『知識欲の権化』


――ロズワールが養生していた建物を離れ、おおよそ十五分。

 

「着いたぜ。ここが墓所って呼ばれてる、まァちんけな墓だな」

 

言って、ガーフィールが顎をしゃくって示したのは『聖域』の外れにある古びた遺跡であった。石材を積んで組み立てられたそれの建築様式は、魔法的な印象とは程遠い原始的なものだ。

作られてから何年が経過しているのかわからないが、所々にヒビの入った壁面といい、生い茂る蔦の尋常でない密度といい、百年以上の年代物に間違いない。

 

遺跡の入口こそ森に面しているが、その建物の大半は森の中へ呑み込まれており、パッと見ではどれだけの大きさがあるのかわからない。これが『強欲の魔女』ひとりのための墓所であるというのなら、元の世界でのピラミッド的な扱いと考えていいのかもしれない。

 

「権力者がでかい墓に眠りたがるってのはどの時代、どの世界でも一緒なのかね……」

 

顎に触れながらそんな感想をこぼし、スバルはスケールの大きさに首を傾げる。

わりと刹那主義者のスバルにとって、自分の死後の評価などに関してはあまり興味深い話ではない。もっとも、歴史に名が残せるほど大層な人間でないというある種の達観がそれを助長させているわけだが。

ともあれ、

 

「墓所にきたはいいけど、ここでなにをしたらいいの?」

 

隣に立つエミリアが遺跡を見上げ、途方に暮れた顔でガーフィールに問いを投げる。彼女と同じ疑問を抱いていたスバルもまた、視線は同じく先導してきた金髪の青年の背中へと向けていた。それを受け、ガーフィールは犬歯を噛み鳴らして振り返り、

 

「細けェことは戻ったあとでロズワールの野郎に聞きゃァいいさ。とりあえずのとこ、エミリア様にやってほしいのは中に入ることだけだかんよ」

 

「この中に入ればいいの?入ってなにかするとかじゃなくて?」

 

「今は日が出てやがっかんな。墓所の奥に入っても『試練』が始まらねェ。準備もなにもできっちゃいねェし、まずは資格があるかどうか確かめにゃなるめェよ」

 

「ちょちょ、ちょっと待て!また話が飛躍してるって。試練とか準備とか資格とか、そのあたりの説明が全然ねぇぞ!」

 

強引にエミリアを中へ押し込もうとしかねないガーフィールの間に立ち、スバルは彼に説明責任を呼びかける。が、ガーフィールはすでにこの小一時間で何度も見せた面倒臭そうな顔つきを作って鼻面に皺を寄せ、

 

「っだよ、いいじゃねっかよ。中に入ってっからロズワールのとこ戻れば全部わかんだからよ。俺様に説明させると筋道立てて話すの苦手すぎっからこんがらがってわけわかんねェことになんぞ」

 

「お前は内容読ませない契約書にサインしろって迫ってんだぞ、おっかなくてできるわけねぇだろ、そんなこと。整理して話すのが苦手だってんなら、こっちの質問に一個ずつ丁寧に答えろ」

 

「あァ……なら、まァいいか。日没までァ付き合えねェから、手短にやろうぜ」

 

軽く両手を広げて提案を呑み込んだガーフィール。ようやくまともに議論ができそうだと安堵し、スバルはなにから聞くべきかと思案――そして、

 

「ここが『墓所』……つまり、強欲の魔女の墓ってことでいいんだよな?」

 

「そうだって聞いてんな。実際のとこ、埋めてある骨が誰のかなんて知りゃしねェよ。ここは強欲の魔女の墓場で、少なくとも村の連中も俺様もそう教わってる」

 

イマイチ、違和感の生じる答えではあったがスバルはその違和をひとまず呑み込む。それから、先ほどの発言の中でも気になった単語をいくつかピックアップ。

重要そうなのは『試練』と『資格』の二つだ。

 

「墓所の中で始まるっていう、『試練』ってのはなんだ?ぶっちゃけ、ここ数週間の経験で俺はその単語に対していい印象ってのがまるでないんだけど」

 

「安心しろや、試されんのなんざ俺様も嫌いだかんよ。で、まァ『試練』なんだが……内容は知らねェ」

 

「おい」

 

「怒んなっての。ふざけてるわけじゃねェよ。ただ、墓所の中でそれが起きるってことだけは知ってんだ。その『試練』が突破できなきゃ、この行き詰まりの実験場から解放されねェってこともな」

 

「解放って……誰が?」

 

「それが『資格』ってやつになんだよ。資格のある奴ァ、実験場から出られねェ。『試練』が終わらない限り、魔女の所有欲ってやつが手放してくんねェんだと」

 

