『そして誰も――』
――目覚めをもたらしたのは、顔に落ちる水滴の感触だった。
一定のリズムで頬を打つ水の冷たさに意識が引き上げられる。意識の覚醒に従って、スバルの体にゆっくりと沁み渡ってくる生の実感。
もっともわかりやすいそれは、言葉にする必要のない原始的で強烈な刺激――痛みだ。
「……づぁ」
スバルの目覚めを歓迎するように、両手をこまねいていた痛苦が抱擁を交わしにくる。最初の刺激を受ければ、続けざまに襲ってくるそれらを避ける術はない。
裂けた額が、へし折れた右腕が、激しい衝撃に軋んだ背骨が絶叫を上げている。だが、それらを上回って悲鳴を上げるのは、
「さぃ、悪だ……っ」
鋭すぎる痛みの原因に目を向ければ、右の鎖骨のあたりを指二本ほどの太さの木の枝が貫通していた。ぬらぬらと先端を血で赤く染めるそれは、激痛覚悟で引き抜こうとしても、肉が締まってしまっていてびくともしない。
途中で折れているのが幸いして、ビジュアルと痛覚さえ無視すれば行動に支障をきたす類のものではないが。
「奇抜、すぎるだろ……このファッション」
どうにかこうにか、言うことを聞かない体を動かして上体を起こし、スバルはすぐ傍の岩壁に背を預けると一息つく。周りを見渡せば、どうやらスバルがいるのは小さな洞穴かなにかの入り口付近。その入り口の上部から、朝露かなにかが滴ってきたのが頬を打っていたようだった。――朝露、とそれを意識して。
「朝……!?」
無情な時間経過を脳が理解して、身じろぎした体を激痛が駆け抜ける。目の奥が真っ赤に染まる感覚と、全身にくまなく針を突き立てられたような刺激。隻眼に涙を浮かべながら、ゆっくりとスバルの思考が理解に行き届いていく。
意識が落ちる前に、自分の身になにが起こったのか。それを思い出し、
「――ぁ」
スバルは己の存在が、どれほど無意味な惨劇を生んだのかを思い出した。
おずおずと頭上に視線を向ければ、木々の隙間から朝焼けが森に差し込んでいる。そうして光を受ける、スバルが転がり落ちてきた傾斜の向こう側――そこに、いったいどんな光景が待ち受けているものか。
「――――ん」
息を呑み、今すぐにでも死んでしまいたい悔悟に苛まれながら、スバルは芋虫のような速度で這いつくばりながら向こう側を目指す。
突き刺さった枝に動きを制限されながら、のろのろと、しかし確実の時は迫る。
前までのスバルであれば、そこに待つ光景を想像しただけで怖気づき、見ることを拒否して逃げ出していただろう。だが、今のスバルにはそれは許されない。
見届けて、飲み下して、糧にしなくてはならない。
それが死ぬべきときに死に損なった、ナツキ・スバルの義務なのだから。
「はぁ……はぁ……」
傾斜を一歩、また一歩と左半身だけで這い上がる。息が上がり、乾いた額の傷が汗で滲んで血がしみ出す。それを乱暴に袖で拭って、顔を血と泥で汚しながら這う。
破損した竜車の一部の横を抜け、薙ぎ倒された大木を迂回して、スバルの指先がついに目的の高さへ――パトラッシュの献身で投げ出された、その地へ舞い戻る。
「――――」
一瞬だけ、躊躇があった。
顔を上げ、首を伸ばして向こう側を覗き込めば、スバルは逃れることのできない現実と対面することになる。想像の内側に逃げ込んで、スバルが追い出されたあとの現場で奇跡的ななにかが起きて避難者の多数が逃げ延びたと、夢想に浸ることさえ許されなくなる。
「バカか、俺は。……いや、バカだ、俺は」
この片方だけの視界で確かに、スバルはパトラッシュが食い千切られる瞬間を目にしたのだ。スバルのために全てをなげうってくれる、あの忠竜が失われる瞬間は今も瞼の裏に焼きついている。それを夢などと、都合のいい幻に逃げ込むことなど、自らの命の残り火をスバルのために燃やし尽くした彼女への侮辱だ。
心に執念の火を灯し、スバルはなけなしの気力を振り絞って目を開けた。土にかじりつくような姿勢で上体を引き上げ、視界を遮るうねる太い枝を乗り越えて、開けた森の向こうに惨劇の情景を――、
「――――え?」
なにもない。
