『最も新しい英雄と最も古い英雄』


 

――避難所には、沈鬱な静寂が落ちていた。

 

すすり泣くような微かな息遣いと、誰かが落ち着かなげに指で床を叩く音。

静かな空間にやたらと心地悪く響くそれらを聞きながら、膝を抱えた少女は冷たい壁の感触を背中に味わっていた。

 

金色の髪をした小柄な少女だ。

小さな白い膝に顎を乗せ、蹲る少女はすぐ傍らの重みをそっと抱き寄せる。

少女の左肩に寄り掛かり、膝と胸の間に頭を入れているのはまだ幼い少年――少女の弟だ。散々泣き喚いていたものだが、今は泣き疲れて眠ってしまっている。

頬には涙に濡れた跡が残り、泣きはらした眦は真っ赤になっていた。そっと頭の一つでも撫でてやりたいが、そうすることで弟が目覚めてしまうことを考えると、少女にはその行動が躊躇われた。

 

きっと、眠ったままでいられるのなら、今は眠ったままでいる方がずっといい。

安らかな弟の寝息を聞きながら、せめて夢の中だけでも安息であればいいと願う。夢の外の現実は、まだ幼い弟には過酷が過ぎるものだと思うから。

そしてそれは、弟を思う幼い姉にも同じことだった。

 

――都市プリステラの大水門、その制御搭が奪われたという宣告から数時間だ。

 

放送のあった朝、弟と出かけていた少女は都市の広場でそれを聞いた。耳を疑うような内容に、耳を滑る悪意の罵詈雑言。受け入れ難い宣告に両親の身を案じながら、少女は不安げな弟の手を引いて周囲の大人たちと一緒に避難所へ逃げ込んだ。

 

――不測の事態が起きたときは避難所へ駆け込む。

それは毎朝、都市庁舎からの定例放送で言われ続けていた危急への対処法だ。

朝の放送は正直、歌姫様の歌以外には真面目に聞いていた記憶のない少女ではあったが、それでもとっさに思い出せるぐらいには耳に残っていた注意。

ただ、避難所へ逃げ込んでからどうするか、という点は少女だけでなく、周囲の大人たちも明確な答えは持ち合わせていないようだった。

 

――魔女教。制御搭。大水門。要求。

 

悪辣な女の嬌声が、不安に怯える人々の心を掻き毟るように罵声を浴びせる。

聞くに堪えない雑言に紛れた不穏な単語の数々は、いずれも少女や大人たちの心を恐怖で絡め取るのに十分な効力を持っていた。

 

暗がりの避難所に閉じ込められ、外のはっきりとした状況もわからない。好転の兆しも見えないまま時間を過ごせば、募る不安が首をもたげるのは当然の流れだ。

最初は互いを励まし合っていた声の調子が弱まり、次第に沈黙の中に不安と苛立ちを覚え始める。気付けば周りにそれとわかるほど不機嫌を露わにするものが現れ、その雰囲気が伝染して行き場のない不服と不満が視線や態度の棘となる。

 

そうなれば後は止まらない。

睨み合い、罵り合い。最悪、手が出て取っ組み合いになる。

この避難所でもその空気が蔓延し、まさに一触即発のところまでいった。

 

「ぁ――――っ」

 

危うく血を見る寸前の物騒な空気を、少女の泣き喚く弟が粉々にした。

短い金髪を振り乱し、泣いて縋る子どもを乱暴に振り払わない程度には、沸騰しかけた大人たちにも大人としての矜持と良識が残っていたらしい。

あれでなかなか、子どもの泣き声には力がある。

 

いつもはやかましいだけだと思っていた弟の泣き声。それが役立つこともあるのだと、少女は争いを止めた弟を後ろから抱きしめて、少しだけ泣いた。

 

それきり、この避難所での諍いは起きていない。

しかしそれも、危うい均衡の上に成り立つ仮初の平穏だと誰もがわかっていた。

次はもう、子どもの泣き声では決して止まらないだろう。

 

それがわかっているから、運命共同体であるはずの避難所の人々は互いに距離を取り、言葉どころか視線や息遣いすらも届かない関係を頑なに守る。

他人の意識に入り込まないよう、外界の一切を拒絶する。何が他者の気を引き、怒りを買ってしまうか、引き金を引いてしまうか誰にもわからないのだ。

だから自分のために、相手のために、小さくなって息を殺して、時が過ぎるのを深刻な顔で待ち続ける。待っていれば何かが変わる、そんな儚い希望に身を委ねて。

 

「――――ぁ」

 

