『三人寄らば文殊の悪巧み』


 

――じりじりと、睨み合いを続けながらスバルは額を伝う汗の感触に息を呑む。

 

広い部屋だ。室内には奥に寝台が二つ並んで置かれ、扉の側にはスバルの元の世界の自室丸々収まるほどのスペースが自由に遊ばされている。

その空いた空間には屋敷から持ち込まれた荷物が整然と並べられているが、それらの占有する範囲は全体からすればほんのわずか。

部屋の中央に立ち尽くすスバルが大立ち回りを演じるのに、些かの障害にもならないだろう。

 

「どうしても、俺を通さないつもりか?」

 

唇が緊張に渇くのを感じながら、喉のひりつく感触を堪えてスバルは問いかける。

低く、震えるのを隠した声音だ。それに対して眼前の障害、スバルの行く手を遮る存在は両の手を広げ、扉を視界から隠して断固たる態度。

その姿勢に無駄だとわかっていながら、スバルは一縷の望みをかけて懇願の眼差しを受ける。刹那、こちらを見る双眸に動揺が浮かぶのが見えたが、それは彼女の職業意識の前に微塵の停滞も残さず霧散した。

 

「たとえそれがスバルくんの頼みであっても、ここは通せません」

 

行く手を遮る存在――レムは真っ直ぐにスバルを見て、はっきりそう断言した。

その頑なな態度に吐息し、スバルはおどけるように肩をすくめ、

 

「まぁ落ち着いて考えてみろよ、レム。俺はこうして置いてけぼりにされた身で、しかも別にでっかいツテとかそんなもんがあるわけでもない。つまり、この部屋を出たところで俺にできることなんてなにもないってこと。わかるよな?」

 

早口に言葉を重ねて、スバルは畳みかけるようにレムの警戒心を解しにかかる。彼女はそのスバルの言葉に「ええ」と可愛らしく微笑み、

 

「確かに普通に考えて、この部屋から出たくらいでスバルくんの望みが叶うなんてことはありません。そう易々と至れる場所ではないですし、仮に行けたとしてもそこからスバルくんの打てる手があるとも思えない」

 

「だろ?」

 

「でも、それはあくまでレムの常識に則った場合のお話です」

 

ぴしゃりと切り捨てて、レムは微笑みを崩さないままスバルを眺める。上から下まで、視線に舐められて背筋を正されるスバル。そして彼女は続ける。

 

「スバルくんの場合、どんな突飛な発想で目的を成し遂げようとするかわかりません。レムの想像が及ばないところで、どうにかする手段を見つけていないとも」

 

「お前のその信頼とも不信感ともつかない俺への思いは鬼がかってんな。俺ってばお前が期待してるほど常識の枠から飛び出せてないよ?」

 

「スバルくんがそう思うならそうなのでしょう。スバルくんの中では」

 

穏やかにレムの考えを訂正しようと語りかけるが、強固にスバルのイメージを凝り固めてしまっているレムにはどうにも通用しない。

なんにせよ、言葉で彼女を説得し、道を譲ってもらうのはかなり至難な状況だ。そうなると、思考の裏を突くなりで道を奪うしかないのだが。

 

「それはそれで難易度の高い話だよ。出だしでこれとか先が思いやられるぜ……」

 

ため息まじりに頭を掻きながら、スバルは思案げに目を細めてレムを見やる。

否、視線は彼女のその向こう――エミリアとロズワールがスバルを置いて出ていった、宿の扉のその向こう側へと向けられていた。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

「――ええ、お留守番!?」

 

朝食の席が終わり、部屋に戻って一息ついたところで、今日の予定を告げられたスバルは驚愕に声を上げさせられていた。

 

驚くスバルの眼前、室内にいるのはエミリアとレムの二人だ。

そして、スバルに冒頭の叫びを上げさせた当事者であるところのエミリアは腰に手を当て、「当然じゃない」とスバルを見下ろし、

 

「王都までスバルがきた理由、忘れてないでしょ?王都にいるスバルの知り合いの安否の確認と、スバル自身の体の治療。その約束なんだから」

 

「いやでもそのあたりは拡大解釈してこううまい具合に……」

 

「絶対にダーメ!本当に遊びじゃないんだから、部外者は入れられないの。レムだって連れていけないんだから」

 

