『お買い物の約束』
スバルは暗闇の中に取り残されていた。
視界を一面、闇が覆っている。音も聞こえない、誰の姿も見えない。手を伸ばして触れても、それが大地なのか壁なのかすらも判別できない――強制的な無理解がそこに蔓延していた。
知らず、喉が震えて絶叫を上げていた気がする。
遠く、遠く、なにもない果てにまで届くことを願って、ひたすらに声を張り上げていた。
「――ル」
ふいに、闇の彼方から声が聞こえた。
なにもない『無』の中に生まれた変化、それに飛びつくように縋る。
手を掻き、足をめぐらせ、声の方へ。
「スバル――」
前へ、前へ――!!
※ ※※※※※※※※※※※※
「結論から言うと、スバルのゲートは制御できてない類のものだから、無理しない方がいいね」
「この状態見て最初に出る言葉がそれかてめぇ」
「てへ」
「可愛くねぇよ!?」
浮遊し、腕を組みながら総評を口にするパックに悪態をつき、スバルは固くて冷たい芝生の感触を体全体で味わっていた。
草の上にうつ伏せになるスバルは息も絶え絶えで、全身が異常にだるい。高熱を発したような倦怠感が体中に行き渡り、手足に闘志が伝わる気配が感じられない。
似たような覚えのある感覚だ。
召喚初日、パックによってマナドレインされた際、あるいはことあるごとにベアトリスがスバルからマナを徴収する際。
つまるところ今のスバルは、完全なガス欠状態にあった。
「良くも悪くもスバルのゲートは目が荒い。だから使う側の意図を無視して、中身がどばっと外に出ちゃったんだよ」
「だから……人を……網戸みたいに言うな……」
息が切れる。こんな負け惜しみひとつ言うだけに、どれだけ体力を浪費しているというのか。
どうにか立ち上がろうとしてみるが、体のどこにも力が入らず、結果的に寝転んでうなるのが関の山だ。
そんな状態のスバルにエミリアが姿勢を低くして視線を合わせ、
「動いちゃダメ。体中のマナを出し切っちゃったんだから、大人しくしてること。――ひょっとしたら、今日もお仕事できないかも」
「――それは困る!」
やんちゃした息子を叱る母のようなエミリアの態度に、スバルは思わず鋭い声でそう言っていた。
驚き、目を白黒させるエミリアの傍ら、スバルは己の迂闊さを本当の本気で悔やんでいた。
もしこのまま今日一日を本当に棒に振るようなことがあれば、それはループに対して得た、一日の猶予を自ら捨てることにある。
それは馬鹿すぎる。致命的だ。
そんな己の身から出た錆でつまずくなど、あってはいけない。
「ぬぐぐぐ……!」
自憤を力に変えて立ち上がろうと苦心する。
せめて上体が起こせれば少しはマシになるはずだ。そこから少しずつコントロールを取り戻し、復帰すればいい。
「ちょっと、無理したらダメだってば」
「今が無理のしどころなんだよ。今やらなきゃマジ悔やんでも悔やみ切れねぇ……」
自分の行動で自業自得など珍しくもなんともないが、今はタイミングと状況が最悪だ。
足掻き、額に汗をにじませるスバルの鬼気迫る様子に、エミリアは小さく肩をすくめ、
「ホントに仕方ないんだから、もう」
再び、身を屈めてそんなことを口にするエミリア。
彼女の発言の意図するところがわからず、スバルは視線だけで見上げ、
「――?エミリアたん、なにをもがっ」
その視線を合わせた彼女の手が、ふいに上を向くスバルの顔に当てられる。と、口の中になにかを押し込まれる感覚。
丸いなにか、柔らかい舌触り。
困惑にスバルが彼女を見ると、エミリアはスバルの口を掌で塞いだまま頷き、
「噛んで」
「――?」
「噛んで、飲み込む。さん、はい」
有無を言わせぬ態度に気圧され、スバルは口の中の感触――それを思い切って噛み潰す。
じんわりと、甘酸っぱい味が口内に広がる。果物かなにかだったらしいとその感触にあたりをつけ、直後――それは訪れた。
