『最後の罠と』


 

「じゃあ、打ち合わせ通りの時間稼ぎを頼むな」

 

リューズ捜索を無事にやり遂げ、合流したスバルがオットーに言った言葉だ。

前日、前々日の時点でスバルから事の次第を打ち明けられていたオットーは、それが二日かけて準備していた状況を開始する合図とすぐに察した。

 

「それは構いませんが、エミリア様の行き先は当てがあるんですか?時間稼ぎしてる間に、ナツキさんとエミリア様が合流できなかったら、僕らが何をしていようが全部無駄に終わってしまうんですが……」

 

「そこは抜かりなく、とは言い難いな。そこ抜かったせいで今の状況だし。ただまぁ、心配はいらねぇよ」

 

頭を掻き、情けない顔をしていたスバルが表情を引き締めた。

鋭い、というよりは純粋に目つきの悪い彼が真面目な顔をすると、それだけで何かに対して怒りを堪えているような表情に見える。

短い付き合いながら、彼の人柄を知るオットーはそれを取り違えないが、損な面貌の持ち主だと思わざるを得ない。似たようなことはオットーもスバルに思われているのだが、そのあたり自覚がないのが、この奇妙な友人同士の共通点だった。

 

「エミリアの居場所には心当たりがある。正直、いなくなったって聞かされて情けねぇことにてんぱっちまったが……落ち着きゃ、ここしかねぇなって話だ」

 

「そう、ですか。ちなみにそれは……いえ、聞かないことにしておきます」

 

「そうか?別に話して、俺の推理を賞賛する役目を引き受けてもいいんだぜ?」

 

「やめておきますよ。ナツキさんの太鼓持ちするのは気が進みませんし、時間稼ぎの果てにガーフィールに捕まって、僕が何でもかんでもぽろぽろ喋っても困るでしょう?」

 

肩をすくめて情報漏洩の危険性を訴えると、スバルは「なるほど」と頷いた。

実際、それは懸念される事態には違いない。オットーは自分が特別、痛みに強い方だとは思っていないし、限界を超えた痛みを味わった記憶もない。

切羽詰まったガーフィールに危害を加えられて、ポロっと知っていることを口外しないとも限らない。そんな形で足を引っ張るのだけはごめんだ。

 

「まぁ、お前の口から洩れるんだとしたら、そりゃもうしょうがねぇと思うしかねぇけどな」

 

「――――」

 

気負いなく、スバルは「気楽に頼むぜ」なんて簡単に口にしてくれる。

それを聞かされる側がどんな風に思うか、何もわかってはいないだろう顔だ。

 

これだけ、無意識に信頼を寄せられて、誰がそれを裏切れる。

これを意識してやっていないのだから、本当にとんでもない友人だ。

 

「ともあれ、うまくやれるよう最大限努力はしますよ。なにせナツキさんがうまくいくかどうかで、僕の今後が大きく変わってきますからね」

 

「だな。俺が盛大に失敗しやがると、お前の未来はどん底だ。……ヤバいと思ったら、素直に逃げろよ。たぶん、今日のあいつは冗談通じないから」

 

「……ええ、肝に銘じておきますよ」

 

こちらを慮る言葉に、オットーはかすかに唇を緩めて応じる。

スバルとの打ち合わせでは、オットーは事前に根回しと準備をしておいた通り、アーラム村からの避難民を各竜車に乗せて、囮となる自分が出発して少ししてから脱出を開始するよう言いつけてあった。

 

村人多数を乗せているとガーフィールの鼻を誤認させるよう、二台の竜車には村人の衣類を詰め込み、わかりやすい外への一本道を使って囮をやる手筈だ。

避難民たちが逃走するための道筋は、事前にオットーが夜を徹して調べ上げ、それぞれの地竜に昏々と説明して教え込んである。

不備はない、そのはずだ。

 

