『ズィクル・オスマン』


 

――ヴォラキア帝国二将、ズィクル・オスマンは『女好き』で知られている。

 

色魔、好色、愛欲の徒と、その彼を称する言葉は様々にある。

実力を示し、将兵からの尊敬を勝ち取らなくてはならない帝国軍人にとって、これはなかなか不名誉な呼び名の羅列であろう。

しかし、ズィクル・オスマン本人はこの『女好き』の呼び名を気に入っていた。

――否、誇りに思っていたといっても過言ではない。

 

何故か。

それは『女好き』と呼ばれる以前、ズィクルを示す異名がたまらなく嫌だったからだ。

軍人として、そんな異名で呼ばれることは耐え難い屈辱だった。だから、将兵たちからその異名を忘れさせてくれた『女好き』の称号を、彼は誇らしく掲げている。

 

そもそも『女好き』といっても、ズィクルのそれはいわゆる女たらしであるとか、女性を下に見ているという類の男の悪習とは趣が異なるものだ。

 

オスマン家は代々帝国軍人を輩出してきた家系だが、ズィクルの代は血が偏り、何故か家族は女性ばかりの状態だった。姉が四人、妹が六人の環境で生まれ育ったズィクルは、男兄弟が一人もいない幼少期を過ごした。

上から下から女姉妹に囲まれて育ったズィクルは、大抵の人間がそうであるように、女性に対する様々な先入観を植え付けられることとなる。

ただ、多くの人間と彼が違ったのは、女家族の存在が原因で女性への幻想を失うものが大半の中、かえって彼は外の女性に理想と幻想を求めた。

 

そして、可愛い弟であり、優しい兄である彼を手放すことを悲しむ姉妹と離れ、若くして帝国軍人としての道を歩み始めた彼は、初めて外の女性と触れ合い、弾けた。

 

以来、ズィクル・オスマンにとって女性とは、理想と現実の狭間に存在する泡沫の夢のようなものであり、愛憎入り混じる禁断の果実となったのだ。

 

大勢の女家族に揉まれて育ったズィクルは女性に優しく、同時に女性に優しくされたいという欲求を強く持っていた。故に彼は女性に尽くし、女性に尽くされることを至上の喜びと考え、実践した。

その姿勢は帝国の多くの支配的な男たちと異なり、的確な用兵と無難な戦勝を重ねる彼への嫉妬や侮蔑と折り重なって、『女好き』の名へと繋がった。

 

だが、冒頭に語った通り、ズィクル・オスマンはその二つ名を気に入っていた。

『女好き』、大いに結構ではないか。そもそも、女性嫌いより、女性が好きな男の方が多いのだから、多くの将兵と語らう機会も持てようというもの。

そう割り切ったズィクルの姿勢は迷いがなく、そして、そんな上官の嗜好を知る部下たちも、自然と『女好き』と仰がれる彼のことを尊敬した。

 

――『女好き』、大いに結構ではないか。

 

そう呼ばれながらも、帝国二将まで位を上げた男こそがズィクル・オスマン。

皇帝が皇帝の座を追われ、その息の根を止めるべく、政敵が許される範囲の権限の中で選んだ最善手、それが他ならぬ彼であった。

 

それこそが、『女好き』などと呼ばれる脅威の凡将、ズィクル・オスマンだった。

 

△▼△▼△▼△

 

最初から、どこかキナ臭いものが漂う遠征であるとズィクルは予感していた。

 

帝国東部に存在するバドハイム密林、その周辺で帝国軍の演習が行われることは毎年のことだったが、今年はその開催時期が早まったことと、ズィクルを含めた一部の将校にだけ通達された遠征の目的――『シュドラクの民』との交渉だ。

 

「バドハイムに隠れ潜む『シュドラクの民』……」

 

バドハイム密林で暮らす先住民族であり、古い歴史があると知られる部族だ。

なかなか密林から出てこないことでも有名で、ズィクルも直接遭遇したことはない。ただ、女系部族であるとは聞いていて、一度お目にかかってみたかった。

密林の中で暮らし、外部の男を捕まえてきては子どもを作るための道具にする、という姿勢も興味深い。おそらく、強くたくましい女性ばかりなのだと思う。

 

