『枷のある戦い』


 

――ゆっくりと、段階的に枷を外し、自らの体の熱量を上昇させていく。

 

血の沸き立つ感覚があり、細い体の全身の筋肉が絞られる。

触れれば柔らかく、儚く頼りなくも思われる少女の肉体だが、その内を流れる血は、それを構成する肉は骨は、世界で最も優れたる種族のモノ。

そして、その中でも最高傑作と呼ばれた『鬼神』の再来――、

 

「それが姉様ッ!あァ、なんて素敵なのッ!輝いてるのッ!どこまでいってもレムじゃァ到底及ばない届かない敵わない、そんな姉様ッ!」

 

「唾を飛ばさないで。不愉快だわ。それと、ラムを何かと比べるのはやめなさい」

 

「へェ、その心は?」

 

「決まっているでしょう。――ラムには、レムの姉様以上の肩書きなんて不要だからよ」

 

呆れるような調子で言って、身を回したラムの肘鉄が風を穿つ。

掠めれば肌を裂き、打てば骨を砕き、その内の臓腑をも貫通する凄まじい体技、それが惜しげもなく振るわれ、手足を満遍なく駆使した連撃が放たれる。

 

それは、純粋な身体能力や技術だけがモノを言った技ではない。

もしこれが純然たる技巧によるものなら、喰らった相手の『記憶』を頼りに、古今東西あらゆる技を再現するバテンカイトスには対応されたろう。

しかし、ラムの戦技は端的なそれとは一線を画する。

 

「――――」

 

踏み込み、放たれるラムの肘や膝の一撃は、中途で自在に加減速を行う。それは、ラムが得意とする風の魔法を己に纏い、戦いの最中に虚実を織り交ぜるからだ。

風で速度を加速し、あるいは減速し、応戦しようとするバテンカイトスの認識を自在に狂わせる。挙句、ラムは風を応用して気配を四方に散らし、素早い身のこなしで相手の死角に紛れ込みながら、致命の一撃を幾度も叩き込むのだ。

 

「はァ!たまんないなァ!」

 

そんなラムの攻撃をすんでで回避しながら、バテンカイトスは嬉しげに喝采する。

その裂けた右頬から血を流しながら、長くざんばらと伸ばされた焦げ茶の髪を振り乱して、『暴食』は彼我の性能の比べ合いを楽しんでいた。

 

「辛みがあってたまんないスパイス!渋みがあっていなせなトリック!嬉しさ爆発でまさにダイナミック!姉様は、俺たちの美食にぴったりの御馳走だッ!」

 

螺旋階段を飛び回り、互いの立ち位置を入れ替えながらバテンカイトスが嗤う。

両手の短剣をラムの杖と打ち合わせ、距離が開けば、開いた口からは涎が滴った。

 

「いいね、いいよ、いいさ、いいとも、いいから、いいじゃない、いいだろうさ、いいだろうとも、いいだろうからこそッ!暴飲ッ!暴食ッ!」

 

「――――」

 

「何より、その怒りの匂いがいい。僕たち個人を、ここまで憎悪してくれる相手……それを舌の上で味わったら、どんな美食が堪能できるんだろうねえ!?」

 

両手を叩いて、理解できない快楽の予感に打ち震えるバテンカイトス。

それを目前にしながら、ラムは大きく息を吐いて、自分の肉体の調子を確かめた。

 

「本調子には程遠いけれど……」

 

表情には出さないが、本心からラムは驚嘆していた。

自分のことは自分が一番よくわかっている、というのはわかっていない人間のある種の常套句だが、そういった愚か者と違い、ラムは本当に自分を完全に把握している。

鬼族の角を失い、『ツノナシ』となったラムの肉体は日々、膨大な負荷に押し潰されそうになっていた。故に、ラムは自らの意識に枷を嵌めたのだ。

 

通常、使用人として働くときには全ての枷をかけたままに。

時には有事となり、魔法を用いて状況を打破しなくてはならないときもある。そんなときには枷を一つ外して、最低限の魔法の使用を自らに許す。

そして、それでも収まらない事態があれば二つ目の枷を外し、短期決戦ではあるが、本来のラムの性能の二割ほどは発揮できる状態になれると。

 

約一年半前、『聖域』でガーフィールと一戦交えたときがちょうどそのぐらいだ。

あれが、『ツノナシ』であるラムに出せる全力であり、それ以上は肉体が負荷に耐えかねて使い物にならなくなると、そう確信していた。

そんな諸刃の剣である枷を、今、ラムはもう一段階外そうとしている。

 

「――――」

 

