『翻弄する悪意』


 

「なんや、らしない顔してるやないか。なんぞ心配事でもあるんか」

 

制御搭へ辿り着く直前に、険しい横顔をした騎士にリカードがそう声をかけた。

足を止めて、ユリウスは意外そうに眉を上げる。

 

「驚いたな、リカード。まさか君に、そんな風に他人の機微を気にする繊細な気遣いができるとは思っていなかった」

 

「つまらん言い回しで誤魔化そせんでもええ。一緒にいるんはワイだけなんや。お嬢もおらんのやから、たまに弱音吐いても内緒にしといたるわ」

 

「……君には敵わないな」

 

普段は感じる機会も少ないが、大雑把なようでリカードはよく人を見ている。

そうでなければ『鉄の牙』といった集団の団長は務まらないし、断片的に聞かされた彼の壮絶な経歴を聞けば納得もできる。周りを見ていなければ、自分のことばかりでは生きられない。奴隷、傭兵、どちらの経歴にも当然のことだ。

 

「そらまぁ、年の功ってやつやな!これでも、ワイらの陣営じゃ頼りになるオトン役のつもりでおるんや。娘婿の相談にもいつでも乗ったるわ」

 

「娘婿とは恐れ多い。私はアナスタシアに、そんな不埒な想いは抱いていないよ」

 

「なんや、お嬢のこととは言うとらんやんけ。ミミのことかもしれんやろ。他にもワイの娘はぎょうさんおんのに、最初にお嬢が出てくる時点で説得力がないわ」

 

「――――」

 

ユリウスが苦笑する。静かに首を横に振る仕草はいつもながら優美だが、それでも言葉の選択や言い回しに精彩を欠いている。

そしてその兆候は、

 

「都市庁舎の奪還、そのあたりからどうもおかしい。お嬢も同意見や。お嬢はなんや突っ込んだことは聞けんかったみたいやけど、ワイは突っ込むぞ」

 

「容赦をしてくれないのだね」

 

「当然や、命懸けやからな。迷ってる奴に背中預けるんはワイかて御免や。何かもっともらしい小理屈並べて、言い返せるんか?」

 

「……いや、君が正しい。間違っているのは私だ。確かに私は今、口にすることを躊躇うような迷いにさらされている」

 

リカードの追及に素直に頷いて、ユリウスは形のいい眉を寄せる。

ただ、その煩悶する横顔からはそれ以上の言葉が出てこない。この態度にはリカードも痺れを切らし、やや不機嫌に鼻を鳴らした。

 

「なんでそこで黙んのや。なんぞ迷うことがあんねん。素直にそれ、口に出したらええやないか。何に対して、何を迷っとるんや」

 

「――――」

 

「ユリウス」

 

「すまない。なんと言えばいいのか、適した言葉が見つからない。――私の迷いの原因は君も察している通り、都市庁舎での遭遇した大罪司教だ。『暴食』の、ロイ・アルファルドと名乗った人物には違いない。違いないが……」

 

歯切れ悪く言葉を切り、ユリウスは黄色の瞳に戸惑いを浮かべた。

 

「他の大罪司教同様に、おそらく『暴食』も何がしか不可解な権能を持っているのは違いない。記憶を食らい、名前を食らうというそのおぞましさは白鯨の被害からもうかがい知れる部分があった。だが……」

 

「ユリウス――!」

 

核心に触れかけたところで、わずかに焦燥感を帯びたリカードの呼び声。それが何を意味するものなのか、ユリウスにも即座に伝わった。

 

――足下を伝い、大気が震え、世界から音が消えて、光が空に立ち上る。

 

青い極光が夜天を突き刺す光景は他でもない。

この世でもっとも強い個人が放つ、その斬撃の残滓に違いない。

 

「派手にやってくれるわ。あれ、剣聖の一発で間違いないな?」

 

「ああ、ラインハルトだろう。どうやらスバルたちは『強欲』と接触したようだ。遅れを取るわけにはいかない。我々も急がなくては」

 

他の大罪司教への攻撃が始まったところで、残りの大罪司教が一斉に報復行為に出るとも限らないが、何らかのアクションが起こらないとも限らない。

目前に迫る制御搭を目指し、ユリウスとリカードはその足を速めた。

 

「それで、『暴食』の何がおかしい?そないに桁外れの化け物やったんか!?」

 

大鉈を肩に担ぎ、リカードが前を行くユリウスに中断した話の続きを求める。ユリウスは首だけで振り返り、視線だけでそれを否定した。

 

「いいや。本気こそ出していなかったと見えるが、少なくとも『暴食』の技量自体は人知を超えたというほどのものではなかった。私と君の二人がかりなら十分に相手ができる。――ただ、敵の不気味さはそれとは違うところにある」

 

「――――」

 

要領を得ない返答になるのは、ユリウス自身にもその薄気味悪さの本当の部分がわかっていないからだ。そして、先の攻略組の選定の際の議論にそのことを口にしなかったのは、珍しいぐらいのユリウスのわがまま。

 

ユリウスは『暴食』を不気味で得体の知れない敵と目していながら、それでももう一度、剣を交えることをしなくてはならないと考えている。

その理由がどこにあるのか、リカードにはわからない。

ユリウス自身にも、はっきりと言葉にできない。

 

