『自称騎士と騎士』


 

――もう何度、地面にこうして打ち倒されたのだろうか。

 

固い地べたの感触を顔面で味わいながら、スバルはぼんやりそんなことを思う。

口の中は血と砂利が混ざり合ってぐちゃぐちゃで、すでに数えるのも嫌になるほど打たれた全身は火を吹いているかのように熱い。

頭は血の巡りがどうなっているのか、思考がまとまる余地もなく曖昧で、張れ上がった左目は完全に塞がってまともに視界確保もできていなかった。

 

満身創痍のボロ雑巾状態。

それでも相手の技量が高すぎるせいで、活動に致命的な支障をきたすほどの負傷は今のところ見受けられない。

手足は動くし、痛みを度外視すれば言うことを利かない部位は見当たらない。

痛めつけるのに慣れている、という言い方は悪意に満ちているが、まさしくそうであろうと言わざるを得ない実証が体のあちこちに刻み込まれていた。

 

「――これ以上はやるだけ無駄だと思うが?」

 

遠く、高いところからそんな風にこちらを見下す声が聞こえた。

地面にうつ伏せに大の字のまま、スバルは億劫そうに顔を動かして声の方を見る。斜めに傾いだ視界の向こう、手にした木剣の先端を揺らすのは紫髪の青年だ。

儀礼用の白を基調とした装束には汚れひとつなく、当然ながら目に見える肌には些かの傷も汗すら浮かんではいない。ただ、彼の手にする木剣にだけは打った相手の血が付着していて、そこだけがひどく優雅な佇まいの中で印象として浮いていた。

 

「前言を撤回し、頭を垂れるならここで終わろう。いかがだろうか?」

 

幾度も、先ほどから投げかけられた問いかけだ。

こちらの体を手酷く痛めつけ、執拗に打撃し、容赦なく打ち倒す。

その繰り返しの行為のあとに、決まって繰り返される降伏勧告。それに対する答えはもちろん、決まっている。

 

「……悪くねぇ、頭は、下げねぇ」

 

腕が震える。地面を支えに立ち上がろうとしても、上半身が言うことを利かない。転がり、肩を支点に身を立てて、あとは強引に下半身を引き寄せて上体を起こす。それから掌に張りついたように離れない木剣を地に突き立て、縋りつくようにしながら立ち上がった。この間、相手は隙だらけのスバルに追い打ちをかけるでもなく、ただただ疲れたように小さく肩をすくめている。

 

実力差は歴然。勝敗は一目瞭然。勝ち目は万にひとつに等しく、奇跡でも起きなければ一矢報いることすら不可能。

構うものか、と思う。他のことは全部、この場ではうっちゃって構わない。

勝てないのは自明の理だ。届かないのは承知の上だ。もとより、他人より劣る自分に満足のゆく結果が得られるなどとは驕っていない。

ならばせめて、ならばせめて、だ。

 

「……前言を撤回すんのは、てめぇの方ら……ッ!」

 

切れた口の中が痛み、啖呵の最後を噛みながら、スバルは遅すぎる速度で吶喊する。

捨て身の一撃に全てを込める――その結果は、

 

「全てを賭しても、埋まらない差というものは存在する。それもまた、生まれ持った分というものだよ、君」

 

受け流され、翻る木剣の先端が強かにスバルの額を打った。

赤い火花が視界を埋め尽くし、割れた額が出血し、かろうじて開かれていた右目の視界が真っ赤に染まる。

 

「これでもう、何度目になるか」

 

痛みに歯噛みし、血に濡れる視界を手の甲で拭う。

その隙間を縫って、打突がスバルのみぞおちを打ち、その身を背後へ吹き飛ばす。

 

受け身も取れずに地べたを転がり、スバルは再び大地の大の字だ。

胸を打たれた衝撃で肺が痙攣し、呼吸困難に陥る苦しみがスバルを襲う。痛みと酸素不足の相乗効果に追い詰められながらも、スバルの意識は遠ざかるどころかなおも炎を求めるがごとくたぎり続けた。

 

見上げた蒼穹は高く遠く、その先にはなにも見えない。

憎たらしいほどの青を目の前に、スバルは全身の力を振り絞って再度立ち上がる。

 

――何度でも、何度でも、やってやる。

 

尽きることのない怒りだけを糧に、血を吐くような痛みを堪えて前を見る。

その怒りの矛先が正しいのか間違っているのか、そんな事実からは目を背けるように。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――自分のいないところで物語が動き出してしまったのをスバルが知ったのは、控室でうなだれる彼の下に、広間での集いが終わったラインハルトとフェリスがそれぞれに対極の感情を顔に浮かべて参じたのが切っ掛けだった。

 

「そんなわけで、めでたく王選の始まりってわけ。スバルきゅんってばエミリア様の騎士にゃわけでしょ?お互い、頑張っていこうよネ」

 

広間でのスバルの言動と、その結果を見ていたにも関わらず、それらの一部始終を欠片も意識していない体で語るフェリス。

そんな気楽な様子の彼の隣で、こちらを慮るような目を向けているのはラインハルトだ。彼はフェリスの態度を指摘するでもなく、座席に腰を下ろして気力の萎えた顔でいるスバルに笑いかけ、

 

「フェリスの言うほど簡単な問題じゃないと思うけど、互いに切磋琢磨し合う関係でいたいというのは同じ意見だ。スバル、正々堂々といこう」

 

「……あ、ああ」

 

