『禁書庫の少女』
「ねえ、スバル。たららったららってなんだったの?」
「それは気にしないでくれていいよ。そう、今のは俺の地元に長く伝わる挨拶で、『その笑顔、舐めちゃいたいくらい素敵』って意味だから」
「じゃあ、もう二度と言わないでね?」
「意外と辛辣だ!」
おかえりなさい、とエミリアに微笑まれたあとのささやかなやり取り。
花の咲いたような、スバルの心の中に立ち込めていた不安や焦りといった負の感情を一緒くたに押し流してしまうような、そんな涼やかなエミリアの笑顔。
それに対し、もうどうにもならないドキドキでてんぱった挙句、できる限りの柔らかな笑みを作って「ただいま」と言い返そうとして、
「たららったらら」
「え?」
と、噛みまくったのが事の顛末であった。
あまりに情けない上に恥ずかしくて、とても真実を話そうとも思えない。
適当な軽口で誤魔化し、それをわりとスパッと切り落とされて凹みつつ、スバルはラムの姿を求めて屋敷をエミリアと探索――もっとも、探し求めたメイドの姿は探し始めてほんの数分で見つかった。
「あら、思ったより早かったわね」
言いながら、玄関ホールの階段に行儀悪く座るラムがこちらを見上げている。
その従順さと程遠い、いよいよ屋敷の主じみた態度を崩さない彼女の大らかさにスバルは軽くため息をこぼすと、
「お前のゴーイングマイウェイっぷりにはさしもの俺も驚きだよ。俺もそこそこ自分勝手なつもりなんだが、お前には判定なしでストレート負けだ」
「何事であれ勝つのはいい気分だわ、平伏してなさい、バルス。――それで、話し合いはまとまりましたか?」
前半はスバルに、後半はスバルの後ろについて歩くエミリアへの問いかけ。
ラムの質問にエミリアは「ええ」と小さく頷くと、
「大まかにはスバルから話してもらったから。――クルシュ様の部下の方々と、アナスタシア様の雇った方々が村の方へきてくれてるらしいの。他にも行商人の人たちをスバルが雇って……逃げるための準備、なのよね?」
「ああ。行商人の竜車は村人全員乗っけてもいけるだろうし、乗っけてる商品にも避難中の食糧になりそうなもんは多い。わりと、いいアイディアだったろ?」
「バルスにしては上出来、とラムも素直に賞賛するわ。喜びなさい」
「喜べねぇよ、その言われ方じゃ!」
あくまで自分を高い位置に置くラムの反応はともあれ、先の部屋でのやり取りの甲斐あってスバルの提案に対するエミリアの受け止め方もスムーズだ。
本来ならば、彼女も自身の手で状況を打開したい気持ちはあったと思うが、
「それにこだわってばかりで大切なことを見落としたら本末転倒、だものね。私は大丈夫だから、そんなに心配そうな目で見なくても平気」
「心配とかしてねぇよ。握ってる手から俺への信頼が伝わってくるから……」
「あ、ごめんね、ずっと握ったままで。邪魔だったわよね」
余計な発言で思い出させたせいで、ここまでなんら障害なしに繋いでいた手が解かれた。「あ」と女々しい声が上がるがもう遅い。
解かれてしまった手を顔の前に持ち上げ、失言を悔いるスバルを置き去りに、
「だから、ラム。村の人たちを避難させたいんだけど……どこへ向かったらいいと思う?本当は私が判断しなくちゃいけないのはわかってるんだけど」
「エミリア様には土地勘がありませんから、無理は言いません。ラムに意見が許されるのでしたら……ロズワール様が向かった聖域へ行かれるのがよろしいかと」
「聖域……そこなら安全そう?」
「確実とは言えませんが、ロズワール様がおられますし、ワケありですが防衛戦力があります。ここで籠城するより、ずっと確実でしょう」
ラムの提案にエミリアは思案するように唇に指を添える。そんな彼女の隣から顔を出し、スバルは「そもそも」と前置きしてラムに声をかけ、
「ちょいちょい聞くけど、ロズっちが向かった聖域ってどこなんだよ。何回か聞いた名前と一緒に出てくるパターンが多いけど……それがわからねぇと、さすがに俺も判断できねぇぜ?」
