『グッドルーザー』


 

――『最優の騎士』と、そう自ら名乗ることには勇気がいった。

 

他者からそう呼ばれ、褒めそやされることへの誇らしさはあった。

だが、自分から『最も』『優れたる』などと自称したことは一度もない。

 

惜しまぬ努力を重ね、研鑽の日々を過ごした自負はある。

しかし、非才で未熟な身の上では、上を見ればキリがないほど優れたる先達、尊ぶべき仲間、驚嘆すべき後進に囲まれるばかり。

それを悔しいとも、幸福なことだとも思っていた。

 

誰かに認められるということは、奮励と精進の果ての見返りであるべきだ。

ましてや、誰しもに認められようとするのなら、その奮励と精進は途方もない、ただそれだけで誰もが恐れ入ってしまうような、そんな研鑽でなくては。

 

――はたして、自分はそれに相応しい努力をしてきただろうか。

 

惜しまぬ努力と重ね、研鑽の日々を過ごした自負は、確かにある。

しかし、限界を超えたか?常日頃、力尽きるまで己を磨いたか?他者の奮励に触発されて、より一層の努力を理想に誓ったか?

 

その、自問自答に自ら答えよう。

 

ユリウス・ユークリウスは、それを果たしてきた。

限界を超え、力尽きるまで己の磨き、他者の奮励を手本により一層の努力を誓った。

 

――故に、『剣』の頂たる存在を前にして、堂々と胸を張れたのだ。

 

「――私は『最優の騎士』、ユリウス・ユークリウス。あなたを斬る、王国の剣だ」

 

「――――」

 

マントの裾を掴み、一礼したユリウスの正面で『剣聖』が沈黙する。

彼は眼帯に覆われたのと反対の目、そちらの瞳も閉じて、ユリウスを見ない。ただ静かに太くたくましい腕を組み、何事か思案する。

だが、その思案も長続きはしない。元々、考え事に不向きな性質であるのは、ここまでの短い付き合いでもようと知れる。

故に――、

 

「ああ、ああ、ああああ、あああああああああああああ――っとくらぁ!!」

 

ガシガシと自分の頭を掻いて、『剣聖』レイドが一度強く地団太を踏む。

その一発で二層の白い床が弾けたように揺れる。二人の対峙を見守るエキドナが身をすくめたが、真っ直ぐに立つユリウスは小揺るぎもしない。

それを見て取って、レイドは「ちっ」と舌打ちした。

 

「見栄、見栄、見栄……ああ、見栄かよ。やっぱりオメエ、オレの子分みたいなこと抜かしやがる。とことン、気に食わねえ野郎だな、オメエよ」

 

「生憎と心当たりはないが、その子分の男性には共感を抱かざるを得ないな」

 

「あぁ?誰が子分が男だなンて言ったよ。第一、野郎なンざ連れ回しても面白くねえだろ。オレの言ってる子分ってのは女だ。面ァいいが、理屈がうるせえ」

 

「女性……では、私とその女性の共通点とは?」

 

「ああ?何度も言わせンなよ」

 

鼻面に皺を寄せて、レイドは鮫のような獰猛な笑みを浮かべる。

そして、腕組みを解いた手で自分の頬をぺしぺしと叩いて、

 

「理屈臭ぇところと、面がいいとこだよ」

 

「――――」

 

「けっ、イラつきもしねえか。可愛げのねえ。……ま、それでいいがよ」

 

ユリウスの乏しい反応に鼻を鳴らして、レイドは首の骨を盛大に鳴らす。それから彼は青い瞳でユリウスを観察――否、ユリウスではなく、その周辺だ。

ユリウスを取り巻くように揺れ動く淡い光、それは輝きを以前よりも増していた。

何より、レイドの前でこうして彼女たちをお披露目するのは初めてとなる。

 

「私の蕾……いいや、麗しの乙女たちに何か?」

 

「ハッ、何もねえよ。いい女ってのは種族を選ばねえもンだ。生憎、抱けねえ女にゃ興味もねえがな。――オメエは、殻破った方が強くなれたぜ?」

 

「あなたがそう言うなら、そんな道もあったのかもしれない」

 

後進への助言など、レイドの人柄からは考えられない気紛れだ。

それを起こしたのは、レイド自身が気分屋なのと、剣に縋るしかなかったユリウスの必死な姿を、彼がもったいないとそう思ったからだろう。

どうせ剣に縋るなら、なりふり構わない姿勢を示せ。――彼が、ユリウスに望んだのはそういう態度と覚悟であり、それもありえた道だった。

しかし――、

 

「私は、この道を往くと決めた。あるいはあなたの言う通り、殻を破り、本来の私などというモノを剥き出しにした方がより強くなれるのかもしれない」

 

ユリウス自身、強く意識していなければ、自ずからそうなる自覚がある。

とっさの瞬間、ギリギリの攻防、皮一枚が生死を分ける局面となれば、本当のユリウスの顔が現れると。

だが、それは強く意識していなければの話。――もう、揺るがない。

 

「断言しよう。私は、騎士としての己を突き詰める。その上で、あなたが私を導こうとした道よりも、あらゆる面で優れたる私となろう」

 

「はン、どういう理屈でそうしようってンだ、オメエ」

 

「決まっている。――私の信じる騎士というものは、理想の体現だ。それは清く正しく、何よりも強い。ならば、騎士を名乗る私がそうでなくては話になるまい」

 

