『現実への回帰』


 

壁に繋がれ、ペテルギウスとの一方的な話し合いが断絶し、スバルが放置されてから数時間が経過していた。

 

冷たい床に体温が奪われ、横たわるスバルは体が思うように聞かない。意識が朦朧としているのは、体力を失った状態で体温も失い、発熱しているのが理由だ。

喘ぐように苦しい吐息を繰り返し、口の端から涎を垂らすスバル。だが、そんな状態のスバルを介抱してくれるもの、それどころか意識してくれる存在すらこの場にはいない。

 

「残る左手の指を全て動かすのデス。街道の人払いは右手だけで行いマス。手に負えないようであれば、前倒しにして道を塞ぐことも考えなくてはなりませんデスね」

 

洞穴の広間の端で衰弱するスバルと対照的に、広間の中央で手を叩きながら高い声で指示を出すペテルギウスはどこまでも精力的だ。

骸骨が人の皮を被っているとしかいいようのない外見でありながら、声にも瞳にも動きにも、全てに生気が満ち溢れているのがわかる。

 

繰り返し繰り返し、自身で口にする『勤勉』という単語に相応しい振舞いであり、意識してそうしているのがわかった。そんな人物でありながら、『怠惰』の役名を口にしたのが滑稽であったが、それを笑えるものはこの場にいない。

 

入れ替わり立ち替わり、洞穴の中央に座るペテルギウスの下へ次々と現れる黒装束の影たち。彼らは誰ひとり、空気を震わせることのない囁きをペテルギウスにもたらし、それを受けたペテルギウスの指示を仰ぐと再び影として闇に溶ける。

動かないでいるのはペテルギウスだけであり、代わる代わる訪れる彼らを見分けることはできないが、もしも全員が違う人物であるのならゆうに二十は越えている。

 

影から生えるように現れる黒装束の集団――それらのイメージは、なにがしかの記憶に繋がるかのように頭の中を刺激する。

 

「――あぁ、そう言えばいたんデスね。どうデスか、なにか話す気になりましたかね!?」

 

黒影が全ていなくなり、再び二人きりになったところでペテルギウスが動く。彼は無遠慮にスバルの方へ歩み寄ると、発熱で赤くなった彼の顔を見下ろして、

 

「辛いデスか?苦しいデスか?悲しいデスか?怒ってるんデスか?同志であるなら親身になるのも吝かではないデスが、アナタはそれを望みマスか?」

 

「――――」

 

「あぁ、つれないデスね!」

 

顔を近づけてくる狂人に対し、スバルは無言で顔を背けることで応じる。

それを見て、ペテルギウスは楽しげに膝を叩き、身をそらして首を傾けると、

 

「デスが、だいぶそれらしい反応を見せるようになったじゃないデスか。もうひと踏ん張りで、もう少しだけの揺らぎで、アナタがわかりそうデスよ」

 

「――――」

 

「なにがあればいいのデスかね。なにをもたらせばいいのデスかね。アナタの心を震わせ、愛に報いるにはなにを、すれば!いい……デス!」

 

ひとり盛り上がり、スバルを置き去りに恍惚の表情で叫ぶペテルギウス。

と、彼がまたそれまでと同様に自分の世界に入り込み、悦に浸りながら妄言を垂れ流し始める寸前、ふいに邪魔が入る。

 

「おややぁ?」

 

振り返るペテルギウスの前で、次々と黒影が地面から伸び上がる。

まるで影から生えたようにしか見えない黒装束――その数はおよそ十を越えており、彼らはその場に跪くとペテルギウスを仰いで静寂を保つ。

そんな彼らの出現にペテルギウスは腰を、首を、瞳を傾けたまま、

 

「何事デスかね?」

 

「――――」

 

「なんと、左手の包囲網が?単独で?素晴らしいじゃないデスか!数に劣りながらも、傷を負っていながらも、なおも必死に食い下がる……逆になんとワタシの指の不甲斐なく、怠惰なことか!まさか逃げ切られたのデスか?」

 

「――――」

 

「逃げていない?外へ助けを求めに行くのではなく、内側へ潜ってきている?満身創痍で!数も定かでないこちらへ!あぁ、それは、それはそれはそれはそれはれはれはれはれはれは――なんと、愛深き勤勉なるものデスか!!」

