『ギャンブルの結末』


 

――宙をくるくると、縦回転しながらコインが上昇する。

 

銅貨は裏にルグニカ製であることを示す龍のシンボルが、表には製造された年が刻み込まれており、見た目の差異は元の世界の硬貨とさほど違いはない。

それを行う技術が機械によるものか、魔法によるものかの差があるだけだ。

 

回転するコインの上昇が頂点に達し、刹那の間だけ銅貨は宙空に縫い止められたように動きを止める。

その一瞬の間にスバルは息を呑み、落下の軌道に入るコインを見ながら両手をすさまじい速度で動かし始めた。

 

虚空に向かって拳を連打し、生まれる旋風が落下軌道にあるコインを覆い隠す。真正面に降りてきたそれを即座にキャッチせず、落ちてくるコインに合わせて膝を折りながら屈み込み落下時間を稼ぎ、スバルは硬貨が地面に落ちる直前ですくうように両手を交差させ――、

 

「――さあ!右か!左か!あるいは口か!?」

 

「ハッタリはいらん。右じゃ」

 

「オーマイゴッデス!!」

 

震える右の拳を開き、掌の中のコインを勝ち誇る少女の前に差し出す。

少女の微笑が深くなるのを見て、スバルは屈辱に肩を震わせて俯くのが精いっぱいだった。リンガの入った袋が彼女の手の中に移り、その中から二個のリンガがスバルの眼前にちょこんと置かれ、

 

「さ、あと二個じゃ。硬貨の表裏に足りず、硬貨の受け手でも届かぬ。次はどんな手管で妾を競う?」

 

己の勝利を信じて疑っていないのか、少女は純粋にスバルがどんな賭けごとを持ち出してくるかにしか興味がないらしい。どんな内容を持ち込まれたとしても、自分が勝つという揺るがない芯があってこその態度。

一方でスバルは自信のあったコインキャッチの賭けにすら敗北し、十個あったチップも二個まで減らされた完全な敗北待ちの状態。

精神的なコンディションからして、すでに劣勢に立たされているのだった。

 

「バカな……漫画を読んでひたすらに練習した俺のコイン回しが通用しないとか、そんなことがあり得るのか。『幻惑のスバル』と呼ばれた俺が……」

 

「言っておくが、小細工しても無駄じゃ。そもそも妾は貴様のやっていたコイン回しとやら自体を見とらん。見る必要がないからな」

 

壁際に廃棄された木箱に腰掛け、片膝を抱えて悩ましげに少女は首を傾ける。

口元には変わらぬ微笑が浮かんでいるが、そこには弱者をいたぶることを楽しむ嗜虐的な色がまじり始めていた。

高慢な相手であると思うと、その鼻っ柱をどうにかして折りたいと男心がメラメラと燃え上がる。が、肝心のその手段が欠片も出てこない。

 

「そもそも、勝てると思って挑んだコイン回しでこれだぞ……しかも無意味扱い!こうなりゃ完全に運を天に任せて――」

 

「方法は決まったか?あるいは妾にそのままリンガ二個を献上しても構わんぞ」

 

「おいおい、敵前逃亡は俺の故郷じゃ士道不覚悟で切腹されるぜ。鬼の副長の隊規の厳しさなめんなよ。――そして、俺がただの負け犬で終わるとも思うんじゃねぇ」

 

傲慢、という単語がそのまま具現化したような少女の態度。しかし、その姿勢があまりにも様になりすぎていて、思わず平伏させられそうな威圧感がある。

が、スバルはそれに首を振って抗うと、指を突きつけて虚勢を張り上げる。

 

「勝負は、そう……俺の故郷で伝統的に伝わる最終決戦手段『ジャンケン』だ!」

 

「じゃんけん?」

 

「あれあれ、ジャンケン知らない?知らないッスか?おーいおいおい、どんだけ世間知らずの箱庭ベイビーだとそういうことにおなりになるんですか、ホワーイ?」

 

