『自称騎士と最優の騎士』


 

突き出した右手の中指を立てて、宣戦布告を拳と共に叩きつけたスバル。

殴られて転倒したペテルギウスは呆然とした表情で、切れた口の端から伝う血を拭うこともできないまま、わなわなと唇を震わせ、

 

「いったい、なにを……アナタは、なにをしているのかわかっているのデスか!?ワタシは大罪司教、魔女の恩寵に与る大罪司教なのデス!そのワタシを、同じく寵愛を受けるアナタが殴りつけるなど……!」

 

「言語道断ってか?悪いがそのあたりの話は聞き飽きたよ。お前と信じるものに関しての話し合いをするつもりはもうない。魔女なんざ、クソ喰らえだよ、ペテルギウス」

 

凝然と顔を強張らせる狂人に言い捨てて、スバルは挑発するように軽く手招き。その動作に激情を思い出したのか、ペテルギウスは地を叩くようにして立ち上がると、血走る瞳を飛び出しそうなほどに見開き、

 

「よいデス!わかったのデス!アナタが、アナタが魔女の寵愛を、恩寵を、忘れたというのであれば、知らぬ存ぜぬと言い切るのであれば、ワタシはワタシに与えられた愛をもって、その不敬を償わせるだけデス!わからないわからないわからないわからないらないらないらないらないらないないないないないないないいいいいいいい!!何故!何故に!愛を拒絶するのか!その真意がわからない!」

 

「――世界が狂ってるのか、自分が狂ってるのか。理不尽な状況に追い込まれて、思う通りになにもかもがいかないとき、思考の袋小路に陥るとそんな風に考えがちだが……」

 

ペテルギウスの唾まじりの妄言を聞き流しながら、スバルは自身の身に降りかかった災いと、その渦中にあったときの心の錯綜を思い出す。

自分が正しいのだと言い聞かせ、周りが間違っているのだと声高に押しつけ、そうして子どものように癇癪を起こして喚き散らすばかりだったあの時間を。

それが今、目の前にいる狂人の振舞いとどれだけ違うというのか。

 

「まぁ、答えの出難い問題なんだと常々思うけど、これだけは言える」

 

「――――」

 

「狂ってるのはお前だ。俺が正しい。――ここで終われよ、ペテルギウス!」

 

スバルの物言いにペテルギウスの瞳が暗い喜びに打ち震える。

それは彼の信仰を無碍に扱う愚か者に罰を与える、己の勤勉さに酔うが故の薄暗い歓喜の念だ。同時、ペテルギウスの影が爆発し、足下から無数の魔手がスバル目掛けて伸び上がる。四肢をもぎ取り、首をねじり切り、血を浴びるために。

だが、

 

「何故――!?」

 

「鬼さんこちら、手の鳴る方へ――ってほど、余裕じゃねぇけどな!」

 

身をよじり、大きく左右に跳躍しながら、迫る掌を紙一重でかわす。迫る腕の数は七本止まり、それはスバルを舐めているからではなく、いまだ自分の手元に『腕』が何本戻っているのか把握していないがためだろう。

いずれにせよ、数は対処できる数で、速度は遅く、不意打ちですらないのであれば、初撃を避けるのはそれほど難しいことではない。

 

もちろん、これまで通りの展開をなぞるのであれば、これほど接近しての危険を冒す必要はなかった。離れた位置からペテルギウスの狂乱を誘い、見えざる手の乱発を悠々とかわせばいいだけの話だ。

だが、今回に限ってスバルはそれを選ばなかった。危険とわかっていても、ペテルギウスの至近で見えざる手と相対することを選ぶ。触れるだけで骨まで持っていかれる見えざる手を掠めながら、勝利をもぎ取るそのために。

 

「あり得ない、あってはならない……何故!アナタにワタシの!与えられし寵愛が!怠惰なる権能、見えざる手が見えているのデスか!?」

 

「俺の体にふんだんに臭いつけてってるらしい魔女に聞いてくれよ。おっと、俺と違ってお前は自由に魔女と面会できる許可証は持ってねぇんだったか?」

 

「それはどういう意味デスか……!アナタは、まるで魔女に!サテラと言葉を交わしたことがあるかのように……!」

 

「ハートをギュッと掴まれた仲だよ。文字通り」

 

憤激に顔を真っ赤にし、ペテルギウスが堪え難い激情を噛みしめるために指先を噛み潰す。爪と骨と肉が潰れる音と、歯が根元からへし折れそうな鈍い音が鳴る。

同時、その感情に呼応するように噴き出す影の量が増え始め、回避の難易度が跳ね上がる現実にスバルの額に汗が浮かぶ。だが、それはペテルギウスにとってもひとつの事実を知らしめるものであり、

 

「『見えざる手』が戻っている!?何故デスか!?指先は……ワタシの指先はどうしたというのデスか!!」

 

自身の手数が増えたというのに、ペテルギウスはそれが受け入れ難い事実を突きつけられたように動揺している。それはそうだろう。ペテルギウスの見えざる手がその数を増やすということは――、

 