「判断はエミリア様が下されるもの。バルスが悩む必要は……というのも酷な話ね。でも、ラムにもそれをバルスに話す権限はないわ。ロズワール様のお許しが出ていないから、せいぜい思い悩みなさい」
「ロズっちの許可、ね……」
目を細めるスバルにラムは無反応。その態度からこれ以上を聞き出すのは無理だと判断し、スバルはこれまで聞いてきた聖域についての情報を思い出す。
といっても、それほどこれに関しては情報が多いわけではない。ロズワールが向かった先であり、誰ぞ領内の有力者がいる場所であり、今しがた聞いたところによると防衛戦力がロズワール以外にも存在する場所、となる。
「距離と、俺らに対して友好的かどうかぐらいは聞いてもいいだろ?判断基準として必須だぜ、そんぐらいは」
「――おおよそ、竜車なら八時間といったところね。ロズワール様と協力関係にあるから、敵対してこないことは当たり前。ただ」
スバルの質問に流暢に答えていたラムだが、わずかにそこで言葉を切ると、彼女にしては珍しく唇を軽く噛んで躊躇いを覗かせる。その様子にスバルは訝しげに眉を寄せたが、もっとはっきりその反応の意味をエミリアは察した。
「ハーフエルフは歓迎されないかもしれない、って心配?」
「エミリア様にご負担をかけるようなことは言いたくありませんが、その通りです。聖域にはワケありのものばかり集まっているので、その中でハーフエルフであることがどれほど目立つかわかりませんが……確実なことは言えません」
ここでも出る、ハーフエルフに対する蔑視の問題。
どこへ向かっても立ちはだかるその問題に、そろそろスバルの苛立ちが限界だ。が、そんなスバルの腹の虫を余所に、エミリアは軽く顎を引き、
「わかってることだもの、仕方ないわ。私のことを問題としないなら、聖域に村の人たちを避難させることはできそうなのね?」
「領民を無碍に扱うことを、領主であるロズワール様が望むはずもありません。その点に関しては確かに、聖域の代表者であるガーフィールも信頼できます」
確かな信頼が見えるその受け答えに、エミリアは納得した様子で目をつむる。それから彼女は怒りを堪えて押し黙るスバルにそっと目配せし、
「スバルは、他になにかいい案がある?」
「と、そうだな。聖域までが距離八時間ってとこで、安全だってんなら……別のルートの方の提案はいらないかなと思う」
最悪、避難先に困るようであれば、王都へ出戻りするのもひとつの案だと思っていた。現状は白鯨の討伐に伴い、リーファウス街道の通行が可能になっている。
竜車であれば王都まで全力で半日。女子供や老人が多いため、それに配慮すると少しばかり時間のロスはあるだろうが、それでも丸一日はかかるまい。
帰還したはずのクルシュや、それに同行しているレムとの合流も可能であり、魔女教に対する対策も同じ方向を向いているだけに立てやすい。同盟を結んだ同士として、きっちりクルシュとエミリアが顔を突き合わせて話をするべきだという考えもあった。
「けどまぁ、これにはリスクもけっこうあるからな」
第一に、聖域と呼ばれる場所よりも距離が遠い。
現状、彼我の戦力に関して未知数な部分を含めて不安が残る以上、長時間の移動はできるだけ避けたい。半日以上と四半日なら、後者を選ぶのがベターだ。
第二に、距離が開いてしまえばそれはそのままメイザース領へ取って返す時間もかかることになる。魔女教の脅威が残る以上、エミリアたちを安全な場所へ避難させるまでは討伐隊を同行させざるを得ない。送り届けたあとで舞い戻り、魔女教の残党を狩り出そうとしても、時間経過で逃走される可能性の上昇は否めないのだ。
そして第三に、リーファウス街道の安全が本当に確保されているのか、だ。
一度、スバルは以前のループの中で白鯨と遭遇し、命からがらではあるが死なずに生還したときがあった。そのとき、同行していた行商人のオットーはスバルを竜車から振り落とし、霧を抜けて逃走に成功した――かに見えた。
