『交渉と、商談と、断絶』
スバルが竜車に乗った経験は四回――片手で数えて足りるほどの回数だ。
まず、王都と屋敷の間の往復で二回。そして、召喚初日にエルザの凶刃に倒れたスバルを、屋敷に運び込む際に載せられたという意識のない一回で三回。
そして、もう一回の機会は――、
「カドモンの悪知恵に乗っかって、城に忍び込んだときに使った貨物運搬用の竜車……その四回だ」
思い出される、魚臭さ満載の荷台に押し込まれた密入城の経緯。
城での思い出などは全てが全て、スバルにとっては忌まわしい記憶の集まりでしかないが、その経験があったからこそ今回の発想を得ることができた。
即ち、正規の方法で竜車を貸し出す店がないというのなら、
「最初から竜車を使って移動するのが前提の人間に、それを借りれればいい」
王都では流行らない果物屋の主人であるカドモンすら竜車を扱っていたのだ。思い返せばアレはあの通り一帯の店主たちの供用の竜車と言っていた記憶もあったが、店持ちでない行商人たちが自前の竜車を引いている可能性は低くない。
「実際、俺は露天商ばっかりの通りで何回も竜車とすれ違ってるしな。昔に読んだラノベじゃ、どっかに店を構える前の商人ってのは下働きしてるか、馬車引いて行商ってのが基本だったはずだし」
そして、その考えは合点がいったと頷いた宿の主人によって肯定された。
彼に言によれば、なるほど自家用として竜車を保持しているものはこの村にも数名が存在するらしい。
それらの存在が、消えかけたスバルの希望の灯火をかろうじてもたせる。が、
「地竜は彼らにとって生活に欠かせないものですし、行商人にとってはまさしく命綱です。交渉はかなり難しいものになると思いますよ」
と、主人はあくまでそれが難航する類の提案であることを濁して伝えてきた。
しかし、スバルには今は取れる手段がそれしかないのだ。故に、スバルは主人の気遣いに対しては首を横に振り、
「いや、とにかくやってみる。竜車のある家を教えてくれ」
そう頼み込んで、交渉という手段を選んだのだった。
※ ※※※※※※※※※※※※
――だが、その交渉は宿の主人が懸念した通り、かなりの難航を見せた。
まず、純粋に村に店を構えており、そこから仕入れ関係や余所の村との交易などのために竜車を用いる世帯は、ひたすらに予定外の竜車の利用を嫌がった。
彼らにとっては竜車とは商売道具であり、他人に簡単に貸し出せるようなものではない。付け加えれば日々の営業もある中で、スバルの旅路に付き合ってくれるなどと酔狂なものはひとりも手を挙げてはくれなかったのだ。
そして、それら店持ちの候補者にことごとく断られたあとでさらに難航したのが、自前の竜車で行商を行う行商人たちの方であった。
スバルの認識としては、一ヶ所に留まらないフットワークの軽さが売りの彼らは、この手の依頼を持ち込むのにうってつけの相手とばかり思っていたのだが。
「メイザース領だろう?悪いが、今時分に行くのは無理だわな」
言い捨て、スバルとの交渉を打ち切ったのは痩せぎすの長身の男だ。
幌つきの荷車に、主同様に細身の地竜を二匹連れた人物で、彼はなおも粘ろうと言葉を探っているスバルを爬虫類じみた目で見ると、
「それにこう言っちゃなんだが、オレだけが断る話じゃないと思うぜ?オレの場合は純粋に積み荷の関係だけどよ」
「積み荷?」
「オレの積み荷は武具やら防具やらにする鉄製品でな。どうも今は王都でかなり相場が上がってるって話だ。明日にはオレも竜車をすっ飛ばして、儲け話に合流せにゃならん」
荷車を軽く叩きながら、そう言って男は日の沈む方角――おそらくはそちらが王都なのだろう、そちらを遠い目で見てそう語る。
彼は押し黙るスバルの様子を見かけたのか、頭を掻きながら「それに」と続け、
「このフルールがこの規模でそれなりに裕福なのは、オレみたいに王都への行き来に中継する輩が集まる場所だからだ。だからお前さんが交渉を持ちかける相手ってのはけっこう数がいると思うが……みんな断ってきてるだろ?」
「……ああ、あんたで断られたのは六人目だ」
渋い顔で結果を告げて、スバルは口惜しさに臍を噛んだ。
事実、交渉する前提条件を満たした相手はちらほらと見かけるのだ。それは男が語った通り、ここが王都への街道の道筋にある村だからなのだろう。
それを嬉しい誤算だと、スバルは店持ちの商人には断られた交渉を意気揚々と彼らに持ちかけたのだが、