煮え切らない答えだが、ガーフィールもわざと曲解させるような発言をしているわけではないらしい。彼なりに噛み砕いて、理解している内容を口にしている。それでも要領を得た答えにならないのは、彼の中ですらそれらが曖昧だからなのだろう。

ただ、今の断片的な答えを繋ぎ合わせて、スバルは己の中に現状認識という形で答えを得ようとする。そして、散らばったピースを組み合わせて出した答えは、

 

「墓所に入れるのは資格のある人だけで、その資格のある人が試練を乗り越えないと『聖域』からは出られない……ってことか?」

 

「あァ……?そんな感じ……か?」

 

「わりと噛み砕いたのにこれでもダメなのかよ……」

 

首をひねって、おそらくわかっていないだろう頼りない返答のガーフィール。その彼への態度を一端保留し、スバルは傍らのエミリアを見た。彼女はスバルの視線を受け、今の答えに対する彼女なりの結論を舌に乗せ、

 

「さっき私、この『聖域』に入ったとき、意識が途切れたけど……あれが、そうだったっていうこと?」

 

「あそこが境界線で、出られる範囲を跨いだから気絶させられた?いやでも、俺もオットーもあのときピンピンして……」

 

「そら資格がねェからだろうよ」

 

突然のエミリアの意識不明の事態、その答えを得たところでガーフィールが横槍。彼はスバルを指差し、それからエミリアを反対の手で指差しながら、

 

「ハーフエルフのエミリア様は資格がある。けど、純血で人間一直線なスバルは資格がねェ。だから出入り自由。でも、試練は受けられねェってこった」

 

「待て待てウェイト。つまりなんだ、今の台詞を考慮するに、こういうことか?」

 

息を止めて、スバルは思考を整理。そして、ガーフィールと初対面のとき、そして彼が『聖域』へスバルたちを案内したときの発言を思い出して、気付いた。

 

「試練を受けられるのはハーフエルフ……いや、人間と亜人のハーフ。んでもってこの『聖域』で暮らしてる人たちってのは、みんなそういう立場なんだと」

 

「――あァ、そこ話してなかったっけか」

 

スバルの答えを聞いて、ガーフィールが満足げに頷いて、瞬き。

次の瞬間、開かれた彼の瞳が金色に染まり、瞳孔が細く肉食獣のそれに近づく。犬歯の先端が心なしか伸び、掲げた両手の爪がまるで刃のように研ぎ澄まされた。

小柄な彼の体躯が一回り大きくなったような錯覚――否、それは錯覚ではない。短い金の髪がいつの間にか背を覆うほどに伸び、露出していた手足を髪の色と同色の金色の体毛が覆い尽くしていた。

 

「俺様ァだいぶ血ィが残ってっからよ。『先祖返り』もお手の物ってェわけだ」

 

「……すげぇな。モフっていいか?」

 

驚きをコメントに乗せないよう苦慮しつつ、スバルは指先をわきわきさせて動揺を押し隠す。が、その要求は再び元の姿に戻るガーフィールによってすげなく打ち切り。その彼の変化を目の当たりにし、息を呑んだエミリアが一歩前に出ると、

 

「それじゃやっぱり、この村は亜人種たちが集まって……」

 

「正しく言うなら、亜人と人間の混じりモノが寄せ集まってるってこったな。好き好んで、色んな種族から似た立場の連中ばっか集めやがる。ロズワールの野郎が『亜人趣味』とか言われってんのもそれだろうよ」

 

「だからロズワールはあんなこと。私にとってここが……」

 

それきり、唇に手を当ててエミリアは考え込む姿勢に入ってしまう。

一方で、スバルにとっても今の情報は軽くない。つまりこの場所にいる人々は、細部は違えどエミリアと出自のそれを共通する人々ということになる。疎まれ、排斥されてきた過去を抱く彼女を、その苦しみを理解できるということだ。

それは彼女にとって傷の舐め合いでしかないかもしれない。しかし、傷を舐め合える存在を得られるかもしれない事実を前に、彼女はどう思うだろうか。

 

わかったような気になって彼女の傷に触れようとしても、同じ痛みを味わったことのないスバルには傷を広げずに癒す方法がわからない。それがどこかひどく、歯がゆくて悔しくてならないのだった。

 

「思わぬ流れだったけど、村の事情と資格についてはなんとなく呑み込めた。あとはそうなると……問題は試練だ。内容はわからないって言ったけど、少なくともそれが起きるのは日没後ってことなんだよな」

 

「って話だ。詳しくは俺様も知らねェよ。ただ、挑む資格があるかどうかだけとりあえず確認してこいってのが今ここにきた理由だろ。夜にきて試練が始まっちまったら、ぶっつけ本番になっちまうからよ」