刹那、ラムの胸中を珍しい躊躇が歪ませた。

前述の通り、ラムは自分自身のことを完璧に把握している。

そんな彼女をして、これまでの戦いで自分への反動がここまで感じられない事態は、本当に十に満たない子どもの頃以来のことなのだ。

これまでの戦いの反動が跳ね返れば、ラムの頭は割れるように痛み、鼻血や血涙がとめどなく流れ、しばらく体が動かせなくなるのを覚悟しなくてはならない。

それがない。――運命共同体の、スバルへ流れ込んでいるから。

 

「……あまり長くかけると、バルスが死ぬわね」

 

話し合った通りなら、スバルは今頃は暴走するシャウラや、押し寄せる魔獣の群れに対処するために奔走していることだろう。

一緒にいるのはベアトリスと、おそらくはメィリィ。――記憶を疼かせるエミリアは塔の上層へ向かい、そこで孤軍奮闘中だろうか。

不思議と、あの前向きな銀髪の少女の動向が気にかかる。きっと、『名前』を奪われる前はよほど手を焼かされていたに違いない。

誰も彼も、ラムがいなくては頼りなくて仕方がなかった。

故に――、

 

「死ぬ気で耐えなさい、バルス。――レムが泣くわよ」

 

そう、聞こえない言葉を投げかけて、ラムは十年ぶりに三つ目の枷を外した。

 

△▼△▼△▼△

 

――瞬間、『コル・レオニス』の反動がナツキ・スバルへ牙を剥く。

 

「――ごぇ」

 

それは血を吐くような――否、実際に血を吐く負荷の到来だ。

一瞬、塔内に感じる淡い光の一個が肥大化したのを感じ、直後にはそれがスバルへと襲いかかっていた。

 

「スバル!」

「――ッ」

 

血の混じった咳をして、体勢に崩れかけるスバルを懐のベアトリスが支える。

生憎と、今のスバルとベアトリスを乗せているのは乗り慣れたパトラッシュではなく、生き物を乗せることを想定しない魔獣、餓馬王だ。

 

『風除けの加護』のない乗馬の経験は少なく、尻を乗せる鞍や踏ん張るための鐙もないのだから、気を抜けば一瞬で振り落とされかねない。

ここまでそうならずに済んでいるのは、魔獣の上半身に巻き付けたギルティウィップを手綱代わりに、ベアトリスが緻密な魔法で体重を制御してくれているから。

その不断の努力を、スバルが台無しにはできない。

 

「ラムの反動がきたかしら」

 

「お察しの通り、だ……悪い、何とか堪える……っ」

 

ぐっと鞭を握り直して、スバルは物分かりのいいベアトリスにそう応じる。

込み上げてくる嘔吐感は鉄錆の味と臭いがして、いったい体のどこにかかった負荷がもたらしたモノなのか皆目見当がつかない。

内臓が悲鳴を上げたとか、体内の何かが破れたとか、そういう類のダメージか。

いずれにせよ、これはラムが本気になった証だ。

 

「ラムが、『暴食』の片割れを片付けてくれたら……」

 

それで状況が一気に楽になるとは言わない。

まず、『暴食』の撃破が奪われた『名前』や『記憶』の返還を意味するのか、その確信も持てていないのだ。ただ、確実にスバルの負担が軽減されるだけ。

 

――そうすれば、スバルは引き取る負担をメィリィ一人に集中できる。

 

「はぁ、はぁ……っ」

 

餓馬王の上半身にしがみついて、メィリィは懸命に魔獣たちへ指示を飛ばしている。

スバルを狙い、猛然と鋏を、尾針を振り回す大サソリを相手に立ち回るには、そのメィリィの懸命な戦いが欠かせない。

足りない戦力を物量で補い、スバルたちは存在しない猶予を無理くり作り出す。

そのために、蝶よ花よとメィリィを愛でるのが肝要だと、そうスバルが叫んだのは遊びでも冗談でもなく、本気の発言だった。

 

今、五つの障害に狙われるプレアデス監視塔において、各々の障害を突破するためにエミリアやラム、ユリウスらの力がなくてはならないが、それらの戦場を維持するための要となっているのが誰か、それはメィリィ・ポートルートに他ならない。

故に、スバルはすでにしばらく前から、メィリィへと降りかかる加護のフィードバックを自分へと引き取っていた。

 

「羽土竜ちゃあん!花魁熊ちゃん!合わせて!」

 

高い声で、戦場を俯瞰しながらメィリィが魔獣を死地へ追いやる。

手を叩いたり、指を鳴らしたり、あるいは声に出して何をすべきか命じ、そのやり方は魔獣によって様々だが、いずれを従えるにも加護の力は全開だ。

それが相当な負担をもたらすことは、スバルも自分の脳が疼き、腫れぼったくなっているような感覚から大いに実感する。

 