後は純粋にオットーの囮作戦がばれて、避難民たちが外へ脱出できればよし。

二日後に襲来する大兎の脅威から逃しつつ、スバルとエミリアが話し合いをする時間をも稼げる流れだ。その後、ガーフィールが集落に戻り、スバルを見つけ出して修羅場が展開するのが目に見えている作戦でもあり――。

 

「――――」

 

そうさせるべきではないと、オットーは判断していた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

そもそも、オットー・スーウェンは身体能力的に恵まれた方ではない。

 

行商人という職業上、道中の危険を避けるためにそれなりの護身術は身につけているが、本物の戦いを生業にした連中に比べれば、一歩どころか十歩下がる。

価値のある積み荷を運ぶときには護衛が欠かせないし、ショートカット狙いで山道を抜けようとして山賊に襲われたときは、泣く泣く積み荷を捨てて逃げたこともある。

 

暴力で真っ向から物事を解決できるほど、荒事に向いていないのは自他共に認めるところだ。

 

「そんな僕が、なんだって今、あんなの相手にこんなことしてるんですかねえ……」

 

冷や汗の浮く額を軽く袖で拭い、オットーは強張りそうな頬を動かして無理やりに笑みを浮かべる。商人としての大前提、相対するときは常に笑顔だ。

商家の生まれとして、オットーもその教訓は叩き込まれて育ってきた。もっとも、十歳前後からの約半生の経験値でしかないが。

 

それでも、この習慣も馬鹿にしたものではない。

こうして笑みを浮かべて、『普段と同じしのぎの場面だ』と体に先に思い込ませれば、体の方も次第に緊張感を心地良いものとして受け入れることができる。

 

手は動く。足も動く。まだまだ走れる。

足場の悪い地面をこれだけ走って、息が上がっていないのが自分で不思議だ。開き直った心の軽さが、オットーの全身のまだ見ぬ力を開花させている。

 

「とはいえ、覚醒したところでたかが知れてますんでね。慢心無用、油断大敵」

 

森の木々の隙間を抜けながら、オットーはここ一番でツキのない自分に注意を促す。

遠く、置き去りにしてきたガーフィールはこちらを発見できていない。が、このまま逃げ続けるわけにはもちろんいかない。ガーフィールの意識を引きつけ続け、彼を『聖域』へ戻さないことが今のオットーの役割なのだ。

 

ガーフィールが実は、オットーの相手をする必要がないと気付かせないこと。

森に潜みながら、ガーフィールを引きつけるための仕掛けを次々と披露するオットー。その内心を占めているのは、実に切実なその思考だ。

 

そう。実はガーフィールは、オットーの相手をする必要はないのだ。

『聖域』を解放させないという彼の目的を叶えるためには、要であるスバルとエミリアを押さえることが肝要なのであり、オットーのことはまさにおまけでしかない。

そのことは、ここまでオットーに対して何ら意識を払わず、こうして足をすくわれたガーフィール自身がもっとも理解していたはずだ。

 

巻き上がる落ち葉と魔鉱石。そして、竜車に仕込んだ大量の羽虫。

二つのこれ見よがしなダメージのない罠で、オットーはガーフィールの頭に血を上らせることに完全に成功した。

今のガーフィールは冷静さを失い、オットーを倒さなくてはならない相手だと視野が狭まっている。本来、その必要はないのにだ。

 

「かといって、時間を置いたらすぐに気付かれてしまいますからね」

 

故にオットーは、接近することが何より危険だとわかり切っているガーフィールに対し、つかず離れずの距離を保って挑発を続けるしかない。

鼻を殺してあるので、視界に入らない限りは致命的なことにはならないが、いざ捕捉されてしまえば、ガーフィールにはオットーとの距離を一瞬で詰めるだけの甚大な能力差があるのだ。

まさしく、綱渡りのような緊張感と慎重さが求められていた。

 

「――――」

 

