『遅すぎる抗い』
グラスの鋭利な先端には血の滴が浮かび、それは元を辿ればロム爺の喉に行き着く。
腕を失い、喉を切り裂かれたロム爺は血の泡を大量に口から吹きこぼし、その灰色の目から光を失って地面に倒れた。
痙攣する体にはすでに力はなく、その身から命が失われたことに疑いはない。
倒れ込んだ巨体に対し、エルザはまるで敬意でも払うように優雅に一礼する。
まだかすかに震えるロム爺の足下、そこに最後の凶器となったグラスを置き、
「お返しするわ。もう必要ないから」
酷薄に言って、手の中のククリナイフを旋回。
刀身を赤く染める血を払い、その先端を改めてエルザは二人に向ける。
その場にへたり込むスバルは言葉もない。
ただただ、たった今、目の前で行われた残酷なまでの殺戮に意識を奪われていた。
ほんの数分前まで、言葉を交わしていた相手が死んだのだ。それも事故や病によって奪われたのではなく、明確な他者の悪意によって。
「――あら、あなたの方が勇気があるのね」
動けないスバルは、エルザのその感心したような声を聞いて顔を上げた。
手足に意思の伝わらないスバル。そんな呆然自失の彼の前に、震える膝を鼓舞するように叩いて立ち上がるフェルトの姿があった。
足を真っ直ぐに伸ばし、彼女は血を浴びた己の金髪を後ろに撫でつける。
「よくも、やってくれやがったな……」
背後のスバルにはその表情は見えない。
しかし、彼女の絞るようなその怨嗟は、涙声では決してなかった。
「余計に手向かうと痛い思いをするかもしれないわよ」
「反撃しなくても殺す気だろーが、クソサディストめ」
「動かれると手元が狂うかもしれないの。私、刃物の扱いが下手だから」
手の中のナイフを器用に回転させ、ナマス切りの予行演習をしてみせるエルザ。
対するフェルトの両手は無手で、勝ち目などあるはずもない。
声を出すべきだと、スバルの脳は結論を出していた。
声を出し、エルザの注意をこちらに引きつけ、フェルトの逃走の時間を稼ぐべきだと。
せめて彼女が誰かを呼ぶ時間を、あるいは彼女だけでも逃がす時間を作らなければ。
彼我の戦力差を乏しい経験値で分析し、その結論をスバルは得ていた。
にも関わらず、その喉は凍りついたように音を発さない。
手足には闘志は伝わらず、ただカタカタと怖気づいたように震えているばかりだ。
「……悪かったな、巻き込んで」
「……お、おれは」
動けないスバルにフェルトが投げかけたのは、小さくか細い謝罪の言葉だった。
それを聞いたスバルは弾かれたように顔を上げ、本来ならば出さなければいけなかった叫びも忘れて、まるで許しを乞うような泣き言の走りだけを口にする。
そして、そんなスバルの感傷をフェルトは永遠に置き去りにして駆け出した。
踏み込みの音は高く、飛び出す身は羽のように軽い。
フェルトが走り出す――次の瞬間、蔵の中をまさしく突風が吹き荒れた。
疾走の直後、スバルの目にはフェルトの姿が消えたようにしか見えなかった。
スバルの視界から消え、次にフェルトの姿が出現したのはエルザのすぐ側、フェルトの速度に目を見開くエルザの横っ腹に、その細い足がめり込んでいた。
一撃を入れて、フェルトの体は跳ねるように飛び退き、再び風にトップスピードを乗せる。
空間の限られた蔵の中にあって、壁すらも大地として扱う彼女の動きは変則的ですさまじい。さしものエルザもその曲芸じみた技に驚きを禁じ得ず、
「風の加護。ああ、素敵。世界に愛されているのね、あなた。――嫉ましい」
恍惚をはらんだ微笑が一転、どす黒い憎悪を瞳に宿し、エルザの腕がしなってうなる。
ただそれだけで、
「――あ」
――空中で肩から撫で切りにされたフェルトが、受け身も取れずに地面をもんどりうって転がっていく。
傷口は左肩から右の脇まで抜けており、その深さは骨を断って内臓にまで達している。
仰向けに倒れる体からは、拍動に合わせて噴水のように血が噴き出し、痛みと斬撃のショックで意識がすでにないのだろう、ピクリとも彼女は動かない。
そのまま数秒で血は勢いを失い、それは彼女の生命の終わりをも無言で明示していた。
体は動かない。
倒れるフェルトの側にいって、その傷口を塞いでやりたい。