 

手を叩き、顔を瞳を輝かせ、ペテルギウスは跳ねるような仕草でスバルを振り返る。そして屈み込んでスバルと視線を合わせると、子どものような笑顔で、

 

「喜ばれるがいいデス!アナタはそれほど強く想われていることを!勤勉なるものがその身を賭しているのデス!あぁ、脳が、脳が脳が脳が震えるぅ!」

 

興奮に唾を飛ばし、スバルの顔を汚してペテルギウスは立ち上がり、跪く影たちの間を忙しなく歩き回りながら、

 

「少女は、やってくるのデスか?あぁ、アナタ方はそれで戻ってきたのデスか。それはいい!とてもいいデス!是非、是非是非是非是非是非に、迎えたい。ワタシの手ずから、出迎えなくてはならないのデス!」

 

「――――」

 

「ええ!そうするとしマス!左手の指を総動員し、入口までご案内を!途上で倒れるならそれもまたよし、倒れず届くようであれば出迎えるとしマス。あぁ、あぁ、あぁぁぁぁぁぁ、素晴らしいじゃないデス、か!!」

 

喜色を弾けさせるペテルギウス。その言葉が、意味が、伝わってこない。

けれど、スバルは身をよじり、熱に浮かされた表情のままで口を開く。呻き声しか漏れない口で、しかし内側から込み上げるわけのわからない感覚に導かれて。

だが、

 

「――――っ」

 

口が、まるでなにか見えないものに塞がれたように音が出ない。

恐怖や、それ以外の感情に喉が塞がれた感覚とはまた違う。もっとはっきりと、物理的な干渉によって口を塞がれている感覚。

見えない掌を口に当てられたような閉塞感にスバルは目を見開く。そして、そんなスバルを振り仰いだペテルギウスはケタケタと嗤い、

 

「まぁ、そう焦らずとも……時間はあるのデスから」

 

ケタケタ、ケタケタと、ペテルギウスの渇いた笑いが洞穴に木霊する。

その響きに、耳を打つ不快な鳴動に、スバルの口は閉塞感を失ってもなにも紡ぐことができない。ただ、へらへらと笑うことも、涙を流すこともなく、荒い息を繰り返しながら、時間が過ぎるのをジッと待つだけだった。

 

――変化が訪れたのは、それから小一時間もしない内だった。

 

相変わらず沈黙を守ったまま跪き続ける黒装束たち。それらの間を無言でペテルギウスがジグザグに歩き回り、足音とスバルの荒い息だけが広間の大気を揺らす。

 

最初、顔を上げたのは広間に通じる通路にもっとも近い場に跪いていた黒影だった。

 

その人物の動きに連なるように、次々と狂信者たちが顔をもたげる。彼らの視線は一様に洞穴の入口の方角へと向けられ、そして彼らの動きに気付いたペテルギウスもまたそちらを見やり――口の端が裂けたかと思うほど、歓喜の笑みを浮かべた。

 

「きたようデス、ね」

 

喜色に彩られた呟きが、響き渡った轟音によって塗り潰されていた。

 

すさまじい質量が爆弾のような威力に砕かれ、破壊される音が洞穴の冷たい空気を激しく揺らす。連鎖する音は固い地面を伝って、転がるスバルにも届き、入口が乱暴なノックで開け放たれたのだとその場の誰しもが感じ取っていた。

 

ゆらりと影が立ち上がり、懐から取り出した十字架を手に下げて構える。

十数名が入り乱れて動き回るには、洞穴内は手狭であるとしか言いようがない。この広間こそそれなりの広さがあるが、それでもせいぜいが学校の教室二つ分だ。

飛び回って、駆け回って、なにかをするには広さが足りない。そしてそれは、数で劣る乱入者にとってはかえって好都合な条件であった。

 

なにせ、彼女の獲物は、

 

「――見つけ、ました」

 

うなる鉄球が飛びかかる黒影をまとめて薙ぎ払い、壁へ叩きつけて赤いシミへと変えるのが遠目にもわかった。

最初の一発で三つの命を容易に奪った鉄球は、直撃すれば命を根こそぎ奪い去る必殺の武装――回避以外の選択肢はないが、狭い洞穴ではそれすら難しい。

 