が、実際にはその後、どうやら彼は魔女教の襲撃に遭い、拾った命を奪われていた様子だった。そのときの場所が、リーファウス街道を抜けてメイザース領へ入る手前のことだったのだ。
霧の出口を見張っていた魔女教がいたのではないか、とスバルは考えている。
今回は出くわしていないが、それは今回がおそらく、あの場所を通った時点でこちらの戦力があちらを上回っていたため、見逃された形なのだろう。
だが、非戦闘員を多数連れて舞い戻った場合、それでもなお見逃してもらえる可能性はどれほどだろうか。ましてや奴らの目的である、エミリアまで連れて。
「そう考えると、考えるまでもねぇんだな、これが」
「つまり、スバルも聖域に行った方がいいと思うの?」
「現状はそれが最善だろ。ロズっちと話ができりゃもうちょい建設的なことも言えるだろうし、村の人たちに移動で負担もかけたくねぇから」
少なくとも、領内の状況の全貌が見えてこないことには話が進めづらい。ロズワールが王選に関して、どういうスタンスで挑むつもりなのかもイマイチ曖昧だ。
エミリアがひとりで懸命に思い悩んでいた部分にも、そのあたりの具体性を欠いたロズワールの話し方の影響が大きいとみている。
「つまり、まとめるとあの優男にガツンとやってやるってとこだな」
「逃げる先の話をしてたつもりなんだけど……どうしてそうなっちゃったの?」
「色々と細かい部分を自力で詰めてたらそうならざるをえなかったんだよ。ってか、実際、あいつがもうちょいわかりやすい言葉を使って話してくれてりゃ問題にならなかったとことか多すぎんじゃねぇか?頭のいい奴はこれだから……」
自分の頭の回転が速いがために、相手にも同じだけの演算能力を期待する。天才タイプにありがちな考え方だ。周回遅れの凡人はついていくのでやっとなのに。
ともあれ、
「行き先は決定、場所はラムが知ってる。準備が済めばすぐにでも出るべきだ。時間とかかかりそう?」
「私は特に持ち出すものなんてないから。ラムは……」
「持ち出したい茶葉や貴重な品々は多いですが、欲の皮が突っ張っているものの末路は冴えない場合が多いですから諦めます。いくつか必要な書状類と衣類の類は詰めてありますので、いつでも」
スバルの問いかけにラムが手で示す先、階段の脇に置かれている鞄が見える。どうやらすでに荷作りは完了しているらしく、ラムの先見には舌を巻くばかりだ。
「女の子の身支度には時間がかかるもんだとばっかり思ってたけど、素敵!んじゃ、通帳とか印鑑とかの忘れもんはないよな?良ければ村へそのままGOだ」
「ツーチョ?」
「インカン?」
エミリアとラムが揃って疑問符を浮かべて首を傾げるのを小気味良く受け止め、それからスバルは屋敷の階上を振り仰ぐ。
同じようにその視線を追った二人は、スバルがなにを見ているのかに気付いたのだろう。気まずそうに唇を開くと、
「ごめんなさい、スバル。ベアトリスの居場所は、私たちにはわからないの。王都から戻って以来、私も一度も会えてなくて」
「正しくは、ロズワール様たちが王都へ出立された日以来、一度もお顔を拝見していない……になるわ。食事の呼びかけにも、大精霊様の呼びかけにもお出でになってくださらないから」
「ベア子がパックまで無視とか、尋常じゃねぇな」
二人の発言を受けて、スバルは顎に触れながらどうしたものかと考える。が、以前の世界の出来事を回想し、悩むのもバカらしいとすぐに思考を放棄。
両手で頬を叩き、渇いた音で意識をはっきりさせると、
「ベア子は俺が連れていくから、二人は先に村に行ってくれ。クルシュさんとこのフェリスとヴィルヘルムさんと……流れの傭兵のユーリってのがいるから、そいつらと合流すれば話は進むはず。ドリルロリは任せといてくれ」
「見つけられる自信があるの?」