なにもなかった。
「そん……あ、え?」
広がる惨状を想像して顔を歪めていたスバルは、その眼前に現れた光景を受け入れられずに目を白黒させる。
散らばる竜車の残骸に、根こそぎひっくり返された大木がいくつも。地面には深々と抉られた爪痕が残り、あたり一面に破壊と争乱の痕跡が入り乱れている。
なのに、スバルの心をもっともへし折るだろう、結果がない。
惨状の結果。スバルを逃がそうと、それこそ本当の意味で命を張った村人たちの残骸が。忠を尽くした結果、二つに引き裂かれた地竜の亡骸が。
どこにも、見当たらないのだ。
「――――」
猛獣とのぶつかり合いが夢でも幻でもなかったことは、この場に散乱する竜車の残骸などが証明している。ただ、そこからは惨劇の結果だけが失われているのだ。
よたよたと、手近な木に寄りかかって体を持ち上げる。幸い、最初の衝撃をやり過ごせば足腰への負傷は打ち身と擦り傷の他に目立ったものはない。立ち上がり、揺れるたびに痛む右腕を左手で固定しながらあたりを見回す。
「なん、で?パトラッシュは……みん……オットーは?」
死体が見たかったわけではもちろんない。
本心を言えば、全員が生き延びてくれているのがなにより喜ばしい。だが、そんな夢物語が叶うような状況でなかったことはスバルの体が一番よく知っている。
なにより、スバルは意識を失う前に、すでにあの猛獣の手にかかって失われた命がいくつもあったのを目にしていた。
痩せ型の青年が死力を尽くし、それでも掠り傷一つ負わせられずに叩き潰されるのを。竜車ごと吹き飛ばされ、投げ出されて命を落とした女性を。腕の一振りに枯れ木のようにへし折られて、見るも無残な屍をさらした老人を。
その死に様を思い出すたびにスバルの心を痛みと悔恨が削り取っていく。それなのに、その目にしたはずの彼らの死すらもこの場からは奪われていた。
「パトラッシュ……パトラッシュ……?」
失われた命を思いながら、スバルはか細い声で必死に相棒の名前を呼ぶ。
彼女のその体躯が二つに裂かれる瞬間を、高く悲痛な断末魔が上がるのをスバルは確かに見た、聞いた。故に、彼女の命が残っていることに儚い希望を抱きはしない。
しかしそれでも、すでに魂がいなくなってしまった彼女の亡骸を見つけ、謝罪の言葉を伝えて、弔ってやるのはスバルにしかできないことだった。
歩みの速度が遅く、体力もほとんど尽きた状態だ。捜索の手は遅く、弱く、あたり一帯を見回るだけで二時間以上も時間を費やした。
だというのに、それだけの時間をかけてスバルがこの周囲から発見できたのは、
「残骸に紛れてた荷物と、服の切れ端と、あとは……」
おびただしい血痕。
スバルの確信に近い想像を裏付けるように、猛獣の爪痕の刻まれる現場にはあちこちに大量の血の跡がある。おそらくはむせ返るような血臭が周囲に漂っていることと思うが、大量の血がこびり付いて固まったスバルの嗅覚は機能しておらず、それらを嗅ぎ取ることはできない。
もはや否定のしようがない状況証拠が揃ってしまっている。見つからないのは決定的な証拠だけであり、それが失われた過程にも謎が多い。
なにより、こうして周囲を探し回っている間に、あまりにも遅すぎる疑問がスバルの脳裏を焼いていた。それは即ち――、
「どうして俺は、殺されてないんだ……?」
スバルを仕留め損なったこと――あれだけ深手を負ったスバルがこうして長らえることなどなかなか信用できないだろうが、それでも死体一つ検めずに戻るなど肝心な部分で詰めが甘すぎる。そもそも、ガーフィールの狙いはスバルだったはずだ。
その爪が避難者たちにまで向いた理由は今もって不明だが、あるいはスバルに対する見せしめのつもりであったのかもしれない。
そうだと仮定すればなおのこと、死体消失の理由がわからない。
「仮に、運び出したとしても……」
避難者は総勢で四十二名。仮に全員が死体になっていたとしても、それを全て運び出すというのは現実的ではない。パトラッシュを含めた地竜も、そこに加わるのだ。
「かといって……」