ふと、掠れ声を上げて少女は顔を上げた。

静かに変化を待望していた感覚に、ささやかな空気の変化が引っかかったのだ。

少女と同じものに反応し、周りの人々の頭も数時間ぶりにわずかに動く。この都市の住人ならば誰もが感じたことのある、微かな空気の震え――放送の前兆だ。

 

静寂の世界の中、耳元を吐息が掠めるような音が聞こえる。その放送の前触れを感じ取れる身が、今はいっそ忌々しかった。

望んだ変化はあくまで好転だ。だが放送は、魔女教の悪意しか伝え聞かせない。

 

次はあの甲高い声音が、どんな無理難題を押し付けてくるというのか。

しかし、そんな少女の悲観的な予想は外れた。

 

『――あー、ええっと、これでちゃんとみんなに声が聞こえてるか?マイクテストマイクテスト、ワンツーワンツー』

 

聞こえてきたのが、どこかとぼけた少年の声だったからだ。

それまでの放送と打って変わって、自信のなさげな少年の声。毎朝の聞き慣れた偉い男の声でもない。聞いたこともない、若い声だ。

 

目を丸くする少女。周囲の大人たちも、何事なのかと顔を見合わせる。

そんなこちらの感慨は魔法器の向こうには伝わらない。少年はその後も何度か確認のための声を入れて、放送できている確信を得てから咳払い。そして、

 

『聞こえてるみたいで助かる。で、まず最初にいきなりこんな放送してごめん。驚かせちまったと思う。今度は何を言われんだって、不安に思った人が大勢いるはずだ。けど、安心してほしい。今、この放送をしてる俺は魔女教の人間じゃない。最初にそのことをわかってくれ』

 

「……魔女教じゃ、ない?」

 

使い慣れない魔法器に、少年の声の大きさがささやかに上下する。

ただ、その訴えの内容への驚きが勝り、そのことに言及するものは皆無だ。声の降る頭上を見上げ、ずっと暗い顔をしていた人々の表情が変わる。それは芽生えたかもしれない変化、希望に期待してのものだ。

誰かが、ぼそりと呟いた。

 

「じゃ、じゃあ……助かった、のか?」

 

その言葉が意味する期待に、避難所の全員が辿り着いた。

そうだ。そうではないか。魔法器を魔女教以外の誰かが利用するということは、都市庁舎を誰かが奪還したということに他ならない。都市庁舎から魔女教を追い払った誰かがいるのなら、あるいは制御搭や都市からも魔女教を――。

 

「魔女教の奴らを、ここから追い出して……!」

 

『それから期待させて悪いんだが、魔女教の奴らの脅威はまだ消えてない。都市庁舎は奪い返せたけど、制御搭に奴らはこもったまんまだ。都市が水に沈む危険も、そのための奴らの要求もまだ生きてる。そのことも、わかっていてくれ』

 

「――――」

 

だが、そんな儚い希望はあっさりと、他でもない放送の少年自身に砕かれる。

その少年の語り口はまるで、避難所にいる人々の心を読んだかのようだった。芽生えかけた希望を即座に摘むなど、無情にも程がある行いではないか。

 

期待を瞳に宿し、思わず立ち上がりかけた誰かの腰が落ちる。

不安から解放される兆しが誤りだったと告げられて、脱力する誰かを責めることは誰にもできない。むしろ怒りの矛先は、この放送の少年にこそ向けられる。

 

『ごめんな』

 

だが少年は、そんな八つ当たりめいた群衆の感情すら先読みした。

 

『今、みんなはこの放送をどこで聞いてる?避難所にいる人たちや、ひょっとすると避難所に逃げ込めてない人たちもいると思う。みんな不安でいっぱいなはずだ。怖いって膝を抱えたくなる気持ちもわかる。だってのに、わざわざ変にみんなの期待を煽るような真似して、俺を何様だと思ってると思う』

 

「――――」

 

『俺は、何様でも何者でもないよ。みんなとおんなじで、状況に振り回されて、理不尽に押し潰されそうで、ビビッて足が震えてる。そんな程度の奴だ。こうして放送でみんなに呼びかける役目も、ひと悶着があってそれで引き受けてる。俺には荷が勝ちすぎだって今でも思ってるよ。本当ならもっと、こうしてみんなに話しかけるのに相応しい人は他にいるんだ。きっとそうだ』

 

恐れと怯えに沈む住民の心を、わかったように代弁する少年の声は震えている。

続けて語られるのは、自分自身の価値を疑う少年の弱気な本音だった。

 

