『シャウラ ≠ 賢者=フリューゲル』


 

――偉大なる『大賢人』フリューゲル。

 

豊かな胸を張り、あけっぴろげな笑みを浮かべたシャウラの発言に、スバルたちは揃って顔を見合わせ、微妙な雰囲気に包まれた。

 

「あれ?なんスか、その反応。あーし、なんか変なこと言ったッスか?」

 

「いや、だって、なぁ?」

 

スバルたちの芳しくない反応に、シャウラが目を丸くしてきょとんとする。自分の言動に何の不可思議もない、とばかりに自信ありげな彼女には悪いが、その『フリューゲル』の名前にスバルたちが抱く感慨はなんとも難しいものだ。

 

『大賢人』フリューゲル。

頭に付く冠は残念ながら違うものだが、スバルはその名前に聞き覚えがある。

異世界に召喚されて以来、たった一度だけ運命の交わったことがある人物の名だ。もっとも、その人物との間に面識はなく、一方的な『借り』があるだけに過ぎない。

なにせ彼の人物の功績のおかげで、命を救われた経験があるのだから。

 

「フリューゲルの大樹……の、フリューゲルさんだよな?」

 

スバルの口にしたキーワードに、シャウラ以外の面々が顎を引く。とはいえ、メィリィは知らなかったらしく、「なあにそれえ?」と疑問に首を傾げた。

 

「聞いたことないわあ。タイジュって、木のこと?」

 

「そうだ。あー、ルグニカ王国のリーファウス平原ってところに、ものすごいでかい木が生えてて、それがフリューゲルの大樹って呼ばれてたんだ。そりゃもう、雲に届くんじゃないかってでかさで、男心がくすぐられるもんがあったな」

 

「へえ、そうなんだあ。そんなに言われると、見てみたい気がするわあ」

 

「すまん。あれは俺が切り倒した」

 

「お兄さんのいけず!」

 

速攻でメィリィの願望を折ってしまい、非人間扱いされてしまう。

厳密にいえば、大樹を切り倒したのはスバル単体の責任ではない。もっとも、大樹を切り倒して利用することを提案したのはスバルなので、責任の比重が一番重たいのはどこか、という話になればやはりスバルなのだが。

 

――フリューゲルの大樹は、一年前の『白鯨討伐戦』の切り札になった代物だ。

 

『霧』の魔獣、白鯨を討伐する上で、あの巨獣の体躯を上回る大樹の存在は非常に有用だった。最終的には大樹を切り倒し、白鯨を下敷きにすることで動きを封じ、トドメを刺すに至ったのだからまさに決定打と言える。

 

「それを植えたっていうフリューゲルさんには悪いとは思ってたが……まさか、こんなところで名前を聞くことになると思わなかった」

 

「白鯨討伐の論功があって、その後で切り株を見にいった場所よね。切り倒した木は色んなことに使われたって話だけど……」

 

「現在は『フリューゲルの大樹跡』として、切り株だけが残っていますよ。重要な史跡を保護する形ですが、以前と同じになるのは数百年後のことでしょう」

 

スバルの感嘆に、エミリアとユリウスがその後のことを口にする。

白鯨討伐の直後、『怠惰』討伐に加えて、レムやクルシュを巻き込む大罪司教の襲撃などが重なった。おまけにエミリア陣営に至っては直後、『聖域』を中心とした騒動でしっちゃかめっちゃかだったわけだが、論功はそんな一連の騒ぎの後のこと。

 

そこでは白鯨・『怠惰』の功績の話し合いがメインだったが、当然、生じた被害などの補償についても話し合われた。フリューゲルの大樹の、切り倒された樹木の有効利用と、残った切り株の保護はそんな中の一つだ。

ちなみに白鯨の方は使い道がなく、巨大な胴体はかなりの人員を割いて焼却され、頭部の骨だけが討伐の証拠として王城へ献上されている。

 

ともあれ、大樹の方の処遇はともかく、肝心のフリューゲルの方だが。

 

「そういや、確かに『賢者』フリューゲルって呼ばれてるとは聞いてたな」

 

「だけど、何したのかイマイチわからない『賢者』なのよ。……それで『賢者』扱いされてたことが、そもそもおかしいと言えばおかしいかしら」

 

「ただ功績だけで考えると、『賢者』の呼び名に見劣りする成果なのは事実だわ。よほど自分の功績を喧伝するのがうまかったのか……バルスみたいな奴ね」

 

「俺がいつ、自分の功績を誇張しましたかね!」

 

心外な評価にすこぶる不機嫌になるスバル。だが、当のラムは涼しい顔だ。

と、そのやり取りを聞きながら、「なるほどなぁ」と言ったのはアナスタシアだった。彼女は一人で納得した顔をしながら、

 

「確かに、言い伝えられてる限りの話やと、フリューゲルさんは『賢者』って呼ばれるんに不足かもしれんけど……真の『賢者』扱いされてたシャウラさんがこういう人やった以上、そういうことなんちゃうかな」

 

「そういうことってーと?」

 

