『食』


フェルトの名前をこそぎ取り、『食事』を始めたはずのバテンカイトスが嘔吐する。

苦しげに呻き、胃液を吐き出す『暴食』の態度には嘘がない。実際に形のあるモノを口にしたわけではないのに、嘔吐するときは胃を絞り出されるのか。

そんな益体のない感想が浮かぶ、不可思議な光景だった。

 

「クソ、いてーな……ふざけやがって……」

 

突き飛ばされた胸を撫でつけ、擦り傷だらけの姿でフェルトが立ち上がる。その表情は苛立ちと不満を宿しているが、致命的な被害を受けた様子はない。

彼女を視界の端に捉えるベアトリスらも、フェルトを忘れてなどいない。

 

『暴食』の食事は失敗したのだ。

 

「がっ、げほっ、おええッ!」

 

「理由はわからんが……好機だ!」

 

口の端から胃液をこぼし、完全に戦場から意識の外れるバテンカイトスへとダイナスが強襲を仕掛ける。

二刀が翻り、容赦なくバテンカイトスへ叩きつけられた。

無防備な首筋に、小刀の剣閃が迫り――、

 

「ぎ、ォォ!」

 

獣の雄叫びのような声が上がり、バテンカイトスが体術で刃をいなす。

回避の遅れた髪の毛が斬撃に持っていかれるが、肌を切り裂くには至らない。小柄な体を高速で回転させ、悪夢めいた挙動で『暴食』は攻撃範囲から逃れる。

 

「商人!」

 

「わかってます、よ!!」

 

ベアトリスの呼びかけに、応じるオットーが右腕を振り切った。その袖から投じられる二発の魔鉱石が、攻撃を逃れたバテンカイトスに当たる。

瞬間、光が爆ぜて、生じる魔力の奔流がその体を吹き飛ばす――だが、バテンカイトスはこれに驚異的な反射神経で対応した。

 

「ヒューマぁ!」

 

膨れ上がる光が、その破壊の力にバテンカイトスを呑み込む瞬間、バテンカイトスは魔法を発動し、爆ぜる魔鉱石を氷の中に包んで固めたのだ。

魔鉱石の爆裂は力の行き場を失い、ただの氷の塊になって音を立てて地面に落ちる。無色の魔力波に、高速で術式を割り込ませる超高等技術だ。

 

それすらもおそらく、バテンカイトスがこれまでに喰らった『名前』の中の一つがやってのけたのだろう。それだけの技術を習得した『誰か』も、誰の記憶にも残らないまま胃袋に奥に沈められていると考えると反吐が出る。

 

だが、今はそれらの感慨も後回しだ。

この場で重要なのは――。

 

「はァッ!危ない危ない……けど、しのいだよッ」

 

魔鉱石を閉じ込めた氷を蹴りつけ、水路に落としたバテンカイトスが笑う。彼は口の中に残る胃液をペッと吐くと、口元を腕で拭って首を傾けた。

その濁った瞳が見るのは、手足を回して負傷の程度を確かめるフェルトだ。フェルトは自分を見るバテンカイトスに気付くと、その鼻を鳴らす。

 

「んだよ。てめーにムカついてんのはアタシも同じだぞ」

 

「ムカついてるだなんてとんでもないッ、感心してるところさァ。見た目で、おつむの出来が悪そうだなんて思って悪かったよォ」

 

「はぁ?何を言い出してやが……」

 

「まさか、僕たち相手に偽名を使うだけの小賢しさがあるだなんて思わなかった。すっかり騙されたよ。『名前』を暴くまでがっつくのは避けてたつもりだったんだけど……まァさか、それを逆手に取られるだなんてね」

 

「――――」

 

偽名、とバテンカイトスが口にしたのを聞いて、フェルトが押し黙った。

眉をひそめるフェルトの反応は、思わぬ内容を聞かされたものが示す反応だ。彼女には今のバテンカイトスの言い分に、心当たりがないと見るべきだろう。

 

一方で、今の話を聞いていたベアトリスには、先のバテンカイトスの『食事』の失敗の原因が理解できていた。

バテンカイトスは『名前』を知った人間に触れて、いかなる手段か『名前』を喰らう権能の持ち主――だが、それは正式な名前である必要があるのだ。

 

偽名、あるいは愛称のようなものではそれは機能しない。

フェルトの名前だけでは『食事』としての条件を満たしていなかったため、それを味わったバテンカイトスが痛い目を見ることになった。

となれば、

 