少女を含めて、聴衆の態度は怪訝と落胆を通り越し、ひたすら疑念でしかない。

今、誰もが希望を欲している。なのに、どうしてこんな少年が魔法器の前に立っているというのか。

他に相応しい人物がいるはずだと、放送する少年自身もそう口にしている。

それなのに、どうして彼が。

 

『だけど今、こうして俺が話してる。俺なんかよりよっぽどすごくて偉い人たちが、俺がやるべきだって、そう言ってくれてる。そうすることに意味があるんだって。俺の声、震えてないか?人前に立つのなんて、俺のキャラじゃないんだよ。立派なことも言えないし、みんなを引っ張ってくカリスマだって俺にはない。弱くて、どうしようもなくて、こんな大一番、今だって逃げたくてしょうがなくて……』

 

声の調子は徐々に落ち、聞いている側の心も奈落に引きずり込まれそうだ。

弱々しく掠れた声に、不安で縮んでいた胸が軋み、胃袋が締め付けられる。声の届く場所に、手の届く距離に、この声の少年がいるなら口を塞いでしまいたい。

 

「お姉ちゃん……」

 

いつの間にか、眠っていた弟が目を覚ましていた。

姉を呼ぶ声に少女は弟を抱きしめ、その耳にこの弱虫の声が忍び込まないように、押し潰されるような弱さに呑まれないように懸命に押さえ込む。

そうして弟を守る代わりに、声は少女の鼓膜を揺らし、弱さの道連れにする。

少年の、声は続いていた。

 

『何ができるかなんてわからなくて、耳を塞いで頭を抱えて、自分が蹲ってる間に全部解決してくれればなんて他力本願を本気で願って……』

 

「――やぁ」

 

ギュッと目をつむり、少女は失望と悲嘆を拒むように嫌々と首を振る。

わかっている。言われなくてもわかっている。

少年の言葉は、避難所にいる人々の、この都市で魔女教の脅威に怯えている全ての人々の、その心を見透かした代弁に他ならない。

 

それは少女の中に巣食う弱さだ。

大人たちの心の奥底に根付いた弱気だ。

まだ小さな弟の精神を苛む、耐え難い恐怖だ。

 

それはきっと、誰にもどうにもできないものだけれど。

だからといって、その太刀打ちできない現実を直視するなんて――。

 

『――それでも逃げられないから、戦う。俺は、それだけの奴だ』

 

そう言い切ったとき、少年の声の調子は確かに震えたままだった。

 

「……ぇ?」

 

聞き間違いだろうかと、少女は塞いでいた目を開けて頭上を見上げる。

そこに声の主はいない。ただ、周りも同じように呆気に取られた顔をしていた。

 

一拍、言葉を選び、声を整える時間があった。

そして、

 

『もう一度、聞かせてくれ。この声を聞いてる人は、今どこにいる?避難所に逃げ込めてるか?自分の家に隠れてるのか?一人で震えてたりしないか?誰かと一緒にいられてるか?一緒にいるのは大切な人か?知らない顔でも、この数時間で見知った顔ぐらいにはなったか?』

 

「――――」

 

『勝手な話だし、難しいかもしれないけど、お願いだから一人にならないでくれ。一人でいると、つまんない考えばっかり浮かんでくるんだ。経験則だ。わかるよ。だから一人にならないでくれ。誰かと一緒にいてくれ。そして――』

 

息を吸い、微かに声は躊躇いを舌に乗せながら、

 

『そしてできるなら、一緒にいる誰かの顔を見てくれ』

 

「――――」

 

言葉に導かれるように、少女はゆるゆると視線を腕の中に落とした。

弟が自分を見上げていた。頼りなく揺れる、翠の瞳と目が合った。

 

『今、誰の顔を見た?大切な人か、それともこの数時間を一緒に過ごした知らない相手か。友達って可能性もあるな。……たぶん、ひでぇ顔してるだろ。泣き顔だったり、辛そうな顔だったり、笑ってる顔はないと思う。いや、ひょっとしたら心配させないように、健気に作り笑いしてる人はいたかもしれない。いるんなら、それはすごい人だ。大切な誰かがもしそうして笑ってたら、誇りに思っていい。そう思った上で、知ってる笑顔と見比べてくれたらいい』

 

弟の顔は、泣き顔だ。

くしゃくしゃの、また今にも泣き始めてしまいそうな顔だ。

その弟の瞳に映る自分は、表情をなくしてしまったように虚ろな顔だった。

 

『――それが、許せるかよ?』

 

「……やだ、よ」

 

小さく、か細い声が少女の口から転び出た。

弱々しく掠れた、自分自身にすらはっきりと聞こえないような声音だ。

なのに、

 