「伝わってる功績か逆……んー、違うかな。逆や言うより、偏ってる。ううん、意図的になすりつけてるぐらいの方が可能性高いかもしらんよ」

 

「つまり、フリューゲルさんが自分のしたことを、シャウラさんがやったみたいにしてるってこと?」

 

アナスタシアの推測に、エミリアが目を見開いて驚く。その理解にアナスタシアは頷くと、改めてシャウラの方へ向き直った。

 

「と、うちは睨んでみたりするんやけど、シャウラさんはどう思うん?シャウラさんのお師様、そういうことしそうな人やったかな」

 

「そッスね~、難しい話はちょっとわかんないんスけど」

 

「お前な……」

 

「いやいやいや!早とちりッスよ!ちゃんと続きあるッス!」

 

頼りない答えにスバルが目を細めると、シャウラは恐縮したように首を横に振る。それから彼女は両手を上げ、掌を無意味に開閉させながら、

 

「あーしにも正直、お師様の考えはわかんないとこが多いッス。でも、お師様は目立つのはあんまり好きじゃない人だったッスよ。なんで、面倒そうな噂話の矛先をあーしに向けて逃げるって、お師様らしいかな~って思うッス」

 

「目立ちたくない人間が、フリューゲルの大樹なんて名前の木は植えないと俺は思ったりするんだが……」

 

「スバル、それは考え違いだ。フリューゲルの大樹といえど、何も植えられた当初から大樹だったわけではない。年月を経て、成長することであれほどの偉容を得るに至ったんだ。植えた人間の名前が残っていたのであれば、後世の人間が呼び始めたものが定着したとしてもおかしくない」

 

「……ぐうの音も出ねぇよ」

 

ユリウスの訂正に、スバルは唇を尖らせて納得する。

なるほど、当時は単なる植林の一環だったものが、長い年月の果てにあれだけ立派な大樹に育った。これは名前の一つでも付けねばなるまい、となったところで、「なら植えた人の名前にあやかろう」となるのは自然な話だ。

それはそれで、名前を残していたフリューゲルの手落ちな気がするが。

 

「隠す気があるんなら、そもそもフリューゲルって名前が残るのも避けろって感じがするけどな。意外と抜けてるのか?」

 

「本で読んだけど、フリューゲルさんの名前がわかった理由って確か……あの大樹の上の方に、『フリューゲル参上』って刻んであったからよね?」

 

「抜けてるどころの話じゃねぇんだけど!修学旅行生かよ!」

 

想像以上の自己顕示欲エピソードにスバルは仰天する。

似たようなことを大樹の傍にいったときにやりたくなった覚えがあるが、実際に実行するとなるとまた別の話だ。そもそも、フリューゲルがその傷を残したとき、まだ大樹は大樹ではなかったはずなのだし。

 

「その名前が独り歩きして、結果、『賢者』フリューゲルは木を植えた以外の情報が不明の謎の偉人として語り継がれることになったわけだ」

 

「じゃあ、フリューゲルが植えた人かどうかの確信も曖昧だったんだ!?」

 

「それが時を経て、別の『賢者』の口から正しいと証明されたことになる。そう考えると……ふむ。歴史の欠落を埋める場に立ち会って、少しばかり胸が弾むな」

 

「歴オタみたいなこと言い出すなよ……」

 

数百年の歴史の事実の裏を知り、ユリウスはどこか感慨深げだ。

魔法に関して見識が深い、というより説明するとき口数の多くなる傾向にあるユリウスだが、ひょっとすると知識オタク的な側面があるのかもしれない。

前々から少し疑っていた部分がさらに疑わしくなり、スバルはげんなりする。

 

「でも、大昔の『賢者』が実際はフリューゲルだった……ってわかっても、それで何かが大きく変わるわけじゃない、のよね?」

 

そうしてフリューゲルに対する見解が一致したところで、エミリアが自信なさそうに全員の顔を見渡す。それを受け、スバルはその通りと頷いた。

エミリアの言う通り、過去の偉業の真の功労者が実はフリューゲルだった、という事実は現状においては大した意味を持たない。――はずもない。

 

「いいや、エミリアたん。実はでかい問題があるぜ」

 

「え?」

 

「だってそうだろ?元々、俺たちの目的は全知って評判の『賢者』さんから色々話を聞くことにあったんだ。だけど、噂の『賢者』さんは実は別人で、残ってるのは見るからに頭空っぽなこいつだけってことは……」

 

「あー、お師様~、頭振らないでほしいッス。カラカラ音がするッス」

 

シャウラの肩を揺すってやると、おどけながら彼女はそんなリアクションだ。

言葉を選ばず言えば、どう考えても全知とは程遠い。

 

「そもそもの、俺たちの当初の目的が果たせない。――『賢者』がいないなら、ここに足を運んだのは無駄足ってことだ」

 

「――――」

 

スバルの結論に、エミリアたちが口を閉ざす。

彼女らの反応を見ながら、スバルも自身の出した結論に奥歯を噛みしめていた。

 