「そっちのお兄さんにフェルトちゃん……名前のわからないのが二人もいて、どっちも食べると決めた相手だなんて厄介だなァ」

 

純粋に名前のわからないオットーと、偽名を用いているらしいフェルト。

すでに名前の割れているダイナスと、レムの記憶から知られているベアトリスはもはや障害ではないような『暴食』の振る舞いは癇に障るが、美食家を名乗って『名前』を喰らうことに拘り続けるのであれば、そこに付け入る隙もある。

 

「おい!さっきっから黙って聞いてりゃー、何の言いがかりだ?」

 

考え込むベアトリスと、睥睨するバテンカイトス。オットーやダイナスも機を見計らう最中、声を荒げたのはフェルトだ。

彼女は自分を余所に結論を出されたことに苛立ち、ミーティアを突き付けてバテンカイトスに吠える。

 

「偽名だのなんだの、ふざっけんな。アタシはもう十五年、ロム爺にもらったフェルトって名前で生きてきてんだ。それが嘘だなんて冗談じゃねーぞ」

 

「当人に偽名の自覚がないタイプかァ。そりゃ、君の育ての親がよっぽどうまくやったってことだろうねッ。僕たちにとっちゃ厄介極まりないけど……つまり、その名前より前にちゃァんと付けられた名前があるんだよ、君には」

 

「アタシを路地裏に捨ててったクソ親がつけた名前か?ならきっと、『厄介者』か『無駄飯食らい』か『ゴミ』だぜ。そう言って、ぺろっと食べてみるか?」

 

「当てずっぽうの総当たりとか、美食家の意識に反するなァ。――あァ、そうだ」

 

八重歯を見せ、怒りの笑みを浮かべるフェルトにバテンカイトスが手を打った。彼はフェルトの体を上から下まで眺めると、

 

「君以外を喰らったあとで、君は大切に保管しよう。で、君に偽物の名前を付けたロム爺に会いにいこうじゃないか。ロム爺なら君の名前を知ってるかもしれない。俺たちは、知ってることを聞き出すのは得意なんだ。任せてくれていいさァ」

 

「……そこまで手間暇かけて。諦めるって選択肢はないんですかね?」

 

醜悪な予定を口にする『暴食』に、思わずオットーが口を挟んだ。それを聞いたバテンカイトスは口に手を当て、愉しげに喉を鳴らすと、

 

「世に命の数が有限なら、その中で美食に値する数もまた有限なのさァ。なら、僕たちは限られた美食と出会える機会を逃さないッ。暴飲ッ!暴食ッ!舐めてしゃぶって啜ってこそいで、皿の上のタレまで舐め尽くして味わってやるさァ。おっと、もちろんお兄さんも例外じゃァないから安心していいよォ?」

 

バテンカイトスの視線は、この場に残る四人を決して逃すまいと決めている。

『暴食』の食事への拘りは、『美食』に値すると評価されたベアトリスたちには理解不能だ。ただ、執念深い厄介者に目を付けられた以上の意味はない。

そして、その冒涜者の食へ至る欲求は、いたくフェルトの不興を買った。

 

「そーかよ。ここでどうにかしねーと、ロム爺にまで手ぇ出すってんだな」

 

静かな声で言って、フェルトが自分の足を振った。

履いていた靴がすっぽ抜け、フェルトはもう片方の足も同じように。両足を素足の状態で石畳を踏み、彼女はミーティアを横へ転がすと短剣を抜いた。

 

「――?わっかんないなァ、フェルトちゃん。それ、切り札なんじゃァないの?」

 

「慣れてねー道具に頼るより、こっちの方がやりやすいんだよ。もともと、そこまで拘るもんでもねー。道具は使える奴が、使いやすいのを使うのがいいって、な!」

 

素足が地面を掴むように丸まり、次の瞬間にフェルトの体が弾かれるように前に射出されていた。瞬きの合間に接敵する速度、まさに風のようだ。

これにはバテンカイトスも目を剥き、振りかぶられる刃に対して余裕の態度を忘れて対応する。腕を振り、身を捌き、記憶に沈めた体術を引っ張り出す応戦だ。

 

「っらぁ!」

 

