『しぐま』


 

「バルス。悪だくみの準備は進んでいるの?」

 

泣き疲れたエミリアを置いて、建物から出てきたところでラムにそう声をかけられた。

扉に手をかけたまま、スバルは自分を出待ちしていたらしきラムに目を細める。

 

「悪だくみとか、人聞きが悪すぎてビックリするからやめてほしいんだが」

 

「男二人でこそこそと、周りに色々なことを隠して画策しているでしょう。ロズワール様がお認めになったから、あの商人が『聖域』を自由にしていることについては何も言わないけど……」

 

ラムが『商人』と呼んだのはオットーのことだろう。

同じ『聖域』で過ごしているとはいえ、大半の時間をロズワールの世話に割いているラムとオットーとでは接した時間は非常に短い。せいぜいが『試練』に臨むエミリアを外で待つ間、少しだけ言葉を交わすチャンスがあるかどうかといったところだ。

 

オットーに関してはスバルが独断で連れてきた部分もあるため、彼の人となりや実績を知らないラムからすれば信用に欠けていることは間違いない。

スバルにとっても、オットーは人となりはともかく商売人としての実力は未知数なところがある。ロズワールと彼を引き合わせた際も、商人としての将来性よりはツッコミ役としての適性を買われたようにしかスバルには見えなかったほどだ。

 

とはいえ、オットーの『聖域』への滞在をロズワールが許可したのは事実。それだけに露骨に排するわけにもいかず、ラムのオットーへの目は厳しいままというわけだ。

 

「まぁ、そこんところはあいつが頑張るべき部分だから、俺の方からわざわざ訂正してやるつもりはないけど」

 

「友達甲斐のない発言だわ。あれだけ気にかけてもらっているんだから、少しはバルスの方こそ報いたらどうなの?」

 

「友達甲斐……ね。いやはやぐうの音も出ねぇってとこだが、お前の目には俺とあいつがお友達の関係に見えてるのか?」

 

「あれだけ羽目を外して親しげに接して……友達じゃないとでも?何の繋がりもない赤の他人にああして振舞えるなら、逆にそっちの方がおぞましいわ」

 

己の肩を抱き、身震いするようなジェスチャーを入れるラム。彼女の反応と言葉に、スバルは小さく頬を緩ませて喉の奥で笑った。

そのスバルの押し殺した笑声を不気味に思ったのか、肩を抱いたままのラムが一歩、後ろに下がってスバルと距離を生みながら、

 

「それでバルス、最初の質問を繰り返すわ。――悪だくみの準備は進んでいるの?」

 

「着々と……っていうには、ちょっと難航する部分が多くてな」

 

詳細はなんにせよ、思惑の真意は見抜かれていて当然だ。

契約で対立関係にあるロズワールの側の、手札ともいえる立場がラムだ。どの程度信憑性があるかはわからないが、負傷して動けないロズワールに代わり、目となり耳となっているのがラムだろう。

こちらの動向に気を配っているのも必然といえた。それを真っ正直に問い質してくるあたりが、なるほどラムらしいといったところだが。

 

「お前の方こそ、エミリアのためにきたんだろ?俺とばっかり話して、時間浪費しててもしょうがないんじゃないか」

 

「バルスが外に出てきているということは、少なくとも寝静まるところまでは見届けたんでしょう?あれだけ喚き散らした後なら、そうそう目覚めはしないわ」

 

「……ずいぶんと、厳しいご意見だな」

 

「客観的で率直な意見でしょう。参考にしなさい」

 

にべもなく言い捨てて、ラムは目を伏せるスバルの横顔を睨みつける。

彼女の視線の圧力に気圧されながら、スバルは内心で吐息を押し殺した。

 

――エミリアとパックの契約が途切れたのは、今から二時間半ほど前のことだ。

 

事前にパックから話を聞き、契約が切れた後のエミリアの動揺、困惑、悲嘆にはいくらか理解と覚悟が及んでいたにも拘わらず、実際の彼女を見たときのスバルに訪れた郷愁は言葉で例えようもなかった。

 

