『温もりの名前』


 

なんのかんの言っても、結局は自分の性根は矯正されていない。

目の前に問題があるとわかっていても、それが解決手段であるとわかっていたとしても、それが痛みを伴うとわかっていれば尻込みしてしまう。

 

『聖域』のときもそうだった問題、それと直面してガーフィールは考える。

結局、自分は狭い場所で吠えていたときと、なんにも変わっていないのではと。

 

「あ!ゴージャス・タイガー!」

 

「おォ……って、危ねェよ!」

 

自宅を訪れたガーフィールを見て、少年がパッと表情を明るくする。

小さい体を思いっきり使って駆け寄ってくる姿に、ガーフィールは危なっかしさと安堵感を同時に覚えて、その体を受け止めた。

 

「頼むッからちゃァんと足下見て走れッてんだよ。転んで痛い目ェみたら馬鹿みてェじゃねェか」

 

「おー、転ぶと痛いもんな?ミミもちっさい頃、よくすっ転んだ!んで、そのたんびにヘータローが痛そうな顔してたー。でも、ミミはあんましだった。不思議!」

 

などとミミは無邪気に笑っているが、それは不思議でもなんでもなく、ただ単に見ていられない弟が痛みと傷を引き受けていただけだろう。

甘やかし過ぎた結果、大きくなっても転びかねない不注意な姉の完成だ。

ともあれ――、

 

「あれッから、少しァ家の方は落ち着いたかよ?」

 

「うん、大丈夫。おかーさんとおねーちゃんも、落ち着いたよ?」

 

「……そォかよ」

 

少年――推定、弟の頭を撫でてやり、ガーフィールは大きな邸宅を見上げる。

ガーフィールにとって、複雑な心情をもたらす場所だ。

 

トンプソン邸では、一家の大黒柱であるギャレク・トンプソンは長らく不在だ。

都市庁舎に勤めていて、復興の忙しさのあまり家に帰れていない、というのであればまだ救いはあったが、残念ながらそうではない。

 

ギャレク・トンプソンは、人の身を失い、今やその姿を黒竜に変えられている。

その事実はすでに、ガーフィールが自ら確認済みだ。

 

黒竜に変わったギャレクだが、発声器官は健在であったため、言葉を交わすことは可能だった。その点に関しては、庁舎にいた他の職員よりずいぶんマシだったろう。

蝿に変えられた人々に至っては、言葉どころか意思疎通すらままならなかった。ただ、それが幸いであると、そう考える人も少なくない。

 

もしも蝿に変えられた人々と言葉を交わせれば、その変貌に絶望した彼らがどのような願望を口にするか、それは容易に想像がつく話だからだ。

 

「ねえ、ゴージャス・タイガー。おとーさんは、いつ帰ってくるのかな……」

 

「――――」

 

「ちゃんと、帰ってくるよね?」

 

不安げにする弟の頭を、ガーフィールは再度、掌で乱暴に撫でてやる。

ここで根拠もなく、ただ励ますための言葉を口にすることは簡単だ。だが、それをしたところで、ガーフィールの言葉には熱がこもらない。

そして、その薄っぺらな言葉が少年にどんな傷を残すかと考えると、軽はずみなことはガーフィールにはできなかった。

 

これで少年が、縁も所縁も薄い相手であれば、無責任に励ましたのだろうか。

そうでないから、励ませずにいるのだろうか。わからない。

 

「フレド?お客様をいつまで外で……ぁ」

 

「……よォ」

 

そうして少年と話し込んでいると、家の中から金髪の少女が顔を見せた。

少年の姉であり、こちらもガーフィールの推定、妹だ。

 

少女はガーフィールに気付くと、一度は表情を明るくして、すぐにまたバツの悪そうな顔をしてみせる。コロコロと表情の変化があるところは、常ならば可愛らしいと評することもできたが、今はその複雑な内心が垣間見えてただ痛々しい。

 

「ま、またわざわざうちまできたわけ?ゴージャス・タイガーも、ずいぶんと暇人なのねっ」

 

「あァ、ちっとばかし今ァ休息中ってやつでよ。お前らの顔が見たかったんだ。つっても、歓迎されてなきゃすぐに引っ込む……おい」

 

「ガーフ、ちゃんと相手の顔見てしゃべんの!」

 

弱気な顔を背ける妹に、ガーフィールもまた及び腰だ。が、顔を逸らして無理強いしない意思を告げると、今度は背後のミミに腰を抓られる。

それで少女の方に向き直れば、なるほど妹はどこか泣きそうな顔だ。

少なくとも、帰れと遠ざけられてはいないのだろうと感じる。

 

