『――信じてる』


 

「ふくくっ」

 

胸に手を当て、エミリアが断言した直後だ。

響いたのは堪え切れない笑い声。それは最初は吐息を抜くようなかすかなものだったが、次第に我慢しきれず、どんどん大きくなり、やがて哄笑へ変わる。

 

「ははは!あっはっは!ふくっ、あははははは!」

 

背をそらし、レグルスは痛快な冗談でも聞いたように爆笑する。白髪に手を突っ込んで掻き毟り、凶人は誰にも共有できない笑いの衝動に身悶えした。

そのこれ見よがしの態度に、スバルはエミリアの推測の正しさを見た。

 

「てめぇ、何がおかしいんだよ!?」

 

「おかしいに決まってるだろ!?君たちの方こそ、本当の意味で手詰まりな状況に諦めて笑ってもいいぐらいなんじゃないの?あのさ、意味わかってる?自分たちで自分たちの、首という首を絞めて回ってるってことにさぁ!」

 

「ぐっ……」

 

喉が詰まった。

レグルスの反論はこの瞬間だけは、言い返す余地がないほど完璧な正論だ。

 

スバルはエミリアを振り返り、彼女の推測の是非を問う。

しかし、縋るようなスバルの視線にエミリアは首を横に振った。

 

「間違いないわ。微精霊に確かめさせてるし、私も自分で感じるの。自分の中に、自分じゃない別の余計なものがあるって。すごーく、気持ち悪い」

 

エミリアの断言、そしてそれは絶望的な事実の提示でもある。

『獅子の心臓』の効果がエミリアへ移った。それはすなわち、効力を切るためにはエミリアの心臓の鼓動を止める他にないということだ。

 

「そもそも、どうしてエミリアの心臓を……『小さな王』の効果を、俺が勘違いしてたってのか?あいつの心臓は、誰でも好きな相手に……」

 

もしもそんな能力だとしたら、レグルスの権能に隙などない。レグルスにとって赤の他人でも心臓が預けられるのであれば、人間の生きている限りレグルスを殺す方法はないということになる。

いや、あるいは心臓を持つ生き物であれば全て代替できるとしたら――。

 

「恥知らず」

 

「負け犬の遠吠えが気持ちいいね。ははは、なんとでも言いなよ。君たちがそうやって好きなだけ、負け惜しみを口にするのは敗北者の権利だ。それを優越感を味わいながら聞くのは勝利者である僕の権利……ああ、悪くない!悪くないなぁ!」

 

「私は自分の奥さんに相応しくないって、あなたはそう言ったはずなのに」

 

「うるさいな。グダグダと偉そうに権利ばかり主張して。それよりも、僕の妻たちを殺してくれた責任はどう取るんだよ?僕の理想の花嫁たち……あれだけ集めるのに何年かかったと思ってるんだ?いい歳をして妻も恋人も一人もいないなんて、僕をクソみたいな寡婦にする気か?新しい妻が見つかるまでの、繋ぎになる義務が君にはあるだろうが!」

 

言葉厳しく軽蔑するエミリアに、クソのような理屈を振りかざすレグルス。

凶人の信じる暴論の理屈は、エミリアの心臓に居座る自分を肯定しているらしい。それならば、エミリアの心臓以外に移る可能性は――。

 

「試してみるかい?他に心臓の移る場所があるかどうか」

 

「――――」

 

「試し方は簡単だよ。今、君の目の前にいるその子を殺せばいい。その子の息の根を止めれば、自然と僕の権能が行き止まりかどうかわかるさ。すごくすごく簡単で実に合理的……あはは!できるわけないよねえ?そんなことしたら、そもそもこうして僕に挑んだ意味も意義も勝手な自己正当化の理屈もなくすもんねえ!?」

 

悔しいが、レグルスの発言は正しい。

スバルにエミリアを犠牲にする勇気はない。エゴと言われても、身勝手と罵られても仕方ないが、それはできない。

 

レグルスを打倒するために、彼の花嫁たちは命を投げ出した。

その犠牲を仕方ないものと割り切るための決意はできても、エミリアや他の仲間たちの命までは懸けられない。

 

ナツキ・スバルの選択肢はいつだって、嫌になるぐらい自分本位だ。

 