「――――」

 

オットーの『言霊の加護』や、メィリィの『魔操の加護』がもたらす恩恵は、魔法的なものというよりは人間の持っている能力を拡大したような雰囲気が強い。

言うなれば、魔法ではなく、超能力方面の力のように思われた。

 

そうなると、他の加護と比べてフィードバックが大きいのも頷ける。

加護の対象が周囲や他者ではなく、あくまで自分に働くという意味で。

 

「加護も権能も、わけのわからないシステムの一部だからな……」

 

大罪司教や『魔女』、何の因果かスバルも用いることとなっている権能。

あるいは、この世界に生まれ落ちたものに確率で授けられることになる加護。

力は何事も使い道と、それがある種の真理であるとはスバルも認めてはいるが――、

 

「そんなものがあるから……」

 

悲劇が生まれるのではないか、と考えることもやめられない。

大罪司教や『魔女』たちが恐れられ、その傍若無人な力を振るえる背景には、間違いなく他者を寄せ付けない権能の力が大いに関与している。

加護だって、そんなものがなければ運命を歪められずに済んだ人は大勢いる。

 

たとえば、他ならぬメィリィだって、加護の負の側面の犠牲者だ。

生まれながらに魔獣を通じる力を持つが故に、彼女は実の両親から捨てられた。――それが事実かはわからない。だが、納得のいく説だ。自明の理だ。

少なくとも、メィリィの中ではそれが真実だった。

だからこそ――、

 

「俺ってやつは、ホントにダブルスタンダードだよな……」

 

権能や加護になんて頼りたくないと思う一方で、必要ならば使い倒すのを躊躇えない。弱い人間が選択肢を限られるのは事実だが、それで心まで卑しくなりたくはない。

道ならぬ道を強いている、そのことを忘れて、笑えるようになりたくはない。

 

「お兄さん!集中してるう!?お兄さんとベアトリスちゃんがやられちゃったら、それで全部おしまいなんだからねえ!?」

 

「わかってる。――なぁ、メィリィ。全部終わったら、うちの子にならないか?」

 

「――っ!言ってる傍から、集中っ!!」

 

頭の重みを堪えながら、そう尋ねたスバルにメィリィが怒鳴り返した。

お互い、余裕はない。集中が乱れたら、一瞬で持っていかれかねない。

だがしかし――、

 

「こんだけ苦しい思いをしてんだから、いい明日が待ってるって思ってないと割に合わねぇよ」

 

そう、血を吐きながらナツキ・スバルは思うのだ。

 

△▼△▼△▼△

 

砂上の戦いを続けながら、メィリィは口の中だけで「どうかしてるわあ」と呟いた。

 

もちろん、どうかしているの候補はたくさんいる。

眼前で大サソリへ変じたシャウラもそうだし、溌溂と元気な銀髪のハーフエルフもそうだし、監視塔の中で様々な敵と戦っているラムやユリウスたちもそうだし、一緒に戦っているスバルとベアトリスなど、特にそうだ。

しかし、きっと一番どうかしているのは――、

 

「わたし、なんでしょうねえ」

 

どうしてこうなったのか、メィリィ自身も自分で自分がわからない。

そもそも、スバルたちのアウグリア砂丘の旅路へついてきた時点で、メィリィの自分らしくない行動は始まっていたのだと思う。

流されるままに、求められるままに、それが正しいか誤っているかなんて気にせず、命じられたことを従順にこなしてきた。

それがメィリィの処世術であったから、ここでも同じことをするつもりだった。

それなのに――、

 

「――『死者の書』なんて、そんなものがあるからよお」

 

死者の想いを追体験できると聞いて、メィリィは己の中の好奇心に負けた。

ずっと燻っていた、エルザ・グランヒルテへの想いを開封するしかなくなり、結果、メィリィの生涯で最もメィリィらしくない愚行を重ねる始末だ。

挙句、それを見咎められ、スバルには偉そうに説教までされてしまった。

そんな彼の訴えを、鼻で笑う気には不思議となれなかったけれど。

 

なんだか、なし崩しにその後の協力まで約束させられて。

スバルには、ずっと背中を見せてやるとまで言われたけれど、どのぐらい責任を取るつもりがあるのか、軽はずみなことを言って後悔する類の人種なのだと思う。

流されやすい、という意味ではメィリィも思い当たる節はあった。

 

ただ、メィリィとスバルとで違っているのは、それが口先だけでないことだ。

スバルはやると言ったらやろうとするだろうし、その約束の現場に居合わせた――ベアトリスだったか。ベアトリスも、それを守らせようとするだろう。

そうなると、一方的に甘えているのも気が咎めて、何かを手伝ってやろうという気にもなったが、ここまでの話とは聞いていない。

 