唯一の拠り所を失い、半狂乱になって泣き喚くエミリア。

綺麗な銀髪を振り乱し、白い肌に爪を立て、周りにあるものを手当たり次第に投げつけて、子どもの癇癪のようにエミリアは激情を露わにしていた。

魔法を使って暴れ回る、という選択肢が錯乱する彼女の中になかったのは、周囲にとっても彼女にとっても不幸中の幸いとでもいうべきか。

 

いずれにせよ、エミリアのショックを事前にわかっていたスバルは部屋の外で待機し、彼女の悲鳴が聞こえてすぐに飛び込んでその身を掻き抱いた。

それからの二時間半、ひたすらに途切れ途切れのエミリアの声と、嘆きと、弱々しい破壊衝動を一手に引き受けて、眠った彼女を置いて出てきたのが今だ。

 

着替えと、体を拭くのをラムに任せようと思った矢先の彼女との遭遇は、彼女の方もそうするつもりで待ち構えていたからなのだろう。手桶に水と布を持った姿に、いくらか救われたような気持ちになることができた。

そんな風に感じ入るスバルに、ラムは小さな声で、

 

「バルス。――本当に、あの方に期待しているの?」

 

「…………」

 

「昨日までのエミリア様の様子を見ていれば、あの方が『試練』を乗り越える明るい材料は何一つない。その上、悪くなりようがないとさえ思っていた状況はさらに悪くなった。大精霊様が、エミリア様の傍を離れたのでしょう?」

 

「……そこまでわかってるのか」

 

「あれだけ建物の外にも聞こえるぐらい大声で、何度も何度も叫んでいれば馬鹿でも気付くわ。バルスでも気付けるのならラムでも気付く。当たり前でしょう」

 

「俺イコール馬鹿の公式が成立してる気がするが、否定はしきれねぇよ。エミリアの状況がさらに凹んだってのも、言い逃れできない事実だ」

 

正直なところ、ラムの懸念はスバルの不安をそのまま言い表してもいる。

パックの言葉を頭から鵜呑みにしたわけではないが、それでも彼の提案をスバルが支持したのは事実だ。

パックの存在が、エミリア自身が本当の過去と向き合うことへのストッパーになっているという言葉。少なからず抱いていたループごとの変化と、ロズワールの持つ福音書への疑念。ベアトリスの叫び、エキドナの証言、パックの存在。

様々な要素が絡み合い、スバルはパックの決断を支持し、エミリアを孤独の檻の中へと放り込んだ。結果、彼女は生まれて初めて、本当の意味で一人きりになっている。

 

そこから抜け出すのに必要なのは、時間と切っ掛け。

だが、その両方が今のエミリアには欠けている。状況は彼女に落ち着いて事態と向き合わせるための猶予を与えないし、起爆剤となる切っ掛けは彼女の中にしかない。

後者の切っ掛けは、エミリア自身が見つけ出すしかない。ラムもそれはわかっていて、その起爆を信じられないでいるのだろう。

 

最後の一部分を除き、スバルもラムに全くの同感だ。

 

「それでも、俺はあの子に期待してるし、信じてるよ」

 

「……晴れやかな顔。いったい、どうしたらそこまで能天気な決断ができるのかしら」

 

「信じるべきものは信じようって、そう決めたんでな。俺のために頑張ってくれる『友達』の存在とか、愛竜の存在とかに救われて……少しは、自分も信じられるようになった」

 

「だから、それがエミリア様を信じることとどう繋がりが……」

 

「自分が信じられるようになったら、自分の思いの矛先も信じたいと思うだろ?俺はエミリアが好きで、あの子の力になりたい。俺があの子を好きなのは、そりゃ見た目が超好みのビジュアルってのもあるが……本気の部分は、もっと別のとこさ」

 

ラムの胡乱げな目を見つめ返して、スバルは肩をすくめた。

スバルがエミリアを意識し始めたのは、それはもちろん異世界に召喚された当初、頼る相手も縋れる希望もなかったときに、一番最初に優しくしてくれた点に他ならない。

命を救われて、その後の彼女との触れ合いを経て、スバルはエミリアという少女を知り、彼女の力になりたいと思った。恩返し、という名分もそこにはあったが、本当のところはそのときの自分にはわかっていなかった。

 

