『三度目の再会』


「――――!!」

 

自分の絶叫で目を覚ます、という経験はこれ以上なく心臓に悪いものだ。

 

布団をはね飛ばし、宙に手を伸ばした状態で覚醒したスバルもまた、息を荒げながらそんな衝撃を味わっていた。

 

「……左手……ある、よな」

 

何かを掴もうとしたかのように、虚空に左手が伸ばされている。

千切れ、吹き飛んだ左半身も同様だ。四肢の欠損、それはほんのわずかな時間に満たなかったにも関わらず、この上ない喪失感をスバルに与えた。

 

体を起こし、無事に動く左腕を肩から回して確認する。左の脇腹も破れた形跡はなく、もちろん繋ぎ直した左手には犬歯の跡も残っていない。

傷跡があれば左半身が吹き飛ばされた感覚は、勝負の夜なのにうっかり寝落ちしたスバルの悪夢とも判断できたが――。

 

「また、戻ってきちまった……いや、戻ってこれたって言うべきか」

 

傷跡の消失はそれを意味する。

運命に敗北し、またもやこうして時間を逆行させられたのだ。この場合は、敗北してなお挑む猶予を与えられたと考えるべきかもしれないが。

 

そこまで考えて、ふとスバルは今が何日の何時なのかを意識した。

『死に戻り』の経験則としては、戻ってくるとすれば『ロズワール邸の初日』のはずだが、その確信も今回は薄い。また別の時間軸、というのも考えられる話だ。

とにかく、まずは時間の確認を――そう思い至ったときだ。

 

「あ、ごめん、おはよう」

 

ようやく、部屋の片隅で抱き合ってこちらを警戒する双子の姿に気付いた。

意識不明だった男が絶叫しながら目覚めれば、それはそれは驚いただろう。

気の抜けたスバルの挨拶に対しても、まるで小動物が身を寄せ合うようにしている二人は返事をしない。

 

頭を掻き、スバルはどうしたものかと思い悩む。

きっと、彼女たちはまたもスバルを忘れている。それはかすかに胸に痛みをもたらしたが、そのうずく鼓動を無視してスバルは笑みを作った。

 

友好的に、こちらからの誠意を込めて。

彼女たちはなにもかも忘れてしまっても、スバルは覚えているのだから。

 

「ご迷惑をおかけしました。ナツキ・スバル、ただいま起床します!」

 

布団を跳ねのけてベッドから跳躍し、着地したスバルは荒ぶる鷹のポーズ。その威嚇姿勢に双子は慄いたが、そんな彼女らにそのポーズのまま、

 

「ところで、今って何日の何時?」

 

――ロズワール邸、三度目の初日が幕を開けた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――改めて、記憶に残っている四日目の夜のことを思い返す。

 

エミリアと約束を交わし、時刻はおそらく草木も眠る丑三つ時。急に襲ってきた寒気は全身から力と精気を奪い、短時間でスバルを衰弱死させかねないほどの威力を発揮した。つまり、

 

「最初の死因は、寝てる間の衰弱死ってことかぁ……」

 

じわりじわりと真綿で絞めるように、少しずつ確実に絶息させる方策だ。

意識を張って起きていてあれだ。眠って無防備なままあの状態に陥れば、それこそ目覚める暇もなく永久に意識を呑み込まれるだろう。

ただ、

 

「鎖の音が、な……」

 

衰弱に関しては推測できたが、こちらに関しては完全にお手上げだ。

長い鎖が重なり合う独特の金属音。それが鼓膜を震わせたことだけは覚えている。その直後に衝撃があり、左半身がもぎ取られていたのだ。

 

光景を思い返しただけで、左半身が痺れるような感覚を訴えてくる。肉体はその体験を覚えていないはずなのに、魂がその記憶を拒絶しているのだ。

知らず、左腕を肩から抱きながら、

 

「襲撃者がいた……ってことだろな。俺を衰弱死させた奴と同一人物かはわからねぇけど、少なくとも同じ陣営の奴だろうし」

 

今回の収穫といえば、下手人がいたという事実が判明した点のみだ。

おそらくは屋敷への襲撃であり、四日目の夜に行われるそれの被害者にスバルもまた加えられたのだろう。他のロズワール邸の住人がリストに載っているかは定かではないが、

 