いつにない剣幕で言いつけてくるエミリアに、昨日の落ち度があるスバルは反論を返す舌の滑りが悪い。助けを求めるように部屋の隅に立つレムに視線をやるが、青髪のメイドはその懇願に対して首を横に振り、

 

「さすがにこの場でスバルくんの味方はレムにもできません。ロズワール様のご意向でもありますし、エミリア様のご意見が正しいです。聞き分けてください」

 

「クソ、味方なしか!でも昨日の失態を思い出すとなにも言えない、悔しい!」

 

基本的にスバル贔屓のレムであっても、優先順位はきっちり弁えている。

昨日の失態――つまるところ、言いつけを破っての迷子事件があるため、スバルの王都における行動はかなり強めに制限がされてしまった。

この点に関してはスバルも言い訳の余地なく自分の手落ちと認めているので、ロム爺や果物屋の親父との再会が叶った今となってはさほど問題はない。思い返して、会いたい相手がむさ苦しい男連中ばかりだったのが自分で衝撃的だったが。

 

「いや、フェルトともまた会いたいと思ってたんだから問題ないはず。王都関係者が思い起こせば四分の三で男……トンチンカン合わせると七分の六だけどな!」

 

なお、再会したい相手にエルザを含めないため、女性の比率が増える要素が全くない。せっかくの異世界召喚ファンタジーで、男キャラフラグばかり立ててどうする。

 

「いいんだよ、メインヒロインフラグは立ててんだから……」

 

「またそうやってぶつぶつと、すごーくよくないと思うわよ」

 

メインヒロインであるところのエミリアにじと目で言われ、スバルはぐうの音も出ずに押し黙るしかない。そうしてスバルからの反論、および屁理屈がないことを見届けるとエミリアは満足そうに頷き、

 

「そんなに時間は……って言いたいところなんだけど、ちょっと今日はどれぐらいかかるかわからないの。だから、食事はレムと一緒に済ませちゃって。待ってたりとかしてると、きっと待たせすぎちゃうから」

 

「ふーんだ。エミリアたんがそんな意地悪言うってんなら、こっちにだって考えあるもんね。なぁ、レム。今日は二人で豪勢な食事でもしてやろうぜ!」

 

「いえ。今日のメニューはリンガの丸焼きにリンガのサラダ。リンガのジャムをふんだんに使ったリンガのパイ。食後にはリンガを絞ったジュースも用意していますよ」

 

「まさかのリンガ尽くし!?おどれ、あのスカーフェイス!!」

 

差し引き九個もリンガを持って帰ってきた自分の行動を棚に上げて、スバルは虚空に浮かぶ強面の果物屋の店主を幻視。いい笑顔でサムズアップする幻想に指を立てて決別し、こうなればとヤケクソ気味に歯を剥いて笑う。

 

「いいもんね。俺、果物でもリンガが一番好きだし!マジ、リンガナイトフィーバーだよ!二人で全部、がっつり頂いちまおうぜ!」

 

「いいえ、そんな。レムは痒いところに手の届く女中ですから、リンガ大好きなスバルくんのお楽しみを邪魔するようなことはしません。全部、スバルくんに差し上げます」

 

「お前、俺寄りに見えてたまに容赦なく俺を切り捨てるよな!?」

 

立場を弁えている、というより立場の利用の仕方を弁えている、といったレムの態度にスバルは絶叫。二人のコントじみたやり取りにエミリアは思案げな顔をしていたが、すぐに何事か振り払うように首を横に振り、

 

「とにかく、レムに一任しておくから。ロズワールからも言いつけられてると思うけど、しっかりね。――ホント、しっかりね」

 

「タメまで作って繰り返すあたり、俺ってばエミリアたんに超思われてるな!」

 

念を押すエミリアにスバルがサムズアップ。

すでに見慣れた彼の仕草にエミリアは、突き出されたその手に上から掌を被せる。ふいの接触にスバルは息を呑む。こうして直近で会話することにはだいぶ耐性ができてきているものの、たまの不意打ちには滅法弱いのだ。

エミリアの方はそんなスバルの変調には気付かない様子で、

 

「スバル。あまり多くは望まないから」

 

「う、うん……?」

 

「お願いだから、私に信じさせてね」

 

