『強欲の器を満たす者』
――水門都市プリステラを発端とした、一連の『魔女教騒動』。
住民を襲った悲劇や、都市のあちこちに残る戦いの爪痕。失われた人員の補填に、いまだに復旧し切らない都市機能の数々。
問題点はまだまだ残されているが、それでも事態は収拾に向かい、次なる物語へと進み始めようとしていた。
ナツキ・スバルにとっても、都市の数々の問題には胸が痛む。
それでもこうして、魔女教を撃退した後の街並みを見ていれば、少しはその結果に貢献できたのではないかと、そう自惚れてしまいそうになるのだ。
「解決してない問題も、まだいっぱい残ってるのにな」
大罪司教の残した爪痕、その中でも特に『色欲』と『暴食』の残したそれは甚大だ。
『色欲』の権能により、肉体を変異させられた住民たち。その肉体はエミリアの手によって『仮死状態』となり、都市深くの避難所で目覚めの時を待つ。
そして『暴食』の食欲に襲われた人々は、その大半が今も終わりのない眠りの床につき、その目覚めを心から待ち望める絆すら奪われたままだ。
変異住民の問題解決、その先延ばしを提案したエミリアの表情は痛々しい。
自らの居場所をなくし、在り方に悩むユリウスの心痛も想像を絶する。
諸問題の当事者となった都市の人々の心、その傷は言うまでもないだろう。
全員、傷を負ってしまった。
その傷を癒すために、できるだけのことをするのがスバルのやるべきことだ。
そして、
「まだ、片付けなきゃいけない問題が残ってるからな」
最後の、明るみになっていない問題を解決するために、スバルは頷いた。
こればかりは、スバルがやらなければならない。
※※※※※※※※※※※※※
「ユリウスは俺たちと一緒にいくってよ」
「そかそか。そしたら、うちも大安心ってわけやね」
諸々の話し合いを終えて会議場に戻ると、アナスタシアがスバルを出迎えた。
円卓に置かれた会議場に、人影はアナスタシアしか残されていない。ここで主立った面子の話し合いが持たれたのは、もうすでに数時間前のことだ。
一部はとっくに宿に引き上げているし、別の一部はプリステラから移動するための準備がある。そうでなくても疲労の溜まった一日だ。わざわざ固い円卓に身を預け、誰もいない避難所の暗がりで時を過ごす必要などない。
「――なぁに?」
それでも彼女はここに残り、誰かがくるのを待っていた。
確信があったわけではない。ただ、スバルも彼女はここにいるだろうと、そうぼんやりと構える自分がいることに気付いていた。
なにせ、今の彼女にはどこもかしこも居心地が良くないはずだから。
「これで、プレアデス監視塔を目指すのはエミリアと、俺とベア子。そこにユリウスとお前を加えて、全部で五人ってわけだ」
「程々の所帯やし、ちょうどええのと違う?あと、五人と違くて、六人やって。うちの可愛いエキドナのこと、忘れてもろたら困るし」
首に巻いていた襟巻きをほどき、円卓の上に広げて踊らせる。白い狐の襟巻きは主人の無体なお遊びに、まるで人形のように従順だ。
まるで、でもないか。
「忘れてねぇよ。――だから、五人なんだろ」
「――――」
会議場の扉に背を預けて、スバルは襟巻きを掲げるアナスタシアに言った。
その言葉に、アナスタシアの笑顔が凍りつく。はんなりとした微笑みが溶けるように失われて、彼女はゆっくりと首を傾げた。
襟巻きを口元に引き寄せ、不思議そうな顔で、
「おや、不思議だね。どうしてアナじゃないとわかったのかな?」
はっきりそれとわかるほど、アナスタシアの口調がそれまでと一変する。
ひどく親しげで馴れ馴れしいそれは、だが肝心な部分がどこまでも空洞だ。声音は彼女と同じでも、やはり明らかに違っている。