「――――」

 

今も、メィリィの手振りに反応して飛びかかる羽土竜の群れが、大サソリの尾針に薙ぎ払われて一瞬で飛び散る。

本来、臆病な羽土竜が自分より強大な敵へ襲いかかることなどありえないが、その本能を飛び越えさせる命令を下せるメィリィでも、魔獣を強くしてやることはできない。

 

「ああん!やられちゃったあ!」

 

巨大な鋏を振り回し、荒れ狂う大サソリの暴力が次々と魔獣を殺していく。

切り裂かれ、押し潰され、穿たれる魔獣の流す血が渇いた砂に染み込んで、黄色く見えていた砂海が赤黒いモノへと姿を変えつつあった。

 

「――っ」

 

その事実に歯噛みしながら、メィリィは素早く周囲に目を配り、空や砂上、あるいは砂の下に至るまでの魔獣の気配を探り、手懐けられるモノから手懐ける。

質には拘れない。今はとにかく物量が、尽きぬ手駒が必要なときだった。

 

「もお、もおもおもお!これ、絶対あとでお兄さんにわがまま聞いてもらうんだからあ!」

 

額に浮いた汗を拭う余裕もなく、メィリィはつかず離れずの距離で大サソリを牽制し合っているスバルへの憎まれ口を叩く。

餓馬王の背中、快適な乗馬でないのはメィリィも同じ条件。ただし、メィリィの場合は体に巻いたマント越しに魔獣の背にナイフを突き立て、無理やり体を固定している。

支配下にある魔獣だ。このぐらいの暴挙、何ともなしに受け入れる。

問題なのは魔獣よりも、この状況に置かれたメィリィの方がよほどだった。

 

そもそも、こんな土壇場の戦い、メィリィ本来のやり方ではないのだ。

メィリィの戦い方は事前準備が命――周囲の魔獣たちをメィリィの支配下に置くための仕込みを行い、それらを戦場に配置、その総攻撃を高みの見物する。

それこそが『魔獣使い』メィリィ・ポートルートの本領なのだ。

 

もちろん、直接戦場で指揮した方が魔獣の攻防の精度は上がるが、それもメィリィ自身を危うくしてまでやることではない。その取捨選択を誤ったから、メィリィはスバルたちとの戦いに敗れ、囚われの身となったのだ。

 

「エルザが……」

 

彼女が死んだのは、そうした失策の積み重ねが原因でもある。

無論、エルザはメィリィが自責することなど全く望まないだろうし、何なら自分が死んだことさえ何とも思っていない可能性があった。だから、やきもきしてしまう。

 

エルザの気持ちがわからないのと同じように、自分の気持ちもよくわからない。

大体、こうして大サソリを相手に遅滞戦闘を演じ、魔獣の命と引き換えに時間稼ぎに徹しているが、こんなやり方をメィリィはしたことがないのだ。

 

メィリィ・ポートルートは、幼くとも殺し屋だった。

誰かの命令で、指示で、依頼で、誰かの命を奪うことを生業としていた。

だから、これが初めてなのだ。

 

――誰かの命を救うために、守るために、戦わなくてはならないのが。

 

「こんなの、わたしのやり方じゃないんだからねえ!」

 

先ほどの、スバルのうわ言のような一言が無性に腹立たしかった。

うちの子にならないか、などとメィリィによくも言えたものだ。

まるで、自分が憎まれることに心当たりがないかのような態度、実に忌々しい。

直接の仇はガーフィールだとしても、あの状況を組み立てたのはスバルだ。このプレアデス監視塔でも、やはり状況を己の自由に組み立てているように。

 

「――――」

 

そう、スバルの言動を否定的に考えているのに、気付けばメィリィ自身も彼の指示に従い、他の面々と同じように盤面を作る駒として動かされている。

それがスバルの深謀遠慮によって形作られた状況なら、その方がまだ納得がいく。

だが、どう見てもスバルにそこまでの器はない。スバルにあるのは必死さと、押し付けがましい期待、そして自分の命ごと預けるような狂気的な信頼だけ――、

 

「なんだか、わたしまでお馬鹿さんになった気分だわあ」

 

言いながら、メィリィは地下から捕まえた魔獣を引き上げ、大サソリを狙わせる。

 

「――――」

 

赤く染まる砂海をぶち割り、地下から飛び出すのは巨躯を震わせる砂蚯蚓だ。十メートル以上もある巨体をうねらせ、豪快に大サソリへと倒れ込む。

押し潰され、砂に埋もれれば大金星――だが、そううまくはいかない。

 