『俺は許せない。許したくない』

 

続く少年の声は、まるでそれを聞きつけたように力強く響いた。

 

『俺にも大切な人がいる。大事な仲間がいる。俺はその大切な人たちに、辛い顔や悲しい顔をさせてる奴らが許せない。無理に笑顔を作らせるのも御免だ。ふざけんじゃねぇ。馬鹿にすんなよ。俺の知ってるこの子の笑顔は、本当はもっと可愛いんだぜって声を大にして言ってやりてぇ』

 

「お、姉ちゃん……」

 

『負けっ放しじゃいられねぇ。投げ出しっ放しじゃ格好がつかねぇ。やられっ放しでいいわけがねぇ。間違ってるのはあいつらだ。間違ってる奴らをやっつけるのに、正しいことをするのに力が足りなくても、何が正しいのかはわかるはずだ。自分が正しい側にあるってわかってるときに、間違ってる奴らに負けるのなんて我慢ならねぇ。そんな奴らに負けを認めるなんてこと、少なくとも俺はしたくない』

 

「フレド……」

 

弱々しく自分を呼ぶ弟を、そっと抱き寄せて額を合わせる。

伝わる熱がある。熱い熱い、生きている熱がある。

 

弟のものか、それとも自分のものか、わからないけれど熱がそこにある。

 

『逃げたい、けど逃げられない。泣きたい、けど泣いてられない。敵がヤバい、けど負けたくない。だから、戦う。弱いのも、頭が悪いのも、全部わかってるけど戦ってやる。あいつらが間違ってる。俺の好きな人たちに、泣きそうな顔させるあいつらが間違ってる。だから、戦う。俺は戦う。――みんなにも、戦ってほしい』

 

「――っ」

 

息が詰まる。とっさに喉が塞がる、自分の弱さが不甲斐ない。

さっきまでの声の震えが消え、力強く道を示す少年の声を聞いているからこそ。

 

気持ちはわかる。少年の言葉の意味も、痛いほどに伝わってくる。

少女の本音も、少年の志と一緒だ。戦いたい。都市を襲う悪い奴らを、追い出せるのならそうしたい。だけど、自分も弟も小さく、幼く、手は届かない。

無力で、無知で、弱気で、弱虫で、だから――。

 

『勘違いはしないでくれ。戦ってほしいって言っても、何も棒で殴りかかれって話をしてるわけじゃない。むしろ、そんな無謀は避けてくれ。徒党を組んで、魔女教相手に血眼になって戦ってほしいって話じゃないんだ。俺がみんなに頼みたいことは、望んでる戦いっていうのは、下を向かないでほしいってことなんだ』

 

「下を、向かない……」

 

『足下、じっと睨みつけてても何も変わらねぇよ。視線で穴が開くわけじゃなし、仮に開いても打開策に繋がるわけじゃなし……だから、顔を上げて、前を向いてくれ』

 

視線を上げる。自分の膝小僧でも、弟の金髪でもなく、避難所が見える。

気付けば少女と同じように、周囲の人々も顔を上げているのがわかった。

目が合い、驚いたようにその目を見開く。

皆が無意識に、少年の声に従って、少女と同じように顔を上げていたのだ。

 

『周り見渡してみたら、きっと誰かと目が合う。それは同じ不安とか、同じ逃げたいって気持ちを抱えてる誰かだけど……同じ、負けたくないって気持ちを抱えた誰かでもある。一緒にいる大切な誰かと、そうして今、目が合った誰か。そこに自分も入れて、それだけで三人。場所によっちゃもっと大勢がいるはずだ』

 

少年の言葉通り、顔の見える多くの人たちと視線が交わった。

その瞳に宿る輝きは複雑で、きっとそれは少女自身も同じに違いない。だけれどいつの間にか、ただ恐怖に震えているだけのそれではないようにも思えて。

 

『一人じゃないってことが、それで実感できてくれると嬉しい。一人じゃないって、それだけでわりと力になるもんだろ?大事な誰かの、悲しい顔が見たくない。目が合った誰かに、格好悪いとこ見られたくない。そんな薄っぺらで弱っちい意地っ張りが、まさか俺だけってことはないよな?』

 

「――――」

 

訴えかける声は、呼びかけてくる声は、人々の勇気を奮い立たせようとしている。

なのに少女には、少年自身が助けを、縋るものを求めているように聞こえた。

 

そうして、今さらのように気付く。

少年の心持ちは、この放送が始まった瞬間から一度だって変わっていない。

 

弱い自分を、足りない自分を、悔やみ恨めしく思いながら、諦めていない。

それだけが武器なのだと己を語り、それだけは一緒のはずだと皆に語りかける。

 