一ヶ月以上の時間をかけて、スバルに至ってはすでに四度も死亡した。

それほどの苦難を乗り越えて辿り着いたプレアデス監視塔には、『賢者』とは名ばかりの番人が残るのみ。これでは、何の成果も持ち帰れない。

歴史の真実、『賢者』の実態。そんなもの、スバルには何の価値もないのだ。

 

スバルが欲するのはただ、大事な人間を救う手立てそれだけなのだから。

 

「シャウラ。望み薄だけど、これだけ聞いとく。お前のお師様……本物の『賢者』のはずの、フリューゲルはどこにいる?」

 

「今、あーしの目の前に……って答えたら怒られそうな気がするッス!でも、答えちゃうッス!あーしの目の前にいるのが、お師様フリューゲルッス!」

 

「そう言うと思ったよ」

 

へこたれそうでへこたれないシャウラの発言に、スバルは嘆息するしかない。

事実、元気なシャウラに八つ当たりしたくなる程度には、今のスバルの内心は荒れ果てた荒野も同然だ。手掛かりが潰えた、そう言ってもいい状況。

 

『賢者』という光明が消えて、手探りの段階に戻っただけといえばそうだが、闇の中に一度、眩い光を見てしまった後の暗闇は重みが違う。

希望は歩き出す力を与えてくれるが、その希望が塗り潰されたときの闇は、あるいはずっと暗闇の中にいるよりも人の視界を黒く覆うものなのだ。

 

ただ、そんなスバルに――、

 

「スバル、聞いて。そのことなんだけど、実は八方ふさがりってわけじゃないの」

 

「え?」

 

スバルの肩に手を置いて、項垂れる横顔にエミリアの声がかかる。彼女の方へ顔を向けると、エミリアは紫紺の瞳に確かな希望を宿していた。

顎を引き、スバルの肩に触れたまま、エミリアはシャウラに「そうよね」と続け、

 

「さっきまではほとんど何も話してくれなかったけど、今のあなたならもうちょっと詳しくお話してくれるんじゃない?」

 

「いいッスよ。あーしもお師様に凹まれてるの嫌ッスもん。それに長いこと一人きりだったんスから、お喋りしたいッス」

 

意味ありげなエミリアの追及に、シャウラは態度を変えずににこやかに応じる。胡坐を掻いた彼女は体を前後に揺すり、右手を天へ向け、頭上を指差した。

 

「お師様以外の人にはちょっと話したッスけど、ここが塔の一番下。第六層『アステローペ』ッス。上にいくにつれて五層『ケラエノ』、四層『アルキオネ』って上がって、てっぺんが一層『マイア』ッス」

 

「階層ごとにいちいち名前付けてんのか。面倒臭くね?」

 

「名付けたのお師様ッスよ?」

 

「嫌いなセンスじゃねぇけど、今はその話するつもりねぇよ。それで?」

 

エミリアの瞳に希望があり、それを助長する流れにスバルの気持ちは逸る。その表情の変化を見取ったのか、シャウラはニマニマ嬉しそうに頬を緩めた。

彼女はそのまま、上を指差すのと反対の左手を突き出し、五指を見せつけながら、

 

「五層『ケラエノ』がすぐ上、そこが外と繋がる出入り口のある層ッス。六層『アステローペ』はその下なんで、実は地下に当たるッス。下手打つと生き埋めになるんで、壁を壊そうなんてめったなことはしない方がいいッス」

 

「ちなみに壁や床だが、一見して石材のように見えるのに強度が尋常ではない。私はもちろん、エミリア様の魔法でも傷一つ付かないと先に言っておこうか」

 

破壊を試みた、わけではないのだろうが、シャウラの説明をユリウスが補足する。元より塔を破壊するつもりはないが、なるほどと頷いておいた。

 

「で、五層が出入り口なのはわかったが、その上は?」

 

「四層『アルキオネ』は出入り簡単な、あーしの住処みたいなもんス。結構、好き放題に汚しっ放しにしてるんで、じろじろ見られると恥ずかしいッス~」

 

「――――」

 

「お師様、目がマジッス。怖いッス。……ふ、普段はここからあーしは砂丘の様子を見張ってるッス。で、塔に近付く奴は片っ端から撃つべし撃つべしッス!」

 

「やっぱり、アレはお前か」

 

半ば、わかりきっていたことではあるが、本人の証言でようよう確信を得る。

砂丘でスバルを二度殺害し、その後のチーム分断の一因にもなった、あのプレアデス監視塔からの白光――その下手人は、やはりシャウラだ。

 

「アレのせいで、こっちはとんでもねぇ目に遭ったぞ、どうしてくれる」

 

「どうもこうも、あーしはお師様の指示に従ってただけッスし、それを言い出されるとここ何百年かやってたことにケチつけられてるだけッスよ~」

 

スバルが厳しい声で睨みつけると、シャウラは顔をくしゃくしゃにして及び腰だ。その顔に悪気はないし、もっと言えば反省の色もない。

罪の意識に欠ける、というよりはそもそも罪の意識がないのだ。

それは感情の欠落や、そういった問題ではなく――、

 