「――は」

 

我ながら無茶な理屈、筋の通らない暴論暴言、笑われて当然の横暴専横。

だがしかし、それを聞いたレイドは怒りを露わにするでも、呆れと軽蔑を向けてくるでもなく、ただ鋭い歯を見せて笑った。

そして――、

 

「泣かしてやるよ」

 

言いながら、レイドは手にした箸を放り捨て、瞠目するユリウスの前で大きく後ろへ飛びずさった。それから、ゆっくりとその手を横に伸ばす。

大きな掌が鷲掴みにしたのは、白い階層の床に突き立った選定の剣――、

 

本来なら、塔の試験官として存在を貸すだけだったはずのレイド・アストレア。

何の因果か、強烈な自意識で塔の仕組みを引き剥がし、ついには襲来した『暴食』の大罪司教の肉体を上書きすることで疑似的な蘇生さえも成し遂げた。

そんな状態になって、もう塔の『試験』になど従わなくてもいい立場になって、そこで初めてレイドは選定の剣を、本来の役目に従って引き抜く。

すなわち――、

 

「――天剣に至りし愚者、彼の者の許しを得よ」

 

「そりゃオレの台詞だろ。……まぁ、すっぽ抜けたから忘れちまってたが」

 

「だろうと思って、代わりに言ったのですよ。――挑ませていただく」

 

「許すかよ、間抜け。ひいひい言わせてやるぜ」

 

騎士剣を正面に構えたユリウスの前で、レイドが引き抜いた剣を雑に向けてくる。

隙が、全くない。自然体にして、極められた究極の剣士――、

 

――全ての剣を握るものたちの頂、『剣聖』レイド・アストレア。

 

「いざ――」

 

「適当に」

 

「――参る!!」

 

己を形作る騎士道を信じ、ユリウス・ユークリウスは全力で『剣聖』へ挑みかかった。

 

△▼△▼△▼△

 

身も、心も軽い。

比喩抜きに、それは騎士剣を振るうユリウスの全身を包む昂揚感の力だ。

 

戦いにおいて、精神の安定が大きく影響するのは言うまでもない。

考えてみれば、ユリウスはこのプレアデス監視塔にきて以来――否、水門都市で己の『名前』を奪われてから、ずっと不安定な状態にあったと言っていい。

 

無論、ユリウスは可能な限り己を戒め、自制し、それを表に出さずにきた。

人が聞けば鋼の理性などと評されそうな自制心――だが、褒められた話ではない。

 

そうして己の不調を表に出さず、仲間も、自分さえも騙していたことの結果が、この塔へ到着して以来の連戦連敗、あの無様な敗戦へ通じたのだ。

 

ユリウスはまず、他者を信じるべきだったのだろう。

自分の存在を忘れられたことの衝撃に狼狽え、相手の世界から欠け落ちた自分を憐れむばかりに、一番信じなくてはならなかったことを見落とした。

 

ユリウスの、自分が信じ、忠誠を誓い、背中を預けた大切な人たちは、我知らず世界から欠け落ちたユリウス・ユークリウスを蔑ろにするような人間だったか。

 

――断じて否と、そう言い切れる。

 

ならば、ユリウスのするべきことは一つだったのだ。

真摯に訴え、自分から愛情を示せばよかった。――蕾たちと、そうできたように。

 

「断ち切られた絆は結び直せばよかった。何者でもないものが、何者にでもなれる……他ならぬ私自身が、その生き証人だったのだから!」

 

何者でもない平民の子が、この世で最も格好のいい騎士にだってなれたのだ。

何者でもなくなったユリウスも、また何にだってなれたはずだった。

そして――、

 

「幾度機会を得られようと、私はあの日、燃えるような少年に憧れ、騎士を標榜する背中に理想を見、『剣』の頂たるあなたへ挑むだろう――!」

 

「ぐだっぐだと、しゃらくさいってンだよ、オメエ!!」

 

決意を剣先に乗せたユリウスの斬撃に、同じく剣撃を合わせるレイドが吠える。

その剣風と剣圧に全身を打たれながら、ユリウスは黄色い瞳を細めて感嘆していた。

 

こうしてレイドと戦うのは、仕切り直しを入れれば四回目。

最初の挑戦と、直後の敗戦。さらには監視塔全体が危うくなってからの足止めと、そして蕾たちとの再契約を果たした今回の四回だ。

その中で、レイドが箸以外の武器――箸を武器と呼んでいいかは甚だ疑問の余地があるが、とにかく箸以外を振るうのはこれが初めてのこと。

そうして、『剣』の頂たる『剣聖』が満を持して剣を握った今、思う。

 

「箸のときと、剣力が変わっていない……!」

 

「だぁから言ってやっただろうが。オレが強ぇのは剣が振れるからじゃねえ。オレが強ぇのは、ただオレが強ぇってだけが理由だってンだよ」

 

無造作に振り下ろされる剣撃を頭上で受け、膝が軋んだ直後には真下から追撃がくる。それを鍔元でかろうじてしのぎ、衝撃にユリウスは後ろへ飛んだ。

それを、レイドは踏み込みではなく、大股に歩くだけでついてくる。

 