茂みに潜ったまま、オットーは前方の光景を窺う。

眼前、二十メートルほど先に、周囲を睥睨しているガーフィールの姿があった。刺激性のある臭いを発する、竜車の車輪に浴びせるキスニスという油の効果で、嗅覚は完全に死んでいる様子だ。苛立たしげに視界を頼りにオットーを探す姿には、手負いの獣のような油断ならない雰囲気が漂っている。

 

意識を引き続けるそのために、アレにちょっかいを出すのは、まさしく燃え盛る火の中に手を突っ込むが如き、火傷必至の馬鹿な行いだ。

 

『では、頼みますよ!』

『あいあいおー』

 

オットーの声が細い音を出し、それに応じる鳴き声が鼓膜を通って意味に変換される。

オットーの合図に従う形で、森がかすかにざわめいた。

 

「あァ……?」

 

風に揺れる木々のざわめきに、ガーフィールが違和感を覚えたように顔を上げた。

その顔目掛けて、彼の周囲を取り囲む木々から一斉に放たれるのは、土やフンを丸めて作った泥団子だ。

 

背の高い樹木を住処とする、森鼠とされる小動物の威嚇行動だ。

当然、その泥団子自体には殺傷能力などないが、八方から一斉に投げつけられたそれに、ガーフィールは慌てて飛びずさって回避を図る。しかし、避け切れるものではなく、数発を足に浴びて、臭いと泥の付着に舌打ち。

 

「っだァ、こりゃァ!クソが!なんでこんな……これも、あの野郎の仕掛け……」

 

汚らしいそれを近くの木になすりつけ、ガーフィールは今のにもオットーの関与を疑う。が、その疑念を口にする最中、何かに気付いて鼻面に皺を寄せた。

 

――森鼠の泥団子には、殺傷能力はない。服を汚し、臭いを沁みつけるだけだ。

しかし、彼らのフンの臭いには、森に住まうある虫が引きつけられる習性があり、

 

「――――ッ!」

 

ガーフィールの足下、土の下を蠢く何かが接近し、絡みつくように彼の足に跳びついた。息を詰まらせるガーフィールの足を這うのは、黒く長い体長を持つ百足のような虫だ。

人の腕ほども長さのある百足は、森鼠のフンが付着したガーフィールの左足の膝上まで這い上がり、グロテスクな口腔を押し付けて団子の痕跡に食らいつく。

 

「っだァ!気持ち悪ィ!」

 

爪を翻し、ガーフィールが百足の体を払い落す。だが、地面からは次から次へと同じ百足が這い出してきており、ガーフィールの足だけでなく、彼を外れた泥団子を奪い合うように跳ね回り、一帯はある種の地獄の様相を呈していた。

 

あの百足は、森鼠のフンの中に含まれる、木々の果実の種を好む生き物だ。

森の中、ひたすらに歩き回って罠を張る必要のあったオットーは、多くの生き物たちと言葉を交わすことで、そういった『使えそうなモノ』を片っ端から放り込んでいった。

 

百足は見た目の醜悪さとは裏腹に、肉食であったり、毒を持っていたりするようなタイプではないらしいが、あれだけ囲われればそれだけで十分な脅威だ。

現にガーフィールも――

 

「――ッ!あァ!しゃらくせェ!!」

 

まとわりつく百足の群れに業を煮やし、ガーフィールが唾を飛ばして叫ぶ。

そして彼は高々と右足を振り上げると、思いきりに叩きつけるように地面に突き刺した。

 

直後、彼を中心にした大地が四角く、切り取られるように弾んだ。

 

「――――」

 

その常識外れの光景を目にして、オットーは思わず息を呑んだ。

ガーフィールは切り取られた大地の上、衝撃波で身動きの取れない百足の群れに、爪と足を走らせて次々と狩り討つ。浮いた地面が激しい音を立てて大地に戻ったときには、彼の周囲を這っていた百足はことごとく退治され、残った百足も恐れを成したように再び地面の中へと潜っていく。

 