「今は余所に行ってた連中がひっきりなしに王都へ向かう時期だからな。しゃーあるめえよ。なにせ王選って騒ぎが起こってんだ。金の臭いしかしやがらん」
「そういうことなのかよ……」
男の話を聞きながら、スバルはここでも自分の浅慮を思い知る結果を味わう。
そも、行商人がなんのために行商を行うのか、という点を突き詰めれば当然の帰結だ。彼らはただ移動する商人というだけではない。フットワークの軽さは儲け話に飛びつくために欠かせないバイタリティであり、運ぶ荷物は運んだ先での儲けに繋がるからこそ苦労をして運搬するのだ。
そして現在、王選という国全体が沸くような事情を前に、王都での商機を逃すような行商人などいるはずもない。
見通しの甘さに挫かれる意気込み。見えたはずの光明が遠ざかる気配に悔しがるスバルを不憫に思ったのか、男は「そうさなぁ」と思案げに己の鷲鼻に触れると、
「しかも今はキナ臭い噂がメイザース領じゃ飛び交ってやがるからな。仮に王都での儲け話の話がなしになったとしても、行きたがる奴はまずいねえ」
「キナ臭い噂って……それもひょっとして、王選絡みか?」
「流言飛語の類だと思うがな。半魔が候補者で、それを支援してるだとかなんとか……王選に関しては上擦りがまだ飛び交ってる段階だ。お前さん、知ってるか?」
「……いや、俺もちょっとわからねぇ」
とっさに嘘をつき、スバルは男の問いかけをかわす。特に期待もしていなかったのか、男は「そうかー」と取り立てて残念そうでもなく受け止めた様子だ。
その様子をちらと見ながら、スバルは思った以上にエミリアを取り巻く環境が悪循環に満ちているのを実感する。
そして、自分の行く手とエミリアの道筋に立ちはだかる障害の堅固さに嫌気が差し出した頃、ふいに男が「そうだ」と手を叩いて、
「おい、喜べ。ひょっとしたら、お前の提案に乗っかるかもしれない奴が思い浮かんだぜ」
「――!マジかよ!今、ほとんど諦めてレイプ目だったぜ、俺!」
「なに言ってんだかわからねえけど、本当だ。呼んできてやるよ」
言いながら男は気安くスバルの肩を叩くと、小走りに道の向こうへ。ギリギリ見える位置の店に駆け込んだ男を追い、スバルが店の看板を見上げると、
「……たぶん、酒場的な字か?」
イマイチ確信を得ないが、そこに刻まれた文字の一部は学び始めたばかりの『ロ文字』を使用しており、かろうじて読み取れた。さらに付け加えれば、両開きの入口の向こうからはかすかに酒気を帯びた空気が漏れ出しており、まだまだ日の高い時間だというのに入り浸っているものの人間性を疑わせる。
意気揚々と男が駆け込んでいった以上、この中にいる人物なのだと思うが。
「すげぇ依存症なアル中とか連れてこられたらどうしよう……この世界って、飲みながら竜車の運転とかして大丈夫なのかな」
酒気帯び運転で懲役とか免許取り上げとかあるのだろうか。そも、竜車の免許という考え方がないのかもしれないが。
もしも強面で酒浸りのヤの付く自営業的な人物が現れたら、そのときは適当に金貨ばらまいて逃げ出そうとそっと決意。
そして、そんな悲壮な覚悟を固めるスバルの前で戸が開かれ、
「なんだ、待ってろって言ったのにこっちきたのか」
言いながら、拍子抜けしたような顔で痩せぎすの男が笑う。笑いながら店内に腕を伸ばしている男は、どうやら誰かの服を引っ張って連れてきている様子だ。
店内を覗き込む要領でそちらの方に視線を送りながら、
「わざわざ俺が頼み込んでんのに、そっちに足まで使わせたら超無礼者じゃねぇか。……それで、そっちの人が?」
「おお、そうそう。こいつがそうだ。ほれ、オットー、挨拶しろい」
そうして乱暴に腕を引く男に連れ出され、スバルの前に進み出たのは灰色の髪の青年だった。
背丈はややスバルより低く、線の細い青年だ。年齢はスバルよりわずかに上で、おおよそ二十歳前後といったところだろうか。背筋を伸ばし、表情を整えれば甘いマスクで通りそうな端正な作りなのだが、
「俺はナツキ・スバル。無理にきてもらって悪い。あんたなら俺の頼みを引き受けてくれるかもって話で……くさっ!酒くっさ!うぇ、臭いだけで酔う!」
友好的に交渉を始めようとして、漂ってきた臭気に即座にノックアウトされた。胃の中身が戻ってきそうな濃厚な酒気は、目の前の陰気な顔つきの青年から漂う。
