『Re:ゼロから始まる異世界生活』


 

――世界は闇色に塗り潰されようとしていた。

 

へたり込み、動けないスバルへと、影は無数の手を伸ばしている。

螺旋のように、渦巻くように、ナツキ・スバルを魂ごと包み込もうとする漆黒の魔手。

触れた箇所から溶けるように、崩れるように、ほどけるように、自分の存在が虚ろになっていくのがわかる。

 

だが、それが不思議なことに、全く嫌な感覚を覚えないのだ。

 

「――――」

 

目に見える範囲で体が崩れ、存在が上書きされ、魂が掻き回されていく。

そんな、あるいは生けるものにとっての最大の冒涜を侵されながら、しかし、ナツキ・スバルの心はむしろ安寧と呼べるほどに静かだった。

 

そこには直前の出来事で、心底、自分の失望したことの影響も大きい。

でも、それだけではない。――影が、魔手が、これだけが、実直だったからだ。

 

今にも消えてなくなりたいナツキ・スバルの心情を、この影だけが慮ってくれる。

 

死にたい。消えたい。潰えて、躙られて、跡形もなく、灰になりたい。

蘇るなら幾度でも、その身を灰にして掻き消してくれ。

そんなスバルの切実な叫びを、あるべき願いを、この黒い影は叶えてくれる。

 

――愛してる。

 

そう、うるさいぐらいに繰り返されることだけが癇に障る。

耳を塞いでも、心を閉ざそうとしても、それはぴたりと閉じた心の隙間に指を入れ、こじ開けた隙間から滑り込み、直接、愛を囁いてくる。

 

――愛してる。愛してる。愛してる。

 

やめろ、うんざりだ。

いくら繰り返されても知ったことか。俺は、愛していない。俺は、俺を愛していない。愛されていることは、知っていた。知っていたさ。

 

あの両親だ。父も母も、スバルのことを心の底から愛してくれていた。

知っていたさ。知らないわけがない。だから、スバルは消えてしまいたかった。

両親に愛されているのに、愛される価値のない自分を愛せるはずがなかった。

 

――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

 

やめてくれ、勘弁してくれ。もう十分だろ。

いくら重ねられても、これ以上は何も引き出せない。とっくに、俺の中では結論が出てたさ。わかってた。わかってたのに、目を背けてただけだ。

 

あんなに必死で、一生懸命で、スバルを案じる人たちが、悪い人たちのはずがない。

わかっていた。わからないはずがない。だから、スバルは死んでおくべきだった。

スバルの存在に心煩わせる人たちの慈悲に、照らされないよう努めるべきだった。

 

――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

 

やめてくれ、わかってるんだ。

この責め苦に耐え抜いたなら、俺の願いを叶えてくれるのか。呑んで、砕いて、すり潰して、二度と他人に望まなくて済む、無の彼方に消してくれるのか。

だったら――だったら、受け入れよう。受け入れたい。これが最後なら。

 

これを最後にできるなら、ナツキ・スバルは、消えても――。

 

――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

「――そこまでよ」

愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

 

――。

――――。

――――――――。

 

声が、した。

 

耳元で囁かれるような、延々と終わることなく続くと思われた、愛の告白。

世界ごと、ナツキ・スバルの存在を塗り潰すような怒涛の愛の告白を、貫くように銀鈴の声音が一閃、スバルの下へと真っ直ぐに届く。

 

「――――」

 

光が、迸った。

それが、スバルを呑み込まんとしていた漆黒の魔手へと突き刺さる。衝撃波が発生、直撃を受けた魔手が弾け飛ぶが、それは無数に蠢く手の一本に過ぎない。

千の内の一を削った代わりに得たものが、その膨大な勢いの影からの敵意では割に合わない。しかし、その一撃を放った人物は果敢に踏み込み、自らへ差し向けられる影の魔手を尋常でない身のこなしで回避、回避、回避、そして――、

 

「――スバル!」

 

「――っ」

 

へたり込むスバルの名を呼んで、銀鈴の声の主が力ないその手を強く握った。そのままスバルの体はぐいと引き上げられ、力ずくでその場所から連れ出される。

それをさせまいと、影は前後を塞ぐように腕を伸ばし、進路も退路も阻もうとする。

だが、その妨害を目前としても、前を行く彼女の足は止められない。

 

「り、やぁっ!!」

 