「隠す気があるならもうちょっとうまく演技するんだな。確かにアナスタシアは俺の知る限り、候補者の中じゃリアリストで合理主義だけど……お前ほど人間味に欠けた態度も話し方もしてなかったよ」
「ボクなりにアナを観察し続けて、その真似事はできているつもりだったんだけど、思ったほどうまくいかないものだね。見抜かれたのは君で二人目だよ」
「二人目?」
「アルくんにも見抜かれたよ。彼はボクのことを『魔女』呼ばわりなんて、ひどいことをしてくれたものだけど」
「そりゃぁ……」
言い得て妙だ、とスバルはアルに感心する。
アナスタシアのエキドナと、『魔女』エキドナとは本質的には異なるが、無関係ではあり得ないのだから間違ってはいない。
アルの洞察力があるというべきか、あるいは彼にだけ気付ける何かがあるのか。
彼もまた、スバルと同じく異世界への召喚者だ。異世界召喚に『嫉妬の魔女』の力が関係あるのであれば、アルにも魔女と関わりがあるのかもしれない。
本来、もっと彼とはそのことで話し合わなくてはならないのだが――、
「とにかく、そんなことは今はいい。それより問題は、アナスタシアの体を乗っ取って自分のモノにしようとしてるお前の方だよ」
「乗っ取っている、という言われ方は穏やかじゃないね。一見、それが事実のように見えるのが現状の性質の悪いところではあるが、そんな風に誤解されるのは甚だ遺憾としか言いようがない。まったく、心苦しい」
「その仰せだと、まるで事実じゃないみたいに聞こえるぞ」
「実際、そうとしか見えなくても事実ではないからね。ボクはやむにやまれず、アナの体を借りているに過ぎない。そうしなければボクも彼女も命がなかった、というのがボクの言い分だよ。その後もこうしてアナの器に居座り続けているのは、本意ではないところだしね」
「長い。つまり?」
「体を借りたはいいが、出られなくなったんだ」
なるほど、この襟巻きのエキドナ――この際、襟ドナとしておくが、襟ドナをエキドナと無関係だなんて思ったことは一度もないが、それでも今のやり取りほど、はっきりと襟ドナにエキドナの影を感じたことはない。
物事に対して、迂遠に言葉を尽くすところがオリジナルそっくりだ。
「とりあえず、話を聞くとしようか」
扉から背を離して、スバルは襟ドナと話をする姿勢を作る。
正体がばれたからには生かしておけない、と向こうが仕掛けてくる危険はひとまずなくなったと考えてよさそうだ。
スバルは円卓の対面、襟ドナの反対側の席に座り、
「そもそも、体を借りるってどういう状態だ?」
「端的な話、アナのオドにボクの存在を上書きして自由を借りている状態だよ。この状態ならアナの体の自由はボクの意のままだし、本来は欠陥のあるアナのゲートを行使して魔法を使うことも可能だ」
「本来は欠陥があるってのは?」
「根掘り葉掘りだね。知りたい欲の気持ちはわかるから責めたりはしないけど、他の女の子のことを知りたがると君のエミリア様が、他の精霊のことを知りたがると君のベアトリスが、それぞれ焼きもちを焼くんじゃないかい?」
「余計なお世話だし、焼きもち焼いてくれるならそれはそれで二人とも可愛いからいいんだよ。もったいぶらないで教えろ」
円卓を指で不機嫌に叩いてみせると、襟ドナは肩をすくめた。それから彼女は外した襟巻きを丁寧に畳み、「アナはね……」と前置きして、
「生まれつき、ゲートに欠陥のある子なんだよ。ゲートが大気中のマナを取り入れ、体内のマナを排出する器官であることは君も知っていると思うが、アナスタシアはその取り入れる方の機能がうまく働かない。慢性的なマナ不足というやつさ。これが体外に排出できない欠陥のある人間は、君も心当たりがあるだろうけど」
「それがダメだとどうダメなのかイマイチわかってねぇし、そのお前の心当たりってやつも誰のことなのかわからねぇよ」