「自信があるわけじゃねぇけど……あいつは俺からは逃げないような、そんな気がするんだよ。たぶん、俺のことが大好きなんだろうな」
「あの気難しい方を前にして、よく言ったものだわ」
スバルの答えにエミリアが小さく笑い、ラムがいつものように「はっ」と鼻で笑う。そんな二人に肩をすくめて、「んじゃま」とスバルはその場でくるりとターン、上階へと足を踏み出し、
「引きこもりを外に引っ張り出すのになにが有効か、元引きこもりの俺の手口をとくとご覧あれってなもんよ」
※ ※※※※※※※※※※※※
「あっれ、おっかしいな!?」
と、大見得を切って出てきたはいいものの、自信満々に走り出したベアトリス探しは順調に難航していた。
普段、スバルが食事の時間などにベアトリスを呼びにいく場合、たいていはひとつ目の扉を開けばそこがベアトリスのいる禁書庫に繋がる扉になっている。早いときなど、食堂から呼びにいこうと思って食堂の扉を開けたらそこが禁書庫だったときだってあったほどだ。
『扉渡り』と称するベアトリスの魔法は、スバルには高等すぎて理解できないが陰魔法を利用した空間転移系の魔法らしい。
幼女でありながら優れた陰魔法の使い手であるベアトリスは、その扉渡りを利用して屋敷内に禁書庫という自分の城をランダムに移動させており、基本的に正解の扉をひとつしか用意していないという意地悪な転移を常に行っている。
その彼女の特性を打ち破るのが、スバルが勝手に『扉破り』と名付けた、なぜか正解を一発で引いてしまう空気が読めない人間ならではの特性だったのだが。
「ここへきてそれが効果を発揮しないとか残念ってレベルじゃねぇな。エミリアたんたちにあんだけでかい口叩いちまったってのに、これで見つかりませんでした――とかテヘペロじゃ済まねぇよ、頼むぜ、オイ」
言いながら、使用人用の棟の扉を次々に押し開いていくスバル。すでに最初の中央棟の部屋はすでに全部開け切ってしまったあとで、時間のロスとしてもけっこうなものを浪費してしまった。ベアトリスを探すのにこんなに苦心したのは初めてのことであり、軽口を叩きながらも額に嫌な汗が浮かぶのを堪え切れない。
とはいえ、スバルもなんの根拠もなくベアトリスの探索を続けているわけではない。彼女が屋敷の中に確実に残っている、という確信があればこそだ。
以前の世界でスバルがあと一日、遅れて屋敷に到着したとき、ベアトリスは確かにこの場所にいた。あのときはスバルの方も状況に押し流されるままで精いっぱいだったため、碌に会話を交わせたわけではないが、
「時間に余裕がある今回は、みんなの気持ちも若干だけど余裕があった。ベア子も少しは話を聞いてくれるだろ……」
そんな楽観的なばかりではないのだが、そうでも言っていないとこの孤独な作業を黙々と続けていられない。なにせ、誰もいない屋敷の中をひたすらに扉を開け閉めしてはガッカリしているなど、傍から見たら完全に可哀想な人だから。
「くっそ、見つからねぇ!やべぇ!時間ねぇ!これもうダメか、諦めて投げ出して逃げ出すべきか!エミリアたんの信頼の眼差しを思うと良心が痛いけど、それもいた仕方なしか!みんなにはベア子がお腹痛くてトイレから出てこなかったから諦めて戻ったって言い訳を――」
「――もっとマシな言い訳思いつかないのかしら、お前!?」
ぶつくさ言って頭を掻き毟りながらの発言に、開けた扉の向こうから唐突に突っ込みが入った。
眼前、本来ならばトイレであるはずの部屋の中、そこが尻を拭くのとは違う用途の紙の束――つまるところ、本でぎっしりと埋め尽くされた書庫へと様変わりする。
久しぶりの遭遇である見慣れた禁書庫、そしてその部屋の番人である豪奢なドレスを身にまとった少女は、いつものように正面にいた。
部屋の扉を入り、真っ直ぐ向こうに木製の脚立が設置してあり、その脚立の足掛けに腰を下ろし、分厚い本を開いていた少女の姿が。
「ベア子、無事にトイレで発見――俺の勘も捨てたもんじゃねぇな」