その後、目の前で彼女を失い、『死に戻り』を経て世界をやり直し、最初に交わしたはずの思い出を喪失しながらも、スバルは彼女を死の運命から救い出して未来を変えた。

屋敷での出来事も、王都を発端とした魔女教との一戦も、全てはその最初の思いから始まった情熱に、背中を焼かれるままに走り続けてきた結果だ。

 

最初の王都で命を救われた。

屋敷で壊れかけていた心を、また救われた。

命と心を救われて、彼女のために報いたくて、独りよがりで傷付けた。

 

別れの時間を得て、互いの間に溝を生んで、己の行いを見つめ直す機を経て、立ち上がった。

白鯨を落とし、ペテルギウスを打倒し、今もこうしているのは何故なのか。

魔女と自分の密接な関わり合いを自覚し、過去の己のわだかまりを仮初の両親との決別で呑み込み、今もわけのわからない力に突き動かされるのは何故なのか。

 

「俺が、あの子を好きだからだ」

 

「――――」

 

「俺の好きになったあの子は、頑張り屋で、意固地で、素直じゃなくて、泣きたいときに泣きたいって言えない子で……他人のために一生懸命になることを、躊躇わずにできる子だよ」

 

「そんなのは、バルスの思い込みかもしれないでしょう。確かにエミリア様は、自分より他の誰かを優先する性質ではあったけど……それは、そうすることで自分の心を守っていたからではないの?侮られる出自である自分を守る手段だったのではないの?その手管にまんまと乗せられて、いいように使われている不安はないの?」

 

「ないね」

 

長い疑問の言葉に、たったの三文字で簡潔に応じられてラムが口ごもる。

彼女の珍しい反応に小気味よいものを感じながら、スバルは首だけで建物を振り返る。

今も、寝台に横たわるエミリアを思い浮かべて。

 

「いいように使われてるってんなら、それでもいいんだよ。エミリアが俺のことを、使い倒しても潰れない道具ぐらいに心のどっかで打算的に思ってたとしても、それでいい」

 

「道具であることに、不満はないというの?」

 

「そうじゃない。俺って道具を使ってでも、まだ立とう歩こうって意思があってくれるのが嬉しいんだよ。そうやって顔を上げる気力が残ってるんなら……俺に手伝えることはいくらでもある。好きなだけ、使ってくれたらいい」

 

「――――」

 

スバルのスタンス表明に、ラムが不服そうにその目を細める。

表情の少ない彼女の態度にはむしろ、スバルの方が新鮮なものを感じていた。『道具』という言葉を忌憚なく受け入れるスバルへの様子、それはまるで彼女の方こそ――、

 

「俺はむしろ、お前の方が割り切ってるもんだと思ってたけどな」

 

「――どうして、そう思うの」

 

「これまでのお前の態度とか振舞いとか、けっこう……ギリギリなところとか、見てきた自覚があるからよ。他人のスタンスにも理解があるもんだと思ってた」

 

「自分の中に消化し切れていない問題を他人の中に目の当たりにすれば、誰しもこういった感情を抱くものでしょう。割り切ろうとして噛み切れずにいる問題を、他人の方が噛み砕いていたのを知ればなおさらのこと」

 

早口に言い切ってから、ラムは自分が口にしたことを恥じるように目をそらした。それから小さく吐息をつき、彼女はいまだに扉の前に立つスバルにどくよう手を振り、

 

「もう、いいわ。道具なら道具らしく、持ち主のためにせいぜい懸命になればいい。ラムの方はラムの方で勝手にさせてもらう。それは、ラムの側の自由でしょう」

 

「そら、そうだ。お前はお前でやればいいさ。――ただな」

 

隣を行き過ぎ、扉に手をかけるラムのうなじに声をかける。足を止めたラムが目だけでスバルを振り返り、言葉の先を求めているのに頷き、

 

「俺は何も無償の気持ちでエミリアに尽くしてるわけじゃないぜ」

 

「…………」

 

「俺は俺で、エミリアに求めてるもんがある。俺が欲しがってるものは、エミリアの協力がなくちゃ成り立たない。さっきは打算含みにあの子が俺を利用してても、なんて言ったけど……あの子を打算含みで活用しようとしてるのは、俺も同じだ」

 