予想通り――否、予想以上に酒に呑まれている様子だ。現に青年はほんの数歩の距離をふらふらと千鳥足で踏破し、どうにかスバルの前に立つと、
「ただいまぁ、ご紹介に与りましたぁ、オットーと……うえ、申します。うえ。ひっく。うえ」
短い挨拶の間に三回もえずいた。
オットーと名乗った青年はその整った顔立ちに似合わぬ、酒浸りの赤ら顔でスバルと男を交互に見回すと、
「それでぇ、なんでしたっけぇ?商談?商談でしたかぁ?うえ、僕に商談だなんて、うえ、あはは、うえ。笑えるお話じゃぁ、ないですかぁ、うええ」
いよいよしゃがみ込んで、こちらにはわからない理由で笑い出すオットー。
その様子に完全に希望が頓挫した気配を感じながら、スバルは恨みがましい視線を紹介した男に向ける。それを受け、彼は慌てた様子で手を上げると、
「待て待て待て、騙したわけじゃねえぞ」
「本気で紹介してんならあんたの頭の作りを疑うレベルだよ。酒気帯び運転で逮捕って次元じゃねぇ。この状態でなら徒歩でも職質されるわ」
べろべろどころかでろでろといった次元でへべれけの男を紹介されたのだ。
スバルの疑念も当然だと思ったのか、睨まれた男はしゃがみ込んでいるオットーの肩を乱暴に揺すり、
「オットー!こら、起きろ、てめえ。現状を変える一発逆転の手があったら紹介しろつってたのはお前だろが!酒で台無しにするか、ええ!?」
「一発大逆転の手――!?」
ぴくり、とそれまで死んだような目をしていたオットーの眼差しが変わる。彼は自分の肩を掴んでいた男の手を振り払うと、それまでの酒に溺れていた姿が嘘のような仕草で立ち上がり、
「これは大変失礼をいたしました。僕の名前はオットー・スーウェン。行商で身を立てる、しがない商人です」
きり、と音がしそうなオットーの決め顔。
そのさっきまでの変貌ぶりにスバルは言葉もない。オットーは黙り込むスバルを上から下までしげしげと観察し、「ふむ」と吐息をこぼすと、
「なるほど、ある程度の身份は保障されているわけですね。これは確かに上客になるかもしれません。ケティさん、ありがとうございました」
「へいへい。と、これで話が通りそうだろ?んじゃ、オレはこれで失礼させてもらうわ。兄ちゃんはどっかで会ったら贔屓してくれや。オットーは今度、借り返せよ」
疑いを晴らすに十分な態度をオットーが見せると、男は大仰に安心したような素振りで胸を撫で下ろし、こちらに手を上げるとその場から立ち去る。
その彼の背に感謝の言葉を投げかけ、見送ったあとでスバルは改めて青年に振り返る。正面、こちらを値踏みするように見るオットーからはすでにさっきまでの酒気で溺死していた余韻は欠片も見られなかった。
「では、交渉と参りましょう。――お客様は、なにをお求めで?」
手を叩き、指を立てるとオットーは満面の笑みを作り、そう持ちかけてきた。
※ ※※※※※※※※※※※※
「引き受けてもかまいませんよ、ええ」
スバルが事情を簡略的に、ある程度ぼやかして話し終えると、オットーが口にしたのはそんな一言だった。
ケティと呼ばれた商人からの紹介であり、無碍に断られることはないかもしれない程度の期待しか抱いていなかったスバルは、その快諾にある意味で驚愕する。
しかし、すぐにその返答の意味を受け止めると、即座にスバルはオットーの両手を力いっぱいに握り、
「あ、ありがとう!そうか、やってくれるか!助かる!マジで助かる!」
「痛っ!いたたた!ちょっ、力強っ!ま、待ってください!喜んでいただけるのはよろしいですが、こちらにも条件があります!」
上下にブンブンと腕を振られる過程で、声を大きくするオットーがそれを振りほどく。空になった両手を開閉しながら、スバルは「条件?」と首を傾げる。
オットーは解放された手を軽く振り、「ええ」とかすかに顔をしかめながら、
「こちらも商売道具、というより生命線の竜車を使うわけですから、簡単には引き受けられません。もちろん、正規の貸し竜車のような値段で受けることも。特に今のメイザース領へ向かうのには色々と不安材料が多いですからね」
「それはもちろん、当然だ。言い値でいい、ってまではなかなか言えねぇが」
ちらりと手に提げた鞄を見下ろし、スバルはオットーが持ちかける金額の想像がつかずに物怖じする。少なくとも、スバルの手元に残された金額を越えた報酬を要求されれば一発でアウト。それでなくとも、なにか交換条件のようなものを持ち出されても安易に承諾することはできない。