ぽつり、と懇願するように瞑目して言われ、スバルは一瞬、思考が停止する。

彼女の口にした内容を頭の中で咀嚼し、噛み砕き、飲み干して、きっちりと意味と意図について想像をめぐらせてから、

 

「あ、ああ!全然、超やるよ!俺、エミリアたんの期待に応える!そのために生きてるぐらいだよ!」

 

イマイチ、彼女がなにについて言っているのかわからないまま、条件反射的にその言葉を全肯定。とりあえず受け入れて、それから実行に移せばいい。

そんな若干のその場しのぎ感の否めないスバルの言葉に対し、エミリアは紫紺の瞳に憂いを浮かべて、

 

「うん。――信じてる」

 

そう、静かにこぼしていったのだった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

そして物語は冒頭へと戻ってくる。

 

エミリアとロズワールが王城へと向かい、宿屋に取り残されたスバルはレムの監視の下、しばしの自由時間を文字の書き取りに費やした。

 

ちなみに『イ文字』をほぼ制覇した現状、次の目的は『ロ文字』の習得に入っている。『イ文字』が日本語の平仮名に該当するとすれば、『ロ文字』はどうやらカタカナに該当するらしく、やや形が変わることを除けばパターンは『イ文字』と同様なので、こちらの習熟には前回ほどの時間はかからないという見込みだ。

 

そんな『ロ文字』の書き取りを始めて約一時間と半分――飽きた、というのは珍しく勉学を楽しんでいるスバルには正しくないが、じっとしていられなくなったという意味ではこの上なく正しい。

文字の学習はスバルにとって、異世界を自分に浸透させていくかのような実感があって悪くない感慨のあるものだ。それだけに毎日の課題に関しても、文句も言わずに打ち込めるだけの学習意欲を持たせてもらっている。

 

が、その意欲の天秤の反対に乗るものが、エミリアであるならば話にもならない。

立ち上がり、おもむろに部屋の外へ向かおうとするスバルを、そっと遮るレム。部屋の掃除、荷物の整理、スバルの学習の口出し&教師役――それらの仕事を一挙に行っていた万能メイドは、「ちょっとお花を摘みに」というスバルの発言から、その裏を完全に読み取って行動を妨害してきていた。

 

――即ち、宿屋を脱して城へ向かおうとしている目論見を。

 

エミリアとの約束を、反故にすることに対する罪悪感は少なからずある。

エミリアの不安――というべきそれは確かに的中しており、レムにその行動の監視を命じていった彼女の判断はスバルという人間をよく捉えていた。

そして、それらのことを理解していながら、じっと宿で待っていることがスバルにはできないのだ。

 

「王都に嫌な思い出しかないからってビビりすぎだとは思うんだが……」

 

以前にエミリアが王都を訪れた際、彼女がどんな苦難に遭ったのかはお察しの通り。

おそらくはお忍びで王都にやってきていたにも関わらず、徽章を狙った敵方によって彼女はその資格を、そして命すらも奪われかけた。

スバルがいなければ、その命運があの日に尽きていたことは明白。

 

――彼女との出会いの日を思い返せば、スバルは己の立場を意識せずにはいられない。

 

唐突に異世界に召喚され、そして目的と呼ぶべきものを何ひとつ与えられなかったスバル。表面上は能天気で楽観を装う彼だが、その内側がどうなのかというと――わりと軽率で無鉄砲で状況に任せる節がある。

つまるところ外身と中身が大体一緒の性質なので、今こうしてこの場にいるに至るまでの展開も場の流れに押し流されてきた感は否めない。

否めないが、

 

「流されるタイプの人間なりに、泳ぐ潮流は選んできたつもりがあるんでな」

 

この場に流されてきたことは否定しないが、この場に流れ着かない選択肢もスバルは選べた。それでもここに今いるのは、スバルなりに選んだからだ。

 

目的もなく、異世界に落とされてやってきたスバル。

そんな立場の彼だからこそ、なにもない現状を開き直ってこう考えている。

 

目的が与えられていないのだから、その目的は自分で決めればいい。

 

「エミリアを、助けよう」

 

彼女に救われたから、というのだけが理由ではない。

エミリアの力になりたいのは、スバルの心の底から溢れてくる理由なのだ。

 

「つまりそう、ラブパワー」

 