「つまらん挑発よ。品が足りん。妾がお前の言う世間知らずであるところは否定せんが、程度の低い誘いにもかからんぞ」

 

茶化した上におちょくりを入れてどうにか少女の平常心を乱そうと画策するが、吐息ひとつでこちらの思惑を看破する少女には通用しない。

そも、こうした挑発は少なからず、相手側がスバルに対して『向き合う』という立ち位置になっていないと成立しない。自意識が強固なまでに確立し、その上でスバルを路傍の石となんら変わりないと思っていればこそ、石ころの暴言など少女の心にさざ波ほどの影響も及ぼすことができないのだ。

 

「べべべ、別に悪だくみとかしてねぇし?そんな負け続きだからって根性悪なやり方で勝ち拾おうとかマジ小者スピリッツしてねぇよ、なめんな!」

 

「時間の無駄じゃ。ほれ、さっさとじゃんけんとやらの説明をせい。それで終いじゃ」

 

おざなりに手を振って、逆にやり込められた動揺を隠せないスバルを少女が嘲笑う。スバルは悔しさに唇を噛みしめつつも手を前に出し、

 

「ジャンケンってのは、掛け声をかけながら決まった形に手を出して、その手の形の優劣で勝敗を決める決闘法だ。手の形は三つあって、『グー』『チョキ』『パー』の三種類。グーがチョキに強くて、チョキはパーに強くて、パーはグーに強い。おわかり?」

 

ぐにぐにと手の形を変えながらのスバルの説明に、少女は「ほう」と顎を引き、

 

「なるほど、わかった。それなりに面白い趣向じゃな。掛け声とやらは?」

 

「『じゃーんけーん、ぽん』の『ぽん』のところで手を出すのがやり方だ。ちなみに同じ手が出た場合、『あいこで、しょ』の掛け声で即座に仕切り直し」

 

「それで全部か?よい、わかった。ならば妾はパーを出す」

 

「いきなり駆引き!?」

 

ジャンケンにおける高等テクニックである『宣言』を利用され、スバルは相手の理解力と応用力の高さに戦慄する。

ジャンケンのルールを説明した直後に、その内容を理解して、即座に精神的優位に立つ常套手段を選択したのだ。これまでの純粋な運の勝負には見られなかった、勝つための最善手――それを選択する手腕がそこに出ている。

 

「ルール教えてすぐさまジャンケンに持ち込んで、相手がびっくりしてる間に勝負を有耶無耶にする作戦が潰されるだと……!?」

 

「では始めるぞ。ほれ、じゃーんけーん」

 

「あ、待って、タンマ、ほら、俺の出す手がまだ決まって……」

 

姑息な作戦を立てていた腹の内が見透かされ、逆に利用されて焦るスバル。しかし一度始まった掛け声を止めることは叶わず、少女が手を振り上げるのを見るとスバルも合わせて手を振り上げ、

 

「「ぽん!」」

 

掛け声とともに出された手は、少女が宣言通りの『パー』。そしてスバルは、

 

「花を持たせようと、せっかく妾が気遣ったというのに……どうやら、あの手この手で言い訳しながらも、妾にリンガを献上したくてたまらんと見える」

 

「違ぇよ!統計学上にも、人間はとっさにジャンケンに持ち込まれると思わず拳を固めて『らめぇ出ちゃう』みたいな結果が出てんだよ。つまり、不可抗力だ!」

 

広げた掌をひらひら振る少女の前で、スバルはしっかり固められた『グー』の手を持ち上げて負け惜しみを口にする。

策士策に溺れて溺死する、ドザエモンを見事に演じ切ったスバルだった。

 

「さて」

 

吐息を漏らし、少女の白い指先がスバルの眼前――置かれていたリンガのひとつを摘まみ上げ、傍らの袋の中へと連れ去ってしまう。

これで、スバルの手元に残ったチップは最後の一個。

 