「――――」

 

石畳を蹴りつけ、街路を折れるように角を曲がる。そして、他の建物と比べて異彩を放つ制御搭、四つのうちの一つを目前にしたところで――、

 

「あァ、きてくれると思ってたよ。きてくれると思ってたさ。そうさ、そうだ、そうだよ、そうだろ、そうだろう、そうだとも、そうじゃないか、そうだろうともさ、そうだろうからこそッ!待ってた甲斐があるってもんさッ!」

 

――制御搭の入口の前、石畳の広場に一人の少年が立っている。

 

薄汚れたボロ切れをまとい、伸びるに任せた焦げ茶の髪。狂気的にぎらつく双眸が楽しげに光り、口からは鋭い犬歯と涎の滴る舌がこぼれている。

小柄な体躯に、だらりと下がった両腕。どこからどう見ても、大した力などなさそうに見える浮浪児――その全身から放たれる、怖気を伴う鬼気がなければ。

 

「一応、確認や。……あいつで間違いないな?」

 

あいつか、とは聞かない。奴に間違いない、それは確信だ。

そのリカードの問いかけに、ユリウスも静かに顎を引いただけで応じる。

 

間違いなく、疑いようもなく、そこに立つのが『暴食』の大罪司教。

他者の記憶と名前を咀嚼する、最低の冒涜者だ。

 

「ロイ・アルファルド――」

 

「はい、大正解。それ僕たちの名前。覚えててくれて嬉しいよ。嬉しいさ。嬉しいね。嬉しいとも。嬉しいから。嬉しいからこそ、暴飲ッ!暴食ッ!喰らいつき甲斐も、飲み干し甲斐もあるってもんさァ。それに……」

 

名前を呼ばれて、アルファルドがひどく残忍に笑う。彼の視線はそのまま、ユリウスの隣に立っているリカードへ向いた。

牙だらけの口を開き、恍惚の眼差しで鼻を鳴らす。

 

「今度は食いでのある、犬っころちゃんまで連れてきてくれたってわけだね。その気遣いがたまらなく嬉しいよ。なにせ、ユリウス・ユークリウスくんだけだと腹持ちが悪いからさァ。なんて言うの、薄味なんだよね」

 

「君の侮辱の言葉も聞き飽きてきたところだったのでね。早々に決着をつけようと、今回は友人に同行を願った。一人に複数でかかるのは優雅とは言えないが……」

 

「あァ、いいよ、そういう前口上みたいなの。そうやって自分の意識を高めるのがいかにもユリウスくんらしいけどさァ、それも薄いっていう気がするよね。俺たちは美食家だから味にうるさいんだけど、ユリウスくんはこれまで見てきた中でもトップクラスに食をそそらないッ!小奇麗にまとまりすぎててさァ」

 

「それはそれは……先の大歓迎のわりに、つれないことを言ってくれるものだ」

 

「それこそしょうがないッ!僕たち俺たちの本意じゃないっていうか、それはちょっと引きずられてるところがあるんだよ。ちょっとばっかり言行不一致な部分があるのは見過ごしてほしいなァ、そういう性質なもんだからッ」

 

ひらひらと手を振りながら、アルファルドはあくまでおちょくる姿勢を曲げない。挑発的な態度にユリウスは平静を保っているが、代わりにリカードの方が不愉快さを隠し切れない。舌打ちして、首の骨を鳴らす。

 

「おうおう、好き放題言ってくれるやないか、坊主。ガキやから見逃してもらえる思うとるんなら大間違いやぞ。お前らのやらかしとることは可愛げがない。尻叩くだけで済む次元は越えとる。どタマ、かち割ったるからなぁ」

 

「おお、怖い怖い。そんな怖い顔で睨まないでよ。犬っころって言ったのが気に障ったんなら謝るからさァ、リカード・ウェルキンさん。僕たちはこれでも、ちょっと君に憧れてたんだぜ?物怖じしないで、でっかい声で喋れる大雑把さにさァ!」

 

「――?」

 

名前を呼ばれて、リカードは顔をしかめながらユリウスを横目にする。その視線にユリウスは首を横に振った。

おかしい。アルファルドの発言は、単なる狂人の妄言だと切り捨てるにはどこか違和感を拭い去れない。たとえば――奴はいつ、リカードの名前を知った?