晴れがましいほどの表情で真っ直ぐ言われてしまえば、スバルの方は言葉を濁してそう応じるより他にない。彼らの言が示すところは明らかであり、スバルもまた本来ならば躍起になって今後の己の道筋に思考を走らせなくてはならないところだ。

が、今のスバルにはそんな重大事すらも先送りにして、確認しなければならないことがあった。

 

「――――」

 

なのに、自分でもそれがわかっているのに、肝心の言葉が出てこない。

臆病で、卑怯で、卑屈な自分が足を引き、正さなければならない全てを蔑にしようとしているのがわかる。

それが自分で感じ取れるのが情けなくて、なのに唇を噛みしめることしかできず、スバルの瞳はラインハルトもフェリスも、見上げることができずに泳いでいた。

 

「――スバル、あのご老人なら無事だよ。フェルト様の取り成しによって、その身柄の安全は確約された」

 

「――ッ!」

 

そんな臆病なスバルの心を見透かしたように、口にしようとしてできなかった疑問の答えが赤毛の青年によってもたらされる。

愕然と頬を強張らせ、見開いた目を向けるスバルに彼はひとつ頷き、

 

「広間との通路の関係上、君があのご老人と顔を合わせずに通り過ぎたというのは難しい話だ。ご老人とスバルに面識があるのを知っている僕からすれば、今の君の顔を曇らせている原因がなんなのか、察するのは容易なことだよ」

 

スバルの言わんとするところをさらに先取りし、ラインハルトは指を立ててそうこぼす。だが、さしもの彼もスバルが抱く罪悪感の原因まではわかるまい。

あの瞬間、自分の力でロム爺を救い出すことを諦め、次善策があったとはいえ知人が危害を加えられるかもしれない場面を見過ごした浅ましさを。

 

否、本当のところを言えばそれすら建前でしかない。

本当のスバルの心は、その奥底は、もっともっと、救いようがない。

 

「よかったネ」

 

俯き、目をそらすスバルに、こちらの顔を覗き込むようにしながらフェリスがそう微笑む。彼はその可憐な笑顔で下からスバルを見上げ、後ろ手に手を組みながら、

 

「ラインハルトとフェルト様のおかげだから感謝しなきゃ。――これで、スバルきゅんはなぁんにも言い訳しなくていいもんネ」

 

「――――ッ!」

 

息を呑み、目をそらそうとしていたスバルはフェリスと思わず向き合ってしまう。彼は猫の瞳を大きく見開き、頭部に生えた栗色の猫耳をピコピコ揺らして、その嗜虐的な笑みをさらに横へと引き裂いてみせた。

その見目はまさしく、ネズミを爪でいたぶって遊ぶ猫の様相だ。

ゾッと、こちらの心中を見透かした上で皮肉を口にする彼に、スバルはとっさに言い訳じみた言葉を作りかけるが、それこそ彼の思う壺だと気付くと口を閉ざす。

けっきょくスバルにできたのは、

 

「あ、ああ……良かった良かった。いや、マジまさに俺の読み通り!あの場で俺がなんかやらかすより、おねだり上手のエミリアたんがいるそっちに任した方がうまく運ぶと思ってたわけよ。まぁ、実際にはどうも計算違いの予想違いっつーか、冷静に考えてみりゃ順当なフェルトが超反応してくれたみたいだけど」

 

両手を広げ、肩を揺らし、頬をゆるめて小首を傾け、軽快にスバルはタップを刻む。その変わりようにフェリスは凝然と目を見張り、ラインハルトもかすかに表情を固くした。そして、スバルはそんな彼らの反応を足音を奏でながら見届け、

 

「しっかし、それが理由でフェルトの覚悟決まっちまった的な展開だと予想するけど、そのあたりはどんな感じよ、騎士ラインハルト」

 

「うん?ああ、その通りだよ。あのご老人の登場は、いい意味でフェルト様の気持ちを固めてくれた。彼の意図したところとは反する結果になってしまったようなのは少し、気にかかるところではあるけどね」

 

顎に手を当て、わずかに思案げに眉を寄せる美丈夫。絵画の一枚としてすでに完成した佇まいにあるラインハルトの言葉は、広間での一連のやり取りを目にしていないスバルにはイマイチわからない。

ただ、彼の口にした前後の文脈から広間での出来事を想像し、その情報を得た上でナツキ・スバルならばどう反応すべきかを正確にトレースするだけだ。

 

「なーる。とすると、俺はまんまと強力なライバル登場のお膳立てしちまったわけか。こりゃあとでエミリアたんに大目玉食らうかもわからねぇな」

 

「そうはならないと思うよ。エミリア様も、もちろん他の候補者の方々も、正道で競い合うことを望まれるはずだ。その相手が競うに足る相手であることを、歓迎こそすれ不服に思うようでは器が知れる」

 

「いやー、俺はどうせやるなら楽勝で俺TUEEE大好き人間だから、そういう感覚ちょとわかんないな。RPGとかも序盤で超レベルアップして進むタイプだぜ。基本、最初の森のマップ抜けるところで最初の一匹は第二形態だよ」

 

赤い系統を最初に選ぶせいで、序盤のレベルが足りないと第一、第二の関門で異常にてこずることになる。緑系統が一番楽だが、それは邪道と自分縛り。

ともあれ、スバルの主義はさておき、自信に満ちたラインハルトの様子を見る限り、そちらの陣営の準備は万事滞りなくといった状態らしい。

一方、スバルの軽薄な態度を黙って見つめるフェリス陣営は、王選に臨む以前からの関係で主従としての付き合いの長さは最長の折り紙つき。フェリス自身が主であるクルシュに心酔し切っているらしき素振りも含め、不安要素も皆無だろう。