森鼠たちが住処にしていた木々も、今の大地の剥離に巻き込まれて倒木し、オットーに協力してくれた住民たちもほうほうの体で逃げ出した様子だ。

彼らは砂糖水と引き換えに、かなりの代償を支払ってしまったようだ。

 

「まあ、それも商いというか……商機を勝機にできるかは当人の器量次第ですから、恨まないでほしいところですね」

 

ガーフィールの力の片鱗を前に、オットーは気を落ち着かせるために軽く反省会。それから再び音を殺しながら下がり、歩き出したガーフィールと距離を保ちながら次の罠の場所へと誘導する。

 

伊達に二日半も眠らずに、森を駆けずり回ったわけではないのだ。

 

――このことが片付いたらそれこそすぐに、夢も見ないほど眠ってやるのだから。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

『すごいの、きてる』

 

――わかってますよ、ええわかってますとも。

 

『うしろ、すごい、すぐくる、いまきてる』

 

――だからわかってますってば、それも織り込み済みなんですから。

 

『しんじゃう。しんじゃうね。かわいそう』

 

――悲観的になるの、やめてもらって構いませんかねえ!?

 

『言霊の加護』を解放し、走るオットーの耳にはひっきりなしに雑音が飛び込んでくる。

それは森のあちこちに住まう虫の、小動物の、あらゆる意思ある生物の声であり、その中から自分に関係のあるものを選別し、聞き分けるのは至難の業だ。

 

『言霊の加護』が発現して約二十年、使いこなせるようになってから約十年。それだけの期間の中でも、これほどの無茶を試したことはない。

以前に自分にかけられた冤罪を晴らすために加護を利用したときも、場所が地方とはいえ都市だったために、生息する生き物も限度があった。

 

だが、こと広大な森の中となれば、その絶対数はオットーの許容量をはるかに超える。

宙に、木に、葉に、土に、石に、虫が、小動物が、生息する場所はいくらでもある。そこに隠れる生き物全ての声を聞くというのは、いっぺんに百人以上の人間の言葉を脳に叩き込まれる感覚に近い。

 

耳に聞こえるだけではない。

『言霊の加護』は、オットーに理解を強要するのだ。つまり、オットーの脳の活動は、『言霊の加護』が拾う全てに処理を費やすことになる。

 

「ぶ……っ」

 

頭に鋭い痛みが走り、上体を揺らすオットーがとっさに木にもたれかかる。と、汗を拭うために顔に当てた袖に、滴る鮮血が付着した。

鼻血だ。ツーっと顔を伝う出血は、脳が限界を超えた活動をしている証左だろう。断続的に脳が軋み、耳鳴りも和らぐことなく響き続ける。

 

「あー、知らなかった。使い続けてると、こんなんなるんですか、僕の加護。つくづく扱いづらいというか……便利なだけじゃないんですから、困りもんですねえ」

 

鼻血を乱暴に拭って、眉間を揉みながらよたよたと走り出す。

なおも耳鳴りは継続中だが、加護を中断するつもりは毛頭ない。もとより、オットー一人ではこの逃走劇すらもろくに続けられないのだ。

先のように、ガーフィールの動向をたどたどしくも伝えてくれる声がある。振り向けないオットーの代わりに、ガーフィールを監視してくれる目がある。

人間とは異なる意思を持つ虫や動物の協力を取りつけるのは、どう周りに思われているのかはわからないが簡単なことではない。

 

なにせ、彼らと人間とでは思考形態が違う。

何を喜び、何を嫌がるのか。こちらの常識があちらの非常識。これでは交渉に臨もうにも、何を武器にすればいいのかわかるはずもない。

 

それに同じ虫や動物であっても、知能が高くなればなるほどに個体差が生まれる。地域差もあり、同じ種類の虫が住む地域で全く異なる好悪感情を持つことなどざらだ。

曲がりなりにもオットーがこうして今、ガーフィールという脅威を回避し続けていられるのは、短い時間とはいえ準備期間を得られたことと、その中でオットーが自分の持てる時間と力を尽くした結果に他ならない。

 