それがあまりにも遅すぎるというのなら、せめてその開いた瞼を閉じさせてやりたい。
それすらも体は拒絶し、ただただ血液を痛みとともに全身に送り出すだけの無為な機関と化している。
「お爺さんと女の子は倒れ、なのにあなたは動かない。諦めてしまったの?」
いっそ憐れむような声音で言って、エルザは呆然自失のスバルをつまらなそうに見る。
近づいて、ナイフを一閃するだけで全てが終わる。そんな結果が見えているからだろう、彼女の仕草には欠片の緊張もなく、いっそ欠伸を噛み殺すような態度すら垣間見えた。
そんなエルザの態度に、堪え切れない怒りを感じる。
出会って間もない、ほんの小一時間程度の絆でしかない。
だが、それなりに会話して、それなりに心情をぶつけた相手だ。それをあっさりと殺しておいて、なんら呵責を得ていないその態度が許せない。
そして何より、唾棄すべき相手を前にして、二人を見殺しにした自分が何より許せない。
遅すぎる怒りが、スバルの手足に動く原動力をもたらしていた。
震える四肢を地につき、獣のような姿勢でどうにかこうにか立ち上がるシークエンスに入る。体の震えは怒りと恐怖のどちらが理由か、あるいはどちらもか。
「ああ、やっと立つのね。遅いし、つまらないけど、悪くはない」
ククリナイフを構えるエルザに向かって、牙をむいたスバルが全身全霊で襲いかかった。
飛びかかり、ただ限界を超えて振るわれる腕力で叩き伏せる。
その吶喊は、
「でも全然ダメ」
鼻面を叩き潰すような彼女の肘打ちによって、真正面から返り討ちにされていた。
身を回し、最小限の動きで肘を叩きつけ、のけ反るスバルの身を長い足が弧を描いて直撃、その体を軽々と背後へと吹っ飛ばす。
散らばっていた陶器類の棚へ激突し、破片をばらまきながらスバルは転倒。
たった一瞬のその攻防だけで、鼻と前歯がおしゃかにされた。蹴りの直撃を受けた脇腹も尋常でなく痛み、骨の何本かは持っていかれた感覚がある。
それでも拳を地面に叩きつけ、間髪入れずに立ち上がる。脳内麻薬が全身を駆け廻り、かつてない痛みをそれと認識させない。
興奮状態の荒い息に任せるままに、スバルは再び考えなしの特攻――返り討ち。
振り乱した腕はエルザに届かず、しなる腕が峰を返したナイフでスバルの肩を砕く。
苦鳴が上がるのをわずらわしいとでもいうように、顎を真下から蹴り上げられて強制的に叫びが中断、折れた前歯がこぼれ落ち、くずおれるスバルをエルザが見下ろす。
「てんでダメ。見たまま素人で動きは雑。加護もなければ技術もなく、せめて知恵が絞れるかと思えばそれもなし。いったい、どうして挑むのかしら」
「うるぜえな……意地があんだよ……ごんだげ、やられっだらなぁ」
鼻が折れているせいで、罵声ひとつまともに紡ぐことができない。
今のカウンターで腕がやられて、左肩から先がぷらぷらとしている。痛みは感じないが耳鳴りが酷い。憤怒と戻ってきた吐き気を思うさまに口からこぼして、ふらふらと立ち上がる。
その姿は満身創痍。勝算はゼロで、一矢報いれる可能性すら万にひとつ。
光明の欠片も見えない状態で、それでも立ち上がるスバルにエルザは小さく吐息し、
「飛び抜けた気骨だけは認めてあげる。それがもっと早くできていれば、この子たちも少しは違ったかもしれないけれど」
片手に下げたナイフで、切り捨てられた二人の死体を示してみせるエルザ。
その先端の動きにつられて二人の死体に目をやり、スバルは突如として生じた違和に眉を寄せた。
何故だろうか、この光景に、見覚えがあるような気がする。
血の海となった盗品蔵。片腕を失い、首を断たれて倒れる巨体。そして灯の消えた薄暗い室内に、鈍く輝く赤銅の刃――。
スバルの脳裏を、電撃的にある考えが過った。それは――、
「終わりにしましょう。天使に会わせてあげるわ」
赤い唇を舌で舐めて、蠱惑的な微笑みが闇に溶ける。
影に沈んだとしか思えないような歩法に、脅威を見失うスバルの喉が呻きを上げた。
「ど、どごだ……!?」
せわしなく周囲に視線を走らせ、音に気配に神経を尖らせて出方をうかがう。
その様子はまさに、猛獣に狩られるのを待つだけの弱者の醜態に他ならない。エルザからすれば興醒めするほど、無防備にまな板の上で寝そべる鯉のようなものだっただろう。
