『一人ぼっちの……』


 

その愛の告白を聞いた瞬間、スバルの全身を貫いた衝撃を何と呼べばいいのか。

 

頭のてっぺんから足の爪先まで、稲光が突き抜けたような錯覚がスバルを襲った。

全身の毛穴が開いたような肌の粟立つ感覚に、体中の血管の中の血が沸騰するように沸き立つ感覚。高い胸の鼓動に朱色が首から上を染めてゆき、荒い呼気を漏らしてスバルは後ずさる。

 

このまま、この場所に立っていることはできない。

ここに立っていては、息遣いが届いてしまう。指先が届いてしまう。

理性が本能を押し込める内に距離を開いてしまわなければ、歯止めが利かなくなる。

そうなってしまったら最後、スバルは『愛』に押し流される――。

 

「やめろ……」

 

「愛しています」

 

「やめてくれ……」

 

「あなたを、あなただけを、ずっとずっと、愛し続けています」

 

「やめろって言ってるだろうが――!」

 

頭を振り、腕を払って、スバルは絡みつくような熱い視線から意識をそらす。

依然、正面にいるサテラの表情はスバルには見えていない。故に、彼女の視線がどんな熱を持って、スバルを見つめているのかはスバルにはわからない。

そのはずなのに、スバルの胸を打つ熱い鼓動はいっこうに鳴り止む気配がなかった。

 

それらを意識的に抑え込み、必死に声を上げ、血を吐くように拒絶を突きつけることで、スバルは自分自身の心根を保ち続けていた。

文字通り、そうして意識を保とうと努力し続けない限り、自分という存在の根本が歪められる確信があるのだ。それはあまりにも、おぞましい想像だった。

 

これだけ拒絶を露わにして、こんなにも嫌悪しているのだと振舞って、その事実を叩きつけるスバルにサテラは立ち尽くしたまま向かい合っている。

見えない表情、闇のヴェールに包まれたその表情はわからない。わからないはずなのに、スバルにはサテラが今のスバルの言葉に傷付き、目を伏せる仕草をしただろうことがわかってしまう。そっと髪を撫で、痛ましい横顔に慰めの言葉をかけて、愛を囁いて微笑ませたいと心のどこかが思っている。

 

これほど否定しているのに、心はサテラを『愛そう』と訴えかけ続けていた。

 

「おま……お前は、なんなんだ!?俺の体に何を仕込んだ!?『死に戻り』の種と同じように、俺の心を操る何かを俺に仕込んでるのか!?」

 

自分の意思に従わない自分の心、その不信感をスバルはサテラへとぶつける。

ここへきて、唐突なまでに理解を越えた反応を見せ始めた自分の心。超常の力を持つ魔女が、自分の持つ強い感情にまで干渉しているのだとしたら、それはあまりにもおぞましい。

 

人の心を、意のままに歪めるなど――それは、人以下の最低の行いだ。

 

ナツキ・スバルにとって、この世界で最初に得た光明はエミリアへの『恋心』だ。

手探りで頼れるものもなかったスバルにとって、最初に窮地で手を差し伸べてくれたエミリアへの恩義と、そして擦り切れかけていた心までも救われた記憶は、今も色褪せずに彼女という存在を輝かせ続けている。

『死』を起点に繰り返し続けるループの日々の中に取り込まれ、孤軍奮闘しながら様々な困難を乗り越える内、守りたいものや大切な存在は増えてゆき、彼らや彼女らとの交流の中で言葉を、絆を、想いを積み重ねてスバルは抱えたものを増やしてきた。

今はもう、エミリアへの思いだけが原動力だなどとは嘘でも言えない。

けれど、それでもナツキ・スバルにとって、最初の光はエミリアだったのだ。そのエミリアへ抱くものと同等の『恋心』を、サテラはスバルに強要してくる。

 

交わした言葉も、触れ合った温もりも、共に過ごした時間も、積み重ねた絆も、互いの間には何もない間柄であるにも拘わらず、『愛情』だけを強奪しようとしている。

 

このことを、おぞましいと言わずしてなんというのだ。

 

「お前も、エキドナも……どうかしてる!ここは……ここは、理解できない奴らばっかりじゃねぇか!もううんざりだ!」

 

正面に立つ顔の見えない魔女に、背後に立つ白髪の魔女に、それぞれスバルは嫌悪感を隠さずに声を上げる。

中身の伴わない愛情を強要してくるサテラも、常人には決して共感できない好奇心で他者を絡め取ろうとするエキドナも、どちらもスバルの理解を越えた怪物だ。

 