そうして警戒を露わにするスバルにオットーは片目をつむり、
「そうですね。では、有り金全部……ではいかがでしょうか」
両手を持ち上げて肩をすくめ、まるでおどけるような仕草で言い放った。
彼としては交渉ごとの最初の一歩。つまりは布石を打った形になるのだろう。そこからペースを掴み、その後の話に繋げようとする意思が爛々と輝く双眸からはうかがうことができた。
口を口、舌と舌。弁舌、論舌を比べる交渉の勝負が始まる――。
「それでいいのか?わかった。じゃ、この鞄はお前に預ける。すぐに出発してもらっても大丈夫か?」
とはならなかった。
あっさりと手にしていた鞄を差し出すスバルに、オットーは唖然とした顔つきで思わずそれを受け取ってしまう。そのずっしりとした重みを両腕に感じ、彼は生唾を飲み込んだあとで震える瞳をスバルに向けると、
「ちょ、違うでしょ!?普通、ここから互いにお互いの要求に近づけていくための論戦が始まるところですよ!?そんなあっさりと……」
「時間の無駄だし、どうせ論戦やったら負けるよ、俺。だからやるだけ無駄の戦いはやらねぇし、その鞄の中身で済むなら俺にとっては願ったり叶ったりだ」
最悪、鞄の中身は全て失った上に目的を果たせない可能性もあったのだ。それを思えば、有り金をはたいて往路の切符が手に入るのなら安い買い物である。
そう判断してのスバルの行動に、オットーは呆れた様子で額に手を当てて、
「これは……ひょっとすると、すごく面倒な方を紹介されてしまったのでは……」
「安心しろ。個人的には誰にも迷惑をかけないつもりでいるよ。気持ちの上では」
その発言に欠片の説得力もないことを、スバル本人はおろか、付き合いの短すぎるオットーにはもちろんわかるはずもなかった。
「わかりました。引き受ける条件を出して、それを即決で呑まれたんです。僕としても商人の誇りがある。どんなはした金だろうと、ちゃんとやり遂げて……うえ!?な、なんですか、この大金!?こんなの簡単に出してなにを……うえっぷ」
鞄の中身を確認して思い出したような吐き気にえずくオットーの様子を無視し、スバルはやっとこさ掴んだ機会を前に拳を固める。
様々な障害がスバルの前に立ちふさがるが、それらも全てどうにか乗り越えられる。今はまだ、エミリアの前を塞ぐそれがわからないままだが、きっと彼女の隣にまで立てばわかるはずだ。そして、それを何とかすることがきっとスバルにはできる。
「待ってろ、もうすぐ……もうすぐだ」
はっきりと、スバルの口の端が笑みの形に歪んだ。
それが目的を果たせるが故に浮かんだものなのか、それとも愛しい少女を幻視したからこそ浮かんだものなのか、笑った自覚のない本人にすらわからないまま。
※ ※※※※※※※※※※※※
「では、契約の内容を確認します。目的地はロズワール・L・メイザース辺境伯の領地であるメイザース領。時間はめいっぱい短縮する形で、夜半も走り抜けることが条件……報酬が報酬だから受けますが、無茶な条件ですよ、これ」
「金貨見て目の色変えてた奴が文句言うない。頼むぜ。俺の未来がかかってる」
「僕の未来も同時進行で色んな場所にかかってると思うんですけどねえ」
言いながら、握った手綱を操るオットーの指示で、いななく地竜が地を蹴って走り抜けている。
オットーが所有する竜車は荷台が大きい幌付きのもので、それを引く地竜もそれに見合ったパワフルな巨体をしたものだった。見た目がかなり重量級寄りなその姿に速度の面をスバルは心配したが、
「その分、持続力が違います。長距離用の中でも特に体力に優れる種族ですから、三日走り通しでも潰れることはありませんよ」
「三日も走らせたら逆に乗ってる人間の方が潰れんだろ」
「僕も二年ほど前に、とある商談の機会を逃すまいと走らせたことがありますよ。人間、死ぬ気になってみると案外やれるもんです。商談が終わった直後にぶっ倒れて、その後は一週間ぐらい生死をさまよいましたが」
「死ぬ気になってみると、ね」
横目にオットーの顔を見ると、その視線に気付いた彼は「なにか?」とでも言いたげな目を向けてくる。その無言の問いに手を振って応じ、スバルは話題を変えようと走る地竜を見下ろしながら、
「ともかく、そうなるとこいつを道中で取り替える必要はなしと。それじゃ、ハヌマスって村は素通りでいいんだな?」