「想定通り、各所の部下――指先を支配するかなにかに使ってた『見えざる手』が、対象を失ったことで本体に戻ってきてるってことだ」

 

ペテルギウスを打倒し、別の肉体に憑依したとき、彼の狂人が使えるようになる『見えざる手』の数は増加の傾向にあったのをスバルは確認している。

そしてその数は指先――奴の部下の潜伏先を奇襲で潰した後であればあるほど、増える傾向にあった事実も。

そのことからスバルは先に推論を立て、憑依先を潰しておかなければ乗り移りで蘇生。憑依先を潰せば見えざる手が増えて戦力増強、という面倒くささ目白押しのペテルギウスに辟易としたものを覚えていたものだ。

 

そしてどうやら、その推論はやはり正しかったらしく、指先の消失に伴って使える腕の数が増えたことに狂人は動揺。スバルは己の推論の正しさに拳を握り固めるが、

 

「肝心の生き残りの方がずっと厳しくなるわけで――!」

 

いまだ混乱の解けていないペテルギウスは、これまでスバルが見た中での最大数である百本超えの魔手は伸ばしてこない。ただし、それでも迫りくる漆黒の掌の数は二十を超えており、すでにスバルのキャパシティを大きく飛び越えている。

 

屈み、滑り込み、ロンダートを決めてひねりを入れながら大きく跳ぶ。足下が悪くて尻もちをつき、それが頭上を掠める神回避を助けるファインプレー。

尾てい骨に割れそうな痛みを感じ、半泣きになりながら立ち上がるスバルはペテルギウスから距離を取る。

現状、見えざる手からの負傷なし。転んですり剥いた膝小僧と、尾てい骨の痛みが尋常でない。ヒビとか入っているかもしれない。

 

「おらおら、届かねぇとは情けねぇ!無能さらけ出して同情買おうとか、寵愛だのなんだのもらってる身で恥ずかしいとか思わないんですか?あぁなぁたぁ、怠惰ですくわぁ!?」

 

「――いくつか、気になる点がありマス」

 

茶々を入れながら岩肌の上でタップを刻むスバル。そのスバルの挑発的な煽り発言に、しかしペテルギウスは先ほどまでの激昂を消して静かに呟く。

指を立てて、血みどろになっているそれを見せつけるように振りながら、

 

「指先を失ったことは仕方のないことデス。ワタシの勤勉さが足りなかった、考えが及ばなかった、怠惰であった!それは認めるのデス、認めざるを得ないのデス。デス、デス、デス、デスが!考えてもわからないことが多すぎるのデス!見えざる手が見えていることも、指先の位置を割り出した手腕も、そうしてワタシの前に身を差し出したのが直接戦闘力のないアナタであることも!」

 

「――――」

 

「故に、ワタシはこう考えるのデス。考えても仕方のないことは考えても仕方がないのデス。故に、怠惰でないワタシは考える必要が、理由が、結果が得られるものについて悩むこととしマス。――何故、アナタはワタシの前に姿を現したのか、挑発的な行動と言動でワタシの目を引くのか。それは」

 

――マズイ、とスバルは直感的にペテルギウスの思惑を読みとって唇を噛む。

 

煽りまくって、挑発的な言葉を投げ続ければ、ペテルギウスに目先のことだけを意識させてこちらの意図を読まれずに済むと考えていたが、甘かった。

あまりにスバルの側に都合の良い事態が続き過ぎ、逆にペテルギウスにとっての苦境が重なり合った結果、奴に事態を冷静に振り返る切っ掛けを与えてしまった。

 

ペテルギウスが現状を正しく認識し、至極まっとうな解決法を導き出してしまえばスバルは終わりだ。そして、スバルの願いもむなしく、ペテルギウスは気付く。

 

「『見えざる手』が見えていて、対処するのに時間がかかるのであれば――我が指先を総動員し、数の暴力で片付けさせていただくとするデス!」

 

「普通に気付かれた――!」

 

単純な話、スバルが単独で引きつけられる戦力はペテルギウス単体までである。それも、見えざる手が膨大な数に及べば届かなくなる不完全な形で。

現在、スバルの背中が痒くなるような演技の時間稼ぎもあって、別働隊として行動していた討伐隊の面々によるペテルギウスの指先は撲滅されている。行商人と隠し札の指先も合わせて、九ヶ所までは確定済みだ。

ただし、最後の一ヶ所にはまだ手をつけておらず、その最後の一ヶ所がどこであるかといえば――すぐそこなのである。

 

スバルが背にする絶壁の真下に、スバルの上背を越える大きさの岩がある。その裏には洞穴へ通じる入口があり、その向こうに最後の指先が残っているのだ。

そこから魔女教徒がわらわらと出てきてしまうと、もはやそれだけでスバルの戦力では詰みである。故に、ペテルギウスの今の閃きはスバルにとって死刑宣告に等しい――。

 

「わ――!」

「は――――!」

 

ただそれも、あとわずか数分早ければの話であった。

 

「なんデス!?」

 