「俺が載るぐらいなら、全員載ってんだろうよ。……たぶん、盗品蔵と同じでエミリアたんの王選絡みだろうから」

 

ロズワールがどの程度、周辺貴族から恨みを買っているのかわからないので、彼絡みの怨恨の線はとりあえず消しておく。どうせ巻き添えを食らうなら、可愛い女の子の事情の方に巻き込まれたいものだし。

 

しかし、とスバルはそこまで考えて頭を抱える。

襲撃があり、そしてエミリアたちがおそらく狙われているだろうことまで看破できた。そこまでは上首尾といえる。だが、

 

「それがわかったところで、説明に足る証拠も、未然に防ぐ手段も俺の手の中にねぇ」

 

『死に戻り』の厄介さは、それを説明できないところにあるといっていい。

ましてや今回は屋敷への襲撃を先回りして見てきたのだ。ロズワールに必死で呼びかけ、襲撃への対策を取ってもらえたとして、それを見て襲撃者が襲撃を取り止めたとき、果たしてそれを証明する手段があるだろうか。

最悪、狼少年扱いされてでも、エミリアたちを守るためには仕方ない犠牲だと割り切るつもりではいるが。

 

そして、襲撃者を直接撃退するという手段は完全にアウトである。まずスバルにそんな戦闘力がないのは自分でわかり切っている上に、相手の性質も欠片もわからない。

ウンコ漏らして大泣きしてたところを、ガツンと殺されたのが簡単な前回のあらましだ。我ながら、ひどいまとめ方もあったものである。

 

「おまけに相手の面どころか獲物も見てない。まさに犬死」

 

相手の素姓が見えてこないのでは、撃退のプランすら練り始められない。

腕を組み、首をひねり、腰を回して円を描き、足はムーンウォークをしながらぐるぐると部屋を周回する。と、そんなスバルに、

 

「――死ぬほど鬱陶しいから、とっととやめるか殺されるか選ぶといいのよ」

 

部屋の中央、スバルの円運動の中にいた少女が心底不機嫌にそう言った。

スバルはそんな険悪な彼女の方に振り返り、

 

「悪い悪い。でも、こうやって頭以外のとこも回転させてっと不思議と頭の方も回るんだよ。だから大目に見てくれ。俺とお前の仲だろ」

 

「ベティーとお前の間にどんな関係があるのかしら。まだ二回しか会ってないのよ」

 

「そんなこといっても心は正直だぜ。俺をさらりと部屋へ招いたくせに」

 

「何もしてないのにそっちが勝手に『扉渡り』を破ってきやがったのよ。ホントにどうなってるのかしら。信じらんないのよ」

 

相変わらず、スバルへの敵意を隠そうともしないベアトリス。彼女のそんな態度にまたも救われる気持ちで、スバルは禁書庫へ足を運んでいた。

多少、割り切ったつもりではあるが、やはりラムやレムの二人に初対面扱いで余所余所しい態度を取られるのは堪えるものがある。前回と違って断りを入れてから部屋を出たものの、縋れる場所はここしかあり得なかった。

 

「まぁ、お前に迷惑をかけるつもりはねぇよ。茶でも出してゆっくりさせてってくれ」

 

「そんなもん出るわけないのよ。ああもう、うっとうしい」

 

己の縦ロールに触れながら、ベアトリスは苛立ったように口の端を歪める。ふと、そんな彼女を見ていて思ったことがあった。

 

「そういや、お前って見た目そんなでも魔法使いなんだろ?」

 

「魔法が使えるという意味ならそうなのよ。でも、そんじょそこらの二流どころと一緒にされたら困るかしら」

 

ふふん、と少し鼻高々でこちらに流し目を送ってくるベアトリス。よほど自信があるのだろう。自らの能力の高さを誇示するようなその態度に、

 

「お前、友達少ないだろ」

 

「どうして今の話からそんな話題に飛ぶのかしら!」

 

「いや、俺も友達いないからわかるけど、お前のそれはよくないよ。さすがにその年代から高飛車キャラやってっとあとに響くぞー」

 

やいのやいのとからかうスバルにベアトリスは嘆息。そんな彼女の反応にスバルは今の流れを打ち切り、「さて」と前置きしてから本題を切り出す。

そう、魔法使いの彼女に折り入って聞きたい話。それは、

 