言い方は悪いが、思惑があって触れ合うことは他人と関わり合う上で避けられない。

極論、スバルの望む未来にはこの場にいる全員が到達していることが望ましい。つまるところ、それはスバルが未来を完遂したとき、全員を利用し切ったと言えなくもない。

エミリアに利用されること、望むところだ。スバルが望む未来のために、スバルもまたエミリアを利用して、しがみついて、無理やりに抱き締める気でいるのだから。

 

「――――」

 

もはや無言で、ラムはスバルに声をかけずに部屋の中へ足を踏み入れる。

扉が閉まりかけ、彼女の小さな体が遮られる寸前、

 

「もう、福音書の記述と外れてる。――この世界で、ロズワールはもう自由だ」

 

最後の呼びかけが彼女に届いたかどうか、その返答はなかった。

 

音を立てて扉が閉じ、中の様子はもうスバルにはわからない。

とはいえ、エミリアが目覚めてラムに乱暴を働く可能性はないだろう。一度、泣き疲れて眠ったエミリアにそこまでの気力が残っていないという目算もあるが、それ以前に体が目覚めるまでにまだまだ時間を必要とする。

 

「俺の本命は明日。予備日で明後日……どっちにしろ、ギリギリだ」

 

タイムリミットがくれば、ロズワールが雪を降らせて大兎がくる。そうなれば『聖域』は終わり。此度の挑戦も半ばで挫け、何よりスバルは契約で縛られている。

ロズワール・L・メイザースとの契約に従い、ナツキ・スバルは『たった一つのために手段を選ばない』生き方をしなくてはならなくなる。

 

――そう思うと、今さらだなとも思った。

 

「たった一つの未来が諦めきれないのは、今も同じだってのに」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――現在、『聖域』におけるスバルの戦いは三日目に突入している。

 

ロズワールとの契約の期限は六日目まで。六日目には『聖域』と屋敷を襲う災厄は避けようのないところに迫っているはずなので、実質的な期限は五日目の夜まで。

つまりは今夜を含めてあと三回しか、エミリアが墓所に挑戦するチャンスはない。

ただし、その数少ない三度の機会の初日だが――、

 

「今夜は、棒に振るしかないだろうな」

 

パックの喪失を知り、朝から泣き崩れたエミリアが泣き疲れて眠ったのが昼前のことだ。それから昏々と眠り続け、いまだに目覚める兆候は見られない。

仮に夜までに目覚めたとしても、目覚めたエミリアがパックがいなくなった現実を再び認めるのにかかる時間はどれほどのものか――数時間で消化しきれるほど、彼女とパックとの間の絆は短くも薄くもないはずだ。

 

時間のないときに限って、起きる出来事は時間の経過を必要とするものばかり。悪辣な神の采配を、呪っても無駄だとわかっていながら呪いたくもなる。

 

「いなくなったことをあれだけ泣かれて……俺はお前が少し羨ましくて、その百倍憎たらしいよ、パック」

 

灰色の小猫の姿を脳裏に思い描き、スバルは小さく首を振ってから前に臨む。

現状、眠るエミリアのためにスバルができることはない。せいぜい、手を握ってあげているのが関の山だ。それが悪夢から彼女を守る力になるのなら、何時間でもそうしていてやりたいという気持ちがスバルにはある。

だが、エミリアに時間の猶予がないように、スバルの方にもそれはない。

 

賭けに対して、積み上げるものがまだ不十分なのだ。

不確定要素がいくつか絡む作戦ではあるが、芽があるものをかき集めて寄せ集めて、可能な限りを手札に加えてようやく勝算は五分と五分。やや、それもひいき目だが。

 

「だから、この話し合いには期待してるんだぜ、リューズさん」

 

「儂の方も、スー坊には期待しておるよ。……前の二人から、念押されとるからな」

 

砂利を蹴りつける音がして、待ち合わせ場所に小さな人影――リューズが現れる。

彼女は幼い容姿に似合わない渋面を作り、スバルの指定した待ち合わせ場所をぐるりと見回すと「しかし……」と言葉を継ぎ、

 

「この場所を待ち合わせに選ぶとは……スー坊も性格の悪いことじゃの」

 

「邪魔が入らなそうって意味じゃなかなかいい選択だと思うけどな。クリスタルの前だと俺はいらんこと言いそうだし、そもそも何回足を運んでもあそこの鼻が曲がりそうな臭いに慣れる未来が見えない」