 

「薄気味悪いガキやな。……ワイらの名前なんぞ、どこで調べおったんや」

 

「調べるだなんて小賢しいことしちゃいないさァ。俺たちは、知ってて当然のことを話してるだけ。そうだろ、ユリウスくぅん?」

 

「同意を求められても返答しかねる。君ほど、私は君のことを知らないのでね。故にそういう手口が君の手口なのだと、そう割り切らせてもらうとするよ」

 

「ほら、またそういうつまらない結論を出す。色々気になってるくせに、不安も不満も不愉快もッ!胸にしまって、自分のことを後回しにしてしまうッ!それは騎士としての美徳だけどさァ、人間的には退屈なんだよ」

 

騎士剣を引き抜き、ユリウスは静かに唇から何事か囁く。

途端にユリウスの周囲に光が浮かび上がり、彼の長身を六色の輝きが取り巻いた。

 

ユリウスが引き連れる、六体の準精霊。

精霊騎士ユリウスを、『最優の騎士』たらしめる剣技と精霊術の融合だ。

 

「劣等感の香ばしさも、挫折を経験した豊潤な舌触りも、強く何かを渇望する甘美な味わいも、後生大事に抱え込んだ秘密の満腹感も、君にはなぁんにもないッ!」

 

「――リカード。最初から全力を注ぎ込む。合わせてくれ」

 

「おお、任しとき」

 

両腕を振るって、アルファルドの袖口から手首に括り付けた短剣が覗く。二本の短剣を振るうのが『暴食』の戦い方だが、それはユリウスの魔法を防ぐことも、リカードの一撃を防ぐことも、どちらに対しても頼りない得物でしかない。

 

この勝負、伏兵でもいない限りはすでに勝敗は見えている。

にも関わらず、リカードの目にはアルファルドが敗色濃厚な戦いに挑む姿勢にはとても見えなかった。

 

「精霊騎士、ユリウス・ユークリウス」

 

行儀よく、戦いに臨む前にユリウスが自分の名前を名乗る。

その隣で大鉈を担ぐリカードは、それに合わせて名乗ってやる律義さはない。ただひたすらに、『暴食』の余裕の正体を暴こうと目を光らせる。

 

リカードのその視線に何ら引っ掛かりのないまま、アルファルドは嗤った。

 

「いいさ、いいよ、いいとも、いいかも、いいじゃない、いいだろう、いいじゃないか、いいだろうさ、いいだろうともさ、いいだろうからこそッ!暴飲ッ!暴食ッ!美食、悪食、飽食、過食ッ!大味、薄味、美味、珍味ッ!根こそぎ全部喰らってやるさッ!面白味のない人生もまた、俺たちの知らない味わいだッ!」

 

「――エル・クラウゼル」

 

六色の輝きがユリウスの眼前で円を描き、中央に突き込まれた剣の先端から極光がアルファルドを目掛けて放たれる。

複数の属性が入り混じり、虹色を描いた破壊の力は全てを呑み込む一撃だ。

 

眩い光に遅れて、石畳を砕くほどの勢いでリカードもまた踏み込む。大鉈を振りかざし、極光に対してアルファルドがどう動こうと砕けるように。

豪風をまとう斬撃と、破壊を伴う虹色の極光――それを前に、アルファルドが凶悪に牙を剥き出す。

 

「――本当に、兄様は想像通りで素敵だ。僕たちはうっとりするよ、まったくッ」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――月下、風を切り裂く銀閃が、火花を散らして剣戟を奏で合っている。

 

剣戟の片割れは双剣を操る剣鬼の冴えた刃。

相対するもう片方は剣鬼を迎え撃つ、流水の如く柔らかな剣気を操る女剣士。

 

刃同士のきらめきが宙を乱舞し、苛烈なはずの鋼の響き合いはどこか儚げで物悲しい。甲高い斬撃のぶつかり合いは、求め合う恋人同士の愛撫を思わせる。

なぜそんな錯覚を呼ぶのかといえば、それはその二人の剣士の剣戟がきっと、これ以上ないほどに噛み合っているからこそなのだろう。

 

「しぃぃぃぃっ!」

 

息を詰め、剣鬼の双剣が上下左右を問わず、縦横無尽の軌道で放たれる。

弧を描く斬撃の軌跡はいっそ芸術的ですらあり、研ぎ澄まされた斬撃は全ての剣士にとっての一つの到達点だ。

一角の剣士であれば、あるいは刃に見惚れたことが敗北の原因になりかねないほど冴えた斬撃、それが惜しげもなく存分に振舞われる。

 

「――――」

 

一撃が十分に致命傷になり得る、無数の斬撃。

しかし、その嵐のような猛攻を受ける長剣、その担い手の技量も人域にない。

 

そも、振るわれる長剣の存在が一つの異様。

得物として扱うことに無理があると思われるほどの刃渡りは、その刃を振るう担い手の身長に匹敵する。だが、細腕の女剣士はその長大な剣を、まるで重さを感じないかのように軽々と振りかざしてみせるのだ。

 

全身をすっぽりと覆うフード、自らの視線と視界を制限したまま、長剣の担い手は水を掻くような滑らかな動きで剣の先端を揺らめかせる。

速度、鋭さ、いずれも長大な刃は迫る無尽の双剣には及ばない。にも関わらず、剣鬼の斬撃は吸い込まれるように長剣の刀身に阻まれる。

甲高い音と火花が連発し、口惜しげに舌を鳴らす剣鬼の前で、女剣士が大きく背後へ飛んだ。予備動作のない動きに剣鬼の反応が遅れ、追いすがろうと前へ足を踏み込んだ瞬間――光が剣鬼の眉間に突き刺さる。

 

「――ぬぅッ」

 

一瞬の間に閃いたのは、頭蓋を突き通さんと放たれた長剣の刺突だ。

刃を引いたことを悟らせない洗練された構えと、瞬きの時間で一直線に迫る殺戮に特化した刺突――長年の経験が死神の接近を知らせなければ、間違いなく寸前に見た光に脳を掻き回されて死んでいた。