スバルの手を握るのと反対の手を突き出し、眩い輝きがそこに生じる。

直後、発生したのは美しく発光する氷の結晶――スバルを閉じ込めた氷の檻、それと発生のルーツを同じくする、美しく壮烈な氷撃だ。

 

それが正面、壁を作るように展開した漆黒の魔手をぶち破り、強引に道をこじ開ける。

あらゆる全てを呑み込むと、異様な影にそんな印象を抱いていたスバルは、それらが一瞬で蹴散らされる光景に、もう動かないと思った心がわずかに震えるのに気付いた。

 

そして、凝り固まりつつあった心が動けば、すぐ傍らの美貌にも目が向く。

スバルの手を握り、正面を一心に見つめて、長く煌めく月光のような銀髪をなびかせる少女――エミリアが、スバルを連れて、走っていく。

 

彼女の生存も確認され、しかし心は沸き立たない。

それどころか、スバルは自分の頭蓋の奥で、何かがひび割れていく音を錯覚する。

 

生存を、喜べない。当然だろう。

生存を確かめた相手、ユリウスも、ベアトリスもエキドナも、見殺しにした。

決定的場面こそ見ていないが、レイドと魔獣の物量の下に残されたユリウスがどうなったか、想像は悪い方向にしかいかない。ベアトリスはスバルを庇って消滅し、死に瀕して苦しむエキドナを楽にしてやることすらできなかった。

 

ナツキ・スバルは疫病神だ。死が、色濃くその存在に纏わりついている。

自分の『死』をなかったことにする代わりに、その不幸を自分の周りに押し付けているのだと、そんなふざけた仮説が浮かぶぐらいには、どす黒い運命の申し子――。

 

「――もう、十分だ」

 

「え?」

 

「これ以上、足掻いても仕方ないって、言ったんだよ」

 

強引に、腕を引くエミリアに抗い、スバルは足を止めた。なおもエミリアはスバルの腕を引こうとしたが、今度は断固たる意思でスバルはそれに従わない。

二人の腕力の差は歴然だが、スバルの意思もまた強固だ。その暗い衝動を黒瞳の中に見出したのか、息を呑むエミリアが、力ずくで腕を引くのをやめる。

 

「――――」

 

二人、スバルとエミリアが正面から対峙し、お互いを見つめ合った。

気付けば周囲、スバルを取り込もうとしていた影の存在が見当たらない。エミリアと一緒に逃げるうちに振り切ったのか、だとしたら道を戻ればまた出くわせるだろうか。

ナツキ・スバルを存在ごと消すには、あれが最も適切だと、そう思えて。

 

「なんで助けにきた?おかしいだろ、そんなの。お前だって、俺が偽物だって……そう思ったから、氷の檻で閉じ込めて、殺そうとしたはずだ」

 

欺瞞の言葉、事実を恣意的に捻じ曲げ、悪しざまに語って傷付ける。

エミリアがもう一度、この手を取ろうだなんて、間違っても考えないように。

 

だが、そんなスバルの卑賤な思惑など、事実を真っ直ぐに見つめるエミリアには通用しない。

彼女はきりりと、切れ長な瞳を怒らせ、スバルに声を高くする。

 

「殺そうとだなんてしてない!私は、様子のおかしいスバルから話を聞きたかっただけ。それで、スバルは話してくれたじゃない。記憶がないって。だから……」

 

「そんなのは!ただの、方便かもしれないだろうが!あっさり信じたのかよ?馬鹿げてる。どうかしてるぞ!お前も、ユリウスも、ベアトリスも!」

 

氷の檻に閉じ込められて、苦し紛れのように記憶喪失の事実を打ち明けた。

だが、まともな思考力があればこんな話を信じることなどあるはずがない。ラムや、エキドナの態度が正解なのだ。それなのにエミリアたちは、半分以上が馬鹿だった。

 

「いいや、違う……みんな馬鹿だ!最後には……あんな状態で、最後には、エキドナまで、俺に謝りやがって……意味が、わからねぇ」

 

「エキドナが、最後……?スバル、何があったの?エキドナたちは……」

 

掌で顔を覆い、呻くように呟くスバルにエミリアが問いかける。その、憂慮する表情すら美しい彼女を、その心に爪を立ててやる。

そのためならば、スバル自身のガラスのような心の傷を、いくらでもさらけ出す。

 