――スバルは今頃、エミリアを見つけて、ちゃんと話ができているだろうか。

 

彼がエミリアと会話をするための時間――それを少しでも長引かせるためだけに、オットーはこうして苦難の中に身を置いているのだ。

彼の当てが外れていたり、目論見通りにいかずにエミリアに進歩が見られないようなら、全ては水泡に帰してしまう淡い試み。

 

どうして自分は、こんなにもスバルに肩入れしているのだろうか。

 

痛みを紛らわすための思考の中で、オットーはふとそんなことを考える。

彼が命の恩人であるから、その貸し借りを返済するために協力しているのは事実だ。

彼が自分を友人と認めてくれたから、そして力を求められたから、仕方ないとそれに協力しているのも事実だ。

 

けれど自分は、ただそれだけのことに、求められた以上のことをやってのけようと、そう思うほどに懸命な男だっただろうか。

 

「……ああ、そうか」

 

そのとき、ふと脳裏を過った感覚があり、それを切っ掛けに理由に気付いた。

そして、思わずオットーは笑ってしまう。

 

気付いてしまえば単純なことだ。

オットーがスバルを信用し、そして力を貸す理由なんて呆気ないものだ。

 

「理解されないなんて諦めて、そうやって頭抱える姿なんて……僕は誰よりもよく、知ってたはずじゃないですか」

 

他人に聞こえない声が聞こえる、『言霊の加護』の力。

他の生き物たちの声を聞き、知るはずのないことを知るオットーは多くの人間に煙たがられた。友人だったものたちも失い、家族とも会えなくなった今、『言霊の加護』はオットーにとって、緊急事態を切り開く以外の使い道を持たない余計な道具だ。

 

だが、その加護を持っていたが故の経験は違う。

『言霊の加護』を理由に遠ざけられた経験は、他人に自分を理解されない苦しみをオットーに教えた。自分の知っているそれを、他人に説明しても伝え切ることのできないもどかしさを知った。どうせわかってもらえないと、諦念を抱く悔しさを与えた。

 

それら全て、オットーに抱えたものを打ち明ける前のスバルと同じものだった。

だからオットーはスバルを信じ、彼の姿に過去の自分を重ねて、走り出した。

 

他でもない。

オットーが救いたいのは、ナツキ・スバルだけではない。彼を通じて、オットーは過去の自分を、オットー・スーウェンを救いたかったのだ。

 

「見ィ、つけ……たァ!!」

 

「――ッ!?」

 

自分の中の、もう一つの本心に気付いた瞬間、オットーは『言霊の加護』とは別の角度から他人の声を聞き、肩を打つ衝撃に弾かれて地面を転がった。

引き倒されるように横倒しになり、柔らかい土に受け止められながら転がる。

 

「ばっ、ぺっ!な、なん……ぐっ!」

 

「ざァんねんだァ!」

 

口の中に入った落ち葉を吐き出し、体を起こした途端に胴体に爪先が入る。肺の中の空気を絞り出されて、再び激しく地面を蹴倒された。

上下が乱雑に入れ替わり、頭が回って思考がおぼつかない。酸素が脳に巡らず、体中の血が固まったような痛みが血管を通じて全身を痛めつけた。

 

「鼻ァ馬鹿になっても、俺様にだって耳があらァ。どういう手品か、虫どもがピーチクパーチクやかっまっしかったがよォ……これで、終いだなァ」

 

「ど、どうですかね。……まだ、追いついただけじゃ勝負はわからなごえふっ」

 

「減らず口叩くんじゃねェよ。てめェはよォく頑張りやがったが……俺様も、これっ以上は時間食うわけにゃァいかねェんだ」

 

仰向けの腹の上にガーフィールの足が乗り、ギリギリと体重をかけられる。

肋骨が軋み、小柄なはずのガーフィールの体重以上の圧力が真上からかかり、オットーは苦鳴を上げながら手足をばたつかせた。

 