共振波が森の大気を盛大に掻き回し、荒れ狂う破壊の奔流となって岩肌の地面をめくり上がらせ、終端の場として絶壁の中央を舞台に暴れ回る。

大岩の真上の崖部分が丸ごと剥がれ落ち、崩落が洞穴を、大穴を、そしてすぐ間近にいたスバルを一部巻き込んで広がる。

 

「あぶあぶあぶあぶあぶあぶあぶねぇ――ッ!!」

 

当たったら頭蓋をぐしゃりといきそうな岩塊に後頭部を掠められて、命からがらといった様子でスバルが這うようにして砂埃の嵐の中から這い出す。

そんなスバルの醜態を指差し、お腹を押さえて甲高い声で笑うのは、

 

「あはははー!おにーさんてば、虫みたいに逃げてるよー!ほら、ティビー、見てみな見てみなー!」

 

「見てますですし、今のはタイミングが悪かったと思うです。今以外のタイミングだったら、お兄さんは袋叩きだったと思うですけど」

 

あわやスバルを巻き込みかけた破壊を巻き起こし、無邪気に笑う姉をたしなめる弟。獣人の姉弟の参戦にスバルは「間に合ってくれた」という安堵と、「死にかけたマジで」という恨み節の半々を込めながら駆け寄り、

 

「二人とも、よくきてくれやがったな、この野郎」

 

「およよ、おにーさんってば言いまちがえてるよ?ここはありがとー!どいたしましてー!いえーい!」

 

「感謝したいようなしたくないような、という気分が出ていて正しい発言だったとボクは思うですよ。ですけど」

 

ティビーは目を細めて、その猫の瞳孔を鋭くしながらペテルギウスを睨む。彼の視線の先、ペテルギウスは崩落した崖を能面のような無表情でぼんやり見ている。

 

立ち姿、振舞い、見た目、それらから戦力的な脅威はほとんど感じられない。

力比べをすれば、短距離走をすれば、殴り合いをすれば、いずれの分野であってもスバルでも勝てる。ティビーやミミ、戦いを生業にする姉弟ならばなおさらだろう。

だが、そんなわかりやすい脅威とは別のベクトルで、ペテルギウスの恐ろしさはある。それが感じられたのか、ティビーの表情にかすかに怯えじみた感情が走るのをスバルは見逃さなかった。

 

「あれが大罪司教ですですか。……見てるだけで、心が不安定になりそうな嫌な感じがするです」

 

「深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を見ている――と、昔の人は言いました。あんまし真っ直ぐ見ない方がいいぜ。目の端か、鏡に映して間接的に見るのをオススメ。あと近づかない方が吉」

 

「なんでー?」

 

「息がもの凄い生臭くて生理的に無理。なんか目にしみる」

 

雰囲気に呑まれてしまいそうなティビーを軽口でなだめて、スバルはあっけらかんと笑うミミの方を見やる。が、彼女は不思議そうに小首を傾げて可愛い顔をするだけで、どうやら本気でなんの脅威も感じていないらしい。すごい。

 

「ともあれ、お前らが合流してくれたのはなによりだ。増援潰せたし、ぶっちゃけあとちょっとでガメオベラするとこだった」

 

二人の合流が、今の波状攻撃がほんの少し遅れていれば、それだけでスバルの望みが潰えていただろうことを思えば間一髪の参戦といえる。

そのことに命拾いの感謝を告げながら、スバルは二人を横目に森に目をやり、

 

「で、肝心要のあいつはどうだ。まだ、合流できなそうか?」

 

「ユーリさんならもうちょっとでくるはずですです。ボクとお姉ちゃんが先についたのは誤差ですよ」

 

「ユーリってだれ?ユリウスじゃなくて?ユリウスだったらたぶん、もーちょっとでくるよー。においがしてきたから」

 

弟のユリウスへの気遣いを軽く無駄にして、姉は森を指差して小鼻を鳴らす。

見た目完全に猫な彼女の嗅覚をどこまで信用していいのか謎だが、合流が近いというのならそれに越したことはない。

非常に口惜しいことではあるが、ユリウスの協力なくしてペテルギウス攻略は絶対に成し遂げられないのだから。

 

「――やはり、おかしいデス」

 

ぐるり、とそれまで無言で思考に沈んでいたペテルギウスが首を巡らせる。ぎょろつく瞳がこちらを、スバルを収めて見開かれ、舌を伸ばして涎を滴らせながら、

 

「視覚齟齬の術式で隠していた洞穴の場所を、今のは知っていたとしか思えない攻撃デス。森に潜伏させていた指先の存在も、如何にしてか看破せしめた。そしてワタシの『見えざる手』の存在も、それを見通す目も持っている。先に指先を潰して回ったことを考えれば、どうやらそれ以外のことも知られているようデス」

 

懐から再び福音書を抜き取り、ペテルギウスはページに目を走らせる。繰り返し繰り返し、最後のページに到達しては頭まで戻り、それを繰り返してなお、求めている答えが見つからないとばかりに口元が歪み始め、

 

「福音書には!我が運命の導にはなにも記されていない!ならば、アナタの存在はなんなのか!寵愛を受け、にも関わらず魔女を蔑にし!試練を執り行うワタシの前に立ちはだかり、目論見の全てを塞いでみせる……!」

 