「あれだけ外して諦めないのが哀れになっただけかしら。ベティーの名誉のためにも、お前におかしなことを吹聴されても困ると思ったのよ」
「気にすんなって!誰だってウンコはするんだし、お腹痛くて緊急事態で返事もしたくねぇときだってあるよ!いきんでるときに無神経なことばっか言って悪かった、申し訳!」
「今のお前の発言が世界で一番無神経だったかしら!」
脚立から立ち上がり、憤懣やるかたないといった様子でぷりぷり怒るベアトリス。縦ロールを荒ぶらせながらの少女にスバルは「悪い悪い」と軽く手を振り、
「それはともかく、久しぶりだな。お前がなかなか心を開いてくんねぇから、屋敷中を探し回るとこだったぜ」
「……本来の、気を抜いてないときの扉渡りはこんなものなのよ。お前だって、本当ならここに入れるつもりはなかったかしら」
「こうして中に入れてくれた時点で説得力はないな!ツンデレ乙!」
「入れなきゃお前が脅迫まがいの醜聞を垂れ流しかねなかっただけなのよ!」
怒鳴りつけたあとで、ベアトリスはすぐに自分の言動を恥じるように気まずい表情。そうしてころころと変わる彼女の様子に口の端をゆるめ、スバルはそちらへと歩み寄りながら、
「ともあれ、会えてなによりだ。さっそくで悪いが、出かける準備とかしてもらってもいいか?ちょっと、屋敷に残ってると問題が……」
「ベティーはいかないのよ」
「あ?」
提案を、即座に打ち切るベアトリスの言葉にスバルの足が止まる。
顔を上げて見れば、彼女はそんなスバルの呆気にとられた顔を吐息とともに見上げ、
「ベティーはいかない、と言ったのよ。この禁書庫を離れるつもりも、ましてや屋敷を出ていくつもりもないかしら。それだけ覚えて、出ていくといいのよ」
「ちょっと待て、お前は状況が見えてないだけだ。ここに残ってもダメなんだって、危ないから一緒においで。一から説明する!」
「説明されなくても、おおよそわかってるかしら。あと、子ども扱いするのをやめるのよ」
じろりとスバルを睨みつけ、ベアトリスは書棚に手を伸ばすと、彼女の手には大きすぎる図鑑のような本を抜き出し、いつものように抱えて脚立へ戻る。座り、膝の上でそれを開く彼女は普段通りで、本気で避難するつもりはないように思えた。
「おいこら、話は終わってねぇよ。勝手に終わらせた気分になってんじゃねぇ」
「ベティーからの話はもうないかしら。お前が勝手に続けたがってるだけで、続けてもベティーの結論は変わらない。時間を無駄にできないのは、お前も一緒じゃなかったかしら?」
「ぐ……そこまでわかってんなら協力しろや。俺、お前連れてく。お前、俺に連れていかれる。オーケー?」
「お断りなのよ。誰がきても一緒。――そう、誰がきても、この禁書庫には一歩も踏み入れさせないかしら」
本に目を落としたまま、ベアトリスは静かな語調ながら強く言い切る。
その彼女の頑なな態度に頭を掻き、スバルはため息を吐きながら、
「いいか?ここにくるのは騒がしいだけの俺とか、飯持ってくるだけのラムとかじゃねぇんだよ。言いたくねぇが、魔女教の奴らがくるんだ。あいつらの見境のなさは半端じゃねぇ。屋敷に残ってるお前なんか……」
「扉渡りの力はお前に見せたはずなのよ。それでも踏み込んでこようとする輩がいるなら……ベティーも容赦なんてしないかしら」
「――ッ」
一瞬、ベアトリスから剣呑な気配が溢れ出し、スバルの背をそれが冷たく撫ぜた。
息を呑み、今のが彼女の全身から噴き出した魔法力の余波なのだと気付く。
その膨大なマナの奔流が、触りだけでも魔法を扱う人々に触れてきたスバルにとってすら、法外なものであることがわかり、
「――っ。それでも、俺はお前を連れていくぞ」
「まだそんなこと……」
「お前が強いとか強くないとか、そういう話じゃねぇんだよ!お前は女の子で、小さくて、それだけで十分なんだ!俺がお前を危ないとこに置き去りにしたくない理由なんか、他にいらねぇだろうが!」