「ふぉおおおおおおお――!?」
全身に火を入れたような熱がみなぎり、スバルはその場で飛び上がるように立ち上がる。
血が沸騰したかのように体内で騒ぎ立て、手足が指先、爪の中に至るまで情熱で焼き切れそうだ。持て余した熱を吐き出したいのか息は荒くなり、衝動を堪え切れずに足が勝手な腿上げを行っている。
が、そこまでやらかしてスバルはようやく、自分が立ち上がる気力を取り戻していることに気付いた。
信じられないような顔で己の両手を見やり、拳を開閉して感触を確かめる。
まだまだ体の各所の熱は引かないし、節々が鈍く倦怠感を訴えかけているのがわかる。しかし、動けないほどではない。
「い、今のって……?」
「ボッコの実っていう果物。食べると体の中のマナが活性化して、ほんの気休めだけどゲートが力を取り戻すの」
聞き覚えのある実の正体は、スバルが初日初回のループで貧民街に住む老婆から譲り受けたものと一致する。
確かあのときも食して似たような被害を受けた気がするが――あれはその後のパックのマナドレで事なきを得たのだった。今回とはちょうど、事の後先が逆転している形になるだろうか。
どちらにせよ、
「はぁ、一安心した。あのままBADルート回収に入ったら、ちょっと自分で自分が許せなくなるとこだよ。エミリアたん、ありがと」
「あんまり数がないし、体にも良くないから使いたくなかったんだけどね。……さっきまでの、虚勢じゃないんでしょ?」
貴重品の使用に踏み切らせるほど、さっきのスバルが真に迫っていたということだろう。
試すような彼女の物言いにスバルは顔を上げ、
「もちろん」
と、そう言い切った。
そしてそれから自分の額を拭うアクションを入れて、
「しかし、アホやったぜ……これで終わってたら前回以上の自憤で憤死するとこだった」
色んな死に方を体感するという意味で、実に他人にできない経験をいくつも重ねていると自負しているが、
「屈辱で死ぬとかいう体験、ぶっちゃけマジ勘弁だな」
そも、できれば死ぬのは前回の投身自殺を最後にしてほしいところだ。あれもあれで即死できなかっただけに非常に苦しかった。
死は一度で十分である。そしてそれはできるなら畳の上で天寿を全うした上で迎えたい。あるいは、なにか壮絶にかっこいいフラグを成就した形でエミリアの腕の中で見取られるのがベスト――。
「なーんて、そうも思えないとこが俺の小人たる所以だわな」
たとえ軽口の中であっても、もう軽々しく『死』を口にすることはできそうにない。
これを臆病になったと笑えるのは、本当の意味でスバルと同じ体験をしているもの以外にはできないことだろう。
体を回し、改めて己の調子を確かめる。
絶好調には程遠いし、むしろあちこちに不安が残る仕上がり。
だが、それを理由に予定を見送れるほどの余裕はスバルにはない。
「大丈夫?ちゃんとお仕事できそう?」
「仕事もするし、それ以外のこともやり切るよ。エミリアたんは不沈艦昴改に乗ったと思って、ドンと構えててくれていーぜ」
「不沈艦なのに一回は改修してるのね……」
そこに気付かれてしまうと安心要素が消えてしまう。
正味、一度どころか七度ほど沈んでいるのだが、そのことを指摘して朝の空気を悪くする必要はどこにもない。スバル覚えた。
エミリアの指摘を聞かなかったことにして、その場で屈伸運動しながらスバルは気を取り直し、
「んじゃま、先輩方と気持ち新たに向き合いますか!」
「そうね。二人にも、昨日からスバルってなんにも話してないと思うし……」
「――あ」
背を伸ばす途中でそう言われ、腰が鈍い音を上げて鳴った。
※ ※※※※※※※※※※※※
「姉様、姉様。スバルくんという名の薄情者がきましたわ」