「ほら、見なよ。そいつにはとてもできないってさ。なら、代わりに君が自分でやってやったらどうだい?簡単だよ。君が他の花嫁たちにしたことと、全く同じことをすればいい。それともなに?できないの?人の命は身勝手に奪えるくせに、自分の命は可愛くて犠牲にできないの?すごいなぁ、反吐が出るよね?」

 

「――スバル」

 

「待て、ダメだ。ホントに、それだけはダメだ」

 

レグルスの挑発に、エミリアがどこか決意した声でスバルを呼ぶ。その声音のあまりの非情さに、怖くなってスバルはエミリアを止めた。

挑発に乗せられたわけでも、自棄になったわけでもないだろう。

 

だが、エミリアは勝つ手段がないのであれば、最悪それを選ぶ覚悟がある。

そしてスバルには、それを選ばせない意思しかない。それでは負ける。

エミリアの名前を呼んで、手を止めさせても何も言えない。

 

「あのさ、それじゃそろそろ終わりにしてもいいかな?君みたいないやらしい女を連れ回すのは趣味じゃないけど、ひとまず妥協してあげるよ。次の花嫁が見つかるまでの繋ぎってことでさ。そっちの彼は殺すけどね。僕の権利をこれだけ侵害して……ああ、そうだ。そういえば、笑えるよね?」

 

歯噛みするスバルの前で、レグルスが愉しげに唇を歪めた。

エミリアの周囲でマナが渦巻き、彼女の決断が決行されかける。そんな最中、レグルスは気にした風もなく、嗤った。

 

「君、あれだろ?結婚式の前にでかい声で都市中に色々言ってた奴だろ?大罪司教を一人殺したとか……笑い種だよね?あんな出来損ないを殺したぐらいで、僕に勝てるとか勘違いしたんならご愁傷様だよ。あいつは大罪司教になる前も、なってからも、何一つ満足に為せない愚図だったんだからさぁ」

 

馬鹿笑いするレグルス。彼の言葉が指すのは、スバルにとっても忌まわしき狂人ペテルギウス・ロマネコンティで間違いない。

ペテルギウスは抗弁の余地がない最低の狂信者だ。あの狂人に対して好感など抱きようもないし、恨み骨髄、死んで当然の化生だった。

 

だがそれでも、身内であるはずの大罪司教にペテルギウスが嘲笑われるのは、スバルの心にひどく原始的な不快感をもたらす。

レグルス打倒の可能性、そこにエミリアの生死が絡む極限状態となればなおさらだ。

そもそも、ペテルギウスは――。

 

「――ぁ」

 

憎むべき狂人、あの血塗れの狂笑が脳裏に浮かび、響いたとき、スバルは顔を上げた。そして己の胸を掻き毟るように掴み、息を呑む。

まさか、そんなことが、可能なのか。

 

「やれる、のか……?」

 

わからない。

厳密に、スバルの脳裏を過った可能性は誰に保障されたわけでもない、机上の空論――否、スバルの妄想の産物に近い。スバルだけの感慨だ。

しかし、だからこそ。だからこそ、可能性を推察できるのはスバルだけ。

 

発想は直前、根拠は直感、成功するかは神すらも知らず――だが、

 

「エミリア」

 

「――――」

 

極限まで高まるマナの影響を肌に感じながら、スバルは彼女を呼んだ。

エミリアは無言で、悲壮とすら映る決意を宿している。しかし、その瞳の奥にふいの感情が過った。それは、自分を見るスバルへの期待と信頼だ。

その感情に後押しされるように、スバルは問う。

 

「エミリア」

 

「うん」

 

「――俺を信じて、全部任せてくれるか?」

 

「うん」

 

振り絞る問いかけに、答えは簡潔で躊躇がない。

エミリアは自分の胸に手を当てて、戻ってきて初めて頬を動かし、微笑んだ。

 

「スバルならやってくれるって、私も信じてる」

 

ああ、クソ、まったくなんて卑怯なのか。

 

好きな女の子に、これだけ全幅の信頼を預けられて、失敗などできようものか。

しがみついても食らいついても、成功させなければならない。

 

スバルは深々と息を吸い、吐いた。

そして、黙って見ているレグルスを横目にする。レグルスはスバルたちの話し合いを妨害するでもなく、腕を組んで悠然と待っていた。

 

「余裕だな?」

 

「余裕だけど?」

 

負ける要素など微塵もない。

レグルスは仕込みの全てを明かして、完全にこちらを封殺している。実際、レグルスの『獅子の心臓』の権能は完璧だ。カラクリを解き明かしてもなお、これだけ手の届かない場所に勝利が置かれるとは想定していなかった。