地団太を踏み、ペテルギウスは堪え切れない苛立ちを行いで示す。

ペテルギウスからすれば、スバルの行動は不可解極まりないことだろう。試練と称して行うはずだった襲撃の先手を打たれて村人とエミリアを逃がされ、その上で部下は奇襲によって壊滅し、自身の権能と奥の手までも露見しており、その相手は自分の寄る辺ともいうべき魔女の恩寵すらも与っている。

これがペテルギウスにとって、悪夢でなくてなんであるというのか。

 

己の行動の数々を立ち返り、スバルは自分の偏執的なまでに徹底したペテルギウス潰しの策がはまり過ぎていることにいっそ笑いがこみ上げる。

だが、実際にこれだけのことをして、なおも底が知れない男なのだ。スバルは王都を発端とするループで、すでに五度の死を迎えている。

 

五回、スバルは誰も救えずに世界を終わらせているのだ。

それほどの絶望を、経験を、踏まえてようやくこの領域に至れる。狂人にとっての悪夢など知ったことではない。悪夢なら文字通り死ぬほど、スバルは見続けた。

だから今、目の前にあるこれこそが、ようやく望んだスバルのリアルだ。

 

「やはり、やはりやはりやはりぃ、アナタは『傲慢』の――」

 

「俺の名前はナツキ・スバル」

 

歯軋りしてスバルを『傲慢』と呼ぼうとする声を遮り、スバルは指を突きつける。

そして、口ごもる狂人に対して断言する。

 

「銀髪のハーフエルフ、エミリアの騎士だ。『傲慢』だかなんだか知らないが、俺の欲しがる看板はそれだけで、あとはいらねぇ」

 

その言葉を本物にするために、走り続けてきたのだ。

スバルの言葉にミミが「ほえー」と感嘆し、ティビーが目をつむって小さく顎を引く。そして、真っ向からそれを受けたペテルギウスは、

 

「もう、けっこうデス」

 

と、どことなく投げやりな雰囲気で吐息をこぼし、首を横に振る。振る。振る。振り、振り回し、振り乱し、空を振り仰いで、

 

「愛に対して報いない!その魔女をも恐れぬ怠惰を、後悔するがいいデス!なんたる怠惰!なんたる怠惰!なんたるなんたるなんたるたるるるるるるるぅ……怠惰ぁ!!」

 

両手を広げて大口を開けて叫び、ペテルギウスの影が大きく膨れ上がる。

噴き上がる漆黒の魔手の数は、スバルの経験上で最大に到達――百を軽々と上回るそれが空に伸び上がり、そして影は四方八方へ飛び散ると、

 

「マジかよ……」

 

黒い掌の膂力は木々を易々とへし折り、半ばで断たれた倒木を軽々持ち上げる。絶壁の崩落現場から、スバルの頭ほどの岩塊がいくつも取り上げられた。なおも無手の掌は獲物を求めて森をさまよい、その手に凶悪な物体を携えて戻っては空へ上がる。その数、その重量、その致死率――見ただけで、百回死ねる。

 

「見えざる手が見えているのであれば、純粋な暴力でいかがデスか!百に迫る暴力を、我が権能が示す勤勉な破壊を、全て避けることが叶いマスか?さあ、さあ、さあさあさあさあさあさあぁぁぁぁ!アナタ、『怠惰』デスかぁ!?」

 

制止の声を呼びかける暇もなく、棒立ちの三人目掛けてそれら暴力が投じられる。一斉に降り注ぐ岩や倒木――視界が埋め尽くされるほどの投擲を前に、全員が射すくめられたように身を縮ませ、

 

「わ――!」

「は――――!」

 

獲物が照準に入った瞬間、姉弟の叫びがそれらの破壊を迎え撃つ。

共振波が大気を揺るがし、投じられていたいくつもの障害物が割れ砕け、飛び散り、粉々に爆ぜていく。それでも全てを突破できたわけではないが、

 

「おぁ!?」

 

「ぼーっとしてない!」

「死んじゃうですよ!」

 

左右から同時に後ろへ引っ張られて、浮かされるようにスバルの身が後退。ほんの数瞬後、スバルのいた地点に次々と抗し切れなかった岩塊が激突、衝撃が伝わる。

もうもうと煙が立ち上る向こうで、ペテルギウスの笑声がケタケタと響く。そしてその笑い声を助長するように、煙の上に再び別の腕が別の質量弾を構えているのも。

 

「この場での戦略目的はすでに達成した!指先は壊滅、最後の一ヶ所も見事に生き埋め……!つまり」

 

「つまりです?」

「どーするの?」

 

「――撤退!撤退ぃ!!」

 

スバルの情けない叫び声が上がるのと同時、投擲が再度敢行される。背後に死の気配を感じながら、スバルと姉弟が飛びずさるようにそこから退避。

足場の悪い地面を蹴って、森に飛び込んで遮蔽物を確保。嵐のような風圧を浴びながら、状況悪しと一気に森を駆け抜ける。

 

「ヤバいヤバいマズイマズイ!チクショウ、想定外!あの腕、人体引き千切る以外にもやれんのかよ!ユリウスの野郎はまだか!パトラーーーッシュ!!」

 

