『怠惰の結果』


笑い声が響き渡るのを聞きながら、スバルは戦慄が喉を駆け上がるのを必死に堪えて、ゆるんでいた思考をフルに回転させ始めていた。

 

――意味がわからない。どうして目の前の女がペテルギウスを名乗るのか。奴は殺したはずで、死体も完全に吹き飛ばした。死んだはずだ。複数いたのか?馬鹿げてる。そんな理不尽は白鯨だけで十分だろうが!

 

「てめぇ……今、なんて……ッ」

 

「おやおやぁ、ずぅいぶんと驚かれているようデスね。そぉれほど驚いていただけると、ワタシもこうして舞い戻った甲斐があるというもの、デス!」

 

指を鳴らし、噛み潰したのとは逆の手でスバルを指差す女。彼女はその顔に狂笑を張りつけて、喉の奥が見えそうなぐらいに口を開けて舌舐めずりをする。

背筋に寒気が走るその笑みに、スバルは殺したはずの狂人との共通点を確かに見る。口の利き方、笑い方、そしてなにより『見えざる手』の存在が――。

 

「待て……お前、腕は七本だった……はずじゃ……」

 

スバルの知る限り、ペテルギウスの黒い魔手の総数は七本だったはずだ。

少なくともスバルはそれ以上の本数は見ていないし、パックとの相対で全力を振るったはずのペテルギウスも、その数より腕を出してはいなかった。

だが、今こうして目に入る人数は七を軽く上回っていて、伸ばされる腕の本数もすでに二十近くに。

 

「アナタ……『見えざる手』が見えているんデスかね?」

 

目を細めて、女はそのスバルの答えに剣呑な声でこぼす。

以前の世界でも、ペテルギウスは自分の魔手を見られることに強い敵愾心を抱いていた。それはもはや別人となり果てた今でも変わらないらしく、スバルの言葉の内容にこれまで以上の憎悪を宿しながら、

 

「ワタシに、ワタシのみに、与えられた愛の答えを……なぜ、アナタが!見ること叶うというのデスか!寵愛の信徒よ、アナタはまさか……!」

 

「スバル殿から、離れろ――貴様」

 

唇を震わせる女に、ふいに鋭い声の横やりが入る。

血走る瞳でそちらを睨みつける女の先、声を発したのは、

 

「ヴィルヘルムさ、ん……」

 

首を黒の魔手に掴まれ、足を軽く浮かされた状態にあるヴィルヘルムだ。

見えない腕に動きを封じられ、老剣士はどうにかそれを外そうと苦心しながらも、その眼光は激しい猛りを衰えさせていない。

仮に『見えざる手』がその拘束を解いた瞬間があれば、一足飛びに彼の老人は女の首を跳ね飛ばし、再びペテルギウスを地獄へ叩き落とすだろう。

 

剣鬼の発する気圧されるほどの殺意を前に、女――ペテルギウスと呼ぶのには抵抗があるが、ペテルギウスはその大人しくしていれば朴訥としていながらも整った少女の面を醜悪に歪めて、

 

「あぁ、アナタ、勤勉な方のようデスね。わかりマス。わかりマスとも、わかろうというものじゃぁないデスか!素晴らしい、美しい、なんとも気高い、揺るぎない精神性がうかがえるのデス!信じるものが!貫き通すものが!確固たるものが己の中に確立されている証デス!いぃ、すごぉっく、いいデス!」

 

「わけのわからないことを、並べ立てるな、狂人めが」

 

「狂人!実に正しき認識デス!そう、ワタシは愛に狂っているのデス!愛に、畏愛に、遺愛に、慈愛に、恩愛に、渇愛に、恵愛に、敬愛に、眷愛に、至愛に、私愛に、純愛に、鍾愛に、情愛に、親愛に、信愛に、深愛に、仁愛に、性愛に、惜愛に、切愛に、専愛に、憎愛に、忠愛に、寵愛に、貧愛に、偏愛に、盲愛に、友愛に、憐愛に、愛に、愛に、愛に、愛あいあいあいあいあいあいあいいいいいぃぃぃぃっ!!」

 