「そしてそれすらも奪い取り、身の程知らずの貴様に教えてやろう。妾こそが最上位であり、貴様は底辺を這いずっているのがお似合いだと」

 

「おいおい、賭けごとで負けて人間力ピラミッド最下層扱いとか極端すぎね?ちょっと勝ち目もないのに全賭けして身ぐるみ剥がれそうになってそれでもプライドが邪魔してあとに引けなくて見事に破滅しようとしてるだけ……あ、最下層だ!」

 

「安心せい。妾以下、全てが底辺よ。この世には妾と、その下しかいない」

 

「二段しかないピラミッドとか寝るとこなくて逆に新鮮だな!?」

 

地面との設置部分はだだっ広いのに、頂点に当たる部分が一ヶ所しかない。ものすごい頂点への角度がシビアなピラミッドになりそうだ。

想像ピラミッドの中で寝る場所に四苦八苦していると、少女は「さあ」と手を叩いてスバルの意識を現実へ引き戻す。そして、

 

「最後のひとつを賭けて、勝負といこうではないか」

 

「……ここらで俺を憐れんで、最後の一個は見逃すとか」

 

「貴様の持つリンガは全て妾のものにする。――妾はすでに決定は話した。あとは貴様が手段を講じて、リンガを妾に献上する道筋を整えるだけでよい。見ていればそれなりに飽きない性質じゃが……些かそれも冗長よ」

 

口調こそこれまでと変わらないが、それはスバルを見逃すつもりは一切ないという死刑宣告でもあった。己の道を信じて疑う様子のない彼女にとって、もはやリンガを手にすることは決定事項――そうともなれば、もはやスバルに道はない。

 

「最後の勝負も、ジャンケンでどうだ」

 

「――ふむ、即座に劣勢となった勝負にまた己を賭けるか。それもまた決断ではあるが、いずれを選んでも無駄なことよ」

 

「御託はお互いになし。さっきの前振りも全部なしで、この勝負に挑む」

 

拳を突き出して、スバルは少女の言語誘導をまず封じる。彼女はそのスバルの態度に意外そうに眉を上げたが、それが勝敗を左右するほどのことでもないと結論付けたのか首を横に振り、

 

「よかろう。ではとっとと始めて、とっとと終わらせるとしよう」

 

少女が同意を示すのを見届け、スバルはスタンスを広げると拳を引く。引いた右の拳に左手をかぶせ、身を縮めながら腰をひねり、まるで居合の動作のように全身を引き絞り――裂帛の戦意を高めていく。

 

「――ぁぁぁぁぁぁ!」

 

気合いを込めるあまりに雄叫びが口から溢れる。

意味のない動作、意味のない仕草、意味のない心構え、意味のない気負い。

どれだけ全身の力を込めようと、勝敗はそんな部分には左右されない。それとわかっていても、しかしスバルは勝負のかかる右の拳に全霊を込める。

 

路地裏の空気が変わり、そのスバルの勝負にかける意気込みに少女すらも表情を固くした。そして、膨れ上がった戦意が頂点に達した瞬間、二人が動く――。

 

「「じゃーんけーん――ぽん!!」」

 

掛け声。それと共に弾かれるように拳が射出され、刹那の間だけ音が消える。

空気が拳の進出に割り砕かれ、ぶち抜かれた空間に光が瞬く錯覚が炸裂――突き出された拳を見て、少女の赤い双眸に動揺が広がるのをスバルは見た。

 

固められた少女の拳は『グー』。そしてそれと相対するスバルの手の形は――、

 

「こ、これは……」

 

「聞いて驚け、見て仰天しろ。これが、古来より伝わるジャンケンのリーサルウェポン」

 

呟くスバルの右手、それは少女の理解を越えた形を作り出していた。

――親指と人差し指、そして中指の三本を立たせた変則の手。

人はそれを究極の禁じ手と呼び、恐れ慄いてきた――!!