『信じさせてくれよ。弱くてどうしようもない俺が、まだ諦められねぇんだ。諦めの悪い弱虫が俺だけじゃないって……そう信じさせてくれよ』

 

卑怯な声だ。卑劣な呼びかけだ。

この声は他でもない。みんなが助けを求めているこんな状況下で、誰よりも先に恥ずかしげもなく、『自分を支えてくれ』と声高に叫んでいるのだから――。

 

『それとも、俺だけなのか?』

 

声が自信を失う。違う。最初から、少年の声に自信などなかった。

焦燥感が込み上げる。引き止めろ。なんと叫べばいいのかわからなくても。

 

「……ちが、う」

 

蚊の鳴くような、形にならない弱々しい声が喉からこぼれた。

そんな声では届かない。もっと大きく、答えなくてはならない。

一人であることに怯える、この弱虫な声に――。

 

『まだやれると……まだ戦えると、そう思ってるのは、俺だけなのか?』

 

「――違う!」

 

口を開き、少女は吠えるように叫んでいた。

避難所に響き渡る声。それは少女一人だけのものではない。

少女と、他にも同じように顔を上げた誰かが、声を上げていた。

 

それは悲しみに、弱さに、恐怖に、抗う声だった。

 

少年の思惑がそこにあるとしたら、きっとまんまと乗せられている。

計算ずく、そうだったとしても構うものか。あの弱っちい声の震えが、頼りない叱咤が、情けない激励が、縋るような信頼が、嘘っぱちの演技と言い切れるのなら。

そんな器用な扇動だったとしたら、乗せられたとしても仕方がない。

だがもしも、これが不器用な弱虫の本音なら、一人になんてしておけるものか。

 

『違うよな?』

 

「違う!」

 

『まだ、みんなも戦ってるよな?弱さに呑まれやしないよな?』

 

「負けない……負けたくない!」

 

胸の奥が熱い。歯の根が震えて、怒りとは違う激情に沸き立っている。

その感情は少女だけのものではない。周りのみんなのものも呑み込んで、一つの炎となって燃え上がる激情だ。

ほんの先頃、不安が一体としていたみんなの心が、それとは異なるもっと熱量の高い感情によって一つのものになっている。

 

『傍らにいるのが大切な人なら、その手を握って信じてくれ。隣り合うのが知らない誰かなら、一緒に頑張ろうって頷きかけてくれ。自分も、その人も、負けも折れもしないで戦えるんだって。みんなが折れずにいてくれるなら、俺も諦めないで戦う。戦って――戦って、勝ってみせる』

 

「――――」

 

所詮、都市庁舎から離れた一つの避難所だ。

ここでどれだけ声を上げても、気持ちは同じと叫んでも、少年には届かない。

それでも少年の声は、少女たちの声が聞こえたように安堵し、受け止め、感情の昂ぶりを声の震えに込めて言い切った。

 

――戦って、勝ってみせる。

 

できるのだろうかと、それを疑うことはない。

できるに違いないと、そう信じるのだ。

 

少年の声が、少女や都市の人々が絶望に負けないと信じてくれているように。

少女たちもまた、この声の少年が一番危険な戦いに勝ってくれると信じるのだ。

何故、それが信じられるのか。それは、この声がきっと――。

 

『――俺の名前はナツキ・スバル。魔女教大罪司教、『怠惰』を倒した精霊使いだ』

 

「――――!」

 

ここまで秘されていた少年の素性、明かされたその名にどよめきが生まれる。

少女には意味のわからない宣言。だが、周囲の人々にとってはそうではない。もたらされた衝撃は大きく、しかし決して負の印象ではない。

最初は驚愕、続いて理解――そして、希望と信頼が爆発的に広がり、少女の心すらもその感情の波に呑み込まれる。

 

『都市にいる魔女教は、俺と仲間たちがどうにかする!だから、みんなは信じて戦ってくれ。大切な人の手を握って、負けそうになる弱い心をぶっ飛ばしてくれ。そしたら』

 

「――――」

 

『――あとのことは全部、この俺に任せておけ!』

 

わ、と声が広がり、避難所の人々を熱気が支配した。

期待が希望になり、一つの希望は無数の希望に、それが一挙に拡大する。

 

少女は腕の中の弟を見下ろし、弟の翠の瞳に確かな光が宿っているのを見た。

それを確かめて、また強く弟の体を抱きしめる。おずおずと弟の手が少女の体を抱き返し、抱擁の熱を感じながら少女は天井を見上げた。

 