目を剥き、舌を伸ばし、背筋をそらしてペテルギウスが頭を掻き毟る。

その狂態に、おぞましいものを見るかのような目を向けるヴィルヘルム。見れば、苦悶の表情を浮かべる他の捕われたものたちも同様に、狂人の歪んだ愛の示し方へ嫌悪感を抱いている。

それら負感情の渦の中心にありながら、ペテルギウスはひきつった笑みを幾度も繰り返し、ぐるりと周囲に視線をめぐらせると、

 

「あぁ、聞こえるべき賞賛の声が聞こえないのはさびしいものデスね。……では少々、手を惜しまずに振舞うとしマスか!」

 

「まさか、やめ……!」

 

両手を軽く上げ、無反応の周囲に無茶な要求をしてのけるペテルギウス。その狂人がなにをするつもりなのか、最悪の想像をしたスバルは制止の声を呼びかけるが、その声が発されるよりもペテルギウスが微笑む方がずっと速くて、

 

「さあ――『怠惰』であれ」

 

最悪の想像とは別の形で、村内を『怠惰』が災厄の形で荒れ狂う。

 

それまで、動きを封じられる形でいた全員は、それぞれが苦悶の顔をしながらも声を押し殺すことだけは共通していた。それはペテルギウスの興味を自身に向けさせないためという防衛本能もあったのだろうが、もっと大きな理由は単純に喉を圧迫されていたためだ。

伸ばされたいくつもの腕は拘束する全員の喉を鷲掴みにして、その身を軽く背伸びさせるような形で浮かせている。呼吸は止まらず、しかし反撃のための挙動のひと呼吸を得るには届かない、そんな悪辣な行いだ。

そして今、ペテルギウスの一言を皮切りに、その拘束はふいに解かれて、

 

「――ああぁぁぁぁぁ!!」

 

村内に、喉の圧迫から解放されたものの絶叫が重なり合って響いた。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

涎を垂らし、地面に頭を打ち付けている男がいる。

白目を剥いて、言うことを利かない体の感覚に泡を吹き始める女がいる。

ペテルギウスを上回る自傷行為に自らを傷付け、血まみれになる行商人がいる。

体内の魔力を暴走させ、体中の穴という穴から出血する騎士がいる。

 

まるで発狂したかのような惨状に、村中に悲鳴と絶叫が木霊していた。

 

「これ……」

 

それはほんの数時間前、白鯨との戦いの最中で起きた現象によく似ていた。

霧に包まれた街道で、白鯨の咆哮を聞いたものたちが正気を失い、その場にうずくまって動けなくなったときの現象に。

だが、ペテルギウスの一言を切っ掛けに起きたこの状況は、そのときのものよりさらに格段に被害が濃い。

 

「思ったより、抵抗されましたデスね」

 

言いながら、ペテルギウスは小刻みに首を左右に傾け、喉が張り裂けそうな叫び声を上げ続ける面々を愉しげに見やる。

惨状を前に鼻歌でも奏でそうなその姿は、もはやあの男と同一の存在であることをスバルに疑わせようもなかった。だが、

 

「てめぇは、どうして……こんなところに」

 

「お話の途中でしたし、ワタシがこの場に馳せ参じた理由である試練もまだ行っていませんでしたから。――とはいえ、アナタ方がワタシの指先のほとんどを潰してしまってくれていたおかげで、この貧弱な肉体しか残っていませんデスが」

 

ねっとりとした口調で語り、ペテルギウスはその手で己の肉体の起伏を艶めかしく上から撫でつける。その艶めいた仕草に気色悪さしか感じられず、スバルはなおも自身を掴んで離さない魔手を睨みつけ、どうにか外そうと手を伸ばす。が、

 

「くそ、見えてるのに……干渉できないのかよ!」

 

「やはり『見えざる手』がアナタには見えているようデスね。非常に不快ではありマスが、アナタが『傲慢』であるのならそれも納得というところ……」

 

もがくスバルを観察する狂人が、興味深げにスバルの方へ身を寄せる。

体を浮かされて、身動きの取れないスバルならば近づいても危険はないだろうという判断だ。確かにその判断は正しい。スバルはなにもできない。

――スバルは、

 

「やっちまえ――パトラッシュ!!」

 

「なにを――」

 