 

「そう、これが究極闘技――『グーチョキパー』だ!」

 

「なんじゃそれは!?そんな手があるなんぞ聞いておらんぞ!」

 

「うるせぇ、こんちくしょう!言わなかったけど聞かなかったのが悪いんですぅ!この部分がグーでこの部分がチョキでこのあたりがパーなんですぅ。つまり俺の手はお前のグーに勝っちゃってるわけですぅ」

 

「その意見が通るなら一部は負けておるわけじゃが……」

 

「あーあーあー!聞こえなーいー!!」

 

耳を塞いで大声を上げながら、スバルはその場でタップを踏みながらリンガを回収。取られなかった最後の一個を大事に大事に抱え込み、

 

「俺の勝ち!俺の勝ちだ!文句は言わせねぇ!単純なコイントスと違って、ルールに裏があることに気付かなかったお前の努力不足だ!つまりお前の強運に俺の勝利への執念が勝ったってこと!異議なし!俺ポジティバー!」

 

屁理屈に負け惜しみと姑息さ、卑怯者のオンパレードを煮詰めたようなスバルの醜い主張に、少女は「ぐぬぬ」と悔しげにうなる。

それはこの短い時間の中で、常に不敵さを保ってきた少女が初めて見せた負の方向に寄りかかった表情であり、

 

「――ならば、最後の勝負じゃ」

 

「はぁ?なにを仰る、ウサギさん。最後の一個を賭けた勝負は俺の勝ちで幕引き。もうこれ以上、勝負する理由が俺にはナッシング!」

 

「貴様の持つ一個のリンガと、妾が勝ち取ったリンガ全てを賭ける」

 

勝ち逃げしてこの場を終わらせようとするスバルに、少女は爛々と瞳を輝かせてそう言い放った。

その言葉にスバルも動きを止めて、凝然と彼女を見つめ返す。その黒瞳に映る少女の表情にはすでに不敵さが戻り、いやそれ以上の執念が見てとれた。

 

「勝負の内容はまたしてもジャンケン。ただし、互いに『グーチョキパー』の手が切れるのは一度のみ」

 

「正気か?言っとくが、今ならリンガ十個はお前のもの……」

 

「妾は全て寄越せと言ったはずじゃ。全てでないなら、ないのと同じ」

 

いっそ清々しいほど独善的な理由。

少女は首を傾け、「返答やいかに」とスバルの覚悟を問い質す。その言葉に対してスバルは内心で、「こいつはかなりのアホだ」と断言していた。

こうした勝負に熱くなり、引き際を見失うというのはいかにも愚か者である。勝利への執着心、それらに薄いスバルにとって、理解しがたい感情であることは間違いない。

なにより、他人のものを奪うことにそこまで全霊を傾ける強欲さがわからない。

故に、リンガひとつ確保した時点で、そして一度とはいえ彼女の鼻っ柱をへし折った実感のある時点で、スバルがこの勝負に乗っかる理由はない。

ないのだが――、

 

「おっちゃんの、傷だらけの顔が俺の背中を押す。――絆の果実を取り戻せ。そして高慢ちきな女の鼻っ柱をへし折って、いやんばかんなことをしろと!!」

 

「承諾と受け取ったぞ」

 

低い声で確認してくる少女に、スバルは顎を引いて同意を示す。

そして互いに拳を振り上げ、最後の勝負のシークエンスに入った。

 

――手が出るほんの数秒の世界がコマ送りになり、思考が加速する。

 

前提条件として『グーチョキパー』は一回。そしてこれが必勝の手段である以上、当然のようにお約束として最初に切るカードとなる。これがあいことなれば、そこからは純粋なジャンケンとしての勝負に移行する。

 

女の豪運はもはや脅威と呼ぶべき領域にある精度だ。

 