「そうなのかい?それは意外だ。ちなみに、排出できない欠陥があるのは『剣聖』の末裔だよ。もっとも、アレの場合は取り込む量が尋常じゃないのと、取り込んだ分は身体能力の方に回っているみたいだから実害はないようだけど」
「ラインハルトが?」
襟ドナの物言いに、スバルは意外なものを感じて眉を上げる。が、以前にもそういえばどこかで、ラインハルトが口にしていたことがあったような気がする。
ラインハルトは魔法が使えない、その点だけは劣等生なのだと。
ただしその代わりに、ゲートの取り込む方の力は強い――なるほど、ベアトリスもそうだが、精霊が傍に近寄ると大変なことになるわけだ。
「まぁ、魔法がなくても遠距離攻撃手段が皆無ってわけじゃないし、そもそもあいつの場合、剣圧飛ばしてぶった斬るとかやっても別に驚かないからそのぐらいのことはハンデでもなんでもなさそうだ。んで、アナスタシアの話だよ」
「誤魔化す意図はないんだけど、知っていることは話したくなるのがボクの癖でね。それで話だけど……そうそう、アナの体質のことだった。アナのゲートは取り入れる機能が未熟でね、うまく機能してない。すると、魔法は体内に元からあるマナを利用するしかなくなる。それが尽きれば、命の源であるオドだ。そんな無茶はさせられないだろう?だから、アナは魔法が使えないんだよ」
「でも、お前が借りれば使えるってのは筋が通らないだろ。元からある分が少ないって部分は変わらないんだ。それとも、なけなしのマナを使うってことか?」
「――――」
「黙るな、答えろ」
「そうして命を削らなきゃ、そもそも命が助からないとなればそうするしかない。とはいえ、この点に関してはボクとアナの方で話し合いは済んでる。部外者の君に口出しされる謂れはないよ。君も、ベアトリスとの契約のことでボクに口出しされたくはないはずだ」
図星だ。
スバルとベアトリスとの関係、そして契約はスバルとベアトリスだけのものだ。
そこに外野の意思は介在させたくないし、されようとしても拒むだろう。
同じ条件をアナスタシアと襟ドナに主張されれば、スバルは何も言えなくなる。
それが契約者と精霊、他に侵されてはならない絶対の繋がりであるからだ。
「今回、アナの体を借りたのはアナの意思もあるし、緊急事態だったからだ。都市庁舎に大罪司教がやってきた話はしたろう?その撃退のために、ボクとアルくんが力を尽くす必要があった。必要に迫られての選択さ」
「戻れない、ってのはなんなんだ」
「そう、そこが今回の問題だ」
苦し紛れのスバルの言葉に、襟ドナが手を打って微笑む。見た目はアナスタシアなのに、明らかに中身が違うとわかる微笑みだ。
不思議なものだな、とスバルは思うが、すぐにその感傷を置き去りにする。
やっと、今回の本題に話が切り込むところだ。
襟ドナはスバルの前で、アナスタシアの薄い胸に触れて、
「こうした形でアナの体を借りるのは初めてじゃない。だけど、あまり回数の多いことでもないんだ。アナとボクとは正式な契約関係になくてね。それというのも、ゲートの問題でアナにあまり恒常的に負担をかけたくなかった。ボクは精霊の中でも低燃費な方だと自負していてね。ただいるだけでいいなら、契約者からのマナの供給を必要としないぐらいなんだ」
「なるほど。俺のベア子は日に三回は手を繋ぎたがるけどな」
「それはたぶん、二回はただ手が繋ぎたいだけだね。仲睦まじくて何よりだ。――それでボクらの話だが、そういった経緯でアナの体を借りた経験は多くない。せいぜいが、これで四、五回目といったところだ。彼女との付き合いはそろそろ十一年になるところだから、驚くほど少ないだろう?」
「さあ、どうかな。二年に一回のペースって考えると、インフルエンザにかかる率ぐらいだから低いってほどじゃないんじゃないか?」