「母ちゃん支えて、弟の面倒も見て……姉貴ァ大変だよなァ」

 

「――!そうっ、そうなのよ。だから、えっと、ちょっとぐらいはウチが話し相手になってあげてもいいわ。今さら一人増えても変わらないから」

 

「一人じゃなく、二人いるー!」

 

「今さら二人増えても、変わらないからっ」

 

顔を真っ赤にして怒鳴る少女に、少年とミミが期待の顔でガーフィールを見る。幼い期待を三つも向けられて、それを無下にできるほどガーフィールは酷ではない。

むしろ、今の心境が不本意なだけで、ガーフィールはそもそもこうした視線に応えるのは大好きだ。それが自分の弟妹ともなれば、まぁなおさら。

 

「じゃァ、ちっと上がらせてもらわァ。母ちゃんに迷惑がられたら、すごッすご退散させてもらうがァよ」

 

「そんなこと……」

「ウチのお母さんに限ってありえないわね」

 

顔を見合わせる姉弟がそう言って、やけに自信満々に笑ってみせる。

それでもって実際、その通りだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「ごめんなさい。せっかくきてくださったのに、おもてなしの準備もちゃんとできてなくて……もう少し、私の要領が良ければよかったんだけど」

 

「構わねェよ。そもそも、急に面ァ出したのァこっちだかんな」

 

「そんな不安そうな顔されなくても、迷惑だなんて思いませんよ。こうしてお時間作ってきてくださるの、とても心の支えになっていますから」

 

「――っ」

 

押し隠した内心をすんなり暴かれて、ガーフィールの喉が凍る。

しかし、一方でそれをしたリアラの方は何の悪意もない。当然だ。リアラは――母は自他問わず、悪意とは本当に無縁の人だったのだから。

記憶をなくしていても、そのあたりは変わらないのだなと、ガーフィールは彼女と接していくうちに感じるようになっていた。

 

「……それッにしても、家の中が妙に閑散としてやがんな」

 

「んー、そいえばそんな感じー?もっと前きたときはなんか色々ごちゃっとしてたのに、きれーに片付いた感?」

 

手持無沙汰に家中を見回していると、ソファの上で弾むミミが同意する。

またしても一家のリビングに招かれたガーフィールとミミだが、テーブルにお茶の配膳をしているリアラが、二人の感想に小さく笑った。

 

「ふふ、よくお気付きですね。私は毎日、過ごしてる家だからかもしれませんけど、あんまり違和感がなくて……」

 

「そんなわけないじゃない。ウチはすごい変な感じだもん。お母さんがちょっと気にしなさすぎるのっ」

 

「おねーちゃん、もう、何度もうるさい」

 

「なんですって!?」

 

唇を尖らせた弟の言葉に、姉が怒髪天をつく勢いで怒って追いかける。

バタバタと家の中を騒がしく走り回る姉弟を視界の端に入れながら、ガーフィールはどういうことかと今の会話の真意を目で問うた。

 

「――?」

 

「あー、いや、今のァどういう意味だ?やっぱし、なんかあんのかよォ」

 

目で問いかけても無駄だったので、改めて言葉でちゃんと問いかける。

するとそれを受け、リアラが「ああ」と手を叩くと、

 

「難しいお話じゃありませんよ。今は都市のみんなで、力を合わせて支え合わなくてはいけないときですから。……家財の一部は困っている人に差し上げたり、ちょっと蓄えを放出したり、そのぐらいのことです」

 

「……それで、色々物がなくなってんのか」

 

「元々、この家には物が多かったですから。物持ちがいいというより、私が色々と捨てられない性格なのが悪かったんですけど」

 

年甲斐もなく舌を出すリアラだが、事はそんな簡単な話でもあるまい。

無論、助け合わなくてはならないという建前は存在する。しかし、トンプソン家はまた少し事情が別だ。なにせ、一家は大黒柱を――父親を欠いている。

そんな環境ではむしろ、彼女らは助け合うならば助けられる側だというのに。

 

「夫は……ギャレクは、すぐに帰ってきます。私は信じています。ですから、そんな風に気遣ってくださらなくても大丈夫なんですよ」

 

「――ッ!けッどよォ」

 

「私、昔から思っているんです。不安がれば不安がるほど、幸せってものは手の中からこぼれ落ちていくんだって。昔っていっても、十年ちょっとの話ですけど。私、その頃から記憶がなくて……あ、驚かせてしまいましたか?」