白光が迸り、太い砂蚯蚓の胴体が一瞬で消し飛んだ。

上下で真っ二つにされた砂蚯蚓が奇声と体液をぶちまけながら落ちてくるのを、続けざまに放たれる尾針の攻撃がさらに細かく打ち砕く。

しかし、それは砂蚯蚓の命を使った血肉の目くらましだ。

 

――本命は、砂蚯蚓が飛び出した地下から現れる三体の餓馬王だ。

 

「――――ッッ」

 

赤ん坊が泣き喚くような咆哮を上げ、燃える半人半馬が大サソリへ特攻する。

様々な魔獣が確認されるアウグリア砂丘だが、やはり、単体の火力として最も優れているのはこの餓馬王に他ならない。

数は多いが決定打にならない羽土竜や、持久力不足の花魁熊、そして巨躯で一切合切を押し潰さんとする砂蚯蚓を隠れ蓑に、メィリィは本命を温存していた。

 

この戦いの気配に引っ張られ、集まってきていた三体の餓馬王。

戦闘力では大サソリに劣るが、相手が最も警戒しているのがこの魔獣だ。それはとりもなおさず、魔獣の火力を脅威に感じている証拠。

 

「わたし、やっぱり調子いいみたい」

 

メィリィ自らが跨る一体、スバルとベアトリスを乗せた一体、そしてこの攻撃のために用意した三体の餓馬王、これらを同時に動かす負担は相当重いはずだった。

その反動が、不思議と今のメィリィには感じられない。

戦いの高揚感がそうさせている可能性もあったが、それならそれに甘えるところだ。

 

仕留めようとは思わない。

ただ、少しでも痛手を与えておけば、スバルの目的も達成しやすくなる。

 

「――――」

 

――それはある意味、流されて生きてきたメィリィという少女が、自らの意思で何かをしようと望んだ三度目の出来事だったのかもしれない。

 

一度目は、『死者の書』に救いを求めて夜の監視塔を出歩いたこと。

二度目は、追い詰められた境地で、螺旋階段へ立ったスバルの背へ迫ったこと。

そして、三度目が時間稼ぎの目的を果たすべく、望まれる以上の成果を求めたこと。

 

「――メィリィ!!」

 

三体の餓馬王が大サソリへ迫った刹那、血を吐く絶叫がメィリィを呼んだ。

それは文字通り、口の端から血を流したスバルの叫び声だった。

 

それが快哉でも、喜悦でも、驚嘆でもなかったことをメィリィは訝しむ。

こうもちゃんとやっているのに、何をそんなに怒ることがあるのかと。

だが――、

 

「――え?」

 

三体の餓馬王が炎の槍を構え、猛然と大サソリへと飛びかかる。

鋏と尾針をどれだけうまく扱っても、それでは防ぎ切れない目算――それが、大サソリの体に起こった変化を見て、崩れる。

 

それは、まるで炎に焼かれたか、あるいは砂と同じように血を吸ったようだった。

黒々とした鋼のように鈍く輝いていた外殻が、目が覚めるかのように変色する。一拍、次の瞬間には漆黒の甲殻の色が、血のような赤へと変じていた。

 

――ある種の魔獣には、『攻撃色』と呼ばれる変化を起こすものがいる。

 

それまでと明確に行動の種類が変わり、より獰猛で攻撃的になる変化だ。

それが起こったわかりやすい変化として、外見が変わることが多い。餓馬王の炎が膨れ上がったり、白鯨の全身に無数の目が生じるなども該当する。

そしてそれは大サソリ――否、『紅蠍』にも該当することだった。

 

より攻撃的に、より破壊的に、より殲滅的に――、

 

「――ぁ」

 

白い光が全方位へ向けて放たれ、飛びかかった三体の餓馬王が消し飛ぶ。

それと同時、乱れ飛んだ白光の余波は砂海を、まるで薙ぎ払うかのように荒れ狂った。

そして――、

 

「――――」

 

炸裂する光の奔流に呑まれ、メィリィの小さな体が血飛沫と共に宙を舞った。

 

△▼△▼△▼△

 

――血の沸く感覚と溢れ出す昂揚感、それが幼い頃から嫌いだった。

 

まるで、この世のあらゆるモノを統べることができるように思える全能感。

もしもあの錯覚に酔い続ける時間が続いたとしたら、いかに自分が強固な精神性に恵まれていたとしても、時間が道を誤らせたに違いない。

 

優れている自覚はある。だが、それを過信してはいない。

間違いもする。間違わないようにする意思と、間違いを正す姿勢があるだけで。

 

そうした姿勢を抱くことができたのも、全能感に酔い痴れなかったおかげだ。

周囲の持て囃すままに自分を素晴らしいものだなどと勘違いせず、古臭い因習と時代遅れの神秘性を尊ぶモノたちに言いなりにならなくて済んだおかげ。

そして、自分がそうした外因に潰されずに済んだのは、何のおかげだったのか。

 