女性はいい。強くても弱くても、優しくても厳しくても、味がある。

そもそも、ひとくくりにできるものではないのだ。姉にも妹にも、優しいときも厳しいときも、甘いときも辛いときもあった。

一人の女性がそれだけ変幻自在な素晴らしさを見せるなら、複数の女性をひとくくりに考えることなどどうしてできようか。

だから――、

 

「隷属を誓わせるか、滅ぼせなどと……帝都は何をお考えなのだ」

 

それが遠征へ出立する前、ズィクルに秘密裏に下された密命だ。

帝都ルプガナから、今回の遠征の本当の目的は『シュドラクの民』の懐柔か、あるいは撃滅にあるとそう断言された。何かの間違いではないかと確認を入れたが、帝都からの返答は変わらず、ズィクルも承服する他になかったが。

 

ただ、帝都の方でも何やら問題が起こっているという話は耳に入っており、それが此度の遠征の目的と関わっていることは想像がついた。

それは遠征の目的を隠し、将兵たちに伏せたまま遂行するよう命じられたことからも明らかだ。――皇帝閣下が何をお考えなのか、ズィクルにはわからない。

 

「もっとも、誰にもあの御方の腹の底を読むことなどできはしないだろうが」

 

――神聖ヴォラキア帝国第七十七代皇帝、ヴィンセント・ヴォラキア。

 

それがこの帝国を統べる頂点の名前であり、決して余人に己の深淵な思考を読ませない現代最高峰の賢人その人だ。

帝都ルプガナの水晶宮で、この広い帝国全土を見透かしているとされる皇帝閣下、二将という立場にあれど、帝都から離れた任地を預けられるズィクルにはその尊顔を拝する機会も少ない。だが、その智謀と名声は距離を越えてズィクルの耳に届いた。

 

強者が弱者を喰らい、貪欲に上昇するのを必定と捉える帝国主義。

各所で様々な部族が蜂起し、内乱の火種が燃え上がるのが日常の世界において、ヴィンセントはあらゆる問題が大火となる前に叩き潰してきた。

彼の治世が始まってからの八年、ヴォラキア帝国は驚くべき安寧の中にある。

 

血も流れ、火の手も上がり、命は失われる。

それでも、今の世はヴォラキア帝国始まって以来の平穏な時代だった。

 

だからこそ、『シュドラクの民』への徹底的な姿勢はズィクルの眉間に皺を刻んだ。

戦いの申し子でありながら、どこか戦いを忌避する皇帝閣下の差配。それは皇帝閣下が戦争を厭うているのではなく、戦争をくだらないものと、そうみなしているが故の判断なのではないか、ズィクルは勝手にそんな想像を抱いていた。

それを裏切られた気になるから、こんな気持ちになるのだろうか。

 

「いや、そんなことありませんて、ズィクル二将。閣下のお考えはよくわかります。自分も一兵卒の立場ながら、色々と思うことはありますから」

 

と、そう人好きする笑みで話を聞いてくれたのは、一般兵の一人だった。

今回の遠征の拠点として駐留する城郭都市グァラル、その酒場でのひと時。ズィクルは女性と共に過ごさない夜は、こうして部下と酒を飲むのを好んだ。それも、供回りの上級兵や三将より、もっと下級の一般兵と飲むことをだ。

 

もちろん、兵の多くはわざわざ上官と酒など飲みたくないだろう。

それでも、同行する部下の考えや嗜好を把握しておきたくて、ズィクルは遠征のたびにこうした儀式を好んだ。――ただ、この夜は少し話しすぎたかもしれない。

 

この日、一緒に酒を飲んだ一般兵はやけに口が回り、話の弾む人物だった。

酒を飲みながら、常に好奇心旺盛にあたりを見回しており、何を考えているのかと聞けば、とっさの酒場が戦場になった場合の想定をしているなどと冗談を言う。

常在戦場の心構えと、上官相手に物怖じしない態度。そうした帝国主義と個人的な人間性への好意が重なり、話すべきではない点まで話してしまった。

 

『シュドラクの民』への密命のことも、明言こそしていないが、そうとわかる形で聞き出されてしまったような感触があった。

もしもこれが他国の回し者であったなら、ズィクルは極刑ものの失態だったが。

 

「心配なさらずとも、自分は明日にでも閣下のご命令で最前線……そりゃ、上の方々には色々と思惑がおありなんでしょうが、自分には関係のないことです」

 

酔いが薄れ、我に返るズィクルを安堵させるように一般兵は言った。

そしてその言葉通り、遠征における最前線となる陣地、バドハイム密林と隣接した野営地へと出立していったのだ。

 