「スバル、何を言っても無駄なのよ。これに罪の意識や罪悪感はないかしら。これはただ命じられただけ……道具に、使われ方を問い詰めても無意味なのよ」

 

「そーそー、あーしはお師様の道具ッス!チビッ子、いいこと言うッス!」

 

ベアトリスの殺伐とした見解に、シャウラは我が意を得たりと満面の笑みだ。

コロコロと変わる表情と機嫌、そして今の自分の在り方への理解――おそらく、シャウラとは価値観が違う。イマイチ、会話がすれ違うのはそのためだろう。

つまるところ、

 

「お前と話してると疲れるな」

 

「それ、前にもよく言われたッス!久しぶりッス」

 

「そうか。俺もよく言われたよ、昔」

 

今でもたまに言われる気がするが、スバルはその点については受け流す。

ともあれ、監視塔からの白光がシャウラの仕業だったとわかっても、彼女には何の謝罪も反省も求められないことは理解した。

ならば、話を中断することに意味はない。先を促すだけだ。

 

「四層はお前の住処……住処って言い方もあれだな、居住空間。なら、その上は?」

 

「三層『タイゲタ』からは試験会場ッス。――書庫に入る権利を試すッスよ」

 

「……書庫?」

 

その響きに、スバルが眉を寄せて問い返す。シャウラは聞き返すスバルの態度の変化に目もくれず、「そッス」と実に気楽に頷き返した。

 

「書庫ッス。三層『タイゲタ』から上は試験と、それに対応した書庫があるッス。書庫に入る条件だけ満たせば、中の本は好きに読んだらいいッスよ」

 

「中の本って、何が書いてあるんだ?」

 

「さあ?」

 

「さあ!?」

 

ここまでもったいぶったことを言っておいて、「さあ」で済まされてはたまらない。唇を曲げるスバルにシャウラは「だって~」とイヤイヤ首と髪の毛を振り、

 

「あーし、本とか読めないッスし、塔を守れ以上のことは言われてないんスもん」

 

「それもお師様……フリューゲルにか」

 

「はいッス!」

 

そこで誇らしげにされても、スバルの方は答えようがない。

ただ、スバルは首を傾げるだけのシャウラの発言に、エミリアたちの様子は真剣な面持ちを崩していない。瞳に宿した希望は萎えず、そのままだ。

 

「スバル、書庫の本、その内容は知識かしら」

 

「知識って……字面そのままの意味じゃなく?」

 

ベアトリスの言葉に、スバルは当然のことを聞き返す。

本に記されているのは大抵の場合、物語でなければ知識だ。本から得るものは感動あるいは知恵の充足でなければならない。

そして、ベアトリスが言いたいことは、そういう意味ではあるまい。

 

スバルの膝の上で、ベアトリスは首を横に振る。

長い縦ロールが同じように動き、なんとなしに視線でその動きを追うスバルに、

 

「ここは全知と呼ばれた『賢者』の記した知識の眠る場所、プレアデス監視塔は外に対する呼び名だそうなのよ」

 

「そッス。中にお師様が戻ってきたんなら、ここは元の役割に戻るッス。知りたいこと、気付きたいこと、何でも探せる大図書館――プレイアデスにッス」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「つまり、三層で初級。二層で中級。一層で上級の情報にアクセスできるようになると。試験ってのはクリアランス入手するための、資格試験ってことだな?」

 

「おー、さすがお師様ッス!あーしでも何言ってんのかいよいよわかんなくなってきたッス!でもたぶん、その噛み砕き方でOKッス!」

 

――大図書館プレイアデス。

 

監視塔の名前がなんとも親しみやすく、逆に胡散臭いものに変わったところで、スバルたち一行は六層を離れ、件の上層を目指して階段を上り始めていた。

螺旋階段は塔の円周を回るようにスバルたちを上層へ運ぶが、手すりなどがないために高いところまでいくと相当に肝が冷える。

 

「こわっ」

 

「スバル、もし怖いなら手を繋ぐ?まだ病み上がりなんだし、ふらふらして落っこちないとも限らないから……」

 

六層の地面が遠ざかり、ジャイアンと竜車がかなり小さく見えるようになると、下を覗き込んで息を呑んだスバルにエミリアがそう声をかける。

本音を言えばその手を握り、白い指の感触を堪能したくはあるのだが、

 

「ありがと、エミリアたん。でも、今は大丈夫。一応、階段の道幅あるから落っこちるってことはなさそうだし、逸る気持ちもあるからね」

 

「そう?でも、辛いと思ったらすぐに言ってね?いざとなったら私もスバルをおぶってあげるくらいできるから」

 

「そうか……それはちょっと、いざとなれねぇな」

 

エミリアに背負ってもらって階段を上る、さすがに絵面が最悪すぎる。

そんな男失格な行動に出るぐらいなら、ユリウスに貸しを作る方がマシである。

 

「なにかな?」

 

「それも最悪の手段だけどなってだけだ。別になんでもねぇよ。いけいけ」

 

視線に気付き、首だけ振り返るユリウスをスバルは手で払う。彼は肩をすくめると、そのままアナスタシアの手を取って階段の先導を再開した。

 