「それと一緒にされるのは心外だよ。魔女という括りで扱うにしても、ボクからすればそれは魔女以下に低俗な存在だ。理解できない、という判断は間違っちゃいないけどね」

 

「うるせぇよ。親身になってる振りしてた、お前の悪辣さも忘れちゃいねぇぞ。……もういい。ここにいる意味がない。外に出してくれ。俺はもう、お前らと関わり合いになりたくねぇんだよ!」

 

エキドナの言葉に悪態をついて、頭を抱えながらスバルは夢の城からの解放を懇願する。

サテラとエキドナの前に、もう一秒だっていたくない。スバルにはやるべきことが数えきれないほどあり、今ここでその内容を増やしている場合ではないのだ。

賢く万能でない自分には、処理できる内容の限界がある。すでにその許容限界を越えた障害が立ち塞がっているのに、どうして次から次へと問題が追加されるのか。

 

「お前らの手は借りない。外の問題は、全部俺が自分で何とかする。――それでいいだろうが!最初から、俺はそうするべきで……」

 

「それで?また死に繰り返して、色んな人を泣かせながら『これは情報収集のために仕方なかったんだ』って言い訳するんだ。へー、すごいんだ」

 

決別の言葉を並べるスバルに、腕を組んだミネルヴァがそう言って鼻を鳴らす。スバルが視線だけで睨みつけると、ミネルヴァはその澄ました顔を赤くしながら、

 

「何よ。何か、言い返せるつもりなの?」

 

「お前に何の関係がある。『死に戻り』で痛いのも、苦しいのも、傷付くのも、すり減っていくのも、全部俺の問題だろうが。それを、お前にとやかく言われる筋合いはねぇ」

 

「痛いのも辛いのも苦しいのも覚悟してるって、言う側は気楽でいいわよね。血を吐いて肉が裂けて骨が砕けて、それを見てる側がどんな思いをしてたとしても、一番厳しいところは自分が受け持ってるって言い訳がずっと使えるもの」

 

「何だと……!?」

 

「自分が誰よりもわかりやすく、見え見えの派手な傷を負っちゃえば、あんたの行動の余波で小さな傷を受ける人たちには何も言わせないで済むもの。だって、あんたが一番苦しいんだから。あんたが一番痛いんだから。あんたが一番辛いんだから……周りの弱音を封じ込めて、当然なんだもんね」

 

口にする内に憤激が溜まっていくのか、語調が強くなるミネルヴァにスバルも牙を剥く。悪意に満ちた言われように、スバルとて反論せずにはおれない。

 

「俺が!俺がみんなの言葉を封じ込めるために、大げさに悲劇に酔ってるってそう言いたいのかよ!今の俺の袋小路が、そんな演出のためにやってることだとでも!?」

 

「別に、そんなじゃない。ただ、『自分が誰より傷付けばいい』なんて結論は卑怯だわ。あたしはエキドナの腹黒さはどうかと思うし、サテラの回りくどさも理解なんてできないけど……あたしは、あんたのその歪み方は魔女よりよっぽど気持ち悪い」

 

「――――」

 

「何より、傷付く全てを叩いて治すあたしの生き方からすれば、あんたのその生き方は対極というより天敵だもの。――この子が、それじゃあまりに報われない」

 

小さな拳をスバルに突きつけて、ミネルヴァは鼻息も荒く言い切る。それから言葉の最後に小さな呟きを付け足し、その碧眼は横に立つサテラへと向けられた。

立ち尽くしたままのサテラは、スバルの罵声を浴びせられてからはずっと沈黙を守っている。肯定も否定も、今のやり取りに対して意思表示をすることはない。そのことを寂しがるように、ミネルヴァが目をかすかに細めるのがわかった。

 

だが、今のスバルには彼女らの感情の揺らぎなどどうでもいい。

 

「気持ち悪い……報われない……?」

 

ミネルヴァの言葉尻を捉えて、下を向いたスバルの肩が小さく震える。震えはやがて大きくなり、そして顔を上げたとき、スバルは笑っていた。

あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、笑わずにはおれなくなったのだ。

 

「なんだそりゃ。気持ち悪いもなにも、俺がこういうやり方を選ぶようになったのはなんでだよ。俺がお前のいう歪んだ考え方をするようになったのはなんでだよ。やり方も考え方も、俺の持てるものからしたら当然の帰結だろうが――そうだろうが」

 

「――――」

 

「お前が!俺を!こんな風にしたんだろうが!」

 