「今、なんて言ったんです?」

 

「いやごめん、なんかマジになってもう一回言うのはちょっと恥ずかしい」

 

小首を傾げてレムに問い返されて、スバルは今のひとり言を反省。それから彼は咳払いして気持ちを切り替え、眼前の障害突破に頭をフル回転させる。

 

ここを脱したところで、城に乗り込む手段なんてビタ一思いついていない。が、とにもかくにもここを出なければ話にならない。

そのあたり、流されてきただけでなく勢いにも任せるのがスバル流。

 

「とはいえ、状況の悪さは変わらないけどな」

 

眼前、両手を広げて仁王立ちするレムの突破――単純に考えて無理ゲーである。

身体能力の差は歴然で、スバルのコンディションも絶好調とはいえない。裏を掻く作戦の大半は圧倒的な能力差に埋められ、その力の差を覆せるような特殊能力もスバルには備わっていない。

いっそシャマクぶちかまして煙幕作戦で逃げ出すのも考慮したが、ボッコの実の持ち合わせがない現状では煙を吐いて昏倒するのがオチだ。ボッコの実の使用自体、すでに屋敷の面々によって固く固く禁じられてしまっているし。

 

そんなわけで八方ふさがりのスバル。別に頭の回転の鋭さ速さがチートがかっているわけでもないスバルにとって、思いつく手段はもうひとつしかない。

それは――、

 

「う……まさか、これは……ッ!」

 

「スバルくん?」

 

ふいに顔を青ざめさせて、額に手をやるスバルの体が大きく揺らめく。

膝が震え、息を荒げるスバルの変調にレムは慌てて手を伸ばし、その崩れかける肩を優しく支えると、

 

「どうされましたか、スバルくん。まさか自分の発想の無謀さに絶望して……!?」

 

「お前の俺評価って数値化するとどうなってんの!?と、いかんいかん……うぅ、苦しい……」

 

支えられながら胸を押さえ、スバルはついにその場に膝をついて苦しみ喘ぐ。レムはそんなスバルの側に同じように膝をついて寄り添い、

 

「頭じゃなくて今度は胸だなんて、大丈夫ですか?」

 

「あれ、頭だっけ。いや胸が苦しい……これは、アレだな……」

 

「底の浅い雰囲気がちょっと出ていますけど、原因がわかるんですか?」

 

浅はかなスバルの苦悶に、かなり厳しめなレムの心配が飛ぶ。それを聞きながらスバルはレムの襟を縋るように掴み、その顔に顔を近づけて唇を震わせ、

 

「――ま」

 

「ま?」

 

「――マヨネーズ、欠乏症だ」

 

他に手段なかったのかよ、とか二度ネタかよ、と胸中で己に突っ込み。

しかし、一度口にしてしまったからには最後まで押し通す。これがナツキ・スバルとしての曲げられないポリシー。つまらない男の意地である。

 

「マヨネーズが足りないマヨラーに起きる禁断症状だ……レムのおかげで緩和してたんだが、屋敷を空けて一日……ここまで進行が早いだなんて」

 

「そんな……いったい、レムはどうすれば……?」

 

「マヨネーズを作ってくれ……マヨチュッチュさえできれば、俺の命も救われて……うぅ、苦しい……」

 

ついには体を起こしているのも耐えられないと、スバルはレムに取り縋りながらその場に横倒しになってしまう。膝の上にスバルの頭を乗せて、レムは苦しむスバルの額を撫でながら「マヨネーズ」と小さく呟き、

 

「タマゴと油と、もろもろを用意してこないと……でも」

 

「苦しい……死んじゃう。頼む、レム。お前が……お前だけが、頼りだ……」

 

「――レムだけが頼りですか」

 

苦しむスバルを見ていられない。が、目を離した隙になにがあるかわからない。

自分の気持ちと命令の両天秤にかけられて揺れていたレムだったが、その最後のスバルの言葉が決定打になったようだ。

彼女は拳を固めて「レムだけが!」と力強く呟くと、

 

「わかりました!このレムに、レムにお任せください!」

 

「あいだっ!そしてうげばっ!」

 