現状、スバル一行は普通に徒歩で塔の上層を目指している。急ぐ道のりではないので、逸る気持ちと裏腹に速度は程々だ。先頭をユリウスとアナスタシア、その後ろにラムとエミリアが並び、スバルとベアトリスがその後ろを歩いている。そして、最後尾にいるのがシャウラとメィリィなのだが、

 

「やだあ、裸のお姉さんってばあんまり揺らさないでちょおだい」

 

「ええー、人の背中に乗ってるくせに偉そうなチビッ子ッス~」

 

「だってえ、疲れたんだものお。ずっと歩き通しだったしい、こんなに何段もある階段を上ったり下りたりしてられないわあ」

 

「だからって、なんであーしが運ばなきゃ……あ!髪引っ張るんじゃないッス!」

 

やかましくも騒がしいが、言葉のやり取りに刺々しいものはない。

最後尾のシャウラ・メィリィ組は、なんとも不思議なことにシャウラがメィリィを背負って階段を上昇中だ。当初、上に移動しようという話になったとき、メィリィが足が疲れたとごねたのが切っ掛けだが、そのメィリィを背負ってもいいと言い出したのはシャウラ本人だったので、そこは自薦に任せている。

 

「実際、肉体的にはたぶん、シャウラが一番たくましいしな……」

 

「違いないかしら。――スバル、警戒は怠るんじゃないのよ。ああ見えて、いつ牙を剥くか知れたもんじゃないかしら」

 

「あいつが?あの感じから?」

 

「スバルがフリューゲルじゃないと知れたら、どう出るかわからない相手なのよ」

 

「それは……」

 

小声で警戒を促すベアトリスの言葉に、スバルは口ごもってしまう。

考えないわけではなかったが、思考の外に置いておいていい問題ではなかった。事実、シャウラがこうして一行――否、スバルに対して友好的なのは、あくまで彼女がお師様=スバルと勘違いしているからに他ならない。

 

そして、その繋がりが完全に勘違いだとスバルたちはわかっているのだ。これまでに何度も口頭で否定しているが、シャウラは笑って取り合わない。取り合わないというより、聞いても何の痛痒も与えていないというべきだが、とにかく届かない。

故にシャウラの態度は変わらない、そうした保障と考えることもできるし――、

 

「何の切っ掛けで崩れるかもわからない、ってことか」

 

「もしもあれが敵対した場合、しんどいことになるのは間違いないかしら。エミリアとあの騎士……ユリウスも加えて、ベティーとスバルの総掛かりしかないのよ」

 

「シャウラの強さか」

 

ちらと、背後に視線を向けて、メィリィとじゃれ合うシャウラの様子を窺う。

外見不相応に親しげで無防備な姿。――最初の出会いとその後のやり取りがやり取りだけに、色々と判断に困る相手ではある。

ただ、スバルは現状、シャウラに対して態度を決めかねてこそいるが、目立った悪感情は抱いていないのが本音のところだ。人違いで親しげにされているとはいえ、ああもあけっぴろげに接されて、戸惑う以上に嫌えという方が難しい。

 

しかし、そうした接触感情と、危機感の欠如は並べられるべきではないのだ。

 

「――――」

 

シャウラの様子を窺いながら、その無防備な肢体に目を向け、スバルは考える。

砂丘でスバルたち目掛け、塔から光を投げつけてきたのは自白通り彼女だ。あの光の速射性と狙いの正確性は尋常ではなく、シャウラの実力の高さを十分に思わせる。スバルには現状、あれが魔法だったのかそうでなかったのかもわかっていない。

 

さらに付け加えれば、砂海の地下での最後の瞬間。

意識が途切れる直前の、ひどく茫洋とした意識の中にあるのは、あのおぞましい外見のケンタウロスと衝突するシャウラだったはず。

あの、理不尽か不条理のどちらかが具現化したとしか思えない化け物が、より強い力に呆気なく蹂躙され、消し飛ばされるのはこの目で見た。

 

言いたくはないが、直接戦闘になればシャウラに勝てるビジョンが浮かばない。

レグルスやらペテルギウス、あの辺の方がずっと気楽な敵だ。

 

「……なんか、あいつらのこと思い出すと嫌な気分になるな。いや、なって当たり前なんだけど、より身近に嫌な感じがする」

 

「スバルが何考えてるかわからないけど、気を付ける必要はあるかしら」

 

「だな。そうなると……聞いた方が早いか」

 

「え、なのよ」

 

ベアトリスの間抜けな声と、スバルが体ごと振り返るのは同時だ。後ろ向きに階段に足をかけながら、スバルは真後ろで重なるシャウラとメィリィを正面にする。

その動きにシャウラが足を止め、首を傾けた。

 

「どしたんスか、お師様。まさかお師様まで疲れたッスか?別に運ぶのはいいッスけど、背中は塞がってるんでお姫様だっこッスよ?」

 

「それはそれですげぇ絵面になるから遠慮しとく。あー、お前がメィリィと微笑ましくポニーテールで遊んでるとこ悪いんだが……」

 

