『鏡に映るあなた』


 

鏡の中でこちらを見ている魔女と向かい合い、エミリアは吐息をこぼした。

 

白と黒、たった二色で全身を彩った『強欲の魔女』エキドナ。

自室を再現した夢の世界でエキドナを見つけ出し、エミリアはここが本当に自分の頭の中から生み出された場所であるのだと実感する。

 

平和で、平穏で、森で過ごした日々がずっと続いていた優しい世界。

フォルトナが、ジュースが、アーチが、森のみんなが笑い合って過ごせた世界。

 

「でも、そんな世界はどこにもないのね……」

 

「そうだとも。ここは君の記憶と願いを元に形作られた仮初の世界だ。ただし、『試練』を司る術式の世界構築力は人智を超えている。この世界を生きる人々は、ボタンの掛け違え一つで実際にこうして息づいていただろう姿そのものだよ」

 

エミリアが思い出したばかりの、エリオール大森林が凍てついた日の真実。

あのときの被害がもたらされず、森が平穏を享受し続けることができたのなら、誰もが笑って今日という日を迎えることができたのか。

フォルトナとジュースの、仲睦まじく食卓に並んでいた姿が目に焼き付いている。

 

あれは幼い日のエミリアが最後に、そして記憶を蘇らせた今のエミリアが、心の底から見たいと願っていた光景に他ならない。

 

「ありうべからざる今を見て、この世界に沈みたいとは思わなかったかい?」

 

エミリアの心を覗き込んだように、エキドナが甘い誘惑を投げかけてくる。

顔を上げるエミリアを、声音と変わらず冷たい瞳で見つめるエキドナ。彼女は自分の雪のように白い髪を撫でつけ、背に流しながら、

 

「母と、その良人。二人の幸せな姿を見て、ずっとあのままでいてほしいと望まなかったかい?森で暮らす住民の様子を、親しくしてくれる友人の態度を、微笑ましいものと思って過ごすことを夢見なかっただろうか」

 

「……何を、言いたいの」

 

「単なるやっかみ、みたいなものだよ。ボクを見つけ出したということは、すでに君はこの世界の情景に対する答えを出したということさ。その答えが夢より現実を選ぶことであることも、退屈なことにわかっている。どうせ結果の見えた流れとなるなら、ささやかにでもボクの爪痕を残しておこうと思ってね」

 

「――――」

 

「母や親しくした人々の幸せより、彼女たちが不幸な結末を迎えた現実を選ぶ。君は結局のところ、何より己を優先させる浅ましい女だというのが『試練』の結果だよ」

 

痛烈なエキドナの批判が、鋭い槍となってエミリアの胸に突き刺さる。

痛みを錯覚するほどの言葉の切れ味に、本当に刃を突き立てられたわけではないにも拘わらず、エミリアは胸に手を当てて思わず一歩下がってしまった。

そんなエミリアの反応に、エキドナは形のいい鼻を小さく鳴らす。

 

「自覚が芽生えたようで何よりだ。それに、『試練』は挑戦者の人格までは考慮しない。資格あるものであるのなら、どんな性格破綻者であろうと、利己主義と自己愛の塊であろうと等しく受け入れる。安心したまえよ。君の目的は、間もなく叶う」

 

「すごーく……痛いところ、突いてくるのね。誰に対してもそんな感じなの?」

 

「まさか」

 

苦し紛れなエミリアの言葉に、エキドナは肩をすくめた。

 

「ボクが悪意を抱いて接するのは、この世に君ともう二人しかいない」

 

「世界中でたったの三人に選ばれたのが全然嬉しくない。……私、あなたにそこまで嫌われるほど、お話した覚えがないんだけど」

 

「そんな不安げな顔をしなくても大丈夫だよ。ボクが君を嫌いなことは、君がハーフエルフであることとは関係ない。出自の是非など問いはしない。血や資質と関係なしに、ボクは君が嫌いなだけだ。……いや、それも正しいとは言えないか」

 

「――?」

 

発言の後半で違和を覚えた顔で俯くエキドナ。何事か考え込む様子の魔女に眉根を寄せて、エミリアは小さく首を振った。

言われっ放しのまま、おめおめと帰ることなんてできはしない。

何より、エキドナの言葉には否定しなくてはならない部分がたくさんあった。エミリア自身のためではなく、森のみんなの名誉のために。

 