迫力に気圧されながらも、書庫の地面を踏み鳴らしてスバルは叫ぶ。
前に出て、なおも言い募るその姿にベアトリスは驚いたように目を見開き、それからまるで痛みを堪えるかのように目をつむった。
その様子に眉をスバルが寄せ、とにかく連れ出そうと近づこうとする寸前、
「ベティーは、お前とは一緒にいかない。これ以上、惑わすのはやめてほしいのよ」
「俺は間違ってない。お前は間違ってる。――俺の答えは、それで終わりだ」
「強情かしら。――そういうところが、嫌なのよ」
ぼそり、とベアトリスが何事か小さく呟く。聞き取れなかったそれを聞き返そうとスバルが口を開きかけるが、その前にベアトリスが脚立から立ち上がり、
「わかったかしら、根負けなのよ。お前の言う通り、してやるかしら」
「お?おお、ならいいんだよ。わかってくれたんならそれでよしだ。一瞬、立ち上がってそのまま魔法で吹っ飛ばされるかと身構えちったじゃねぇか」
「ベティーにかかれば、お前の影だけ残してこの世から消し飛ばすのも容易いけれど……それをするほど、残酷にはなり切れないのよ」
それとなく恐い発言をしながら、ベアトリスは抜き出した本を書棚へ戻す。と、そうしている彼女の動きにつられながら、ふとスバルは気付いたことがあって眉を上げた。同行してくれる、とベアトリスが発言したことに気が緩んでいたこともあったかもしれない。ほんの思いつきで、
「そういや、ここにはたくさん本があるけど、お前ってひょっとしてイロハ以外の文字にも精通してたりしちゃう系?」
「急になにを言い出すかと思えば……イロハって、イ文字とかのことを言ってるのかしら。専門家に言ったら怒られるような呼び方は」
「あいあい、悪い悪い、申し訳。んで、本題なんだが……」
じと目でこちらを睨んでくるベアトリスに愛想笑いして、スバルは懐を探ると一冊の本を抜き出す。それは黒い装丁の本であり、その中身は――。
「こいつなんだが、中の文字がどうにも見覚えなくてよ。お前ならなんか知ってるんじゃないかって思ったんだが……」
「――どうして、お前が今、それを手にしているのかしら?」
ふいに、固い声が遮るようにスバルの言葉に覆いかぶさる。
見れば、ベアトリスがその大きな瞳をさらに大きく見開き、スバルの手にする『福音』を凝視していた。
その態度の一変に、気楽な気持ちで話を持ちかけたスバルの方が驚く。
「どうして今、お前がそれを持っているのかしら?答えるのよ」
「どうしてもクソも……取り上げたんだよ、魔女教のアホから。後生大事に抱え込んでいやがったから、なにかヒントでも書いてあるんじゃないかと思ってよ」
「取り上げた?魔女教からそれを?よりにもよって、お前が……」
額に手を当て、かすかに肩を揺らすベアトリスの顔色が変わる。色白の顔からさらに血の気を失わせ、視線をさまよわせる少女にスバルは困惑。
まるで、今すぐにでも倒れ込んでしまいかねない変調に思わず手を差し伸べ、
「お、おいおい、大丈夫か?調子が悪くなったってんなら無理しないで……」
「ベティーが……ダメなのよ、それじゃ。でも、こいつに持たせておくなんて……まさかロズワールはこれまで……?」
「おーいー?深刻そうな顔してるとこ悪いんだが、聞ーこーえーてー」
「今、考えてるところかしら、少し待ってるがいいのよ」
心配して周囲をぐるぐる回るスバルを、ベアトリスがひと睨みで黙らせる。黙らされたスバルは口を閉じ、目の前で瞑目して表情を変えているベアトリスを観察。
しばらく反応がなさそうなので、手持無沙汰に手の中の福音を開き、相変わらず内容のわからないページをぺらぺらとめくる。
そして、ふと気付いた。
「この本、後半は白紙になってんだな。……けど、さっきこんなページあったか?」
中身が読めない字で構成されている点と、本の後半が落丁したかのようにすっぽりと抜けているのは同じ。が、さっきまではなかった記述が最後の印刷ページに増えているような気がしてならない。