それがきっと、思い出せない欠けた何かのおかげなのだと、わかっていた。

何故なら――、

 

「――ラムは可愛いだけでなく、聡明だもの」

 

自画自賛の言葉を置き去りに、ラムの踏み込みが螺旋階段の段差を砕いた。

瞬間、風を纏った桃髪の鬼が腕を振るい、受け止めんとした相手の腕を真っ向から打ち砕く。手首、肘、そのまま肩まで一瞬でねじり、へし折った。

 

「――がッ」

 

苦鳴を間に合わせない。

絶叫を上げかける横っ面に拳を叩き込み、ラムの白い指は散弾と化した。

無数の打撃を全身に撃ち込まれ、バテンカイトスが血反吐を吐いて吹き飛ぶ。それを追いかけ、ラムは足裏に発生させた風に乗り、高々と跳躍する。

 

「ひひッ」

 

そのラムを迎え撃つように、宙へ打ち上がるバテンカイトスが両足を振り回した。

直後、発生する空間の歪みがラムの肩に触れ、その服と肌を浅く切り裂く。――空中に見えない刃の置き土産、風の魔法が生み出す小癪な罠だ。

 

「この程度――」

 

「風で吹き飛ばすって?ダメダメ、無駄無駄!それは空間に固定しちゃってるもんだからさァ!いっくら姉様でも蹴散らせないよ、残念でしたァ!」

 

こちらの思惑を先取りして、血染めの笑みを浮かべたバテンカイトスが宙を蹴る。

それは実際に宙を蹴っているわけではなく、ラムの肩を切り裂いた刃を足場にした小細工ありの空中歩行――自分にしか位置のわからないそれを足場にし、塔を大きく使った螺旋階段を自由自在に飛び回る。

だが、しかし――、

 

「――『千里眼』」

 

たとえ、知覚としてそれを捉えられなかったとしても、設置した人間の視界へと重なることができれば、ささやかな意識の変化で在処はわかる。

罠を足場に上空へ上空へ逃れようとする『暴食』を、ラムは相手の視界に重なることで罠を見抜き、やはり同じように足場にしてそこへ追い縋る。

 

「ハッ!あはははははは!姉様、それ本気?マジなの!?」

 

「バルスめいた口の利き方ね。――引っ叩く躊躇いが消えて助かるわ」

 

驚愕するバテンカイトス、その上昇よりも早く宙へ躍り出て、ラムは眼下にそのいけ好かない顔を見る。

そして、鋭い牙の並ぶ口を開けた顔面へ、容赦なくその靴裏を叩き込んだ。

 

「ぶ」

 

「さあ、下に落ちるまでの間、何回ラムの靴裏を味わうのかしらね」

 

鼻面を潰され、バテンカイトスの矮躯が空中で反転する。

上昇の勢いを殺された『暴食』は、そのままラムの蹴りの威力で今度は真下へと打ち落とされた。

それを追い、ラムは両手を天に掲げ、掌から風を生じさせて急降下、落ちるバテンカイトスの顔面へ、二度目の蹴りを――否、三度、四度目の蹴りをぶち込み続ける。

 

容赦なく、一発ごとに鼻を、前歯を、顎を、額をラムの踵が蹴り砕く。

そのにやけ面と、何度もラムのことを「姉様」と呼びかけてくる口が不愉快だった。

それを両方台無しにしてやり、なおも降下は続く。

ちなみに――、

 

「自分の仕掛けた罠に当たっても、それはラムのせいじゃないわ。自業自得よ」

 

「ぎっ!ぎゃ!ひぎいぃぃッ!」

 

蹴り落とされる途上、中空へ仕掛けた見えざる刃がバテンカイトスの体を裂く。

血が噴いて、中には肉が抉れるような深手もあるが、ラムはそれを一顧だにしない。

 

ラムは、わざわざあえて相手を苦しめて痛めつける趣味はない。

しかし、それも相手に同情すべき点がある場合の話で、その相手が憎い仇であるなら、豚のような悲鳴を上げさせるのに躊躇いはなかった。

 

「どう?後悔している?」

 

空中で器用に身を制動し、ラムは相手の顔と胸に足を乗せたままそう尋ねる。

血でグズグズに汚れた顔のまま、バテンカイトスは問いかけには答えず、代わりにその両腕の短剣を振りかざそうとした。

 

瞬間、ラムの両手の手刀が素早く相手の両肩を打ち、肩の関節を強引に外す。

 

「――ぁお」

 

「どう?後悔している?」

 