想像したくはないが、あの猛獣が腹に収めた――というのも、同じように数の問題で現実的ではない想像だ。まだ、運び出す方向の方が理解できるが、それだけの労力をかけてスバルの前から死体を隠蔽する理由が思い浮かばない。
そもそもそんな回りくどいことをあの猛虎がやったと疑う以前に、奴がどうして傷だらけのスバルにトドメを刺さずにいなくなったのかの方が問題だ。
「――――」
ふと、スバルはこれが『聖域』無人化の状況にかなり近い状況だと気付く。
前提条件こそ以前と違っているが、その結果には似通った部分が多い。周囲の破壊の痕跡は大虎が暴れた痕跡であり、避難者や大虎の消失とは無関係な部分だ。それら目につく部分を度外視すれば、誰の姿も見えないこれはあの状況に酷似していた。
つまりそれは、
「せ、『聖域』も、前と同じ状態になってる……のか?」
荒い息でその結論を得て、スバルは再び渾身の力を使って立ち上がる。それから自分の位置と、道の流れを見て『聖域』の方角に当たりをつけた。
――今は、六日目の朝だ。
屋敷ではおそらく、昨晩がデッドライン。確実なことはいえないが、エルザの襲撃があったとすれば手遅れの惨劇が起きている。
そして『聖域』の方にも、猛虎と化したガーフィールがスバルへのトドメを断念するようななにかが起きた。おそらくはそれが、この場から全ての存在を消失させた理由なのだ。それがスバルに作用していないことと、正体は一切が不明だが。
「――――」
どちらに歩みを進めるべきか、迷ったのは一瞬だった。
胸中に過ったのは温もりを理由とするかすかな疼き。それは襲われたであろう屋敷の中に残してきた顔ぶれと、眠る少女への断ち切れない未練と罪悪感。
歯の根を噛みしめ、スバルは感情を振り切って、『聖域』へ足を進める。
ゆっくり、遅すぎる歩みで確かめるように、スバルは『聖域』へと向かっていく。
その先になにが待ち受けているのか、失われた命に見合うだけの価値をその目に焼き付けるために、贖いのために費やすつもりである自分の命が、ほんのわずかばかりでも勝算を得られる切っ掛けを求めて。
※※※※※※※※※※※※※
――『聖域』へ向かう途中で、ラムとガーフィールが争ったと思しき場所を通った。
風の刃が吹き荒れた痕跡がそこら中の木の幹に刻み込まれており、見覚えのある爪痕がそれ以上の暴虐で地を、岩を、抉り抜いていった惨状。
少しだけあたりを見回ってみたが、やはりそこにもラムの姿は――おそらくは死体となってしまったであろう、彼女の姿は見つからない。
大虎がガーフィールであるという推測が正しければ、彼女はガーフィールにとっては長年の思い人だ。その情愛が深いものであれば、可能性はあると信じたが。
「殺し合いにまで発展して、それで好きだのどうだの……ラノベの読み過ぎだっつの」
互いに譲れないものがあって、それで殺し合いにまで発展した関係だ。
その間に存在していた愛だの恋心だの、それがどれほどの抑止力となる。本当にそれらで凶器を振るう腕が止まるのなら、そも始まる前に止まるべきだ。
それをなくして始まった時点で、それは終わりの理由にはなり得ない。
「……ごめん、な」
姿の見えない、それでもスバルのために力を尽くしてくれた相手に謝罪を告げる。
彼女の奮戦も空しく、スバルは思いを無碍にして『聖域』へ戻っていく。その先に、これから死ぬつもりのスバルに必要なものがあるのだ。
心残りを増やしながらも、スバルは懸命に歩き詰めて『聖域』を目指す。正午前には歩き出したはずの道のりは、パトラッシュにまたがっていたときにはほんの十数分で通り抜けたはずの距離だ。
それを負傷の身を押して、毛虫の速度で進み、スバルが『聖域』のすぐ近くまで辿り着いたのはもう夕刻になろうかという時間だった。
「半日かけて……よう、やく……」
ここまで、戻ってこれた。
安堵でその場に崩れ落ちそうになるが、達成感などは微塵もない。むしろ、スバルの内側にふつふつと燃え上がるのは無力感と自分への怒りが強い。そしてそれら自己嫌悪の感情を上回ってどす黒く輝くのは、