 

だが、目先の勝利を確信しているからこそ、スバルたちが何の悪足掻きをするのかすかした態度で見ていられるのだ。

何が起きるのかも知らず。そしてそれは、スバルも同じことだ。

 

「――――」

 

ベアトリスがここにいれば、あるいはもっと違う方法があったかもしれない。賢いあの少女が傍らにいてくれれば、もっと勝算の高い献策をしてくれただろうか。

胸の奥に、自分の相方である少女との繋がりはある。きっと、全部が片付いたあとで盛大に叱られるだろうし、叱ってやらなくてはならない。

 

だから今は一人で、一人だったときのことを思い出して、この胸に残る記憶――決して喜ばしいものではない、恐怖と痛苦の原風景を呼び覚ます。

 

「スバル」

 

「――――」

 

「やっちゃって」

 

エミリアの呼びかけ、それに決断の後押しをもらった。

スバルは自分の胸元を乱暴に掴み、己の中にある己のモノとは思えないほど、どす黒く渦巻く力に意識を集中し、解き放つ――。

 

今この瞬間、呼び方は改めておこう。

何が起きるのか、狂人を罵った凶人にもわかるように、今だけは。

この力は、忌まわしき狂人から継いだものだ。

 

「こいよ……見えざる手ぇぇぇ――ッ!!」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――インビジブル・プロヴィデンス。あるいは『見えざる手』。

 

自分の中で渦巻くこの力を、スバルは魔女因子に起因する魔女の力と定義している。夢の世界でエキドナに聞かされた、ペテルギウスを殺したことで狂人から引き継がされた魔女因子――どんなデメリットがあるのかはわからない。だが、スバルに不可視の魔手を与えた力は間違いなくそこからきている。

 

故にスバルはこれまで、自分の力の起源を魔女因子以外に求めたことはない。

 

彼の狂人と似た性質の能力になっているのは、引き継いだ『怠惰』の魔女因子がそういう形質のものだったからだ。そうに決まっている。

自分の中にペテルギウスが息衝いている可能性など、考慮すらしたくない。

 

――だが、だとしたらこの感覚はなんなのか。

 

渦巻き、色めき、スバルの内側で声ならぬ声の喝采が上がる。

呼び起こされたことへの喝采。再び力を得たことの喝采。求められ、果たせることの喝采。そして、それだけでは言い表せない不可解な歓喜。

 

力を解放されることに伴う、この多幸感と感激、そして感謝の念。

この不可解な感情の荒波は、決してスバルだけの問題では片付かない――。

 

「はぁ!?」

 

高らかに叫んだスバルの声に、レグルスが引きつった声で仰天する。

 

見えているはずがない。これは、見ることのできない魔手だ。

不可視にして絶殺を可能とする毒手――レグルスが愚図と罵り、取るに足らないと嘲弄した出来損ないの、さらに薄めた出来損ないの力に他ならない。

 

数は一本、射程は極短、可能性は未知数。

この状況を打開する鍵としては、役者不足も甚だしい。

 

「――――」

 

第一段階である、魔手の発動は突破した。ここから未知数の第二段階と、最終段階である第三段階へ踏み込む。

スバルは己の意図に従って指先を動かす、影で編んだような魔手に願いを込める。

 

「エミリア!」

 

今一度、彼女の覚悟の是非を問うた。自分への後押し、それを求めて。

その声にエミリアは瞼を閉じ、それからわかったように頷いた。

 

「なんだ。――そこにいたんだね、ジュース」

 

納得と親愛、エミリアはそれを瞳に宿して腕を広げた。

スバルの意図を酌み、何が起きるのかを見通したように、自分の心臓への最短距離を開示する。スバルはそこへ躊躇わず、魔手を通した。

 

「――――」

 

見えざる魔手がエミリアの胸の中央へ滑り込む。指先が白い肌をすり抜けたとき、エミリアは何かを感じたようにかすかに肩を跳ねさせた。

だが、手は止まらない。胸骨を抜け、肺の間を渡り、そして鼓動の源へ達する。

 

――魔手が、エミリアの心臓に辿り着いた。

 

第二段階は成立した。

禁忌に触れたとき、魔女の魔手はスバルの体をすり抜けて心臓を傷めつける。あの作用の応用だ。見えざる手と魔女の魔手が、同質のものかは賭けでしかなかった。

しかし、ここまでの賭けは通った。問題は最後、何の根拠もない力。

 