自分の怖気も、不安も、その何もかもを隠し切れないまま、それでも都市にいるたくさんの人々の期待と希望を背負い、戦うと宣言した少年。

顔もわからない、ただ心に描くばかりのその英雄に、考えられる全ての幸運が宿るようにと、少女は祈るように瞼を閉じた。

 

――だってきっとその少年も、大切な誰かのために理不尽に抗うだけの、どこにでもいる普通の少年に違いないのだから。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

蓄音機のような形をした魔法器から離れて、スバルはゆっくり後ずさる。

額を伝う汗は不安と緊張が原因だ。手近な作業台に寄りかかり、乱暴に拭う。

 

深呼吸を繰り返し、その音を魔法器が拾っていないか不安になる。

しかし、傍らにいたアナスタシアが魔法器を操作しているところを見ると、どうやら無事に電源的なものは落とした後らしい。一安心だ。

 

「……はぁ、しんどかった」

 

ため息まじりにそうこぼして、スバルは想像以上の疲労感に首を回した。

正直、喋っている間は無我夢中で、何を口走ったのか詳細が思い出せない。全部が飛んだわけではないが、所々は記憶が曖昧になっている。

ちゃんと喋ることの草案は、アナスタシアにメモとして渡されていたのに。

 

「――――」

 

顎まで垂れていた汗を袖で拭き、スバルは室内がやけに静かなことに気付く。

放送を見守っていた面々が無言なのだ。同席していたのはアナスタシアに、ガーフィールとアルの二人。合流したユリウスやリカードも部屋の隅にいて、普段は口数の多い顔ぶれの沈黙は居心地の悪さしか感じられない。

よもや、よっぽど下手くそで支離滅裂な放送をやらかしたのではあるまいか。

 

「ナツキくん」

 

「うわひゃ!ごめんなさい!次はもっとうまくやります!」

 

「なんで謝るん?変な子ぉやわ」

 

不安に心臓の痛い思いをしていたスバルは、呼びかけに思わず謝ってしまう。その反応にアナスタシアが笑い、彼女は笑みのまま首を傾げた。

 

「変な子ついでの評価であれなんやけど、ナツキくんてもしかして」

 

「うん?」

 

「元々は詐欺師かなんかやってたのと違う?」

 

「言うに事欠いて何を言い出したの!?見ての通り、何の変哲もない至って普通の学生……いや、ある意味じゃ学生未満だったよ!」

 

「ああ、違くて。悪口やないよ。あんまり今の話し方が堂に入ってたっちゅうか……こき下ろして、持ち上げてって話術が完璧にはまっとったんやもん」

 

スバルの答えに手振りして、アナスタシアが「たはは」と力なく笑う。

その答えにスバルの方こそ首を傾げた。

 

「話術もクソも何もねぇよ。頭真っ白で、早口に何を喋ったかわかりゃしねぇ。メモの文字が霞んで見えて、読み上げ諦めたとこまでしか記憶にねぇよ」

 

「それでウチの草案は丸無視やったわけやね。打ち合わせと全然違う話始めるもんやから、横でウチがどんなに気を揉んだことか……杞憂やったのがあれやけど」

 

「それについては悪かったって!でも、概ねはメモの内容に沿ってたんじゃねぇの?ダメすぎたら、それはそれでアナスタシアさんが止めてくれたはずだろ?」

 

手元のメモ、大一番で存在を忘却されたカンニングペーパーには、都市の人々の不安を払拭するための美辞麗句が並べられている。

アナスタシアの交渉術と、ガーフィールの慣用句知識、さらにはスバルの知る現代知識を用いた小粋でウィットな内容を踏襲した自信作だ。

肝心の本番で読み上げはできなかったものの、メモ書きした内容が多少なり頭に残っていれば、それに則した形で演説が進んだと思うのだが。

 

「こんなん言うたらあれやけど、ナツキくんのさっきのお話、そのメモの中身全然触れてへんかったし、掠りともしてへんかったんよ」

 

「――え」

 

そんなスバルの推測を、アナスタシアの言葉があっさりと否定する。

思わず硬直し、スバルは事の真偽を他の顔ぶれに視線で確かめる。だが、他の四人はそれぞれ真面目腐った顔で、スバルの視線に各々の反応。

その中から一歩、ユリウスが前に出る。彼は自身の前髪を指で弄りながら、

 

「アナスタシア様のおっしゃる通りだ、スバル。君は先々の打ち合わせにない内容を放送した。特に早々に明かすはずだった、『怠惰』の大罪司教を討伐した功績を話すのが後半にずれ込んだのは、何のつもりなのかと問い質したいほどだったよ」