裸足のフェルトの速度は、ただ身軽な少女の出せる勢いを凌駕している。

人智を超えた力の援護――すなわち加護を帯びていることは間違いない。短剣が幾度も閃いて、バテンカイトスの短剣術とそれなりに渡り合っている。

無論、その技量はバテンカイトスに圧倒的に軍配が上がるが、ただフェルトが押し切られずに済むのはダイナスの援護が入るからだ。

 

「大事な体で、あまり無茶をするな!」

「オッサンこそうっせーな、遅れてんじゃねーよ!」

 

巧みに二刀を操り、ダイナスは『暴食』の反撃の隙間をどうにか塞ぐ。その間にフェルトが『暴食』の死角に回り込んで急襲、鋼同士が噛み合う音がして、火花を散らしながらもみ合う三人の影が入り乱れる。

 

またしても決定打に欠ける乱戦。

ただし今回は、決定打がきっちりと乱戦の外側に用意されている――。

 

「術式……通した、ぶちかますかしら!」

 

「お二人とも、離れてください!」

 

蚊帳の外に置かれながら、じっくりと時間をかけて一つの術式を組み上げる。

普段ならばさして手こずる必要もない作業に、余計なフィルターを挟んでいるせいで細心の注意を払う工程が入った。

それだけの労力を払った結果、ようやくそれが形になる。

 

「――――」

 

オットーの叫びに従い、フェルトとダイナスがバテンカイトスの傍を離れる。とっさにフェルトに手を伸ばす『暴食』だが、触れたところでフェルトの『名前』を喰らう準備は整っていない。

 

「はな、せ!」

 

乱暴に掴まれた足首を振りほどき、フェルトは片足で大きく背後へ飛んだ。ダイナスも転がるようにその場を離れて、ベアトリスの射線上に『暴食』だけが残る。

そこへ目掛けて、ベアトリスは発動に『千』の力を必要とする魔法を、『千』の力を真っ当に通して完成させた。

 

「今度は冗談じゃなく、本当に……ウル・ミーニャ!!」

 

詠唱に応じて紫の輝きが迸り、バテンカイトスを中心に光が円を描く。何事が起こるのかと顔を上げるバテンカイトスだが、その反応では遅い。

構えるのではなく、形振り構わず逃げ出すのが正解だ。

 

「――ッ!」

 

光の輪が一気に収束し、バテンカイトスの胴体が腕ごと輪に抑え込まれる。上半身の動きを拘束された『暴食』に、さらに光の輪が連鎖して閉ざしにかかった。

そのまま全身を光の輪に包まれれば、ウル・ミーニャの威力から逃れられない。

 

結晶化する紫の光が、バテンカイトスの上半身を次々と締め付ける。そのまま輪の支配は下半身にまで及び、身動きを感じられた『暴食』がその場に倒れ込んだ。

そして大気が軋むような音を立てて、強大な紫紺の輝きが倒れる冒涜者の頭上に浮かび上がり、その先端をバテンカイトスへと向けている。

 

拘束し、叩き潰すウル・ミーニャの威力。

ベアトリスの持てる技術を緊急的に叩き込み、実現させた破壊がバテンカイトスへと降り注いだ。

 

「――――!」

 

雄叫びが掠れて聞こえたが、それは破壊を生み出す紫の光の前に掻き消された。

圧倒的な光の威力に石畳がめくれ上がり、巻き起こる爆風が大広場を光と噴煙で包み込み、ベアトリスのドレスのスカートが大きくはためく。

 

「やったか!?」

「やりましたか!?」

「やったのか!?」

 

爆風に煽られながら、身を伏せていた三者が同時にそう声を上げた。

爆心地のど真ん中、そこにいたバテンカイトスに回避の手段はなかった。今の一撃をまともに浴びていれば、その肉体は骨片すら残さず消滅して――。

 

「まだ終わっちゃいないかしら!」

 

――そう、まともに当たっていればだ。

 

ベアトリスが高い声で警戒を促し、快哉を叫んだ三人の顔色が変わる。三人よりもいち早く、ベアトリスが失策に気付けたのは難しい話ではない。

感触だ。

 

「――あと、四つ」

 

懐に仕舞い込んでいた大魔石が、今のウル・ミーニャの術式に耐え切れず、バテンカイトスを仕留める寸前で砕け散っていた。

発動まで持ち込めたものの、効果の十全な発揮には不十分な位置での消失。輝きはバテンカイトスを焼き尽くすには届かず、『暴食』の体は――、

 

「今のはちょっとだけ焦ったかもッ!」

 

「――!」

 