七度連続のコイントスでの裏表看破、そしてコイン回しによる左右の手の中のコインの位置の認識。未来予知しているといわれれば信じてしまいそうになるほど。

だが、未来予知などできるはずがない。先の展開を知っていて、それを塗り替えるために行動することが可能などチートに過ぎる。そんなバカな能力が――、

 

「あ、俺まさにそうだった!」

 

「いくぞ、じゃーんけーん……」

 

集中が途切れたタイミングを狙い、少女の手が振り下ろされる。それを見やり、とっさにスバルも追従して拳を突き出す。

そして――、

 

「当然のようにグーチョキパーがきたか。だがな、甘いぜ」

 

目の前に突き出されるグーチョキパーの手を見て、スバルはにやりと頬を歪める。

そのスバルの余裕の態度の前で、再び少女は不可解さに目を瞬かせ、

 

「その手は、なんじゃ?」

 

サムズアップを場に突き出すスバルに、どこか冷え切った声がかけられる。

が、スバルはその声の調子に気付かずに鼻息を「ふふん」と出すと、

 

「これが禁じ手のさらに上を行く裏奥義『爆弾』だ。グーチョキパーすらも吹き飛ばす最強の必殺技。ばし、どかん、相手は死んだスイーツ」

 

「なんじゃそれは!?なんでもありか!?」

 

「正真正銘最後の隠し種だよ!グーチョキパーの利用法については確認したけど、別の手については聞かれなかったから答えなかったんですぅ。爆弾の効果でお前にダイレクトダメージ!粉砕!玉砕!俺大喝采!」

 

手を激しく叩いて場の雰囲気をこちらに引き寄せ、スバルは高らかに勝利を謳う。少女は悔しげに唇を噛むと、震える指をスバルに突きつけ、

 

「か、勝てばなんでもいいと言うのか。男としての矜持はないのか、貴様!」

 

「勝ちゃぁいいんだよ勝ちゃぁ!勘違いすんな!俺は戦うのが好きなんじゃねぇ!勝つのが好きなんだよぉ!」

 

悪役小者まっしぐらな発言を堂々とかましてスバルは足踏み。それから突きつけられた少女の指に上から掌をかぶせ、

 

「今の勝負を行った以上、さっきのグーチョキパーでの俺の勝利を間接的にお前も認めたも同然!つまり今の勝利も認めざるを得ない流れを自ら作ったわけだ!はっはー、本当にジャンケンは地獄だぜ!」

 

「ぐぬぬ……」

 

と、勝ち誇るスバルに悔しげにうなる少女。が、彼女はすぐに「仕方があるまい」と肩をすくめると、腰に手を当てて胸を張り、

 

「貴様の言う通り、通してしまったからには今さら引けん。よって、賭けは貴様の勝ちであると言えよう。では、望み通りにするがいい」

 

ほれ、とばかりにずいと前に出てくる少女。その豊かな胸を強調するような姿勢と、支えるものがないのかドレスに包まれた胸が軽く揺れる。

改めて目の前でじっくり見てみると、ちょっと想像を越えた物体だ。いわゆる巨乳という人材とのエンカウントは、これまでのスバルの人生には一度もなかった。ロズワール邸の乳ランキングはエミリアの美乳がトップであり、その下の双子はお世辞にも大きいとはいえない。ベアトリスはそもそも評価対象外だ。

故に、正式な褒賞とばかりに突き出される少女の体にスバルは唾を呑み、

 

「お、おいおいおいおい、潔いこったな。もうちょっと『いやんばかん、そんな恥ずかしいことアテクシできないマイッチング』みたいな素振り見してもいいんだぜ?そうすりゃ男ナツキ・スバル、慈悲の心を見せるのも吝かじゃ……」

 

「勝負において負けが決まり、その上で言い訳など許されることではない。負け惜しみも同様。貴様の言う通り、加護の上にあぐらをかいて勝利への執着を忘れたのは妾の落ち度よ。――もっとも、これまで負かされたことなど一度もなかった妾にとっては貴重な経験ともいえる。よって、惜しむことはない。持ってゆけ」