地に落ちた鉄球が岩肌を砕き、血と肉片に塗れた棘が重い音を立てて引きずられる。前に踏み出す少女は青かった髪をどす黒い色に染め上げ、それでもなお光を失わない眼差しを広間の中へ向け、倒れ伏す少年を見つける。

唇が、愛おしげに、震えながら、小さく息を吸い、

 

「よかった、スバルくん――」

 

スバルの名を呼び、安堵したように肩の力を抜いた少女――レム。

 

その姿はあまりにも凄惨で、壮絶を切り抜けたことがありありと表れていた。

全身に血で濡れていない場所がない。青い髪はどす黒く染まり、焼き焦げたエプロンドレスは白い場所が欠片も残っていなかった。破れ、裂けたスカートから覗く両足には裂傷がいくつも刻まれ、なにより左腕は肘から先が存在しない。

割れた額から滴る血で左目を塞がれ、うっすら微笑むレムは血と死の香りを全身にまとい、満身創痍では足りない身を押してここまでやってきたのだ。

 

「あぁ――なんと、素晴らしいことデスか!」

 

そして、そんな彼女の凄絶な有様を前に、ペテルギウスが喝采を上げる。

彼は自分の仲間が目の前で彼女に殺害された事実も忘れ、むしろそのことを自分を盛り上げるさらなる材料として、楽しげに愉しげにその場でステップを踏み、

 

「少女が!ひとりの少女が!これだけ傷付いて、なお進むのデス!なんのためにか、この少年のためにデス!魔女に、魔女に寵愛された少年を救い出すためにここまでするアナタも、また愛に恵まれ、愛に生きているのデス!」

 

「御託は結構です、魔女教徒……」

 

スバルとレムの間を遮るように立ち、口の端に泡を作るほど快哉するペテルギウス。レムはそんな狂態をさらす彼を冷ややかに見据えて、

 

「あなた方はメイザース領の領主、ロズワール様の許可なく領地で不逞を働く痴れ者揃い。この場にいない主に代わり、レムが誅を下します」

 

「そんなボロボロの、ボロボロボロボロボロボロな様子でデスか?できもしないことをさもできそうに語るのはやめることデス。そも、アナタはこの少年を連れ戻しにきただけデス。聞こえのいいお飾りな言葉はやめることデスよ」

 

しゃがみ、ペテルギウスがスバルの頭を引っ掴み、顔を上げさせる。

愉しげに髪を掴んだまま、嫌がるスバルの頭を上下させるペテルギウスに、

 

「……るな」

 

「なんデス?」

 

「その人に触るなと、言っている!!」

 

怒りに吠えたレムの体が跳ね、傷付いた身を酷使して宙を舞う。

飛んだ彼女を追うように、地に立っていた黒影もまた宙へ駆け上がった。レムに対して飛びかかる二つの影。闇に溶ける十字架の刃を振りかざす黒装束が、一直線に跳躍するレムの体へ追いすがる。

 

「――――!」

 

振りかざされた刃が真下からレムの胴体を串刺しにせんと狙う。が、彼女は下からの攻撃に対して左腕を――肘から先のない腕を振って身を回し、中空で体にかすめるように刃を避けると、

 

「るぁぁ!」

 

右腕を振り、その動きに連動する鉄球が黒装束のひとりの顔面を粉砕。同時に柄を握り締めた彼女の拳がもうひとりの頭部を直撃し、頭蓋を陥没させて叩き落とす。

死体二つの落下に伴い、レムの体は広間の中央に着地。そこは集まっていた狂信者たちの中心であり、判断ミスを犯したものと誰もが思った。

 

事実、狂信者たちは刃を構えると、着地に膝を折る少女目掛けて殺到する。

突き込まれる刃の数は少女の両手の指でも足らず、浴びれば致命の衝撃をもたらすことは避けられない。だが、

 

「――エル、ヒューマ!!」

 

血を吐くようなレムの叫びに呼応して、彼女の傍らに落ちた死体が跳ねる。否、死体から盛大に溢れ出していた血が、マナの干渉によってその姿を変えたのだ。

 