「対象を衰弱させて、眠ったように殺す魔法……とかってあるか?」

 

スバルの陥った衰弱の状態――あれが毒や病によるものか、あるいは魔法によるものかを確定させたいというものだった。

突如として襲った怖気と倦怠感、あれの正体をスバルは今のところ『魔法』であると疑っている。

根拠としては、突発的な伝染病にかかる切っ掛けが見当たらないことと、毒を摂取させられたにしては遅行性に過ぎるだろうという判断だ。

特に毒に関しては、盛られたタイミングが見つからない。夕食はバイキング形式で、スープなどはひとつの鍋から分けたものだ。あるいはエミリアと一緒にしたお茶と菓子に仕込んであったとも考えられるが、

 

「その場合、俺がいつ菓子だか茶だかを飲み食いするかが読めない」

 

確実性に欠ける、という意味ではそのやり方は不適格だろう。特に初回と違い、侵入者があったとみられる二回目ならなおさらだ。

侵入者はスバルが衰弱状態にあると知っていなければ、毒を仕込んだ意味をなさなくなってしまうのだから。

 

スバルの問いかけにベアトリスは眉を寄せる。なぜ、そんな質問をしたのかを不審に思ったのだろう。が、スバルの表情に珍しくふざけた色がないのを見てとったのか、彼女はため息まじりに肩をすくめ、

 

「あるかないかでいえば、あるのよ」

 

「あるのか」

 

「魔法というより、呪いの方に近いかしら。魔術師より呪術師の方が得意とする術法にそんなものが多いのよ。陰険な呪い師らしいやり方かしら」

 

ここへきて、呪術師という新たなジョブが表れてスバルは困惑。ベアトリスは講義するように指を一本立て、

 

「呪い師――転じて呪術師は北方のグステコって国が発祥の、魔法や精霊術の亜種なのよ。もっとも、出来損ないの術式ばかりでとてもまともに扱えたもんじゃないかしら」

 

「でも、実際に他人を呪い殺せたりするわけだろ?」

 

「そこが出来損ないなのよ。――使い道がおおよそ、他者へ害する形でしか存在しない。マナへの向き合い方として、これほど腹立たしい術式があるかしら」

 

呪術への憎悪は根深いらしく、そう語るベアトリスに譲歩の兆しは欠片もない。スバルにも積極的に呪いを庇う姿勢などなく、今はもっと情報が欲しいと身を乗り出して先を促す。

 

「それで、その呪術ってやつならさっき言ったみたいな方法も」

 

「できる、とは思うのよ。でも、わざわざ呪い師を呼ぶよりもっと簡単な方法もあるかしら」

 

眉間に皺を寄せるスバルに、ベアトリスが意味ありげに笑う。と、彼女はふいにその小さな掌を広げ、スバルの視界を覆い隠す。直後、

 

「――うぁ」

 

ぐらり、とふいに訪れた喪失感に、スバルは上体を大きく揺らして崩れる。

とっさに片膝をついて堪えたものの、危うく意識を持っていかれかねない感覚だった。何度かまばたきし、やや倦怠感があるものの体は動くと判断。

 

「どうかしら、身を持って味わった気分は」

 

と、そんなスバルを見下ろしながら、ベアトリスが小さく喉を鳴らして笑う。手の甲を口元に当てての微笑は仕草こそ上品だが、その前にやったことを考えれば可愛らしいと流してやるには度を越していた。

 

「てめぇ、今のは……」

 

「単純に、お前の体の中のマナを吸い上げただけなのよ。これを過剰に繰り返せば、それだけでさっきと同じ症状に陥るかしら。呪い師なんていけ好かない奴らに頼るより、よっぽど楽で確実なのよ」

 

勝ち誇るように言うベアトリスを恨めしげに見上げるが、それ以上の反抗が今のスバルにはできそうにもない。

どうしてこれほど、とまで考えて、スバルははたと思い至る。

今の時間軸だと、スバルがベアトリスに最初のマナ吸収――通称『マナドレ(マナ・ドレイン)』されたのは昏倒直前。つまり、寝る前にやられたマナドレを目覚めてすぐにやられた形になる。

 

「殺す気か!?」

 