特殊な歩法を疑いたくなるが、特別なことは何もない。

下がった相手に追いつくと、そう考えて足を踏み出すだけで、流派が何代もかけて編み出すような歩法を易々と実現するのがレイドというだけ。

それはレイド自身が語った通り、ただの規格外の『存在』というだけのこと。

 

「泣きたくなってきたか?」

 

「――。いいや、伝説に挑んでいる実感に胸が弾む!」

 

虚勢ではなく、ユリウスは実勢に駆られながら答えた。

そう、そうなのだ。目の前にいるのはレイド・アストレア。ユリウス自身、幾度彼の伝承に胸を躍らせ、瞳を輝かせ、憧れたことだったろうか。

実際のその人と会い、その人柄に驚きこそしたが、実力は憧れた理想そのものだった。

なればこそ、いったい自分はどこまでもったいないことをしてきたのか。

 

言葉を交わし、剣を交わし、思想と信念を交わす機会がありながら――、

 

「は」

 

『本物』と剣を交えながら、不意に掠めた考えにユリウスは息を吐く。

あまりに場違いで、しかし、期待に胸躍らせる発想、それは実に小気味いい。

 

「なに笑ってやがンだ?」

 

「いいえ、ただ思っただけです。――ここでの目的を果たして帰参した暁には、我が友、ラインハルトに挑もうと」

 

レイドの問いかけに、ユリウスはその思いつきを口に出す。

これまで一度も、ユリウスはラインハルトと剣の腕を競ったことがなかった。それどころか、王選で陣営を違えることとなるまで、何一つ競い合おうとは思わなかった。

 

――並び立とうとしなかったことを悔やんだこと。

それも、ユリウスがアナスタシアに仕え、王選に臨んだ理由の一つだった。

だが、仮にそんな想いがなかったとしても、ユリウスはアナスタシアの大器に魅せられ、彼女と同じ夢を見ることを望み、同じ場所に立っただろう。

 

ならば、つまらない言い訳や迂遠な建前など、最初から必要なかった。

最初から二振りの木剣を携え、ラインハルトの下へ赴けばよかっただけだ。

 

過去に一度、ラインハルトとヴォラキア帝国の最強の剣士が剣を交えたことがあった。

練兵場で誰もがその剣気に熱狂したあの日、ユリウスも胸を熱くした。

それが、答えだったのだから――。

 

「はン、知らねえ名前だ。どこのどいつだ、その馬の骨」

 

「あなたの子孫だ。そして、当代の『剣聖』にして、私の友」

 

「かっ!ガキのガキなンざ、もう他人だろうが。道端で会っても気付きゃしねえよ」

 

剣技に蹴り技を織り交ぜて、レイドが鼻を鳴らしながら無責任を説く。

その論説にはいささか反論があると、ユリウスは剣を合わせながら口を開こうとして、

 

「そろそろ、他人の話は飽き飽きしてンだ。オメエ、オレとお喋りしてえのか?」

 

「――。否定はしないが、否定しよう」

 

「――――」

 

「時さえ合えば、私はあなたと二晩でも三晩でも言葉を交わしたい。だが、今はそのための時が惜しい。急げ、とも背を押されている。故に――」

 

距離が開いたところで、レイドがユリウスを眺めながら頬を吊り上げた。そのレイドの青い瞳に、その輝きを増していくユリウスの姿がある。

渦巻く六色の輝きは混ざり合い、やがて緩やかに極光を、虹を描き始める。

そして――、

 

「――アル・クラウゼリア!!」

 

――放たれる虹の輝きが、白い世界をレイドへ向けて席巻した。

 

△▼△▼△▼△

 

放たれた極光の威力と範囲に、ユリウス自身も目を見張る。

それはもはや、これまでと同じモノとして扱う方が非礼に当たるほど、別格の規模の魔法と化した極大の精霊術――、

 

『――――』

 

蕾――否、その閉じたる才を文字通り開花させた彼女たちを蕾とは呼べない。

美しく、可憐に、勇壮に、凛々しく、華やかで、神々しくさえ思える成長を遂げた彼女たちは、蕾ではなく乙女だった。

六体、それぞれの魅力を発揮する彼女たちを、たった一人の身で占有するなどと、あるいは大罪司教以上の罪人であるのかもしれない。

しかし――、

 

「たとえ、君たちに忘れられようと、私は君たちを愛している」

 

放たれた極光へ追いつくように、ユリウスは前へ踏み込んだ。

六属性を纏った虹の光は、あらゆる防護を突破して対象を打ち砕く。故に、虹色の輝きの前に相手が打てる手は二つ――受けて立つか、躱すかだ。

 

「――は」

 

そして性格上、レイド・アストレアは虹の光を躱さない。

正面から押し寄せる虹の光に対して、レイドはそのたくましい腕を振りかざし、握った選帝の剣で光の先端を薙ぎ払った。

特別な魔法や加護に頼らない、純粋な暴力という名の『剣技』――それが、ユリウスの放った渾身の極大魔法を一振りで掻き消す。

 

だが、前に踏み込むユリウスはそれも織り込み済みだ。

掻き消される極光の後ろから飛び出し、ユリウスは剣と、乙女たちの力を借りる。

 

「イア!アロ!」

 

瞬間、呼びかけに応じる赤と緑の精霊がお互いの力を高め合い、燃え盛る炎を取り込んだ風が渦巻き、灼熱の竜巻がレイドの足下から生じた。

その熱波をゾーリの裏に感じて、レイドが焼かれるより早く上へ逃れる。

しかし、精霊騎士の、『最優の騎士』の連係はここからが本領だ。

 