地面から伸び上がるように突き出した鮮血の槍が、不用意に駆け寄った黒影を逆に串刺しに仕立て上げる。氷結した血の槍は脆く、突き刺さると同時に根本からへし折れてその形を失うが、

 

「――あぁ!」

 

足を止めた狂信者たちの頭部を、レムが吹き飛ばすだけの時間は十分に稼いだ。

血が、脳漿が、頭蓋の一部が散乱し、洞穴の冷たい空気に湯気が立ち上る。死を量産するレムが腕を振るうたび、死体が生まれ、山が築かれていく。

 

広間にいた黒装束の数はおおよそ十五名。すでにその大半がレムの攻撃の前に命を失い、残った数ではいきり立つ彼女を止められそうもない。

レムの優位は疑いようがなかった。負傷し、腕を欠損し、それでもなお、彼女の強さは黒装束たちのそれを圧倒している。

 

それなのに、なぜだろうか。

 

「あぁ、あぁ、あぁ……」

 

顔を押さえ、暴虐に沈む信者たちを見ながら、熱い吐息を漏らすペテルギウス。

その姿が悲嘆に、恐怖に、不安に揺れているのではなく、純粋まじりけなしの昂奮からくるものであると伝わるほどに、不安が増大していくのは。

 

ペテルギウスの隣で、スバルは暴れ回るレムの戦いを見ている。

その意味が、光景の理由が、彼女の戦う姿が、脳に沁み込んできている。

 

わからない。わかりたくない。わかろうとしていない。

けれど伝わってくるものがある。血を流し、傷を負い、それでも戦い続ける彼女の姿に、胸の内から湧き上がってくる衝動がある。

 

その不安を口にすれば、あるいはそうしなくてはならない。

だが、それをすれば自分で自分を見失いかねない。なにが正しくてなにが間違っていて、どうしてこうならなければならなかったのか悩まなくてはならない。

 

それを恐れるがあまり、自分可愛さを優先するあまり、スバルは――。

 

「脳が、震える」

 

言いながら、ペテルギウスが立ち上がった。

黒の法衣の裾を揺らし、前に悠然と歩み出るペテルギウス。その手には信者たちと違いなにも持っていない。それどころか、ゆったりと開いた手を揺すり、リラックスした様子で前へ出る姿には戦意の欠片もない。

 

骨と皮だけの作りの体で、強さとは無縁に見える素振り。

その存在の歩みにレムが気付き、またひとり、別の黒影を殴り倒した彼女は跳躍する。天井に逆さに吊り下がり、眼下を行くペテルギウスを睨む。

 

たわめた膝は爆発力を溜め込み、次の瞬間に射出された彼女の体が、腕が、ペテルギウスの細い体を粉々に打ち砕くだろう。

 

だが、なのに、なぜ。

こんなにも、嫌な予感が心を掻き乱しているのか――。

 

「――ム」

 

掠れた声が喉の奥からわずかに這い出す。

それは意味を持たない単語の破片で、伝えたい気持ちを微塵も乗せてくれない。けれど、喘ぎながら、顔を持ち上げながら、無感動だった瞳を大きく押し開き、

 

「……れむ」

 

囁くような弱々しい声で、どれだけぶりにかその名を口にした。

 

「――あ」

 

その声が、掻き消えてしまいそうな声が、彼女にだけは届いたのだろうか。

 

宙で身を逆さにし、血に塗れていた少女の顔にうっすらと柔らかな感情が宿る。

唇がほんのささやかにゆるみ、瞳がスバルを見つめて歓喜に震え、

 

――無数の十字架が彼女を串刺しにし、その身を地に突き落としていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

落ちたレムの体から血が広がるのを見て、スバルは声を失っていた。

 

苦鳴が、苦痛の呻きが連鎖し、肉に鋭いものが突き立つ音が絶え間なく繰り返される。

それは十字架の刃が、倒れ伏すレムの体を何度も何度も突き刺す音だ。

 

ひとりでに抜けた刃が宙を浮き、まだ穴の空いていない肌を探して再び突き立つ。持ち主のいない刃は八本にも及び、それらは幾度もレムの体を突き刺し、引き抜き、また別の場所を突き刺すのを繰り返していた。