 

そのあたりの関係性を鑑みても、やはりスバルとエミリアの陣営は遅れをとっていると判断せざるを得ない。なにしろ、今のスバルは戻ってきたエミリアと王選に関する話を交わすことにすら気後れしている。

 

――彼女と接することを恐れるのなど、それこそロズワール邸でループの渦中に呑み込まれていた一時ぐらいのものだろう。

ただあのときと明確に違ってしまっているのは、彼女との接触を恐れるスバル自身の心のありようだ。

 

あのときは、エミリアが自分の知らない存在になってしまったかのような感覚が恐ろしかった。

だが今は、より深く知ることになった彼女に、自分がどんな風に思われているのかがわからないことが恐ろしかった。

 

「それはそれとして、話し合いが終わったってんなら他のみんなはどしたのよ。お前ら二人だけ俺のお迎えとか、VIP待遇が過ぎねぇ?」

 

「わかってて言ってるんだと思うけど、候補者の方々はもうちょこーっと細かいお話をしなくちゃいけないから広間にお残り。一応、騎士は自由にしていいってことになったから……」

 

「僕がスバルの様子を見てきたい、と言ったのにフェリスが付き合ってくれてね。さっきの広間では、碌なフォローもできずにすまない」

 

フェリスの言葉を引き取ってそう謝罪を口にするラインハルトに、スバルは「あー」と頭を掻いて罰の悪い顔で、

 

「いや、別にお前が悪いんじゃないし、むしろ振り返ると早くも黒歴史化したい行いが蘇って胸がチクチクするから忘れていいぜ?」

 

「君の寛大さに感謝するよ。この恩を、ボクは決して忘れまい」

 

「お前、俺のお願い聞いてた!?」

 

スバルの罪悪感を全力で好意的に解釈し、ラインハルトはこちらの望むところとは真っ向から反対の結論に落ち着く。

叫びは無視され、スバルは困った顔のままでフェリスに向き直ると、

 

「で、ラインハルトはともかく、君……いや、お前……くそ、しっくりこねぇ!」

 

「呼び方に迷うくらいなら、愛を込めて『フェリちゃん☆』って呼んでいーヨ?」

 

「うるせぇよ、ネコミミ。それでネコミミはどうしてここにきたんだよ。ぶっちゃけた話、クルシュさんの側にいなくていいのか?」

 

初対面――ロズワール邸の正門で、彼と交わした短いやり取りを思い出す。その際、彼はクルシュに対して片時も離れていたくはない的な発言をしていたはずだ。

それを思えば、この場に参じている理由に首をひねりたくもなるのだが。

 

「安全面の話なら問題ないかなー。だって、クルシュ様ってばフェリちゃんよりよっぽどお強い方だし?」

 

「軽々しく言うなよ……それでいいのか、近衛騎士団」

 

「フェリちゃんの売りはそれとは別のところにあるからいーの。それに、その売りってばスバルきゅんと無関係じゃにゃいんだしー」

 

語尾を引き延ばしつつの発言に苛立ちを覚えつつも、スバルは根気よくその発言に「それはそれは?」と腕を組んで問いを投げかける。

そうしてそっけない態度のスバルにフェリスは頬を膨らませ、身をよじりながら可愛らしい仕草付きでスバルを横目にし、

 

「あーあ、またそーやってわかってるくせにぃ。焦らすんだから」

 

「揺れるな俺の心、ときめくな俺の心。目の前のこれは股間に付いてる同じ生き物……!もっと率直に内容に踏み込めよ。お前の売りがなんだって?」

 

「フェリちゃんの売りって言ったらこれっきゃないじゃないノ♪」

 

言いながら、フェリスはスバルの前で持ち上げた両手の指を二本立てる。と、その立てた人差し指の先端がふいに淡く輝き、

 

「う……なんか心なしか、肘・肩・腰の疲労が抜けていくような……?」

 

「なんかお年寄りみたいにあちこち痛んだ体してるんだネ、スバルきゅん」

 

じんわりと、体の端々から疲労が熱となって抜けていく感覚を味わい、スバルは身震いしながら肉体が癒されるのを実感する。

つまるところ、それが今の彼の指先から放たれた燐光によるものなのだろう。

と、そこまで考えたところで、スバルは目の前に立つ美少女風青年の口にする『売り』がなんであったのかを思い出した。

 

「ああ、そっか。そういえばフェリスってなんかすごい水の魔法の使い手なんだっけ」

 

「なんかすごい、なんて形容では足りないぐらいだよ、スバル」

 

脳裏に浮かんだ設定を思い出し、なんとなしに口にするスバルにラインハルトが訂正を入れる。胡乱げに自分を見るスバルに頷きかけ、ラインハルトは持ち上げた手でフェリスを示すと、

 

「フェリスの水系統の魔法使いとしての才能は比肩するもののいない突出したものだよ。ルグニカではもちろん、大陸全土を見渡しても彼ほどの使い手はいない。ルグニカにおいて、各魔法属性の頂点を意味する六色、その内の『青』を若くして与えられているのに相応しい力を備えているんだ」

 

「また新しい設定が出てきたな……そろそろ俺の頭もパンクしそうだよ」

 

ラインハルトの流暢な説明にうんざりといった態度を隠さないスバル。その彼の前で自身の才を惜しげもなく賞賛されたフェリスは、自慢げに腰に手を当てながら平らで当たり前な胸を張っている。

 

