『うんとこしょ! どっこいしょ!』
――氷を思った通りの形に作り上げるのは、『いめーじ』を固めるのが重要だ。
最初、スバルから『アイスブランド・アーツ』を提案されたときも、とても便利だとは思ったが、自分にできるかはエミリアは不安だった。
「大丈夫!心配ご無用!エミリアたんならきっとできるよ!」
と、そんな不安がるエミリアに、スバルは笑顔で親指を立ててくれたのを思い出す。
今思うと、あれも根拠のない――否、スバル的には「好きだから」という理由で、エミリアの背中を押してくれたのだと思う。
『いめーじ』した武器を作り出す過程で、エミリアはたくさん絵の勉強をした。
絵の勉強は歌と違ってあまり得意ではなかったが、それでも、スバルと一緒に何枚も何枚もお絵描きをするうち、確かな上達があった。
勉強の傍ら、スバルやベアトリスとお絵描きしているエミリアを見て、ラムは呆れ、オットーは苦笑し、フレデリカやペトラはたまに混ざってくれて、ガーフィールはこうした方がいいと助言してくれた。ロズワールも、遠くからたまにエミリアとベアトリスが並んでお絵描きしているのを見ていて。
エミリアが思う、とてもとても大切で、手放し難い思い出。
みんなからは消えてしまったかもしれなくて、でも、スバルは覚えてくれている思い出。それを思うと、胸の奥でポカポカとした気持ちが湧いてくる。
「それを、えいやって勇気に変えるわ――!」
湧き上がる想いを原動力に、エミリアは作り出した氷の武器と、共に前進してくれる七人の氷の兵士を連れて正面、『神龍』ボルカニカへ挑む。
前述の説明通り、氷の整形には『いめーじ』が重要だ。
それは武器はもちろん、生み出された氷の兵隊であっても同じこと。つまるところ、氷の兵隊たちはエミリアの『いめーじ』しやすい姿で固まっていた。
早い話、エミリアと一緒に戦うのは七人のナツキ・スバルだ。
「でも、本物のスバルより力持ちだし、すばしっこいから!」
スバルも腕白さや元気さでは負けていないが、氷で作られた兵隊たちとは根本のところから造りが違う。
兵隊たちの強度はエミリアの与えたマナの密度に依存しており、単純な氷像とは比較にならない。氷の武器と同じで、鋼とだって引けを取らないだろう。
「いって!」
エミリアの指示に従い、先頭を走る氷兵がボルカニカの射程に入った。
ボルカニカは監視塔、一層中央の大きな柱に寄りかかったまま動かず、先ほどの尾の一撃からして射程範囲は六、七メートル――、
瞬間、柱へ取りつこうとした意思を感知したのか、龍の青い尾が高速で動いた。
風に穴が開く、とそう表現するしかない奇矯な音がして、直後に先頭の氷兵の上半身が木端微塵に砕け散る。直撃を浴びたのは胸のあたりで、氷兵の胴体はそこで真っ二つに打ち砕かれ、目つきの悪いスバル似の頭部が吹っ飛んでいった。
「ごめんね!でも、私じゃなくても狙うってことだわ」
試金石にされた氷兵には悪いが、これでボルカニカの狙いははっきりわかった。
ボケてしまい、『試験』のこともうっかりしてしまっている『神龍』だが、それでも明確に柱へ臨もうとする相手を迎撃する意思が生きている。
その、生命の有無は関係なく。ならば、やりようはあった。
「兵隊さんたち、お願い!」
エミリアの声に呼応して、銀髪の少女を追い越すように氷兵が飛び出す。
最初の一体が砕かれ、残った氷兵は六体、それぞれが別の方向へ散り、わずかな時間差を作りながら中央の柱へ。
『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』
接近する氷兵の気配を感じ取り、またしても『神龍』が口上を重ねる。
もはや無意味な言葉の羅列となったそれを、聞く耳を持たない人形に対してする姿には強い寂寥感と、胸を掻き毟られる切なさをエミリアは覚えた。