 

「……鉄板ネタかもしんねェけど、悪ィが先に旦那に聞いてた」

 

「あ、そうですか。……もう、あの人ったら」

 

記憶喪失は他人を驚かせる常套句だったらしく、通用しなかった事実にリアラが少しだけ残念そうな顔をする。ずいぶん前向きな記憶喪失の使い方だとは思うが、実際に知らないタイミングで言われていたら、ガーフィール的には大惨事だったろう。

今でこそ少しはまともに受け止められている気はするが、それも考える時間と、色々な人の手助けがあっての結果だった。

 

そして何より、記憶喪失の話題を振られたことより印象的だったのは、記憶をなくしたはずの母の考え、その根底の部分に変化がないことだ。

――明日はいいことがあるかもしれない、それが母の行動の原点だったから。

 

「何もなかった私に、この十余年を与えてくれたのはギャレクです。空っぽの私を今の私にしてくれて、可愛い娘と息子まで授ける機会をもらって……それで私が、ギャレクを信じられなくて、どうするんです?」

 

「――――」

 

「ですから、必要以上に気遣ってくださらなくても大丈夫です。強がりでもなんでもなく、私はギャレクを信じていますから。……別にギャレクが嫌がらないなら、私はあの姿のまま帰ってきてくれてもよかったんですけど」

 

「いや、さすがにそいつァ、旦那がいいって言っても他の奴らが止めんぜ」

 

「そうですか?あれはあれで格好いいと思ったんですけど……」

 

黒竜の姿に変わった夫に対して、リアラが明後日の方向のフォローを入れる。

とはいえ、姿形が変わっただけで、ギャレクには言葉を交わす知能も残っていた。それでも夫婦で話し合い、冷凍睡眠を決めたのは二人の意思だ。

聞き耳を立てるような無粋も、実際の凍結の現場を見にいくようなことも、ガーフィールはしなかった。だから、リアラの心はリアラが自分で固めたものだ。

 

「……あんたァ、強ェんだな」

 

「ええ、もちろんです。私、二人の子どものお母さんですから」

 

えへん、と胸を張って微笑むリアラ。事実としては二人ではなく、四人の母親なわけだが、なるほど確かに強い、強すぎる。

ガーフィールの知らなかった、殴り合いとは別次元の強さだ。スバルやオットーに通じるそれが、記憶をなくした母の中にもある。

きっと、ガーフィールが鍛えられていない部分、その強さが目の前にある。

 

「そうそう、実は私からもゴージャス・タイガーさんに聞きたいことがあるんです」

 

遠い眼差しを浮かべるガーフィールに、ふいにリアラが手を打った。

そのあんまりにいつもの調子の物言いに、ガーフィールは何気なく「あァ」と頷き、

 

「なんッでも言えよ。つっても、正直、俺様ァあんまッし話し合いの重要な部分にゃァ関わっちゃいねェかんな。大した話ができッとは思わねェが」

 

「いいえ、そんな風な話じゃありませんよ。そんなことじゃなくて、ゴージャス・タイガーさんのことです」

 

「俺様の?」

 

「はい。――ゴージャス・タイガーさんはどうして、こんなに私たちのことを気にかけてくれるんですか?それが私、気になってしまって」

 

油断していたところに、予想外の一撃が放り込まれてしまう。

ガーフィールの牙が文字通りに震えて、していたはずの覚悟がひび割れた。

 

「――――」

 

目の前ではリアラが、横ではミミが無言でガーフィールの応答を待っている。

その二人の視線を浴びながら、ガーフィールの思考はぐるぐると回った。

 

ここにミミに連れてこられた時点で、ある程度の覚悟はしていたはずだった。

ただ、その覚悟が結局、曖昧なものだったのだと今は思い知らされている。

 

リアラに、なくした過去の記憶を伝えたかったのか。

せめて二人の弟妹に、自分が兄なのだと名乗り出たかったのか。

それともギャレクの件の気遣いだけ伝えて、早々に立ち去るつもりだったのか。

 

今となってはもう、どうだったのか思い出せない。

 

「お、俺様があんたらのとこに顔出すのァ、ちっとばかし縁があって、それから目が離せねェなって不安になっからだ。あんたらはこう、抜けてッだろ?」

 

「まあ、ひどい。その通りですから何も言えませんけど」

 

「おー、抜けてんの?何が抜けてんの?あ、毛?あんねー、ミミも火季になると毛とかちょー抜けんの!でも氷季はもふってなる!マメチシキ!」

 