「俺様が思いきり踏み込めば、それだけでてめェは木端微塵だ。さっき、俺様が地面を弾くのァ、どっかから見てやがったんだろっがよォ。アレが、てめェの体でもおんなじように起きる。試してみてェかァ?」

 

「――ごめん、被りたいですねえ」

 

威嚇するように見下してくる顔に、オットーは負け惜しみのような笑みを浮かべて返す。ガーフィールはそのオットーの態度にわずかに鼻白んだが、

 

「ずいぶんとまァ、根性据わった面構えしてやがっじゃねェか。やり合う前に気付いてりゃァ、こんな遠回りするこっともなかったろうがよォ」

 

「…………」

 

賞賛、それに近い響きがガーフィールの言葉にはあった。

オットーはそれを聞きながら、首を巡らせて細い息を漏らす。掠れるような吐息を細々と続けるオットーに、ガーフィールは目を細めた。

 

「これまでなら、てめェのそれも大したことじゃァねェと、見過ごしちまってたんだろうがなァ……」

 

「――――」

 

「てめェがやる気になった途端、森の全部が俺様の敵に回りやがった。最初の落ち葉が舞い上がったのも、葉っぱの裏にいた虫どもが一斉に飛んだからだ。竜車の中のも、野鼠のクソ団子も、百足も、倒木から蛇が湧いたのも、毒花の群生してやがるとこに鳥に誘導させたのも、何かしらの種がありやがるはずだ」

 

ここに至るまでに張られた罠と、かかった罠を指折り数えるガーフィール。

彼の言葉を耳にしながら、オットーは細い呼吸を延々と続けていた。

 

ガーフィールの見抜いた通り、いずれの罠もオットーが森中駆けずり回って仕掛けた数々だ。行動力を削ぎ、時間を稼ぐための手段。

いずれも狙い違わず、ガーフィールをこちらに引きつける役割を果たしてくれた。

ただ、偶然では済まされない自然の驚異の数々が、ガーフィールにそれら全てをオットーが仕組み、それができた理由が彼にあることを気付かせた。

 

「考えんのは得意じゃァねェんだがな、それでも考えるのをやめねェのが生きるってこった。だから俺様ァ考えた。考えて、考えて、こう思った。この世の意味わからねェ出来事の大半にゃァ、加護の力が影響してやがる。――てめェも、その加護持ちだろっがよォ」

 

「…………ふ」

 

「森の加護だか、土の加護だか知れねェが、だとしたら何をやられてもおかしかねェ。油断も容赦も一切合財抜きで、片付ける必要が出てくらァ。……だァからよ」

 

返事のないオットーに言葉をぶつけて、ガーフィールは小刻みに震える体を足蹴にしたまま振り返る。そして、その鋭い目を憐れむように細めて、

 

「そうやって、諦めの悪ィ目で何かを狙ってりゃァ、気付けねェわけもねェ」

 

「――――」

 

振り返るガーフィールの眼前に開けた空間があり、そこに今、白い光が集まっている。

木々の隙間を抜けた日差し――それとはまったく異なる発色は、可視できるほどに濃密なマナが吹き溜まった場所ということだ。

 

迂闊に飛び込めば悪酔いしそうなほどに濃密なマナの高まりを目にして、ガーフィールは顔をしかめてオットーを見下ろした。

 

「アレが、てめェの切り札だろォよ。ここまでの虚仮脅したァ訳が違ェ。アレには俺様をひっくり返すだけの何かがある。……最後まで俺様をはめっ放しにできりゃァ、あそこに押し込むのもできたかもしんねェがな」

 

「……ぁ、ぅ」

 

しゃがみ、ガーフィールは呻くオットーの襟を掴んで持ち上げる。

オットーの鼻孔からは、再び脳の過活動によって鼻血が流れ出しており、顔の下半分を血に染める壮絶な様子に、ガーフィールは首を横に振った。

 

「立派だが、俺様にゃァ一歩及ばねェ。身の程を弁えて、大人しくしてるんだったな」

 