噴煙の中を突き抜けて、バテンカイトスが低い姿勢からベアトリスへ飛びかかる。今の魔法の威力から、もっとも早々に消すべきが誰かを判断した結果だろう。

魔法使いとして卓越した技術を持つベアトリスだが、その身のこなしは常人――外見通り、幼い少女の域を脱してはいない。

 

達人の体術を操るバテンカイトスと、接近戦を行えるだけの能力はないのだ。

故にベアトリスはこの接敵に対して、即座に三つ目の魔石を利用する。

 

「――ムラク!」

 

「小細工したところで――」

 

バテンカイトスの手が届く寸前、かろうじてベアトリスの詠唱が先手を打った。

伸び上がる指先は、いかなる妨害があってもベアトリスを逃がすまい、それだけの意思が込められたものだった。だが、その意はまたしても外れる。

 

指先がドレスを掠めたかと思った瞬間、ベアトリスの体がまるで風に押される木の葉のように真後ろへ吹っ飛んだのだ。

 

「――――」

 

ベアトリスの詠唱した『ムラク』は、重力に干渉する陰魔法だ。地面へ引きつけられる力や、自らの体重などに干渉する魔法だが、ベアトリスはそれを利用して自分の体重を一瞬だけ完全にゼロにした。

それこそ風に浮かび、触れようとする指先に大きく弾かれるほどに。

 

「こ、っの――!?」

 

目論見通りに、ベアトリスの体はバテンカイトスを離れて、一気に大広場の端っこの方まで飛んでいく。それに追い縋ろうとしたバテンカイトスは、しかし背後に生じた大げさな足音を聞いて、とっさにそちらへ振り返ってしまった。

 

短剣を背後へ繰り出し、無粋な乱入者を斬りつけようとする。しかし、その一撃は空を切った。なぜなら、そこに足音の人物はおらず、

 

「ガーフィールとか『腸狩り』とか、そういう人ばっかり引っかかりますよねえ!」

 

風魔法の応用で、『足音を飛ばした』オットーが背中を向けさせたバテンカイトスにさらに魔石を投じた。剥き出しの背中に破裂する魔石の熱波が襲い掛かり、今度は防がれなかった爆風にバテンカイトスが吹っ飛ぶ。

 

「今度こそ終わりだ!」

 

ゴロゴロと広場を転がり、五体を投げ出して倒れるバテンカイトス。その姿に飛びかかり、二刀を逆手に構えたダイナスが止めを刺そうと――、

 

「――――」

 

ぼそりと、倒れる少年が何事か囁いた。

それが命乞いか、あるいは後悔の言葉であってもダイナスは躊躇わない。傭兵稼業を生きてきた彼にとって、命の奪い合いはシビアに競った結果だ。

そこに大人か子どもかの問題は些少なことであり、悼むことも悔やむことも全ては生き残ったあとにこそできる感傷でしかない。

 

故に割り切った。ただ、割り切ったダイナスの動きに淀みはないが、それでも不可解を胸に抱かずにはおれなかった。

今のバテンカイトスの囁きが、こう聞こえたからだ。

 

――月食、と。

 

「――お?」

 

その音の正しい響きに至った直後、間の抜けた声が漏れた。

次の瞬間、小刀を振りかぶるダイナスの四肢が一斉に血を噴いている。四肢にはそれぞれ深々と短剣を突き込まれた傷が浮かび、正確に腱を抉られていた。

 

すなわち、四肢の機能の完全な喪失を意味し、崩れ落ちる体を止められない。

 

「く、あ!?」

 

顔面から石畳に落ちたダイナス、その頭が真上から思い切り踏みつけにされる。鼻面を石畳に潰されて、衝撃に呑まれたダイナスの意識が吹っ飛んだ。

うつ伏せで動かなくなるダイナス、その体を蹴りつけて、立ち上がったバテンカイトスがゆっくりと、オットーの方を振り返った。

 

「……ぁ」

 

その濁った瞳と、視線を交わすのは初めてではない。

なのにオットーの精神は、その濁った瞳に一瞬で絡め取られてしまった。

 

渦巻く狂気と怨嗟が、先ほどまでのそれと段違いにどす黒いものだったから。

 

「――――」

 

一瞬だった。

瞬きの間に距離が詰まり、気付いたときにはオットーの両足を灼熱が貫いた。見れば両足の腿の前面を、短剣が十字の傷口を生むように抉っている。

 