ちりちりと、幻視した己の死相が眉間に熱を持たす。剣鬼は瞬き一つでその感慨を切り捨て、刺突の姿勢で動きの止まる女へと追撃を――。

 

「ぐ、ぶ」

 

「――――」

 

仕掛けようとした寸前、胴にめり込んだのは女の爪先だ。

鍛え上げられた腹筋の隙間に突き刺さり、細く長い足は内臓を掻き回す。一撃の重さに体がくの字に折れれば、銀閃が半円を描いて頭上へ掲げられた。

 

閃きが真っ直ぐ、月を割るように落ちてくる。

それまでの流水のような静寂の剣閃と一転、唐竹割りの斬撃は大気が斬られたことに気付かぬほどの鋭さで、剣鬼を真っ二つにせんと振り下ろされる。

一撃の威力はこれまでとは比較にならない。担い手の技量と、刃の錬度――どちらも人体を切り分けるのに十分な水準を満たしている。

まさしく、瞬きの間に迫ってくる死――。

 

「舐めるなぁッ!!」

 

体を折ったまま、跳ね上がる両腕が剣鬼の頭上で双剣を交錯させる。

重なり合う刃の中心に長剣が叩きつけられ、その威力に噛みしめた奥歯が砕けた。耐え切れずに両腕が下がり、長剣の刀身が剣鬼の額を浅く切り裂く。

血が噴き、視界が斑に赤く染まった。だが膝はつかない。双剣も折れていない。

 

「ぬぅぅぅっ!」

 

双剣を握る上腕が膨れ上がり、下がった腕を再び押し返す。

振り払う動作で鍔迫り合う長剣を跳ね除け、得物を浮かされる衝撃に眼前の女剣士の体が不用意に開いた。その胴体目掛け、返礼の前蹴りが放たれる。

石畳に突き刺さるほどの蹴りの威力が、女の持ち上げた靴裏に吸収される。長剣の反動と、蹴りを受けた反動。両方を利用して女の体は大きく後方へ宙返り――逃げ場のない宙へ逃れる細い体に、老いた剣鬼の肉体が躍りかかる。

 

――好機。

 

逃れ得ようのない中空を舞う女剣士に、剣鬼は肩を唸らせて斬撃を見舞う。

飛び退く体へ踏み込み一発で追いすがり、上下からの斬撃を叩きつけた。二振りの刃が同時に弧を描き、まるで獣の顎のように細い体へ喰らいつく。

 

宙で、しかもこちらに背を向ける姿勢の女には防ぎようがない。

だがしかし、その曇りのない剣閃が揺らいだ。

 

「――ッ」

 

空中で身をひねる女剣士、その頭部を覆っていたフードが後ろへ外れる。逆さになる体の重力に耐えかね、外れたフードに隠されていたものが露わになった。

流れ落ちたのは、長く美しい燃える炎のような紅色の髪だ。

 

「――――」

 

それが視界を掠めた瞬間、剣鬼の斬撃に瞬き以下のズレが生じる。

あくまでかすかな、完璧からほんのささやかに外れるばかりのズレ。それが失われたとて、放たれた斬撃を防げる力量は余人には獲得しようがない。

 

だが、それは剣鬼の相対する存在にとっては致命的なズレだ。

剣の申し子、かつて剣神の寵愛を受けた存在に、曇った刀身など届かない。

 

「――――」

 

眼前の光景に、剣鬼の喉が戦慄で凍る。

決定打を確信した斬撃は中途で、女に届く寸前に中断させられていた。

 

何のことはない。女は中空で長剣を引き寄せ、上下から迫る双剣の間にそれを差し込んだだけのこと。――獣の顎につっかえ棒を入れる、そんな気軽さで。

長剣の切っ先と柄尻が、双剣の刀身と完全に噛み合っている。剣鬼を戦慄させたのはそれだけではなく、鋼の噛み合う音が一つしか響かなかった点もそうだ。

 

二振りの刃を受け、その上で快音を一つに留めようとすれば、上下から迫る刃が自分の得物の長さにぴったりと一致するタイミングを計る以外にない。

恐るべきはそれを見極める眼力と、それをやってのける技量と、それだけのことを達成して微塵も揺らがない精神力だ。

 

「――ふ」

 

あまりに常軌を逸した離れ業に、剣鬼の喉から感嘆に近いものが漏れる。

瞬間、剣撃を受け止めた女の足が上下に大きく開き、いまだ斬撃の軌道の半ばにあった剣鬼の両腕をしたたかに蹴りつけた。

衝撃に握られていた刃が手を離れ、瞬間、ありえないほどの無防備をさらす。

 

直後、長剣が大気に断末魔を上げさせながら横薙ぎに解き放たれた。

 

迫る刃の速度、何よりも射程。

無手の剣鬼には防ぐ手立ても、かわす時間も距離もない。

 

長剣が右脇の薄皮を破り、そのまま内臓を、背骨を切断し、一気に左脇から抜けて体が上下に分断――血と内臓をぶちまけ、呻き声すら上げられないままに老躯が両断される。それが本来、回避できない運命の結末。