ただエミリアの心臓を握り潰すだけならば、この瞬間にでもできよう。だがそんなことには何の意味もない。そんなことのための力ではない。

では、何のための力なのか。――今、この瞬間、救うための力だ。

 

「――――」

 

可能なのか、コンマの世界でスバルは息を呑む。

見えざる手は、人を救うことが可能な手なのか。ペテルギウス・ロマネコンティという狂人の下で、いったいどれほどの命がこの力に奪われてきたのか。

力は使い方次第などといっても、使い道の限定された力は往々にしてある。見えざる手もまた、破壊のための力に他ならないのではないか。

 

この力が、誰かを生かすために生み出された力だとは到底――。

 

「スバル」

 

刹那の躊躇と逡巡、聞こえるはずのないエミリアの声が聞こえた。

 

「大丈夫。――私、二人のこと、信じてるから」

 

誰と、誰のことだろう。

スバルと、スバルの知らないもう一人に、エミリアの信頼が向けられて。

でもひどくあっさりと信じられた。

 

――この手はきっと、エミリアを傷付けることはしないのだと。

 

「おぉぉぉ!うなれ、俺の第三の手ぇ!!」

 

自分の中にある力への、信じきれない疑念が晴れる。

この力の原点がどこにあるかはもはや関係ない。この力が今、スバルの手元にあって、スバルにエミリアを傷付ける意思がなくて、そしてひょっとしたら力そのものにも何かがあるのなら。

 

エミリアの胸の中で、影で編まれた魔手が指を閉じる。

鼓動を刻むエミリアの心臓に指先がかかり、表面を甘く引っかかれるような感覚にエミリアが小さく喘いだ。苦痛よりも、くすぐったさが先立つような触れ合い。

頬を赤らめるエミリアの胸の中で、指を閉じた魔手は確かに掴んだ。

 

エミリアを生かす拍動とは異なる、あまりに『小さな獅子の心臓』を――。

 

「捕まえ、た――!」

 

引き出す、そんな余裕はない。

エミリアの内側で図々しくも脈動を続ける心臓を、スバルの魔手は握り潰す。

 

エミリアの心臓には傷一つ付けず、愛を謳って寄生していた害悪器官を。

存在しない第三の手に、スバルは確かな感触を得る。そして、

 

「っぶはぁ!」

 

かつてない集中力と、自分本来のものではない力を使ったペナルティ。

内臓にねじ切られるような痛みと、自分が汚されていくような喪失感が駆け抜け、スバルはその場に膝を着いた。盛大に咳き込み、吐血がある。

 

「スバル!」

 

水に浸る地面に跪き、口の端から血を流すスバルにエミリアが手を伸ばす。その伸びてきた手を掴み、スバルは自分の頬に寄せた。

 

「あ……」

 

「生きてる、よな?」

 

「……うん、大丈夫。ちゃんと私の心臓、私の中で動いてる」

 

血の通う手の感触を確かめるスバルに、エミリアも空いた方の手で自分の拍動を確かめる。それは確かに、今ここにあることを祝福する鼓動を刻んでいて。

そしてそんな二人の様子を、レグルスだけが理解を越えた顔で見ていた。

 

「は?なに、なんなの?自分たちだけで分かり合っちゃって、周りは置いてけぼりなんですけど?どんな三文芝居?何がどうなったのか、お前らは……」

 

「……お前、気付いてないのか?」

 

「はぁ?何を言い出してるんだよ。気付いてないもなにも、何一つ変わったところなんて……」

 

「足下、濡れてるぞ」

 

「――?」

 

癇癪に身を委ねようとしたレグルスに、スバルは指差して教えてやる。怪訝そうに自分の足下を見たレグルスはしばし沈黙し、目を見開いた。

自分の白いタキシード――その白い靴と裾が、足下を浸す水にずぶ濡れなことに気付いて。

 

「お前ら――かっ!?」

 

あまりにも遅すぎる変化に気付き、レグルスが牙を剥いて腕を振り上げた。が、そこに白く長い足が伸び上がり、その横っ面を豪快に蹴り飛ばす。

レグルスは無防備にその蹴りを直撃され、苦鳴を上げて水浸しの地面に叩きつけられた。半身がさらに水に濡れ、蹴りを受けた顔に靴跡がついている。

 

「が、ぶぇ……こん、こんな……っ」

 