あんな姿になってまで、ボルカニカは『何か』を守ろうとしているのだ。
それが誰と、何と、何のために交わした約束なのかはわからないが――、
『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』
尾が振るわれ、武器を構える氷兵が二体、瞬く間に打ち砕かれた。
とっさの反応でそれぞれ防御の姿勢を取ったが、一体は腰から下を、もう一体も右半身を吹き飛ばされ、まともな行動ができずに崩れ落ちる。
ならばと、残る四体は攻撃の姿勢から定位置へ戻ろうとする尾を押さえに向かう。
現状、ボルカニカの迎撃手段は尾による一撃に限定されていた。ひょっとすると、ボケているだけでなく、足腰もよぼよぼになっているのかもしれない。
立ち上がるのが億劫な状態なら、その尾さえ止められればいい。
「どっしり構えて!」
尾の動きを止める狙いで、三体の氷兵が横並びに肩を組んだ。
その氷兵をいっぺんに薙ぎ払いに、再び『神龍』の尾の先端が音を置き去りにする。仕組みとしてはスバルの操る鞭に近いが、その速度と威力が桁違い。
スバルの鞭はエミリアなら手で掴めるが、龍の尾撃はそうはいかない。
大抵の生物の渾身に匹敵する威力を、虫を払う気軽さで放つ『神龍』。
その尾による薙ぎ払いが、横並びに腰を落とした三体の氷兵をまとめて打つ。しかし、聞こえるはずの強烈な破砕音はここでは鳴らなかった。
腰を落とした三体の氷兵、その背後に彼らを支える氷の壁が生じたからだ。
くる、とわかっていれば対処法はある。
全身をひび割れさせながらも、目つきの悪い少年に似た氷兵の口元の口角が上がった。そして、一撃を止めた三体の裏から、別働を任された最後の一体が飛びかかる。
最後の氷兵が振りかざすのは、いわゆる『刺股』という武器だ。
長い槍のような柄の先端には、相手を刺すのではなく、取り押さえるための曲線を描いた金具が取り付けられており、捕具という扱いで呼ばれるらしい。
その刺股で突き落とし、『神龍』の行儀の悪い尾を床に押さえ込む。
動きの止まった龍の尾は、その一番細い先端であっても丸太のように太く、刺股一本で食い止めるのは不可能と、ひび割れた三体も続々と刺股で挑みかかった。
そして、都合四ヶ所を刺股に押さえられ、さしもの『神龍』も尾を封じられたと――、
『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』
直後、世界の削がれる音がして、ハイタッチした四体の氷兵がごっそり抉られた。
腰から上が綺麗に消滅し、下半身だけを残して氷兵が崩れる。それをしたのは、身動きを封じられて本気になった尾の逆襲――ではなく、爪だ。
床に伏せていたボルカニカが、尾の代わりに左の前足を振るった。
ただそれだけで、エミリアの氷の兵隊は瞬時に消滅を余儀なくされたのである。
危うく、よぼよぼであると騙されるところだった。
「尻尾も手足も元気なら……もう!なんで大事な頭だけポカンとしちゃったの!」
『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』
「それはわかったか、ら――!」
エミリアでなければもっと逆上していたかもしれない繰り言。
それを聞かされながらも、エミリアの果敢な挑戦心は折れはしない。折れ砕かれたのはあくまで氷の兵、もちろん、少し心は痛むけれど。
「大丈夫!何にもわからなかったわけじゃないもの」
砕かれた氷兵が無駄死にでないことを訴え、エミリアも尾の射程範囲へ。
ただし、尾を押さえ込む氷の刺股は健在で、四体の氷兵が犠牲になった価値はあった。ならば当然、尾の代わりに前足がエミリアを狙うところだが――、
「両手の届く範囲は尻尾より短いでしょ?それと」
その爪がエミリアを捉えるより早く、エミリアを通り越して『神龍』へ氷槍が迫る。