「ポニーテールじゃないッス、スコーピオンテールッス」

 

「――――」

 

「スコーピオンテールッス」

 

何の拘りがあるのか、押し黙るスバルにシャウラは繰り返す。

自分のポニーテールの房を手で押さえて、シャウラはずいっと顔を前に出して、

 

「スコーピオンテール……」

 

「わかったよ!なんだ、その拘り!とにかく、メィリィと仲良くやってるとこ悪いんだが、聞きたいことがある」

 

「ん!お師様のお話なら何でも聞くッス!お師様があーしとこんなに話してくれるなんて、あーし嬉しいッス~」

 

ポニーテール――もとい、スコーピオンテールを嬉しそうに振り回すシャウラ。おかげで背中のメィリィが尻尾の打撃に被害を受けている。意外と柔らかくて気持ちいいのはスバルも実体験済みだが、それはそれとして、

 

「お前、俺の言うことなら聞くんだよな?」

 

「エッチなことはダメッスよ?」

 

「最初にそこを確認取るな。ボケ殺しか」

 

「そういうお師様はボケ倒しじゃないッスか。お互い様ッスよ」

 

受け答えに余裕のあるシャウラに、スバルはペースが握れなくて戸惑う。普段ならば大抵の相手は、スバルの会話のペースに混ざると調子を崩す。ので、そこから適当に会話の糸口を探るのがスバルのやり口なのだが、やり難い。

この手のやりづらさは、大罪司教のような異常者たちともまた違う。彼らの場合はそもそも会話が成立しない難しさだが、シャウラの場合は別だ。

 

どうにも、知られている相手にこちらが知れていない分の後れを感じる。

まるで本当に、フリューゲルとやらとスバルの共通点が多いかのように。

 

「とにかく、お願いと質問だ。なるたけ、正直に素直に答えろ」

 

「お願いだなんてらしくないッス。命令したらいいのに」

 

「それほど偉そうな感じにはなれん。で、質問なんだが……お前、塔から俺たちに向かって攻撃仕掛けてきただろ?あれ、なんだったんだ?」

 

「塔にお邪魔虫を近付けないための狙撃、ヘルズ・スナイプッス」

 

「……なんて?」

 

「ヘルズ・スナイプッス」

 

にこやかに横文字で言われて、スバルは渋い顔になる。

なんというか、まぁ、わかる名前だが。

 

「いやー、でも今になって思うとヘルズ・スナイプがお師様に当たんなくてよかったッスね。ディメンジョン・ゲートが解除されなかったら、お師様に当たるまで攻撃ぶん投げてたかもしんないッス」

 

「待て待て待て待て、新出の単語が多い!ディメンジョン?」

 

「ディメンジョン・ゲートッス。塔まで辿り着かせないための小細工ッスよ」

 

シャウラの話しぶりから、スバルはそのディメンジョン・ゲートとやらが、あの『砂風』によって花畑との道のりを寸断し、なおかつ最後にE・M・Tの効果で解除されてしまった空間歪曲のことだと理解する。

 

「でも、アレのおかげでお師様がお師様だってわかったんで結果オーライッス。当たってたら、さすがのお師様もあーしを怒ったッスもんね?」

 

「あー、うん、どうだろ。怒るだけで済んだかな」

 

実際、当たって二度ほど死んでいるので、怒る段階までいけるか不安だ。

殺害の下手人と顔を合わせて、怒りがメキメキと湧き上がらないのも珍しい。ある種、あれが事故であり、シャウラに責任を追及しても無駄とわかっているのが理由の一端ではあるのだが。

 

「でもお、あんなの当たってたらお兄さん死んじゃったんじゃないのお?そおしたら怒るとか怒らないってお話じゃないと思うんだけどお」

 

と、半ば許しの境地にあるスバルに代わり、シャウラの背中のメィリィが口を挟む。その彼女の言葉に、シャウラはゲラゲラと全く女らしさのない声で笑った。

 

「何を言うんスか、このチビッ子。あーしのお師様があんなんで死ぬわけないじゃないッスか。元々、お師様はなんか死ぬんだか死なないんだかわかんないわけわかんない人なんスから」

 

「でもでもお、砂蚯蚓ちゃんはいっぱい攻撃されて死んじゃったわけだしい……」

 

「蚯蚓も熊も知ったこっちゃないッスよ。あーしのお師様は死なない、これが大事なことッス。――もし死んでたら、お師様じゃないだけッスから」

 

へらっと笑い、シャウラは嬉しそうな目でスバルを見つめる。その無邪気な笑顔を向けられて、スバルの背筋に寒気が走った。

まるで子供のように無邪気で、無防備なまでの信頼。彼女がフリューゲルに寄せるそれは、想像以上に彼女の根幹で強固に作り上げられた理想なのだ。

ベアトリスの懸念通り、そこが今のスバルとすれ違うことがあれば――。

 

「あと、砂宮に迎えにいくのが遅くなってすみませんでしたッス。お師様と別の組を塔に入れてる間に、お師様たちが奥に進んじゃったもんスから焦ったッス」

 