 

「『怠惰』なる権能――見えざる手、デス」

 

ぽつりと、血の噴出するレムを見下ろしながら、ペテルギウスがそう呟く。

彼は顔の前に持ち上げた両手を振り、無手であるそれを見せつけるように突き出しながら、

 

「届かぬ場所へ手を届かせる。動かぬ身でなにかを為す。怠惰なる身で勤勉に努める――あぁ、我が身の『怠惰』さに、脳が、震える、思い、デス!」

 

一斉に抜き放たれた十字架が、再び一斉に彼女の体に突き刺さる。

もはや苦鳴すら上がらないレムの体は地面にうつ伏せたまま、ぴくりとも動かない。

 

そのレムの最期を呆然と見て、スバルは声もない。

目を見開き、呼吸すら忘れて、暗がりに沈む青髪の少女の最期を、再び受け入れ難い現実を前に意識が遠のき始めていた。

だが、

 

「逃げることは、許されないのデス」

 

前髪を掴み、乱暴に顔を上げさせるペテルギウスに逃避は遮られた。

痛みと衝撃に顔をしかめるスバルに、ペテルギウスは顔を近づけて、その見開いて飛び出しそうな灰色の瞳をめまぐるしく動かし、

 

「見ろ、見なさい、見るのデス。少女は死んだのデス。愛に殉じたのデス。傷を押して戦い、恐怖に抗って前に出て、なにも果たせず終わったのデス」

 

「うぁ、あ……」

 

「見るのデス。焼きつけるのデス。アナタの、行いの結果を」

 

「――あ?」

 

思い切りに顔を前に引っ張り出し、血の海に沈むレムから目をそらさせないペテルギウス。彼はそれでも逃れようとするスバルを地面に押しつけ、顔だけを両手で固定して、生臭い息を吐きかける。

 

「アナタの行いの結果デス。アナタはなにもせず、『怠惰』であった。それ故に少女は死んだのデス!アナタが、殺したのデス」

 

「……まえが」

 

「ワタシの腕で!ワタシの指で!ワタシの体で!アナタが、アナタが、アナタがアナタがアナタがアナタがたがたがたがぁ……殺したの、デス!!」

 

ぶつり、となにかが引き千切れる音がした。

目の前、スバルの視界の中で、レムの体が大きく弾む。

 

左腕が、肩から引き千切られていた。千切られた腕はまるでゴミのように放られ、洞窟の冷たい地面をさらされるように転がる。

 

「ぶつり、ぶちり、ばっつり」

 

「……めろ」

 

ペテルギウスがちゃちな効果音を口にし、そのたびにレムの体が破壊される。耳が千切られ、右の足首がねじ切られ、刺さった刃が震えて傷口を押し広げた。

 

レムが、蹂躙されている。

その尊厳が、目の前で、いとも容易く愉しげに、犯されている。

 

それは、その光景は、目をそらすことすら浮かばないほどのその光景は、

 

「――ペテルギウスぅぅぅぅぅ!!」

 

現実を見ることを恐れていたスバルに、我を取り戻させるほどのもので。

 

すぐ側の、その喉笛を噛み切ってやろうと首を伸ばす。が、手枷が邪魔をしてわずかに届かない。前のめりになり、勢いで顔面を地に落とす。そのスバルを見下ろし、ペテルギウスは愉快げに嗤い、

 

「あぁ、やっと名前を呼んでもらえたじゃないデスか。嬉しいデスよ!」

 

「殺す、殺してやる……殺す、殺す、お前は殺す、絶対に殺す。殺してやる。殺してやる!殺して、殺して……死ね、殺させろ、死ね、死ね、死ねよぉぉぉ!」

 

「生きるために誰かを憎む!あぁ、歪で素晴らしいデスよ。ワタシも、ワタシの指たちも、勤勉に励んだ甲斐があったというものデス」

 

「殺す、てめぇは殺す。レムを、お前が、殺す。殺す、殺す、殺すぅぅぅ。あぁ!殺す!殺してやる!死ね、てめぇ!てめぇ、あぁ、死ねよぉ!」

 

唾を飛ばし、呪詛をまき散らし、怨嗟の怒号を張り上げる。

枷がはめられた腕が軋み、足に食い込む枷が浮かんだ血を吸い鈍く輝いた。

 