果物の皮でも剥くように、ぺろりとズボンとその下の肌がめくれた。肌の裏の赤い断面と桃色の筋肉、その中を這い回る白い神経と骨に、緑の血管が一切、傷付けられずに摘出されていて、オットーの喉が場違いな感慨に詰まった。

 

呆気に取られる。ここまで美しい技法は、お目にかかったことがない。

最小限の出血――否、一切の出血がないのだ。真に卓越した熟練の刃の扱いは、人間の肉体をこれほど耽美に破壊してせしめる。

 

「――――」

 

しゃがみ込んで、バテンカイトスがその傷口に口付けした。ざらりとした舌の感触が、肌の内側にあったオットーの足の重要部分の全てを舐める。

筋肉、骨、血管、神経、それらが舐られる感覚に身震いがあり、次の瞬間に視覚的にも触覚的にも、堪え難い嫌悪と激痛がオットーの脳を沸騰させた。

 

「あ、ぎゃあああああ――ッ!?」

 

血は、出ていない。意味がわからない。

ただ痛みだけがある。それも血の噴出の代わりとばかりに、剥き出しの骨や神経が湿った風に撫ぜられ、筋肉を丹念に針で剥かれるような凄絶な痛みが。

視界が明滅し、脳が爆ぜる。痛みを理解する器官が、その理解を拒絶する。絶叫する喉は血を吐くように震え上がり、動かない両足で悶えることもできない。

 

そうしてオットーが絶叫する中、それを見下ろすバテンカイトスは首を傾げた。長い焦げ茶の髪が肩を滑り落ち、『暴食』は疲れたような嘆息する。

 

「食休みかと思えばこの有様。美食だの悪食だのどうでもいいのに……本当、私たち以外は食事のなんたるかが全然わかってない」

 

それまでの、狂気的な笑みも態度も仕舞い込んで、ひどく達観した声音だった。

バテンカイトスがゆっくりと首を振り、まるで自嘲するかのような振る舞い――かと思えば、パッとその表情が変わり、

 

「そういう言い方はするなよォ。確かにちょっと遊んでて面倒はあったけど、それでもルイ好みの御馳走は見つけたんだからさァ」

 

牙を見せ、首を巡らせたバテンカイトスの視線がベアトリスたちを見た。その視線と、オットーの惨状に思わず二人の少女は息を呑む。が、そんな二人の反応を見たバテンカイトスの表情がまた、空虚でけだるげなものへと変わった。

 

「確かに悪くはないみたいだけど……中身より器の確保でしょう。それに、福音書の記述だって読み切れてないし」

「ルイは見えないかもだけど、それは僕たちの中にいる子が教えてくれてるさァ。あそこにいる、ベアトリス様がそうだよ、たぶん。やりきれば心身ともに満ちる、絶好の機会ってやつじゃないかッ!」

 

右を見て言い合い、左を見て言い合い、バテンカイトスは己の胸中ではなく、外からもはっきり見えるような形で自問自答する。

まるでそれは、自分の内側にいる別の何者かと会話するような光景だった。

 

いや、事実、その可能性がある。

『名前』を喰らう冒涜者、ライ・バテンカイトスの中には無数の魂がある。ならばそのいずれかと言葉を交わし、あるいは合議することすら可能なのかもしれない。

ならばこのおぞましい自問自答にも、理解が及ぶというものだ。

 

「動けるかしら、チビッ子」

 

「ああ?そっちの方こそ、ビビッてねーだろうな、チビ」

 

互いを罵り合いながら、ベアトリスとフェルトが意思疎通を交わす。お互いの瞳を覗き込み、どちらの戦意も折れていないことを確認。

フェルトは小さく鼻を鳴らすと、顎をしゃくって大広場の一角を示した。ベアトリスはそこに散らばるものを確かめて、その意図を察する。

 

「……あいつらはこのあと、ベティー狙いでくるかしら。足止めはしてやるのよ」

 

「止められんのかよ?攪乱ならアタシの方が……」

 

「二回ゲロ吐くほどアホなのを期待するわけにもいかんかしら。それに決め手はどう足掻いても、ベティーには扱えないものなのよ。お前がやるしかないかしら」

 

ベアトリスの提言に、フェルトが考え込む素振りを見せる。が、眉間に皺を寄せた彼女はすぐに首をひねり、金髪を掻き毟って「あー!」と声を上げた。

そして、ベアトリスに拳を向けると、

 

「しくじんなよ、チビッ子」

 