 

鼻をつまみ、鼻孔を侵して全身に臭気を染み渡らせるような実験場への嫌悪感を示す。生まれ故郷を揶揄される形になったリューズだが、彼女自身もそれには同感なのだろう。スバルの言葉に小さく笑い、「それもそうじゃな」と頷く。

 

「それで代わりの場所が、ガー坊の秘密基地というのはどうかと思うがの。隠れ家というなら……それこそ、他にも候補はあったろうに」

 

「集落の中だと、誰が聞き耳立ててるか分かったもんじゃないしな。ガーフィールとフレデリカの思い出の家……ってのも悪くなかったけど、人に聞かれて困る立場なのは俺もリューズさんも一緒だろ?」

 

「違いない」

 

肩をすくめて同意を求めるスバルに、相好を崩したリューズが顎を引いた。それからリューズは廃材と老朽化した木材で組み上げられた、不恰好な小屋の中に足を踏み入れる。

 

「悪いけど、座り心地のいいソファの用意はないんだ。敬老精神あふれる俺としちゃ、譲れる椅子の一つもないのは痛恨なんだけどさ」

 

「やれやれ、立ち話をさせるというわけか。老体に鞭打つとは、最近の若いもんはなっとらんの」

 

「お、そのセリフはいかにも年寄り臭い。年長者アピールに余念がねぇな」

 

曲がってもいない腰を叩き、あちこちガタがきている風を装うリューズに苦笑。それからスバルは小屋の真ん中に彼女を誘うと、自分は腕を組んで壁に寄り掛かった。

 

「可愛い女の子とこのまま世間話続けてるのも、俺の心境としちゃ悪くないんだけどさ」

 

「言いよるわい。女の子、と呼ぶにはちょっとばかり歳が嵩みすぎとるじゃろうに」

 

「年齢の話すると、俺のメインヒロインも相当年上だからな。まぁ、外見年齢と精神年齢がそれに釣り合ってないのがこのほど明らかになりましたが」

 

実年齢百歳前後。外見年齢十八歳。精神年齢十四歳。

エミリアのジャンルの複雑さは素晴らしい、実にスバルを飽きさせない。ロリババアかと思いきやババアロリとでもいうべき事実。

あの子が見た目のわりには幼くて、弱くて、理想が高くて、ちょっと発言がババ臭い理由がやっとわかった。迷いになど、なるはずもない。

 

「そのエミリアのためにも、俺は俺のやれることをやりたい。――だから、色々と聞かせてもらうぜ、リューズΣさんよ」

 

「しぐ……なんじゃ?」

 

「悪い、勝手にそう呼んでた。四人いて全員リューズさんってのも呼びづらいから、便宜的に俺の中だけで。α、β、Σ、θって」

 

「…………」

 

出だしから躓いたスバルの発言に、リューズは考え込むように口に手を当てている。

不興を買った、にしては乏しい反応に眉を寄せつつ、スバルは追及されないうちにとΣに対して指を立てて、

 

「とりま、話し合いに応じてくれて助かる。し……今日のリューズさんのスタンスからしたら、俺に取り合わないって選択も十分にありなはずだったのに」

 

「呼びづらいならΣで構わんわい。個々について話をする以上、呼び分けできた方がいいと思うのは儂も同じじゃ。これまでは、そんなことをする必要はなかったんじゃがな」

 

「そう?んじゃ、お言葉に甘えるわ。もっと可愛いのがいいなら、他の三人の呼び名と入れ替えが可能だけど」

 

「――んや、Σでいい。違うな、Σがいい」

 

前と後で、いくらかニュアンスの違うリューズの答え。

スバルは目を瞬かせたが、この話題をこれ以上続けるつもりはリューズにはないらしい。彼女は「それで」と話の内容転換をにおわせながら、

 

「わかっておるつもりじゃが……スー坊は儂に何を語らせたい?『聖域』を取り巻く状況の、何を知りたいんじゃ?」

 

「知りたいことは、俺の知らないこと全部ってとこだが……当面としてはズバリ、Σさんが墓所で見たもの、だ。『試練』に挑んだリューズさんが二人って、一昨日のαさんの口からは聞かされてる。Σさんがその一人で、間違いないか?」