「加減はしてやってるのよ。ここで死骸になられると、本を取ろうとするたびにお前の死骸をまたがなくちゃいけないから大変かしら」

 

「死骸って言うな、虫みてぇに聞こえるわ」

 

ホントにそんな程度にしか思っていなそうな視線を受けて、スバルはそろそろどうしてここを安住の地などと感じたんだろうと自分に疑問。

手足の感覚を確かめ、どうにか力が入るのを確認して立ち上がる。その場で軽く足踏みし、軽快にタップを踏んでみせてから、

 

「まさか、俺を殺したのお前じゃないだろうな」

 

「死んでたならこうして話す煩わしさも消えて楽なことなのよ。残念だけど、ベティーは忙しいからお前を殺す手間も惜しいかしら」

 

両手を後ろに組み、スバルの隣を抜けてベアトリスは書架へ向き合う。ゴシックロリータな衣装の裾が揺れ、背伸びする少女の手は少女の上背より少しだけ高い場所を目指す。と、

 

「これでいいのか?」

 

「……その隣なのよ。とっとと渡すかしら」

 

「へいへい」

 

意外と分厚い本を書架から抜き、膨れ面の少女にポンと手渡す。受け取った少女は不満げな顔つきのまま、またスバルの隣を抜けると奥の脚立へ。椅子に腰掛けるより、その脚立の足場の上がしっくりくるらしく、スバルが禁書庫を訪れるとだいたいの場合、彼女はその定位置で読書していることが多かった。

 

「それはなんの本を読んでんだ?」

 

「部屋に入った虫を追っ払う方法が書いてあるのよ」

 

「おいおい、書庫なのに虫わいてんのか、最悪だぞそれ。どんな奴だ」

 

「黒くてでかくて目つきと口が悪いのよ。あと態度もでかいかしら」

 

「ずいぶん特徴のある虫だな、それ……」

 

あたりを見回し、できればとっとと退治してもらいたいものだと思う。

禁書庫はスバルにとっては読めない本の寄り合いでしかないが、それでも本好きとしては本が苦しめられる状況はなるべく避けたい。

わりと本心からそう思うスバル。そのスバルを横目に見ていたベアトリスは、小さく吐息して、

 

「まだ何か用事があるのかしら。何もないなら出てってほしいのよ」

 

「ああ、えっと……そう、さっきのマナをちゅーちゅー吸うやつって、誰でも使えんの?」

 

「その表現は心外に尽きるかしら。……この屋敷だと、使えるのはにーちゃとベティーだけなのよ。ロズワールは、これの才能はなかったかしら」

 

「へぇ、万能って聞いてたけどな」

 

案外、見栄を張ったところもあったのかもしれない。などと雇い主に対して不敬な考え。もっとも、現状ではまだ出会ってもいない相手だが。

 

「それにしてもアレだな。お前といい、パックといい、マナドレするときにがっつり持ってくのやめてくんねぇかな」

 

「……にーちゃもお前からマナを徴収したのかしら」

 

「ああ、あんにゃろう、俺がマナ太りで苦しむのをいいことに、よいではないかよいではないかってな感じで嫌がる俺を無理やりに……どした?」

 

悪代官に帯を回される雰囲気で語るスバルの前、ベアトリスがその白い面にさっと朱色を差して俯いていた。彼女は頬に両手を当てて、

 

「ああ、なんてことかしら。――にーちゃと間接マナ徴収してしまったのよ」

 

「なんだ、その間接キスみたいな甘酸っぱい感じ!その理解度だと俺のポジションが回し飲みされたアルミ缶みたいでやだよ!」

 

「そう考えるとなんだか芳醇な味わいだった気が……もう一回いいかしら?」

 

「干からびるわ!わりとマジに今は血が足りねぇんだよ、血が!」

 

「ああ、モツは全部戻したけど、血までは戻らなかったかしら。まぁ、ベティーもそこまで万能ではないのよ」

 

残念そうに吐息する彼女の発言に、スバルは「ん?」と首を傾ける。

今の文法だと、どうにもおかしな事実が浮かび上がるのだが。

 

「今の言い方だと、なんか俺の傷口塞いだのがお前みたいな感じに聞こえたんだけど。エミリアたんの手柄横取りとか性格悪いぜ?」

 