「あなたが、私を嫌いなのは仕方ないことだと思うわ。全てのみんなに好かれるなんて難しいこと、私もちゃんとわかってる。嫌いだなんて、たくさん言われたから」

 

「それならなおさら、弁えて森にこもっていればよかったのにね」

 

「そういうわけにはいかないわ。さっきの『試練』でも言ったはずだもの。私は、森の氷を溶かしてみんなを救い出す。そして、世界が歩きやすい場所になったんだって、胸を張ってみんなに教えてあげるわ」

 

「歩きやすい、とはずいぶんと大胆な虚言を口にするね。いまだに種族間の差別意識は大きく、人々の心は自分と異なる存在を易々とは受け入れない。だからこそ、『聖域』などという場所がいまだに機能を喪失していない。世界には、君の言うすれ違いによる被害者は延々と増え続けている。違うかい?」

 

「……違わない」

 

エキドナの苛烈な言葉に、エミリアは下を向きそうになる。

エミリアの細い体は、今もパックと二人で森で過ごした日々を覚えている。近隣の村々に怯えられ、悪意と罵声を少なからずぶつけられた時間を今も。

エキドナの容赦のない態度から、エミリアはその日々のことを思い出す。思い出さないようにしようとしても、傷はいつまでも瘡蓋から治らないまま痛みを主張し続ける。

 

「でも、違うようにしていこうと思ってる」

 

「――――」

 

その傷の痛みを意識したまま、エミリアは強い口調でエキドナに反論した。

エキドナが目を細めるのを見ながら、エミリアは唇を噛んで目に力を入れる。

 

「人と違うってことは、時々、辛いすれ違いを生むわ。数が多いことや少ないことも、時には被害者と加害者を分ける大きな原因になるかもしれない」

 

「歴史を見ても、それは繰り返されてきたよ。人は違うものを受け入れられない。そして数の多寡はそのまま力の差だ。多きは少なしを迫害する。摂理を理解し、一つ賢くなったところでどうするんだい?少なしを集めて、弱者の楽園を生むかい?それこそがまさしく、『聖域』という場所の本質じゃないか」

 

「それも……選択肢の一つだと思う。だけど、私は違う道を選びたい。被害者であったことや加害者であったことが変えられなくても、未来は違うでしょう?」

 

未来、という単語がエミリアの口から出た瞬間、エキドナの表情が凍りついた。

エミリアにはそれがまるで、『エミリアにだけはそれを口にされたくない』というエキドナの怒りのように思えた。しかし、それでもエミリアは続ける。

 

「王選を進める中で、私はきっと色んなことをするわ。悪意や罵声も、前以上に浴びるかもしれない。でも、立ち止まらないで言い続けたいの。自分と相手と違うことの、何がいけないのかって。隣にいる人が自分と違うのが、そんなに怖いことなのって」

 

「何度も言わせないでほしいが、それは摂理だ。人は他者と己との違いを受け入れられない。本質的に、生き物は他人が自分と同じであることを望むんだよ。同じものを好み、同じものを愛し、同じものを憎み、同じものを厭う――そうあることに安心感を覚え、理解できることに愛を抱くんだ。君の主張は弾かれる。弱者の妄言として」

 

「そんなの、ただの思考停止じゃない!格好悪いわ!」

 

「格好が、悪い……?」

 

声を高くするエミリアの言葉に、エキドナが予想外をぶつけられた顔で目を見開く。

そしてたじろぐエキドナに対し、エミリアは「そうよ!」と自分の胸を張った。

 

「そんなの格好悪いわ。隣の人は自分と違う、だから嫌だ……子どもじゃない。そんな理由で耳を塞がれちゃったらたまらないわ。そんな分からず屋になら、私は何度でも言ってみせる。考えるのをやめて嫌だ嫌だって叫ぶより、何度も何度も同じことを言ってくる私を黙らせるために、少し考えてみた方が楽だって」

 

「なんて自分本位。なんたる自己欺瞞。君は自分の意見を押し付けるために、他人の聞きたくないという意見を跳ね除けるのか」

 

「跳ね除けたりしないわ。耳に当てた手をどかすかは、その人次第。――私はただ、その人と私とどっちが意地っ張りなのかに自信があるだけだもん」

 

腰に手を当てて、エミリアは意思を曲げないことをエキドナに表明する。

それを聞くエキドナは苦虫を噛み潰したような顔をして、エミリアから視線をそらした。そして、

 