信じられないとでも言いたげに、レグルスが呆然と顔を上げる。そのレグルスを見下ろし、美しいまでの蹴りを放ったエミリアは小首を傾げた。

 

「やった。やっと当たる」

 

「おま、お前――!」

 

エミリアの短い達成感の声に、レグルスは顔を赤くして激昂した。立ち上がる勢いで水をすくい、レグルスの手が水の散弾をエミリアへ叩きつける。

だが、蹴りを食らった痛みが勝ったのか体勢は崩れ、水の弾丸は見当違いの方へ飛び、かえってがら空きになった胴体に、

 

「アイスブランド・アーツ!」

 

「ごぼっ!」

 

エミリアの手の中で形作られた氷槌が、レグルスのど真ん中を打ち抜いた。

骨まで軋みそうなフルスイングを受け、凶人の体は水の中を転がっていく。咳き込み、水に何度も拳を叩きつけ、レグルスは血走った目でスバルたちを睨む。

 

「なんで!なんでなんでなんでなんで!お前たちは、お前たちなんかが、どうやって何をどうして、『強欲』の権能を!僕の権利を!?」

 

「あれだけ見てて答えがわからないなら、お前に説明しても全部無駄だよ。まぁ、あれだ。単純な話」

 

喚き散らすレグルスを哀れみながら、スバルは内臓の絶叫を堪えて、嗤う。

ペテルギウスにも劣らないぐらい、凶悪な笑みで。

 

「お前、舐めプしてる間に敵に逆襲されたんだよ」

 

「――っ!」

 

言葉の意味はわからなくとも、嘲弄の意思だけははっきりと伝わった。

レグルスは声にならない声で絶叫し、エミリアを無視してスバルへと攻撃を叩きつけようと構える。しかし、そこにエミリアが先んじた。

 

「最初の、花嫁さんたちの攻撃――不発だったみたいだから、ちゃんと当たってあげて」

 

「ふざ、けるなぁ――!」

 

レグルスの頭上に生み出される、あまりにも膨大な数の氷柱。

一つ一つの大きさこそ違うが、全てが突き刺されば当然ながら命はない。エミリアのレグルスへの嫌悪はもはや、温厚な彼女をして許し難い次元だ。

 

跳ねるように立ち上がり、レグルスは降り注ぐ氷柱に水飛沫を叩きつける。砕かれる氷柱、だが小さく細かくなった氷柱もそれで役目を終えるわけではない。

次々と嵐のように氷の弾丸は打ち出され、レグルスはそれを全身に浴びながら、聞くに堪えない罵詈雑言を上げて水の中を走る。

 

白い氷の結晶が霧を産み、水浸しの街並みが凍りつく。スバルもまた、水溜まりに膝をつく自分の周囲に氷の膜が張り、慌てて手を水溜まりから剥がすほどだ。

スバルに配慮してなお、スバルの周囲でこの被害。当然、標的とされたレグルスの被害はこの比ではないだろう。

だが、

 

「……無事だと?」

 

氷の弾幕が止んだあとの凍てついた光景に、レグルスは健在のまま立っている。

膝に手をつき、荒々しい息を吐き、全身を水浸しにしながらも、串刺しにされて迎えるはずの終焉だけは回避していた。

 

「ぜひゅっ、ぜひっ、あ、はぁ……っ」

 

息も絶え絶えの様子で、胸を掻き毟るレグルス。

その姿を見て、スバルは理解した。『獅子の心臓』による無敵化の効果は、心臓が自分の内側にあってなお利用可能なのだ。ただし、

 

「無敵化するために自分の時間を止めたら、自分の中にある心臓も止めなきゃならない。――完全に、時間制限がある無敵化だな?」

 

「ぐっ……!」

 

図星を突かれたのか、レグルスが胸の苦痛を堪えながら憤怒の形相。時間制限があるのであれば、エミリアが物量を叩きつければいずれは攻撃が通る。

そうなればレグルスなど、攻撃力に全振りすることが可能なだけの雑兵だ。

 

「あ、あのさぁ……!卑怯だと思わないのかなぁ!?」

 

彼我の戦力比を分析するスバルに、レグルスは指を突きつけた。さらにレグルスは指先をエミリアにも向け、二人を交互に睨みながら、

 

「二人がかりで一人を、いたぶるような真似して心が痛まないわけ?それって人として大事な部分がどうかしちゃってるんじゃないの?そんな自分たちに疑問とかないのかなぁ。あって当然だよねぇ!?」