急に立ち上がるレム。そのせいで膝から落ちて後頭部を打ち、さらに気合いの入ったレムの踏み込みに肋骨が踵にやられる。

そんな自分の暴挙に、意気込みMAXのレムは気付いた様子がない。そのまま彼女は素早く身支度を整えると、

 

「では、レムはすぐに材料を集めてきてマヨネーズ作りに入ります!スバルくんは床でなんて寝てないで、ちゃんとベッドで休んでいてください」

 

「この悶絶は……マヨネーズとは……関係が……ッ」

 

「え?はい、わかってます。ちゃんとレムはスバルくんのために頑張りますよ。そしてその暁には……ふふ、楽しみにしています」

 

悶絶するスバルの言葉を自己解釈全開で受け取り、異常に可愛らしい笑顔を残してレムが部屋を飛び出していった。

痛みに胸を押さえながら、スバルはその背中を見送り、目的の達成を確認。確認はしたが、しばしの間はアクシデントで動き出すことができない。

ようよう痛みが治まり始め、さりげにたんこぶの浮かぶ後頭部をさすりながら立ち上がると、スバルは床に寝ていた体をはたきながら首をめぐらせ、

 

「わ、我ながら頭の悪い作戦だったが通ったか。ちょっとレムの将来が心配になるけど、ここはあいつのちょろさに救われたってことにしとこう」

 

代わりに犠牲になった肋骨と後頭部に関しては必要な犠牲だ。

痛みと引き換えに道が開けたなら、この場はとりあえず良しとすべきだろう。

 

「あとはとりあえずレムに書き置きだけ残して、とっとと逃げよう。ドアから出てってばったり遭遇とか話にならんし……」

 

テーブルの上に走り書きした紙を残し、スバルは窓を開け放って下を見る。部屋は二階なので、サッシなどを掴んで降りればそれほど危険な高さではない。窓下は人気の少ない路地なので、降りるのを見られて下着泥棒扱いされる危険も低かろう。

 

「――んじゃま、行くとするか。伊達にガキの頃、好き好んで自宅のベランダから侵入かます親ドッキリにはまってたわけじゃねぇぜ」

 

配管などを伝って家屋の上り下りするのは得意分野。鉄の格子がはまった窓を、軟体でうまいことくぐって通るのも必要にかられて得た技能だ。『ラバーメン』と複数形で勝手に名付けていた技能だが。

 

そんな記憶を掘り起こしながら手を窓枠にかけ、スバルはわりと躊躇なく、王都の路地へとその身を滑り落としていった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――スバルが部屋の外へそっと抜け出した、その直後のことだ。

 

「……それにしても、さすがにあんな手に引っ掛かると思われていたのはレムとしても少しショックです」

 

誰もいない部屋の中央で、戻ってきたレムがテーブルに触れながらぽつりと呟く。

触れたテーブルから書き置きを回収するレム。そこには走り書きの読みづらい『イ文字』で『ちちきとくすぐかえる』とだけ記されている。

パッと見わかり難い高度な冗談の類だと、スバルの人となりから彼女は判断。

 

「なにも窓から降りるなんて危ない真似しなくたって、部屋を出るのを止めたりしなかったのですけど」

 

廊下の奥に身をひそめ、スバルが扉から出てくるのを見届けようと思っていた心遣いの結果がこれだ。部屋の中から人の気配が消えたのを感じて戻ってみれば、開け放たれた窓と書き置き――わざわざ危険な道から出ていったのは明白だった。

 

「……もう、スバルくんたら仕方のない人なんですから」

 

呟くレムの表情は、その言葉とは裏腹にどこか楽しげでもあった。

彼女はスバルの残した書き置き。内容はともかく、自分に宛てられたことには違いないそれを丁寧に折り畳むと、メイド服の内ポケットにそっと大事にしまう。

しばし、その手紙を入れた胸に表から手を当て、目をつむって何がしかの思案に沈むレム――ひとしきり堪能し、満足げに吐息して目を開けた彼女は、

 

「――でも、ロズワール様はなにをお考えなのでしょう」

 

小首を傾げ、頬に手を当てるレムは主からの命令を反芻して疑問を口にする。

彼女が今朝方、目覚めたばかりの主に命じられた内容は次のようなものだ。

 

即ち、『ナツキ・スバルの行動の邪魔をしないこと。たとえ、エミリアになにを命じられたとしても』だ。

 