言いかけた瞬間、スバルの呼び声に反応し、身を低くした地竜が横合いからペテルギウスの体を思い切りにはね飛ばす。

この場の生存者全員の首に伸びていた『見えざる手』だったが、あくまでそれは人間の拘束に徹していた。村の入口付近に置き去りにしてきた地竜たちには干渉しておらず、ペテルギウスを迂回するようにパトラッシュが回り込んできたいたのに、拘束の効果が緩かったスバルだけは気付いて時間を稼いだのだ。

 

「ぐ――ッ」

 

肉体の切り替えは事実でも、その身が見た目通りの華奢さである点は変わらない。

体重が数百キロにも及ぶ地竜の突撃は、身をかわそうとしていた矮躯を軽々とぶっ飛ばすのに余る威力を備えていた。

身を弾かれ、地面を跳ねてすっ飛ぶペテルギウスが傍らの家屋へと突っ込む。土煙が上がり、苦鳴を置き去りにその姿が見えなくなった途端――『見えざる手』の拘束がスバルを自由にした。

 

「外れた、これで……ヴィルヘルムさん!」

 

「……私はどうにか。しかし、これは……」

 

苦しげに首に生まれた痣をさすりながら、どうやら精神汚染の影響を逃れていたらしいヴィルヘルムが周囲を振り仰ぐ。『見えざる手』の影響は一時的に解除されたが、それでも周囲に及んだ精神汚染の影響は途切れていない。

今もなお、苦しむ彼らは自傷行為や悪夢、致命的なまでの体調悪化に血を流し、絶叫を上げ続けている。これが白鯨の発した霧と同質のものであるならば、

 

「フェリスでなきゃ、治療できねぇ!?」

 

「あるいは元凶を叩けば、途切れる類の呪いやもしれません」

 

絶望的な状況にスバルが頭を抱えると、窮地を救ったパトラッシュがその鼻面を寄せて「落ち着け」と言わんばかりに肩を押してくる。

その地竜の計らいに深呼吸して、スバルは宝剣を引き抜くヴィルヘルムの横顔を見つめると、

 

「あいつを倒せばってのは、可能性あるのか?最悪、引いてフェリスを呼びにいった方がいいってことも……」

 

「フェリスがいれば確実ではあるでしょう。ですが、あのものをこの場に残して下がることを選べますかな?我々が森に戻れば、彼奴めが次に向かうのはロズワール殿の屋敷に相違ありません。――エミリア様に、危険が及ぶ」

 

「――――ッ!」

 

それだけは、絶対に避けなければならない。

理由はわからない。わからないのだが、エミリアとペテルギウスを会わせてはならないのだという確信がスバルにはあった。

彼女と奴が出会えば、それは間違いなくスバルにとって良からぬ事態になる。

それだけは断固として、受け入れるわけにはいかない。

 

「覚悟は、決まったようですな。スバル殿は下がって、見ていてください」

 

「あいつの手口は、見えない手でこっちを縛るってやり方だ。いくらヴィルヘルムさんでもあの手には……」

 

「見えない腕があるとわかれば、戦いようというものはあるものです。それよりスバル殿、奴は『怠惰』で間違いないのですか?確かに『怠惰』を斬った自覚が私にはあるのですが」

 

「……原理はわからねぇが、それは間違いないと思う。最悪、白鯨みたいにこっちが本体でさっきのは偽物って可能性もある。俺はそれは知らなかった」

 

「疑ってなど、おりませんよ」

 

言い訳じみたスバルの言葉が出たのにヴィルヘルムは苦笑。その年長者の大らかな態度に、スバルは自分の卑小さがこんな場面でも出たことを恥じる。

が、それに対する答えを返すよりも先に、

 

「――あぁ、痛い。痛い。痛い。脳が、震える。震え、マス、デス」

 

崩落した家屋の壁から腕が伸び、血と泥でその半身を汚したペテルギウスが顔を覗かせる。のっそりと這い出すその半身には生じた浅くない裂傷がいくつも見られ、無防備に受けたパトラッシュの突撃の被害が小さくないのを如実に語っていた。

だがそれでもなお、そのぎらつく双眸からは欠片の生気の衰えもうかがえず、かえって怨念じみた奴の狂気が強調される形となっていた。

 