 

つまりは避けられない終わり。当然の幕引き。

生涯を費やしてきた刃の終着、全てを取りこぼして、贖いすらままならず。

 

――そんな最期、受け入れられるはずがない。

 

「おぉぉぉぉぉッ――!!」

 

一瞬、脳裏を過った鮮血の結末に反逆する。

剣鬼の喉が幻視した終幕を炎にくべ、緋色の活力が炎を噴いた。極限状態の集中力が時間の経過を曖昧にし、世界から音が、色が、自分と相手以外の全てが消える。

 

迫る刃が想像通りの軌道を描き、自分の胴体へ突き刺さる。

ゆっくりと、刃が薄皮を引き裂く感触に血の熱と痛みを感じながら、元の世界の十数倍も重力を増したような感覚の中で、両足に全霊の力を込める。

 

踵が石畳を抉って踏み切り、両腕を右へ振り下ろす動作で反動を得る。

最短距離と最適な角度で体をひねり、胴体に触れた刃を乗り越えるように側転。横に滑る刃の上を、体を転がすようにして回避した形だ。

 

「――――」

 

渾身の一撃を避けられ、さしもの女剣士も返す刃の追撃が遅れる。

その間に剣鬼は後方へ飛びずさり、跳ね飛ばされた双剣を中空で拾い上げる。深く息を吐き、抉られた脇腹に掌を当て、傷の深さを確かめた。

 

決して浅からぬ傷だ。

右脇に刃を侵入させ、その状態で身をひねって側転したのだ。体に刃を突き入れたまま回れば、当然、体には円を描く斬撃が入る。

幸い、かろうじて切っ先が内臓に届く寸前で回避できたようだが、内臓の表面を削るほどに切り裂かれた傷口から滴る血の量は少なくない。

常人であれば十分に重傷。安静を言い渡されて当然の傷だが――。

 

「……もとより、長く戦えるなどとは思っていない」

 

短く設定されていた制限時間が、さらに短くなっただけのことだ。

剣鬼――ヴィルヘルムは脱いだ上着を腰へ巻きつけ、乱暴に止血する。たくましい肉体をさらし、応急手当てをするヴィルヘルムに追撃はない。

相対する女は静かに、その感情のない瞳でヴィルヘルムを見つめていた。

 

そこに何らかの揺らぎ、ささやかな変化が生まれることを期待する自分に、ヴィルヘルムは苦笑する。自ら傷口を抉り、痛みに意識を覚醒させた。

 

「弱気は無用。夢など見るな。逢瀬など、いずれ天上でいくらでもできる」

 

「――――」

 

「迷って出たなどとは思わない。天の差配とも期待しない。我が妻は剣を振るうのを嫌がる女だったが、剣を握ることの責を他者に押し付けたことは一度もない」

 

無感情に、生前の技術を振りかざす死者。

長くつややかな紅の髪、白く透き通る滑らかな肌。宝石をはめ込んだ美しい瞳、目をつむれば飽きることなく思い出せる愛おしい顔。

全てが目の前にあって、全てが目の前にあるはずがないものだ。

 

「テレシア、お前は美しい。――だから、お前はここにいてはならない」

 

双剣を手の中で回し、ヴィルヘルムは再び構えを取る。

ここにいるのは、テレシア・ヴァン・アストレアの夫ではない。ここにいることを求められたのは、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアではない。

ここにいるべきなのは、剣鬼ヴィルヘルム。

 

――亡き妻の現身を前にして、ヴィルヘルムの心は冴え冴えと先鋭化する。

 

血は煮えたぎり、この所業を行った悪辣な存在への怒りは尽きない。

だがこの一瞬、この瞬間、この一合、余計なものはいらない。

 

かつて友は、戦友は、妻は、ヴィルヘルムに言った。

剣を熱で曇らせるな、血に沸き立つことをするな、鋼の冷たさを愛せ。

 

今はどうか。熱くなっているか。

 

「いいや、冷えているさ。――刃のように」

 

月下、剣鬼が鋼のごとき視線で敵を射抜く。

相対する超級の剣士もまた、躊躇いなしに長剣の先端を揺らめかせた。

 

刹那、再び剣閃が互いに向かって放たれる。

打ち合わされる鋼の響きは悲鳴にも、懇願にも、求愛にも似て。

 

終わることを望みながら、終わらなければいいと望むように。

まるで尽きぬ言葉を交わすように、剣戟は響き合い続けた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「あァ、クソッたれ!反応しやッがらねェ、ざっけんなよォ!」

 

地面を蹴り、壁を蹴り、屋根を蹴り、跳躍する。

斜めに宙を飛び、短い金髪を浴びる風にたなびかせながら、牙を剥き出すその形相は必死そのものだ。

舌打ちに舌打ちが重なり、身を焦がす焦燥感が心から余裕を奪っていく。

 

「チクショウ!どうなってやッがんだァ、オイ!」

 