そのことを確かめ、都市に残りながらズィクルは改めて胸のしこりと向き合った。

『シュドラクの民』への徹底的な姿勢、隷属か死かを迫る帝都の命令だが、可能な限り、ズィクルは説得の姿勢を貫こうと、そう考える。

それがズィクルの信じた、皇帝閣下の信念に近いのだと考えて。

だが――、

 

「――シュドラクの襲撃を受けて、陣が焼き払われただと?」

 

思いがけぬ報告を受け、ズィクルは接収した都市庁舎で愕然となった。

昨夜まで、『シュドラクの民』に対して可能な限りの便宜を図り、戦いではない形で彼女たちの部族を取り込もうと、そう考えていた矢先のことだ。

 

バドハイム密林の西側を囲うように展開した陣地、複数のそれが『シュドラクの民』からの襲撃を受け、帝国兵たちは反撃もままならずに壊走。

逃げる背を撃たれ、さらに被害は拡大し、百以上の犠牲者を出したのだと。

 

「馬鹿な……」

 

それが、自分の判断と『シュドラクの民』の行動、そして現実と、どれに対する呟きであったのか、ズィクル自身にもわからない。

ただ、頭の中で組み立てていた穏便な計画は崩壊し、『シュドラクの民』が自分たち帝国兵の――否、皇帝閣下の敵となったことだけは確実だった。

 

「情けない話だが、帝都からの増援を待ち、バドハイム密林の逆賊を討つ」

 

『シュドラクの民』の襲撃から辛くも逃げ延びた兵たちを都市へ受け入れ、遠征軍の体裁を整えたところで、ズィクルはそう決断した。

現状の戦力で森へ攻め入り、『シュドラクの民』と戦う選択肢もあった。しかし、密林は彼女たちの領域であり、生半可な数の有利は消されかねない。

確実な勝利を得るためなら、生半可な有利ではなく、圧倒的な有利が必要だ。

 

それも、交渉を求めるような生温い姿勢を捨てた、撃滅のための精兵たちが。

 

「愚かにも、和平のための手を彼女らの方から振り払ったのだ。ならば、我々は皇帝閣下への忠誠に従い、逆賊に誅罰を下す以外にない」

 

そうして己を戒めれば、『女好き』のズィクル・オスマンからも温情は消える。

たとえ相手が女系部族の『シュドラクの民』であろうと、その血族の一片に至るまでを討ち滅ぼし、後顧の憂いを断たなくてはならない。

そのために――、

 

「正門を閉ざす準備を怠るな。『シュドラクの民』は弓を得意とすると聞くが、この城郭都市の壁は越えられん。突破する余地を残すことを避けよ」

 

前線陣地が焼かれた経緯を戻った兵から聞き出し、少数精鋭による焼き討ちであったことを念頭に、完全な防衛策へと転向する。

『シュドラクの民』の知られた生活様式からして、それほど部族全体の数が多いとも考えにくく、子どもや年寄りも含めた全員が戦えるとも思えない。

せいぜい、戦力は百人前後と想定すれば、彼女らが帝国兵と渡り合うためには、夜闇に乗じた奇襲の類しかありえまい。

しかしそれも、攻撃がないと警戒が緩んだ相手にのみ通じる先制攻撃の手段だ。

 

「徹底して穴を塞げ!城郭都市の壁とて盤石ではない。長い歴史があれば、門を介さずに外と通じる術も十分考えられる。抜け穴の類も見逃すな!」

 

「その点、閣下にご報告が。焼かれた陣地より戻った兵の一部が、外からの襲撃に備えてすでに抜け穴を潰して回っていると」

 

「なるほど?『将』以外の兵にも先が見通せるものがいるのは心強い。この一件が片付き次第、改めて取り立てることとしよう。だが今は……」

 

「――は。増援の到着まで、徹底した防御の構えですね」

 

ズィクルの指示を聞いて、部下の三将が深々と腰を折る。

これが並大抵の『将』の言い分なら、消極的な姿勢を笑われることもある。実際、かつてのズィクルはその手の嘲笑に晒されてきた。

だが、すでにズィクルは『シュドラクの民』相手に手痛い一撃を被っており、帝都へ戻れば何らかの処分を免れない立場だ。

もはや背水、その状況で最善手を打たない道理はない。

部下も、それをわかっているからズィクルの姿勢を嘲笑うことをしなかった。

そして――、

 