それになんの意味が、と問い返すことは静かに拒絶された。ともなれば、レムは使用人の立場として無言でそれに従うしかない。エミリアからの命令に背くことに対する罪悪感は多少あったが、彼女にとっての命令の優先度はロズワール>エミリアであることは確か。一部、例外でスバルがどこかに入るというところだが。

ともあれ、

 

「――無事に、戻ってきてくださいね、スバルくん」

 

無策に彼が駆け出していった、などとは思っていないが、それでも自分の身の安全を後回しにして、誰かのために走り出すことを躊躇わない少年だ。

レムにできることはといえば、彼の願いが成就することを祈ることと、その願いの成就に至る過程で彼が必要以上に傷付かないことを願うだけ。

 

――前者はレムの買いかぶりすぎで、後者はレムが美化しすぎ。

 

総じてスバル評価が高すぎるレムは彼が出ていった窓を閉じると、部屋に振り向いてそれまでの葛藤を忘れるように首を振り、女中としての仕事に没頭する。

 

こうしてナツキ・スバルは誰の掌の上にいるのかも定かでないまま、二度目の王都に解き放たれることとなったのだった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

「っつーわけで、当てもなく走り出したナツキ・スバルくんなのでした」

 

無事に王都に舞い降りたラバーメンことスバルであったが、その胸中はぶっちゃけた話――さっぱりなにも考えていないに等しい状態であった。

 

単独で城に向かう方法などあるはずもなく、そもそもスバルひとりでは城どころか貴族街へ向かう途中の詰め所を突破できる可能性もない。

信頼と実績のシャマク頼りで詰め所の突破を考え、それをやらかすと道端で煙吐いて倒れるだけだという結論の繰り返しで却下。

シャマク万能説を押しすぎるのも問題である。

 

「シャマクはわりと万能感あっけど、純粋に俺の力量が足りてねぇんだよなぁ。せめて魔法使うときの使用マナ量調節できれば話が違うんだが……」

 

魔獣騒ぎ終結後の屋敷での日々で、魔法の使い方についての講釈をロズワールから少しだけ受けている。

宮廷魔導士としての彼の見立てが確かならば、スバルが一端の魔法使いと同等のマナの扱いを覚えるのにかかる期間は約二年。スバルの才能の限界まで鍛えて、超二流の魔法使いとして完成するのに二十年。そしてそもそも、酷使しすぎた肉体が以前の状態に戻るまでに半年以上かかる、というのだ。

 

「魔法使わずに切り抜けるなんて無理だったし、別に後悔してねぇけど」

 

次にゲートを酷使した場合、スバルの肉体がどうなるかはわからないとのことだ。

となれば当面はシャマク自体を選択肢から消しておくしかない。もともと持ち合わせていなかった選択肢が消えるだけのことで、さほど手痛いわけではないが。

 

「魔法が使えるってロマンとお別れは寂しい、ってか残念無念だけど」

 

ともあれ、スバルにとっての感慨はそんなところだ。

ラムとレムの姉妹、ロズワールが責任を感じているほど、この事態に関してスバルは大して重きを置いていない。もともとマナや魔法との関係が薄かったスバルにとって、なかったものがなくなったのは実感を得辛い喪失感であるからだ。

そのことが尾を引いてくるのは、少なくとも今ではなかった。

 

「ってなわけで、魔法的なパゥワに頼らずにどうにか城に上がらなきゃいけないって話になってる。知恵とかコネとか、なんでも貸してくれていいぜ、お願いっ」

 

「……それ聞いて儂はどうしたらいいんじゃ、まったく」

 

「それ以前に人の店の端っこで危ねえ話すんなよ。こちとらお上の目につかない真っ当な商売してるってのに、変な噂立ったらどうしてくれやがんだ」

 

「真っ当な商売ったって、店主の面構えがカタギじゃねぇのに今さらなんだよ。こんな裏町のジジイと繋がってる時点で、噂に関しちゃもはや無理だろ」

 

「口の減らねえガキだな、お前も……」

 

スバルの無礼千万な発言に渋い顔をするのは、額から顎にかけて縦に白い傷の入るスカーフェイス。そして、筋骨隆々な巨体を狭い店内に押し込む禿頭の老人だった。

自分含めて汗臭さが増したような錯覚を感じながらスバルは「それにしても」と吐息して、

 