「それは手厳しい」
くつくつと、襟ドナはスバルの知る魔女と同じように笑う。そのうちにぼんやりと、アナスタシアの姿がエキドナとダブっていくようにすら思えて怖くなる。
エキドナの存在は、スバルの内側に消えないしこりを残している。ベアトリスとのこともあって、できれば二度と再会はしたくない。
それにこのまま、本物のアナスタシアがどうにかなってしまいかねないことは、ユリウスにとっても大きな傷になるだろう。それも避けたかった。
「それで、インフルエンザぐらい厄介なエキドナさんはどうしたって?」
「そのインフルエンザとやらが何かはわからないが、とにかく経験値が少ない。だからボクにもどうしてこうなったのか、前例がなくてわからないんだが……アナの体からボクの意識が切り離せなくなった。結果、アナはオドの奥で眠っている」
襟ドナは触れた胸の内側、そこにオドがあるかのような素振りで語り、それから円卓の上の力ない襟巻きを眺める。
襟ドナの意識がアナスタシアの中にある以上、この襟巻きは本当にただの狐の抜け殻になっているはずだが、
「会議場ではうまく、人形繰りの要領でできたつもりだったんだがね」
「見た目のインパクトで誤魔化されてた奴が多数だろ。俺以外にも、たぶん変だって思ってた奴は何人かいたはずだぜ」
と、思う。
あるいは人工精霊を知る、スバルだけが得た違和感だったかもしれないが。
「あの場で気付けなくても、アナスタシアじゃないって関係の深い奴はすぐ気付くさ」
「そのわりに、君やアルくんのような関係の浅い人間にしか見破られていない。これはボクのアナの真似事がうまくいっているからでは?」
「リカードも子猫たちも、今はちょっと自分のことで手いっぱいなんだよ。ユリウスも、そうだ」
「――――」
その言葉に、襟ドナが目を細める。
彼女の反応にスバルは怪訝な顔をするが、すぐに襟ドナは吐息して、
「やはり、ユリウスはアナの騎士か。会議場での会話の流れで、ほぼ間違いないとは思っていたが……『暴食』の権能は恐ろしいものだ。常外の存在であるはずの、ボクの記憶からさえ奪っていけるのだから」
「お前は……アナスタシアをどうしたいんだ?」
「――?」
「お前に、アナスタシアの体を乗っ取る気があったのかなかったのかって点は、正直なところ話しててもしょうがねぇから追及しねぇ。はっきり言って、お前が違うって言ってもそれを信じる根拠が俺の中にないからだ。だけど」
アナスタシアの肉体が返されないことは、あってはならない。
それはあの『最優の騎士』にとって、一つの希望を失うことそのものでもある。
候補者の精神的な死――王選の決着にそんなミソが付くのも御免だ。
「その人が元に戻るのは譲れないぞ、エキドナ」
「安心したまえよ。ボクとて、アナの体を乗っ取って、そのまま彼女に成り代わって生きようなんて思うほど傲慢じゃない」
激昂されるのを覚悟で踏み込んだスバルに、襟ドナは厭世的な態度で言った。彼女は悲しげな顔で、アナスタシアの細く小さな体を抱くと、
「ボクはね、アナが好きなんだ。彼女と未契約ながらも、十年以上も一緒に過ごしたのは単なる観察欲というわけじゃない。実感としてこれが正しいかはわからないが、保護者か家族に近いものを感じている自覚もある。彼女にはできるなら健やかに、何より幸せになってほしい」
「――――」
淡々と、相変わらず流れるように喋る襟ドナだが、今や自分の体であるアナスタシアの華奢な肉体に触れ、口にする姿には確かに愛情があるようにも見えた。
パックがエミリアに、ベアトリスがスバルに、親愛の情を向けるように、襟ドナもまたアナスタシアに、同じものを感じているのかもしれない。
だとすれば、
「お前が、賢者に会おうって本当の理由は」