 

「マジか。俺、それ話さなかったら超わけわからん誰かじゃん!そんなんなってたんなら途中で止めろよ!変なんになっても仕切り直した方がマシだって思ったときはしょうがない判断なんだって!」

 

「仕切り直すだって?それこそ、とんでもない話だよ」

 

呼びかけの意義そのものが疑わしくなる失態、これまでの話から自分の行動をそう判断するスバルに、ユリウスが真剣な顔で首を横に振った。

その表情はスバルに、ある種の敬意を抱いているようにも見えて。

 

「――素晴らしい、演説だった」

 

「……あぁ?」

 

「メモの内容を失念したことなど、さしたる問題ではないよ。君は期待される以上のことを、君自身の能力によって成し遂げた。その功績には称賛しかない。白鯨と『怠惰』、そのときにも感じたものと同じものを、今の君に覚えずにいられない」

 

訝しがるスバルに、ユリウスが大げさなぐらいに言葉を重ねる。

そのらしからぬ態度に、スバルは『最優の騎士』の興奮を見て取った。それを感じ取ってすぐ、何を馬鹿なことをとも思う。

この騎士があろうことか、スバルの何にこれほど態度を変容させるというのか。

 

「からかうなよ。前々から思ってたが、お前の冗談はあんまり面白くねぇな」

 

「冗談と思われるのは、君が自身を低く見積もりすぎているからだ。だが、今の演説はだからこそできた演説であるともいえる。君以外の、誰にもできない話だった」

 

「やっぱり、お前、俺をからかってるだろ?」

 

切迫した状況であることが、ユリウスの称賛をスバルに苛立たせた。

ユリウスからの皮肉は聞き慣れているが、今はそんな不毛なやり取りに終始している場合ではない。演説に効果が望めないのであれば、早急に別案の必要がある。

 

「みんなの助けになるはずが、変な不信感を植え付けたんじゃ話にならねぇ。やっぱり他の誰かに次は……」

 

「ナツキくん、自分の卑下も大概にせなな?聞いてて気持ちよぅあらへんよ」

 

そのスバルの懸念に、アナスタシアが横から口を挟んだ。

彼女は可憐な面に不満げな色を宿し、スバルを睨みつける。

 

「演説がすっぽ抜けて、実感ないんやったらはっきり言うてあげる。――ナツキくんの演説は、考え得る以上に完璧やった。扇動者の才能あるよ、君」

 

「ワイもお嬢と同意見やな!いんや、恐れ入ったわ!なんやあの言い回し!ホンマにやらしいやっちゃで、兄ちゃん!エミリア様にクルシュ様、幼女に地竜を誑かしとった面目躍如やないか!」

 

「どっちも聞き捨てならねぇよ!誑かしてねぇし、扇動者って!」

 

人聞きが悪すぎる評価にスバルが声を荒げる。

だが、アナスタシアとリカードは顔を見合わせ、悪気のない様子で肩をすくめ合った。息の合った態度、しかし悪ふざけばかりではないらしい。

それはしゃがみ込み、スバルを見るガーフィールの顔からも明らかだ。

 

「大将……」

 

「ガーフィール。お前は、どう思った?」

 

「大将ァ、やァっぱり大将だったぜ。俺様が『聖域』を出て、大将についてッきたのァ間違いじゃァなかった。……そう、感じた」

 

「……お前の期待はいつも、俺にはちょっと荷が重いよ」

 

「でもそれッも、大将の行動の結果ってェやつなんだぜ」

 

立ち上がり、歩み寄るガーフィールが牙を見せて笑う。その様子にスバルは鼻から深い息を吐いて、

 

「なら、責任逃れは諦めるとすっか。それはしないようにしようって、そんな話を放送でしたような気が今した」

 

「言うてたなぁ」

 

頭を掻いて、諦めたように受け入れるスバルにアナスタシアが笑う。彼女は予想外の成果に薄い胸を張り、襟巻きを手で撫でつけながら、

 

「むしろ、士気高揚しすぎて他の人らが無茶せんかの方が心配なくらいや。ここにいるウチらも、『憤怒』の影響なんか気合い入ったぐらいやもん」

 

「そこまで言われるとやっぱり嘘臭ぇな……本当なら、俺のプロデューサーもしくは提督適性はどんなもんなんだよ」

 

こうも持ち上げられるばかりだと、手応えがないことだけに受け入れ難い。

スバルは生暖かい視線の渦を振り払い、とっとと魔法器の前からどくと、

 