「レム、レム。バルスって呼び名のお給金泥棒が現れたわ」
「昨日は本当に申し訳ありませんでした!だから許してお願い」
頭を垂れて、平謝りで許しを乞う。
なんだか、ここ半日は頭を下げてばかりいるような気がする。ロズワールを除けば屋敷の全員に、しかも女性陣はコンプリートだ。
「女の子に見下されるルート回収が終わった――業が深ぇよ俺」
「姉様、姉様。スバルくんてとんだ変態さんですわ」
「レム、レム。バルスったら見下げたマゾ野郎だわ」
「言い過ぎだよ特に姉!」
日本人の必殺DOGEZAを披露したまま叫び、スバルはその体勢から腕を支点に倒立へ移行、身を回して流れるように立ち上がり、
「とにもかくにも、昨日は無様アンド一昨日はウザくて悪かった。……まぁ、色々あって参ってたってのもあるが、心機一転して今日からはニュースバルでいくからさ」
「膝枕ですね」
「膝枕だわね」
「ひょっとしてみんなが知ってんのかしら恥ずかしい!?」
顔を覆って恥辱のアクション。崩れ落ちるスバルに双子のメイドは顔を見合わせ、
「そろそろ朝の仕事に入りましょうか、姉様」
「そろそろ朝の御勤めを始めなきゃね、レム」
「ノーコメントはそれはそれで凹むよ!」
二人は手振りでスバルのコメントを真っ二つ。
舌を出して「あいたー」とリアクションするスバルを余所に、二人はそそくさとそのまま仕事へ散ろうとし始める。と、
「タンマタンマ。ちょいと朝のお仕事の前にお願いがあるんだけど」
スバルの呼びかけに足を止め、振り返る二人がユニゾンで首を傾け、
「お願い?」
「面倒事?」
「久しぶりに穏やかな気持ちで接してるのに、この胸にふつふつとわき上がる気持ちはなんだろう……人間って不思議」
こんなやり取りが交わせるのが嬉しい反面、妹と違ってわりとわかりやすく顔をしかめる姉の態度に苦笑もひきつる。
吐息して、その浮かんだ不条理への怒りを軽く流し、
「実は村に行ってみたいんだ。近くにあんだろ?買い出しの予定とかあったりしないか?」
夜、禁書庫での推測を確かめるため、今日中にでも村へ足を運びたい。そんなスバルの思惑に、レムが顎に手を当て、
「確か香辛料が心許ないので、明日にでも村に行こうと思っていましたけど……」
「じゃ、その予定ずらして今日とかどうよ。なくなりそうなら早いことに越したこたないし、スパイス切れてお隣さんにお味噌借りにいくとか簡単にできる環境でもねぇだろ?」
ご近所付き合いしようにも、そもそも並び立つ屋敷がない。
スバルの申し出にレムは少し悩んだ様子だ。
が、
「いいんじゃないの、それぐらい」
「姉様?」
悩む妹の代わりにあっけらかんと応じたのは、桃髪に軽く触れながら片目をつむるラムだった。
彼女は妹の疑問の声に視線を向け、
「買い出しには行かなきゃならないのだし、急ぎの用事もない。バルスという荷物運びもいるし、この機会にこき使えばいいわ」
「俺が実はお腹かっさばかれて三日の病み上がりって点も多少考慮してね!」
わりと身も蓋もないラムの意見にそう突っ込みながら、しかしスバルは内心でその援護射撃に首を傾げざるを得ない。
こと、ここに至って双子のメイドの意見が統一されていないように思えたからだ。
前回のループと、その前のループの状況を鑑みるに、双子のメイドは条件が揃えば、二人ともがスバルを始末する役割を負う立場のはずだ。
その彼女らの意見が食い違うというのは、実際に殺された経験のあるスバルにとって、見過ごすことのできない違和感だった。
ともあれ、援護射撃があるのは素直にありがたい。
二人をどう説得するか、そのことに関してもスバルは割合、本気で頭を悩ませるつもりでいたのだから。
「……姉様が、そういうのなら」
しばしの黙考を経て、レムもまた肯定的な意見を述べた。