「いい。地竜はやはり、いいデス。人間に親しく、忠実で、なにより賢く勤勉である!素晴らしい!愛おしい!勤勉!そう、勤勉であること!それはなによりもどんなことよりも賞賛されるべき美徳なのデス!怠惰であることがもっとも恥ずべき罪悪であるのならば、勤勉であることはもっとも賞賛されるべき美徳!怠惰が信愛に値せぬ不実であるのなら、勤勉こそ寵愛に相応しき信徒の行い!」

 

腕を振り、頭を振り、地面を踏みつけ、舌を伸ばし、涎を垂らしながらペテルギウスはパトラッシュへ満面の狂笑で惜しみなく賛辞を注ぐ。

そうして賞賛されるパトラッシュはといえば、その奇態に種族差を経ても受け入れられないものがあったらしく、その表情の浮かび難い爬虫類の顔で精いっぱいの嫌悪感を示し、スバルを選ぶようにこちらへ身を寄せてきた。

可愛く、頼りになる相棒である。

 

「うちの働き者の相棒は嬉しくねぇってよ、変態野郎。……今は変態アマか?TSものに一定の需要があんのはわかるけど、お前のTSなんざ誰得だよ、クソが」

 

「てぃーえす?なぁにを言っているのかわかりませんデスが、惜しみなく賞賛を送ることと送られた相手が喜ばしいかどうかはワタシにとって関係はないのデス!素晴らしいと思った。胸に湧き上がるこの情動を、言葉にしない怠惰などワタシには決して許されない。許されない、許してはならない、許すことなどあってはならないのデスから。故に言葉を尽くし、愛を、愛を、あいあいあいあいあいあいいい!」

 

「会話にならない相手というのはいつの世も厄介なものですな。――もはや、言葉を尽くす意味も意義もなし。ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア、参る」

 

身を低くし、ヴィルヘルムが名乗り上げを行うと速度を風に乗せた。

一足飛びに剣鬼の肉体が地を駆け、ゆるゆると動くペテルギウスの眼前へと飛び込もうとする。が、さすがのペテルギウスもその初撃には警戒していたらしい。

 

「ああ恐い。アナタもまた勤勉なるもの。デスので、こうさせていただくデス」

 

『見えざる手』が大地から湧き出し、ペテルギウスの正面を壁のようにして覆い尽くす。そのまま突っ込めば、回避不能の魔手に全身を絡め取られることとなる。

見えていないヴィルヘルムに伝わらないその脅威を、スバルは喉をからすほどの勢いで、

 

「正面に腕だ!!下がってくれ――!」

 

「――承知」

 

叩きつけた右足で自身の勢いを急制動し、眼前に迫る壁をヴィルヘルムは回避。そのまま横っ跳びに飛びずさり、身を回す老剣士は抜いた剣を縦に振りかぶり、

 

「ち――っ」

 

斜めに斬撃を受けた地面が裂かれ、土の雨がペテルギウス目掛けて降り注ぐ。

いっそ大地を砕き、その勢いを叩きつけるような斬撃であれば攻撃としての意味もあったのだろうが、

 

「それじゃただの嫌がらせ……」

 

「意味のわからない行いデスが、まさかアナタは怠惰ではありませんデスよね?」

 

ヴィルヘルムの行いに同様の感想を得たらしく、掠れた声のスバルに被せるようにペテルギウスは嘆息をこぼす。その落胆した態度に返答せず、ヴィルヘルムはなおも地を駆けながら、振るう剣にて土の雨を間断なく降り注がせる。

その不快な所作に無造作に腕を振り、ペテルギウスは「もう結構デス」と呟き、

 

「勤勉であるとしても、無能な働き者は怠惰と等しく唾棄すべき存在デス。なおもその無駄な抗いをやめないのであれば是非もなし――ワタシに与えられし寵愛の前に、千切られて消えてえてえてえてえてててててててててデス!!」

 

影が爆発し、ペテルギウスの『見えざる手』がヴィルヘルムへと迫る。

その数はおよそ三十本以上に及び、スバルの知るペテルギウスのものとは比較にならない。接近する魔手の存在を口頭で伝えようとしていたスバルは、ひとつ二つを伝えられた程度では変わらない状況を前に喉を塞がれた。