「そうなります。中継地点としてハヌマスはフルールより優秀ですが、十分に水と食糧を積んだ状態で自前の竜車があるなら立ち寄る価値はありませんね。依頼の内容も特急という話ですから、素通りさせてもらいます」
計画性という意味では完全に見切り発車だったにも関わらず、整然と話すオットーの発言には微塵の不安も含まれていない。
彼からすれば、すでに何度も行き交った道のりのひとつであるのだろう。そう歳も変わらないはずなのだが、整った容姿には不似合いな貫禄すら浮かんで見える。
そんな人物であるというのに、彼はスバルの無謀な願い事を聞き入れてくれた。無論、報酬あってのことは事実だが、スバルにはそれが疑問だった。
「なあ、どうして俺の頼みを聞いてくれたんだ?あんだけ飲んだくれてたってのも謎っちゃ謎だし」
「き、聞き難いことズバッと聞いてきますね、ナツキさん」
スバルの問いに苦笑というには苦みが強い顔をするオットー。
この世界にきて以来の、珍しい名字呼びをする人物の前でスバルは居住まいを正す。そうして本来、聞き難いことを直球で聞いてしまった己のコミュレベルの低さを久々に実感しながら、
「まぁ、聞いちまったものは仕方ねぇよ。だからいっそ白状しちまいな」
「簡単に言いますねえ。……ま、それに合わせてこちらも簡単に言ってしまうと、ちょっとした情報の入れ違いによるヘマをやらかしまして」
いっそふてぶてしいスバルの態度にため息をこぼし、オットーは訥々と酒場での醜態の原因について語り出す。
ヘマ、という単語が出たことにスバルが眉を寄せると、彼は荷物が積まれている荷台の方へ首を向け、
「あそこの荷台に、ぎっしりと今回の僕の積み荷があるわけですが……中身、なんだと思います?」
「……パッと見、壺かなんかが並んで見えるな。陶器でも売り込みにいくつもりだったのか?」
「残念賞です。売り物は外見じゃなく中身ですよ。壺にはたっぷりと油が入っているんです。本来はそれを北方のグステコへ持ち込む予定だったのですが……」
肩をすくめ、オットーは当てが外れたと自分の行いを自嘲するように笑い、
「王選の関係でしょう。北国であるグステコとの通行が一時的に閉鎖されてまして。売り物にならないとわかったときには必死で抵抗しましたが……まあ、それも叶わずに追い返されてしまったわけです」
寒気の厳しいグステコで大金に換わるはずだったそれが突っ返され、どうにかルグニカ内で処分しなくてはならなくなった。さらに追加でオットーが油を入手するために取引きしていたのが、しばらくは二束三文の値しか付いていなかった鉄製品の数々だったというのだから泣きっ面に蜂だ。
結果、鉄製品がバカ売れするチャンスを逃し、代わりに手に入った油を売り払うマーケットも失い、途方に暮れてのヤケ酒だったということらしい。
「王都でもこれだけ大量の油、簡単に売り切れるはずもありませんし……二束三文で売ろうものならそれこそ僕は身の破滅です。もうこれは商人として終わったな、と半ば人生投げてたところに、ナツキさんの申し出というわけですよ」
「あの金で、この損失がどうにか埋まりそうなのか?」
「この油の全部、売り物の値段で買い取ってもお釣りがきますよ。これでどうにか僕の首も繋がりました。感謝、感謝です」
頭を下げてこちらを崇めるような姿勢のオットーに、スバルは「よせやい」と手を振る。彼に感謝しているのはスバルも同じだ。むしろ、その気持ちは彼に劣っていないだろうと半ば確信しているほどでもある。
しばらく、そうして互いに「そちらのおかげで」「いえいえ、こちらこそあなたのおかげで」「君がいたから僕がいる」「そう、僕らはこうして出会う運命だった」などと茶番を繰り広げて、お互いにシンパシーを深め合って時間が過ぎた。
そんな会話にも一区切りがつき、ふいに沈黙が二人の間に落ちたとき、ふとスバルは走る街道から視線を外し、ずっと続く平野に目を細めて、
「なあ、オットー。この平原、突っ切るわけにはいかねぇのかな」
と、ぼそりと呟く。
そのスバルの呟きを聞きつけ、オットーはまるで極上の冗談でも聞いたように破顔して「またまた」と膝を叩くと、
「いくらなんでも笑えませんよ。『霧』が平原にかかるとき、そこには白鯨が姿を現します。魔獣の中でも一際有名な奴ですからね……遭遇したら命ないですよ」
「そんな危ない奴なのか?討伐とか、されたりしねぇの?」