 

さあ、とばかりにさらに前に出てくる少女。その勢いに気圧されて、少女が前に出た分だけ後ろに下がるスバル。その態度に彼女は眉を寄せ、

 

「まさか貴様……いざ胸に触れるとなった段階で、怖気づいたのか?」

 

「はぁ!?な、なに言ってんだかマジわかんねぇし!誰がびびびびってんだよ!?どこ情報よ!?何時何分地球が何回回ったとき!?」

 

「……どうにも調子の狂う男よ。そうして怖気づくところは、愛いといえば愛いが」

 

呆れたように掌を額に当てて、少女はスバルを艶めかしい目で眺める。その視線に背筋を寒気が走り、スバルは思わず女性のように自分の体を抱いて、

 

「もうなんかなんでもいいから解放してくらさい。リンガだけ持って戻りたいんッスわ。連れのマジかわいこちゃんとはぐれてるとこで……ってか、もうこれたぶん完全にタイムアウトだけど」

 

今頃は行方不明になってしまったスバルを懸命に探しているに違いないエミリア。詰め所から出る前に戻り、さもちゃんと待ってましたと言い張る作戦はもはや通用しまい。目の前の色香に迷ってまんまと時間を無駄にしたスバルには言い訳する資格もないが。

 

「おまけにいざ権利を手にしたら行使するのを躊躇うへたれぶり。ちゃうねん、俺の中の純情が言ってんだよ。異世界で最初のパイタッチは、意中のあの子のじゃなきゃやだやだいって」

 

「カビ臭い価値観というか……それはそれで妾としても気に入らんが」

 

触る触らないの狭間で問題が逆転し始める二人。

スバルは童貞らしさを発揮して直前でヘタレ、少女の方は少女の方で差し出した己の身をこれ幸いにと引き上げるというのはプライドが許さないらしい。

まさに一進一退のわけのわからない状況に陥る中、変化は二人ではなく外からもたらされた。

 

「――ふむ、これは面倒なことになりそうじゃな」

 

ふいにスバルから視線を外し、少女は通りの入口の方へ顔を向ける。つられてスバルもそちらへ顔を向けると、

 

「あれ、なんかあんまりガラの良くない方々がぞろぞろいらっしゃるような?」

 

「そして先頭にいるのは見た覚えのある塵芥じゃな。やれやれ、面白味の欠片もない愚物共よ」

 

呆れと侮蔑を隠さぬ表情で首を振る少女。その隣でスバルは慌てて立ち上がると、集団がやってくるのと反対の方の路地を睨む。そちらから団体が迫ってくる気配は感じないが、行き止まりでないという確証もないが――、

 

「どちらにせよ、捕まったらBADEND直行の雰囲気が臭すぎる!ラインハルトの名前聞いて戻ってくるとか、あいつらもなに考えてんだ!?」

 

「騎士の中の騎士と知り合いなどと、ハッタリを効かせすぎたのがばれたんじゃろ。奴らも面子がある。数を揃えて、負け目をなくして挑んできたわけじゃ。貴様がさっきから言っておった勝利への執念というやつじゃな」

 

「なんたる負け犬スピリッツ!俺は自分がプライドないのは許せても、他人がプライドない振舞いするのは許せねぇタイプだってのに!」

 

だいぶ身勝手なことを発言するスバルと少女。その二人の存在に、集団の先頭を歩いていたトンチンカンが気付いた。何事か叫び、背後の集団に合図して駆け出そうとする強面の男たち。それを目にしてスバルは、

 

「ちきしょう、今日は本格的に厄日か!」

 

竜車での転落未遂に始まって、エミリアとはぐれてさらにこの様――下手をすれば刀傷沙汰にもなりかねない。本当に碌な目にあっていない。

スバルは隣で突っ立っていた少女の手を強引にとると、リンガを袋に詰めて全力で背後――行き先もわからない闇の方へと足を踏み出す。

 