腕が千切れてもいい、足が千切れてもいい。

今、この場で、枷を外して、目の前の男を殺せるのならばそれでいい。憎い、憎い、憎くてたまらない。死ぬべきだ。生かしておいてはならない。

この男は確実に、今、この瞬間に、死んでいなければならないのだ。

 

「ここもずいぶんと汚れてしまいましたし、そろそろお別れといきマスか」

 

膝を叩き、ペテルギウスはふいにそれまでの狂笑を消して吐息を漏らす。

激情でしきりに体を揺するスバルを意に介さず、彼は生き残った信者たちを手招きして集めると、

 

「ここは放棄するとしマス。片付けるより早いデスから。試練の予定は明後日デスが、場所は右手の人差指が潜伏するあたりへ。残ったアナタ方は左手としての役目を追って遂行。ただし、五指集まって平等に人数を分けること、いいデスね」

 

「死ね!死にやがれ!死ね、死ね、死ねやぁ!」

 

手早く指示を出し、ペテルギウスは手を叩く。と、信者たちはそれを合図に影と化し、洞穴のほの暗い闇へと還っていく。

そうして生存者の数を大きく減らした洞穴の中を、ペテルギウスはゆっくり歩む。

 

高い靴音が洞穴に響き、遠ざかるそれにスバルは血を吐く絶叫を投げ、

 

「待て、クソがぁ!殺す!殺してやる!そこで死ね!今、死ね!早く、死ね!死ね!死ね!死ねぇ!!」

 

「おっと、忘れていました」

 

足が止まり、気楽な態度でペテルギウスが振り返る。

下から憎悪を込めてその顔を見上げるスバルに、ペテルギウスはひとつ頷き、

 

「アナタの立場デスが、本当にわかりません。なので、福音がもたらされるかどうかで判断しようかと思いマス」

 

指を立てて、ペテルギウスは首を九十度傾けると陰惨に嗤い、

 

「手足を繋がれて、放置されるアナタを待つのは死だけデス。デスが、仮にこの場でアナタに福音がもたらされるとすれば、アナタは助かるでしょう」

 

「――――」

 

「助かるならばアナタは同志。助からないのならば、アナタはただの通りすがり。それで、いかがデスかね?」

 

名案、とでも言いたげにペテルギウスは朗らかに嗤い、今度こそスバルに背を向ける。遠ざかる背中に、スバルはなおも呪詛を投げかけ、言葉で、意思で、ペテルギウスを殺さんと憎悪の限りをぶつける。

 

それら一切の影響を足取りに感じさせず、ペテルギウスは出口へ向かう。

そして途中で、無残に破壊されたレムの死体の傍で足を止めると、

 

「あぁ、そうデス、そうデスね。アナタは、とても頑張った」

 

ぽつりとこぼし、彼はレムの死体の前で背筋を正し、十字を切るような動作を行い、

 

「アナタは愛に殉じ、精いっぱいに抗った。そして、届かず破れ、愛は行き場を失い、願いは果たされずに虚空を漂う」

 

彼女を賞賛するかのような口ぶりは一転、言葉は彼女の行為が無駄に終わったと無為さを語り、そして屈んだペテルギウスは嘲笑を口元に浮かべ、

 

「あぁ、アナタ……『怠惰』デスね」

 

これ以上ない形で、レムというひとりの少女の存在を侮辱していった。

 

「――――ッ!!!」

 

咆哮が、絶叫が、洞穴の中に響き渡る。

喉を塞ぐほどの怒りが、言葉にならないほどの激情が、血の涙が流れるほどの無念が、ナツキ・スバルに人ならざる声を上げさせていた。

 

それを聞き、ペテルギウスは最高の賞賛を受けたように嗤う。

ケタケタ、ケタケタと。

 

歩みは止まらない。

その背を止めることはもちろん、息の根を止めることも叶わない。

 

ケタケタ、ケタケタと笑い声がいつまでもいつまでも聞こえる。

 

ケタケタ、ケタケタと。

ケタケタ、ケタケタと。

 

――ケタケタ、ケタケタ、ケタケタケタケタケタケタ。