「とにかく、効果がありそうな話ができたんなら何よりだ。これで避難所での暴動とかの抑制になりゃ万々歳……他に、できそうなことは浮かぶか?」

 

「都市の住民に関しては、これ以上は原因そのものの排除以外はないやろね。今のナツキくんの話で、魔女教連中にこっちの意図はばれたはずやけど……」

 

「それで向こうがどう動くかは、話し合った通り、奴らの非合理な在り方に期待するしかないでしょう。同時に、こちらも早期決着する必要がある」

 

スバルの演説の出来がどうあろうと、頭のおかしい奴らが都市を壊滅させる手段に手をかけている状況は変わらない。最大限に楽観視しても、日付の変わる時刻には大水門が解放され、都市は大水の底に沈められてしまうのだ。

そうなる前に、決着しなければならない。

 

「そのためには、四ヶ所同時攻略……か」

 

「大罪司教が四人に、わけわからん腕利きが二人。こっちの戦力と相談して、どう攻略するかは話し合わなあかんね」

 

四ヶ所の制御搭、その同時攻略が都市を救うための必須条件だ。

都市庁舎のときのように、戦力の一挙集中はおそらくできない。その方法で制御搭を攻略した時点で、他の三ヶ所のいずれかが大水門を開放することが懸念される。

その博打を四度、繰り返して勝利する自信はない。

 

主要な敵の六人に対して、こちらの戦力は――。

 

「手札が、厳しい。都市庁舎のときの二の舞になりかねない。せめてカードがもう一枚……あってくれれば」

 

「――それなら、鬼札が一枚加わるのはいかがです?」

 

手持ちの戦力を指折り数えていたスバルに、その声は唐突に飛び込んできた。

思わず振り返ると、部屋の入り口に人影が立っている。それは、

 

「しばらく見ない間に、自分のことをずいぶんでかく評価するようになったな?」

 

「大衆演説なんて任される、ナツキさんの立場ほどじゃありませんよ。……僕の友人に英雄はいなかったはずなんですが、見込み違いでしたかね」

 

「俺も柄じゃないと思ってるよ」

 

人の悪い笑みを浮かべる相手に、スバルも肩をすくめて笑いかける。それから入口の方へ足を向けて、その笑みを浮かべる相手とハイタッチ。

すると、その挨拶を見ていたガーフィールが顔を明るくして、

 

「オットー兄ィ!無事ッだったかよォ!」

 

ガーフィールの喜色ばんだ声に頷いたのは、行方知れずだったオットーだ。

薄汚れてこそいるが、ケガのない様子で合流したオットー。彼は近寄ってくるガーフィールともハイタッチを交わすと、

 

「命からがら。どうにかこうにかではありましたが、何とか生きてましたよ。お二人も無事なようでよかったです。まあ、僕よりよっぽど生き汚いので心配はあんまりしてませんでしたが」

 

「そうかよ。実は俺も、あんまりお前のこと心配してなかった。なんでだろな?」

 

「わッかんねェなァ。オットー兄ィの人徳ってやつなんじゃァねェか?」

 

「少しは僕の心配もしてくれませんかねえ!?この非常事態に、単独行動なんて危険まっしぐらだったんですけど!?」

 

でも実際、こうして合流できているわけであまり説得力がない。

ともあれ、スバルたちがそうして再会を喜び合っていると、そこにアナスタシアが手を叩きながら割り込んでくる。

 

「はいはい、落ち着いた落ち着いた。ひとまず、オットーくんが生きててくれたんはよかったわ。色々、ここまで何してたんか聞きたいのは山々やねんけど」

 

と、そこで言葉を切り、アナスタシアはその浅葱色の瞳でオットーを射抜く。

 

「さっきの、意味深な一言……あれがどういう意味か、聞いても構わん?」

 

「鬼札、ですね。単純な話ですよ。先に入れると、僕の生還があっさり流されかねないので小細工しましたが、お連れしました」

 

アナスタシアの指摘に、オットーが情けない顔をしながら扉の前をどく。それがどうやら、扉の向こう側に控えていた誰かへの合図だったらしい。

靴音がして、新たな人物が室内に招き入れられた。そしてそれは、

 

「――遅れてすまない」

 

一言、そうして口にしただけで、万の助勢を得たような力強さを感じた。

風の吹き荒れる錯覚は、目の前に炎を見た錯覚と相まって心を揺すぶる。

だが実際、それだけの力がこの再会にはあったのだ。

 

欲しくて欲しくてたまらない戦力、その到着に。

 

「ラインハルト・ヴァン・アストレア――遅ればせながら、合流したよ」

 

そう言って赤い炎、『剣聖』は参戦の意思を表明した。