「ああ、いや、それは別に……っていうか、砂宮って言った?」

 

「そうッス。あそこはホント、危ないんで入んない方がいいッスよ。いくらお師様でも鍵も揃えずに近付くのは無謀なんで。餓馬王もうろついてるッスし」

 

「餓馬王……って、あの馬みたいな化け物か?」

 

砂宮、鍵、餓馬王。気になる単語が多いが、最後の餓馬王なる名前に触れる。

おそらく、それが件のケンタウロスのことだろう。

その質問にシャウラは頷いた。

 

「あれはお師様のいた頃はいなかったッスから、驚いたと思うッス。基本は砂宮の中でうろうろしてるだけなんで、砂宮にいかなきゃ出くわさないッスよ。たまに外に出てくる奴は容赦なくあーしがぶっ殺すんで」

 

「アレいっぱいいんの?」

 

「わんさかッス」

 

停滞なく肯定してくれるシャウラに、スバルは本当に心の底から嫌気が差す。

ケンタウロス=餓馬王の戦闘力はもちろん、あの外見と生態は筆舌に尽くし難い嫌悪感を伴うものだ。できれば特別な個体であってほしかったが、そういうわけではないらしい。わんさか、という表現からもそれは伝わる。

 

「餓馬王……私も知らない名前だわあ。見てみたいかもお」

 

「やめろ!あれは子どもの見るもんじゃない……」

 

「お、お兄さん……」

 

軽はずみなことを言い出すメィリィに、スバルは厳しいぐらいに注意する。魔獣コレクター的なメィリィの琴線に触れるのかもしれないが、図鑑を埋める目的であれと接触を持とうとするのはお勧めしない。

そのスバルの言葉に、シャウラも首を縦に振って同意する。

 

「やめといた方がいいと思うッス。餓馬王は角が何度でも生え変わるってコンセプトの魔獣ッスから、他の魔獣のお約束が通じないんスよ。見敵必殺、これ正義ッス」

 

「ぶー、わかりましたあ」

 

唇を尖らせ、年齢相応の仕草でメィリィが好奇心を引っ込める。

その様子に安堵しつつ、「それで」とシャウラがスバルに改めて水を向けた。

 

「お師様、お話ってそれだけッスか?」

 

「ああ、ひとまず……いや、それだけじゃない」

 

「――?」

 

首を傾げたまま、シャウラは「どんとこい」とばかりに受け入れ態勢だ。ここまで胸襟を開いてくれている相手に、警戒を続けるのも何とも不誠実。だが、どれだけ胸が痛んでも、心を鬼にしなくてはならないこともある。

一言、言っておくだけで何かが変わるなら、言っておくのが吉だ。

 

「シャウラ、これは俺からのお願いだ。俺と、仲間たちに危害を加えるな」

 

「――――」

 

「お師様の命令は、塔に近付く奴を攻撃しろ……だろ?中に入った俺たちはその対象外だ。なら、もう攻撃する必要はない。危害を加えるな。絶対に」

 

「――――」

 

重ねて、念を押すスバルの言葉にシャウラは目を細めた。

そうして細めた目を見ると、その色彩は深く色濃い緑色をしている。豊かな表情を隙間なく浮かべていたシャウラは、初めて考え込むように笑みを消していた。

そのまましばしの沈黙があり、奇妙な緊張に息を止めていたスバルが、堪え切れなくなって息を吐く。と、

 

「ん、OKッス。お師様の新しい命令として、あーしもきっちり覚えたッスよ~」

 

「――――」

 

「お師様?」

 

受諾となった途端、相好を崩してへらへらし出すシャウラ。その急変についていけずに目を丸くするスバルに、シャウラは息がかかりそうなほど顔を近付けた。

至近距離で瞳が見つめ合うが、その緑の瞳には欺瞞や不信感は見つからない。少なくとも、スバルの窺える限りでは。

 

「いいのか?」

 

「いいも悪いもないッスよ。お師様の言うことなんスもん。それに別に難しいことじゃないッス。非暴力非服従ッス」

 

「命令に従うんだから服従はしてるじゃねぇか」

 

「体は自由にできたとしても、心までは奪わせないッス!」

 

「うぜぇ……!」

 

キリっとした顔をするシャウラの額にデコピンをくれて下がらせる。「あうー」とシャウラが下がると、その背中のメィリィが慌てるが、事無き。

ともあれ、スバルの願い事はどうもあっさりと受理されたらしい。それがどこまでの効力を持つかは不明だが、少なくとも――。

 

「俺が期待を裏切らない限りは、約束は守られるってか」

 

「それだけが条件なら大丈夫なのよ。スバルは予想は裏切るけど、期待は裏切らないかしら」

 

「すげぇ高評価ありがたい限りだけど、この場合、俺が裏切っちゃいけない期待の部分がぼんやりしすぎてない?フリューゲルってどうしたらいいの?翼とか生やしたらいいの?ドイツっぽいやつ」

 