 

「……お前、本当にすげぇな」

 

『獅子の心臓』の効果で優位に立っているとき、あれだけ好き放題に言っていたのと同じ口で、その効果が失われれば自らの不利を理由に相手の正当性を求める。

スバルは呆れるのを通り越して、いっそ尊敬したい。ここまで人間的魅力のない存在は、あとにも先にも絶対に現れないだろう。

 

「つまり、お前はアレか?二対一なんて卑怯だから、一対一で正々堂々と戦おう。それこそが戦いのあるべき形だと、そう言うわけか?」

 

「そうだよ!当たり前のことを当たり前にするだけだろ?僕が……僕を、誰だと思って!僕は魔女教大罪司教、『強欲』担当のレグルス・コルニアスだよ!?この世界でもっとも、満たされて、揺るがざる存在で……」

 

震える声で言いながら、レグルスは自分の両手を見下ろしている。

スバルはもはや言葉もない。だからスバルに代わって、エミリアが言った。

 

「言ったことがすぐに変わるし、話してる内容は空っぽ。私、あなたのこと、世界一の可哀想な人だと思うわ」

 

「――っ!ざけるなぁ!この僕を……『強欲』を、コケにしたことを後悔させてやるからなぁ!」

 

軽蔑への怒りすら底が浅く、レグルスは繰り返し繰り返し罵声を吐く。

そのどうしようもない様子を眺めながら、スバルは安堵していた。レグルスは本当に、最高に優位な状態からの勝ち方以外を知らないのだ。

 

まだ短時間でも『獅子の心臓』を使えるのなら、勝ち筋などいくらでもある。

それなのに辛い局面を見ただけで、盤面を隅々まで見ることもなく勝負を投げる。

 

「人生舐めプで乗り切ってくると、思わぬところで躓くもんだ」

 

「はぁ……?」

 

「なんでもね、独り言。それより、一騎打ち受けてやってもいいぜ」

 

「――!そうだよ。そうこなくちゃ。もちろん、騎士が自分のご主人様を先に立たせるようなことはしないよねえ?」

 

都合のいい話に飛びつき、レグルスはさらに優位な条件を引き出そうとする。

スバルとエミリア、戦闘力が高いのは比較するまでもない。スバルを先に殺し、エミリアの動揺を引き出せば勝ち目は見えるかもしれない。ない頭をひねって、不必要だった姑息さを発揮した結果としては合理的だ。

ただ、小人根性でスバルに勝とうとするのなら、それこそ万年早い。

 

詰んだ盤面に勝ち筋を見つけることこそが、スバルの戦い方なのだから。

勝負への向き合い方の時点で、レグルスとスバルは対極だ。

 

「そうだな。騎士が戦うのが道理だ」

 

「なら」

 

「だから――またになっちまうが、最後は任せる」

 

水溜まりに足を浸したまま、スバルは息を吐くように言った。

その言葉にレグルスが「は?」と首を傾げる。しかし、スバルの言葉は彼に向けられたものではない。『彼』に向けたものだ。

 

「ああ、わかったよ。――挑まれた一騎打ち、騎士として受けよう」

 

応じたのは炎だ。

水浸しの街路を、あろうことは水に波紋を付けずに青年は歩いてくる。レグルスの紛い物の神秘とは違う、天に愛されたものが授けられる加護の力で。

 

「ルグニカ王国近衛騎士団所属、『剣聖』の家系――ラインハルト・ヴァン・アストレア」

 

スバルとエミリアの前に出て、名乗る騎士はレグルスに鞘に入ったままの剣を向ける。互いに名乗り合い、正々堂々たる一騎打ちを願い出る姿勢。

あの『腸狩り』のエルザですら応じるほど、周知された決闘の正義。

それに対し、レグルスは立ち上がり、両手を前に突き出して、

 

「ま、待って!こんなっ、こんなの、おかしいだろぉ!?」

 

神聖な決闘を汚し、戦士を否定したものに『剣聖』は容赦しない。

 

斬り上げる斬撃がレグルスの股下から入り、その体を縦に一閃――レグルスは悲鳴も上げられないままに、はるか上空へと打ち上げられた。

 

「――――ッ!!」

 

自らが破壊した水の都――その全景を見下ろすほどの高空へ。

悲鳴とも罵声ともつかない声が、木霊していく。