「君の主張がどうあれ、世界がいまだ変わっていないのは間違いない。森に住まう、氷の中にいる人々――仮に彼らの命があったとして、溶けた世界に彼らを連れ出しても、世界は彼らを迎え入れる準備はできていない。君は荒波の中に、優しくしてくれた人々を投げ出そうとしているだけだ。自分の、偽善的な思いのために」

 

「…………」

 

「一刻も早く仲間たちを解放したい。だが、解放すれば仲間たちは世界の拒絶という壁に苦しめられる。生きるも苦しみ、死ぬも苦しみだ。そんな世界の在り様を、君一人の心構えでどうする。どう変える。どう変わる?」

 

それは、エキドナからエミリアへの本当の意味での問いかけだ。

過去とありえない今、二つの『試練』によってエキドナはエミリアの覚悟を確かめた。その上でエキドナは言葉で、エミリアの覚悟の先を問いかけてくる。

 

意思を貫いた先の展望を。

描いた未来に辿り着くための道筋を。

何を礎にして、その道を築くのかという具体的な根拠を。

 

その問いかけにエミリアは頷き、そして言った。

 

「それは、『試練』が終わってから考えるわ!」

 

「――は?」

 

「後のことに意識がいきすぎて、足下が疎かになるのは本末転倒だもの。私、自分で言うのもなんだけど、ぶきっちょだから。目の前に越えなきゃいけない壁があるのに、さらにその先のことを気にして何かしようとしたら、壁の前の穴に落ちると思うの」

 

『試練』のことと、スバルとの言い合いを経て、エミリアは自分のことをわりと正しく客観視することを覚えたつもりだ。

今の自己評価についても、忌憚ない評価を自分に下したつもりでいる。

 

自分は、一人で多くのことに取り掛かれるほど器用な人物ではない。

目の前のことに精一杯、懸命に取り組んで初めて結果が出せるかどうか。

 

未来への希望はある、展望はある。

まずはそこを目指すことを決めて、そこを目指すための最初の一歩を。

ここで刻むべきは、その第一歩目だ。

 

「……君と議論することの無為を、今さらながらに思い出したよ。ボクとしたことが実に間抜けな行いだった」

 

「あなたが頭がいいのはわかるけど、そうやって相手の意見の封じ込めをするのはずるいんじゃないかなって、すごーく思うんだけど」

 

「意見交換をしたつもりでいるのかい?ボクの問題提起に対して、君はただ綺麗事を並べただけだ。忘れていたよ。君がどうしようもない子どもで、一人で立つことができずに周りに頼りきりの弱い女であることを」

 

「そうね……私、弱い子だと思う」

 

苛烈な物言いに目を伏せ、エミリアは小さく首を振った。

しかしすぐに顔を上げて、エキドナを見つめ返すエミリアは「でも」と言葉を継ぎ、

 

「弱いのって、そんなに悪いこと?」

 

「……なに?」

 

「私に、大事なことを教えてくれた人ならきっとこう言うわ。弱いのが悪いことなんじゃない。弱いままでいようとするのが、良くないことなんだって」

 

脳裏に描く、黒髪に目つきの悪い少年。

無力さに嘆き、だけど心優しいから誰より傷付くために奔走する、大事な少年。

 

みんなの力を借りながら、それでも一番辛いところに立つあの人はきっとそう答える。

 

「開き直りだ」

 

「うん。私、開き直るのが遅かった」

 

微笑みさえ浮かべるエミリアに、エキドナは今度こそ議論の余地がないことを悟った。

前向きを通り越し、前のめりのエミリアを止める手立てはエキドナにはない。

ましてやこれ以上の干渉は、『魔女』としての彼女自身の矜持にすら関わる。

 

「……せいぜい、残りの『試練』を楽しむといい。それが済めば、『試練』よりよほど辛い現実が君を待つ。そこで、並べた綺麗事を守るのがどれほど難しいことなのか悟ることになるだろうね」

 

「わざわざありがとう。ちゃんと、あなたの言葉を覚えておくわ。それと……」

 

おそらく、鏡の中で消える寸前なのだろう。

鏡面に映るエキドナの像がぼやけ始めるのを見て、エミリアは言葉を続けた。鏡を隔てた世界で眉を寄せるエキドナ。その渋面にエミリアは、

 

「私に、この世界を見せてくれてありがとう」

 

「――――」

 