着衣をはためかせ、着地すると同時に停滞なく走り出す。

人知を超えた肉体強度と身体能力、その両方があって初めて可能な芸当だ。しかし己の肉体一つで都市を飛び越える人物、彼の表情にそれを誇る色はない。

ただひたすらに必死に、反応のない手鏡に向かって吠え続ける。

 

走るのはガーフィール、呼びかけるのは手の中の魔法器――対話鏡だ。

同個体と会話で繋がることができるはずの対話鏡、その反応がない。ガーフィールの呼びかけに誰も応じない。二組、反応する候補があるにも関わらず。

 

「都市庁舎も、『憤怒』の相手してる連中も!なんで答えねェ!?」

 

連絡を取り合う目的で対話鏡を分け合い、攻略戦にそれぞれが臨んだはずだ。

実際、都市庁舎を出発した直後は連絡を取り合うことはできていた。だが、実際に連絡が必要になった現状、対話鏡はその機能を沈黙している。

 

――伝えなければならない、今すぐに。

 

「都市庁舎から逃げろって、言わなきゃなんねェってのによォ――!!」

 

言い捨てながら跳躍し、目の前の通りを一気に飛び越えてショートカット。

乱暴な着地に踏まれた屋根が砕けるが、ガーフィールは一顧だにしない。今は都市への被害よりも、反撃隊の保全を優先しなくてはならない。

 

ガーフィールが急ぎ、向かっているのは都市庁舎だ。

ほんの数十分前に出発したばかりのその場所に、ガーフィールは一人で戻っている。同行していたヴィルヘルムを残し、対話鏡に必死に呼びかけながら。

 

その理由は他でもない。

本拠地である都市庁舎に、危険が迫っているからだ。

 

――ヴィルヘルムとガーフィールの二人が『色欲』の占拠した制御搭へ辿り着いたのは、ラインハルトの一撃が『強欲』にお見舞いされたのとほとんど同時だ。

 

彼方に上る極光を目の当たりにしながら、二人の戦士は制御搭へ乗り込んだ。

出迎えの魔女教徒も、道を塞ぐ邪魔者も出てこない。予想した通り、都市の襲撃に加わった魔女教の戦力は幹部クラスが出張ってきただけに留まったらしい。

 

そこまでは順調に運んだ。都市の水門の操作に必要な機能、それだけを備えた制御搭の中には見るべき場所も部屋も少ない。

二人はそのまま上階を目指し、『色欲』との決戦に備えた。『色欲』の陣営がもっとも、戦力比としては危険と予想されている。『色欲』に加えて超級の戦士が二人、都合三人の敵を二人で相手しなくてはならない――自然、緊張が全身を満たした。

 

「可能であれば、女剣士は譲っていただきたい」

 

「なんかあるってなァ、大将ッからも聞いてらァ。けどなァ、俺様だってあの女にゃァ用があんだ。はいそうですかって譲れってのは無理だぜ」

 

「――アレは、私の妻です。彼奴らめは妻の亡骸を弄び、魂を踏みにじって、かつて妻が守ろうとしたものたちに剣を向けさせている」

 

「――――」

 

「到底、許せることではない」

 

道中、自らの戦う理由を口にしたヴィルヘルムの言葉。

自分も譲れない理由を抱いていたはずのガーフィールが、思わず口をつぐむほどの迫力がそこにあった。とっさに言い返すことができなかった時点で、あるいはどちらがあの女剣士の相手にふさわしいのか、それは決まっていたのかもしれない。

 

「――――」

 

言葉にしたわけではないが、ガーフィールはヴィルヘルムに敵を譲った。ヴィルヘルムもそう受け取って、礼を口にしないまでも顎を引いた。

故に制御搭へ踏み込んだとき、ガーフィールは全身の産毛を逆立たせていた。

 

ヴィルヘルムがあの女剣士と渡り合うのであれば、残った二人の相手は自分がしなければならない。女剣士はもちろん、その隣にいた巨漢も引けをとらない強者。

戦闘力的には『色欲』が劣ると見ているが、大罪司教の恐るべきは戦闘力ではなく、その在り方だとスバルからも口を酸っぱくして言われている。

 

静かな緊張と、みなぎる戦意。

次第に強くなる血の香りを嗅覚が捉えたとき、ガーフィールは両足に取り付けていた銀の盾を装備し、目的の部屋を猛然と蹴り開けた。

そしてその中で、それを見たのだ。

 

『大人しく待つわけねーでしょうが、バーカ』

 

部屋一面に、大量の鮮血で描かれたその血文字を。

 

その意味に勘付いた瞬間、ガーフィールの脳が沸騰した。

襲撃に対して、当たり前のように逃げを打つ姿勢。待つ義務などない。それをあからさまにやってのける、その精神性に。

 

「――失念しておりました。奴らが、こういう手合いであることを」

 

声を押し殺しながら、ヴィルヘルムが懐から対話鏡を抜いた。すぐに都市庁舎に連絡を取ろうとしたのは、ヴィルヘルムが先に可能性に思い至ったからだ。

 

「攻撃に戦力を割り振れば、当然、本陣の戦力は薄くなる。この手の輩はそういった間隙を狙うことを躊躇わない」

 

蒼白になるガーフィールの前で、ヴィルヘルムが反応のない対話鏡に舌打ちした。

同時に生じたのは、制御搭の屋上から伝い落ちる濃度の濃い敵意。

 