「身の、程ですか……っ」

 

「そうだ。俺様にてめェが、勝てるわっきゃねェだろがよォ。――何の罠だったか知らねェが、その威力はてめェで味わえ」

 

手向けだとでも言うように、ガーフィールは抱えたオットーの体を柔らかく投げる。

投じられたオットーは短い浮遊感を味わった後、受け身も取れずに地面を転がり、白いマナの密集地帯へと転がり込んだ。

 

濃いマナの漂う中、ただでさえぼやけ気味だったオットーの頭の中身が汚染される。

目が回り、舌が痺れて、鼻血は止め処なく流れ続けていた。

 

罠。最後の罠。放り込まれて、それで、何が、どうなって。

 

「見届けてやらァな」

 

腕を組み、ガーフィールが倒れるオットーの最後を待つ。

うつ伏せの姿勢で、視界の端にその様子を捉えて、オットーは自分がどこにいるのか、何をしなくてはならないのか、散り散りになる思考をかき集めて、理解した。

 

――最後の罠が、結実したことを。

 

「……ちょっと、聞いてもいいですかね?」

 

「あァ?」

 

地面に手をつき、懸命に体を起こすオットー。

まさかまだ動けるとは思っていなかったのか、ガーフィールは目を見開いて驚きを露わにしている。それを小気味よく思った。なるほど、スバルの言葉も頷ける。

できないと、そう思われていることをやってのける、それが面白い。事実だ。性格は悪いが、確かにこの快感は、やめられそうもない。

 

「ここにくるまで、ガーフィールさん……どのぐらい、木を倒したり、地面を抉ったりしましたかね?」

 

「てめェ、何が言いたいんだかわかんねェよ」

 

「今、僕のいるところに溜まってるマナがこれだけ多いってことは……それだけ、森を怒らせたって、そういうことです」

 

喋ってる間に、達成感がオットーに疲労と苦痛を忘れさせた。

危うげな呂律が確かさを得て、地べたに座ってオットーはガーフィールを見る。

彼は腕組みを解き、ようやく自分がこちらの思惑にまんまと乗ったことに気付いた顔で動こうとしていた。

だが、遅い。

 

「――アル、ドーナ」

 

満ちるマナがオットーの全身を循環し、詠唱に応じて世界が形を変える。

 

――すさまじい速度と勢いでせり上がる土砂流が、動きの遅れたガーフィールの全身を打ち据えて、森の彼方へと吹き飛ばしていった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「はぁ……はぁ……はぁ……っ」

 

上げた両腕を震わせて、オットーは血が混じりそうなほど疲労感の濃い呼吸を続ける。

 

周囲を漂っていたマナは、全て魔法につぎ込んで消滅してしまっている。

マナによる悪酔いの感覚は遠ざかったが、代わりの倦怠感に浸される全身が辛く苦しい。

 

――オットーが張り巡らせた最後の罠は、ここまでの数々の罠と繋がったシンプルなものだった。

 

即ち、オットーは森に生きる虫や小動物との協力を取り付ける前提の条件として、集落を囲む森に悪さを働く敵を、みんなで懲らしめようと提案したのだ。

 

ガーフィールはどうやら、日々を『聖域』で過ごす間に森を闊歩し、それはそれは森の動物たち目線で傍若無人に振舞っていたようだ。

爪を研いだり、鍛錬代わりに木々を薙ぎ倒したり、おそらくは生活のために薪を集めるような行いすらも、長い目で見れば動物たちには破壊工作だ。

それら数々の小さな悪行が降り積もり、ガーフィールは悲しいことに森中の大半の生き物にとって、でかくて力の強い悪い奴と認識されていた。

 

オットーは交渉により、ガーフィールを懲らしめる手伝いを森の生き物たちに申し出たのだ。そして数々の罠を張り巡らせ、それらを機能させる間に、ガーフィールがさらなる森の破壊を繰り返した場合――森の住民たちは、自身の持つマナを一ヶ所へ集中させ、オットーに最大限の力を貸すと約束してくれた。