「ご明察だよ。――ボクは、『暴食』に名前を食された人間のことなんて、本音の部分ではなんとも思っていない。ボクはただ、アナに体を返す方法が知りたいだけだ。だからそのために、君たちをも利用させてもらう」
「賢者はその方法を知ってるって、保証があるのかよ」
「保証はない。しかし、何もかもを見通し、全てを知るとさえ言われる賢者であれば可能性はある。ボクは得られる可能性が最も高い可能性に賭ける、それだけだ」
襟ドナの、強い意志を持った言葉にスバルはとっさに反論の言葉が出ない。
ひどく自分本位で、身勝手な結論には違いない。だが、襟ドナには襟ドナなりの、目的とそれを達するために行動する意思があった。
ならば、スバルが確認すべきなのは――、
「お前が賢者の、プレアデス監視塔に辿り着く手段を知ってるのは本当なんだな?」
「もちろんだとも」
「お前は過去の記憶がないってキャラ説明があったはずだ。そんなお前がどうして、誰も知らない監視塔への行き方を知ってる。道理に合わないだろうが」
「知っているものは知っている。そこに根拠を求められても困るが、そうだね。強いて言葉を飾るのであれば、そこへ辿り着くのが宿命だから、かな」
「宿命って、誰が決めた宿命だよ」
「造物主、というやつかな」
気取った襟ドナの答えだが、その答えはスバル的には最悪の答えだ。
彼女の語る造物主がエキドナのことであるなら、監視塔への行き先だけを人口精霊の記憶に焼き付けた下手人もまた、そのエキドナ以外にありえない。
つまりプレアデス監視塔には、エキドナに所縁の何かが存在する。
それは嫌な予感と、賢者の知識への一定の期待を煽るものには違いなかった。
「納得は、してくれたのかな?」
押し黙り、一つの結論を得たスバルに襟ドナが尋ねてくる。
スバルは即座に頷くことに躊躇いながら、深々と長くため息をついた。
「納得なんて上等なものじゃねぇけど、ひとまずは理解した。お前にはお前のやるべきことと目的があって、それは俺らの目的の邪魔するものじゃない」
「そうとも。お互い、賢者にそれぞれ聞きたいことがあるんだ。だから賢者の下に向かうために協力する。何もおかしなことじゃない」
「やめろ。お前がそう言うと、途端に胡散臭くなる」
「それはひどいな」
これ以上、アナスタシアの形をした襟ドナと話しているとおかしくなりそうだ。
いずれにしても、プレアデス監視塔を目指す上では長い付き合いになる。監視塔のあるアウグリア砂丘は、世界図の東端――長い旅路だ。
「徐々に慣らすから、適当に時間は置いてくれ」
「そないに嫌がらんでもええやないの。ホント、こんな可愛い女の子に対してナツキくんたらつれんのやから。うち、傷付くわぁ。もうもう」
襟巻きを首に巻き直して、襟ドナがアナスタシアの言動をトレースする。
なるほど、よく出来たお芝居だが、
「ウチ、のイントネーションが違う。あと、お前の関西弁は滑らかすぎる。俺の知ってるカララギ人と比べて、似非っぽさが足りねぇよ」
「似非っぽさ?」
極々、小さな範囲での違いだ。襟ドナは律儀に、スバルに言われたことを確かめるように喉を鳴らし、やがて諦めたように息を吐く。
スバルからも、襟ドナに確かめるべきことはない。アナスタシアの肉体返還についてはそれこそ、プレアデス監視塔の賢者の出方次第だ。
ただし、
「お前がアナスタシアの体を借りてること、ユリウスに……みんなに話すなよ」
「……それは構わんけど、ナツキくんが話さん方が意外やわ」
「ただでさえ大変な時期に、余計な波風立たせたくない。それに実際の発案者がアナスタシアじゃなくてお前ってわかったら、途端にリカードとかの反発があるかもしれないだろ。監視塔にいけないのは、俺も困るんだ。勝手だけど」
リカードやミミたちが、アナスタシアの身を案じて止める可能性がある。