草地を踏み、いよいよ混乱の極みで口が滑り出すスバル。スバルと並走しながら、ミミとティビーは背後に警戒を飛ばしてついてくる。

走り慣れている二人と違い、スバルの方は足下を見ながらでなくてはいつ転ぶかわからない危うい足取りだ。どうしていつもこうして、自分は落ち着いて森の中を散策することができないのか。いつも、必死で命懸けで走っている気がする。

 

「うえー!?なにあれー!?」

 

と、全力で恨みごとを漏らすスバルの隣で、ミミが気味悪げな声を上げる。彼女の声につられてちらと後ろを見て、スバルはそれを見たことを本気で後悔した。

 

逃げたスバルたちを当然、ペテルギウスが見逃してくれるはずもない。全力逃走に入った三人を奴も追跡してきているのだが――その移動方法が、あり得ない。

 

膝を抱えて丸くなり、体育座りの姿勢になったペテルギウス。奴は自身の丸めた体を『見えざる手』に掴ませて、無数の魔手を蜘蛛の足のように伸ばして移動しているのだ。黒い掌の威力は健在で、奴が通る先にある障害は根こそぎ抉られて吹き散らされる。ただ真っ直ぐに、森を破り捨てながら禍々しい『怠惰』が追ってくる。

 

「宙に浮いてるですけど、あんな気持ち悪い浮き方初めて見たです!」

 

「ああ、そうか!お前らにはそういう風に見えんのか!」

 

『見えざる手』が見えるスバルと、見えない彼らでは見えている景色が別物なのだ。ミミたちにはペテルギウスが体育座りで飛行している悪夢の光景なのだろうが、スバルには無数の腕に自分を運ばせているという悪夢を越えた悪夢――最悪と、より最悪のどちらが最悪かという程度の話だが。

 

そして、さらに状況は悪化する。

 

「――あぁ!『怠惰』であれ!!」

 

「しま――っ!」

 

背後からの雄叫びの直後、黒い光が一瞬にして世界を焼き尽くす。刹那の瞬間だけ視界を覆ったそれはスバルにはなんの影響もない。だが、並走していた二人には、

 

「ぁぅ?」

「…………るっ!」

 

だらりと力が抜けて、崩れ落ちそうになる姉弟を運よく伸ばした腕が同時にキャッチ。小柄な体を両脇に抱え込み、朦朧としている二人を抱いたまま森を走る。

ペテルギウスの悪質奥義『精神汚染』の発現だ。耐性のあるスバルと他数名の討伐隊員を除き、全員から戦意を奪うペテルギウスの権能のひとつ。

 

ミミとティビーの二人には、この精神汚染があることをきっちり話していた。

彼女らではそれに抗えないだろうということも、汚染を受ければ精神が平衡を失い苦しむことになるのだとも。

だが、その情報を聞いても二人はスバルのところへ助力に現れた。相対すれば戦意を挫かれると知っていてなお、彼女らはスバルを助けにきた。

だから、

 

「足手まといは捨てて逃げたらいかがデスか!『怠惰』の権能の前に沈む、その愚かしい怠け者を!何故にそうまでして必死で守るのデスか!」

 

「ぺちゃくちゃうるせぇよ、バカ野郎!俺はモフリストだぞ!モフリストがモフっ子見捨てて、明日食う飯がうめぇわけねぇだろうが!!」

 

見捨てられるはずがない。

二人を抱えたまま、スバルの足は加速の一途を辿る。背後に迫るペテルギウスはそのスバルの底力に驚いた様子だが、それでも互いの距離は縮まる一方だ。

二人の子供を抱きかかえ、森の悪路を走り慣れない足で懸命に走るスバルと、悪路も障害物もものともせずに突き抜けるペテルギウスでは、元より疾走の段階で前提条件から違う。あと、数十秒も逃れられない。

その絶望的な状況を――、

 

「愛してるぜぇ!パトラッシュ――!!」

 

生じたくぼ地を跳躍で飛び越えて、木々を突き抜けた先にスバルは漆黒の鱗を見た。艶めいたビロードの背中を屈めて、スバルの呼びかけに応じてここまで走ってきてくれていた相棒。その背中に文字通りに飛びつき、姉弟を押さえつけるように体ごとパトラッシュに抱き着くと、

 

「GO!!」

 

「――――ッ!!」

 

嘶き、パトラッシュが姿勢を低くして鋭い一足――即、風に乗る。

森の悪路も、様々なものが転がる障害も、パトラッシュは力強い足取りで全て踏み潰して踏破してくれる。足元は獣道ですらない、ひたすら純粋な緑の領域。

地竜の存在が元の世界の馬と同様のものであるのなら、平地を走るよう訓練されているパトラッシュにとって、森の悪路を走ることなどあってはならない暴挙といえる。ましてやゆっくり歩かせる余裕もない、全力疾走でのことだ。

 

「お前は最高だ――!」

 