△▼△▼△▼△

 

「……なんだと?」

 

城郭都市グァラルでの籠城、それを続けるズィクルは部下の報告に眉を上げた。

帝都からの増援の到着を待ちながら、じりじりと高まり続ける緊張感を維持する日々の中、その報告はひどく場違いな感慨をズィクルへもたらした。

何故ならそれは――、

 

「はい。どうやらこの数日、都市では旅芸人の一座が話題になっているらしく」

 

「旅芸人……」

 

部下から上がった報告、それは何とも緊張感のない牧歌的なものだった。

緊迫した戦時下にそぐわぬ報告、しかし、それを上げた部下を叱責する理由はない。

そもそも、殊更に戦時下であることを意識した生活を民に強いるのを嫌ったのは、他ならぬズィクル自身であるのだ。

ただでさえ、軍が駐留する都市では不満が溜まりやすい。場合によっては、住民の感情を制御できなかったことが崩壊へ繋がることもあるほどだ。

 

そうした考えの下、ズィクルはあえて住民感情の強い締め付けを行わなかった。

都市の外への警戒は欠かさず行い、兵たちにも『シュドラクの民』の侵入が行われないよう捜索を徹底しつつ、住民には変わらぬ生活を送らせる。

矛盾は承知の上だが、それがズィクルの良識と軍人意識の妥協点だった。

 

ともあれ、そうしたやり方を敷いているため、日中の都市への出入り――正門に置いた検問と、行商などの扱いは変えない方針だ。

そのため、都市に旅芸人の一座とやらが入り込む余地もあるのだろうが――、

 

「……それを報告してどうするつもりだ?取り締まれというなら、あまりそうしたくはないぞ。この状況だ。市民が一座を歓迎する気持ちもわかる」

 

少なくない軍人が、衛兵と一緒になって都市の見回りを続ける状況だ。

襲撃から逃げ延び、都市へ入った兵たちの多くは『シュドラクの民』への敵愾心と警戒心を強めており、気を付けるよう指示しても市民との諍いも絶えない。

そんな中、都市へ現れた旅芸人の一座となれば、市民たちにとってのささやかな心の安堵に繋がることは想像に難くない。まして、それを取り上げれば――、

 

「市民の反感は爆発する。わからないではないだろう」

 

「もちろん、閣下の仰る通りです。ですから、取り締まれなんて言いません。ただ……」

 

「ただ、なんだ?ずいぶんともったいぶるではないか」

 

口ごもる部下の態度に、ズィクルは片眉を上げながら続きを促す。

すると、部下はしばらくの沈黙のあと、観念したように頭を下げる。掌に拳を当て、上官への敬意と、敵意がないことを示す姿勢のまま、部下は「は」と息を継ぎ、

 

「実はその一座……踊り子が見事なものなのですが、いかがでしょう。一度、閣下もお目にかかってみてはどうかと」

 

「私が?踊り子、というのはそそられないでもないが……」

 

思いがけない部下の提言を聞いて、ズィクルは驚きに目を丸くした。

付き合いが長く、相応の戦場を一緒に踏んできた部下だ。何の考えもなく、こうした提案を持ちかけてくるとは考えにくい。

しかし、ズィクルに踊り子を見せたがる真意は測りかねた。

 

「閣下、あまり大きな声では言えませんが、兵の中でも不満が高まっています」

 

「む……」

 

そう疑問するズィクルへと、居住まいを正した部下がそう打ち明けた。

その穏やかならぬ切り口に、ズィクルの視線も自然と鋭くなる。無言で先を促せば、部下はわずかに声を潜めながら、

 

「増援を出し渋る帝都の対応もですが、兵たちは都市にこもり、防戦の構えを敷く閣下に対しても思うところがある様子。先の、陣が焼かれた一件もあります」

 

「――。そうか。いや、それはあって当然だろう」

 

忌憚ない部下の指摘を受け、ズィクルは胸の奥に重たいものを抱える。

兵たちの不満、ズィクルへの不信が積み重なるのは仕方ない状況だ。『シュドラクの民』の先制攻撃を許し、多くの兵を死なせたのはズィクルの落ち度。

その後、合流した兵たちにも挽回の機会が与えられないままなのだから、彼らがその不満の矛先をズィクルへ向けても不思議はなかった。

 