そしてその致命的な停滞は、そのままヴィルヘルムの命に直結し――、

 

「ヴィルヘルムさ――」

 

触れたものを容赦なく破壊する『見えざる手』が、その存在を感知することのできない老剣士の全身に襲いかかる。触れた指先がそのまま、その老躯を蹂躙する光景を幻視してスバルは己の無力を嘆きかける。が、

 

「言ったはずです」

 

伸びてきた指先を屈んでかわし、身を回しながら降り注ぐ魔手を次々に回避。滑るように腕の合間をすり抜け、押し寄せた脅威の全てをかわし切った老人は好戦的な笑みを頬に浮かべ、

 

「見えない腕があるのだとわかっていれば、対処法などあるのだと」

 

その前言に偽りのないところを、剣鬼は目の前にて確かに実証してみせたのだった。

 

「馬鹿な。馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な馬鹿なかなかなかなかなかなかなかなかなかななななななななな――」

 

そのヴィルヘルムの渋すぎる口上に、喉を震わせるのはペテルギウスだ。

狂人は自らの奥の手を軽々と回避された事実に顔をしかめ、持ち上げた右手の指を次々と奥歯で噛み潰しながら、血走った目を四方八方へめぐらせ、

 

「ありえないありえないありえないりえないりえないえないえないないないないないいいいいい……アナタまでまさか、ワタシの『見えざる手』ををををを?」

 

「見えております。――種が知れれば、大したことのない子供騙しですな」

 

退屈そうに言い放ち、ヴィルヘルムは回した刃の先端で再び土を掻く。

降り注ぐ土の雨はなおも震えるペテルギウスへ打ちかかり、狂人に対する挑発としてこの上ない意味を発揮していた。

だが、その行いの繰り返しによってスバルはヴィルヘルムの意図したところに気付く。そして、剣鬼の恐るべき戦術眼に舌を巻くしかなかった。

 

先ほどからヴィルヘルムが土の雨を降らせているのは、単純にペテルギウスの短気を誘うための嫌がらせではない。

ヴィルヘルムは土の雨を降らせることで、生じる『見えざる手』の軌道を目視できる状況を作り上げたのだ。

 

物理的に人体に干渉する『見えざる手』は、目には見えないというだけで実際に存在している謎の現象だ。おそらくはマナに干渉してそのような術式を展開しているのだとは思うが、ヴィルヘルムはそれを逆手にとってきた。

即ち、土の雨の途切れる場所を腕が通るのだと判断し、そこを忠実に回避しているのだ。とはいえ、それでも三十を越える腕が生み出す猛攻は易々と避け切れるものではなく、ヴィルヘルムの超人的な反射神経あっての神業ではあるのだが。

 

「さて、驚かれるのは十分です。――斬られる覚悟は、できたのか?」

 

刃の先端を向け、低い声でヴィルヘルムが恫喝する。

そこに込められた凍えるような殺意に、直接刃を向けられたわけではないスバルにまで背筋を寒気が駆け抜けた。無論、その殺意に直接さらされる羽目になったペテルギウスの方はもっと生きた心地がしなかったろう。

事実、ペテルギウスはそれまでの狂気的な、現実の境目を見失ったような態度から現実感を取り戻したようにうろたえ、

 

「待て、待つのデス。こんなはずが、こんな状況が、こんな展開が、こんな苦境が、ワタシに、訪れるはずがないのデス!ワタシは勤勉であった!ワタシは怠惰であることを拒み、愛に報いるために!愛に!親愛に!寵愛に報いる信徒として誰よりも敬虔で勤勉であった!そのワタシが……」

 

「これをしたから愛される。これだけやれば愛される。貴様の口にする愛の、軽薄さには耳が腐る」

 

見苦しいペテルギウスの叫びを、ヴィルヘルムは心底唾棄すべき妄言を耳にしたかのように切り捨てる。彼はその双眸に殺意とは別の、すさまじい剣気を燃やし、

 

「愛は強要するものでも、懇願するものでも、毟り取るものでもない。貴様のそれは愛ではなく、ただの独りよがりだ」

 

「――アナタに、なにが」

 