 

遺跡を親指で、顎でエミリアを示してガーフィールは今の目的を吐露。その内容に頷きつつ、スバルはひっそりと口を開けてこちらを待つ墓所を見やる。

鬱蒼と蔦が繁り、空気の悪そうな薄闇が手招きしてこちらを待っていた。『試練』という単語の厳粛さも手伝い、ただの古ぼけた遺跡探検で話が済むと思えない。

なにより、危険があるかもしれない場所へエミリアを送り込む――その事実が、ナツキ・スバルにとっては耐え難い。

 

「悪いな、ラム。お前の忠告、いきなり聞けそうにねぇわ」

 

「なんか言ったかよ?」

 

「いきなりエミリアたんを突っ込ませるのは不安で胸が張り裂けそうだ。だからまず、確認と生贄の意味を込めてガーフィールが突入するのがいいんじゃないか?」

 

指を立ててのスバルの提案に、ガーフィールは一瞬だけぽかんとしたあと破顔する。彼はまたしても膝を叩いて渇いた音を乱発させながら、

 

「そっこは普通、自分が行くっつってかっこつけるとこじゃねェのかよ」

 

「言いたいしかっこつけたいのは山々なんだけど、仮になにかが起きた場合の生存率を考えると俺よかお前の方が適役だと思って。お前なら、なんか地面とか踏み砕いて余裕で生還できそうじゃん。最強なんだし」

 

「おォ?ま、まァ確かに俺様ァ最強だかんな。試練だかなんだか知んねェが、どんな危険が降り注いでも『ペニーペニーは譲らない』ってな!」

 

イマイチなにを守り切るつもりなのか伝わらないが、鼻の下を擦って上機嫌のガーフィールに水を差すのもなんなのでスバルはなにも言わない。しかし、彼はすぐにその表情から「けどよ」と快気を霧散させ、

 

「悪ィが俺様は中にゃ入れねェ。そういう契約なんでな」

 

「……契約?」

 

「あァ、忌々しいこった。おまけに、俺様がしたわけじゃねェってのによ」

 

土を蹴りつけて、ガーフィールは舌打ち混じりに言い放つ。冗談や軽口の類ではなく、事実として彼は中へ入れないらしい。禁を破るとどうなるのか――それは、約定を重んじるエミリアの前で聞き出せるような質問ではなかった。

とにかく、これで事情は八方ふさがりだ。エミリアを単独で行かせるのは論外であり、かといって斥候ガーフィール作戦は出鼻を挫かれた。そうなると、もはや残る選択肢は一個しか見つからない。

 

「ちょっとオットー探してくるから待っててくれない?」

 

「そんなことしてる間に日が暮れちゃうじゃない。――大丈夫。私が行くから」

 

さらに別の生贄を仕立てようとするスバルだったが、それはやんわりとエミリアによって却下されてしまう。覚悟を固めてしまったらしい彼女はその視線を墓所の入口へ向けており、中で起こるなにかに対しての警戒を紫紺の瞳に宿していた。

彼女もまた、『試練』という響きや『魔女の墓所』というステージの物騒さから、穏やかならぬなにかが起こるものと予想しているのだろう。

同じだけの不安と懸念を抱いていながら、その彼女の手を引く力のない自分がいかにも情けなかった。

 

「ちょっとだけ中を……いや、入口周辺だけでも俺が先に入って確認するってのは」

 

「よしといた方がいいと思うぜ?スバルは資格持ちじゃねェんだ。魔女の墓所に招かれ人以外が入ろうとすっと、ロズワールみてェな様になっちまう」

 

「ロズワールみたいにって……あいつのケガってまさか、ここに入ったからなのか?」

 

全身包帯塗れになっていたロズワールの姿を思い出し、スバルは驚愕を押し殺してガーフィールを振り仰ぐ。彼は腕を組んだ姿勢で頷き、それを肯定して、

 

「資格のねェ奴が夜に踏み込むと、そういうことにもならァな。あいつだったっからあんなもんで済んだんだろうが、普通の資格なしが入ったら弾けてもおかしくねェ」

 

「誰かにやられたわけじゃないってのは、そういう意味だったのか……」

 

遠回しなロズワールの言いぶりの意味がようやくわかった。誰か特定の人物に傷付けられたわけではないと彼は言っていたが、それはつまりそういうことなのだ。

だが、それはそれで別の疑問が浮上する。なぜ、ロズワールは墓所に入ったのか。

――資格のない人間。自分がそうだと、彼ならわかっていたはずなのに。

 

「……やっぱり、俺が先に中を確認する」

 

ロズワールへの疑惑を後回しにし、俯いていたスバルはそう結論を出した。

その答えを聞いて、エミリアとガーフィールの二人は一瞬唖然とした顔をして、

 