「『霧』さえ避ければ被害は極々軽微で済みますからね。討伐隊が組まれて遠征が行われたことも昔はあったそうですが、結果は今も白鯨が健在なことからお察しです」
つまりは討伐に失敗し、その後の遠征を躊躇わせる被害があったということだ。
その話を聞きながら、スバルは『魔獣』という単語が出たことに複雑な念を抱いていた。スバルにとって魔獣といえば、それはロズワール邸の付近にも生息していたジャガーノートの群れのことになる。
結果的に付近の巣は全て焼き払われ、根絶やしにされたという獣たちの結末にはいくらかの同情すべき点があったと思っていたのだ。無論、彼らに殺された経験もあるスバルにとっても、彼らが共存するには難しすぎる生態の生き物である事実は否定しようがないのだが。
「白鯨……か。白い鯨の形してんのかね」
「目撃して生き残った数少ない人間の話じゃ、でかすぎてそれがなんだったのかいまだによくわからないらしいですよ。うじゃうじゃ周りが潰される中、必死でなにもかも投げ出して命だけは拾ったとか」
恐ろしい話です、と長い息をつくオットーは、それ以上の白鯨の話をするのを嫌がっている様子だった。
行商人、という立場で各地を行き交う彼からすれば、こうして平原を何日にもわたって占領し、迂回を余儀なくさせる白鯨は忌まわしい憎悪の対象なのだろう。
討伐されてくれればありがたいが、関わり合いにはなりたくない。そんな意思が彼の態度から察せられ、スバルもそれ以上の追及をこの場では収めた。
いずれにせよ、オットーの協力なくしてスバルが領地まで帰り着くことはできないのだ。おかしな話で彼の機嫌を損ね、不仲になるようなことは避けなくてはならないのだから。
静かに、ふいに感情の消えた目で自分を見るスバルに、地竜を操るのに意識を向けるオットーは気付かない。
スバル本人もまた、今の自分の瞳がどんな輝きを灯しているのか気付けない。
事態はゆっくりと、しかし確実に、歪みをみせながら進んでいく。
――そして、夜道すらも休憩なしで走り続ける強行軍の結果。
「見えてきましたよ。あの丘を越えれば、そこからはもうメイザース領に入ります」
乗り合いの走行が始まっておおよそ半日と三時間。
スバルたちが目的のメイザース領に到着したのは、出発してから沈んだ太陽が再び昇り始め、世界を眩く照らし出した早朝のことだった。
「休まず走りっ放しだったし……ひょっとしたら、レムを抜いてるかもな」
「いやあ、さすがに半日以上先に出た相手に追いつくのは難しいですよ。それより、向かうのはメイザース領の……?」
「ああ、領主のロズワール辺境伯の屋敷だ。場所、わかるか?」
「大まかには。まあ、任せてくださいよ」
頼りがいのある声でスバルに応じ、オットーは手綱を操る腕を機敏に動かす。
道中、何度か浅い眠りを得てきたスバルと違い、走行中は休む暇もなかったオットーはほぼ完徹の状態だが、彼の返答には疲労を感じさせない強い響きがあった。
「ははははは!行け!行くのです!今の僕には光り輝く道が見える!」
むしろ、ちょっとテンション振り切ってイッちゃった台詞を吐いているところを見ると、徹夜明けのテンション丸出しな感じがして逆に微笑ましかったりするが。
ともあれ、そんな同乗者の状態はさて置き、スバルは目と鼻の先まで近づいてきた屋敷を思い、これまで考えないようにしてきた再会の場面を思い浮かべる。
おそらくは、簡単には受け入れてもらえないと思う。王都に置いてきたはずのスバルが治療も半ばで戻るのだ。悪態をつかれることすら覚悟しなくては。
それでも、
「俺は、俺のやるべきことをやるために戻ったんだ。恥ずかしいことなんてなにひとつねぇ。そうだ、なにもねぇよ」
自身の行動を正当化するかのように、あるいはここにはいない誰かへの言い訳をするかのように、繰り返し繰り返し、スバルは自分の気力を支え続けてきた魔法の言葉をここでも呟く。
それを口にしていると、胸を押し潰しそうなほどに膨れ上がる不安を一時的に追い払うことができるのだ。だからスバルは繰り返し、その言葉を口にする。
なにか、思い出さなくてはならなかったはずのいくつもの言葉を蔑にして、スバルは脆く崩れ落ちてしまいそうな自我をそんな言葉で支え続けていた。
そんな仮初の自信に裏打ちされたスバルの覚悟は、
「ナツキさん……僕は、ここまでで許してもらえませんか?」