そう考えると、解決手段として優秀でも監視塔への旅路は断念せざるを得なくなるかもしれない。それは権能の被害者を救いたい、スバルたちも困るのだ。
「賢者のところで、『暴食』の被害者も『色欲』の被害者も、もちろんお前とアナスタシアの問題も、全部解決する方がいい。何もかもうまくいった後ならリカードたちにも文句は言わせねぇ。いや、言っても聞かねぇ」
「ホーシン語録の、『最後に帳簿の帳尻合えば』やね」
「そこ、ホーシンさんに同感」
さすがは同郷の疑惑があるホーシン、いいことを言っている。
「さて」
このあたりで、話し合いはひとまず終わりだ。
最悪、襟ドナにアナスタシアの肉体を悪用する考えがあった場合、ここでプリステラ最後の戦いが繰り広げられた可能性もあっただけに、安堵の気持ちがある。
それだけに、その問いかけはスバルの気が緩んだ瞬間だった。
「時に、ナツキくん」
「ん?」
会議場の外へ向かおうと、扉に手をかけたところでスバルは振り返る。
変わらず、円卓の椅子に体重を預けたままの襟ドナは、振り返るスバルに向かって愛らしく、それこそアナスタシアのように首を傾げて、
「――賢者に戻し方を聞きたい相手、君には他にもいるんと違う?」
「――――」
「どっちにしろ、このプリステラにもおんなじ症状の人らが出てるやろ?その戻し方を聞くためにも、一人ぐらいは症例の人間を連れてった方がわかりいい」
ドアノブに手をかけたまま、スバルの喉が、息が、凍り付いた。
表情を強張らせ、目を見開くスバルに、襟ドナは淡々と続け、最後に、
「どないする?それは全部、ナツキくん次第やけど」
「俺、は……」
「どっちにしろ、メイザース辺境伯の邸宅には寄るんやろ?アウグリア砂丘を越える準備はせなならんし、監視塔に向かう断りも入れなあかんのやから。そしたら、そこに君の眠り姫がおるはずや」
「――――」
「うちはそれ、悪いことやなんて思わんよ。全員助ける、その中の最初の一人になるだけの話……そのぐらいの贅沢、ナツキくんには許されてもええやろ」
襟ドナの淡々とした声音が、何故かひどく悪魔的な誘惑にスバルは思えた。
彼女の言わんとするところはわかる。そして、それに従ってしまいたい自分がいるのも間違いないのに、スバルは即答することができなかった。
それはきっと――、
「スバル!」
「――っ!」
名前を呼ばれて、スバルは驚きに顔を上げた。
息の詰まるスバルの正面に、エミリアとベアトリスの二人が立っている。二人はスバルの反応に目を丸くして、「どうしたの?」と首を傾げた。
「ユリウスさん……ユリウスのところに行くって言ってたのに、病室にいったらいないから心配しちゃったじゃない。どうしてたの?」
「いや、なんでも……ほら、長く見てるには堪えない辛気臭い顔してるだろ、あいつ。だから空気の入れ替えじゃないけど、目力の入れ替えに」
「そう?ユリウス、整った顔してると思うけど……」
「エミリアたんもそう思うの?」
「あ、でも、スバルの顔も大丈夫、いいと思うわ。ほら、見れば見るほど味があるっていうか、そういうことだと思うの」
「フォローが苦々しい!」
あせあせとエミリアが訂正してくれるが、それも言い方の問題だ。苦笑するスバルが肩を落とすと、今度はエミリアの傍らで黙るベアトリスが気になる。
ベアトリスは頻りにスバルの背後、あとにしてきた避難所の方を見ていた。まるでそこで交わした会話に、心当たりがあるような顔で。
「スバル、何か危ないことをするならベティーを呼ぶかしら。一人にさせておくと危なっかしくて、ベティーは生きた心地がしないのよ」
「それは常々、俺がお前に感じてる想いでもあるんだぞ。お前があんまり可愛いから、俺はいつお前が誘拐犯に飴玉目当てにさらわれるか気が気じゃない」