先ほどの呼びかけにしても、本気でパトラッシュが助けにきてくれると信じて叫んでいたわけではない。窮地に陥り、焦燥感に押されて口から転がり出た戯言だ。

だが、パトラッシュはそれに応えて、自らの判断で森に入ってスバルを助けた。白鯨との戦いからこっち、何度スバルをこの地竜は助けてくれているのか。

 

「誰も、彼も……もう、全部絶対に……!」

 

ミミもティビーも、パトラッシュすらも、駄目な自分に手を貸し続けてくれた。

故にスバルは応えなくてはならない。与えられたものに、与えられた以上のもので応えなくてはならない。それが信頼という花を咲かせる、たったひとつの答えなのだから。

 

「どこまでもどこまでも……いったい、どれほどの手札を隠していたのデスか!これすらも、このことすらもわかっていたとするならば、アナタはいったい……!」

 

――ここまでは、読んじゃいなかった。

 

内心でペテルギウスにそう応じて、スバルは手綱に手を伸ばすとパトラッシュに指示を出す。拙い指示をパトラッシュは敏感に拾い、かすかに身を傾けるとスバルの望んだ方へ曲がる。少しずつ、少しずつ、背後から追ってくるペテルギウスに気付かれないほど少しずつ、しかし確実に――反転して。

 

くぼ地を飛び越え、木々の隙間を掻い潜り、森を突き破って泥を被り、日差しの遮られた薄暗い緑の迷宮を駆け抜ければ、そこは――。

 

「戻ってきた!」

 

「ここは先ほどの……!?」

 

開けた場所へ再び飛び出せば、そこは先ほどまでペテルギウスと対峙していた絶壁の戦場だ。破壊の痕跡が色濃く残る現場に舞い戻り、スバルは周囲に視線を走らせる。しかし、求めたものが見つかるより前にペテルギウスが奇声を上げ、

 

「なにを企み、目論見、狙っているのかはわからないデスが!それもこれも全て全部なにもかもぉ!ここで潰えて消えてなくなってしまうがよい、デス!!」

 

地面を這いずるのとは別の魔手がまたも倒木や岩塊を持ち上げ、遮蔽物のない場所へ身をさらしたこちらへ向かって質量弾を投じてくる。

その脅威に気付いたパトラッシュが速度を上げて振り切ろうとするが、猛然と迫るそれを避け切るのはもはや不可能――尾を上げ、少しでも主を守ろうとパトラッシュが身を呈そうとする。瞬間、

 

「エルドーナ」

 

土塊の壁が地面から立ち上がり、即席の防壁が投じられた破壊を真っ向から受け止める。防壁は衝撃を受けてヒビ割れると、役目を果たしてすぐさま元の土塊へ。

一瞬、その瞬間的な攻防になにが起きたのかわからず、スバルはパトラッシュの背の上で体を丸めたまま目を白黒させる。と、

 

「待ち合わせ場所にきてみれば姿が見えないのでね。少々、気を揉んだよ」

 

「……お前がくるのおっせぇからだよ。どこで道草食ってやがると、こんだけ予定から遅れやがるんだ」

 

「負傷者を村へ運び込むのに時間がいったんだ。到着して青褪めたものだが……合流できて、なによりだとも」

 

「うちの女神のおかげだよ。……あとで、お前のとこのオスを紹介してくれ」

 

だらりと、スバルはパトラッシュの横腹を撫でながら脱力する。その答えに、パトラッシュが「余計なお世話よ」とでも言いたげに体を揺すったが、今の安堵感の前ではそんな抗議もそよ風に等しい。

ともあれ、

 

「遅れてすまなかった。手筈通り、状況は進んでいるようだね」

 

細身の剣を抜き放ち、岩肌の地を悠然と歩き抜け、パトラッシュの隣に立つ美丈夫。

薄紫の髪を風に揺らし、近衛の制服の裾をたなびかせる姿に、何度苛立たしい思いを抱いたかは思い出せない。そんな忌まわしい記憶から始まる立ち姿が、今この瞬間には、悔しいぐらいに頼もしい。

 

「ルグニカ王国近衛騎士団所属、ユリウス・ユークリウス」

 

名乗り上げ、ユリウスは抜き払った剣を縦に構えてペテルギウスへかざす。

その登場に森の出口で動きを止めていたペテルギウスは目を見張り、続く言葉を待ち構える。静かな息遣い、沈黙、そしてユリウスの周囲に輝く六種類の準精霊。

 

「貴様を斬る、王国の剣だ」

 

「精霊術師、デスか。……どこまでも、本当に、どこまでもぉ」

 

口上よりも、ペテルギウスはユリウスの周囲を飛び交う準精霊の姿に激しく怒りを露わにしている。その姿に、その反応に、スバルはユリウスと交わしていた推論がより正しいという可能性を補強される気がしていた。

 

「ユリウス」

 

「一見して常軌を逸しているのがわかる手合いだ。宙に浮いているように見えるが、あれが君の語った『見えざる手』とやらの力なのだろう?」

 

「ああ、蜘蛛みてぇに腕伸ばして生やして浮いてるんだよ」

 

スバルの答えに「それは恐い」とユリウスは小さく肩をすくめる。それから彼はちらりとスバルが抱きかかえる姉弟の方を見て、

 