「戻ってやがるのか……なぁ、ガーフィール……っ」
考えないようにしよう、考えないようにしようと心に言い聞かせてきた、あの金髪のクソ外道に対する憎悪と憤怒の激情であった。
『聖域』に戻ってきた理由の大きな三つ。
一つは『聖域』に発生する謎の無人化現象の正体を突き止めたい。せめて、その原因の一端を掴みたいという未来に必要な要素。
二つ目は『聖域』に残してきたエミリアの身の安否の確認。無人化現象が発生した場合、彼女の安否も例外ではない。一つ目と関連して、こちらも確認したい。
そして三つ目――もはや前述の二つの理由を束ねても敵わないほどに、スバルの心の奥底を焼き焦がす激しい炎。
あの暴虐の大虎を、八つ裂きにしてやりたいという激発。
『聖域』の中に足を踏み入れる。苔の生えた二本の柱が入り口代わりだ。それをくぐって『聖域』に入り、スバルは低く静かに呼吸を繰り返しながらあたりを見回す。
静寂の落ちる『聖域』には、大方の想像通りに人の気配が感じられない。それ以前にスバルは、ここまで歩いてきた森の中で虫の声一つ聞いていなかった。
『聖域』の住民の消失はそれだけにとどまらず、ここいら一帯の生物全ての活動をまるで停止させたような静謐さを保ち続けている。
「――――」
己の息遣いさえも、この静寂の前ではうるさすぎるほどに感じられて、スバルは痛みにひきつりそうになる喉に限界までの隠密性を求める。短い呼吸をひっきりなしに繰り返しながら、足を引きずるスバルは『聖域』の奥――エミリアのいるはずの建物を目指した。
――夕方前のこの時間、エミリアは『試練』までの時間を膝を抱えて過ごしている。三日目を過ぎたあたりから顕著になる行動であり、特に今回はスバルのフォローが一切ない状態でのことだ。おそらくはこれまでのループ以上に、彼女の心は孤独と焦燥感に削り取られていったことだろう。
「いない、か……」
押し開いた扉から中を覗き込み、無人の屋内を見渡してスバルは呟く。
エミリアの姿はないが、利用者のいないベッドのシーツは乱れに乱れ、倒れた椅子がそのままに床に転がっている状態。これが無人化の原因に抗った結果なのか、あるいは追い詰められたエミリアの衝動によるものかはわからない。
ただ、ここまでの道のり、やはりスバルは誰にも遭遇していなかった。
「ロズワールのところに、顔を出してみるか……?」
エミリアがこの場にいないことを受け止めて、次なる行動を思考するスバルの胸中はひどく落ち着いている。
口にした方針は芽を潰す意味では必要な行いだが、内心では半ば、そちらへ向かっても無駄足になるだろうと諦念している部分があった。
懸念していた通りに無人化してしまった『聖域』。いたはずのエミリアの存在が失われた時点で、スバルの執着はこの場所にはもうない。
そして執着していたはずのエミリアの消失。そのことにすら、スバルは自分の心がほとんど揺れ動いていないことに気付いていた。
なににも揺らがず、強靭で、まばゆい鋼の心を会得したのだろうか。
違うだろうな、とスバルは即座に首を横に振った。
鋼の心、スバルが目指すそれと感情の置き所を失った今の心境はあまりに違う。怒りのあまりに、無理解の果てに、摩耗し切った挙句に、心がパンクしただけだ。
揺らがないのではない、抜け切ってしまっているだけだ。
――生きる気力に欠けている。
当たり前だった。
今のスバルは生きようとして生きているわけではない。死ぬべきタイミングで死に損ねて、生き長らえてしまった理由を埋めてからでないと死ねないだけだ。
むしろ、生きる気力ではなく、死ぬ気力の方にこそ意識が集中している。
こんな世界、どうして生き残っていける。
エミリアがいない。レムもいなくなった。パトラッシュも失われて、ラムやペトラも死んだだろう。オットーも生死など、考えるまでもない。
誰もいない。誰もいなくなった。スバルの頭が足りなくて、スバルの力が足りなくて、スバルの努力が足りなくて、スバルの願いが足りなかったから、誰も救えなかった。誰も救われなかった。スバルにしか、できないことだったのに。