「口さがないものの中では、閣下のことを――」

 

「――言うな」

 

「――っ、失礼いたしました」

 

部下の続けかけた言葉を遮り、ズィクルは自分の額に手をやった。

消極的な状況で、部下が不満を溜めた上官相手にどんな悪罵を吐くかは想像がつく。それでも、耐え難く思えるのがわかりやすい侮辱の言葉だ。

二将なんて地位を得ても、その罵りだけはどうしても受け止められない。

と、そこまで考えたところで、ズィクルも部下の提言の意図を察する。

 

「なるほどな。つまり、兵たちの不満を解消する場を設けろということか」

 

「はい。そのために踊り子たちが利用できるのではないかと。あの、見事な歌と踊りを見れば、多くの将兵は……」

 

「ほほう、なるほど?まるで見てきたような表現だな?」

 

目を細めたズィクルの追及に、部下は咳払いをして明言を避けた。だが、その態度が疑惑が真実であることの何よりの証だ。

ともあれ、『将』と『兵』の板挟みというのが彼の苦しい立場だ。

それを癒す術を求めたとて、責め立てるのはいかにも狭量というものだろう。

加えて、実際に踊り子とやらを目にした部下がこうまで提言するのだ。

 

「その踊り子とやらは大層美しいのだと見える」

 

「それはもう!あ、いえ、きっと閣下のお目にも適うかと存じます。それに舞も、楽士の歌と演奏も見事なもので……」

 

「ふんふん、それはなかなか期待が高まるな」

 

そう応じながらも、いささか大げさな表現だとズィクルは思っていた。

とはいえ、部下が自分の立場や今後のことを気遣い、そうした提案をしてくれたこと自体は喜ばしく、頑なに拒む理由もない。

ズィクル自身、このところは忙しさと心労もあり、寝所に女性を侍らせることもしていなかった。

兵たちにも、そうした不自由をかけるわけにはいかない。

 

「よし、わかった。この場はお前の口車に乗せられてやるとしよう。その旅芸人の一座とやらを招き、将兵たちをねぎらう場を設けるといい」

 

ただし――、

 

「――そのものたちが武器を持ち込まないよう、調べるのを忘れるな」

 

△▼△▼△▼△

 

ズィクルの許しを受けると、その先の部下たちの動きは早かった。

いったいどれほど渇きと飢えに苦しんでいたのか、彼らはすぐに都市庁舎の一階に宴席の場を設け、酒と食事を用意し、給仕する女を集めた。

そして、件の旅芸人の一座に声をかけ、都市庁舎の最上階へ招き入れる。

 

「――これよりお目にかけますは、大瀑布の彼方より参りました麗しの舞姫。日の光を呑み込む艶めく黒髪に、精霊の祝福を受けた美しき白い肌、天上人もかくやと言わんばかりの至高の美貌、今宵、盛大に舞わせていただきます」

 

楽士の大仰な前口上があり、ゆっくりもったいぶりながらベールが外される。

女性だけの旅芸人の一座、楽師たちが広げたベールで覆い隠していたのは、街で評判となっていた踊り子――その姿が露わになり、ズィクルは目を見開いた。

 

「――――」

 

白い肌を晒し、長い黒髪をゆったりと背に流した美貌、それは先の楽士の前口上を裏切った姿――そう、あの表現ではこの美を表現するのに不足が過ぎる。

美しき黒髪も、薄手の衣装に包まれた白い肌も、確かに見るものの多くを魅了する魔性の力を備えていた。だが、それらの要因も美貌の正体の一端に過ぎない。

踊り子や楽士に留まらず、多くの人間を魅了するカリスマを才能と例えるなら、その踊り子が有している雰囲気と佇まいには、恐ろしいほどのそれがあった。

 

最も、ズィクルにそれを強く感じさせたのは、他ならぬ踊り子の目だ。

 

切れ長で睫毛の長いそれは、整った顔貌の中心にあるというだけではなく、あらゆる黄金比の最も優れたるところにあるといっても過言と思えなかった。

思わず喉の渇きを覚えたのは、ズィクルの本能が渇望したからだ。

 

それが踊り子自身なのか、彼女の纏うカリスマに引き寄せられてのことなのか、ズィクルにも全くわかりかねる現象だった。

ただ、舞わずともこれほどの感動をもたらした踊り子が、実際に歌と音楽の中で踊り始めたとき、どれほどの衝撃が伴うのか想像もつかない。

そして、想像のつかない衝撃に打ちのめされたいと、ズィクルは渇望した。

 