たどたどしい言い繕いに、リアラとミミがらしい反応を見せる。

それが見て取れると、露骨な安堵がガーフィールの胸中を支配した。二人の性格から考えて、これで余計な追及は入らないはずだ。

ガーフィールは今の、このなんとも言えない感慨を表に出さないまま、ひとまずこの場を離れることができる。時間、そう時間が必要な問題だと思うのだ。

こういったことは冷静に、時間を置いて正しい答えを模索するべきだ。それこそフレデリカに、姉に確認を取って、それからそれから――。

 

「――ぁ」

 

「大丈夫ですか?ゴージャス・タイガーさん」

 

「なんで……」

 

「なんでだか、あなたが心細そうな、小さな子どもに見えてしまって」

 

愕然となるガーフィール、その頭に白く細い指が触れている。

リアラが身を乗り出して、ガーフィールの頭を撫でていた。その手つきの柔らかさはひどく優しくて、まるで愛しい我が子にするような慈愛に満ちていて。

 

覚えていないはずのリアラの記憶と、忘れかけのガーフィールの記憶が重なる。

いつかこうして、リアラ――リーシア・ティンゼルの腕の中に抱かれたまま、頭を撫でられたことがあったのだろう。

そのときの肉体的な記憶が、この瞬間に蘇り、ガーフィールの心を縛り付ける。

そして堪えようと、そう思う間も与えられず、感情は決壊した。

 

「……母さん」

 

「――――」

 

「母さん……母さん、母さん……ッ!」

 

撫でる指先が触れたまま、ガーフィールは目の前のリアラをそう呼んだ。

涙目になり、声が震え、小柄な体がますます小さいものに見えるほど、ガーフィールの様子はか細く、弱々しいものだった。

 

当たり前だ。

どれだけ強がろうと、どれほど足掻こうと、母の前では誰もが子どもなのだ。

母親の前でどんなに虚勢を張っても、子どもの意地っ張りでしかない。

 

「俺様ァ……俺は、母さんに……ッ!」

 

言いたいことが、山ほどある。言いたいことは、星のようにある。

伝えられないと、そう思って諦めてきた数々の想いが、ガーフィールの中では今も燦然と輝き続け、得られた機会に歓喜している。

母の腕に抱かれ、許されて、安寧の中で叫ばれたいと、欲している。

 

「……ガーフィール、だよ?」

 

「――――」

 

涙目になって、目を伏せて、声を絞るガーフィール。

その隣でふいに、ミミがガーフィールの名前を言葉にした。それが誰に向けたものなのか、ガーフィールにはわからない。

ただ目の前で息を呑む音と、それから頭に触れていた指先が離れる感覚。

 

「――ぁ」

 

指が遠ざかり、母の温もりが失われて、ガーフィールの喉が弱く鳴る。

しかし、その感慨はすぐに、別の感慨に取って代わられた。

 

「ガーフィール、おいで」

 

顔を上げるガーフィールの前で、リアラが腕を広げ、微笑んでいた。

その仕草と、言葉に、ガーフィールの思考が停止する。

 

だが、脳が停止しても、体が、魂が、何をすべきか理解していた。

 

「か、母さん……おがあざん……ッ!」

 

子どものように、子どもそのままに泣きじゃくり、ガーフィールはリアラに――リーシアに飛びつき、その胸の中に頭を埋めて、声を振り絞った。

 

優しく、柔らかい掌が、泣きじゃくるガーフィールの頭を撫でてくれている。

 

「よしよし……ガーフ、いい子いい子。よく、ずっと頑張ってたね」

 

「――ッ!そォだよ!俺、ずっと気張って、頑張ってッ!けど、いっぱい間違って、それでも……みんなが……ッ!」

 

言葉にならず、ガーフィールはリーシアの腕の中で支離滅裂な言葉を続ける。

溢れ出るのは、ガーフィールの十五年間だ。

 

母を失い、姉に別れられ、家族をこれ以上なくすまいと突っ張り、その後の十年の月日をスバルたちに砕かれた。

あの時間の中で、何度、抱え込んだものに潰されかけたことだろう。何度、嘆いたことだろう。

 

失われてしまった愛を取り戻そうと、手放すまいと躍起になって、どれだけの想いを踏みにじっただろう。

 

本来であれば、もっとずっと幼い頃に、父や母に甘えて縋って、乗り越えるべき心の壁をずっとそのままにしてきた。

壁があることをわかっていながら、横道を抜け、高い壁を後目にすることに慣れて、勝手を通してきた。

 

「……かあ、さんッ」

 