言いかけるペテルギウスを無視し、ヴィルヘルムが最後と言わんばかりに大振りで土を掻く。降り注ぐ雨をペテルギウスに浴びせかける。が、ペテルギウスはその暗色の雨の中で会心の狂笑を刻み、

 

「ならば、これはどうデスか!!」

 

叫び、ペテルギウスが両手をこちらへと差し伸べる。

その腕に呼応するように、地を滑るように伸びてきた『見えざる手』が、横たわって精神汚染に苦しんでいた騎士たちの体をつり上げる。

屈強な彼らはいずれも、ヴィルヘルムと同様の装備に身を包んだ討伐隊の生き残りであり、ヴィルヘルムとは固い絆で結ばれた同志――奴はそれに目をつけたのだ。

 

瞳を狂気に輝かせ、ペテルギウスは己の行いを喝采するように喉を開き、

 

「さあ、これでいかがデス!友人を、同僚を、部下を、仲間を、同志を、こうして人質にされてアナタはどんな醜態を――」

 

「――騎士を、甘く見るな、下種が」

 

呟きを置き去りに、弾丸のようにヴィルヘルムの体が射出された。

踏み込んだ足が地を抉り、瞬きの後には時間すら取り残して老躯が飛ぶ。唖然とした顔でペテルギウスが、とっさの判断で影から魔手を引き出すが――遅い。

 

深々と突き立った刃が下腹を貫通して背中から突き出し、至近で顔を突き合わせた両者が表情を交換する。

ひとりは呆然とした驚愕を張りつけ、ひとりは静かすぎる怒りに瞳を燃やし、

 

「守るために剣を握り、騎士となった時点で己の命など惜しまない。私の――俺の仲間を侮辱するのも、大概にしろ」

 

「あぁ……こん、な……」

 

震える手が自身の傷へと伸ばされ、剣を伝って流れる血に触れて目を見開く。それからペテルギウスはその血まみれになった手をヴィルヘルムの顔に向け、老剣士もそれをかわさない。もはや、なにかをする力すら残っていないことが、いくつもの命を切り捨ててきた剣鬼にはわかっていたのだ。

 

「アナタ、こそ……あぁ……真に、誠に、正しく、勤勉な……」

 

愛おしむように、ぺたぺたとペテルギウスの指先がヴィルヘルムの頬を撫ぜる。

老剣士は狂人のさせたいようにさせながら、ゆっくりと宝剣の刀身を腹部から引き抜いた。血が大量にこぼれ出し、脱力するペテルギウスが膝から崩れ落ちる。

 

「介錯が必要ですかな」

 

「――不要、デス。ああ、命の失われる感覚が素晴らしい。血が抜ける。命の源が流れ出す。これまで、ワタシの体を支えてきた、勤勉なるものが、失われて、なくなって、消えて、消えて、えててててててててて」

 

横倒しに倒れ込み、ペテルギウスは地面をいっそう血が染めるのを愉しげに見ている。愉しげに愉しげに、愉しげに唇を震わせて、瞳の焦点が合わなくなり、やがて光が消えた。

それを見届けて、スバルは「は」と息を漏らす。完全に呼吸すら忘れるような戦いを前に、動けることを肉体が忘却していたようですらあった。

 

「お、終わった……のか?」

 

「息の根は止めました。周りのものも、どうやら」

 

恐る恐るのスバルの問いかけに、剣の刀身を拭うヴィルヘルムが小さく応じる。

彼の言葉に周りを見渡せば、なるほど先ほどまで精神汚染に苦しめられていた人々の様子も落ち着いており、傷はあるものの死者は出なかったようだ。

最後に人質として扱われた面々も、かろうじてではあるが命は残っている。

 

どうやら今度こそ、本当に、安堵していいらしかった。

 

「けっきょく、どういうことだったんだよ、こいつ」

 

固まり切っていた足をその場で足踏みして解し、言うことを利くのを確認してからヴィルヘルムの方へ足を向ける。

立ち尽くす老剣士の正面、倒れ伏したペテルギウス二号は完全に沈黙していて、その死に姿だけを見ればまったく無関係の女性の死体にしか思えない。

 

だが、現実的にこの女性は先ほどまでペテルギウスであったのだ。

あの狂態に『見えざる手』という権能。それらが幻かなにかであったはずもなく、起きた現象には無理やりにでも納得のいく結論を出さなければならない。

 