「――どうか、我らが舞姫の舞を披露する機会をいただけますれば」

 

無言の踊り子――否、舞姫に代わり、同じく長い黒髪の楽士が頭を垂れる。

二人の楽士、黒髪と金髪の彼女たちも美しかったが、舞姫の姿に見惚れるズィクルには添え物としか捉えられなかった。普段なら女性を軽視する考えを自省するところが、そんなことすら浮かばないほど熱に浮かされる。

 

『女好き』の異名を、ここまで強く意識したことは今までになかった。

事実、ズィクルは『女好き』だったのだろう。――これほどの美を前に、平常心でいることなど到底不可能なのだから。

 

そうして熱に浮かされたような心地のまま、宴席が開かれる。

当然、指揮官であるズィクルの席は宴席の一番奥にあり、集められた『将』――一般兵を除いた階級のものたちが集い、酒と食事を楽しみ始める。

しかし、一番の見物はやはり、旅芸人の一座の見世物だった。

 

元々、将兵たちをねぎらい、不満を吐き出させるのが目的だったはずが、ズィクルは当初の狙いを忘れ、舞姫の出番に息を呑む。

渇きを癒すために酒を口に運び、舌と唇と喉を湿らせ、呼吸を取り戻した。

そのぐらい、ズィクルの心は奪われていた。

 

「――今宵、お目にかけますは我らが舞姫の故郷、大瀑布の果ての舞。果ての果てより参った舞を、どうぞ心行くまでご堪能あれ」

 

歌い始める楽士の声があり、絃の弾かれる音が緩やかな音楽へと結び付く。

聞き慣れない曲が流れ始めると、それまでうるさく会話していた『将』たちも、これから始まる舞から目を離すまいと赤ら顔で息を詰めた。

そして――、

 

「――――」

 

そして、ゆっくりと現れたる舞姫の、美しき『舞』が始まった。

 

「――――」

 

長い手足を駆使し、黒髪を揺らしながら舞う姿に誰もが言葉を失った。

呼吸を忘れ、見入る。――否、魅入るとはこのことだ。これほどの舞を目にして、心を保ったままでいられるものはどうかしている。

 

それは舞の価値がわからぬ獣の感性でしかない。

帝国兵は狼の群れだが、知性も言葉も持たない獣ではない。

故に、『将』たちも息を呑み、呼吸を忘れ、その美しき舞姫の舞に魅入られる。

 

誰もが声を失い、舞姫の舞に見惚れている。

ぬばたまの黒髪に、染み一つない白く滑らかな肌に、あるいは芸術家たちが利き腕を切り落としたくなるだろう美しき造詣の魔貌に、魅せられる。

しかし、ズィクルの視線を、意識を、心を惹きつけてやまないのは、そのいずれの要因でもなかった。

 

――目だ。

 

やはり、踊り子の目から、目を離すことができない。

切れ長の瞳が舞い踊る舞台を睥睨し、広間の最奥にいるズィクルを見つめている。

そのひと時も外れない目こそが、ズィクルの脳髄を直接掴んで離さなかった。

 

やがて、舞姫はゆっくりと広間を縦断し、ズィクルの前へと進み出る。

そしてその場にそっと跪くと、その両手を差し出し、ズィクルの剣を求めた。

 

自然、それが剣を求める仕草であるとズィクルは理解した。

舞姫の舞は熱を増し、色を濃くし、世界を掌握しながら次の段階へ。剣を用いた剣舞へと移行する上で、舞姫が剣を欲している。

 

渡さない、という選択肢がズィクルにはなかった。

誰も、それを止められない。部下も『将』も、誰もその行為を邪魔立てできなかった。

そのぐらい、これは定められたことなのだとばかりに自然なことで。

 

だから――、

 

「――貴様の負けだ、ズィクル・オスマン」

 

引き抜かれた剣を喉元に突き付けられ、そう冷酷に宣言されるのを聞いてなお、ズィクル・オスマンは自らが『女好き』故に敗れたことを理解できなかった。

 

「――――」

 

そう告げる舞姫の目から、その瞬間に至っても目を離せない。

その冷たい、多くを惹きつけるカリスマ――それをどこかで見たような、そんな既視感が敗将であるズィクルの脳を、延々と焼き続けていた。