「大丈夫だからね、ガーフ。お母さん、傍にいるから」

 

優しい言葉をかけられて、慈愛に慰められて、求めていたのに与えられなかった、母の愛に心を預ける。

 

家族に、愛されていたことを覚えている。

姉にも祖母にも、自分が愛されていたことをガーフィールは知っている。母が愛してくれていたことも、知っている。

 

けれど、姉の愛を、祖母の愛を感じているガーフィールは、今ここで初めて母の愛をこの身で感じた。

知っていたものを得て、ガーフィールは泣きじゃくる。

 

胸の内に湧き上がる、感情の答えはわからない。

その名前を、ガーフィールはまだ知らない。

 

ただ、感じているそのものが、今、心を震わせ、牙を鳴らし、魂を揺るがすものが、そのまま答えなのだ。

きっと誰もが知っていた答えを、ガーフィールもようやく、その指先にかけただけだけど。

 

――この熱い気持ちがそのまま、答えなのだ。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「おー、ガーフ泣きやんだ?じゅーぶん泣いた?まったく、ガーフは泣き虫さんだなー!」

 

めそめそと、泣きじゃくっていた激情が落ち着き、ガーフィールがバツの悪さに顔をしかめていると、扉を開けてミミが弟妹を連れて戻ってくる。

いつの間に席を外していたのか、泣きじゃくるガーフィールとリアラを二人きりにしてくれていたらしく、その思いやりにますますガーフィールはバツが悪い。

 

「ゴージャス・タイガー、平気?」

 

「男のくせに、人前でわんわん泣くなんて信じらんないっ。うちのフレドみたいじゃない」

 

直接は目の当たりにしていなくても、家中に聞こえるような大声で泣き喚いたのだ。せっかく、ミミが弟妹を連れ出してくれたのに、そのフォローも無駄になりそうだ。

 

「……悪かったなァ」

 

「んー、なにが?そんなことより、ミミはガーフは満足でけたかどーかが気になる感じ。あと、おやつは甘いものが出るのかどーか気になる感じー!」

 

「あァ、そうかよ。ったく」

 

けらけらと考えなしな顔で笑われて、いったいどこまで考えられた行動なのか本気でわからなくなる。

本当に、見たまま本能でやっているのだろうか。だとしたら本能とやらも、馬鹿にしたものではない。

 

「んー?どしたの?惚れた?惚れた?」

 

「惚れねェ」

 

「そっかー」

 

考えてやっている、と言われても信じられないが、ミミの計らいに何度も救われているのは事実だ。

心はもちろん、一度は命も救われている。結果的にミミは命を落とさず済んだが、それも偶然の産物だ。本来はガーフィールが取り戻すべき戦いは、ヴィルヘルムに譲られて、ミミの救いに自分はほとんど無関係。

 

借りは借りっ放しで、何も返せていない。

 

「そんで、ガーフどうだった?」

 

「そうですね、ご本人に確かめてみてください。私はきっともう大丈夫だと……ゴージャス・ミミさんの大好きな、ゴージャス・タイガーさんだと思いますよ」

 

「まー、そーかも。ガーフ、やるときゃやっからねー」

 

恥ずかしい会話で意気投合されて、ガーフィールはやりようがない。心配げな目を向ける弟と、ちらちらとこちらを窺う妹の頭をまとめて撫でて、気を紛らわすだけだ。

そうして弟妹に触れてみて、先ほどまで以上の愛おしさを二人に感じる。実感のなかった、感情として納得のできていなかった、兄弟という事実が現実味を帯びたからか。

 

「――――」

 

それを自覚した途端、また別の不安が芽生えてくる。

今度のそれはわかりやすい、実にわかりやすい不安だ。それはこの二人に、弟妹に、自分が兄として認められる資質があるか、資格があるかどうか、だった。

 

「ゴージャス・タイガー?」

 

「ちょっと、なんで固まってんのよ。へ、変な病気とかじゃないでしょうね?」

 

弟妹の視線を見比べて、ガーフィールは考える。

たぶん、嫌われてはいないはずだ。弟の方の好意はわかりやすいし、妹の方もわかり難いが悪意ではないはず。

それにそれに一応、自分はゴージャス・タイガーとして二人の前で力強く戦った。――正直、惨めな部分は見せたし、応援の力がなければ負けた局面でもあった感は否めないのだが、そこはひとまず置いておいて。

 

「ガーフ?」

 

「だ、黙ってろ。こんぐれェ、一人でどうにかしたらァ」

 