「ラインハルトの説明じゃかなーりはしょったけど、つまりそういうことなわけ。そんなこんなでご大層な二つ名を与えられたフェリちゃんの予定表は、常に水の魔法の癒しを求める人々の願いに埋め尽くされているのでしたー」

 

握りしめた拳を天に突きつけ、「頑張れ、フェリちゃん!」と言いながら満面の笑顔を作ってみせるフェリス。

その説明に、スバルはつまりフェリスはこの世界における『超腕利きの名医』といった扱いなのだろうと当たりを付ける。王国の国民が五千万で、その隅々にまで彼の手が行き届いているとは思えないが、彼の手の恩恵に与れる立場にある人間たちだけで、容易に彼の日々の忙しなさが想像できるほどだった。

 

引く手数多の引っ張りだこ。

数々の数え切れないほどの人々から必要とされている。

 

フェリスという人物をそう解釈してしまった時点で、スバルは自然とその存在と自分を比較せずにはいられない。大切で、もっとも必要としてほしい人から必要としてもらえなかった自分。ひどく、惨めになる。

だから、

 

「でもぶっちゃけ、俺の体の不調って自分で自覚症状ないからあんまし頼る気がわかねぇんだよな。そこんとこどうよ」

 

好意的に接してくれている相手への劣等感が堪え切れなくて、ことさらにスバルは軽薄な口調でそれを踏みにじってみせる。

言えば言うほど自分の心情を知る自分が惨めになるとわかっていて。言ったところで欠片も溜飲など下がらないことがわかっていて。

 

「体の調子が本調子じゃないのはケガの後遺症が若干あるからだし、治ったら問題なくなると思うんだよな。ゲートがどうとかいうのも、特に感じねぇし」

 

「そうやって軽んじられるほど、ゲートの問題はささやかなものじゃないと思うけどネ。単に魔法が使えないだけって風に考えてるならダメだヨ?」

 

「違ぇの?」

 

挑発するようなフェリスの言い方に、スバルは眉を寄せてそう問い返す。

実際、ゲートの不調といわれてもスバルはピンとくるものがない。『シャマク』の使用を禁じられた上で、確かに体の奥深くに消えない倦怠感のようなものが濁りながら残っているような感覚はあった。

だが、それも全身の精気を搾り取られたような脱力感が原因だと考えており、栄養のある食事と十分な休養を終えれば復調するものと思っている。元の世界で意識したことのなかった器官が、致命的になるなどそうそう信じられるものではない。

 

「なぁんにもわかってにゃいんだから。いーい?ゲートは主に魔法を使うとき、外と内側をマナを通すために繋ぐ役割を持ってるっていうのが一般的な考え。だけど、実際にはゲートは魔法を使うときだけじゃなくて、普通に生活しているときにも内と外にマナを循環させて生命を維持してるの」

 

「呼吸と同じようなもんってことか?」

 

「そんな風に考えていいヨ。スバルきゅん、呼吸しないで生きてられる種類の人類?」

 

「俺の知ってる人類だと、十五分ぐらいが世界的に限界らしいぞ」

 

ヨガの秘法を学んで心拍数を限界まで下げると、そんなバケモノじみた無呼吸状態が可能になるらしい。とはいえ、彼が言いたいのはそんなことではないだろう。

つまり今のスバルの状態は、皮膚呼吸できないまま生きているのに等しいといった具合だろうか。さすがにそこまでひどい状況ではないだろうが。

 

「このままだと、遠からずそうなるってか」

 

「で、スバルきゅんのゲートの状態だけど、色んな無理がたたってもうぐっちゃぐちゃになってるの。こうなるともうそんじょそこらの水の使い手じゃ治療もできない。付きっきりで魔法かけて、大切な場所は自然治癒に任せるのが関の山」

 

スバルの状況が切迫している事実と同時に、フェリスは暗に自身が凡百の魔法使いとは違うという点を強調してくる。ただ、やっかむスバルの耳にそう聞こえてしまうだけかもしれないが。

 

「つまり早々にそんな危機的状況を抜け出すには……」

 

「フェリちゃんの力が必要不可欠ってこと。おーわーかーり?」

 

左右に体を揺らしながらの問いかけに、スバルは気が進まないというのを眉間に皺を寄せることでアピール。が、そのやり取りを見るラインハルトが指を立て、

 

「横槍すまないが、こんな機会はそうあることじゃないよ、スバル。フェリスの腕は国の誰もが知るところで、その力の恩恵を受けたい人たちはあとを絶たない。順番が譲られるなんてことは、今後も期待しない方がいい」

 

「そ、そ。フェリちゃん待ちしてるお客さんはいっぱいいるのだー。だ・け・ど、今回に限ってはスバルきゅんを優先したげる約束なの。だからここは大人しく、フェリちゃんに身も心も預けて楽になりなよぅ」

 

ラインハルトのフォローに便乗し、こちらに両の掌を差し向けるフェリスが指をわきわきさせる。そんな彼の仕草をスバルは嫌な顔で見て、

 

「そう言われるとノゥと答えたくなる男、天の邪鬼俺。それはともかくとして、俺ってばお前にそんな優遇されるほど絆深めた覚えねぇんだけど?」

 

まともに名前の交換すらしていなかった初対面を含めて、フェリスと会うのは今日が二度目。広間と控室の遭遇をわけて考えても三回、その間に引く手数多のフェリスの親切心を震わせる出来事があったとも思えないが。

そんなスバルの問いかけに「そりゃそうでしょー」とフェリスは意地悪に笑い、

 