叫び、沈黙を守ることで責任から逃れようとするサテラにスバルは怒りをぶつける。

『死に戻り』を受け入れて、その特性を利用して障害を乗り越えて、様々な苦難にぶつかりながらスバルはここまで駆け抜けてきた。

何度も味わった『死』という絶望を、魂に刻み込むたびに踏み出す力に変えて、スバルはここまで走り抜けてきたのだ。

 

――そのナツキ・スバルの傷だらけの経験が、その考えにスバルを辿り着かせた。

 

「傷付くのも苦しむのも!全部、全て、俺だけだ!俺だけで済む、万々歳だろうが!俺が歯を食いしばって、俺が怒りも悲しみも何もかも噛み殺して、どんだけ痛い思いして死んだとしても、誰にもその絶望の指先を届かせたりなんかしない!最初から最後まで俺だけが傷付いて、それでいいだろ!何が悪いんだよ!」

 

『死に戻り』を繰り返すことで、最善に至れる道を試行錯誤の果てに見つけ出すことができる。エキドナも言っていた通りだ。その覚悟に乗じて己の好奇心を満たそうとするエキドナの誘いには乗れないが、それと同じようなことを単身で挑み続ければいい。

余計な回り道をしようとするエキドナと違い、最善の道を探すことに心血を注ぐスバルのリトライ回数は、エキドナと共に行くよりはるかに少なくて済むに違いない。もちろんそれでも途方もない回数になることは想像がついた。だが、それでも挑む価値がある。

 

誰も傷付かないで済む未来が、傷だらけのスバルの伸ばした手の向こうにあるのなら。

 

「理解できない、うんざりだってさっきは言ったな。ああ、悪かった、悪かったよ。その気持ちには一片たりとも嘘はねぇが、お前に感謝してることだってあった。それを忘れてた。それも忘れて、恩知らずもいいところだったな、俺は」

 

「――――」

 

「俺からお前に感謝することは一個だけだ。『死に戻り』させてくれて、ありがとうよ。これだけは感謝してやる。これがなけりゃ俺は、大事なものも何一つ守れやしなかった。これからも、この力には頼り続ける。だから、このことだけは感謝してやる」

 

トライ&エラーに挑み続ける覚悟はすでにあるのだ。

目の前に立ち塞がる運命から逃げ出す選択肢は、とうの昔に潰えている。

 

手を取って、一緒に逃げようと言ったスバルの言葉を、拒絶されたあのときから。

逃げる選択肢はない。戦い続けるしかない。それを誓ったのだ。彼女もスバルにそれを、期待している。信じている。スバルが逃げず、戦い続けることを。

立ち上がり続ける男がスバルであるのだと、そうでなければスバルはレムの英雄であり続けられない。

 

「だから、お前がくれたこの力にだけは感謝してやる。おかげで、俺みたいな何の取り柄のない奴でも、行き詰まった状況を……」

 

「――ないで」

 

「状況、を……」

 

胸の内に溜まる熱を、そのまま吐き出すように畳みかけていたスバルに、ふいに沈黙を破ってサテラが何かを呟いた。

その一端を耳にして、スバルの言葉の勢いが鈍る。顔を強張らせて、スバルは今しがたの呟きをもう一度、求める。

今、何を言われたのか。まるで、それが聞きたくない何かであったように。

 

息を呑むスバルに、サテラはしばしの沈黙を経て、もう一度、言った。

 

「――泣かないで。傷付かないで。苦しまないで。悲しい顔を、しないで」

 

訴えかけるように、サテラはスバルにそう囁いた。

その内容に、スバルの心が激情に震える。それは怒りであり、驚きであり、わけのわからないあらゆる感情がない交ぜになったものだった。

 

「お、前が……それを……」

 

感情の渦が大きすぎて、何を口にすればいいのかがわからない。

喉が激情に塞がれて、スバルは口を開いては閉じて、サテラを愕然を見やる。

 

そのスバルの動揺を、なおも重ねるサテラが揺さぶり続ける。

 

「だから、愛して」

 

「け、っきょくそれか……お前はそうやって、俺の感情を捻じ曲げて、それで究極的にはそうやって自分のことを愛してもらうことばっかりだ。そんな言葉に……」

 

「――違う」

 

震えるスバルの言葉を、首を横に振るサテラが遮る。

なおも表情は見えない。しかし、スバルにはその闇の帳の向こうにあるサテラの表情が、自分をどんな風に見ているのかを肌で感じ取っていた。

――サテラは、彼女は今、スバルを。

 

「――もっと、自分を愛して」

 