「クア!イク!」

 

黄色の精霊が白い床に隆起を生み、ユリウスの体を上方へ押し上げる。同時、青の精霊の輝きが大気中の水分を凍結させ、上へ飛んだレイドの上昇を妨害した。

舌打ちし、空中を蹴るという人外じみた離れ業で姿勢を反転させ、レイドは中空に生じた氷の天井に逆さに足を付け、ユリウスを睨む。

ぐっと、レイドの膝に力が入り、上昇するユリウスの迎撃がくる――、

 

「イン!ネス!」

 

『剣聖』の反撃が迫りくる刹那、白と黒の精霊がそれぞれの力で世界に干渉。

白い光がユリウスの全身に力を与え、黒い光がユリウスの敵の力をわずかでも削ぐ。その瞬間に生まれるささやかな差が、直後の結果の立役者だ。

 

「――――」

 

足場にされた氷の天井が砕け散り、射出されるレイドの姿が速度で霞む。

選定の剣の無造作な構えは、縦横刺突を読み取らせないある種究極の型――それを脅威に感じるのではなく、ユリウスは胸据わって相対する。

 

剣撃に剣撃を合わせては、より強い力に弾かれるのが道理。

故にユリウスは目を開けた。――常に、上を、先を行くものを見続けてきた眼を。

 

「――――」

 

音や光の概念を殺して、レイドの一閃が空間を割った。

断言しよう。それが選定の剣だろうと箸であろうと、その一閃の途上にあったものはことごとくが斬り捨てられた。

何故ならそれは、『剣』という概念の顕現そのものであったからだ。

 

『剣』とは、物を斬るために生み出されるものだ。

そして剣技とは、その剣で物を斬るための技術の総称だ。

 

ならば、この世のあらゆる物を斬る一閃は、『剣』と『剣技』の極致にして本懐。

それに斬られたものは、斬られたという事実を永劫に忘れられまい。

 

だから、ユリウス・ユークリウスが左の目の下に受けた傷跡も永劫に消えない。

それが『剣聖』の一閃を、掠めるほどの距離で躱した代償だった。

 

「――――」

 

受ける姿勢を放棄して、相手の剣を刹那の攻防で見極めた。

斬られた眼底が血を噴く。だが、目は閉じない。相手を見据えたまま、腕を振るう。

受けを放棄し、攻めへと百を注いだ一閃――、

 

「――アル・クラリスタ」

 

ユリウス・ユークリウス、生涯最高の剣撃が虹色を描く。

それがレイド・アストレアの、鮫のように獰猛な笑みを捉え――、

 

――『剣聖』の左目を塞ぐ眼帯が、騎士の一撃に貫かれ、宙を舞っていた。

 

△▼△▼△▼△

 

「――――」

 

爪先から白い床に降り立ったとき、響く靴音がやけにうるさく感じられた。

それを意識した途端、ユリウスの胸の奥で鼓動するのを忘れていた心臓が慌てて動き出す。その血流に背を押され、深々と息を吐いた。

それから背後に振り返り、こちらに向けられたたくましい背中を見る。

 

「――――」

 

赤い長髪が揺れ、背中が立ち尽くしている。

偉丈夫は右手に選定の剣を握り、その左手を己の顔に当てていた。その、左手が探っている位置には本来眼帯があり、しかし今はそこにはない。

『剣聖』の左目を塞ぐ眼帯は今、ユリウスの足下に落ちていた。

 

「……届いた、のか」

 

白い床に落ちた眼帯と、自分の手の中の騎士剣を見下ろし、声が震える。

起きた出来事を確かめるように呟くが、それはあまりに現実感がない。泡沫の夢のように手指の隙間をすり抜け、どこへなりと消えてしまいそうに思える。

だが――、

 

『――――』

 

言葉という概念はなく、六つの光がユリウスの成し得た偉業を称える。

親愛という名の温かな花が、ユリウスの心に生まれた空白を埋めようとしてくれる。

そして、そんな花開いた乙女たちの称賛と共に――、

 

「――ユリウス」

 

微かな声が聞こえて、ユリウスの視線がそちらを向いた。

背を向ける偉丈夫、称賛を伝えてくれる乙女たち、そのどれとも違う位置から戦いを俯瞰し、ユリウスを呼んだのは薄紫の髪をした女性。

大切な、この剣を捧げると誓った主と同じ顔をし、知らず知らずのうちに互いを傷付け合うような関係にあった、悠久を生きる人工精霊――。

 

彼女がユリウスを慮ってくれたのは、アナスタシアを大切に思うからなのか、あるいは『誘精の加護』が働いた結果なのか、答えは暴かない。

ただ、ユリウス・ユークリウスの覚悟を見届ける誰かの存在が、こうまでこの心を軽くしてくれたことを感謝し、騎士剣を掲げた。

 

「――――」

 

無言で、騎士剣を天へと掲げる。

極光を帯びた残滓が煌めいて、剣の軌跡は文字通りに虹を描いた。

それはまさしく、ユリウス・ユークリウスという騎士を祝福するかの如く――、

 

「――これがクソったれな『試験』なら、ここでオメエの勝ちだろうよ」

 