「二人は……負傷をしたのかい?様子がおかしいが」

 

「言ったろ、精神汚染だ。食らったら心がへし折られる。……だからくるなっつっておいたのに。超助かったけどな」

 

憎まれ口で感謝の念を表し、スバルはより強く二人の体を引き寄せる。と、腕の中でミミが身じろぎし、小さく口を動かしてなにかを伝えようとしてくる。

そっと耳を寄せ、それを聞き取ろうとすれば、彼女は、

 

「ここで勝ったら、かっこいいぞぉー」

 

目を見張って彼女を見れば、ミミは苦しげな喘ぎの中に確かな笑みを浮かべていた。その表情に、態度に、言葉に、スバルが受けた衝撃は計り知れない。だから、

 

「やるぜ、ユリウス」

 

「いいのだね?」

 

スバルの呼びかけに、ユリウスは覚悟を問いかけるように言葉を発する。

その問いかけに顎を引き、スバルは決して曲がらない決意を瞳に灯し、

 

「引けねぇ、曲げねぇ、負けられねぇ。もう誰も、失いたくねぇ」

 

「私は君を、ひどく打ちのめした男だ。あの行いに私なりの理由と意義があったと今も信じているが、それは君にとって関係のない独善的なものに過ぎない」

 

スバルの答えに、ユリウスは二人の間にあった忘れられるはずもない出来事を語る。あのときの屈辱が、痛みが、胸の内を鋭く抉るように鮮烈に蘇る。

 

「過去を掘り起こし、罪を雪ぐことを求めているわけではない。君の覚悟は重く、そして決断と行動はここまでの道を形作ってきた。故に問いたい。この局面で、私の存在を隣に置き、君は心おきなく本懐を遂げられるのだろうか」

 

「――――」

 

「君は私を、信じられるのだろうか」

 

ユリウスの問いかけはひどく曖昧で、場違いで、青臭いそれでしかない。

だがそれは今のスバルの心の一番深いところで、延々と存在を主張し続けていた鋭い棘を意識させ、向き合わせるのに必要なことだった。

 

王選の場で、スバルはこの上ない醜態をさらし、それを挽回するどころか汚名を塗り重ねる形で練兵場へ赴き、ユリウスによってあらゆるものを打ち砕かれた。

立ち上がることができたのは、スバルを傍で支え続けてくれたひとりの少女の献身のおかげだ。

 

そして立ち上がった今、かつての想いを胸に描けば、どうだろうか。

あのときの、あの瞬間の、あの燃え上がるような激情は今、スバルの中で何色の輝きを灯しているのか。

 

「――俺は、お前が大嫌いだ」

 

「ああ、知っているとも」

 

「なんか典雅な感じの髪型がイラつくし、喋り方も馬鹿丁寧で胡散臭ぇ。かといって明らかに俺を見下してやがるし、そういや初めて見たときお前エミリアたんの手にキスしてやがっただろ。俺が今後、エミリアたんの全身に余すところなくキスしようとしたらお前と間接キスになるじゃねぇか、ふざけんな」

 

思い返せば、言葉を最初に交わす前からスバルはユリウスが嫌いだったのだ。

エミリアに邪険に扱われた経緯もあって、ユリウスへの悪感情は最初からあった。王選の広間でそれは高まり、練兵場で爆発し、火種は燻り続けていた。

今この瞬間にも、それはひどく熱く、スバルの胸を焦がしてやまない。

 

「手足折られて、頭割られて、永久歯まで根こそぎ歯磨きだ。治ったからいいものの、普通に考えりゃトラウマ確実でお外歩けなくなるレベルだぞ、手加減を知らねぇのか、てめぇ」

 

「言っておくが、だいぶ手を抜いていたよ」

 

「マジでか。手加減してあれか。やっぱお前、最高に嫌な奴だ」

 

自称騎士を名乗り、無力さと無知さと無謀さを重ねて恥をさらしたスバル。

そのスバルを打ちのめし、力と能力と役割を果たし、騎士としてのあり方を示したユリウス。

やられ役に収まった自分が不憫でならないが、それを抜きにして見てしまえば、その姿はまさしく、スバルが求めてやまない『騎士像』そのままで。

 

「――俺はお前が大嫌いだよ、『最優』の騎士」

 

「――――」

 

「だから、お前を信じる。お前がすげぇ騎士だってことを、俺の恥が知ってるからだ」

 

この場で誰より、あの場の誰より、スバルがユリウスの剣を知っている。

だからスバルは運命を託す。あのときの剣の、その重さを知っているから。

 

「頼むぜ、ユリウス。――俺の全部を、お前に預けっからよ」

 

「――――」

 

パトラッシュの上から地に降り立ち、スバルはユリウスと向かい合う。

そのスバルの答えにユリウスは瞑目し、そしてほんの数秒後、ゆっくりと目を開く。その双眸にスバルが映る。彼は短く息を吸い、止めて、

 

「ならば私は全霊で、それに応えよう――」

 