ちなみに、フリューゲルはスバル的にはドイツ語の『翼』を意味する。

まさかそこから引っ張ってきているとは思わないが、それも怪しいところだ。なにせこのフリューゲル、シャウラの名前も含めてキナ臭すぎる。

 

「そうだ、シャウラ。一個だけ最後に質問があったわ」

 

「なんスか~」

 

完全に気の抜けた顔で、シャウラがメィリィに頬をこねられている。

そのシャウラに背中を向けたまま、スバルは何の気ない素振りで、

 

「マイア、エレクトラ、タイゲタ、アルキオネ、ケラエノ、アステローペ」

 

「……スバル?」

 

スバルの口ずさむ単語に、隣のベアトリスが怪訝な顔をした。

それはただ音として聞くと、何やら聞き覚えのない単語の羅列だ。

無論、その中の四つほどはさっき聞いたばかりだが、そらんじられるほど簡単に覚えられるものでもない。――聞き覚えのないものならば。

 

「上から順番に全部、このプレアデス監視塔……もとい、大図書館プレイアデスの階層の名前だよな?」

 

「はいッス~」

 

「じゃあ、メローペはどこにある?」

 

「――――」

 

そのスバルの質問に、シャウラは再び沈黙する。ただ、その沈黙はさっきの考え込むそれと違い、虚を突かれたことによる驚きの沈黙だ。

微かに息を呑む音がして、スバルは何かしら確信に触れたと判断した。

 

「スバル、何を聞いたのよ?メローペって何かしら」

 

「とある七姉妹の最後の一人の名前。プレイアデスなら、七つないとおかしい」

 

一層から六層まで、六つの名前が振り分けられた階層。だが、モチーフとされた名前は本来は七姉妹――七つ目の、名前が付けられた階層があるはずだ。

 

「七層……じゃなければ、ゼロ層があるな」

 

「ゼロ層ッス。お師様が名付けたんスから、当たり前ッス。……ただ、お師様がいなくなってからできた場所なんで、どこにあるかは知らないはずッスけど」

 

スバルの当てずっぽうな推測に、シャウラが掠れた声で応じた。ベアトリスの驚く気配があるが、スバルは渇いた唇を舐めて目を細める。

隠れていたものを見つけ出した、そんな達成感はない。なにせ、これはスバルにとっては隠れていなかったも同然のものだからだ。

 

「一層が上級なら、ゼロ層は超上級か?入るには……」

 

「――ダメッスよ」

 

入り方を尋ねようとするスバルに、シャウラが早口でその言葉を遮る。その口調の強さにスバルがちらと後ろを見ると、シャウラの表情は変わらない。

笑みと、信頼の眼差しのままだ。ただ、寂しさが微かに目元にあるだけで。

 

「まだ、条件が満たされてないッス。お師様は道の途中で、あーしに会いに戻ってきてくれて、それで満足ッス。だから、ゼロ層はダメッス」

 

「――――」

 

口調こそそれまでと変わらないが、代わりに奇妙なほど強固な壁を感じる声音だ。

それは数分前に交わした約束、その根幹さえ揺るがしかねない危うさを孕んでおり、食い下がることの危険性を強くスバルに訴えかけてきていた。

故に、スバルは深く追及することを、この場では諦める。

 

「わかった。無茶なことは言わないでおく。さっきの約束だけ頼む」

 

「それは了解したッス~。守るッスよ~、超守るッスよ~」

 

途端、シャウラは破顔して、今のやり取りを忘れたかのように喜悦にはしゃぐ。

その華やいだ声を背中に聞きながら、スバルは深々と息を吐いた。

 

「スバル、辛かったら言うのよ?」

 

「ん、大丈夫だ。色々、考えることは多いけどな」

 

ベアトリスの気遣いの言葉に薄く笑い、その頭を優しく撫でてやる。そうするとベアトリスは何も言えなくなるが、これはスバルが落ち着くための儀式でもあった。

 

シャウラとの会話で浮き彫りになった、フリューゲルの異常性。

何のことはない。彼もまた、スバルと同じだ。

 

スバル、アル、ホーシン、そしてフリューゲル。

この世界にあるはずのない知識を持ち込み、これ見よがしに残す自己顕示欲。もはや疑いの余地もなく、フリューゲルはスバルと同郷の人間だ。

 

「数百年前、か」

 

長い長い時間に思いを馳せ、スバルは乱暴に頭を掻いた。

この異世界で何を思い、何を考え、何を目指し、何を求めて――。

 

『賢者』の名前を放棄して、木を植えるような男は何を願って。

この世界で生き続けたのだろうかと、そんな風に思いながら。

そして、そんなスバルの背中に――、

 

「お師様」

 

「ん?」

 

気安い調子でシャウラが声をかけてくる。スバルは足を止めず、ちらっとそちらを振り向いただけだったが、そのスバルをシャウラは見上げて、わずかにはにかむ。

その表情は本当に嬉しげな笑顔で、

 

「改めて、おかえりなさいッス、お師様。――『賢人』フリューゲルのご帰還、このシャウラ、心よりお待ち申し上げておりました。……ッス」