ミミに助け船を入れられる気がして、ガーフィールは牙を噛み鳴らして先んじて牽制する。その言葉にミミが「んだよー」と拗ねた顔で引き下がると、またしてもガーフィールの脳が高速で回転、熱を吹き始めた。

 

名乗り出る、それ自体は今この瞬間に可能だ。もちろん、可能というのは行動として実現が可能という意味で、心情という条件が絡むとまた少し話は変わる。

いや、決して怖じ気づいているわけではないが、物事には何事も準備が必要だ。強敵に挑むとき、勝算がないのに挑んだとしても勝ちは拾えない。どんな場面で難敵に出くわしたとしても、勝てるように日々修練し、体を鍛え上げておく、それこそが勝つために必要な努力だ。

つまり、この難関に対してもやはり、準備がいる。そのための準備が正直、今は整ってるとは言い難い。ならばここはひとまず下がって、いやいや何を弱気なことを――。

 

「ちょ、ちょっと、ホントに大丈夫なの……?なんか目が回って、顔が真っ赤になってるけど……?」

 

「ご、ゴージャス・タイガー?」

 

「大丈夫に、決まってッだろが。ガオ」

 

「ガーフがガオとか鳴くのはじめて聞ーた!!」

 

普段遣いではありえない語尾が出て、それをミミにからかわれるが言い返す気力もない。

そうして弟妹に心配されたまま、ガーフィールの混迷する思考の中でぐるぐると脳が煮え――、

 

「まったく、ダメですよ、ガーフィール。そうやって何もかも抱え込んで、その結果が今なんですから」

 

「ぁ、母さん……」

 

目を回すガーフィールを見咎めて、リアラがそんな風に言い聞かせる。その言葉にガーフィールがとっさにそうこぼすと、ギョッとした顔をするのは弟妹だ。

 

「え、なんでゴージャス・タイガーがおかーさんって?」

 

「だ、ダメよ!これはウチとフレドのお母さんで、あんたのお母さんじゃ……」

 

「――いいから。二人とも、ね?」

 

驚く弟と噛みつく妹に、リアラが優しく語りかける。母の言葉に弱いのか、弟妹は渋々黙り込んだ。

そして、まだ心の準備どころか、心の準備の準備ができていないガーフィールを見て、リアラが言う。

そう、言った。

 

「ガーフィールは、きっとお母さんと離ればなれなのよ。それで、私がそのお母さんに似てたのかもしれないわ。それで、あんな風に寂しくなってしまったみたいなの」

 

「――ぁ?」

 

「へー、おかーさんとおかーさんが似てるの?」

 

「な、何よそれ……ふんだ、恥ずかしい」

 

リアラの説明に、リアラの子ども三人がそれぞれ反応。ガーフィールは呆気に取られたが、自信満々なリアラの態度からは、それが嘘や誤魔化しの素振りは見られない。

つまり――、

 

「ガーフ、言うことちょー足んない感じ?」

 

「――――」

 

ミミが端的にまとめた通り、なのだろう。

 

ああして情けなく、みっともなく、感情の限りをぶつけて泣き喚いたにも関わらず、リアラは結局、真相の部分にはこれっぽっちも気付いていない。

何ともまぁ、勇み足ではないか。

 

「当たり前っちゃァ、当たり前だわな」

 

記憶がないということは、思い当たる節もないということだ。

そんな状態で、ガーフィールの要領を得ない言葉の羅列を聞いても、真実に気付けるはずがない。

途端に、力が抜けた。牙からも、体からも。

 

「な、んだよ……はァ、んだよォ」

 

そんな風にこぼれた言葉が安堵なのか落胆なのか。

たぶん、半分半分だろうなと、ガーフィールだけが自分自身で気がついていた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

色々と肩すかしを味わったものの、収穫はあるようなないようなではあるが、潮時だろう。

そう判断して、ガーフィールはミミと二人でトンプソン邸をあとにする。

 

「またなんにもお構いできなくて、ごめんなさね」

 

「ダイジョブー!こちらこそ、ガーフがうんさか泣いてごめんなさいみたいな?そんな感じ!」

 

「うるッせェな、蒸し返すんじゃァねェよ」

 

見送りのリアラに応じるミミ、その首根っこを掴んでやる。「にゃー」とミミの軽い体を持ち上げ、ガーフィールはため息まじりにリアラと、リアラにしがみつく弟妹を見やる。

 

「お前らも、そんな心配しなッくても母ちゃん取ったりしねェってんだよォ」

 

「ボクも、そう思うけど……」

 