刃で背筋を撫ぜられるような感覚に、ガーフィールは敵の存在を理解。

ヴィルヘルムもまた、その敵意の正体を悟った。

 

「ガーフィール殿、都市庁舎をお願いします」

 

「駆け戻るだけなら、俺様の方が速ェ」

 

意思交換は一瞬だ。

足止めに残った敵は、疑いようのないほど鋭い剣気を放つ人物。背を向けて逃げようとすれば、その刃はたちまち二人を背後から切り倒す。

 

どちらかが残る必要があった。

そして、どちらかが都市庁舎へ戻る必要があった。

 

「呼びかけ続けてください。――我が主を、お願いします」

 

「言われッるまでもねェ。『リブレの声で兵は沸き立つ』ってなァ」

 

投げ渡された対話鏡を受け取り、ガーフィールは制御搭から飛び出した。

そのまま都市を飛び越え、水路を跨ぎ、返事のない対話鏡への呼びかけをずっと続けている。――おそらく、ヴィルヘルムの戦いも始まっているはずだ。

 

「クソったれ!まんまッと、つまらねェ裏ァ掻かれて……ッ!」

 

『色欲』が都市庁舎へ奇襲をかけたとすれば、応戦できる戦力は少ない。

アナスタシアとフェリスに戦闘力はないし、クルシュも負傷で倒れている。『鉄の牙』の構成員が数名は警備にいるが、ミミと比較しても彼らの実力は足りない。

 

ミミのことを思った瞬間、ガーフィールの胸が痛々しく疼いた。

今も死の淵にある、自分を引き戻し、庇い、救ってくれた少女。

 

彼女の命を繋ぎ止め、救い出すことが、自分の役目だったはずなのに。

その役目を、感情の問題で他人に譲り、報復の機会は遠ざかった。ならばとその代わりに請け負ったはずの仕事すら、満足に果たせずにいる。

 

自分は何をしている。このざまで、何をしている。

ミミにも、スバルにも、姉にも、ラムにも、誰にも、顔向けができない。

 

「俺様ァ、また――ッ!」

 

何もできないままなのか。

反応のない対話鏡に映る、情けない顔をした自分。それを呪った瞬間だ。

 

「――ッ!?」

 

屋根を踏み砕いて跳んだ直後、真横から飛び込んでくる影への反応が遅れた。

宙に浮いた体が自分よりはるかに巨大な質量の直撃を食らい、そのまま横っ飛びに跳ね飛ばされる。

苦鳴も上げられないのは、喉に肘を引っかけられて絞め上げられているからだ。血と酸素が脳に巡らなくなり、意識の維持が急速に難しくなる。

 

そのまま遠ざかりかける意識を繋ぎ止めたのは、全身に叩きつけられる衝撃だ。

中空で迎撃された体が斜めに飛び、そのまま真横の建物に激突する。全身で壁を砕きながら、噴煙を巻き上げてガーフィールの体は振り回される。

 

鈍い痛みと、骨が砕かれる痛苦に呻き声を上げ、同時に拘束が外れたことを理解。ガーフィールは全身のバネを利用し、手の届く範囲を殴りつけて体を起こす。

自分の体は明りの消えた建物の中にある。もうもうと立ち込める噴煙が、月明かりに照らされて白くけぶり、血痰を吐き出す眼前に気配があった。

 

それが自分を撃ち落とし、ここへ叩き込んだ張本人に違いない。

 

「てめェ、ざっけた真似してくれやが――」

 

拳を構えて、飛び込もうとした瞬間に土手っ腹を拳が打ち抜いた。

巨大な相手の拳に腹筋全体を打撃されて、ガーフィールの体が浮き上がる。直後に真上から振り下ろされる拳に殴りつけられ、そのまま半壊していた床を砕いてさらに階下へと突き落とされた。

 

「ごぇッ、なに……ごォ!?」

 

うつ伏せに落ちた体に、背中から靴裏で叩き込まれる。

勢いと質量、両方の伴ったダメージに血を吐けば、のけ反る体をさらに蹴りつけられて激しく転がった。そのまま建物の入口を吹き飛ばし、ガーフィールの体が街路へと投げ出される。

 

凄まじい威力に咳き込みながら、ガーフィールは体を起こす。同時に簡易的な治癒魔法を体に施し、折れた骨だけ接いで顔を上げた。

ガーフィールを追って、建物から現れたのは見上げるほどの大きな人影だ。

 

全身を黒のローブで覆い、それでも隠し切れない太い腕と両足。筋肉質というよりも、全身が筋肉の鎧でできていると言っても過言ではない風体。

ガーフィールにとって、すでに三度目の邂逅となる敵だ。

 

その名前もすでに、知っている。

 

「『八つ腕』のクルガン……ッ」

 

かつて、ヴォラキア帝国で剣を振るったという英雄の一人。

十数年前に、帝国の都市防衛の戦いの中で戦死したという話だったが、現状の在り方はヴィルヘルムの妻同様、死後を辱められているからか。

 

「――――」

 