「おいおい、話聞いてったのかよ。資格なしが入ったら危ねェんだっつの。ロズワールがああなったのは夜だったからだが、昼間だって安心なんかできねェぞ」

 

「そうよ。危ないからやめよ、スバル?私ならきっと大丈夫。感謝なんてしたことなかったけど、ハーフエルフだってことが役立つのかもしれないんだし……」

 

「心配してくれんのは嬉しいけどさ」

 

引き止めてくれる二人。特にスバルの袖を引くエミリアに柔らかな視線を向け、スバルは触れてくる彼女の指をそっと外し、

 

「落ち着いて役割分担すれば当然の成り行きだぜ?中に入って危険かもしれないのは誰であってもおんなじ。前情報でちょっぴし、俺の方が危ないって可能性があるぐらいで。だからあとは、それぞれのできることの話になんだよ」

 

「できること?」

 

「万が一、中で危ないことがあってケガした場合、俺じゃエミリアたんを治療できない。ガーフィールが意外性抜群の男で、スゴ腕の治癒魔法使いってんなら話は別だが」

 

「傷なんざたいてい、唾つけときゃ治るもんだろが」

 

「などと容疑者は供述しており……ってなもんだ。俺でもエミリアたんでも、傷付く可能性があるなら治癒魔法が使えるエミリアたんを保険に残しておきたい」

 

堂々と言ってのけるガーフィールを横目に、スバルはエミリアを説得する。

スバルの言い分にエミリアはいくらか心を揺らしながら、しかし肝心な部分で譲れないと判断したのか「でも」と首を横に振り、

 

「大ケガを……それも、命に関わるような傷なら私じゃ治せない。パックも反応してくれないし、限界があるの。ロズワールだって今でこそ落ち着いてるけど……」

 

「まぁ、あの傷はけっこう危なかった傷だよな。……それでもまぁ、俺の生き汚さを信じてみてよ。わりと俺、この世界でもしぶとさじゃ上位に入ると思うぜ?」

 

食い下がるエミリアに笑いかけ、ここばかりは冗談でもない言葉で応じる。

事実として、スバルほど諦めの悪い人間はそうそういないと自分でも思う。無限に挑めるチャンスが与えられているとしたら、きっと無限に挑むだろう。

心を何度折られても、砕かれても、求める答えに辿り着くために足掻き続ける。

それが、ナツキ・スバルにとっての――。

 

「なんなら約束する?そしたら安心できるっしょ。俺、絶対にエミリアたんのところに戻ってくるから。傍を離れたりとかしないから」

 

「――するっ」

 

小指を差し出して冗談まじりに言うと、思った以上に食いつきのいい返事があった。驚くスバルに同じように小指を差し出し、エミリアは小さく首を傾げ、

 

「これ、指をどうするの?」

 

「え?あー、これはこうしてお互いの小指を絡めて……うおおう、エミリアたんの指って超細くて白くて可愛い……ッ」

 

互いの指を絡めながら、スバルは意図せぬ接触に感動。それから先を促す紫紺の瞳に従い、小さく咳払いをすると、

 

「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーます」

「指切った!」

 

同時に小指が別れ別れになり、スバルとエミリアの間に約束が交わされる。

今度は、エミリアにとってどれほど約束が重いものなのか理解した上での約束だ。以前のように軽々しい気持ちで、それを扱うことなどできるはずもない。

 

「じゃあ、軽く俺が中を見てくる。基本、声出しながら見回りするつもりだから、俺が寂しくないように外から声をかけ続けてくれ」

 

「かっけェんだか悪ィんだかわっかんねェ奴だな、てめェ」

 

「慎重派なんだよ。そのわりに、さらっとラムの忠告は破るわけだが……」

 

後半は口の中だけの呟きになり、内心でスバルは桃髪の少女に伏して詫びる。

魔女の妄念――彼女の口にした不穏な単語ではあるが、それをエミリアには聞かせたくない。きっと、より強固な態度で自分が入ることを主張するだろうから。

 

「スバル。危ないと思ったら、ホントにすぐ引き返してね」

 

胸の前で手を組み、エミリアはスバルを憂いの眼差しで見送る。

そんな彼女に小指を立てたオリジナルサムズアップを見せて、歯を光らせてからスバルは前へ――墓所へ臨む。

 

足下を伝う蔦をまたぎ、すでに入口直後から数メートル先の見えない闇に目を凝らした。墓所には静けさが満ち満ちており、今のところは怨嗟の声であるとか凶悪な生物が潜んでいる気配などはない。

もっとも、暗闇の向こうになにが待つのか本当の意味でわからないが。

 