それはエミリアの背後、初期位置に再び生み出された氷兵――エミリアが作り出せる氷兵は最大七体までだが、それは砕かれるたびに作り直すことが可能だ。
つまり、氷兵はエミリアが力尽きるまで何度でも立ち上がることができる。
それこそ、まるで本物のナツキ・スバルのように。
『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』
「きゃあっ!?」
降り注ぐ射程外からの氷槍の雨に、ボルカニカは前足を正面から叩き付けた。
その一撃はまるで空間を引き裂き、そこに爪痕をいつまでも残し続けるみたいな衝撃波を生んで、エミリアや氷兵ごと一層を豪風で呑み込まんとする。
「――――」
衝撃波に前身の勢いを止められながら、エミリアは紫紺の色をした目を凝らす。
ボルカニカの守る中央の柱、その堅固は硬く、まだ柱をじっくりと観察することもできていない。遠目には他の六本の柱と変わらないように見えるが、その判断も尚早だ。
ただし、ここでのエミリアの本命は中央の柱そのものというよりは――、
「――それより上の、塔のてっぺん!!」
風に負けじと踏み込んで、エミリアはその場で強く床を蹴った。
まだ、ボルカニカに対しても柱に対しても、何らかの行動に出るには遠い距離。だが、ここで踏み切るので正解だ。
何故なら、最初に砕かれた状態から再生する氷兵が、腰を落として両手を構える。
そして、踏み込んだエミリアの足を両手で受け止め、そのまま一気に上へ跳ね上がる跳躍を手助けしたからだ。
尾を押さえ、注意を柱に引きつけて、その隙に本命の最上層へ取りつく。
エミリアも滅多にやらない搦め手だが、この場へ到達したエミリアの直感が、辿り着かなくてはならないのは塔のてっぺんだと訴えていた。
氷兵の助力を借りた大跳躍、それで一気にボルカニカの頭を飛び越し、柱の上部へと取りつける。そこから一気に最上層へ上がれば――、
「――え」
直後、柱へ指を届かせようとしたエミリアの足下を、静かな熱波が掠めた。
――否、それは静かだったのではない。あまりの威力と熱量に、音が死んだのだ。音の概念が殺されたなら、現象が無音と化して不思議はない。
エミリアの知覚が、一層に展開した氷兵の消滅を感知する。
エミリアの跳躍に手を貸した一体が、それを援護するべく氷槍を投げていた四体が、刺股を追加するべく走り出していた二体が、いっぺんに消えた。
そしてそれを為したのは、ボルカニカの尾でも前足でもない。
『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』
そう、厳かさだけは失わない口から、焼かれる大気の断末魔が聞こえる。
繰り言が再び耳に届いたことを切っ掛けに、エミリアは殺された音の概念が息を吹き返したことを理解、同時に、その指が柱の上部へかかる。
何とか必死に自分の体を固定して、エミリアは眼下を見下ろした。
広がる一層、それが白く焼かれていた。
各所から燻るような白い煙が上がり、存在したはずの氷兵は残骸も残せていない。それほどの熱量、それほどの威力、それほどの殲滅性――、
――『神龍』ボルカニカの息吹きが、全てを焼き払ったのだ。
「尻尾も手足も元気で、火まで吹けるのに!」
『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』
「わかった!わかりました!わかったから……ぁ」
起きた出来事と比べると悲愴さの足りない返事をして、途中でエミリアは目を見張る。
ゆっくりと、『神龍』の双眸が上を、金色の瞳がエミリアを映したのだ。
そして――、
『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』
そう言いながら、ボルカニカがその青い両翼を広げ、その場に立ち上がっていた。