屋敷が近づき、森林地帯をしばし走ったところでふいに竜車を止めたオットーによって、出鼻を挫かれる形となったのだった。
※ ※※※※※※※※※※※※
「どういうことだよ?まさか、メイザース領に入ったから契約は終了でーすとか言い出すんじゃねぇだろうな?詐欺じゃねぇが、詐欺紛いのやり口だぞ?」
足を止めてしまった竜車の御者台で、スバルは突然にそれ以上の進行を拒んだオットーに掴みかかる。胸倉を掴んで引き寄せ、スバルはその顔にさらに汚い言葉を投げつけようとして――蒼白となった彼の顔色にその言葉を飲み込んだ。
襟を手放され、御者台に腰を落としたオットーは無言で乱れた衣服を正す。そしてそれからスバルに深々と頭を下げると、
「申し訳ありません。最後まであなたにお付き合いするつもりでいました。なのに、僕はこれ以上、進む勇気を持つことができません」
「さっきからなんの話をしてるんだよ。勇気もなにも、関係ないだろ?あとちょっとで屋敷まで行けるんだ。道が悪いわけでもない。頼むぜ、オットー」
「頼まれてもできません。報酬も、全ては受け取れません。半分はお返しします。ですから、僕をここで引き返させてください」
あくまで軽く話を進めようとするスバルに、オットーは御者台に手をついて頭を下げて、本気で許しを乞うてきた。
あんまりといえばあまりに悲壮なその姿に、スバルは思わず息を呑んでしまう。
「急に、どうした?なにがあったらそんな……」
「地竜が……怯えています。こんなことは今までに一度もなかった!行商人が移動に竜を使うのはこれがあるからです。近づいてはならないことが、地竜にはわかるんですよ……!」
手綱を握った手を小刻みに震わせて、青い顔をしたオットーが地竜を見下ろす。見れば、地に足を着けて主人の命令を待つ地竜は静かに荒い息を繰り返している。が、しきりに進行方向――目的地の方へ鼻を鳴らしては、こちらに危険を報せるかのように身じろぎし、強い警戒を促していた。
その地竜の素振りと、それを信頼するオットーの反応からスバルは悟る。
この先で、なにか想像を絶する脅威が待ち構えているのだと。
そしてそこにオットーたちを付き合わせることはできない。スバルが単身、挑むより他に選択肢はないのだと。
「色々と世話になった。恐い思いさせて悪かったな、オットー」
「え」
驚き声を背中に聞きながら、スバルは飛ぶようにして御者台から大地へ。地竜のすぐ脇に着地すると、痺れを訴える両足を軽く叩いてオットーを見上げ、
「俺はこの先、歩いて屋敷を目指す。なに、そんな遠い場所でもない。ここまで連れてきてもらっただけで十分だ。金は全部持っていけよ」
「そんなわけには……いえ、それよりもナツキさん!行ってはいけません!僕と一緒に引き返しましょう。今、ここには霧がかかっているんですよ!」
「白鯨が出るってのか?」
「行商人にとっての凶兆という意味です!行き先に霧がかかるのは、僕らにとっては死活問題ですから……そんなことはどうでもいい、とにかく考え直して……」
「悪いが……」
必死にスバルの身を案じて声を飛ばすオットーを見て、スバルは苦笑する。その人の良さで騙し合い化かし合いが常の商人など、向いていないのではないだろうか。
オットーという善良な人物の職業適性を疑問に思いながら、スバルは手を掲げると竜車と彼に背を向けて、
「お前が命と金を大事な天秤に載せるのと同じで、俺も命と同じくらい大事なものを天秤に載せてる。その大事なもんが、この先にあるんだよ」
「ナツキさん!」
「引き返すお前が悪いだなんて思わないさ。むしろ、危ないとわかって引き返すってのは正解だろ。それが事前にわかっただけで、俺は十分だ」
この道の先に、スバルが目指す目的地に、竜すら怯える危険が待っている。
急がなくてはならない。駆けつけなくてはならない。そこに、スバルが求める答えが転がっているはずなのだから。
「――ナツキさん!」
最後まで、スバルを案じて名を呼んでいたオットーを置き去りにして、スバルは緑の深い森林地帯の地面を強く蹴り出して走る。
走って、走って、走り続けて、スバルは掛け値なしに自分を案じてくれていた人間を捨て置いて、目的地を目指し続けた。
ロズワールの屋敷までの明確な距離はわからない。
ただ、見覚えのある木々の群れは間違いなく屋敷の周囲を囲んでいた山々のものだ。道はしっかりと竜車が走るためのものが残されており、それを辿れば屋敷まで到達できることは疑いがない。