読めない内容の本だ。気のせいだ、と言ってしまえばそこまでなのだが。
「――お前はその本、どうしたいかしら?」
と、それまで黙考していたベアトリスの突然の問いかけ。
口元に手を当てながら、ベアトリスは思考の決着をどう見たのか、スバルにそう問いを投げてきていた。それを受け、スバルは「どうって言われても……」と言葉を継いでから、
「中身の解読……っつっても、魔女教の教義とかには興味ねぇから、純粋に得になるような情報があるかが知りたい。それがなけりゃ、持ち主が不気味だった本なんて持ってたくねぇよ」
「……少なくとも、その内容をベティーが読むのはできないのよ。ただ、お前が持っていたくないというなら、預かっておくぐらいのことはできるかしら」
「預かる?」
「得体の知れない本で、得体の知れない持ち主が大事にしていた本かしら。お前が持っているのに抵抗があるなら、ベティーが回収しておいてやるのよ」
おずおずと、こちらに手を差し出してくるベアトリス。
その仕草から、少なくとも彼女がこの本を欲しているわけではないのが伝わってくる。転売して大儲け、みたいな発想の発言ではないのだろう。
善意からの発言。そして、さっきまでの彼女の口ぶりからして、彼女はこの本が少なくとも福音であることは理解しているらしい。故に、
「悪いけど、その提案は却下だ」
差し出される手を上から軽く押さえて、スバルはそう言い切った。
そのスバルの言葉にベアトリスは一瞬だけ目を瞬かせ、すぐにその愛らしい顔つきを厳しいものへと変えると、
「な、なんでかしら。お前だって、それが良くないものだって直感しているはずなのよ。少なくとも、良いものを惹きつけるものでないことはわかっているはずかしら。それなら、自分で持つよりベティーに……」
「そうやって欲しがられると、別にいらないものでもあげたくなくなる天の邪鬼体質だから……ってのは建前だな。本音を言えば、だからだよ」
この本が、福音と呼ばれるこの書が、魔女教の信徒にとって持つ意味は大きいらしい。ましてやこの福音書の持ち主は、魔女教でも幹部に当たるペテルギウスのもの。
あの男がこの本にどれだけ執着していたのかは記憶に新しい。その身柄を確保し、抵抗する手段を奪っている現状でも警戒は変わらず、だ。
「恐いおじさんが涎垂らして取り返しにくるかもしれない本だぜ?持ってるのがおっかないからって、それを幼女に持たせるなんて男の子のやることかよ」
「――――っ」
「危ないもんなら俺が持っておく。俺はお前を安全なとこに逃がしにきたんだぜ?わざわざ危なくさせるとか本末転倒もいいとこだ。あんまし、俺を薄情者にさせねぇでくれよ、頼むから」
軽く笑い、スバルは福音書をベアトリスの視線から隠すように懐へしまう。その一連の動作を見て、ベアトリスはなにを思ったのだろう。
彼女は一度だけ瞬きし、それからなにかを口にしようと唇を開きかけ――、
「――ぅ」
けっきょく、なにも言葉にすることができずに口を閉ざし、顔を背けてしまった。
その彼女の様子に不自然なものを感じながらも、追及を拒むような横顔にスバルは先を促すことができない。だから話を変えるように首の骨を鳴らし、
「あー、まぁいいさ。とにかく、移動すると決まったんならちゃかちゃか頼む。あんまり大荷物だと困るけど、大事な本の二、三冊ぐらいなら持ってってもいい。あと、その無駄に豪華なドレスの代えも二、三着あった方がいいとは思うな」
「……書庫は、ベティーが移動すれば勝手についてくるのよ。それより、屋敷の他の二人は説得できたのかしら」
「すげぇ便利な話を聞いたな。と、二人の説得は万端だよ。ここにいる奴はお前で最後だ。ロズワールのいる、聖域ってとこまでみんなで避難といこう」
「ロズワール、かしら。……お前、一緒に行ったメイドの妹はどうしたのかしら」