掲げた剣を天に差し向け、ユリウスが呟けば準精霊がそれを祝福する。

剣の周りを回るように、取り巻く色鮮やかな精霊たちが空を踊り、中でもひときわ強く輝くのは白と黒の準精霊。

輝きは増して、強まり、そして目を焼くほどの光を放ち――、

 

「――もう、茶番はよろしいデスか?」

 

森から這い出たペテルギウスが、そのやり取りの終点と見て口を挟む。

宙に浮いたまま、首を傾げるペテルギウス。彼は血走る瞳をさまよわせ、焦点の合わないままにスバルたちを指差し、

 

「精霊術師ひとり、加わったところでなにができるというのデスか。精霊如きが、ワタシの、ワタシの道の、ワタシの愛の、ワタシの忠愛の前に立ちふさがるなどおこがましいにもほどがある!故に滅び、消えて、なくなってしまうが良いデス。デス、デス、デス、デスデスデスデスデスデスデスデスデェェェェッッス――!」

 

舌を伸ばし、指を噛み潰し、血を口から滴らせながら、ペテルギウスは死の宣告を叫んで『見えざる手』を一挙にこちらへと差し伸べる。

押し寄せてくる漆黒の掌、津波のように視界を覆い尽くすそれが、スバルたちを丸ごと呑み込み、押し潰そうとする――瞬間、

 

「――クラリスタ」

 

虹色の輝きの一閃が、迫りくる『見えざる手』を根こそぎ斬り払っていた。

煌めきが乱舞し、光の乱反射を浴びせながら刃の軌跡を輝きで描く。その軌跡の過程にあったはずの黒い妄念は消失し、起きるはずだった破壊もまたない。

 

「――は?」

 

ペテルギウスの呆然とした声。

それに対し、ユリウスは虹色に染まる騎士剣を振るい、「驚くことはない」と前置きして、

 

「こちらに触れられるということは、こちらからも触れられるということだ。干渉できる能力であるのなら、六属性を束ねたこの刃に断ち切れぬものはない」

 

契約する六種の精霊、全てを宿した騎士剣を構えて、ユリウスが事もなげにそう言い切る。しかし、ペテルギウスの疑問はそんなところにはない。

彼はわなわなと、指先の潰れた赤黒い指でユリウスを示し、

 

「アナタは、アナタには、見えないはずデス。見えていないはずデス。『見えざる手』が斬られた……!その事実よりも、もっと問題なのはそちらの方デス!見え、見える、見えるはずが、はずが、はずが、ががが、ない、ない、ないのデス、ないのに、デス、のに、デス」

 

呆然と、自身の寄る辺が失われる恐怖に言葉を詰まらせるペテルギウス。

その姿に、態度に、初めてスバルはある種の共感と――それを上回る、「ざまぁみろ」の快感を覚える。本気で、ようやく、出し抜いてやったぜと。

 

「見てるのは俺だ、ペテルギウス」

 

「――?」

 

「お前の『見えざる手』を見てるのは俺だ。ユリウスは、俺の見てる光景を見ているだけ。思った以上に、気持ち悪い感覚だけどな」

 

――意思疎通の高等魔法『ネクト』の真髄。

広範囲の複数の意思伝達に利用された魔法で、ユリウスはこれを使用するとき、『共感性を高めすぎれば自己と他者の境目がわからなくなる』とスバルに話した。

それはつまり感覚の同調であり、もっと深く繋がってしまえばそれは、

 

「意識的に感覚の一部を共有し、維持することもできるはず――君から最初、この話を持ちかけられたときは正気を疑ったものだったが」

 

「ちゃんとできただろ?男は度胸、なんでもやってみるもんさ」

 

スバルと五感の何割かを同調しているユリウスには、スバルの見ている光景――ペテルギウスが『見えざる手』によって固定され、禍々しい大蜘蛛のように吊り上がっている光景が見えていることだろう。

そして同じようにスバルの方にも、ユリウスの全身に迸るマナの奔流と、準精霊たちから伝わる温かな波動が伝わってきている。

 

「こう言っちゃなんだが、長く続けてたいとは思わねぇな、この状況」

 

「まったく同感だ。頼まれても二度と遠慮したいものだよ」

 

唇を曲げたスバルの言葉に、ユリウスは皮肉げに笑って身構える。

虹色の剣を正面に、切り札である『見えざる手』すらも攻略の糸口を掴まれた、その哀れで愚かな、しかし同情の余地のない狂人に向けて。

 

「おのれ……おのれ、おのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれぇ!!」

 

喚き散らし、ペテルギウスの影を爆発させ、もはや狙いなどまともに定めてもいない魔手を四方八方へ散らし、衝動のままに破壊をばら撒く。

その醜態を前に、スバルは決して目をそらすまいと、息を深く吸って覚悟を固め、

 

「じゃ、お前と気分共有ってのもうんざりだ。――とっとと、終わらせようぜ」

 

「ああ、そうしよう」

 

降り注ぐ漆黒の魔手を斬り上げが消し飛ばし、返す刃が真横から迫る掌を両断。消失した腕が粒子となり、影へ散っていくのを見届けて、ユリウスは笑い、

 

「君の目で、私が斬ろう。――我が友、ナツキ・スバル」