「フェリちゃんてば身内以外にはすこぶる厳しいネコ科の性格にゃんだから、ホントならスバルきゅんを優先なんて絶対にしたげにゃいよ」

 

「はっきり言うよな、その方が助かるけど」

 

コミュ能力の低いスバルにとっては、余計なおべんちゃらや上っ面を装った会話をこなされるよりよほど理解しやすい。気を悪くした風でもないスバルにフェリスは「それはねえ」ともったいぶるように身をよじり、

 

「今回の召集の伝令をしに、フェリちゃんが辺境伯のお屋敷にいった日があったでしょ?ほーらー、フェリちゃんとスバルきゅんの運命の出会いの日」

 

「ああ、腹痛でも起きて寝てりゃよかった日だな」

 

「またまたそんなこと言っちゃってー。ホントは嬉しかったくせに」

 

「お前の連れの紳士なお爺さんに高いお茶ただ飲みされたせいで、あのあと先輩メイドに死ぬほど怒られたんだよ。朝晩のマヨチュッチュ禁止にされたぜ」

 

その禁止令も無視して、翌朝にはこっそりとマヨチュッチュを敢行したわけだが。

スバルの口から飛び出した理解不能の単語を無視し、フェリスはつまらなそうに唇を尖らせながら、

 

「ま、いーけどね。重要なのはスバルきゅんとの出会いじゃなく、屋敷でエミリア様にフェリちゃんがお願いされたってところなんだし」

 

「……やっぱり、エミリアたんか」

 

「やっぱり、エミリア様なのでした」

 

予想のついていた返答だけに、スバルの口調は苦々しく重い。

あの屋敷でのフェリスとの初遭遇、そのときの会話内容と、もともとロズワールがスバルを王都へ同行させた理由を思い返せばすぐに理解が及ぼうというものだ。

 

そしてその背景が理解できてしまうからこそ、スバルは胸の奥に重いものがわだかまっていくのを止めることができない。

 

スバルの肉体を蝕む、マナ枯渇とやらの状態異常。それを治せるのは王都でも指折りの魔法使いであるフェリスだけであり、そのフェリスは王選での対抗馬となるクルシュの従者。そんな彼に自分の身内の治療を頼むなど、クルシュ陣営に王選が始まる以前から借りを作ってしまうことになる。

つまりスバルはここでもまた、エミリアの足を引く結果を出していた。

それがわかってしまうから、

 

「なぁ、どうしても治療って受けなきゃダメか?」

 

相手方に無理解を示されるのがわかっていながら、そう口にしてしまっていた。

案の定、それを聞いたラインハルトは理解しがたいといった様子で眉を寄せる。が、一方でフェリスはスバルの返答を予想していたかのように微苦笑し、

 

「対価はもう払われているから。このままスバルきゅんの治療をしないなら、かえってエミリア様に無駄骨を折らせる結果になっちゃうかもよ?」

 

「対価ってなんだ?それが物理的なもんなら、返してくれればいいだけの……」

 

「それは物理的なものじゃにゃいし、知ってしまったからには返せない類の対価なんだよネ。だからスバルきゅんの申し出は、残念だけど通せないかナ」

 

にべもなく懇願を袖にされて、スバルは額に手を当てて俯くしかない。

フェリスは正しくスバルの心情を読み取っており、その上でこちらの提示する逃げ道をことごとく塞いできているのだ。

それは彼なりに主であるクルシュを優位に立たせようとする打算であり、一方で対価を差し出してまでスバルの身を案じていたエミリアの想いを遂げさせようとする、そんな人間味のある義理人情もあったかもしれない。

 

そのいずれの判断もが、スバルの浅はかで足りない思考を妨げていた。

 

「俺はどうして、こうも……」

 

エミリアの足かせになりたくないのに。

王様になりたいと、そう望んで努力する彼女を知っているから。

その高みに辿り着こうと、遠い王座を目指して上を向く彼女を知っているから。

そんな彼女の手助けがしたくて、それしか意味を見出せなくて、それだけが今のスバルの存在を支える全てだから、なにもかもをなげうってもみせるのに。

 

どうして自分はこうも無力で、無知で、無能で、足手まといなのだろう。

 

「――それほど自身の無力さを嘆くのならば、もっと選ぶべき選択肢が君にはあると思うがね」

 

静謐な声が控室の大気に響き、俯いていたスバルは顔を上げる。

声はラインハルトとフェリスのどちらでもなく、控室の扉側から届いていた。そちらに向けた視線の先、線の細い長身が開いた戸に背を預けてこちらを見ている。

 

視線を受け、紫色の髪を撫でつける青年は気取った風に唇をゆるめ、

 

「そう嫌な顔をしないでもらいたいものだね。歓迎されるなどとは思っていなかったが、そのような態度を表に出しては」

 

「出したら、なんでしょうかね」

 

「一緒におられる方の品性が疑われる。努々、気を付けたまえ」

 

「ぐ……ッ」

 

単なる口論に持ち込まれるのであれば、言いがかりだなんだと言い返すこともできたのだが、事を個人間の問題だけで収められないなら話は別だ。

スバルは唇を曲げて不服の言葉を飲み込み、室内に悠然と踏み入ってくるユリウスを剣呑な視線で睨む。

 

「ユリウス、候補者の方々の話し合いは終わったのかい?」

 

そんな穏やかならぬスバルの視界を遮るように、二人の視線の射線上に割り込むラインハルトがユリウスにそう尋ねる。

それを受け、ユリウスは片目をつむったまま「いや」と小さく首を振り、

 