△▼△▼△▼△
「大変――っ!」
眼下の出来事の危険性を解し、エミリアは大慌てで塔の上部へ手を伸ばした。
そうしている合間にも、立ち上がるボルカニカが刺股で止められた尾を引っこ抜き、おもむろに翼をはためかせようとしている。
飛翔する気だ。
『神龍』ボルカニカであるのだから、飛ぶのは当然――しかし、エミリアは飛んでいる龍を見たことがなかったので、現実味は薄かった。
そもそも、あんなに大きな体の生き物が本当に空を飛べるのだろうか。
「パックとかロズワールが飛んでるところしか見たことないし……」
精霊であるパックと、変人級の魔法使いであるロズワールが飛べるのは必然。
聞いた話だと、南のヴォラキア帝国には地竜や水竜のように翼竜と呼ばれる飛ぶ龍がいるとの話で、ボルカニカもその翼竜のような扱いなのか。
あるいは、竜と『龍』を同じに考えることこそが誤りなのか――、
「んしょっ!よいしょ!えや!たぁ!」
掛け声をかけながら、エミリアは自分にできる最高速で塔の上へとよじ登る。
それは遠目に見るものがいれば開いた口が塞がらないほどの速度だったが、エミリアの常識外れの運動力を駆使しても、先行逃げ切りには一手足りない。
『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』
その声が、先ほどよりも近くで聞こえたのは錯覚ではない。
置き去りにする眼下ではなく、同じ高さへ上がってきてからの宣告であるのだから。
――その青い両翼を広げ、信じ難い巨体が宙を舞っている。
『神龍』ボルカニカが堂々と、その衰えを知らない存在感を砂丘の空へ浮かべていた。
発される威圧感や、射竦められるような眼光、尾や前足、息吹きに至るまでそれは伝説に語られる超級の龍であることを裏切らない。
唯一、それを裏切ったのが――、
「私!一層より上にいくつもりだから、あなたと敵じゃないかも!」
『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』
聞く耳を持たないとばかりに声を被せられ、柱にしがみつくエミリアへとボルカニカの猛威が襲いかかる。
息を呑み、エミリアはぐっと奥歯を噛みしめると、そこに『存在しなかった足場』の力を借りて、叩き付けられる尾を飛び越えた。
「んやうっ!!」
『アイスブランド・アーツ』の応用――柱にしがみついてよじ登るよりも、その柱の側面に足場を取り付けて、それを駆け上がる方が速度を上げられる。
「手足も自由になるか……きゃんっ!」
とっさに抜いた氷の双剣が、叩き付けられる尾を豪快に弾いた。
山勘を頼りに振り抜いた一発、エミリアの両腕が手首から肘まで豪快に痺れ、立ち直るまで何秒か新しい武器は握れそうにない。
しかし、エミリアの受けた被害と違い、ボルカニカは尾を振るっただけだ。
そのまま無常にも、挑戦者と同じ高度を取り続ける『神龍』は尾を振るい、柱を攻略しようとした無謀な相手を叩き落としに――否、叩き潰しにかかる。
「――っ」
その迫る尾に対し、エミリアは息を詰まらせた。
一度弾かれたら、また柱へ取り付ける元気が残っている気がしない。ギザギザの鱗がついた尾を直撃されたら、きっとあちこちひどいことになるだろう。
あの尻尾の攻撃に当たるわけにはいかない。
「まだまだ……すごーく、頑張れる!!」
両手は使えない。だが、足は動かせる。上は目指せる。
上を目指すために足場を作り出したが、それでは足りない。いっぺんに作り出せる氷細工には限りがある。その工程を、無駄にはできない。
足場の役目を果たしつつ、それでは終わらないものを――、
「――わかった!」
『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』
閃いたエミリアへと、またしても尾撃が迫りくる。