「油断しちゃダメよ、フレド。結局、お母さん目当てできてたんでしょ。お父さんがしばらくいないからって、隙だらけのお母さんは渡さないんだからっ」

 

「隙だらけなのはわッかんのかよ」

 

逆に、警戒心MAXになってしまった弟妹に頭を抱える。リアラの妙な説明の結果、弟妹は揃ってガーフィールが母を奪いにきたと勘違いしたらしい。

そんなつもりはないのだが――ないといっても、実際に母に思い出されていたら少しは顧みてほしい。そう思うとなかなか、正面切って否定もできそうにない。

 

「へいへい、悪者はさっさと退散すっさ」

 

「またいつでもきてくださいね。泣きたいとき、いつでも胸をお貸ししますから」

 

「そんッな情けねェとこ、ほいほいと見せねェよ」

 

「なら、お母さんに似た私にだけ……ですか?」

 

「ん、ぐ……ッ」

 

言葉に詰まり、ガーフィールは逃げることにする。

ミミをぶら下げたまま、ガーフィールは三人に背中を向けた。まだ、家族と名乗れていない家族に。

そうして立ち去ろうとするガーフィールを見て、リアラが手を叩く。それから自分にしがみつく、子どもたちの背中を押して前に出すと、

 

「ほら、二人とも、ちゃんとお別れを言いなさい」

 

「ゴージャス・タイガー、またね」

 

「――――」

 

その言葉に弟が素直に従うが、妹はだんまりだ。

仕方ない、そう思う。ただ、リアラはそうは思わない。

 

「もう、お客様のお見送りはちゃんと、でしょ?」

 

「むー」

 

意外と頑固なリアラに言われて、それでも妹の方はなかなか頷かない。そんな頑なな姿勢の娘に、リアラは少しだけ困った顔をする。

 

「いや、別にそんな気にする必要ァねェよ」

 

「そんなわけにはいきません。ほら、お姉ちゃん。もう、ラフィ!ラフィール!」

 

「――――」

 

じれた顔でリアラが、ついに妹の名を呼ぶ。

その名前の、音の響きを聞いた瞬間、ガーフィールは稲妻に撃たれたように痙攣し、動けなくなった。

 

「ら、ふぃーる?」

 

「そう、ラフィール。そういえば、一度も紹介していませんでしたか?この子の名前です。私の二人の子、ラフィール・トンプソンと、フレド・トンプソン」

 

ラフィールとフレド。

弟の名前はこれまでにも何度か、聞いたことがあった。それをあまり気に留めてこなかったのは、ガーフィールが気にしていなかったからか。それとも、気付くのを自分が恐れていたからなのだろうか。

 

ラフィールと、ガーフィール。

フレドと、フレデリカ。

 

リアラの二人の子と、リーシアの二人の子ども。

その音の近似と、理由に。

 

「女の子っぽくなくて、変な名前だと思ってるんでしょ。私も、それぐらい自覚あるんだからっ」

 

黙り込んだ理由を誤解して、妹――ラフィールがむくれた顔でそう言った。それを受け、しばし打ちのめされていたガーフィールは「いや」と首を振り、

 

「いい、名前だと思うぜ」

 

「そんな風に、お世辞言われても……」

 

「――本気だ。本気で、あァ、いい名前だと思うぜ」

 

「ですよね!」

 

本心からの言葉で語りかけると、ラフィールが少しだけ気圧される。そして割り込んできたリアラが嬉しそうに、

 

「二人の名前は、私がつけたんです。どうしてか、この名前にしたいと思って……それで」

 

「二人とも、あんたが?」

 

「はい。いい名前でしょう?――愛する我が子の名前なら、こうしたいと思っていたんです」

 

「――――」

 

それは、これ以上ないほどの、愛の証明だった。

 

記憶をなくして、以前のことを何も覚えていなくて、それでもその優しさと寛容さをなくさなかった母は、いたはずの我が子への愛を、生まれた子供たちに授けて。

 

「――――」

 

ガーフィールはこのことに、怒ることもできた。

嫌悪することも、本心から怒鳴りつけることも、理不尽に牙を突き立てることも、できたはずだ。

 

だけど、そんなことは思い浮かびもしなかった。

このとき、ガーフィールは打ちのめされていた。

 

自分の母の、リーシア・ティンゼルの愛に。

妹と弟の母の、リアラ・トンプソンの愛に。

 

――だからもう、十分だった。

 

「は、ははッ!ははっはは!!」

 

笑いが、出た。

ついさっきまで、胸中に残っていた脱力感が消える。

言うべきことを、伝えるべきことを、言い切れず伝え切れず、半端に終わらせた自分の情けなさが消えた。

 