「話し合いは少し長引きそうな様子だ。現状の条件のまま王選が始まると、事が暗殺合戦になるのではとアナスタシア様が懸念されて」

 

そのあたりの条件を詰めている、とユリウスはそう語る。

顔を背けつつも内容を耳に入れて、スバルは「なるほど」と納得を得ていた。

 

王選参加者が五名で、どんな方法かはわからないが王位を争う状態だ。

そんな状況下でもっとも簡単な王位の確保の仕方は、他の候補者を全て蹴落とすのが理に適っている。

 

広間で見た候補者たちは、いずれも一本芯の通った人柄揃いに見えたが、本人の性質はともあれ周囲の意見もそうであるとは限らない。

ましてやスバルを抱えるエミリア陣営には、明白な妨害工作が仕掛けられた経緯もあるのだ。

 

――スバルがこの世界に召喚された当日の、エミリアの徽章盗難などがそれに当たる。

 

スバルが思い浮かべた事実に同時に思い至ったのだろう。顔を上げたスバルと、わずかにこちらに顔を向けていたラインハルトとの視線が絡む。

なにを思うべきか、と戸惑うスバルに対し、ラインハルトはただ静かに青の瞳に深々と感情を泳がせて顎を引いた。

それから彼はユリウスに向き直り、

 

「暗殺とは穏やかじゃないな」

 

「もちろん、そのような手段に訴えることは玉座への侮辱に他ならない。だが、我々は慎重になりすぎるぐらい慎重であるべきだ。違うかい?」

 

「ま、そーだよネ。半年前の大事件以来、ここまで立て直すのにどれだけ苦労がいったか。もうあんなのはゴメンしてだもんネ」

 

ラインハルトの言葉にユリウスが穏やかに反論し、それをフェリスが引き取って締める。彼の言葉に二人の長身が頷き合うのを見ながら、スバルはここでも仲間外れにされているような感覚に疎外感を覚えていた。

 

「それでけっきょく、お前はなにをしにここにきたんだよ」

 

だからことさらに、スバルはユリウスに対して非友好的な態度に出る。

疎外感の発生源である上、彼はスバルが広間を出るに至った経緯に少なからず関わった相手だ。恥をかかされたことについては自分の浅慮が原因だと自省しているが、それを鑑みても彼とは意見が相容れない。

 

もはや隠しもしないスバルの敵愾心を浴び、ユリウスは涼しげな顔のままこちらへと歩みを進める。さりげなく進路をラインハルトが阻もうとするも、確固たる意思でスバルへ向かうその足を止めることは叶わない。

 

息が届きそうな距離で、スバルとユリウスが向かい合う。

日本人としておおよそ平均的な身長のスバルと比べて、長身痩躯のユリウスはおよそ頭半分ほども大きい。自然、至近から見上げる形になるスバルは、

 

「最も優れた騎士様とやらが、肝心な場面でお姫様の側にいなくていいのかよ。案外、この城の警備とかザルでホイホイ侵入者が忍び込んでっかもしんないぜ?」

 

「――王選の関係者が集まる現状、王城は国内でも最大級の要所だ。当然、衛兵の警備も相応の意識を持って挑んでいる。君に心配される謂れはない」

 

「……いや、その認識だとマジにヤバいと思うぜ。少なくとも、他の誰よりも俺に心配される謂れだけは確実にあると思うね」

 

自信満々、といった様子のユリウスにそうこぼし、スバルは改めて王城の警戒網の緩さに嘆くしかない。

特にこれといった技能も持たず、かといって特殊な訓練をしたわけでもないスバルでも忍び込めたのだ。専門家がきた際には、さもありなんといったところだろう。

 

「段ボール持った伝説の傭兵に、背中に爆弾取りつけられるまで気付けないのが今のお前ら。それで万全とか、正直へそで茶が沸騰して蒸発するんだが?」

 

「意味はわからないが、それが侮辱の言葉であるのは伝わるよ。――これで二度目だ」

 

ユリウスは顔を背けると、そのままスバルの隣を素通りして部屋の奥へ向かう。その背を視線で追いかけ、ユリウスが控室の奥の窓際――ちょうど、城の裏手側が見下ろせる位置へ立つのを見た。

 

「さて、なんのためにここにきたのか、と君は私に聞いたね」

 

窓から眼下、城外に視線を送ったまま、ユリウスは感情の揺れのない声で問う。背を向けたままの姿に、スバルは声を出さずに顎を引いて無音の肯定。

その仕草を気配だけで察したのか、ユリウスは「では答えよう」と前置きして振り向き、

 

「ここにきた理由はもちろん、君に会いにきた。少し、付き合ってもらいたいところがあってね」

 

どうだろうか、と手を広げてユリウスはこちらの意思を問うてくる。

選択肢はこちらに与える、といった彼のスタンス。だが、こうも互いに刺々しい感情を交換している状態で、それが友好的な提案だとも思えず、

 

「どうだろうもなにも、場所と目的がわからねぇとノゥともいいえともお断りしますとも言えねぇよ。言えるけど」

 

「場所は練兵場、目的は……そうだな」

 

軽口というには皮肉が過ぎるスバルの物言いに、ユリウスは率直に応じ、少しだけ考え込むように顎に指を当てながら、

 

「目的は――君に現実を教えてあげること、というのはどうだろうか?」

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

――踏み固められた砂地の足場を踏みしめて、スバルは首をひねっていた。

 