「ええい、ままよ。虎穴に入らずんば虎児を得ず、だ。虎の子どもなんかいらねぇけど!」

 

モフリストとして、幼い虎を思うさまに愛でたい欲求はあるものの、危険を冒してまでやりたいことであるとは言わない。

ともあれ、ガーフィールに影響されたように慣用句で自身を奮い立たせ、スバルは意を決したように墓所の中へ足を踏み入れた。

 

そして、墓所の冷えた地面を踏みしめた瞬間――、

 

「――へ?」

 

足元がすかされるような謎の感覚。

驚き、眼下を見下ろしてスバルは声を失う。――床が、消失している。

 

「ちょ、待……いくらなんでも……」

 

――フラグ回収が早すぎる。

 

踏もうとした足場が存在せず、前のめりになった体を支える術がない。とっさに伸ばした手はしかし壁にも床にも触れられず、そのままスバルの体は眼下の闇の中へと吸い込まれていき――。

 

「あああああ――ッ!?」

 

深く深く、どこまでも続くような奈落の底へと転落していった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――そうして奈落の底で目覚めてから十分ほど。

 

どこに続くともしれない闇の中を歩き回り、その果てに辿り着いた場所でスバルはひとりの少女と出会った。

そして今、彼女に問われるままにここまでの経緯を語り、

 

「そんなこんなで落ちた先で、心細さと小腹空いた感に震えながら歩いてて見つけたのがお前ってわけだ。……これで満足かよ」

 

「うん、満足だとも。どうやら、君はボクの期待以上の人物のようだね」

 

口元に手の甲を当てて、眼前に立つ少女がくくくと笑うのをスバルは警戒の眼差しで見ている。

じりじりと力のこもる足はいつでも駆け出せるように、そして開閉を繰り返す掌は即座に相手を取り押さえられるように準備されている。

もっとも、そんなスバルの拙い襲撃計画は、

 

「そんなに警戒することはないじゃないか。それに君自身、ボクに挑んでも勝算薄しと判断しているだろう?勇敢と蛮勇は似て非なるものだよ」

 

「悪いが、負けるから屈服ってのは性に合わねぇんでな。それに警戒するなってお前は言ったけどよ……強欲の魔女だなんて名乗った相手に、そんな真似できるか?」

 

「なるほど。それは確かに君の言う通りだ。これはボクの手落ちだったね」

 

苛立ちと反骨心に満ちたスバルの返答を受け、なおも少女――エキドナと名乗った人物はその態度を崩さない。それは余裕であるとか、弱いスバルの足掻く態度を面白がっているとか、そういう次元に置き換えることもできない超然とした態度。

まるで漫画を読んで、描かれるキャラクターを俯瞰しているような別次元からの眼差しだ。彼女にとってスバルは、同じステージにすら立っていない。

 

だからこそスバルは彼女に対し、最大の警戒心を持って接する。

白鯨を上回る圧迫感を放つ人物だ。それが『強欲の魔女』を名乗った。真偽のほどは些細な問題だ。問題は、それを笑い飛ばすことができないほどの人物であるとスバルにすら感じさせる彼女の圧倒的さにある。

しかし、彼女はそうして額に冷や汗を浮かべるスバルに流し目を送ると、

 

「しかし、そんなに邪険にされると本当に傷付くな。見てくれの通り、ボクはか弱い女の子なんだよ?男の子にそんな目で見られて、なにも思わないわけじゃない」

 

「お前の言う女の子ってのは『死亡フラグ』ってルビ振ってんの?言っとくが、さっきから俺の中の警戒センサーが尋常じゃねぇんだよ」

 

この世界にきて以来、幾度も味わった『死』の体験から芽生えたスバルの技能だ。その技能があるわりに死亡回数は重なるばかりだが、もう二度と味わうまいと常に思っている精神がスバルにその警戒心を意識させた。

それによれば、目の前の少女の危険度はペテルギウスにすら匹敵する。

だが、

 

「これではまともに話もできないな。それも仕方ない。――それじゃ、こういった趣向はどうだろうか」

 

そう言って、エキドナは軽く右手を己の顔の前へ上げる。その動きにスバルが息を呑んだ直後、彼女は上げた手の先で指を弾く。

軽い音が鳴り、その直後――スバルの視界の中で世界が一変する。

 

先ほどまで、墓所の底だと思わせていた石造りの冷たい空間が消失し、代わりに展開されたのは緑が風に揺れる草原の中――その、小高い丘の上だ。

 

「な――!?」

 

「そんなところで遊んでいないでこちらへきたらどうだい?」

 