今は、これだけでいい。

だって、繋がっていたことは、実感できたから。

 

「じゃァな、ラフィール、フレド。またッくるぜ」

 

「――!うん、ゴージャス・タイガー!」

 

「こ、今度は泣かないようにしなさいよねっ」

 

弟妹の頭を乱暴に撫でる。

今度の掌には、それまでと違って、ちゃんと愛情が込められたはずだ。半端には、ならなかったと思える。

 

それから最後に、ガーフィールはリアラに、母に手を挙げた。

 

「ありがとうよ、母さん。まァた、邪魔するぜ」

 

――何度か、都市に残る間は顔を出すだろう。

――そしてそれが済んで、ロズワール邸へ引き上げた後もまたこよう。

 

そのときはきっと、姉と祖母の二人も連れて。

そのときこそ、今度は十年の話をしよう。

 

さっきまでとは違う、今度は前向きな気持ちで、今はそのことを話さない。

家族の話は家族同士で、そう思えていたから。

 

「それまで、元気でな!」

 

ガーフィールは手を挙げ、力強くそう言い切れた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「おかーさん、ゴージャス・タイガー元気になってよかったね」

 

「うん、そうね。本当に……よかった」

 

「……お母さん、なんだか寂しそうじゃない?そんなにあの人と、離れたくないの?」

 

「どうかしら。離れたくないわけじゃないわ。離れていくのは、寂しいけど嬉しいことかもしれないから」

 

「おとーさん、いつ帰ってこれるかな」

 

「わからない。でも、必ず帰ってきてくれるわ」

 

「……お母さん、なんで泣いてるの?」

 

「――忘れ物が、見つかったからかもね」

 

「ごめんね、でもありがとう。――愛しているわ、ガーフ」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

ミミを片手に掴んだまま、治療院の雑魚部屋へ入る。

多数のベッドが並んでいる中、一番奥の窓際の位置に、オットーの寝かされる寝台は置かれていた。

そこへ向かう途中、

 

「う、おっとッ」

 

「あ!ごめんなさい、お兄さん!こら、ティーナ待ってよ!」

 

「そんなこと言っても捕まってあげないんだから。早くこっちにきてよ、ルスベル!」

 

病室を騒がしく、駆け回る少年と少女が走り抜ける。入院服の少女と、見舞いらしい少年だ。

少女の方も元気いっぱいの顔で、あの調子ならばすぐに退院もできそうだ。本来、病室で騒ぐなと注意しなくてはならないところだが、

 

「子どものはしゃぐ声に救われることもある。だから、ああしている二人を誰も注意できないんですよね」

 

「それもまァ、気楽な話だぜ、オットー兄」

 

子どもたちを見送り、奥へ向かうとオットーに出迎えられた。変わらず、足に痛々しく包帯を巻いたオットーは、ミミを連れたガーフィールを見ると、「おや」と眉を上げた。

 

「なんだか、少しだけ晴れ晴れとした顔してますね。何かいいことでもありました?」

 

「あァ……いいことかどうか、難しいことだけどよォ」

 

オットーの問いかけに、素直にそうだとは頷けない。

複雑で、ややこしく、畳みかけるような価値観への攻撃の連続だった。だけど、どの言葉も出会いも、最後にはきっといいものになったと思えているから。

 

「でも、うれしーことだったんじゃない?」

 

「ん……」

 

「ガーフ、いい顔になった!うれしーことと、そんな感じのこと、あったショーコ!それでいーんじゃねって、ミミは思ったりしてみた!した!」

 

ぶら下がったまま、呑気な顔でミミが馬鹿笑いする。

その声の大きさに、病室中の人々の視線が集まるが、すぐに視線は外された。

 

理由はさっきの、少年と少女の騒ぎと同じだ。

本心から、楽しそうに嬉しそうに、そうして笑う人の感情を遮るような真似、できるはずがない。

 

「ったく、しょうがねェなァ」

 

「おー、ガーフも笑ったー。惚れた?惚れた?」

 

「惚れねェ」

 

「そっかー」

 

「惚れねェ。……けどよォ」

 

何度か繰り返したやり取り。

その最後に、ガーフィールが一言付け加える。

 

目を丸くしたミミと、やり取りを見守るオットー。

母に、妹に弟に、ここにいないスバルたちに。

 

「――ありがとうよォ」

 

少しだけ、前に進めた気がしたから。

 

ガーフィールは牙を見せて、そう笑った。