 

「間違いない。儂は、墓所に入ったリューズ二人の内の一人じゃ。と言っても、儂が入ったのは一度きりで、それも短い間……掟を無視して墓所に入ったガー坊を、連れ戻すために踏み込んだに過ぎん」

 

リューズΣの語った内容は、以前にフレデリカからも聞かされたときのものだ。

『聖域』の解放を志したガーフィールが墓所に入り、『試練』から戻らなかったために姉がリューズに助けを求めたときの話。そのときにフレデリカに頼られたリューズが、この目の前のΣの手番だったということだ。

 

「踏み込んだに過ぎん……っつっても、中に入ったからには見たんだろ?Σさんも、その……自分の、過去ってやつを」

 

「――――」

 

「ロズワールみたいに完全に墓所に嫌われてるってんなら、そもそも中に入ろうとした時点で体が拒絶される。ロズワールは体が弾けかけたって話だし、俺を助けようって入ってきてくれたパトラッシュだって傷だらけだった。資格のない奴があそこに飛び込むのは、それこそ『試練』に挑むのと同じぐらいに覚悟がいることのはずだ」

 

「儂がその、傷付く方の覚悟をしていた可能性もあるじゃろ?」

 

「それはそれで美しい話だけどな。……それなら、Σさんが『聖域』の解放に反対するホントのところがわからなくなる。辻褄が合わない」

 

「――――」

 

自白されたわけでもない情報――リューズΣとθが、揃って『聖域』の解放に反対しているという内容を口にしたが、Σは沈黙を選んで否定はしてこない。

それはつまり、無言で肯定したも同然の行いだ。

 

「Σさんは墓所で、自分の過去を見たはずだ。それが原因で、Σさんは『聖域』が解放される可能性を忌避してる。いったい、何を見たんだ」

 

「…………」

 

「可能性があるとしたら、Σさんが生まれた前後の可能性。それはクリスタルから生じたときかもしれないし、もしかしたら……」

 

「リューズ・メイエルの過去、かもしれんと?」

 

スバルの言葉に先んじて、Σが核心を突いた。

無言で唇を引き締めるスバルは、無言ながらそれで間違いないだろうと思っている。

 

生まれて以来、リューズ・メイエルを名乗りながら、『聖域』の代表者として振舞ってきた複製体代表格の四人だ。彼女らに後悔に値する過去があったとすれば、それは生後よりも生前――今のリューズたちになる前ではないかと、スバルは思っていた。

 

その指摘があながち的外れでないのは、今のΣの反応からも見て取れた。

 

「見たのがあのクリスタルの中の、本物のリューズさんの過去だってんなら……Σさんが怯える理由もなんとなくわかる。クリスタルに封じられた理由が、理由だからな」

 

「…………」

 

リューズ・メイエルをクリスタルに封じ、複製体を生み出す装置として組み込んだのは『強欲の魔女』エキドナだ。

魔女の手で封じられた『その時』を回想したのだとすれば、それはΣが『試練』を越えることを諦める理由として十分考えられた。だが、

 

「スー坊はいったい、どこまで知っておるのじゃ」

 

「…………」

 

「あの中にいるリューズ・メイエルに何が起きたのか、それを知るのはこの『聖域』の中にも極々限られておる。その誰もが、スー坊にそれを語り聞かせるとは思えん」

 

言葉を差し挟むのを躊躇う何かが、今のΣの横顔にはあった。言葉のないスバルに視線を向けず、Σは穴の目立つ天井を見上げる。

 

「ロズ坊も、儂の他に墓所を知るもう一人のリューズも……それを聞かせるとは思えん。さすればスー坊、お前さんはどこからそれを聞いてきたのじゃろうな」

 

「――――」

 

ここで、なんと答えるべきかスバルは迷った。

 

他愛のない問いかけのようでもあるそれは、しかしそんな易しいものではない。

首筋をピリピリと刺激する、空気の変化が感じられる。スバルが幾度も味わってきた鉄火場の気配――命のやり取りとはまた違うこれは、その後の命のやり取りを左右する『場』を左右するものだ。

 

クルシュの邸宅で、白鯨との一戦を前に助力を願い出たときと似た感覚。

それはつまり、今この瞬間の話し合いの転び方が、『聖域』の未来を傾ける一大事であるということに他ならない。

 