「白鯨みたいに、『怠惰』ってのは複数いたのか?そうすると、これまでに世界の各地でメチャクチャ活動してるって話にも納得がいくけど……」

 

「大罪司教の、同一の大罪が複数いるなど聞いたこともありませんが……実態が不透明な連中のことです。あり得ない話だと断定はできませんな」

 

白鯨を引き合いに出したことで、ヴィルヘルムも声の調子をわずかに落とす。

事実、今の推論が本当だとしたらそれは由々しき事態でもある。ペテルギウスのような存在が複数、存在する可能性など考えただけで目も当てられない。

 

「最悪、この女も本体じゃないってことも……白鯨みたく、まさか別の本体が?今回出張ってきてるかもわからねぇんじゃ、対処のしようが」

 

「森を探索している他の面々も心配ですな。こちらにはスバル殿がいたおかげで、見えない腕の対処が可能でしたが、あちらにはなにもない」

 

「――!そうか!そうなるとヤバい、すぐに戻って合流しないと!」

 

森に残った魔女教の残党は二グループ。そのどちらかにまた別のペテルギウスがいるなどと考えたくはないが、可能性は否定し切れない。

すぐに取って返そうと、すぐ間近のパトラッシュの手綱を手に取ろうとスバルは振り返る。だが、

 

「とにかく即行で戻って……パトラッシュ?」

 

飛び乗ろうと腕を伸ばすスバルを、しかしパトラッシュは受け入れていない。それどころか、地竜はかすかに頭を低くし、獰猛にうなり声を上げてスバルを睨んでいた。

その態度はまるで、敵対する存在を見ているかのようで――。

 

「まさか……憑依……!?」

 

その可能性に思い当たり、スバルは戦慄を抱えたまま飛び退く。

仮にそれが事実だとすれば、ペテルギウスはパトラッシュという種族の違う存在まで乗っ取れる可能性があり――、

 

「ヴィルヘルムさん!ヤバい、あの野郎、パトラッシュに――」

 

「ぶ」

 

ばしゃりと、振り返る顔面にむせ返るような血臭が浴びせかけられた。

 

「は?」

 

唖然と、生温かいそれを顔に浴び、スバルはぽかんと口を開けて瞬きする。

眼前、振り返った先に立っていたはずの老剣士の姿がない。いや、ないことはないのだが、スバルの知っている形と違っているのだ。

 

スバルより十センチは高かっただろう長身で、鍛え上げられていたヴィルヘルムの肉体。その広い肩幅の上、首が存在していない。

ねじ切られるような汚い断面をさらし、伸び上がる黒い靄が血を噴き上げる胴体の向こうでのたくるように踊っているのが見えた。

 

「え……へ……見えざる、手……?」

 

呆然と正面を見る。

目の前、ペテルギウスによって乗っ取られたと目したパトラッシュがいる。

その首がやはり、スバルの目の前で乱暴に千切られて、重々しい音を立てて放り捨てられた。巨躯がその場に倒れ込み、小さくない震動が足裏を伝う。

同時に背後でもヴィルヘルムの胴体が横倒しになっており、スバルの前後で、今寸前まで勝利を分かち合っていた、頼もしい仲間の命が失われた。

 

「こん……え?なに、が……え?」

 

思考が完全に真っ白に染まり、考えがなにもまとまらない。

振り返り、倒れたヴィルヘルムを見下ろす。首から上がどこにもない。流れ出す血の勢いを止める方法はなく、赤が大地を染めていくのを見守る他にない。

 

ふいに、気付けばヴィルヘルムの死体から宝剣を引き抜いていた。

 

刀身の長いそれを腕を精いっぱいに伸ばして、先端を自分の喉の方へと合わせる。

苦労して、どうにか狙いが定まり、スバルは首を傾げた。

 

「なにが……起きたって……いうん……デスか?」

 

なにもわからない。

なにもわからないまま、伸ばした腕を思い切りに引き寄せる。

 

熱い感触が喉を駆け抜け、全身から力が抜ける。

なにもわからない。理解ができない。ただ、ひとつだけわかることがあった。

 

――ああ、死んだのだと。