血も流れなくなって、弱々しい表情で、大切な存在に苦痛を味わわせなくて済んでよかったと、そんな痛々しく寒々しい願いだけを叶えて、命を潰えた少女の姿。

それが脳裏に蘇り、スバルは胸中の傷を自ら押し広げるようにして、叫ぶ。

 

「死んだ!エキドナは死んだよ!両足が吹っ飛んで、痛いのと血が足りないのと……とにかく苦しんで死んだ!ベアトリスもそうだ!」

 

「――っ」

 

「あの子も、俺を庇って……自切なんて、馬鹿げた仕組み……俺が気付いてればよかったのに。それができなくて、死んだ。俺を、忘れないって、そう……」

 

スバルが忘れても、ベアトリスは忘れない。

必ず、スバルの記憶を取り戻してみせると、ベアトリスは気丈にそう言い切った。

だが、彼女は失われた。その発言の直後に。

 

口ほどにもないとはこのことだ。口先だけの大望、それを言葉にして、すぐに。

スバルを死から遠ざけて、安堵したような顔で、この世から消滅して。

 

「あんな消え方、するぐらいならやめればよかった。連れ出す?連れ出した?どっちでもいい。関係ない。とにかく、ここじゃないどこかから……どこかから引っ張り出されたなら、やめときゃよかったんだ。そうすれば……」

 

あんな顔して消えるような目に、遭わないで済んだのだ。

 

「ユリウスの奴も、そうだ。きっと、今頃、もう……あんな、おっかない魔獣が大勢いるところで、レイドの奴の邪魔まで入って、それで、いけ、頼む、とか……馬鹿だ」

 

みんな馬鹿だ。いったい、何を期待しているのか。

頼むとか、取り戻すとか、疑って悪かったとか、何を言っているのか。

 

頼んで、どうなる。取り戻して、何の意味がある。疑われて、当然ではないか。

かけられたもの全てを裏切ったから、ナツキ・スバルはここにいる。

一人だけ安穏と生き残って、それが耐え難いから、消えてなくなりたいのだと。

 

一番、馬鹿で、愚かで、どうしようもなくて、救えない、それが――、

それが、ナツキ・スバルでなくて、なんだと――、

 

「――私とスバルが初めて会ったのは、王都の、盗品蔵って場所だったの」

 

――。

――――。

――――――――。

 

「――――」

 

自責と自問、逃げ場のない底なし沼に沈んで、自ら身動きできなくなったスバル。

そんなスバルの鼓膜を震わせたのは、突然の、エミリアの告白――懐かしく、愛おしい記憶を呼び起こすような、そんな調子の思い出語りだった。

 

「……は」

 

その唐突で、脈絡のない言葉を受け、スバルは唖然と、ただ肺の中の息を抜く。

何を言い出したのかと、その行いを嘲弄したり、馬鹿にするニュアンスはない。スバルの意識はそこまで追いつかない。本気で、ただ、唖然とさせられた。

そんなスバルの反応を余所に、エミリアは指折り、記憶を蘇らせていく。

 

「そのとき、私はすごーく大事な徽章をフェルトちゃんに盗られちゃって。それを取り戻さなくちゃってパックと大慌てだったの。……それで、追いかけた先で、メィリィのお姉さんと戦うことになって、危なくって、でも、ラインハルトが助けてくれて。それで、ホッとしたところをメィリィのお姉さんに狙われて……それを、スバルが助けてくれて」

 

「――――」

 

「それが、スバルと私の初めての出会い。……思い出した?」

 

問いかけに、スバルは首を横に振った。

詳細に語られる記憶だが、その内容に欠片も心当たりがない。

当然だ。それは、エミリアと『ナツキ・スバル』の記憶だ。到底、そうとは思えない行動を繰り返す、『ナツキ・スバル』が紡いだ記憶の一片――。

 

「でも、スバルは私を庇ったせいで大ケガしちゃって、それでロズワールの屋敷に一緒に連れ帰ったの。そこでベアトリスが文句言いながら治療してくれて、ラムと……きっとレムとも、スバルは仲良くなったのよ」

 

「――――」

 

「そうしたら、今度はお姉さんじゃなく、メィリィが魔獣をけしかけて悪さをしたの。それをスバルとラムが食い止めて、ロズワールが魔獣をやっつけて、私はお留守番……『でーと』の約束をしたのも、このとき。……思い出した?」