「おい、なにをする、気安く触るでない」

 

「言ってる場合か!捕まりたくなきゃお前も走れ!あの連中の好色そうな面を見ろ!捕まったら青年誌的な展開に持ち込まれてエロイズム爆発!」

 

走る意思に乏しい少女を強引に引きながら、スバルは「そ・れ・に!」と一音ごとに区切りながら力強く前へ踏み込み、

 

「今、お前のオパーイの所有権は俺にある!よって、奴らに触られるなんて言語道断のおっぺけぺーだ!わかったらダッシュ!Bダッシュ!」

 

腕を引き、悪路を駆け抜け、スバルは少女を連れたまま路地の奥へと向かう。

背後、男たちの罵声と足音が連鎖して追いかけてくるのを感じながら、早くも高くなり始めた鼓動と痛み始める肺の感覚――それらを意識して無視しながら、スバルは狭い狭い路地の中を、奥へ奥へと走り出していった。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

エミリアが衛兵の詰め所から解放され、元の通りへと戻ることができたのはスバルを置いていった二十分後のことだった。

 

本来の目的であるラインハルトとの繋ぎ――これに関しては長い時間をかけたにも関わらず、結論だけいえば失敗に終わったといえる。

案内してくれたユリウスにラインハルトの話を振ったところ、

 

「ラインハルトですか?ここしばらく、彼は忙しくしていましてなかなか時間が取れないようで……いえ、エミリア様のお言葉でしたら私から彼に伝えますが」

 

と、そう申し出てくれるユリウスにどうにか断りを告げ、早々に目的にとん挫したエミリアは通りへ戻る予定だったのだが。

 

「思った以上に、ユリウスに時間を取られちゃったわね」

 

「悪気はまったくないし、弁えてもいたから不快感はないけどね。それに彼の彩り豊かで清涼なマナ、ボクは嫌いじゃないよ」

 

やっと解放されて通りへ出たエミリアの言葉に、銀髪の中からパックが応じる。彼の言葉にエミリアは「ええ」と頷き、

 

「悪い人じゃないのはわかってる。話だって有意義な内容だったと思うし、そのことに不満はないんだけど……」

 

「まぁ、いかんせんちょっと自分の話をしすぎるよね。……こういうの、スバルがいたら空気が読めないっていうんだっけ?」

 

からからと笑うパックに吐息を返し、それからエミリアは通りを見渡す。二十分ともなると、待ちくたびれるには十分すぎる時間でもある。

それだけの時間を彼に無為に過ごさせてしまったのは素直に申し訳ない。が、それ以上にエミリアの心を不安にさせていたのは、

 

「なんていうか、予想通りって感じだよね」

 

「……二十分も、ジッと待ってられる子じゃないとは思ってたけど」

 

嫌な不安が的中してしまった、とエミリアは銀髪に手を差し込んで俯いた。

見渡せる貴族街前の通りに、待つよういっていたはずのスバルの姿がない。どこかしらの物陰でこちらを待っているものかとも思ったが、詰め所の前で数分時間を潰しても姿を見せないところをみると、

 

「もう、この通りにはいないみたい……パック、辿れる?」

 

「どうにかやってみるけどね。今、スバルのマナって全体的に薄い感じだから失敗しても怒っちゃやだよ」

 

「そういう言い方、スバルに似てきてる。――とにかく、お願い」

 

はーい、と小さく返事して、銀髪を掻き分けてパックが表へ出てくる。彼はフードの中から抜け出すと、エミリアの肩に腰掛けて、そのピンク色の鼻を鳴らし、スバルの臭い――この場合は、彼の体に満ちるマナの残滓を嗅ぎ求める。

 