行動を主導する部分の多いレムだが、それでも基本的に姉の意見を優先するのはこれまでの接触からわかっている。
ラムが偶然とはいえ口説き落とせた時点で、この交渉の結果は決まっていたといってもいい。
こっそりとガッツポーズを作るスバルに対し、レムはそれまでの思案げな顔つきを消した澄まし顔で、
「ですが、村に行くのはどちらにせよ昼食のあとです。陽日の二時以降――それまでに、せめて普段の仕事は終わらせておきましょう」
「大丈夫よ。言い出しっぺのバルスが身を粉にして働く。そうでしょう?」
「そこは賛同してくれた姉様も協力してくれるとありがたいけどな。……まぁ、粉骨あれして頑張るよ」
「「砕身」」
「そう、それしてな」
ステレオ音声で虫食い文章を修正され、スバルは頭を掻きながらそれに応じる。して、交渉は見事に実ったことになる。
買い出しの約束が結ばれ、ようやく使用人タイムのスタートだ。レムは買い出しが加わった一日の予定を組み直しているのか、頭の中を整理しながらせかせかと歩き出す。
そんな青髪の少女を見送り、スバルは傍らの桃髪の少女を見る。今日もスバルのお目付け役に抜擢されている彼女とは、慣れない使用人生活の下積みのために同行することになる。
昨日――正確には一昨日になるが、あの日のような妙なテンションでの付き合いは避けた方が無難。というより、一周回って己を顧みる余裕ができた心境としては、ちょっと痛すぎて真似するのは無理。
「自分の黒歴史をこんだけ短時間で自覚って恐いわ。疑似賢者タイムだよ今の俺。……言ってても仕方ないし、仕事しますか、先輩」
「その前に」
歩き出そうとして、今度は先ほどのお返しにラムが足止め。踏み出そうとした足を横に出し、ガニ股で振り向いて彼女を見る。
ラムは腕を組み、下からスバルを見上げながら、
「さっきの庭園での魔法だけど……」
「ああ、無様で悪かった。とても使い物にならねぇ。ありゃしばらく封印するわ。具体的には使いこなすのに二十年かかるらしいぞ」
「無様なのもそうだけど、あまりレムを刺激しないで」
「――?」
ラムの言い分の意味がわからず、スバルは疑問符を頭に浮かべる。
そのきょとんとした顔にラムは時折するように「ハッ」と鼻で笑い、
「庭園の一角で、エミリア様を含めた周囲をシャマクで撹乱――レムを止めたラムに、バルスは感謝の踊りを捧げていいくらいだわ」
「あ……あーあー、あー、そーねそーよね」
自分の魔法失敗がショックすぎて気付かなかったが、あの状況は傍から見れば『そういう状況』に見えないこともなかったろう。
そこは本当の意味で、早まらないでくれたラムに感謝だ。逆に、それで早まろうとするレムの即断傾向にはゾッとさせられるが。
「ホント、迂闊な真似はできねぇよ……四回コンティニューしてこれか。先が思いやられるぜ、俺」
「なにをぶつぶつと……早く仕事しないと、朝食にも昼食にも間に合わなくなるわよ」
「へいへい。いやほら、その午後の買い出しのことだよ。果たしてどっちが俺とご一緒してくれるのかなと」
今の気疲れを思うと、レムの同行はちょっと気が重い。
ともあれ、村での目的を考えればむしろ同行者はレムがふさわしい。この村への同行に関してはラムとレムのどちらがくるのか条件がわからないので、それの探りの意味も込めての質問だったのだが――、
「なにを馬鹿なことを言っているの?」
「へ?」
首を傾けるスバルに、ラムはその無表情を珍しく笑みにした。
すごく、意地悪い、底冷えのする笑みに。
「ラムもレムも、二人とも行くわ。両手に花というやつよ、バルス」
――その花、毒とか持ってないといいですね。
交渉がうまくいき過ぎた場合の展開を考えていなかったスバルは、掌で顔を覆って天井を見上げ、ただそう胸中で呟いた。