「ここはありえない世界かもしれなかったけど、私が見たかった世界には違いないから。あんな風に並んで笑う二人を、母様と……ジュースお父様を見れる日があるなんて、思ってなかった。だから、ありがとう」

 

実現しない世界であったと、そう断言されたことには痛切な思いがある。

しかし、エミリアはありえない世界だとしても、ありえたはずの光景を見たのだ。

そこにあったのは確かな幸せと、きっと愛情で、それが震えるほどに嬉しくて悲しい。

 

この光景に出会えてよかったと、心の底から思うことができる。

 

「……君は」

 

そう思って伝えた感謝の言葉――それを聞いて、エキドナは表情を変えた。

嫌なものを見たような先ほどの顔、不満を堪えているような話すときの態度、エミリアの行いを見下すような侮蔑の姿勢、これまでに見せた幾つもの表情――そのいずれとも違う表情だった。

 

――エキドナはただ、泣きそうな顔でエミリアを見ていた。

 

「エキドナ……?」

 

「君が、憎い。――ただ君が、憎い」

 

呼びかけに応じず、下を向いたエキドナは絞るような声でそう答えた。

そのまま鏡面の中の像が歪み、白髪の魔女の姿が瞬きの間に鏡の中から消える。代わりに鏡に映るのは、銀髪を長く伸ばす一人の少女で――、

 

「――ッ!」

 

拒絶感が胸を貫いて、エミリアはとっさに鏡から視線を外した。

拍動が高くなり、息がかすかに荒くなる。

 

覚悟を決めたはずなのに、目の前の鏡に自分が映っていることが恐ろしい。

 

「――――」

 

エリオール大森林と共に氷の中に閉じ込められ、百年の月日を経てパックの手で救い出されたエミリア。――彼女は、自分の成長した姿を一度も鏡で見たことがない。

 

理由は簡単だ。ただ、恐ろしかった。

 

百年という時間を眠って過ごしたことで、エミリアという少女は心は幼いままに、体だけは女性として成長を遂げた。

意識が戻り、最初に自分の体がうまく操れないことに気付いたとき、エミリアは自分の体が自分のものではない錯覚に襲われて、幾夜も泣いて過ごしたものだ。

 

そんな彼女のトラウマに拍車をかけたのは、近隣の村々に住む人々の反応だ。

『嫉妬の魔女』と同じ身体的特徴を持つエミリアを、村の人々は悪魔のように恐れた。エミリアが危害を加えてこないことに気付いても、遠ざける態度は変わらない。

エミリアがいよいよ何もしないとわかれば、待っていたのは罵声と悪意に塗れた迫害の日々だ。その中でエミリアは、彼らが自分を忌み嫌うのは自分の姿が『魔女』のそれと同じであるからだと、少なくとも無意識の部分に刻み込まれてしまった。

 

鏡を拒絶し、周囲に嫌われる自分の姿を目にしないように振舞うようになったのは、正しくはそれからだったはずだ。

エミリアの心的外傷に気付いたパックは、エミリアの姿かたちが映りそうなものを片っ端から排除した。水場から水を汲むときさえ、エミリアに声をかけ意識を水面に向かわせないようにし続けていたほどだ。

 

――パックとの契約の条文に含まれた、エミリアの日々の身嗜みをパックが受け持つという内容は、実際のところはそんなエミリアを守るためのものだったのだろう。

 

鏡を見れない愛娘を守るために、パックは契約と称してトラウマを覆い隠したのだ。

 

「……私ってホントに、どれだけたくさんの人に守られてたんだろう」

 

どれだけの思いに気付かず、一人でふて腐れてきたのだろう。

もらっていたものを知らないでいられた時間は、だからもう終わりだ。

 

「――――っ」

 

息を吸って、止める。

そしてエミリアは顔を上げ、自分的には一大決心で鏡を睨みつけた。

 

鏡面に映るのは、銀色の髪を長く伸ばした紫紺の瞳の少女だ。

まるで世界の終わりを出迎えるような顔で、目を凝らしてこっちを睨みつけている。

 

「――なんだ」

 

拍子抜けの声が漏れた。

鏡の中にいる、大きく成長した自分を見て、エミリアはため息のようにこぼす。

 

「思ったより、フォルトナ母様に似てなくて残念……」

 

拗ねたように呟いた直後、音を立てて世界が粉々に砕け散った。

 

幸せで、手放したくない、けれど別れなくてはならない夢の世界が、終わる――。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「――ぁ、ふ」