どれだけ優れた技を持とうと、外れた肩では腕は振るえない。

目を見開き、驚愕する顔を見下ろしながら、ラムは改めて同じ問いを重ねた。

 

「――――」

 

ラムを見るバテンカイトスの瞳に、恐怖が生まれるのを探そうとする。

刻み込むのが目的だ。恐怖を、痛みを、逆らってはいけないという敗北感を。それは復讐のために――なんて、些事が理由ではない。

 

「レムを――」

 

取り戻すためだ。

レム以外の、これまで『暴食』の被害に遭った大勢の犠牲者たち。『名前』や『記憶』を奪われて、触れ合ってきた歴史を簒奪されたモノたちを取り戻すためだ。

 

殺せばいいなら、こうしている間にもラムにはそれができる。

顔面を蹴り砕くのと同じ労力で、足裏に風の刃を纏って首を刎ねればいい。生き汚いことで有名な魔女教徒であろうと、首と胴が離れれば死ぬのは実証済みだ。

 

燃え上がる鬼族の里で、里を滅ぼしたモノたちへの応報の過程で。

所詮、魔女教徒など性根がおぞましいだけの、弱く愚かなモノの群れと知っている。

故に、その命よりも先に、その心を殺すために問いかけるのだ。

 

「どう?後悔している?」

 

「――ッ、『日食』ッ!」

 

三度目の問いかけを聞いて、血の色の中にも微かな怯えが混ざった。

だが、それはラムの眼前で、文字通り瞬く間に消える。

 

高速で動いた、などという次元の消失ではなかった。

靴裏から踏みしめた相手の顔面の、体の感触が消える。だが、バテンカイトスがどこへ消えたのか、それはすぐに当たりがついた。

 

「――『千里眼』」

 

相手の視界を押さえている限り、誰もラムから逃げられない。

 

「――――」

 

見える視界を辿り、相手のいる螺旋階段の位置を特定する。風を纏ってそちらへ追いつけば、僧衣のようなものを纏った禿頭の老人の姿があった。

その外見の変化に、あるいはラム以外なら戸惑わされたかもしれない。

しかし、ラムは視界の共有により、相手の姿形がどうであろうと、それがバテンカイトスであることは確信している。

 

「化けるのは『色欲』の手口と聞いていたけど、他にどんな小技があるの?」

 

「あ、あぁぁぁ、クソッ!使うつもりなどなかったと言うに……いや、なかったはずだったのに……ッ」

 

「――?何を言ってるの?」

 

螺旋階段へ追いつけば、そこで跪く老人――バテンカイトスが苦しげに呻く。

演技に見えないその態度に眉を寄せ、しかし、ラムは疑問の解消を即座に投げる。

重要なのは相手にまだ息があって、その心がへし折れていないことだ。

それに――、

 

「――長くはかけられない」

 

口の中だけの呟きだが、すでにラムが大きな枷を外して一分以上――微かな負担はラムにもあるが、その大部分はスバルの方へいっている状況だ。

スバルには微調整しろと伝えてあったが、思った通り、ラムの負担を丸ごと引き取ることを勝手にやっている。どこまでも、格好つける。

そんなのは、想い人やレムのためにだけやっていればいいのだ。

 

「――。状況はわからないけど、こっちの要求を呑む気にはなった?これまで、あなたが『暴食』として喰らった全てを戻しなさい。そうすれば」

 

「……そうすれば、なんじゃ?儂たちを見逃すとでも?」

 

「いいえ。そうすれば、すぐに殺してやるわ。いい取引でしょう?万死に値するところを、一度で許してあげる」

 

「ふはっ」

 

一人称まで老成したバテンカイトスが、同じく老いた笑声を漏らす。

その挙動を観察しながら、ラムは姿形の変貌――それが、おそらくその人物の能力を十全に使うために必要な工程なのだと推測する。

先ほど、ラムの前から完全の消失したのは短距離の空間跳躍というべき技だった。

それを使えるのが、バテンカイトスの化ける禿頭の老人なのだろう。

 

「だけど、妙ね。そんな切り札があるなら、もっと早く切ってもおかしくないはず。それなのに、どうして伏せていたのかしら」

 

「――――」

 

「……使いたくない理由でもあるの?器に引っ張られるとか」

 

「いやはや……本当に、ここまで恐ろしい女子とは出くわしたことがないぞい。……ないなァ。ホント、姉様って怖いよ」

 

散りばめられた可能性からの推測に、老人の姿がゆっくりと矮躯へ変わる。

それはラムの指摘の肯定であり、同時に変貌が与えた傷を失わせるわけではないことの証左でもあった。バテンカイトスは血塗れで、顔面もひどい有様だ。

 

「肩は?」

 

「壁にぶつけて嵌めたよ。一回じゃうまくいかないもんでさァ……痛い、あァ、痛い」

 