 

「――――」

 

首を横に振る。

覚えていない。そんなことは、していない。――俺は、していない。

 

「屋敷では色んなことがあったんだから。マヨネーズを作ったり、みんなでお酒を飲んだり、パックが雪を降らせたり、『王様げーむ』をして……それから、王選のために王都に呼び出されて、ね」

 

「――――」

 

「スバルと、初めて大ゲンカしたのも、このとき。私はもう、スバルに無茶して傷付いてほしくなくて、なんでそんなに優しくしてくれるのかわからなくて、怖かった。だから、全部、ケンカしたときに終わりになっちゃうって、思ったのに……」

 

思い出を語るエミリアの声に、微かな震えが混じる。

それは喜びと悲しみと、不安と期待と、様々な相反する感情の混ざり合ったものであり、スバルはひどく喉が渇くような感覚に襲われた。

 

焦がれる、焦がれる、焦がれている。胸を、灼熱に焦がれている。

エミリアに、この表情をさせる全てに――否、たった一つの要因に、焦がれている。

 

「何が起きてるのかわからなくて、不安な状況に押し流されるだけだったとき、一番心がもやもやしてたとき、スバルが駆け付けてくれて、それで……」

 

「――――」

 

「それで、なんて言ってくれたか。……思い出した?」

 

「思い……」

 

出せない。

出てこない。出てくるはずがない。

エミリアの声の震えが、呼びかけが、縋るような響きが、それを明白にする。

 

スバルは、ここにいる自分は、彼女の求める『ナツキ・スバル』ではないのだと。

わかり切った事実を突き付けられ、スバルは自分自身への羨望と嫉妬に焼かれる。

 

何故、お前なんだ、『ナツキ・スバル』。

俺とお前で、どうしてそこまで違っている、『ナツキ・スバル』。

 

エミリアも、みんなが、思っているのだ。

本物の『ナツキ・スバル』を返せと。お前など、ナツキ・スバルなど死んでしまえと。

この場にいたのが、お前であれば、どれほど。

 

そう思って、傷付いて、苦しんで、嘆きたい気持ちでいるはずなのに。

それなのに――、

 

「――でも、私は全部、覚えてる。スバルが言ってくれたこと、してくれたこと、しようって約束してくれたこと。全部、覚えてるの」

 

悲しみも不安も、全部がなかったことになるように、喜びと期待が微笑みに宿る。

その、エミリアの微笑を目の当たりにして、スバルの唇が震えた。

 

何も、ない。どこにも、ない。

言ったことも、してあげたことも、しようと約束したことも、全部。

この、体の内側には、頭の中には、心の奥底には、魂の果てには、何にもない。

だから――、

 

「覚えちゃ、いない。思い出せも、しない。お前は……お前は!お前らは!誰の話をしてるんだよ!?」

 

爆発、する。

ベアトリスとエキドナの前で、感情を激発させたように、ここでもまた咆哮した。

 

「――――」

 

エミリアが、その咆哮に紫紺の瞳を見開く。

それを見据えながら、なお、スバルは込み上げる熱い雫を瞬きで焼き払い、口汚く、でき得る限りの悪意を込めて、吠えた。

 

「誰かのために命を張れて!誰かのためにとっさに動けて!誰かのために頑張ろうって走れて!誰かのために命懸けで何かを成し遂げられる!そんなことってあるかよ!?そんなこと、できるかよ!?」

 

覚えていると言われて、思い出せないと答えて。

ベアトリスが言ってくれた言葉に答えられないまま、彼女は消えてなくなり、そのことの後悔を拭えないまま、エミリアに優しく、言い聞かせるように、思い出を語られて。

 

ユリウスが託し、ベアトリスが信じ、エキドナが赦し、エミリアが願う。

それが、『ナツキ・スバル』。異世界へ呼ばれた、本物の――、

 

「――ふざけるな!そんな奴が、ナツキ・スバルのわけがねぇ!」

 

ナツキ・スバルが、誰かに希望を託されることなどあってたまるものか。

 

「俺は知ってんだよ!ナツキ・スバルがどれだけ情けなくて、どれだけクズで、どれだけどうしようもなくて、どれだけ腐った野郎なのか!」

 

ナツキ・スバルが、誰かにその心を信じられることなどあってたまるものか。

 