「あの雑じり者の小娘に、致命傷を治す力なんてまだないのよ。にーちゃと小娘で傷を塞いで、ベティーが治した……どうしたのかしら」

 

「いやマジ超複雑」

 

思わぬところで自分の生還の裏事情が晒された。

てっきり、路地裏での負傷を治してもらったのと同じ流れで、スバルの傷を治してくれたのはエミリアだと断定していたのだが。

疑わしさに目を細めるも、胡乱げな目で見返してくる少女に動揺はない。よほど肝が据わった大嘘つきでないかぎり、事実を言っているとみていい。

つまりベアトリスは、

 

「肝が据わった大嘘つきか。マジ、性格最悪だな、お前!」

 

「他人様の厚意を素直に受け取れないお前も相当なのよ!」

 

がいがいと言い合いになり、けっきょくは取っ組み合い寸前までいく騒動。最終的には取っ組み合いに持ち込もうとしたスバルが、ベアトリスの魔法力によって華麗に吹っ飛ばされることで決着。

 

逆さまになってドアに叩きつけられ、上下反転したスバルの前でベアトリスは長い縦ロールを大きく振り、

 

「そろそろ出ていってもらうかしら。手の震えも止まってるし、恐いのも誤魔化せるようになった頃合いなのよ」

 

「……ばれてた?」

 

「隠そうとしてたのかしら?そうそう都合よく扱われるのも心外なのよ」

 

つまらなそうに鼻を鳴らし、ベアトリスは虫を払うように手振り。

その仕草を見届けて、スバルは体を転がして勢いで立ち上がる。顔の前に持ち上げた手――その指先は確かに、震えを忘れている。

 

死ぬのも通算で五度目になるが、決して慣れる感覚などではない。むしろ回数を増すごとに死の経験は積み重なり、あの恐怖に再び触れるかもしれないと思うだけで足が竦む。

ましてや今回は死に方が死に方だ。戻ってきたスバルの心胆が絶望に軋み、指先や足下に勇気が通わないことを誰が責められるだろう。

 

「なんて、言い訳タイムも終了か。優しくないね、まったく」

 

苦笑。それを最後に言い訳を置き去りにして、スバルは顔を上げる。

ドアノブに手をかけ、表に出る前に最後に少女に振り返り、

 

「悪かった。でも助かった。また頼む」

 

「報酬は間接マナ徴収なのよ。次はごっそり根こそぎいくかしら。だからもう、勝手にくるんじゃないのよ」

 

本に目を落としたまま、すげない口調でそうとだけ言って捨てる。

そんな彼女に見えないように笑みを刻んで、スバルはドアノブを開いて『扉渡り』を抜ける。そして、

 

「――その前に、お前、さっきの虫ってひょっとして俺のことか!?」

 

「もうとっとと出ていくのよ、ぶっ飛ばされたいのかしら!?」

 

ぶっ飛ばされて『扉渡り』が行われた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「えっと、大丈夫って聞いていい?」

 

「マジその優しさだけが癒しだわー。これホントマジやばいわー」

 

庭園で銀髪の少女と向かい合い、スバルはそう言って肩を落とした。

ベアトリスの魔法力に弾かれ、扉を飛び出したスバル。そのまま彼の体は庭園の二階テラス入口から射出され、そのまま花壇へと転落した。

 

幸い、土が緩かったので大事には至らなかったが、落下の仕方によってはそのまま三回目のやり直しに移ってもおかしくなかった。死因:口論である。

 

「ますます、俺を殺したのがアイツである説が有力になるな……」

 

「立てる?お腹の傷に響いてない?」

 

「塞いだ傷が破けた的事態はとりあえずなし。塞いだ奴に破られるとかマジ玩具扱いだよ。あー、悪いけど手ぇ貸してくれると助かりますです」

 

「その花壇、昨日にレムが動物の糞を肥料にまいてたのよね……」

 

「うおおおわあああ、アブノーマルプレイィィィィ!!」

 

花壇に突き刺さった右半身を引き抜き、転がるように花壇の外へ。微妙に遠目からこちらをうかがうエミリアの前で、スバルは泥と下手したら泥以外で汚れた赤茶の作務衣を振り乱し、

 

「ノーカン!ノーカンだよね!?昨日の話だし、浄化されてるべ!?」

 