その前に最寄りの村――屋敷のすぐ近く、スバルが幾度も足を運んだ村がスバルを出迎えるはずだが、今はそこに意識を向ける必要を感じなかった。
とにかく、一刻も早く、屋敷へ辿り着きたい。
そうすれば、今のスバルを苦しめる宙ぶらりんな感情に決着が付きそうなのだ。それが望んだ形であれ、望まぬ形であれ、変化があることを今は望む。
エミリアを思う。レムを思う。エミリアを思う。ラムを思う。エミリアを思う。ベアトリスを思う。エミリアを思う。ロズワールを思う。エミリアを思う。パックを思う。エミリアを思う。村の人々を思う。エミリアを思う。エミリアを、エミリアを、エミリアを、エミリアを、エミリアを――。
無心で、というには雑念が多すぎる疾走を続けるスバル。
そんなスバルの足が止まったのは、目的地に到着したから――ではない。
走るスバルの足を止めたのは、ふいに脳裏を過った違和感が原因だった。
周囲の異変すら無視して走ることに集中していたスバルにすら、はっきりそれとわかる異常――即ち、
「静かすぎる、だろ」
風が通り過ぎる音以外、一切の音が世界から消えてしまっているのだ。
あたりを見渡してもあるのは立ち並ぶ木々ばかりであり、積極的に音を発するものはそこにはない。だが、一ヶ月近くをこの地で過ごしたスバルにはわかる。
虫の鳴き声すら聞こえない、この森の圧倒的な静謐さの異常が。
――そして、それはスバルの意識の間隙を縫ってふいに出現した。
「な……あ!?」
驚きに声を上げ、スバルは思わずその場を後ずさる。
顔色を蒼白にし、目の前の現実を受け入れられないスバルの眼前――そこにひっそりと立つのは、全身を黒の装束に覆った得体の知れない人間だった。
しかし、驚愕はそれだけに留まらない。
「こいつ……いや、こいつら……!」
首をめぐらせ、震える唇で音を紡ぐスバル。その彼の視線を追いかけるように、次々と林道の各所にその黒い影が生えるように生まれ出す。
その数は瞬く間に十を越え、警戒するスバルの周囲を取り囲んでしまった。
さらに異常なのは、そうして意味のわからない出現をした彼らが姿を現したにも関わらず、延々と先と同じ静寂が続いている事実。
わずかな息遣いすら感じさせず、静かにスバルを観察する黒装束たち。
決して彼らが友好的な存在でないことだけを肌で感じ取りながら、スバルはなにを言うこともできずにただ次なるアクションを待つだけに留まってしまう。
そうして睨み合いが続くこと、どれぐらいだったのだろうか。
あまりに緊張感が張り詰め過ぎてしまい、スバルは時間の流れがひどく曖昧なものになってしまったのを感じていた。
心臓が痛いくらいに鳴っているはずなのに、その心臓の鼓動が自分にすら聞こえないほどの、暴力的な静寂――そして、その均衡は始まりと同様にあまりにもあっさりと崩れ去る。
それも――、
「――――」
一斉に、黒装束たちはスバルに向かって、恭しく頭を垂れて見せたのだ。
――完全に、スバルの脳はその光景を理解することを諦める。
意味のわからない出現をした連中が、意味のわからない敬意をこちらに払い、そして意味のわからないスバルを置き去りに、意味のわからないまま消えていく。
なんの言葉も発することができず、ただただ目の前の光景に唖然とするよりないスバルの前で、顔を上げた黒装束たちはするすると滑るように移動を始める。
彼らは硬直するスバルの横をなにをするでもなく通り過ぎると、出現したときと変わらない無音の歩法で視界の端から消えていく。
現れたときもおそらく、ああして意識の隙間を縫って湧いたのだろう。と、それを理解したところで、それ以外の全てがわからない存在であった。
故に、スバルはその場に完全に置き去りにされたことを、数分硬直したあとで理解すると、それ以上の彼らの理解を諦めて走り出す。
彼らの存在は、今のスバルの不安をひどく不愉快に掻き毟っていった。
その背筋を駆け上がるような怖気と不安を振り払うためにも、スバルはなにもかもを忘れるように一心不乱の気持ちで林道を再び駆ける。
存在を理解できない黒装束たちを、スバルは理解することを諦めた。
だから、彼は気付くことができない。
滑るように消えていった黒装束たちの向かった方向が、取り残してきたオットーがいたはずの方角であった事実に。
そしてスバルはそのことを、一度も省みることはなかった。