愕然と周囲を見回すスバルを笑い、エキドナは丘の上――そこに置かれた白いテーブルを囲む椅子のひとつに腰掛け、正面の席を手で示してスバルに勧めてくる。

わけがわからず、スバルは尻込みしながら彼女の正面へ。テーブルの上には湯気の立つティーカップが並べてあり、無言でそれを見るスバルに彼女は、

 

「別に危ないものは入っていないから安心しなよ。なんならボクが先に飲んでみせてもいい。魔女に毒が通じるものなのか、君が疑うならなんの証明にもならないけどね」

 

「……参ったぜ。この中に入ってから完全に俺の常識は覆されっ放しだ。ここ、どうなってんだ?お前も転移魔法とか使えるのか?」

 

以前、スバルが経験した転移魔法はベアトリスの手によるものだった。

彼女の手で禁書庫から追い出されたスバルはそのまま、アーラム村の家畜小屋にまでその身を飛ばされたのだ。ユリウスの話では失伝したとされるレベルの魔法だったらしいが、目の前の人物が魔女であるならばさほど驚くことではない。

 

「転移……ああ、陰魔法の。いや、だとしたらそれは君の勘違いだよ。あの魔法には色々と欠点が多い。あまり好んでボクは使わないものだ。今のはちょっとした余興だよ。ある程度、自由が利くのさ。ここはボクの城なのでね」

 

「お前の、城……?」

 

エキドナの言葉に眉を寄せ、スバルは改めてあたりを見渡す。

風のそよぐ草原はどこまでも続き、四方のどこに目を凝らしても地平線の彼方までなにも見つけることができない。現実的に、ここまで空白的な土地が存在するかは別として、確かにいっそ幻想的な光景ではあった。

それを意識してスバルは唾を呑み、それから肩をすくめて笑みを浮かべると、

 

「残念ながらどこ見渡しても城どころか小屋もねぇよ。なに?お前の城って今は建て直しとかしてるの?それとも借金の形に椅子とテーブル以外持ってかれたの?」

 

「ふふふっ。君は本当に面白いな。ボクを前にして、それだけの減らず口を叩いたものは同じ魔女を除けば数えるほどしかいない。まさか死後になって、その数が増えることになるとは思わなかった」

 

軽口に笑うエキドナは指折り記憶を数え、そこにスバルをくわえてご満悦だ。

代わりにスバルは彼女の言葉の中に聞き逃せない単語を見つけて顔をしかめる。今、確かに彼女はこう言った。『死後になって』と。

 

「お前が強欲の魔女ってのがホントなら、俺の記憶だと死んでるはずだぜ。そもそもお前の墓参りするために俺はここに入ってきたんだし」

 

「それは丁寧にありがとう。献花してくれる花は入口に手向けてほしい。お酒は嗜まない身なので、できたらお供え物は甘いものが嬉しいんだが」

 

「お供え物の文化があんのか、この世界……。悪いが、土産はなんにもねぇし花も買い忘れちまった。俺の笑顔で満足してくれい」

 

花が咲き乱れるような笑顔――毒花の類だが。

それを披露してみせるスバルにエキドナは楽しげに喉を鳴らす。それから彼女はテーブルの上のカップを口元に運んで喉を潤しながら、

 

「これほど楽しくお茶を飲むことは生前にもなかった。やはり、死んでもみるものだね。新しい発見はなおも尽きない」

 

「もはやお前と俺の間で会話が成立してんのかも怪しいよ。……クソ、飲んでやる。飲んでやるよ!」

 

無警戒の相手にささくれ立った心で接しているのが馬鹿らしくなり、スバルは奪うようにテーブルの上のカップをひったくって飲み下す。

水でも、お茶でも紅茶でもない、不可思議な味わい。不快ではない。

 

「魔女の差し出したものを飲み干すなんて、ずいぶんと勇敢なんだな」

 

「はっ。ここまできてビビってられるかよ。そもそも、お前が俺を殺そうとか思ったら次のコマで消し炭だろうが。茶の一杯に警戒なんざしてられねぇよ」

 

手を振り、飲み終わったカップをテーブルに置いて「ごちそうさま」と言葉を継ぎ、

 

「うまくもまずくもなかったけど、なんのお茶だったんだ、これ?」

 

「ボクの城で生成したものだからね。言ってしまえば、ボクの体液だ」

 

「なんてもん飲ませてんだ、てめぇ!?」

 

椅子を蹴るようにして立ち上がり、スバルは飲み込んだばかりの液体を吐き出そうと苦心する。が、彼女はそんなスバルの大仰な反応にくくくと笑い、

 

「心外だな。ボクは自分の見てくれはそんなに悪くないと思っているんだが」

 

「いくら美少女の体液でも覚悟しないで飲むのはやだよ!っていうか覚悟してても体液って単語のもの飲みたくねぇよ!俺、性癖はノーマルなんで!」

 