 

目に見えるほどの膨大なマナとは、『見え見えに思える思考トラップ』だ。

ここまで多くの罠にかかり、敏感になっていたガーフィールはそれを避け、ここまでの意趣返しにまんまと動く気力のないオットーをその場所へと放り込んだ。

 

森中の力を借りて、オットーが自身の持てる以上の魔法を行使するのを、自ら手伝ってしまったということだ。

 

結果、発生した土砂流はガーフィールの全身を打ちのめし、ここまで碌々ダメージも与えられなかった彼に、決定打となり得るほどのダメージを与えた。

オットーに反撃する力などないと、油断しきっていたのがそれを後押しした。

 

全てオットーの目論見通りの結果だ。

つまり、

 

「今度こそこれで……」

 

「――てめェも、万策尽きたってェわけだ」

 

掠れた息に落胆を乗せるオットーを、木々の群れから体を覗かせるガーフィールが睨みつけていた。

 

彼の衣服はボロボロになり、覗く肌のあちこちからは鋭い石で切られた傷がいくつも生じている。しかし、頭部のような大事な場所は守り切ったらしく、足取りも大きな影響が残っているようには見えない。

 

純粋な地力の差は、オットーの想像をさらに越えて広がっていたのだ。

 

「正直、驚いてるぜ」

 

「……そう、ですか」

 

「ここまでやれるったァ、本気で思ってなかった。それどころっか、諦めたと勝手に思っててめェを見くびった。――許せ。俺様ァ、男に対してつまらねェ真似をした」

 

神妙な顔つきで言うガーフィールに、オットーはそんな謝罪はいらないと首を振る。

欲しかったのは、参ったの一言だ。だが、オットーの全身全霊は、完璧に役目を果たしてなお、ガーフィールを打倒するには至らなかった。

 

故に、オットーの抵抗はここで終わりだ。

手の感触を確かめて、鋭い獣爪を閃かせるガーフィールは今度こそオットーに容赦をしない。

 

その鋭い刃のような爪先は、彼がオットーに対して見せた誠意同様に、オットーの体を真っ直ぐに切り裂き、その命を絶つことだろう。

 

――やれるだけのことは、やっただろうか。

 

全部を出し切った、という実感はある。

『言霊の加護』にしても、友情や貸し借りのことを含めても、自分は出し切った。

 

それでもなお届かなかったのだから、それはもう仕方がない。

オットー自身にできることは、ここで終わりだ。

 

だから――。

 

「じゃァな。――起きたら全部、片付いて」

 

「僕の個人戦は、ここまでってことにしましょう……」

 

「――――」

 

息が抜けるように呟き、オットーは脱力して目をつむる。

その態度は、諦めというには、潔さとは程遠いものに思えて――。

 

「まさか……」

 

まだ何かあるのか、とガーフィールが再び戦慄し、その全身の産毛を逆立てて警戒を露わに首を巡らせる。

周囲、八方に何かの気配はない。何か、あるとしたらそれは――。

 

「――――ッ!」

 

牙を剥き、ガーフィールは爪を構えて上を剥いた。

息を吸い、咆哮のために肺を膨らませる。しかし、その挙動に遅れが生じた。眼前の光景に目を見開き、ガーフィールは開いた口で雄叫びではないものを上げる。

それは殺意でも、敵意でもない、名前だった。

 

「ガーフ――!!」

 

頭上、木々の上から跳躍し、こちらへ落ちてくる影がある。

短いスカートを閃かせ、握った杖の先端がガーフィールの頭部を狙い定める。

 

杖の先端にマナが集約し、そこから光が発されるのを見ながら、ガーフィールは絶叫する。

 

「なんでてめェが……ラァァァァァァァムゥゥゥゥゥゥ!!」

 

次の瞬間、風の刃が炸裂し、『聖域』の森に爆風が吹き散らされた。