「だから……俺には……」
全てを取り戻す。全てをやり通す。全てを正しい道に乗せる、その責任がある。
スバルにしかできないことだ。スバルがやらなければならないことだ。
そのために払われる犠牲は、スバルの中に残り続けなくてはならない。
そのために失われる全てを、スバルだけは思い続けなくてはならない。
そのために費やせる対価は、スバルのみが払い続けなくてはならない。
払おう、対価を。積もう、犠牲を。そして取り返そう、全てを。
「――――」
ふらりと、スバルは上体を揺らしながら建物を出た。
足の向かう先はロズワールの療養する民家ではなく、『聖域』の最奥――墓所の方角だ。前回、スバルが無人化した『聖域』で足を運ぼうとし、『なにか』の妨害を受けて殺害された場所。そこに今回も、のこのこと足を踏み入れる。
なんのために?もちろん、殺されてやるために。
前回と同じ状況を用意すれば、おそらくは同じ手段でスバルを殺しにかかるはずだ。
そしてくるのがわかっていれば、一撃で致命傷となる傷を避けるぐらいのことはできるはず、とスバルは判断している。
仮に二撃目で殺されたとしても、相手の正体を掴むことさえできれば構わない。
『死』への覚悟を決めて、スバルは一歩ずつ、着実に目的の場所へ近づいていく。
背後から腹部を貫通された場所――はっきりとした位置までは覚えていないが、墓所の入口に辿り着く寸前だったことは確かだ。
遠目に墓所の頭が見え始めて、途端に騒ぎ始める鼓動がスバルの全身に冷たく熱い血を流し込む。加熱しているのか冷却されているのか、それすらわからない。
体が熱く、手足が痺れる感覚。なのに指先は冷たい鉛を押し込んだように固く、頭も今の状況を客観視できるほどに冷え込んでいた。
死ぬのがわかっていて、死地に臨む愚かな存在。
命を賭して結果を得る、と己の心に固く誓ったはずなのに、その表情は決意の強さから程遠く、眉尻が下がり、唇を噛み、手足は堪え切れないほどに震えている。
土壇場でメッキが剥がれ落ちて、その下の弱さを露呈する己が憎く呪わしい。そんな感情を押しのけて、スバルはそれでも足の進みを緩めない。
たとえどれほどに弱く、脆く、愚かである自分がいることは変えられないとしても、そうある自分から前に進んでいく勇気を、常に求める自分でありたい。
弱さと弱さ、マイナスとマイナスを掛け合わせたような歪な前向きさで、スバルは墓所への道を、死出の道を確かめるように踏み続ける。
墓所が近づく。鼓動が高鳴り、頭蓋の中を血が流れる音が鮮明に聞こえる。空っぽの胃袋から逆流する胃液が喉を焼く感覚。揺れる膝が今にも落ちそうで、左だけの視界に汗がかかって鮮明さが損なわれる。
乱暴に左腕を掲げて目を拭って、改めて前へ。そして、気付いた。
「――ぁ?」
墓所へ進む足を上げたところで、スバルは眼前に変化が生じたのを見た。
虫の鳴き声さえ聞こえず、届くのは時折吹く風に揺れて奏で合う葉と葉の重なる音ばかり。そこにふいに割り込んだのは、小さく途切れがちな鳴き声だった。
最初、スバルはそれが風に乗って転がってきた、小さな白い毛玉だと思った。
しかし、毛玉はスバルの数歩、前の位置で止まると小刻みに震え出し、怪訝に眉を寄せるスバルの前で、長い二本の耳を立ててみせた。
「う、さぎ……?」
長い二本の耳に、白くふわふわな毛並みを持つ小動物。赤い二つの丸い眼が特徴的で、もそもそと口を動かしながらせわしない仕草であたりを見回し、スバルを見上げると小さい頭を傾けて、高い声で鳴いてみせた。
小さい、あまりに小さい兎だ。サイズはスバルの握り拳ほどの大きさで、一見したところではハムスターなどと大きさに大差がない。耳の大きさがそれ以外の部分に匹敵するほど大きいため、手乗りサイズというには語弊のある大きさに見えるが。
虫も人も地竜も、なにもかもの痕跡の消えた場所に突如として湧いた兎。
あるいは森の中に生息していた生き物かもしれないが、ここまでまったく他の生物に出くわさなかったスバルにとって、遭遇するには意外性が強すぎる存在だった。