「あのね、スバル。こういうのは『ウンが付く』っていうのを、幸運と言い換える考え方があって……」

 

「すでにエミリアたんが慰めにシフトしてる!?」

 

つまり判定アウトである。

半泣きで袖を振るスバルを不憫に思ったのか、エミリアはその端正な面に苦笑を刻むと、そっと懐に手を入れる。そして、

 

「――パック、起きて」

 

差し出された彼女の掌、そこに乗る緑色の結晶が淡く輝く。

そこから溢れ出した光は次第に小さな輪郭を結び、ほんの数秒のあとに輝きが晴れると、灰色の体毛の手乗り猫が出現していた。

猫はその体を思い切り伸ばし、まるで欠伸でもするような仕草をして、

 

「うーん、おはよう、リア。ああ、それとスバル、起きたんだね」

 

「おはよ、パック。起きていきなりで悪いんだけど、スバルの体、洗ってあげてくれる?」

 

顔の前にパックを持ち上げ、片目をつむっておねだりするエミリア。思わずスバルが見惚れる仕草。それを間近にしたパックは平然とした態度で振り向き、スバルの泥塗れの様子を見ると納得したように頷いて、

 

「それじゃ、洗うよー。それ!」

 

「洗うよーって気軽に言われても、うぇいっ!?」

 

パックが両手を突き出しこちらに向ける。と、その両掌を起点に魔法陣が彼の前面に展開、そこから射出されたのは大量の水だ。

真っ直ぐに打ち出される水はその勢いでスバルの右半身を直撃、塗れたこの世の不浄を一気に押し流すが、

 

「鉄砲水か――!!」

 

叫び、右半身に水を食らう勢いのままにスバルの体が回る。

 

「おっとと、バランスが悪い」

 

言いながら、パックが水の角度をわずかに変更。今度は左半身が水の砲撃を浴び、逆回転によって元の軌道へ。

その後も中心線がそれるたびに、水の的中判定による微調整を受け、

 

「ほら、きれいになったね」

 

「右へ左へ……振り回された俺の……この、心は……どうおろろろろろろ」

 

水浸しの芝生に四肢を着き、揺れる三半器官に命じられるままに嘔吐の姿勢に入る。が、胃の中が空っぽなのでよだれしか出ない。

それでもさんざっぱら繰り返せば、多少は気分も復調する。スバルは水でよれよれの袖で口元を拭い、ようようといった様子で立ち上がり、

 

「最初の鉄砲水はヤバかった……腕もげるかと思った。おい、まさか本気でお前らが犯人じゃねぇだろうな」

 

「なにを疑ってるのかぼんやりとしかわかんないけど、ボクがそんな悪辣非道な精霊に見えるのかい?心外だよ、心外。ぷんぷん」

 

腰に手を当てて、今まさにスバルを水流で弄んだ猫がそんなことを言う。

その狭い額にデコピンを打ち込み、「うにゃ!」と悲鳴を上げさせてから、スバルは改めてエミリアと向き合った。

 

なんだかこれまでにない再会になってしまったが、ここからリカバリーできるかはスバルの交渉力にかかっている。

なんだかんだで初回も二回目もエミリアとはうまくやっていた気がするので、それを根拠に今回もガンガン攻めようと決意。

さて、まずどんな最初の一言を――と、しかしそんなスバルの覚悟は、

 

「ぷっ」

 

「ほぇ?」

 

「あはは!もう、ゴメン、ダメ。あは、ふふふふ!もう、二人してなにやってるの……ああ、お腹痛い。やだ、死んじゃうっ」

 

突如として笑い出した彼女の前に、全部吹き飛ばされてしまった。

濡れ鼠となったスバルを指差し、エミリアは堪え切れない笑いの衝動を全て吐き出すようにして爆笑している。

 

場所が外でなければ、笑い転げてしまいそうなほどの反応にスバルはしばし呆然。それから、いつの間にか宙を浮遊しているパックと目を合わせ、

 

「とりあえず、ファーストコンタクト成功!アシストありがとうございます、御父さん!」

 

「誰が御父さんか。そう簡単に娘は君にやらんよー」

 

胸をそらして偉そうにパックが言い放つ。

それを聞いてまた、エミリアの大きく笑う声が庭園を弾けた。