「誰を見てんだ!?何の話をしてんだ!?そんな奴、どこにもいやしねぇよ!全部嘘っぱちなんだ!そいつが見せたもの、そいつと話したこと、全部全部!その場しのぎの口から出任せだ!信じる価値もない!」

 

ナツキ・スバルが、誰かにその罪を赦されることなどあってたまるものか。

 

「ナツキ・スバルにそんな価値があるもんかよ!ナツキ・スバルはクズなんだ!どうしようもねぇクソ野郎なんだよ!俺が誰より、それを知ってるんだ!!」

 

ナツキ・スバルが、誰かに共にあることを願われることなどあってたまるものか。

 

「――――」

 

そんな価値はない。そんな、願われる価値などどこにもない。

ナツキ・スバルは疫病神だ。誰かといても、傷付け、失わせ、死なせるばかりだ。

だから、やめよう。

 

そんな男のために、エミリアや、みんなが、傷付く必要なんてない。

 

「……俺じゃなくても、いいだろ」

 

ぽつりと、呟いた。

自分じゃなくても――否、ナツキ・スバルでない方が、ずっといい。

 

何もできない男に、何故託す。何故信じる。何故赦す。何故願う。

もっと、うまくやる方法があるはずだ。もっと、うまくやれる誰かがいたはずだ。

 

それが、皆の望む『ナツキ・スバル』なのだとしても、それはもうどこにもいない。

最初からいなかった、虚像だ。虚栄の存在だ。

 

「俺なんか無視して、削ぎ落としてくれよ。もっと、強い誰かとか、頭のいい誰かが、やってくれる。俺は……」

 

俺には無理だと、無力感だけがナツキ・スバルを打ちのめした。

 

人には分がある。分相応がある。それを、わかってもらいたいのだ。スバルには、エミリアたちの隣を歩く資格がない。彼女たちに、望まれる資格がない。

強くも、賢くも、ない。そんなスバルを、望まなくてもいい。

だから――、

 

「――私の名前は、エミリア。ただのエミリアよ」

 

「――ぁ?」

 

無力感を吐き出して、吐き出したはずのものに心を支配されて、空っぽのつもりでいたスバルは、不意打ちのような銀鈴の声に喉を鳴らした。

 

「――――」

 

言葉の、意味がわからない。――否、意味ではない。意図がわからない。

顔を上げ、スバルは正面、自分の名前を名乗ったエミリアを見つめた。彼女は自分の豊かな胸に手を当て、丸く大きな紫紺の瞳にスバルの姿を映している。

その、輝く瞳に息を呑む。そのスバルを前に、エミリアは続ける。

 

「話さなきゃいけないことも、聞かなくちゃダメなことも、たくさんある。たくさんたくさんあるの。でも、今は一つだけ、聞かせて」

 

「――――」

 

「ユリウスが、ベアトリスが、エキドナが。そして今、私が手を引いて、一緒に走って、どうしても守ってあげたくて、死なせたくなくて、そうやって……」

 

万感の思いを込めて、エミリアが目をつむった。

数秒、彼女は言葉を中断する。そのわずかな沈黙の間に、彼女の胸に様々な想いが去来したのがわかる。この場にいない、仲間たちを案じる感情も、伝わる。

それらの想いを抱えたまま、エミリアの桜色の唇が震えて、

 

「そんな風に、私たちに思わせてくれたあなたは、誰?」

 

「――――」

 

「お願い。――あなたの名前を、聞かせて」

 

エミリアの問いかけに、胸の奥で心の臓が震えた。

それは、眼前にいるナツキ・スバルを否定して、過去のスバルを取り戻さんと、そうした意図の表れではなかった。

 

――それは、ナツキ・スバルの、肯定だ。

 

「――――」

 

目の前のあなたは偽物だと、本物のナツキ・スバルを返してほしいと、そう言われた方が、そう願われた方が、そう悪罵された方が、まだマシだった。

だって、それは他ならぬ、スバル自身が望んでいたことなのだから。

 

彼女たちの望む『ナツキ・スバル』にはなれないからと、否定して、掻き消して、なかったことにしてくれと、そう願ったのはスバル自身だからだ。

 

だが、エミリアが――否、彼女だけではない。

ここに至るまで、ナツキ・スバルに言葉をかけた全員が、同じことを願った。

 