「ベティーはそんな安っぽい精霊じゃないかしら!馬鹿にするんじゃないのよ!」
ベアトリスが憤慨し、ぽかぽかと叩きにくるのを担ぎ上げる。そのまま「ふわー!」と驚くベアトリスを抱き上げたまま、スバルはエミリアと並んで歩き出した。
「はな、放して、下ろすかしら!あ、でも、離れない感じで下ろすのよ」
「それ難しいから、しばらくこのまんまな」
ベアトリスの体は軽く、しかし妙に温かい。子どもは体温が高いというのが通説だが、やはり幼女であるベアトリスもそうなのか。精霊なのに。
と、そんな風に苦笑するスバルの横顔を、隣のエミリアがジッと覗き込む。上目遣いの彼女に見つめられて、スバルは「どったの?」と疑問。
「俺とベア子が戯れてるのが珍しい?」
「ううん。ここ一年で、全然それは珍しくないんだけど……今のスバルは、ここ一年で珍しいぐらい迷った顔してると思って」
「――。そう?万事OKとまでは言えないまでも、問題の大部分が解決して、今の俺は結構、表情筋が弛んでるつもりがあるんだけど」
「スバルがそう言うなら、私もそれを信じるけど……」
ぐにぐにと頬を動かしてみせるスバルに、エミリアは睫毛の長い目を伏せる。それからゆっくりと、区切った言葉の先を言い含めるように。
「何をするのか決めたら、絶対に教えてね。それで、どうしてもって答えが出なかったら、ちゃんと相談してね。それだけ、約束してくれたらいいから」
「約束か」
「そ、スバルが守るのが苦手な約束。するのは得意でしょう?」
「わお、エミリアたんにしては珍しい毒だ」
これまでの約束に対する実績から、エミリアに辛い評価を貰ってしまう。
スバルは薄く微笑むエミリアが小指を差し出すのを見て、ベアトリスを一気に肩に担ぎ直すと、「何するかしら!」と騒ぐ幼女を抱えたまま、その小指に小指を絡めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本のーますっ」
「指、切った」
指が離れる。
エミリアは切った指を立てたまま、スバルに笑いかけ、
「スバル、これで通算針何本?」
「さて、一万本まではいってないと思うんだけど」
「それじゃ、ホントに一万本までいかないようにしてよね?」
エミリアの祈るような言葉に、スバルは「ああ」と言葉少なに応じる。
その答えに、絶対の安心感を抱く――なんてことはエミリアには無理だろう。そもそも、そんなつもりで約束させたわけでは彼女もないはずだ。
だから今の約束は、スバルにとっての戒めだ。
『――そのぐらいの贅沢、ナツキくんには許されてもええやろ』
最後の、襟ドナの誘惑が脳裏に蘇る。
そのぐらいの贅沢、スバルには許される、許されるだろうか。
そのことに甘えるスバルを、誰が許してくれるのだろうか。
「答えは、出すさ。――屋敷に戻るまでには、絶対に」
それにしても、さすがはあの『魔女』と同じ名前を持つ係累というべきか。
本当に、人の一番弱い部分に乗じるのが得意な奴だ。
「まったく、憎たらしい……」
「今、なんか言ってたかしら?」
「いや、この担ぎ方だと、ベア子の尻が叩き放題触り放題だなって」
「ぎにゃーなのよ!や、やっぱり離すかしら!下ろすのよ!ゆっくり優しく、花を愛でるみたいにかしら!」
「はっはっはっは」
「笑いながらお尻を叩くのやめるのよ――!!」
騒がしいベアトリスを肩に担いだまま、スバルは先を行く細い背中を追う。ちらちらと振り返り、混ぜてほしそうな顔のエミリア。
これだけ恵まれているのに、これだけ救われているのに。
もう一人の少女がここにいてくれたらと、そう思う自分の『強欲』さに呆れながら。
ナツキ・スバルの、水門都市での戦いは幕を下ろしていく。
――次なる、砂の塔へ至る物語に向かって、今は静かに。