ふいに、ベアトリスが話題にしたのはレムのことだった。
彼女の口からレムのことが話題になるのが意外で、スバルは眉を上げて軽く驚きを表現。それから、いい傾向ではないかと口をゆるめ、
「レムなら、今は王都で留守番中。ちょっと戻ってくる途中ででっかい魚釣りをやらかしてな。あんまりでっかすぎるもんで、持ち帰って豪勢に下ごしらえしてくれてるはずなんだよ。全部片付いたら、みんなでいただきにいくとしようぜ」
「ずいぶんと、嬉しそうに話すのよ。――なにかあったのかしら」
「う」
レムの名前に過剰反応して、やや早口になった感が否めないスバル。ベアトリスの鋭い指摘に図星を刺されて息が詰まり、口笛を吹きながら顔をそらすと、
「な、なんにもないですよ?」
「あれだけ親しげに接されて、情が湧かない方がおかしいというものかしら。別にベティーは言い触らしたりしないから、勝手にするがいいのよ」
「か、隠すつもりなわけじゃねぇんだよ?ただ、さすがにいきなりエミリアたんとか実姉に報告するのは勇気がいるというか……戦略的撤退というか」
ごにょごにょと弱気になって指を突き合わせ、スバルは恥じるようにベアトリスに背中を向けて俯く。
状況が状況である点も多大に影響があるし、実際にいきなり報告する勇気がないのも事実。エミリアも、いきなり『君とレムの二人を俺は手に入れる!』とか宣言されても寝耳に水だろう。もう決めていることだけど。
「目標を高く持つってのはいいことだ。努力するにも張り合いが出る。俺は基本的に努力系は嫌いじゃないんだよ。ただひたすらに今まで目標が持てなかっただけ――っ!」
言い訳を募らせて自身の高揚を図っていた口が、ふいの感触に思わず止まる。
背後、背中側に感じるのは温かな感覚で、後ろから腰に腕を回す形で抱きしめられている。小さく、細い腕が腹の方へ回っていて、自然相手が誰なのかわかる。
ベアトリスだ。
「なんだ、ベア子か、びっくりした。突然やめろよ、頼むから」
「その反応はわりと本気で腹立たしいかしら。――でも、十分なのよ」
「は?」
予想外の言葉に首を傾げた直後、ふいに鮮やかな光が瞼を焼く。
それが、入口の扉がひとりでに開け放たれた結果だと気付くより早く、
「さようなら――」
「う、お!?」
抱くように回されていた腕が放され、背中から強い圧迫感に思い切り押される。抵抗することもできず、体は前のめりになってつんのめるように前へ。
そのまま、吸い込まれるように扉へと飛び込んでいき――、
「ベアトリス――!」
「ベティーは……一緒には行けないのよ」
身を回し、扉をくぐる直前に部屋の中へと視線を放った。
かろうじて視界の中に映り込んだ少女は、その瞳に大粒の涙を浮かべていて、
「――――!」
なにも言葉にすることができないまま、視界が歪む。空間の歪曲に肉体が巻き込まれて、あるはずのない道筋を体が勝手に歩み、禁書庫との繋がりが途切れていく。
そのまま、スバルの肉体は禁書庫の空間から弾き出されて、どこか遠くへ消えていった。
「――ぁさま」
それを見届け、ベアトリスはゆっくりと、開きっ放しだった扉を自ら閉める。
空気が切られる音がして、深々とした無音の時が禁書庫に再び降り積もった。
「――お母様」
小さく、泣きそうな声で、ベアトリスはその名を呼ぶ。
大粒の涙はすでにその瞳から消えて、それでも表情だけは変わらずに、
「ベティーはあと……いったい、どれだけ……」
泣き崩れそうになるベアトリスは脚立へ歩み寄り、倒れ込むようにそれに体重を預ける。そして腕を伸ばし、脚立の反対側――いつも彼女の座る足掛けとは対面の足掛けから、乗せていた本を抜き取り、掻き抱く。
「お母様……お母様……お母様……!」
縋るように、迷子の子供のように、抱いた本を胸に抱えて、ベアトリスの声が静かな禁書庫にすすり泣きのように響き続ける。
腕に抱かれる黒い装丁の本は、彼女になにも答えてくれなかった。