。それから声の方向へ向かって駆け出していくのを、ガーフィールは目を丸くして見送った。

 

姉弟が向かった先は、道の曲がり角の方だ。声はそこから届いたもので、一人の女性がそこから姿を現すと、姉弟は迷わずその人影に飛びついた。

受け止めたのは金髪の女性で、おそらくは二人の母親だろう。

 

「おかーさん!」

「お母さんっ、不審者っ。ゴージャスなんちゃらがフレドをっ」

 

涙ながらに母に縋りつく弟と、濡れ衣を強固にしようとする姉。

その二人の子どもの言葉に、姉弟を受け止めた人影が困ったような笑みを浮かべる。

 

そんな家族の様子を見て、ガーフィールはやれやれと首を振った。

このまま都市の衛兵を呼ばれても都合が悪い。ひとまず、冷静に話し合えそうな大人が出てきてくれたことに安堵しながら、説明するために足を踏み出し、

 

「――――」

 

姉弟を抱いたまま、こちらに笑みを含んだ顔を向けた相手を見て、足が止まった。

 

「ガーフ?」

 

不審な挙動で止まったガーフィールに、ミミが不思議そうな顔を向けてくる。

しかし、ガーフィールはそんなミミの言葉に応じることができない。そんな余裕がどこにもなかった。心は今、波乱と困惑に満たされて、メチャクチャだった。

だって、そこに立っていたのは、

 

「あの、うちの子たちがお世話になったみたいで、ごめんなさい。もしよかったら、お話を聞かせてもらえませんか?」

 

おっとりと、女性は悪気も疑いの眼差しも欠片もない声の調子でそう申し出る。

踏み出してきて、すぐ目の前に立つ女性。彼女の存在にガーフィールは口をわなわなと震わせて、そのガーフィールに女性は不思議そうに首を傾げる。

 

その表情が、態度が、声が、ガーフィールの全てを揺るがして。

 

「――母さん?」

 

ぽつりと、掠れた声がその喉からこぼれ落ちていった。