そう言いながら、ゆっくりと偉丈夫がゾーリで床を踏みしめる。

振り向いたレイドの顔に傷はない。ユリウスの剣先が届いたのは、正しく彼の眼帯だけだった。だが、それを届かなかったと嘯くほどレイドも恥知らずではない。

何より、先の彼の発言は負け惜しみではなく、真実だ。

 

これがプレアデス監視塔、二層『エレクトラ』の『試験』の続きであるのなら、一撃が届いた時点でユリウスは合格と上層へ挑む資格を得ただろう。

しかし、ユリウスとレイドの戦いは、もはや塔の『試験』の問題ではない。

 

一人の騎士と一人の剣士、男と男の決着を付けるために戦っているのだ。

 

「――――」

 

眼帯を失い、両目を開眼したレイドが選定の剣を両手で握った。

順手で剣の柄を握り込み、正眼に剣を構える。――そう、『剣聖』が構えた。

無造作に棒を振るのではなく、正しく、敵を斬るために剣を構えたのだ。

 

「消えてなくなっても文句言うンじゃねえぞ」

 

「文句を言いたくとも、それを言う口がなくなっては如何ともし難い」

 

「はン!笑い話を笑えねえ奴だ。オメエ、なンてったっけ?」

 

伝説に名前を問われ、ユリウスは眉を上げた。

もう何度となく彼の前で名前を名乗ったはずだが、それを覚えられていない。だが、覚えられていないことはどうでもよかった。

その問いかけで初めて、レイドが正しくユリウスを認めたとわかったから。

 

「ユリウス・ユークリウス。忘れられやすい名なので、覚えていただきたい」

 

少し前なら笑えなかった冗句を口にして、ユリウスも騎士剣の先端をレイドへ向ける。

そうして、先ほどひと働きしてもらったばかりの六精霊へと、再び助力を願った。

今の自分と彼女たちならば、虹の極光のさらなる高みへ至れるだろう。

 

アル・クラウゼリアとアル・クラリスタ。

六体の精霊の力を借りて、六属性の力を束ねた虹の極光。――その極大魔法を放つクラウゼリアと、それを騎士剣へ宿らせるクラリスタ。

その先に、未熟さ故に一度も成功しなかった秘儀――、

 

「――征く」

「――こい」

 

瞬間、極光が白い空間を埋め尽くし、虹の帯が紅の偉丈夫へと挑みかかる。

 

ユリウス・ユークリウスが独自に編み出した虹の精霊術、その秘中の秘。

六属性を束ねた虹の光を放つのでも、剣に宿らせるのでもなく、己に纏い、極光そのものとなって相手を討つ必殺――、

 

「――アル・クランヴェル」

 

その、精霊騎士の究極の一撃を、白い一閃が真正面から迎え撃った。

 

△▼△▼△▼△

 

最初から最後まで、それは素人目で追いかけるには高次元の攻防過ぎた。

 

ぶつかり合う剣撃はおろか、めまぐるしく入れ替わる立ち位置や足捌き、どちらが優勢でどちらが劣勢なのか、それすらも浅葱色の瞳では捉えきれなかった。

それは、この肉体が本来の自分の持ち物でないことは全く関係がない。

ただ、そういう次元で生き死にを競い合うものたちがいて、それらと比べて、自分の生きる世界はあまりに低次元であるというだけのことだった。

 

生物の価値観が生き物としての強弱にあるなら、無価値なほどに自分は弱い。

そしてそれは、自分が数百年という時間を無為に過ごし、己を高めるという道に背を向けてきたことの証でもあった。

 

初めて自我を意識したときから、予感があったのだ。

自分という不自然な存在の目的は、生まれた瞬間から尽きていたと。

強いて言うなら、生まれること自体が目的であり、その時点で目的は果たされた。故に放置され、無目的に世界を放浪し、数百年の空白を余儀なくされた。

 

死んでも構わなかった。だが、死ぬ理由がなかった。

だから、自分の終幕をダラダラと先延ばしにして、長く長く、怠惰を貪った。

そうして引き延ばしの生涯で、少女と出会ったのだ。

 

鮮烈な生き方をする少女の在り方に魅せられ、冷え切った命は熱を得た。

矮小な身でありえない大言を吐いた少女が何者になるのか、あるいは何者にもなることができないのか、それを見届けたいと焦がれた。

 

いつしか、そんな興味関心はどうでもよくなって――、

 

「――君も、君の大切に想う子たちも、失わせたくないんだ」

 

過ぎ行く時間というものが、優しくも残酷であることを知っている。

時は傷を癒しもするが、想いを古めかしくすることもある。

長い、長い時を生きてきて、初めて思ったのだ。――これを、過去にしたくないと。

 

「それも、無理な願いなんだけどね」

 

止まってほしいと懇願しても、時は止まらずに移ろいゆく。

定命の、ちっぽけで弱々しいはずの命たちは、その時の中であらゆる変化を見せる。

 

『名前』を奪われ、誰の記憶からも取り残された名無しの騎士が、ユリウス・ユークリウスという一人の人間であることを証明するように。

 

――虹の光を纏った騎士が、真っ直ぐに白い光へ飛び込んでいく。

 

秘儀を開帳したユリウスに対して、レイド・アストレアの行動はひどく単純だ。

振り上げた剣を振り下ろす、この世で最も繰り返されただろう剣撃の挙動――それが世界を斜めに両断し、途上のモノを全て打ち滅ぼす光となる。

 