それを、エミリアは普通の足場の力を借りて何とか回避。そして、思いついた新しい足場を柱へ生み出し、伸ばした手でがっちりとその『手』を掴んだ。
「お願い、兵隊さん!」
そのエミリアの声に応え、氷でできた腕を軋ませたのは焼き払われて消滅し、また改めて作り出されたスバル似の氷兵――ただし、その上半身だけ。
ただの足場ではなく、エミリアの足場としても頼れる味方としても機能する存在――それが、柱に上半身だけを次々と生やした『氷兵の道』だ。
柱に上半身を生やすだけなので、足を作らなくていいから七体よりも数を増やせる。
いっぺんに十体ほどを柱に生やし、エミリアは彼らの手を借りながら上へ、上へ。
「えい!たあ!そや!よいしょ!」
柱に生えた氷の上半身に文字通り手を借りて、エミリアは柱の上部へよじ登る。
その間、ボルカニカはエミリアを妨害しようとするが、それを横から邪魔してくれるのも柱の男たちだ。
柱を守る習性に囚われるボルカニカは、その柱の氷兵を残してはおけない。
生まれる氷兵は氷の剣や斧を空中のボルカニカに向かって投擲し、『神龍』はそれを弾きながら、柱の氷兵を尾や前足で一体ずつ狩り尽くす。
だが、その間にもエミリアは柱の上へ、上へ、上へ――、
「ここは、ちょっと辛いけど!」
薄氷の上を渡る、というにはいささか絵面が豪快だったが、氷の兵隊たちの力と犠牲を礎に、エミリアの手がついに柱の最上部へかかる。
あと十メートルほどで塔の最上層へ辿り着けるはずだが、柱の上部はネズミ返しのように反り返った状態になっており、ここから上がるのは至難の業。
山登りが得意な人間でも苦心する状況だが、幸い、エミリアは木登りは得意だった。昔はそればかりに励みすぎて、フォルトナやアーチに叱られたものだ。
「指の痺れも大丈夫、これなら……!」
痺れていた指の感触を取り戻し、エミリアは反り返る意地悪な柱へ挑む。
反り返りに逆さに生えた氷兵の手を掴み、宙に足を浮かせながら不安定な空へ。だが、氷兵の助力のおかげで登攀は安定している。
あとは、ボルカニカの妨害さえ――、
「――っ」
刹那、一瞬の気の緩みへと、運命の悪戯が滑り込んでしまった。
『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』
発生した強い揺れは、そう述べるボルカニカの尾が柱をしたたかに打ち付けたことが原因だ。それは柱全体へと衝撃を伝わせ、その柱から生えている上半身だけの氷兵たちを根こそぎにひび割れさせ、一気に砕く。
それは、エミリアが手を借りようとした反り返りの氷兵も例外ではない。
「――ぁ」
掴んだ手が肩口からへし折れ、支えを失ってエミリアの体が落下する。それを、目つきの悪い氷兵は必死に止めようとしたが、もう片方の手は届かない。
浮遊感、それは即座にエミリアの全身を包み込み、懸命に登ってきた柱の上昇分を台無しにして、一層へとなかったことにしようと――ならなかった。
「きゃあ!」
登ろうとした柱の高さ、数十メートルを転落するはずだったエミリア。しかし、その予感に息を呑んだエミリアのお尻を、思いの外早く何かが受け止めた。
氷兵ではない。感覚的に、柱に生やした氷兵はみんな砕かれてしまった。
それに、とっさについた手がとてもゴツゴツして硬いものに触れていて――、
「もしかして……」
『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』
高空の風と、尻の下の感触を確かめたエミリアへと至近で声が届けられる。
その声の近さから、エミリアは遅れて理解した。――自分が、『神龍』ボルカニカの背中に落ちたのだと。
「――っ!ボーっとしちゃダメ!ここからなら」
また、ボルカニカを踏み台にして、柱に取り付くことができる。
そう考えたエミリアだったが、それを容易く実行させない困難が降りかかった。