 

意識を取り戻したエミリアは、自分が壁に半身を預けて寝入っていたことに気付く。

床に腰を落として横座りになり、スバルの刻んだメッセージの残る壁に頼りきっていた自分。乱れていそうな髪を手で撫でつけて、瞼の裏に最後に見た自分を描いた。

 

あれが、多くの人々に『魔女』と恐れられ、そしてスバルが事あるごとに「可愛い」だの「好きだ」だの言ってくれる自分の見た目なのか。

どちらが正しい認識なのか、美醜について理解に乏しいエミリアにはわからない。

ただ、フォルトナ母様はエミリアの中で最高に綺麗で格好いい人の象徴だ。だから目つきの悪いのが悪いことだと思わないし、実はスバルの目つきの悪さも嫌いではない。

 

「戻って早々、変なこと考えてる場合じゃなかった」

 

頬に手を当てて、エミリアは自分の思考にストップをかける。

いくら何でも腑抜けすぎだ。無事に『試練』を終えて戻ってこれて、スバルの手書きのメッセージを目にできたぐらいで、どれだけ浮かれているのかと。

 

「でも……二番目の『試練』は、今ので終わりでいいのよね?」

 

誰にともなく呟いて、立ち上がったエミリアは成否について考えを巡らす。

別れ際のエキドナの態度からして、おそらくは『試練』は終わりだろう。第一の『試練』と違い、乗り越えたという確たる実感が自分の中にない。

それでも、囚われそうになる心を引き剥がし、戻ってこれたことは確かだ。

 

「――――」

 

フォルトナとジュース。二人の仲睦まじい様子を思い出し、胸が痛む。

しかし、その哀切の感情を押し込めて、エミリアは『試練』の間に背を向けた。

 

第三の『試練』があるとすれば、第二の『試練』同様に出入りが必要だ。

この勢いのままに第三の『試練』までを攻略し、『聖域』を解放する。

 

スバルのためにも、ラムの願いのためにも、ロズワールに対してエミリア自身が切った啖呵を実行するためにも、行動力こそが求められていた。

 

「――もう、真っ暗なんだ」

 

暗がりの遺跡の通路を抜け、石畳に足音を反響させながら、エミリアは墓所の出入り口から差し込む光の弱さに気付いて目を細める。

月光が雲に遮られているのか、薄く靄がかったような淡い光は星明かりだろうか。

 

夜になるとほとんどの光源を落としてしまう『聖域』にあっては、空から降り注ぐ自然の光だけが夜闇を切り裂く唯一の手立てであった。

 

「――ぇ」

 

そんな風に思いながら歩いていたエミリア。

だから墓所を出た瞬間、その細身に浴びせられる多くの意識に思わず喉を詰まらせた。

 

「あ、おいでになられたぞ!」

 

誰かが、そう声を上げると、途端に周囲にざわめきが伝染する。

たじろぐエミリアの前で、そのざわめきは一気に広がり、その場にいたあまりにも多数の人々の意識がエミリア一人へと集中した。

 

――それは、『聖域』で暮らす住民たちの姿だった。

 

ガーフィールやリューズ以外の、『聖域』で暮らす人々。

エミリアはこれまでの日々で彼らと、必要以上の接触をしてこなかった。それはエミリアの精神状態にそこまでの余裕がなかったこともあれば、彼らの方からエミリアへ積極的に接触しようとしてこなかった点も理由に挙げられる。

 

エミリアはこれまで同様、周囲から向けられる視線にある種の諦観が。

そして住民たちにはエミリアの素性への嫌悪と、しかし『聖域』を解放する上での彼女の役割への期待と、何より自分たちの前に立つ人物として相応しいのかを見極めなくてはならないという疑念があったのだ。

 

だから、エミリアは自分が『聖域』を解放する結果を出すまで、彼らがこうして大挙して姿を見せることなどありえないと思っていた。

エミリア自身、彼らとの対話は結果という成果を引き連れた上で、初めて成立する類のものだと信じて疑っていなかったのだ。

 

それがどうして、今、こうして彼らは集まっているのだろうか。

それも、エミリアに対して向ける視線――そこに、嫌悪ではなく期待を強くして。

 

「意地の悪い話、ではあったんじゃがな」

 

困惑するエミリアの前で、住民たちの中から一人の少女が進み出る。

薄紅の髪を長く伸ばす人物はリューズだ。

村の代表である彼女は住民たちを率いるように前に出て、エミリアへ笑いかける。

 