特別な魔法でも、特別な技でもない。

ただ剣を振っただけで、世界が光と共に焼かれていくのだ。意味がわからない。

レイド・アストレアが規格外なのか、『剣聖』とは全員が全員こうなのか。

確かなことは――、

 

「――ユリウス」

 

極光が理不尽な白光に押し負けぬよう、力を尽くしたいと望むこと。

それは紛れもない本音で、しかし、この戦いに直接的に横槍を入れるなんて真似、自殺行為以前に、無粋という罪で魂を砕かれても文句は言えない。

そして、自分には何もできないと、彼女――エキドナはすでに自覚していた。

 

自分には、何もできない。

この場で、極光と化したユリウス・ユークリウスに何かできるとしたら。

 

「――――」

 

薄い胸に手を当てて、その内側で眠っている存在を意識する。

この肉体の本来の持ち主、彼女が深い眠りから目覚めない理由、それを求めてこの砂海の塔へやってきたエキドナ。――だが、それは欺瞞だった。

すでにエキドナは、どうして彼女が目覚めないのか、その理由がわかっていた。

 

自身を強欲であると嘯いて、あらゆる全てを手に入れたいと豪語した娘。

一度懐に入れたものは何としても手放さず、失うことを、失わせることを何よりも厭うのが彼女だったから、理由は一つしか考えられない。

 

「体をボクに譲り渡し、一時的に自身のオドの中に潜んだ君は、外界からの干渉を受けない状態だ。――オドは、ある種の固有の世界だから」

 

そして、彼女はその場所に自分から閉じこもっている。

その理由は明白だ。――オドの外に出れば、影響を受けてしまう。『暴食』の大罪司教のおぞましい権能、その影響を受けてしまう。

 

忘れたくないものを忘れさせられ、手放したくないものを手放させられる。

アナスタシア・ホーシンが、ユリウス・ユークリウスを忘れてしまう。

だから彼女は。しかし――、

 

「どうやら、この塔へきたのは全員、筋金入りの頑固者のようでね。――誰も、失われっ放しで終わるほどの可愛げはないらしい」

 

この二ヶ月近く、自分なりに彼女のやり方を真似てみたが、そろそろ潮時だ。

それに、良いところも悪いところも、名無しの騎士として慌ただしくする彼のことは傍で見てきたから、たとえ彼女が彼を忘れても、教えてやれる。

 

「あぁ、そうか」

 

何の目的もなく、生み出された時点で役目を終えた人工精霊。

そんな役回りだと思っていたが、これが存外、それで終わるだけのものでもない。

 

大切な少女と、大切な騎士と、欠ける二人の橋渡し。

なんと、責任重大な大役ではないか。

 

そのために生まれてきたのだと笑えるぐらい、責任重大ではないか。

だから――、

 

「――君の騎士の一番カッコいいところを見ないなんて、そんなもったいない真似、ケチな君らしくないじゃないか」

 

△▼△▼△▼△

 

――白光が、極光を塗り潰さんと襲いくる。

 

自らの全霊と、再契約した六体の精霊の力を借りて、なおも押される。

こちらは秘中の秘を開帳し、一方で相手は真面目に、本気で剣を振っただけ。――まったく、その不条理なまでの規格外さにはほとほと呆れる。

同時に、そうでなくてはと胸滾る思いもあるのだから、自分も救えない。

 

剣を振るえば世界が割れる。

それは、ラインハルトが剣を振った場合にも起こった『剣聖』の絶技。

ふと、命と命のしのぎ合いの最中に、ユリウスは思った。

 

はたして、ラインハルトとレイド、戦えばどちらが強いのだろうかと。

伝説と伝説、『剣聖』と『剣聖』、実現しない戦いはどちらに軍配が上がるのかと。

生憎と、それを見極める機会は訪れまい。

 

「ならば、私がこの身で確かめる他にないだろう」

 

ラインハルト・ヴァン・アストレアとも、レイド・アストレアとも剣を交える機会を得られるとしたら、それはこの塔へ到達した面々しかいない。

その上で可能なのはユリウスと、上層へ向かったエミリアという女性だけ。――その役目を他人に譲るつもりはない。

だから、あとは勝利するだけだ。

 

この白光を押しのけ、虹の光でレイド・アストレアを討ち果たす。

そのために全霊を、あと一歩の、剣力を――、

 

『最優の騎士』の剣先に、わずかの誇りと力が宿れば――、

 

「――ユリウス」

 

それは、届くはずのない呼びかけだった。

時間経過が曖昧になるほどの衝撃の中、しかし、剣と剣が一合交わるのに必要な時間など一秒にも満たない。これは、そんな刹那の世界の攻防だ。

その場所に、ましてや命懸けの戦いの最中に、誰かの声など届くはずもない。

 

「――――」

 

だが、声は確かにユリウスを打った。

あるいはそれは鼓膜ではなく、もっと奥深く、胸の最奥へ届いたのかもしれない。

騎士という殻を被り続けることを心に決めたなら、それに応えぬことなどありえない。

 

だから、聞こえるはずのない声を聞いたユリウスは、見えるはずのない相手へと振り向いて、その浅葱色の瞳と視線を交わした。

その、大きく丸い瞳に宿った光が、明らかに直前のそれと変わっていて――、

 