強いも、弱いも、関係なく。

こうして全てを忘れ、どうしようもない醜態を晒しても、なおも変わらず。

ナツキ・スバルを、必要とすると、彼女たちは態度で、言葉で、命で示して――。

 

「……どうして、なんだ?」

 

「――――」

 

「どうしてここで、ナツキ・スバルなんだ?あいつに、何ができる?あいつに、何を期待するんだよ……」

 

意味がわからない。

この、これだけ、圧倒的な絶望、どうしようもない劣勢で、ナツキ・スバルがいたら何がどうなるというのか。どうして事態が好転する。打開できる。

 

「あの、弱くて、頭も悪くて、情けなくて、意気地のない奴に、何を」

 

「――あなたの、言う通りかもしれない」

 

首を嫌々と横に振り、否定ではなく、懇願するスバルにエミリアが目を伏せる。

長い睫毛に縁取られた瞳、心を直接くすぐるような銀鈴の声音、エミリアという存在の全てが、ナツキ・スバルをこの世に繋ぎ止める楔のようだ。

そんな場違いな感慨に、しかし確かに心を繋がれるスバルへと、エミリアは続ける。

 

「スバルより強い人はいるし、きっと頭のいい人だってたくさんいる。でも、私はどんなときでも、一緒にいるのはスバルがいい。スバルがそうしてくれるって信じてるし、願ってる。だって……」

 

「――――」

 

「だって、助けてくれるなら、できるから、そこにいたから、そうしてくれる人より――好きな人にそうしてもらえた方が、ずっとずっと、嬉しいもの」

 

そう、エミリアは微笑みながら、言った。

微笑みながら、ほんのわずかに頬を赤らめて、言った。

 

「――――」

 

息を、抜くように、スバルは呼吸する。

エミリアの言葉を受け、一瞬、確かに自分の中の全ての時が止まっていた。

 

どくどくと、心の臓が脈打つのを感じる。

それと同時に内側から湧き上がってくるのは、『ナツキ・スバル』への嘲笑だ。

 

「――は」

 

そうか、『ナツキ・スバル』。お前、あんな美少女に惚れてたのか。

身の丈に合わないにもほどがあるだろう。あんな子が、振り向いてくれるもんかよ。

 

あんなカッコいい騎士が、あんな賢そうな女が、あんな可愛らしい少女が。

そして、目の前にいる、あんな美少女が。

 

お前に託して、お前を信じて、お前を赦して、お前であることを願って。

救いであることを求めるのじゃなく、救いであってほしいと縋るのでもなく、直面した壁を共に乗り越えるのなら、それができる誰かじゃなく、お前がいいと。

 

「――私の名前は、エミリア。ただのエミリアよ」

 

押し黙ったスバルに、今一度、エミリアが自分の名前を名乗った。

紫紺の瞳がこちらを見る。その瞳を、スバルの黒瞳が真っ向から見返した。

そして――、

 

「――お願い。あなたの名前を、聞かせて」

 

「俺は……」

 

エミリアの、再びの問いかけに、言葉を躊躇った。

 

散々、否定を重ねた。

そうはできない。そうはなれない。そうじゃないと、否定を重ね続けた。

だから、これはきっと、都合のいい言葉遊びでしかない。

 

――託され、信じられ、赦され、願われる。

 

この砂漠の塔で、エミリアたちにそうされる資格があるのなら。

この砂漠の塔で、エミリアたちを助け出せる誰かがいたとしたら。

 

それが『ナツキ・スバル』なら、その『ナツキ・スバル』がどこにもいないなら。

 

「――俺の名前は、ナツキ・スバル」

 

「――――」

 

「ユリウスに託されて、ベアトリスが信じて、エキドナが赦して、エミリア……君に、願われる、その男の名前が、ナツキ・スバルなら」

 

紫紺の瞳を黒瞳で見つめて、銀髪を煌めかせる少女に黒髪の少年が答える。

桜色の唇を震わせた問いかけに、血で赤黒く汚れた唇が答えを返した。

 

「――俺が、ナツキ・スバルだ」

 

今、弱々しく、力のない、絶望に蝕まれた体と心で、しかし宣言しよう。

エミリアを、エミリアたちを、君を、君たちを、その無事を、安寧を、望むと、願うと。

 

「――――」

 