故に、影から抜け出すように現れた彼女の斬撃は鮮やかなほどまっすぐで、
「な――!?」
狙いを腹だと断定していたスバルに、間一髪の回避を間に合わせていた。
短く後ろに飛び、身を引きながら腹を引っ込め、横薙ぎの刃をかすらせるにとどめる。腹の皮が薄く裂かれ、鋭い痛みが走るのを、歯を噛みしめて根性で我慢。
「っっっっっるるるぁぁぁぁ!!」
そして渾身の回し蹴りが、エルザの顔面を真横から打ち抜いていた。
腰をひねっての会心の一発、すさまじい足応えに『一矢報いてやった』という確かな実感が胸中を駆け巡る。そして、
「ああ、今のはとても、感じたわ」
エルザが腰から引き抜いた二本目のククリナイフが、スバルの胴体を七割ほどかっさばいて血と内臓をぶちまけていた。
「――あ?」
一歩、二歩、よたよたとよろめきながら歩き、肩から壁にぶつかり、滑るように崩れ落ちる。見下ろす眼下、腹部からはとめどなく血が溢れ出し、腹圧に耐えかねて中身がこぼれ落ちそうになっている。
震える片腕でその中身を腹に戻そうとするが、こみ上げてくる血塊に遮られ叶わない。
「驚いた?すれ違いざまにお腹を開いたのよ。これだけは私、得意なの」
笑いながら言って、エルザが血の海を水音を滴らせて歩き渡る。
彼女は言葉もなく苦鳴だけを吐き出すスバルの側にくると、どす黒い血の中にこぼれる臓腑を愛おしげにうっとりと見つめて、
「ああ、やっぱり――あなたの腸は、とてもきれいな色をしていると思ったの」
この女は、異常だ。頭がおかしい。
脳内麻薬すら誤魔化し切れない激痛に視界がかすみ、いつしかスバルの体は床に横倒しになっていた。
その体勢のまま、震える腕がゆっくりと伸び、目の前のエルザの足を弱々しく掴む。
「ぁぅ……うぁ」
「痛い?苦しい?辛い?悲しい?死んじゃいたい?」
足首を掴まれたまま、エルザはその膝を折るとスバルと視線を合わせる。
その瞳は恍惚としていて、今まさにひとりの人間の命を刈り取ろうとしていることに、何の感慨も抱いていない。いや、感慨を抱いてはいる。
これ以上ない、幸福としてだ。
「でも簡単にはダメ」
嫣然と微笑み、彼女はしゃがんだままでその凶刃を振った。
そして、それがスバルが見た最後の光景だ。
斬撃が鮮やかに走り、スバルの顔を掠めるように横断する。その結果は、
「――――――――――――――っががあああぁ!?」
両の瞼を切り裂かれて、永遠に光を失うというものだった。
地に倒れ伏したまま、スバルは深々と切られた双眸に手で触れる。
血と涙が混ざり合い、絶叫を上げる口からはとめどなく吐血を繰り返し、腹の中身はそれこそ血と臓物とが全てこぼれ落ちたような欠落感に襲われている。
生きているのが不思議な状態。生きているのが地獄の状態。
そんな己の姿を、見ることすらできない、いつ死ぬのかわからない瀕死の状態。
「ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、悶えて」
なぶるように、ねぶるように、悼むように、愛しむように、慈しむように、エルザの声が終わっていくスバルの鼓膜をゆるやかに叩いている。
痛みが、苦しみが、怒りが、悲しみが、ただただ漆黒の恐怖に塗り潰される。
視界の利かない世界で、いつ命の灯火が消えるのかわからない世界で、スバルの空虚となった心を支配するのは、ひたすらに襲いくる死への恐怖のみだった。
いつ死ぬ?いつ死ぬ?まだ生きているのか?死んでいるんじゃないのか?
なにが生を定義する?こんな虫以下の状態を生きていると呼べるのか?生死を掌でもてあそばれている今を生きていると呼べるのか?
生死ってなんだ?死ぬってどうして恐いんだ?生きるのは必要か?否か?
恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い。
とめどなく押し寄せてくる、絶対的な死への本能からの拒絶。
それがもはや終わりに手をかけたスバルの脳を埋め尽くし、鎖された視界が真っ白に染まり、
――あ、死んだ。
そんな感慨を最期に、ナツキ・スバルの命はあっけなく潰えた。