翼をはためかせ、ボルカニカが上昇、身をよじり、振り落としにくる。
「――う、うううう!」
全身に強く強く襲いくる風に耐えながら、エミリアは必死に龍の背にしがみつく。
これまで、エミリアが感じたことのない物理的な風――一枚一枚が大きくて強靭な、まるで岩のような鱗に縋りついているが、このままでは長くはもたない。
その上、ボルカニカはただ、空を自由に飛んでいるだけなのだ。
尾の攻撃や、前足の一撃、ましてや息吹きを浴びているわけでもない。
ただ、しがみつくエミリアを振り落とそうと、勢いをつけて飛んでいるだけ。
これに負けてはあまりにも――、
「――スバルたちに、会いにいけなくなっちゃう」
迂闊に口を開ければ、飛び込んでくる風で肺が破裂しかねない。
俯いて、奥歯を噛みしめ、閉じた瞼の裏側にエミリアは大切な人たちを思い浮かべる。
まるで死んでしまうみたいな心の準備だが、そうではない。
エミリアが大切な人たちを思うのは前を向くためだ。
背中を押してもらい、顔を上げる勇気をもらうためだった。
「――――」
豪風に呑まれながらも、エミリアは瞼を力一杯押し開ける。
全力を注がないと、瞼を開けることもできない状態。そんな中、紫紺の瞳の力を失わせず、エミリアは活路を見出すためにあえて目を開いた。
人は恐怖や不安に押し潰されそうなとき、目をつむってしまうものだ。
だけど、エミリアが瞼の裏に描いた大切な人たちは、そんなときこそ前を向く。そんなときこそ、目を閉じることをしない人たち。
目は、開けていなくてはならない。
何かに届かせるためにも、誰かの手を取るためにも、そして――、
「――あの、へんてこ」
一面、上下左右、どこもかしこも青に支配された光景だった。
それはエミリアが雲よりも高い空の上にいることも原因だったし、エミリアのしがみついた『神龍』が輝かしい青い鱗を纏っていたこともそうだろう。
それ以外は何もかもがあまりに高速で過ぎゆくから、投げたボールの縫い目も見えるエミリアの動体視力でも世界を捉え切れない。
故に、エミリアの意識が捉えたのは、青の外にある世界ではなかった。
『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』
身をよじり、ねじるようにしながら飛行するボルカニカ。
どうやら、エミリアがしがみついているのはそのボルカニカの翼の付け根あたり。不思議なことに、龍はそれほど忙しく翼を動かしていない。鳥や虫が飛ぶためには羽ばたきを必要とするはずだが、龍の飛行の原理はそれらとは違っているようだ。
きっと、パックやロズワールの飛んでいる仕組みに近い。
だとしたら――、
「ロズワールは魔法……パックも、不思議な力だったから」
生憎と、ロズワールに試したことはないし、試すことはないと思う。
ただし、エミリアは長い間、たった一人しかいないと思っていた家族とずっと一緒のときを過ごしたのだ。
この一年、傍を離れていて、とても寂しいことが多い。夜、泣いてしまいそうになることだってあったが、思い出がそれを支えてくれていた。
そしてその思い出の呼び声は、こんなときにもエミリアに希望を見せてくれた。
それは――、
「もしかしてなんだけど、あなたも、首をくすぐられるのが苦手じゃない?」
押し開けられた紫紺の瞳が、身をよじる『神龍』の長い首を捉える。その、偉大な龍の顎の下、青い鱗がびっしりと生え揃った中に、一枚だけ白い鱗がある。
――エミリアの脳裏を、パックと戯れて過ごした日々が浮かんだ。
『ダメだよ~、リア。そんなにこそばゆいことされたら、集中が乱れちゃうでしょ?』
「――だよね、パック」
応じる声と共に、エミリアは意識を集中する。
なおも強い風の中、エミリアには直接、その白い鱗へ到達する力はない。だが、柱で学んだことは、たとえ相手が無機物から有機物へ変わろうと活かせる。