強く、そう言い切ったスバル。

その胸中、『ナツキ・スバル』への不信感は、欠片も拭えていない。

 

今も、スバルの脳裏に焼き付いて離れない、『わたし』――否、メィリィを死なせた、邪悪な男の声と顔。それが、払拭されるときはこないかもしれない。

 

だが、いい。それでも、いい。

救われたいわけではない。救ってほしいと、縋り付くわけでもない。

 

救われてほしいと、思った。

助けたいと、願った。

 

――『ナツキ・スバル』にならそれができるなら、俺がそれをやるのだ。

 

願わくば、走り出した切っ掛けよ、走って目指した行く先よ、同じであれ。

思い描いた道行きが同じであれば呉越同舟、お前が嫌いでも、文句はないから。

 

――俺に、『ナツキ・スバル』に、エミリアたちを、救わせてくれ。

 

「ありがとう、エミリア。――俺に、そう思わせてくれて」

 

「――スバル、私は」

 

その、スバルの返答があり、エミリアの紫紺の瞳に波紋が生じる。

唇を震わせ、エミリアが何事か、自らを定義したスバルへと、言葉を紡ごうとして。

その直後だった。

 

「――っ」

 

それまで、まるで二人の対話を邪魔するまいと、世界が根こそぎ気遣ってくれていたみたいに静かだった状況が、一瞬にしてひび割れる。

 

「――エミリア!」

 

周囲、二人がやり取りしていた通路が、瞬く間に影に握り潰され、粉砕される。

通路が形を失い、足場をなくしたエミリアが大きくバランスを崩す。その彼女に向かって、まだかろうじて足場を残したスバルが強く床を蹴った。

 

瞬間、塔はその形を損ない、古びて砕け散る、砂の香りを纏った石片へとなり果てる。

その中を、落ちていくエミリアに向かって、スバルは勢いよく飛び込んでいく。距離が縮まり、たなびく銀髪に追いつき、ついには細い、彼女の体を抱きしめる。

 

「スバル……っ」

 

細く、柔らかくて、熱い体を抱き寄せ、スバルの名を呼ぶエミリアが身じろぎする。たぶん、腕の中で位置を変え、自分が下になろうとしていた。

それでは、助ける側と助けられる側があべこべだ。

エミリアも、他のみんなも、本当にどうかしている。でも、悲しいかな、エミリアのそんな努力も、この状況では残念ながら役に立たない。

 

地面に背中を向け、落ちていく先が見えないエミリアにはわかるまい。

スバルたちを迎えるのは、塔の硬い床ではなく、投げ出された挙句の外の砂丘でもなく、この塔を包み込み、あらゆる全てを終へ導く、漆黒の影なのだから。

 

だから、二人はこのまま、抱き合いながら影に呑まれ、終わりだ。

 

――否、その、逆だ。

 

これは、きっと、始まりになる。

一度は始めたことを、今一度、ここで、新たに、終わりから、始める。

 

そのための、約束を、交わそう。

ここで、この世界で、この場所で、エミリアと交わした言葉を、本物にする。

 

救われたこと、救いたいと願ったこと。

全部抱えて、終わりから始めよう。燻っていた時間は、おしまいだ。

 

呪いのような執着、いいじゃないか。望むところだ。

 

ナツキ・スバルに、愛される資格があるかは、わからない。

でも、エミリアに、エミリアたちに、愛される資格はあるから。

 

この終わる世界で、この始まりの世界で、君たちが、俺にかけてくれた言葉を、君たちが覚えていないで、忘れてしまったとしても。

 

この終わる世界で、この始まりの世界で、君たちに、俺がぶつけてしまった言葉を、君たちが覚えていないで、忘れてしまったとしても。

 

俺が覚えてる。全部、覚えてる。今度こそ、しがみついてでも、忘れないから。

 

「たとえ、君が忘れても――俺が、君たちを忘れない」

 

――ずっと、覚えていろよ、ナツキ・スバル。

 

影が迫り、スバルと、エミリアを、漆黒が呑み込む。

そのまま、ナツキ・スバルは、エミリアは、影の中へ、中へ、どこまでも沈んで。

 

流転し、全てが失われ、何もかもがゼロになり、目論見通りに終わりがくる。

そして、何もかもがゼロとなった場所で、始まるのだ。

 

――ナツキ・スバルを殺し、『ナツキ・スバル』を取り戻すための、戦いが。