場所は王城の控室から移って、城の隣に独立した騎士団員詰所。

赤茶けた土で固められた地面に、長い時間の経過を感じさせる堅固な防壁。それに囲まれるのは衛兵たちが日々肉体を研磨し、実力を高め合うことを目的とした訓練施設――俗に言う練兵場だ。

 

敷地の広さは平凡な学校の校庭、その半分ほどもあるだろうか。

駆け回るにせよ、剣を交えるにせよ、十分な広さを与えられた空間であるといえる。

 

そんな場所の中央に立ちながら、スバルはゆるやかな動きで屈伸運動。膝を曲げ伸ばして筋肉をほぐし、熱の足りない体に熱さを送り込んでいく。

 

そうして淡々と準備運動を進めるスバルがいる傍ら、その正面に十五メートルほどの間隔を空けて立っているユリウス、その周囲は静けさとは程遠い。

それというのも、

 

「ユリウス、こんなことはやめるべきだ。君らしくもない」

 

静々とこちらも準備を進めているユリウスに対し、そう言って訴えかけるのをやめないラインハルトがいるからだ。

言い募るラインハルトの表情や語調には、焦りや怒りといった感情はない。そこにあるのはただただ純粋な、憂いというべき憂慮の情念があるだけだ。

ラインハルトは青の瞳にその感情を並々と注ぎながら、

 

「確かに少しいきすぎた面があったのは僕も認めるが、それは言い聞かせて直していけばいい領分に過ぎない。普段ならば君もそう判断するはずじゃないか」

 

「普段ならば。奇しくも、その通りだとも、我が友ラインハルト」

 

儀礼用の白い礼服、その服装のあちこちに付けられた過剰な装飾を丁寧に外し、ユリウスは側に立つ騎士のひとりへと手渡していく。

彼はその作業を継続したまま、感情の見えない視線をラインハルトへ向け、

 

「日取りがあるいは今日でなければ、あるいは出会った場所が違っていたなら、私は彼を捨て置いたかもしれない。しかし、そうはならなかった」

 

断ち切るように言い捨てて、ユリウスはラインハルトへの視線を外した。

彼の静かな瞳が映すのは、正面で膝を曲げ伸ばししているスバルの姿のみだ。

 

それから彼は腰に付けた騎士剣を外し、鞘を付けたまま天に先端を向けると、

 

「彼は王に連なる方々の前で、騎士たる我らを侮辱し、そしてその騎士道までも軽んじた発言をした。そしてそれを謝罪することもなく、私に対し侮辱を重ねた」

 

しん、とそれまでかすかなざわめきが満ちていた練兵場が静まり返る。

響くのは、朗々としたユリウスの聞き惚れるような美声だけ。

 

衆目を、観衆の耳を、自身に集めながらユリウスは視線をめぐらせ、

 

「――これより、騎士の誇りを汚した不逞の輩に誅を下す!否やあるか!」

 

「「――――ッ!!」」

 

声にならない豪風が、ふいに練兵場の大気を強烈に打撃していた。

耳が痛くなるほどの風の正体は、昂ぶる観衆たちから発される熱と声。

 

自分たちの代表であるユリウスと、自分たちをひとまとめに侮辱したスバル。その対峙の状況を見届けようと、集まった近衛騎士と衛兵たち観衆の熱気だ。

 

「オッズは百対ゼロで俺に賭ける奴はなし。いやはや、我ながらこれは参った」

 

嫌われたものだ、とスバルは敵意の視線を全身に浴びながら小さく肩をすくめる。

これだけ多くの人間に、敵愾心というべき感情を向けられるのは生まれて初めての経験だ。正直、心胆は冷え切り、膝から下が圧し掛かる悪意に潰されて折れてしまいそうな感覚に支配されている。

にも関わらず、鼓動は早まらず、手足は重いが動かないわけでもない。

 

覚悟が決まった、というのとも違う、よくわからない精神状態にスバルはあった。

 

「さて、始める前に改めて問うが、先の非礼を詫び、許しを乞うつもりはあるかい?今ならば、重ねた無礼に見合った謝罪をすれば君を許そう」

 

「重ねた無礼ってのに思い当たる節がねぇが……たとえばどう謝れって?」

 

「涙ながらに地面に額を擦りつける。あるいは従順な犬のように地べたに寝転がり、腹を見せながら媚びを売る、というのはどうだろうか」

 

「どっちもエレガントさに欠けるんで、遠慮させてもらうわ」

 

ピエロを演じるのは得意中の得意だが、それは笑わせたい相手がそこにいてこそ意味がある。目の前の鼻もちならない連中の前で笑われてやることなど、断じて受け入れてやるわけにはいかなかった。

 

スバルの返答に期待もしていなかったのだろう。「そうか」と短く応じるユリウスは今の受け答えを即座に切り捨て、天に向けていた騎士剣を側の騎士へ預ける。

代わりに受け取るのは、その騎士が差し出す二振りの木剣だ。

 

「本来ならば君の無礼は斬られたとて不思議はない。が、君は不本意ながらエミリア様の従者に当たる。故に、相対は木剣で行わせてもらおう」

 

異存はないか、と目で問いかけてくるユリウスに、スバルは手話で「問題なし」と手短に応じる。手の動きよりスバルの顔つきで答えを判断し、ユリウスは頷くと、

 

「納得してもらえてなによりだ。こちらも、今回は純粋に剣のみでお相手する。魔法の使用は一切しないことを誓おう」

 

「あ、お前も魔法使えるタイプの騎士だったりすんのね」

 

「それを含めての、『最優』なのでね。――では、立会人にフェリス」

 

「はいはーい」

 