「どうして、こんなとこに兎……兎で、いいんだよな?」
疑問の言葉は尽きず、スバルは戸惑いながらあたりを見回し、この眼前の兎以外の生き物が『聖域』に流れ込んできていないかを探し求める。そのままなんの気なしに兎の方へ手を向け、なにかわかればとその毛並みに触れようとして――。
「――――」
次の瞬間、スバルの左手の手首から上が根こそぎもぎ取られていた。
荒く雑な切り口から血が噴出し、青緑の血管が傷口から垂れ下がる。白く細いあれは肉の繊維か神経か、いずれにしても人間の肉体が破壊される光景というものはグロテスクなもので――そんな、現実逃避を始めて数秒。
別次元の激痛がスバルの脳を殴りつけて、痛みに悶えるスバルの体が地面に倒れる。鎖骨を貫通する枝がその衝撃に半ばで折れて鋭い痛み。痛み、痛み、痛み。
「が!?あ、うぉが!おお、おおおお、あがががあああ!!」
思考が白熱する。
痛い、という感情に全身が支配されて痛いもはやまともに現実痛いを認識する術が思い浮かばない痛いどうしてこんなに痛い苦しまなくてはならないのか痛いどこからやって痛いきたのかなにが起きたのか痛いここは痛いどこで痛いどうして痛い自分はなにが痛いいったいどうして痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――。
悶えに悶えて血のこぼれ出す左手首を地面に押しつけながら、スバルは無意識に地面の土にかじりつき、泥を咀嚼する意味不明の行動をしていた。土の苦みと息苦しさにかすかにだけ思考が舞い戻り、なにが起こったのかを求めて視界が回り、スバルは自分の足元に先ほどの白い毛玉を発見――その白い毛並みを赤い斑点で汚し、小さな口いっぱいになにかを頬張る小動物。その黒い鼻の下、もそもそと膨らむ頬。口からはみ出す、スバルの左手の小指が見えていた。
理解した。わかった。なにが起きたのか。喰われた。喰われた。喰われたのだ。
「ご、がふぅぅああ!!」
理解と痛みに発狂しそうな声を上げて、スバルは兎の方へ体を転がす。右腕はへし折れて動かず、左腕は手首から先が兎の腹の中。なにができるわけではないが、せめてその正体を確かめて――。
ふくらはぎに焼けつく感覚。鋭い鑢で容赦なく肉と骨を削られるような鋭すぎる刺激に冗談抜きに白目を剥き、泡が喉の奥から噴き出す。そのまま頭が落ちて失神できればいいものを、痛苦の激しさが意識を手放そうとしてくれない。
血泡を口の端から溢れさせ、陸に上がった魚のように痙攣する。そのスバルの耳がまだ機能していたのは奇跡であり、残酷すぎる神の悪戯だった。
ひたひたと、無数の足音がスバルの鼓膜を捉えた。
跳ねるような動き。小さな軽い体。連鎖する鳴き声の数は膨大で、仮に視界が維持されていたとしても数える気にもきっとならなかった。
そして、機能していたのが耳だけでこの瞬間は本当によかったのだ。
同時に全身に牙が食らいつく感触を味わい、スバルは今、自分を取り囲む脅威が百を下らないことを咀嚼される痛みで実感する。
絶叫。仰向けに寝転がされて、空を仰いで喉を震わせる。途端、毛むくじゃらの生き物が開いた口腔から内側に侵入。舌が食い千切られ、喉の奥を鋭い牙が一閃し、食道から胃にかけての道のりが内側から喰い荒される。
肛門から侵入した脅威が上から入ったそれと体の中で激突し、競い合うように右へ左へ臓器を食い散らかし、ナツキ・スバルをミンチにしていく。
生きながらに、生き物の体の中で肉の破片にさせられていく実感。
恐怖などすでにない。痛みなどもはや感じない。意識がどうしてあるのかわからない。
喰われている。喰われていく。左目が喰われた。耳ももうない。臓器など全て喰い尽されて、今顔の皮が引き剥がされる。頭蓋に穴が開き、こぼれそうになる脳髄をすするように牙が侵入し――。
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