きっと、慈しむような顔で見つめている――。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

伝えられた言葉の意味を呑み込んで、それが脳に浸透するまでにかなりの時間を要した。

そうして脳にそれらが染み渡った直後にスバルの心を支配したのは、形のない震え上がるような情動の波だった。

 

「何を……言い出し、やがる」

 

「……傷付かないで。もっと自分を大切にして」

 

「お前が俺に、『死に戻り』の力を与えたんだろうが。お前が与えたこの力が、俺にそうやって前に進む方法を与えたんだろうが」

 

「――あなたを愛しています。だから、あなたも、あなたを愛して、守ってあげて」

 

「俺が自分可愛さで、俺からこの方法を奪ったら!俺に何が残るって言うんだ!!」

 

尽きない愛を囁くサテラを拒絶するように、叫ぶスバルは自分の胸に手を当てて、

 

「お前も知ってるだろう!?俺にはなんの力もないんだ!知恵も技術も、特別な力はなんにもない!なんにもない俺が持ってるのは、お前がくれた『死に戻り』だけだ!だったら、俺が支払えるのは俺の命だけしかないじゃねぇか!」

 

「悲しまないで」

 

「痛い思いして、死ぬような目に遭うのも織り込み済みだ。俺はそれでいい、それでいいんだよ!苦しい思いするのが俺だけなら、俺はそれでいいんだ!」

 

「苦しまないで」

 

「俺が誰よりも傷付いて、俺が誰よりも多くを経験して、俺がみんなを守れるように立ち回れば、俺以外は誰も辛い思いしなくて済むんだよ!それ以上は望まないんだ!」

 

「泣かないで」

 

「俺のことなんか、どうなったっていいだろ!?俺みたいな奴がどうなったところで誰も気に留めやしないだろ!?俺がどれだけボロボロになったって、みんなが無事に未来に辿り着けるなら、それで……っ」

 

だって、スバルがそうやって最前線で傷付き続けなければ――、

 

「誰も欠けずに、未来が迎えられるなら、それで……ッ」

 

――また、取り返しのつかないところで誰かを失ってしまうかもしれないから。

 

「……レムが、いないんだ」

 

「――――」

 

「俺がもっと賢くて、俺がもっと力があって、俺がもっと自分を惜しまずに、一番先頭で体を張ってれば……避けられたはずなんだよ」

 

あのときの喪失感は、絶望感は、ナツキ・スバルをずっと縛り付けている。

だからスバルは今、誰に頼ることも考えず、一人で、傷付いて戦い続けることを選んだのだ。そうすることが一番正しいのだと、そう信じたのだ。

 

「そうやって、信じなきゃ……どうにかできる方法があるんだって、信じなきゃ……」

 

『死に戻り』が全てを解決してくれる手段なのだと。

それをうまく使いこなすことさえできれば、スバルは何も失わずに済むのだと。

そう信じて、言い聞かせて、傷付くことは必要なことなのだと、自分を納得させていなければ、どうしてあの絶望感に再び挑むことができるというのか。

 

「俺は……!もう、レムみたいに誰も失いたくないんだよぉ――ッ!」

 

頭を抱え込んで、スバルは聞こえる音の何もかもを拒絶して絶叫する。

気付けば、いつの間にか地面にへたり込んでいた。サテラから離れることすら忘れて自分の殻に逃げ込み、小さくなってスバルは甘い囁きを否定する。

毒だ。猛毒だ。スバルにとって、サテラの存在は全てが意思を溶かそうとする毒なのだ。

 

挫けないと、そう誓ったはずのスバルの心がひび割れてしまう。

その割れた隙間から差し込む冷たい絶望が、あの日の喪失感を蘇らせてスバルの心を滅多打ちにしていくのだ。

 

「子どもじゃ、ないさね」

 

ぽつりと、そう呟く声がした。

 

泣き叫んで、一人で出した結論に頑なになって、嫌々と首を振るスバルを見て、それまで沈黙を守っていた魔女が、ぽつりと呟いた。

 

「泣いて、喚いて、嫌だってごねて、全部一人で抱え込んで……これじゃ、まるで」

 

「――――」

 

「――一人ぼっちの、子どもじゃないさね」

 

哀れむような声で、セクメトが今のスバルをそう評した。

セクメトの呟きに無言でいる魔女たちは、それを否定しようとはしない。

 

その姿はあまりにも、今の『怠惰の魔女』の言葉が的を射すぎていた。

今のスバルの姿はそれこそ、見ていて哀れになるほどに、弱く小さな子どものようだった。