「――いったれ、ウチの騎士」

 

――その一言に、必要だった最後の剣力の一押しが宿った。

 

「イア!クア!アロ!イク!イン!ネス!」

 

最後の一押しそのものを求め、共に極光の一部となった精霊たちへ呼びかける。

正面、打倒すべき敵の姿は白い光の彼方にあり、それを、越えるために。

 

光の彼方へ、その剣先を届かせるために――、

 

「お、おおおぉぉぉぉ――っ!!」

 

らしくないほどに口を開け、血を吐くほどに声を上げた。

決死の形相で、優美さなどかなぐり捨てて、ただ己を支える骨子たる信念をひび割れさせぬよう、最大限にそれを奉じて、ユリウスは踏み込んだ。

 

「――――」

 

そして、輝きを増す虹の極光を受け、迎え撃つ白い光も勢いを増した。

なおも、なおも、強大化して、虹の光と白い光は激しくぶつかり合い――、

 

「――ぁ」

 

永劫に続くかと思われたそれは、不意の幕切れを迎えたのだった。

 

△▼△▼△▼△

 

「――ぁ」

 

と、自分の喉からか細い音が漏れたのを、ユリウスは唖然と聞いていた。

互いの最大火力のぶつけ合い、その突然の幕切れ。しかし、勢いは止まらず、極光を帯びた剣は真っ直ぐ、相手の急所を刺し貫いていた。

 

「何故……」

 

「ちっ、ああ、クソ、つまンねえ幕引きになっちまったじゃねえか」

 

刺し貫いた側であるユリウスの動揺、一方で貫かれた側のレイドは泰然としている。

その胸を一突きにされたにも拘らず、痛みに顔をしかめることさえしなかった。

それは彼の強靭な精神力の為せる業か、そうでないなら、その偉丈夫の肉体に起こった変調こそが原因であろうか。

 

レイド・アストレアのたくましい胸板には、ユリウスの剣が貫いたのとは異なる傷――否、亀裂が生じていた。

そして、それは胸だけに限った話ではない。腕や足、首や頬といった体の各所にガラスがひび割れるような傷が広がっていくのだ。

 

それが何なのか、ユリウスは直感的に理解した。

本来ならありえない歪みが正される。これは、その過程の現象であるのだと。

 

「結局のとこ、アレだ。オレって人間はオレ以外の器に収まり切らねえってこった」

 

ひび割れる自分の掌を見ながら、そうこぼすレイドの眼力は正しい。

『暴食』の権能によって取り込まれ、その肉体の支配権を略奪する形で実体を獲得したレイド・アストレア――だが、その体はあくまで、元となった『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドのものである事実は変わらない。

 

つまり、規格外のレイド・アストレアという魂の働きに、ロイ・アルファルドという容れ物が耐えられなかった。

それが、ユリウスとの戦いの最終局面で破綻したのだ。

 

「では、いっそあなたが!」

 

「ま、こいつに喰われてやってなきゃ、最後まできっちりやれたかもしンねえな。その場合、オメエが眼帯落とした時点でやっぱ終わってンだぜ?」

 

「く……」

 

「かかか。何事もままならねえもンだな、弱ぇ奴ってのは。泣きたくなったか?」

 

選定の剣を放り捨て、レイドが歯を見せながら意地悪く笑った。

何故、そのように笑えるのか。このまま、彼が消えるのはもはや確定した未来だ。

あるいはユリウスを打倒すれば、一度は終わった生を再び歩み始めることもできたかもしれなかったのに。その可能性が滑り落ちたというのに。

 

「馬鹿か、オメエ。もっぺン生きるとか、そンな面倒な真似誰がするか。大体、どっかでオレと出くわしたらどうなンだ、それよ」

 

「……残念ながら、あなたはすでに数百年前に老衰で亡くなっている。今のあなたが出歩いたとしても、元のあなたとは」

 

「はン!で、他人みてえなガキのガキの面でも拝めってのか?くだらねえ」

 

自分の子孫を他人扱い、先だっての発言は本心そのものであるらしい。

本気で二度目の生には興味のない様子で、レイドは首の骨を鳴らした。

 

「大体、生き返って何するってンだ、オメエよ。さっき通した激マブと遊ぶとか、そっちにいるマブでもいいけどな。あとはエロい格好した女も……」

 

「ほ、本当に未練はないのか……?」

 

「ねえよ。やりてえことはやりてえと思ったときにかますってのがオレの流儀だ。オメエもそうした方が、よっぽど楽だっただろうぜ」

 

「……助言には感謝する。だが、私にはそちらの方がよほど茨の道なのですよ」

 

殻を、進んで被ることを選んだ身だ。

自分を偽る、あるいは自分の根本の部分を別物だと演じると言ってもいい。

そちらを選ぶ方が、自分らしく、望んだままにあれると知ってしまったのだから、ユリウスはレイドの奔放さを眩しく思っても、選べはしない。

 

そのユリウスの答えを聞いて、レイドは忌々しげに鼻を鳴らした。

それから彼は、自分の胸の傷――限界を超えた結果で生まれたひび割れ、それとは異なる唯一の傷を指差して、

 

「オメエ、勘違いすンなよ?オメエの剣が届いたのはまぐれだ。これがオレの体なら、オメエじゃ鼻くそだって付けられねえよ」

 

「そんなことは最初からしないが……」

 