ある程度、見知った相手のマナならばパックの鼻はかなりの信頼度だ。問題はスバルがいなくなってからどれだけ時間が経ったのか。そして、彼の現在の体調によるマナ不足の問題。どちらも、合流するのに一抹の不安をもたらす。

 

そうしてパックが鼻を活用している間に、エミリアもスバルの行き先に当たりをつけようと周囲を見回す。

通りは貴族街への入口の役割を持つことと、なにより詰め所の前ということもあって人通りは非常に少ない。貴族街への出入りはかなり厳しく取り締まられているし、貴族街に用のないものにとっては詰め所の前など好き好んでうろつきたい場所でもないだろう。よって、エミリアを除けば通りにある人影は片手で足りるほどで――。

 

「……あの人、なにをしてるのかしら」

 

それだけに、ふと通りの向こうで見かけた人物の奇行はひどく彼女の目についた。

場所は詰め所から数十メートル離れた位置で、貴族街の入口とは反対に平民街の方へ繋がる道筋。その途中、道の脇に設置されたゴミ回収用の木箱に寄りかかり、その中に頭と腕を突っ込んで中を探っているのだ。

 

「落し物とか探してるのかも」

 

唇に指を当てて、エミリアはそんな風に考える。ちらりと肩を見ると、目をつむるパックは一生懸命に鼻を鳴らし、いまだに残滓を追いかける最中だ。

まだ動き出す切っ掛けは掴めていない。それだけ確認すると、エミリアは「よし」と小さく己に呟いてから足を踏み出し、その怪しげな人物の方へ向かう。

 

もしもこの場にスバルがいれば、あるいは別の誰かがいれば、このときの彼女の行動を制止したことだろう。それほど、熱心にゴミ箱を漁る人物の下へ向かうという行為は忌避感が伴うものだ。が、単独であったエミリアを止める人物はこの場におらず、ゆいいつ忠告ができそうなパックも今は彼女の行動に気付かない。

よって、彼女の行動は阻まれることなくその人物の背中まで届いてしまった。

 

「あっれ、ここにもいねぇな、姫さん。参ったぜ、実際。どうしたもんかねぇ」

 

すぐ後ろまで辿り着くと、その人物がそんなことをぼやいてるのが鼓膜に届く。

後ろ姿を見ればわかっていたことだが、男の声だ。木箱に上半身を突っ込んでいる男性、その格好はやや薄汚れた軽装。しかし、腰の部分に横向きに備えつけられた身幅の広い剣の主張だけが非常に強い。

後ろから見た背中から下半身にかけての体の造りも頑強なもので、一端の戦闘力を持つ人物であることは間違いないだろう。

 

聞こえた口調の粗雑さからも、普通ならば接触を避けたい類の輩ではある。

が、やはりそこにいたのは普通の概念からやや外れた、お人好しのハーフエルフ。

 

「あの」

 

「――んぁ?」

 

物おじせずに声をかけると、男が驚いたような声を上げて頭を引き、

 

「んがっ!」

 

上半身を抜き出す直前で後頭部を箱の入口に強打。その場に屈み込み、その勢いで箱の外側に今度は顎を激突。頭部の上下を連続してやられ、男は蹲り、

 

「おぉあ、痛ぇ……!なんだこれ、オレ、いい年こいて何してんだ……」

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

妙に切ない声で己を省みる男に、エミリアは自分が声をかけたことへの罪悪感でその肩に触れる。と、

 

「きゃっ」

 

男が勢いよく立ち上がり、肩に触れていたエミリアは驚く。

それから男がその場で身を回し、後ろに立つエミリアと真正面に向き合った。

 

男の方が背が高いため、わずかにエミリアの視線は斜め上へ。そして、その男の顔と向かい合った瞬間、エミリアの紫紺の瞳が驚愕に押し開かれる。

 

そうして驚愕に喉を塞がれるエミリアに指を突きつけ、男は言った。

 

「おい、あんまり気安く触るなよ、嬢ちゃん。オレに触れると火傷するぜ」