「ロム爺と繋がってる店ってのがオッサンの店だったとは。世間は狭いっていうか、王都は狭いっていうか……類は友を呼ぶっていうべきか?」

 

「「一緒にするな」」

 

「声揃えて反論すんなよ。俺の知ってる美少女メイド姉妹と違って、ハゲと傷面じゃ誰得アクションすぎるだろ」

 

互いに顔を見合わせて、嫌な表情を交換し合う二人。ちなみに店主の店はきっちり今も営業中なのだが、スバルとロム爺の存在と無関係に客の立ち寄り率は低い。

商い通りでもそれなりの立地条件のくせに、店主自ら顔立ちでハードモードにし過ぎであった。縛りプレイ推奨――スバルにも親近感の湧く状態だ。

 

「なんだ、オイ。どうして俺の肩に手を置いてる」

 

「いやぁ、お互いにもちっとイージーモードで生きていきたいもんだよなぁって類友に同情をさぁ。神様ってのは平等じゃねぇよな」

 

「お前の悲観に俺を付き合わせんな。お前と違って俺は嫁も娘もいる。勝ち組だ」

 

「嘘だドンドコドーン!」

 

類友にまさかの裏切り発言をされて、スバルはショックで言動が狂う。

後ずさるスバルは今の発言の真意を問おうとロム爺に顔を向ける。禿頭の老人はスバルの震える黒瞳にしっかりと頷き返し、

 

「事実じゃ。しかも美人の嫁と可愛い娘」

 

「クソがぁ!こんな仕打ち、この世界にきて初めてだぞ、コラァ!!」

 

異世界召喚されて以来の憤激。

腹の底から込み上げてくるどす黒い感情に任せるままにスバルは店主に飛びかかり、即座に額に剛腕の反撃を受けて返り討たれる。

 

「俺は……俺は無力だ……ッ」

 

「場面が場面ならともかく、今この場で言っても負け惜しみ以外の何物でもないの」

 

八つ当たりして反撃に沈んだスバルを見下ろしながら、ロム爺は己の顎に触れつつ思案げな顔をする。

呼び出された時点では、てっきりフェルトに関することだと嬉々として参じた彼だ。その内容がスバルの悪巧みへの協力要請なのだから怒って当然なのだが、それを気にせず一緒に悩んでくれるあたりに老人の人の好さが溢れ出ていた。

 

その厚意に甘えてしゃぶって利用することに罪悪感を覚えないでもないが、その感慨を後回しにして自分本位を貫けるのがスバルの強み。

そんなわけで、

 

「改めて、意見を乞う。どしたら、城に穏便に忍び込めるかな?」

 

「その発想のまま重犯罪でも犯せば、勝手に城の地下牢にでも幽閉されて目的達成するんじゃないか?そのまま首と胴がサヨナラする羽目になるだろうが」

 

「もっと建設的な意見出せよ。だから流行らねぇんだ、この店も」

 

「そう言うでない、小僧。カドモンの店が流行っとらんからこそ、こうして密談もできる。そう思えば悪いことばかりでもあるまい。なあ、カドモン」

 

「お前ら二人してウチの店に恨みでもあんのか?」

 

じと目で睨みつけてくる店主――カドモンの視線にスバルとロム爺は顔を見合わせ、肩をすくめて「まさかぁ」と否定し合う。

そんな二人の腹の立つ仕草を見やり、カドモンは苛立たしげに顔の傷を指でなぞりながら、

 

「城に潜り込むなんておっかない真似やめとけ。王様不在の状態だから、今はそこまで城の重要度は高くないが、忍び込んだの見つかってお咎めなしって話じゃねえぞ」

 

「まあ、リスクの高さは想像通りじゃろうな。小僧、見つかったら死ぬぞい」

 

カドモンの言葉にロム爺が同意を示す。

二人が出した結論は、スバルの行動に対する諦めの進言であった。もともと二人には無理をする理由がないのだからそれも当然だが。

 

「ま、そう言われちまうと俺にも無理する理由なんて明確なのはねぇんだが……」

 