唾液や汗といった分泌物に興奮するような性質はない、と思う。

それがエミリアやレムのものなら、と思わないでもない自分の心はそっと隠しつつ、

 

「クソ、吐けねぇ。――おい、体に悪かったりとかそんなじゃないよな?」

 

「安心しなよ。限りなく体に吸収されやすい。なにせ体液だからね」

 

「うまいこと別に言えてねぇよ、その顔やめろ!」

 

ちょっと自慢げなエキドナの態度にスバルは辟易とする。エキドナは言い募るスバルにも涼しげな顔でカップをさらに傾け、「それにしても」と言葉を継いで、

 

「やはり君は不思議な人物だ。こうして、普通にボクの前に立てているのがその証拠だよ」

 

「なにがだよ。自分が美少女すぎて普通だったら相手の目が潰れてるってか?言っとくがな、俺は俺的に最高の美少女で常に目の保養をしてるんだ。だからお前のことを見ても別にそんな大して可愛いなとか思う回数は少ない」

 

「いや、普通の人ならボクの前に立つと吐くんだよ。面白いだろう?」

 

「なにも面白くねぇよ!?」

 

さっきから不安になるワードしか飛び出してこないやり取りをしつつ、スバルは改めて椅子に座る少女のことを眺める。

 

雪のように白い髪と全身。黒い服は喪服のようにも見えて、幼さを残した彼女の美貌に妙な艶っぽさを与えている。美人の喪服には魔力があるなと思いつつ、しかし決して消えることのない圧迫感だけは彼女の存在を脅威と思わせ続ける。

 

「さて――」

 

と、そうして警戒を解けずにいるスバルを見上げ、彼女は飲み干したカップをテーブルの上に置き、その縁を指でなぞりながら、

 

「こうして話しているのもボクにとっては新鮮な喜びなんだが……君の方はそういうわけにもいかないだろう?言いたいこと、聞きたいことがあるんじゃないかい?」

 

「……そう、だよ。そうだよ!雰囲気に呑まれて完全に忘れてたけど、その通りだ。お前は……いや、それ以前にここはどこだ?本当に墓所の中なのか?」

 

スバルにとって、ここは墓所へ踏み込んだ直後の転落から繋がった場所だ。

墓所の底と言われて信じられたのも、先ほどの薄暗い空間までのこと。こうして草原に招かれた今となっては、それらのことすらも疑わしい。

そのスバルの問いかけに、エキドナは己の白い髪を軽く手で撫でつけ、

 

「その質問は半分正しくて半分間違いだ。君の体は墓所の中に間違いなくあるが、その精神はボクの城の中にある。言ってしまえば、ここは夢の中だよ」

 

「夢……?でも、俺は夢に見るほどお前の顔に覚えなんてないぞ」

 

「夢の中にいる、といっても別にその場所が君の夢の中である必要はないだろう。ここはボクの城――つまり、ボクの夢の中だ。ここに似た空間を、君は知っているんじゃないのかい?」

 

エキドナの追及にスバルは息を止めた。それから小さく首を横に振り、

 

「な、なにを根拠にそんなこと……」

 

「確証はないよ。ただ、なんとなくそう思っただけさ。君の態度が知っていることから目をそらす、そんな人がする素振りに似ていると思ってね」

 

「……知らないってのは、本当だ。でも、お前の言うことは間違いじゃない」

 

厳しい言い方ではないが、彼女の言葉にスバルは弾劾されているような気分になる。そして事実、自分の胸中でせめぎ合う感情の波をスバルは制御できていない。

エキドナの言葉は間違いではないが、スバルの返答も嘘ではないのだ。

ここが夢の中であると言われたとき、スバルは驚くと同時に納得を得ていた。それの感覚がまるで既知のものであると、心で理解していたかのように。

どうしてそう思えるのか、その理由は記憶のどこを探しても見当たらないのだが。

 

「ここがお前の夢の中だってのはとりあえず受け入れた。じゃあ、どうすれば出られる?」

 

「夢から覚める方法は起きようと思うか、外から起こされることだよ。もっとも、外から働きかけようとしてもボクの体はすでにないし、他人の夢の中から自力で目覚めることは難しい。ボクが起こそうと思わなければ、起きられないんじゃないかな」

 

「――!じゃあ、まさかお前……」

 

淡々としたエキドナの言葉にスバルは戦慄する。

彼女の城、という意味がより如実に形を帯びた。そこに囚われたスバルの魂は今や彼女の掌の上だ。ラムが語った魔女の妄執――その言葉が現実味を増す。

 

「俺を、外に逃がさないつもりか……?」

 