「ここにいた連中はみんな、足踏みしてたものたちじゃよ。エミリア様が『試練』に対してどんな答えを出すのか、それと……『聖域』が解放された後、自分たちの身の振り方に悩むものもおったしの」

 

「……それは、仕方ないことだと思います。でも、それと意地が悪いってお話はどう繋がるの?」

 

「なに、簡単な話じゃ。『聖域』のみんなに、ガー坊とスー坊の喧嘩のことや、エミリア様とロズ坊の言い合いのこと……まあ、他にも色んな場面じゃな。そのあたりの詳しい話をちょこちょこと……」

 

「は、話しちゃったの!?」

 

リューズが言いづらそうに頬を掻くのを見て、エミリアは頬を赤くする。

スバルとガーフィールの意思のぶつけ合いなどはいいが、その後で起きた自分とロズワールの言い合いは未熟な意見の押し付けでもあった。

誰に聞かれても恥ずかしくないと割り切っているものの、実際にそれを誰かが聞いていたと後から聞かされては恥ずかしくもなる。

 

「でも、聞かせたって言っても……リューズさん、どこで聞いてたの?」

 

「うむ、それがじゃな……儂はこう見えて、ものすごい地獄耳でな。この『聖域』の中でなら、ほとんど隠し事なぞできんぐらいのもんじゃ」

 

「そうなんだ。……すごい」

 

リューズの盗み聞き宣言については、怒るより先に感心してしまうエミリア。

見た目幼女の老婆が舌を出すのに気付かず、エミリアはこの場に大勢が集まっている理由を確かめるように頷く。

と、そんなエミリアに、

 

「え、エミリア様」

 

「は、はい」

 

「お見合いみたいな入り方じゃな」

 

集落の住民の一人――『聖域』に住む以上、その人物も亜人とのハーフだろう。

わずかに長い犬歯と、瞳孔の細い瞳を持つ男性だ。ロズワールと同年代かやや年上ぐらいの男性は、どこか緊張した様子でエミリアの前に進み出た。

 

「俺……いや、私たちはその……まだ、正直なところ、心を決めかねています」

 

「――――」

 

「あなたを信用していいものか、『聖域』の外側を知るのはどういうことなのか。はっきり言って、外のことはわからないことだらけで恐い。私たちはみんな、この中で生まれて生きてきたのです。外のことは、何も知らない」

 

それはガーフィールも主張していた、『聖域』という場所の在り方だ。

四百年前から続く結界の頸木は、中で暮らす人々に世代を超えた土着を強制する。外に出る手段などなければ、それを意識する必要などなかったかもしれない。

 

だが、外に出る手段は誰もが知る形で目の前にあり、そして彼らにとっては縁もゆかりもないエミリアの手で、解かれようとしている。

 

そのことに不安や反感を覚えないものがいないはずがない。ましてや、外の世界へ大手を振るって飛び出せるようなものは稀だろう。

 

エミリアは内心、ガーフィールの懸念は『聖域』の総意ではないかと怯えていた。

そしてそれは事実、目の前の男性の言葉で証明されようとしている。

 

「外でロズワール様のお世話になれるとしても、それならここと何が違うのか……はっきり言って、期待より不安が大きい。変化は、恐いです」

 

「……うん」

 

「ですが」

 

顎を引き、彼の主張に目を伏せそうになるエミリア。その動きを男性の継いだ言葉が引き止めた。

男性は直立して体を伸ばし、緊張した顔で続ける。

 

「ガーフィールの……あの坊やの声を、みんな聞いていました」

 

「…………」

 

「あの頑張り屋が何を思っていたのか、どんな気持ちでいたのか……知りました。その頑張り屋に対する黒髪のお兄さんや、その後のロズワール様とエミリア様とのやり取りも」

 

男性は背を伸ばしたまま、顔をくしゃりと歪めた。

悔しそうで、泣き出しそうな彼の表情にエミリアは胸が詰まる。

 

「情けないと、正直、俺は思いました。十四の子どもにあんなに心配されて、二十歳前の子どもにあんな風に吠えられて……そして、ロズワール様にできないと言われても、曲がらなかったエミリア様の言葉も聞きました。だから、エミリア様」

 

「――はい」

 