これまでの時間と違って、スバルが命を賭けるほどの理由が今はない。

このまま堂々と宿に戻って不貞寝して、レムの作ったマヨネーズをチュッチュしながらエミリアたちの帰りを待つ――それも選択肢のひとつだろう。

むしろそれをした方が、エミリアたちが喜んでくれるのは間違いない。

間違いないのだが、

 

「どうして俺は、こんなに必死こかなきゃいけないんだろうな」

 

エミリアの側に、スバルは自分がいなくてはならないのだと半ば使命のように思い込んでいる。

それが彼女にとってどれだけ助けになるのかはわからない。わからないが、自分がいれば彼女が助けが必要な機会を、活かせるかもしれないと思うのだ。

側にいなくてはそれを活かす機会も得られない。それならば――、

 

「独りよがりでも一緒にいたいって、そう思うんだよな……」

 

少し側を離れているだけで、身を焦がしそうなほどの恐怖がスバルを蝕む。

それは自分の命と天秤にかけて、なおその足を踏み出させるに足る理由であった。

 

「まあ、王都って場所の不吉なジンクスが俺を突き動かすってのも事実だが」

 

王選関係の黒い予感の絶えない場所だけに、スバルの不安は尽きる気配がない。

自分のいない場所でエミリアが害される可能性――それがもう少し否定できるような場所ならば、ここまでスバルが焦燥感を得る理由はなかったと思うのだが。

 

「隣にいれなくてもいいから、せめて顔が見れる位置にいたくてな。どうにかなんねぇかな、そのあたり」

 

「そう簡単にいくもんでもあるまい。詰め所を抜けるだけなら賄賂の多少弾めばいけるじゃろうが、城までとなるとな……」

 

スバルの態度に感銘を受けたわけでもないだろうが、諦めなさそうな姿勢だけは読み取ったのだろう。放っておいて暴走した挙句、捕縛されて死罪になって終わる――という展開になるのも後味が悪いのか、ロム爺も真剣に城への侵入計画に加担し始める。かなり共犯者としての立場を自覚なく強固にし始めるロム爺に比べ、カドモンはスバルとの付き合いがそれほど深いわけでもない。

彼は真剣に意見を交換し合う二人を呆れた態度で横目にしながら、

 

「どっちにせよ、ウチに迷惑のかからん形に収めてくれや」

 

と、投げやりだ。

真剣に没入する理由に欠けるのだから無理は言えないが、スバルはそんなつれない彼の横顔に拗ねるように唇を尖らせ、

 

「そんなこと言うなって。客こないのにそれでも商い通りで一生懸命店を切り盛りする。そんなオッチャンの根性入った生き方の中からヒントだけでも」

 

「言っとくが、今日はちょっと調子悪いだけで、もちっとウチの店は流行ってっからな?……わけわからん小細工するより、詰め所で事情話してきたらどうだ。お前の連れの子は城にいるんだろ。……あれ、どんな顔してたっけか」

 

真っ当な意見を口にして、それからカドモンは記憶を探るように眉を寄せる。

どうやらその記憶の中に、うまくあの銀髪の美少女の姿が浮かんでこないらしい。認識阻害の術式で編まれたフードの威力、それを目の当たりにした結果だ。

ともあれ、彼の口にした真っ当な意見に従う選択肢は残念ながらとれない。

 

「その手段だと、エミリアたんにばれること請け合いだかんな!こっそりと陰に日向に見守って、さも何事もしてませんでした風を装うのが理想。題して『縁の下の超力持ち俺』作戦」

 

「なんじゃ、その隠れてるようで自己主張の激しい作戦名」

 

「面倒くせえな。じゃ、城に運び込まれる荷物にでも紛れ込んでみるか?ちょうど今日は商会から城に食料送る予定があるから、運が良ければ……」

 

話のタネにでも、というような素振りでカドモンが笑いながらそう提案する。が、その傷有りの表情が強張った。

その情報を耳にした瞬間の、スバルの双眸が輝くのを見てしまったからだ。

彼は自分の失言を恥じるように口を塞ぎ、それから掌を差し出して「今のなし!」と発言しようとしたが、

 

「その意見――YESだね!」

 

歯を光らせてサムズアップし、いい笑顔でスバルがウィンクする方が、それよりもずっとずっと速かった。

 

無謀を嘆くようにロム爺が空を仰ぐ。

降り注ぐ日差しがその禿頭を、白く淡く光らせていた。