ちらとユリウスが視線を横に向ける先、挙げた手をひらひらと揺らすフェリスがいる。

立会人に指名され、あっさりとそれを受諾した彼の内心はどうにも読めない。最後まで止めようとしていたラインハルトと異なり、これから始まる暴力のぶつかり合いに対して、嬉々としてついてきた彼はなにを思っているのか。

 

「んじゃ、お互いに誠心誠意力を尽くすように。どんなにひどいケガしても、死なない限りはどうとでもしたげるから頑張ってネ、スバルきゅん」

 

「なんで俺だけに言うんだよ。そっちの方も心配しとけ」

 

「わーぉ、強気ぃ!聞いた、みんな?せーのでさんはいっ」

 

観衆に振り返り、両手を指揮者のように大仰にフェリスが振る合図に合わせ、会場をドッと笑い――スバルの無謀さへの嘲笑が引き寄せる。

その感情の波を見届けて、フェリスは頭部のネコミミをぴくぴくさせながら、

 

「とまあ、賭けの倍率はこんにゃ感じだけど、スバルきゅんはどうする?」

 

懐を探り、指先に当たった硬貨の感触をそのままフェリスに指で弾く。

きらきらと放物線を描いた硬貨が彼の手の中に収まるのを見届け、

 

「それでも賭けとけ。俺が勝ったら俺の総取りで、お前らの身ぐるみ剥いでやる」

 

「やーだ、助平ッ!フェリちゃんにいやらしいことするつもりでしょう。エッチな本みたいに!エッチな本みたいに!」

 

くねくねと体を揺らす男の娘を無視して、スバルはユリウスに向き直る。

すでに気勢十分といった様子の彼に吐息し、スバルはゆっくり距離を縮める。二本の木剣の内、片方を受け取ってから戦いはスタート。

ロズワール邸でも体を鍛える目的で素振りはしていたが、どの程度やれるものか。

 

「そもそも、なんか状況に流されてここまできちゃった感があんだけど、そもそもこのおままごと決闘を受けて立った的な記憶が俺にないんだけど」

 

「だが君はここへきた。そして、私を見る目にはぶつかることを忌避する感情はない。それだけで十分だと思わないかい?」

 

「おいおい、非暴力非服従非核三原則で現代のファーザーテレサと名高いナツキ・スバルさんが、そんな乱暴なやり口にノリノリでいくわけねぇだろっつの」

 

適当な言葉でお茶を濁しながら、スバルはユリウスのすぐ前に立つ。

なんだかんだ言いながらも、スバルの体は準備運動の甲斐もあって熱が入っている。開始の合図があれば、即座に動くことも可能だろう。

そんなスバルの状態に、満足げにユリウスは目を細めて、

 

「やる気になってくれているようでなによりだ。では、始めようか」

 

木剣の一本をスバルに差し出し、ユリウスは疑似決闘の開始を宣言する。

自然、観衆たちのボルテージが高まっていくのを肌に感じながら、スバルは受け取った木剣を軽く振り、手に馴染ませながらユリウスから離れて――、

 

「あ、タンマ。なんかこう、微妙にソリが合わない感じがこいつにする」

 

手の中の木剣をくるくると回して、スバルは振り返ってそう文句を付ける。

それを聞き、ユリウスは「そうかい?」とやや出鼻をくじかれた顔で、

 

「あまり変わると思えないが、こちらを使ってみるかい?」

 

「ああ、悪いね。いやほら、俺も色々と手間暇かかる箱入り息子なもんだから、肌に馴染まないアイテムとか持つとよくないんだよね――」

 

言いながら、ユリウスがこちらに差し出してきた木剣を片手に受け取る。そして、代わりに先に渡されていた方の木剣をユリウスへと差し出し――、

 

「おっと」

 

「――――」

 

それがユリウスの指先に引っかかるより早く、スバルの手から木剣が離れた。重力に引かれて、木剣が自然落下の軌道に入り、とっさに身を前に傾けるユリウスの手がそれを追う。

真っ直ぐに、伸びていたユリウスの体勢が傾ぎ、身長差が消えた。

 

「――ふっ!」

 

前に踏み込み、スバルは手にした木剣をわずかに引き、手首の返しで跳ね上げる動きでユリウスの顎の先端を狙う。

と同時に、空いた左手の方を正面へと突き出し、屈伸の際にこっそりと握り込んでいた砂をユリウスの目へ――目くらましと奇襲の二段構え。

 

――もらった、と会心の小細工にスバルの口の端が邪悪に歪んだ。

 

その直後、

 

「君にはどうやら本当に誇りがないらしい。卑俗で実に生きやすいことだろう。――哀れでならない」

 

声が耳元で聞こえた。と同時に訪れる衝撃、鳩尾を突き上げる固く鋭い感触。

溜め込んだ酸素が肺の中で炸裂し、開いた口から「は」と短い苦鳴が漏れる。そのまま胸に当たった固い感触を支点に、前のめりになる体が浮かぶ。足が地を離れて天地が逆になり、内臓が浮遊感に振り回された直後に顔面から地面に激突。

 

砂地に顔面を削られ、鳩尾を打つ痛みに吐瀉物をまき散らし、痛みと熱に脳が強烈な打撃を受ける中――練兵場で熱気が爆裂する。

 

身の程を弁えない無茶と無謀、その報いが今まさに、スバルへと容赦なく振りかかろうとしていた。

 

練兵場の高い空に、遅れて上がる痛みの絶叫が尾を引いていく。

高く、高く、遠く、遠く。