「結果がどうあれ、そしてその後がどうなるであれ、あなたが『試練』へ挑む姿勢はすごいと思います。尊敬に値する。全員が全員、その気持ちを共有してるわけじゃありませんし、まだ俺もあなたを認めきれていない。ですから、見届けさせてください」

 

何を、と口にするまでもない。

強い意思の込められた視線を浴びて、エミリアは男性の背後――代表する彼の姿勢に頷く住民たちを見て、顎を引いた。

 

「わかりました。きっと無事に終わらせて……お話、聞いてもらうから」

 

「はい。お約束します。接することもなく、ただ風聞だけで誰かを評するなんて……他でもない、俺たちがしていいことじゃなかった。――わひゃ!」

 

肩を落とす男性。その彼の腰を、背後からリューズが突然に抓った。

飛び跳ねる男性が抗議するように振り返るが、リューズはそれを鼻で笑う。

 

「長いし、真面目じゃの、お前さんは。それに途中から『私』じゃなく『俺』に戻っておったぞ。慣れん真似するからじゃ」

 

「……す、すみません」

 

「ともあれ、儂らの意見は今の通りじゃ。お節介、悪かったの」

 

微笑ましい日常的なやり取りをして、リューズはかしこまる男性を下がらせる。

その様子にエミリアは深く息を吸い、酸素とそれ以外のものに胸を膨らませた。

 

リューズの計らいと、エミリアを見届けにきてくれた『聖域』の人たち。

それだけで、今はどれだけ心強いことか。

 

「ありがとう、リューズさん。私、これでまたすごーく頑張れそう」

 

「そうかえそうかえ。なら、よかった。……次が、最後の『試練』のはずじゃな」

 

「ええ、そう。――すぐに挑もうと思うの」

 

もらった力をそのままに、エミリアは墓所へ立ち向かうために振り返る。

が、途中で思い直したように足を止めて、リューズに首だけ向けて、

 

「あ、と……そういえばリューズさん、ラムを見てない?あの子にもちゃんと、二つ目の『試練』が終わったことは伝えたいんだけど」

 

「……ラムは、少しお役目があるそうでここには。ただ、エミリア様の健闘を祈っておるとだけ。『エミリア様はエミリア様の、ラムにはラムの。それを果たしましょう』と」

 

ラムらしい言い方に、伝言だとわかっていてもエミリアは苦笑しそうになる。

ラムの役割――それがどこで、誰と果たすものなのか。

胸にかすかなざわめきはあるが、エミリアはそれを意識して押さえ込む。

 

ラムは、エミリアを信じてくれた。だから、エミリアもラムを信じる。

スバルたちがそうして道を作ってくれたように、エミリアもまた、そうして彼らに続く道を作っていきたいのだ。

 

「いきます」

 

エミリアの言葉にリューズが頷き、住民たちのざわめきが背中を押してくれる。

一度目より、二度目より、さらに強い決意を抱いて、エミリアは墓所の中へと踏み込んだ。

 

そして――、

 

『いずれきたる災厄に向き合え』

 

最後の『試練』が、くる――。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

胸の奥で、かすかに心臓の鼓動が速くなるのをラムは感じていた。

 

自分がこれほどの敵意を、目の前の人から浴びせられたことは一度もない。

彼と触れ合うこと、彼と言葉を交わすこと、彼に何かを命じられること。

 

ラムにとってそれらはすべて至上の幸福であり、生きる意味だった。

故に、敵対する意識を向けられることにすら、乙女の高揚感を得ている自分がいることに歓喜すらしている。

 

「……よーぉくも、ここに顔を出せたものだよねーぇ」

 

正面、ラムを睨みつける長身の男性がそう呟く。

 

震えるような美声に、脳髄に甘い痺れが走る。

色違いの視線を浴びるだけで、腰から下が今にも砕けてしまいそうだ。

 

もっとも、もちろんそんなか弱い女のような場面など見せたりはしない。

そんな女、手足としてすら使えないと切り捨てられるだけだから。

 

「そーぉれで、何のつもりでやってきたのかなーぁ?」

 

「――簡単なことです」

 

問いかけに、いつものように無表情で静謐に応じる。

桃色の髪を揺らし、ラムは自らのスカートの裾の下から杖を抜き、目の前の美丈夫へ向けて――敬愛する主人へ向けて、先端を突き付け、

 

「魔女の妄執より、あなたを奪いにまいりました」

 

狂おしい愛に呑まれる想い人を、自らの愛で焼くための告白をした。