感触を確かめるように、バテンカイトスが嵌め直した両腕を大きく回す。それを見て、ラムは肩を外すのではなく、肩から腕を斬り飛ばすべきだったと反省した。

あるいは四肢の先端を潰せば、馬鹿げた小細工も諸共に潰せたか。

 

「あれもこれも、こっちのやることなすこと全部全部ぜーんぶ、先回り……すごいな、姉様。もしかして、姉様の方こそお兄さんみたいな権能を使ってるんじゃないの?」

 

「心外ね。ラムのこれはただの優れた洞察力よ。バルスの意味のわからない直感と一緒にしないでちょうだい。不愉快だわ。死になさい」

 

「あっはははァ、辛辣ゥ。でもでも、そっかそっか、そうだよねェ」

 

だらりと、牙の折れた口から裂けた舌を垂らし、血染めの笑みを浮かべるバテンカイトス。その不気味な仕草に目を見張り、ラムの肩に力が入る。

妙な動きをすれば――否、

 

「何かする前に喰らいなさい」

 

妙な動きが入る前に、ラムは風の刃で相手の四肢を吹き飛ばすことを選択する。

血の止め方はある。痛みの止め方はないが、死ななければ尋問は続けられる。そう判断して、手加減抜きの風刃を叩き込んだ。

だが――、

 

「――賭けは、あたしたちの勝ちよおん!!」

 

風の刃を浴びながら、丸々と太った髭面の男が後方へ飛んだ。どれだけ分厚い皮膚をしているのか、手足どころか太い胴体だって両断できるはずの風の刃が、その太った男の肌に赤みしか付けられずに弾かれる。

 

「姉様、ちょっと勘違いしてないかしらん。――言っておくけど、相手を観察してるのは何もあなただけじゃないのよん?」

 

その巨漢を逃がすまいと、前進しかけたラムへとそんな声がかかる。

直後、ラムは置き土産の刃に首を浅く斬られ、踏み込みが半歩遅れた。その、半歩の隙間へと、バテンカイトスがねじ込んでくる。

 

「儂たちのアプローチからの、俺っちたちの一発よぉ!!」

 

瞬きの速度で老人の姿が掻き消え、背後に出現した気配の威圧感が増した。振り向く暇も与えられず、ラムの脇腹へと強烈な拳が打ち込まれ、細身が吹き飛ぶ。

「かっ」と飛ばされながら見れば、ラムを殴り飛ばしたのは屈強な体格をした荒々しい雰囲気の男――三人の姿を瞬時に切り替え、その特性を完全に応用した連係――、

 

「だとしても、一度見せた技が通用すると――」

 

「思わない。思わないよ。思わないさ。思わないとも。思わないから。思わないからこそ。思わないって言えるから!」

 

吠えるバテンカイトスの姿が再び老人へ変わり、その手で自らの片目を塞ぐ。

その動きに怖気を覚え、ラムは長い足を伸ばし、とっさに壁を蹴りつけ、素早く相手へ飛びかかるための位置取りをしようと試みた。

しかし、間に合わない。

 

「儂たちは知っておる。――レムの姉様は、小細工なしにそんな風に動き続けられません」

 

「――――」

 

ラムの動きではなく、レムの知識がその答えを引き寄せた。

『ツノナシ』の限界値を超えたラムの動きを見て、バテンカイトスはその推測を確定、そして階段の段差へラムが戻ったときには、その悪意を完遂する。

すなわち――、

 

「――姉様、別に僕たちは姉様と力比べがしたいわけじゃないからさァ」

 

そう、老獪な笑みが空間に溶けるように消える。

短距離の空間歪曲による瞬間移動――それを連続すれば、戦場からの離脱は容易い。真っ当に、死ぬまで足を止めてやり合えるとは思っていなかったが。

 

「逃げを打つ決断が早い。いいえ、それより――」

 

ラムの『千里眼』を知っているなら、ただ逃げられるとは思わないはずだ。

それを知りながら距離を取ったのは、ラムにかけられた時間制限に思い至ったから。そして悔しいが、ラムは少なからず時間を奪われてしまった。

 

スバルにかける負担は一秒ごとに増す。

一刻も早く、塔内へ逃げ込んだバテンカイトスの居所を。

 

そう考えたところで、はたと気付いた。

あの、悪意の塊である大罪司教が、ただ逃げるために塔内へ入り込みはしないと。

相対するラムを最大限にいたぶる方法が何なのか、奴は熟知している。

それは――、

 

「――レム」

 

ようやく、再び捉えた邪悪の視界がラムの視界と共有される。

そこには『眠り姫』を乗せて走る、黒い地竜の尾が映り込んでいた。