「――兵隊さん」
エミリアの意識の先、白い鱗の周囲に再び氷の兵隊たちが出現する。
上半身だけでがっちりとお互いを支え合った氷兵、その中心に生まれた一体が、ゆっくりとその手を白い鱗へ伸ばし――、
『――――ッッッ!?』
――初めて、『神龍』の繰り言以外の声をエミリアは聞いた。
△▼△▼△▼△
――逆鱗、という言葉がある。
古い中国の故事を発祥とするこの言葉は、神話の存在である龍の首には、触れてはならない鱗が一枚だけあり、それを『逆鱗』と呼ぶというモノだ。
逆鱗に触れられた龍は激怒し、必ずや相手を殺してしまうとされる。
その故事に由来して、相手の触れてはならない部分に触れてしまうことを、『逆鱗に触れる』という言葉で表すようになったのだと。
無論、そんな異なる世界の故事成語の成り立ちなど、エミリアは知る由もない。
龍の首にあった白い鱗に触れようとしたのも、こちらを振り落とさんと勢いよく飛び回る相手の集中を乱し、隙を作るのが目的だった。
しかし――、
「きゃああああ!!」
悲鳴を上げ、宙へ投げ出されたエミリアの天地がぐるぐると回転する。
だが、今度の浮遊感は先ほど、龍の背に落ちたときよりもさらに短く済んだ。硬い感触に受け止められ、エミリアはとっさに全身で受け身を取り、転がる。
そして、素早くその場に立ち上がり、周囲を警戒した。
「――――」
荒い息をつきながら、エミリアは周囲に視線を巡らせる。
幸い、そのエミリアに向かって、突然の攻撃が襲いかかってくる気配はない。それも当然だ。目下、最大の警戒対象であるボルカニカは、ずっとずっと上にいた。
『――――ッッ』
よほど白い鱗に触られたのが嫌だったのか、高空へ上がるボルカニカが悶えている。
空を噛み砕かんばかりの絶叫が木霊して、エミリアは思わず目を丸くしてしまった。
「パックは喜んでくれたのに……」
とはいえ、喜ぶ喜ばないは人それぞれの反応だ。
押し付けがましくならないよう自分を戒め、エミリアは手足の感触を確かめる。
ボルカニカの背中で大いに振り回され、体の血流が少しおかしくなっていた。
場合によっては血流が滞り、脳に血がゆかなくなって視界を失う現象を起こしかねなかったが、エミリアはギリギリ持ち堪えた形だ。
そして、それを確かめたところで、エミリアは気付く。
「――あ!ここって」
周りを見れば、エミリアの視界は一層到着時よりもさらに一段階高い。
周囲にあるはずの六本の柱がないのは、エミリアがそれらの柱の先端よりも上へ到達した証――すなわち、この場所こそが最上層。
ボルカニカの背中から振り落とされる形で、辿り着いたのだ。
プレアデス監視塔の最上層、前人未到の場所へと、ついに――、
「わ、やった!頑張った甲斐があったわ!」
と、出来事に対する感動としてはささやかな反応をして、エミリアは胸の前で手を打ってから、すぐに最上層の中央へ駆け寄った。
もたもたしていては、悶えているボルカニカが戻ってきてしまう。
そうなる前に、スバルたちを助けるための『試験』を見つけ出さなくては。
「お願いだから、私にもわかる問題を出してね……」
『試験』を忘れたボルカニカも大問題だったが、エミリアにとっての問題は、そもそも第一層の『試験』が自分に解けるかどうか、それもあった。
それを恐れながら、エミリアは最上層の中央へ。そして、そこから天へと伸びている柱の根本へ到達し、「あ」と目を見開く。
あった。一段下の、六本の柱にはなかった特徴が。
この最上層の、中央の柱にだけしかない、不思議な特徴が確かにあった。
それは――、
「――誰かの、手形?」
プレアデス監視塔の最上層、中央の柱の根元にあったのは黒いモノリス。
そして、その黒いモノリスには手形が押されていた。
――六つの、それぞれ異なる男女の手形が、押されていた。