「――――」

 

再度の沈黙を得て、スバルは深く熟考する。

Σがスバルに求めている答えは、今後を大きく左右する。

もともとスバルは、他者の心の情動に関して察しの良い方ではない。むしろ、機微には疎すぎるほどだ。頭を回しても足りないのだから、火を噴くほどに燃やしてようやく人並みというところだろう。

 

この場で、スバルが口にするべき答えは――。

 

「エキドナから聞いた。墓所の中でな」

 

「――魔女様、から」

 

紡がれた魔女の名前を聞いて、Σの表情がわずかに強張る。

エキドナの名前が強い意味を持っていることは、この『聖域』で過ごした時間の中で大いに痛感してきた。ロズワールがエキドナを『強欲の魔女』と呼ぶのを嫌う一方、ガーフィールやリューズらは『エキドナ』という呼称を避けていたように思う。

 

エキドナの名前はおそらく、彼女らにとってはタブーなのだ。それが良い意味であれ悪い意味であれ、過去を刺激することになるのは間違いない類の。

禁忌に触れた結果がどう出るのかは賭けだが、スバルは決断を選んだ。

 

「今は資格を剥奪されちまったが、俺も一時は墓所に挑む資格を持ってたんだ。だから、『試練』で何が起こるのかもおおよそ実体験として知ってる。エキドナが何を企んで、どういう理由でこの『聖域』を作って、Σさんたちみたいな複製体を生み出してるのかも」

 

「……ロズ坊に聞かされただけにしては、理解が深すぎるとは思っておったが」

 

「だからまぁ、事情に関しちゃΣさんの想定以上に深いとこまで知ってるつもりだ。俺に明かせるって、そう判断できる情報の取捨選択の材料になりゃぁいいと思うけど」

 

「言いよるわい」

 

ここへきて、一歩引いた発言をするスバルにΣが苦笑する。それから彼女は小さな掌を額に当てて、長いため息をついた。

それが、彼女の決断に必要な儀式だった。

 

「魔女様と『聖域』の関わりと、儂とリューズ・メイエルのことまで知られておるのなら、むしろ隠し立てする方が不自然なんじゃろうな……」

「それなら……」

 

「急くでない。スー坊の気持ちもわからんではないが……事はそう簡単ではないんじゃ。――スー坊が儂に聞きたいと言ったのは、『試練』でリューズが見た過去じゃったな」

 

そうだ、と肯定しかけて、スバルは微妙に違和感を覚えて口を噤んだ。

Σは今、『儂』ではなく『リューズ』という言葉をあえて使った。その真意は、とスバルが眉を寄せるのと、Σが「目敏いの」と呟くのは同時で、

 

「儂が墓所で見た過去、という問いかけなら儂の答えは『知らん』となる。なにせ儂は墓所の『試練』を受けておらん。墓所の中から戻ったのは儂で、間違いないがな」

 

「……つまり、どういうことだ?」

 

「簡単な話じゃ。そもそも、スー坊は不思議に思わんかったのかえ?ガー坊を連れ戻すために、墓所にリューズが入る機会は一度きり。だというのに、墓所に入ったリューズ・メイエルの複製体は二人いる。この、機会と人数のズレを」

 

「あ……」

 

指摘されて初めて、スバルは自分があまりにも間抜けていたことを思い知る。確かに、言われてみればその通りだ。墓所に入ったリューズが二人で、それなのに入る機会は一度――この矛盾を解消する答えがあるとすれば、それは一つ。

 

「中に入ったリューズさんと、外に出てきたリューズさんが違う……」

 

「そういうことじゃ。スー坊のように言うなら……出てきたリューズはΣである儂。そして入ったリューズは、θであるリューズ。過去を見たのはθの方で、儂はガー坊を担いで外に連れ出したに過ぎん。立ち位置としても、『聖域』の解放に反対というよりは、消去法で中立派といったところじゃな」

 

故に、とリューズは言葉を継ぎ、落胆しかけるスバルを目にし、言った。

 

「――儂の口から語れることがあるとすれば、それはガー坊がひた隠しにしとる、あの子が目の当たりにした過去、その断片というべきものじゃな」