最大の警戒を払いながらも、魔女に対して致命的な亀裂が入るかもしれない言葉を投げかける。仮に彼女がその本性を露わにしたとしたら、決して敵わないと理解した上で。

そして、そんなスバルの問いかけに彼女は小さく吐息をこぼし、

 

「いや、別に。帰りたいなら帰してあげるけど?だってボクが呼んだわけじゃなく、君が勝手にきただけなんだしさ」

 

「お前は俺の緊張感どうしてくれんの?シリアスさんが息してないよ?」

 

「シリアスさんは君と違ってボクの前に立てないからね。木陰で吐いてるんじゃない?」

 

さらりと毒を吐くエキドナにスバルは脱力。けっきょく、彼女はなにがしたくてスバルと接しているのだろうか。

短い時間ではあるが、話し合いをしたのに彼女のキャラクターが掴めない。魔女とまで呼ばれる人物を、この短時間で理解できるはずがないといえばそれまでだが。

 

「とにかく、帰れるなら帰してくれ。上で俺のことを心配してる子がいるはずなんだよ。お前の体液飲んでる暇があったら、その子を安心させてあげたい」

 

「それはいいけど、君はいいのかい?」

 

「なにがだよ」

 

「ボクの前から帰って、だよ。――強欲の魔女に話を聞ける機会なんて、君以外の誰が求めてもそうそう得られるものじゃないのに」

 

言われて、スバルは彼女の言葉の意味を初めて意識した。

そうだ。そうなのだ。彼女の脅威にばかり目がいっていて、スバルは重大な見落としをしていた。彼女が強欲の魔女で、本当にそう呼ばれて生きてきた存在ならば、

 

「お前は……俺が知りたいことの、答えを知ってるのか?」

 

「このボクに、知識の在り処を問う――か」

 

絞り出すようなスバルの言葉に、エキドナはまたしてもくくくと笑う。笑うが、その笑みはこれまででもっとも楽しげで、これまで以上の圧迫感をスバルに与える。

大気が歪み、蒼穹の広がっていた草原の雰囲気がたちまち崩壊し始めた。空が割れ、草原が燃え上がり、地平線の向こうの世界が崩れ落ちていく。

 

存在しない揺れを感じた気がして、スバルは慌てて存在の確かなテーブルへ手を伸ばす。触れた瞬間、それは砂に変わるように手の中で霧散。そして、

 

「やはり、君は面白い存在だよ」

 

顔を上げるエキドナの周囲の景色が変質し、おどろおどろしい紋様が世界を包み込む。闇が広がり、手足を伸ばすそれはスバルの全身にもまとわりついてきた。

そのおぞましさに必死で逃れようとするが、世界の崩落はすでに二人のすぐ近くまで広がっている。逃れる足場が存在しない。そしてそのまま世界は失われていき、

 

「問答を交わすのなら、これだけの空間があれば十分。知りたいことを知る。そのための欲求を――強欲を、ボクは肯定しよう」

 

二人の間に残ったのは、それまで互いが腰掛けていた椅子を置くスペースのみ。手を伸ばせば触れられそうな距離で、椅子に座って語り合うためだけの世界。

それ以外の世界は全て失われている。足場の失われた闇の底には限りが見えない。おそらくは冗談ではなく、落ちたら戻ってこれないはずだ。

 

そのことに背筋を凍らせるスバルの前で、椅子に座るエキドナは上機嫌だ。

彼女は手を叩き、輝く瞳でスバルを見つめながら、

 

「さあ、なにが聞きたい?知り得ることであるならば、ボクはなんでも答えよう。飢餓から世界を救うために、神と異なる獣を生み出した『暴食の魔女』ダフネのことか?世界を愛で満たそうと、人あらざるものたちに感情を与えた『色欲の魔女』カーミラのことか?争いに満ちた世界を嘆きながら、あらゆる人々を殴り癒した『憤怒の魔女』ミネルヴァのことか?安らぎをもたらすそのためだけに、大瀑布の彼方へ龍を追いやった『怠惰の魔女』セクメトのことか?幼さ故の無邪気と無慈悲で咎人を裁き続けた『傲慢の魔女』テュフォンのことか?」

 

聞き覚えのない――否、今の世界で知るものの現存しないはずの歴史の羅列。

流し込まれる情報の大きさに声が出ないスバルの前で、なおもエキドナは笑い、

 

「ありとあらゆる叡智を求めて、死後の世界にすら未練を残した知識欲の権化。『強欲の魔女』エキドナのことかい?」

 

自らを指差し、自嘲するように言って、「そして」と彼女は言葉を継いで、

 

「それら全ての魔女を滅ぼし、自らの糧として世界を敵に回した『嫉妬の魔女』――彼女のことかい?」