「はン!面白くねえ!」

 

吐き捨てて、レイドが自分の胸を指差した手でユリウスの肩を叩く。

その衝撃に身を硬くしながら、ユリウスは長く息を吐いた。

 

まだ、何もかもに納得したわけでも、受け止め切れたわけでもない。

だが、目の前の出来事に狼狽え、動揺し、このひと時を逃すことの方が耐え難い。

ひび割れは拡大し、すでに終わりは見えている。

だから、ユリウスは己の抜き放った騎士剣を顔の前に掲げ、

 

「その剣力、心の底から尊敬します」

 

「野郎の憧れなンざいらねえよ。――オレの勝ち逃げだぜ、ユリウス」

 

「――――」

 

最後の一声、名前を呼ばれたことにユリウスは瞠目した。

だが、動揺しないと心に決めた通り、その驚きを微笑の裏に隠し、一礼する。

 

この、伝説の存在に堂々と名乗り上げた通り、最も優れたる騎士として。

ユリウス・ユークリウスの理想が、憧れに恥じない形であるように。

 

「ええ、最後まで。――あなたの勝ちだ、レイド・アストレア」

 

「はン、いい面するぜ、負け犬が」

 

その言葉を最後に、レイド・アストレアのひび割れが拡大し――、

 

△▼△▼△▼△

 

「――――」

 

見た目の印象と違い、最後まで拡大したひび割れに音は伴わなかった。

ガラスの砕けるようなそれはないまま、光がほつれるように赤毛の偉丈夫が消滅――代わりに白い床に倒れているのは、白目を剥いた矮躯の少年だ。

 

他者の『記憶』と『名前』を喰らい、意のままにする『悪食』にして冒涜者。

『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドが倒れ、轟沈していた。

 

「――――」

 

生きているのか死んでいるのか、『暴食』はぴくりとも動かない。

ただ、レイドと同じ左胸に深い傷があり、致命傷であることは疑いようがなかった。

そのことだけを見届けて、ユリウスは敬意の表明に掲げていた騎士剣を下ろし、自らの鞘へと納め、振り返る。

 

極光がほどけ、ユリウスの周囲には光を増した六体の精霊。

蕾から乙女へと開花した彼女たちの力がなければ、こうして白い床に倒れているのは相手ではなく、自分の方だっただろう。

そのことへの感謝とねぎらいの気持ちを伝えなくてはならない。

しかし、彼女たちには申し訳ないが、その謝意の表明は先送りだ。

 

ゆっくりと、ユリウスは前進する。

向かう先、ユリウスを見つめているのは浅葱色の瞳をした華奢で小柄な女性。薄紫色の長い髪を波打たせた、砂丘に見合わない白い装いを纏った人物。

彼女の足下には、その黒目がちの瞳を不安げに揺らしている白い狐がいる。

 

ずっと、襟巻きに擬態していたはずの彼女の姿、それがそこにある意味。

それを改めて意識して、ユリウスは目を閉じた。

そして――、

 

「――お初にお目にかかります」

 

ほんの少し前、挑戦者として『剣聖』へ伝えた口上を再び述べる。

だが、このときの胸の奥の感覚は、戦いに挑む昂揚感とは異なるものだった。

ただ、変わらないものもある。

 

新しい冒険譚のページを開くような、騎士に憧れる少年の冒険心だ。

 

「ウチは」

 

その場に跪いて、最初の言葉を放ったユリウスへと相手が応じる。

低い姿勢のまま、ユリウスは続く言葉を待った。どれだけでも待てると思った。

待てば、相手の言葉が聞けると信じられることが、どれほど幸いなことか。

 

「――ウチは、アナスタシア・ホーシン」

 

「――――」

 

「ウチは、この世の全部が欲しい。……で、えらいカッコいいお兄さん、お名前は?」

 

はんなりと、彼女がどう微笑み、どう首を傾げたのか手に取るようにわかる。

跪いて顔を伏せたまま、ユリウスは「は」と短く息で応じて、

 

「私はユリウス・ユークリウス。――あなたの、一の騎士」

 

「――――」

 

「お忘れかもしれません。ですが、私はあなたに剣を捧げた身。あなたのために、持てる力の全てを尽くし、その志をお支えするもの」

 

床に騎士剣を置いた最敬礼、その上で、ユリウスはようやく顔を上げた。

その先に、主のどんな眼差しがあったとしても、悔やみはしない。

 

狼狽え、戸惑い、下を向くなんて騎士らしくない。

誰よりも見栄を張り、格好を付け続ける存在こそが、ユリウスの憧れなのだから。

そして、そのユリウスを見下ろし、彼女は丸い瞳を細めると、

 

「そうなん?よう覚えてへんのやけど……でも」

 

「――――」

 

「一目見て、思うたんよ。――このお兄さん、ウチのもんにせなあかんて」

 

その間近に、求め続けた主の、何もかもを手放すまいと爛々と輝く瞳があって。

 

全てを手に入れる『強欲』へと、ユリウス・ユークリウスは再び、その剣を捧げた。

まるで、物語の王と騎士のように、それは神々しい一幕――、

 

奪われた『主従』の絆の再生が、二層『エレクトラ』にて果たされる。

それは、ナツキ・スバルの提示した五つの障害、その一つの排除の達成。

 

大図書館プレイアデス、第二の『試験』――終幕と。