ガーフィールが名を口にした途端、巨漢――クルガンが腕を伸ばした。

同時に彼の体を覆っていたローブの留め具が外れて、その姿が露わになる。それはつまり、英雄クルガンの威容を間近に浴びるということと同義だ。

 

想像した通り、その頑健な肉体は分厚い筋肉の鎧に包まれている。

巨人族に匹敵する強大な体格、その首から上には鬼もかくやと言わんばかりに覇気と戦意に満ちた闘神の面構えがある。

そして闘神を闘神たらしめるのは、その異貌の戦闘力を支える八本の腕だ。

 

通常、肩から伸びる二本の腕に加えて、同じ出所からさらに二本の腕が伸びる。視線が下がれば、肩の下の脇腹あたりを起点にさらに二本の腕が伸び、残った一組は背中側から大きく正面へ掌を向ける形だ。

『八つ腕』のクルガンの名にふさわしい、相対するだけで敵の戦意を奪いかねないほど、ただひたすら戦いに特化した肉体。

 

「――――」

 

息を呑むガーフィールの前で、無言のままクルガンが得物を手にする。

太い両足の外側、奇しくもガーフィールの盾と同じ形で装着されているのは、分厚く長大で歪な刃――闘神が振るう『鬼包丁』だ。

 

闘神はさらに、背中側からも鬼包丁を二本取り出す。都合、四本の鬼包丁。残った四つの腕は無手だが、その姿にガーフィールはなおも圧倒されたままだ。

舐められている、などと噛みつく余裕があるはずもない。

 

「――――」

 

身震いが、あった。

本物の英雄を前に、ガーフィールの体は静かに内側から震えていた。

 

英雄譚に、伝説上の人物に、名を残した偉人に、憧れたガーフィールだ。

『八つ腕』のクルガンの名前を、知らないはずもない。

その闘神が残した伝説の数々も、ガーフィールの確かな憧れの中にあった。

 

それが今、敵の傀儡として自分の前に立っている。

悪い夢だ。悪夢は、昨日という一日から延々とずっと続いているに違いない。

 

そうでなければどうして、こんなにも悪意ばかりが降りかかってくるのか。

 

「……はぁ、はぁ」

 

息を荒げながら、ガーフィールは自分の両足に手を伸ばす。

クルガンの鬼包丁と同じく、そこに銀色の盾が装着してある。その縁に指で触れて、何度も何度も表面に爪を滑らせながら、どうにか留め具を外した。

そのまま両腕に、拳を覆うように盾を装備する。装着感を確かめるために拳を打ち合わせ、甲高い音が夜空に響いた。

 

装備の準備はできた。傷も、戦えない状態は脱している。

ただ、心が今もなお、どこかで迷いを抱えているだけで。

 

「馬鹿、言ってる場合ッじゃァねェ――!」

 

奥歯を噛みしめて、ガーフィールは自分の頬を自分で殴りつける。

視界がくらむほどの痛みと衝撃に頭を振って、再び前を見た。そのまま拳を構えて、正面に立っている闘神に牙を剥く。

 

「ここで立ち止まって、何のための俺様だってんだよォ!大将も!他の連中だって戦ってんだ!戦うしか能がねェってのに、ぐずぐずしてられっかァ!」

 

「――――」

 

気合いを込めて吠え猛るガーフィールに、クルガンはなおも無言。

そのまま、ただ静かにこちらを見据える闘神に向かって、ガーフィールは吠え面を掻かせてやると、街路を踏み砕いて一気に迫る。

 

靴裏から伝わってくる、『地霊の加護』による大地の力を汲み上げ、それを全身に送り込んで一撃へと変える。

それこそ、石造りの建物を一撃で崩落させるような威力を込めた拳だ。

 

銀製の盾に補強された拳の打撃は、その硬質な一撃をもって英雄すら打ち砕く。

腰溜めの状態から放たれる両腕が一直線に、クルガンの胸骨に叩き込まれ――。

 

「――っだろ」

 

「――――」

 

ガーフィールの渾身の一撃が、クルガンの突き出した鬼包丁に防がれる。

鬼包丁一本、その刃の腹に直撃した状態で、打撃の威力が全て受け止められていた。

 

受け流しも、跳ね除けもしていない。

単純に真っ向からの力比べで、渾身の一撃が防がれたのだ。

 

『八つ腕』の英雄の、たった一本の腕に。

 

「――ぶぁッ」

 

硬直するガーフィールの顔面に、肩口からの拳が叩きつけられる。そのままのけ反る体が、脇腹から伸びる腕の一本に掴まれ、衝撃を逃せないまま乱打を浴びる。

一瞬で頬骨が砕け、眼底が潰れる。右目の視界が真っ赤に染まり、鋭い犬歯が半ばで砕けて吹き飛んだ。胴体を掴まれたまま地面に叩きつけられ、太い足の蹴りを食らって街路を転がり、転がり、転がり、弾み、水路に落ちる。

 

「――ぁ」

 

一瞬のうちに全てが遠ざかり、上空に浮かぶ月に目を凝らす。

月にすら、嘲笑われているような気がした直後、ガーフィールの体は水路に沈んだ。

 

――水面がゆっくりと、赤く染まっていく。