「お前こそかしら、チビ」

 

向けられた拳には特に何も返さず、互いに悪態だけついて決戦に挑む。

ベアトリスたちの話し合いが終わるのと、バテンカイトスの自問自答の終わりはほとんど同時だ。ダイナスとオットーを切り倒した戦闘力、あれが十全に発揮される場合、それと真っ向からぶつかれる自信はベアトリスにはない。

 

「それで、準備はよろしいですかァ、ベアトリス様ァ?」

 

「できてないって答えて猶予がもらえるならそうするのよ。でも、そうじゃないなら質問に意味なんてないかしら」

 

「まったくその通りです。んじゃァ、改めて――イタダキマス!」

 

真っ向から、バテンカイトスがベアトリスを目掛けて一直線に飛びついてくる。速度は先ほどの、悪夢じみた脅威ほどではない。とはいえ、それでもベアトリスには十分な脅威。接近戦の不利は変わらない。

だから、真っ向からぶつからないことが陰魔法の使い手としての本領だ。

 

「そォ、らァ――!」

 

ベアトリスの前方で、地面に手をついたバテンカイトスの体が縦に回る。振り下ろされる踵がベアトリスの真上から迫り、鋭い一撃が少女の脳天に突き刺さる。

 

「そうはいかないのよ」

 

――寸前、ベアトリスの体がまたしても蹴りの風圧に背後へ傾いた。先ほど発動した『ムラク』の効果を切らずに残していた結果だ。

風圧に背後へ傾き、ベアトリスはその場で大きく真上へ飛び上がる。重力から解放され、体重という頸木もない少女の体はあまりにも軽々と浮かび上がった。

ドレスの裾を巧みに翻し、風を浴びるベアトリスの体が不規則に宙を舞う。

 

「お見事!ですがァ、対処が甘い!」

 

舌を伸ばしたバテンカイトスが落下地点に回り込んで、その着地を待たずに中空のベアトリスへ向かって掴みかかった。

猛禽が獲物を捕らえるような勢いと正確さで、その指先がベアトリスへ届く。しかしそれは同時に、逃げ場のない中空へ相手も上がった証拠だ。

 

魔法の残弾が限られている以上、当てることが最大の焦点。

ベアトリスは真下から迫るバテンカイトスへ掌を向け、四百年の生涯、そしてこの一年でもっとも使い慣れた魔法を詠唱する。

すなわち――、

 

「シャマク!!」

 

懐で魔石が砕け散り、ベアトリスの詠唱に応じて黒い靄が噴出――跳躍するバテンカイトスはそれに頭から突っ込み、無理解の世界へと閉じ込められた。

 

「もがァ――!?」

 

黒い靄が取り付き、バテンカイトスの体が無防備に石畳へ落ちる。振り切るまで何もできない状態が続くはずだが、シャマクの効果はそれほど長くない。

今のベアトリスの手札――利用できる魔石一つで致命打は奪えない。ならばベアトリスがこの瞬間、選ぶべき手段は。

 

「あァ!やってくれるなァ、ベアトリス様ッ。まるで、あの人みたいな戦い方をして……影響でも受けたんですかァ!?」

 

シャマクを振り払い、身を回したバテンカイトスが牙を剥いた。彼はぐるりと広場を見渡し、ベアトリスを目に留めるとそうのたまう。

彼の中にいる少女の記憶では、ベアトリスがスバルの隣に並び立っている光景はないはずだ。だから、ベアトリスがこうして奮戦する姿に彼の影響を見ても、それがどれだけ大きな意味を持つのか気付けない。

 

「そら、最後の魔石で大盤振る舞いなのよ!」

 

感傷を振り切り、ベアトリスは足下に転がるオットーへと掌を向けた。最後の魔石の魔力を使って、のたうち回るオットーの足の傷に癒しの波動を送る。

完全治癒は遠いが、それでも絶望的な痛みは遠のいたはずだ。涙を流して転がっていたオットーが、嗚咽まじりに大きく咳き込む。

 

「そんな役立たず、今、復活させてどうなるのッ?」

 

「こうなるのよ!」

 

一手を無駄にしたと嘲笑うバテンカイトスに、ベアトリスが怒鳴り返した。

その啖呵に眉を寄せた直後、バテンカイトスの足に背後から何かが食らいついた。左足に深々と牙を立てられて、体勢の崩れるバテンカイトス。

とっさの自分の足を見下ろし、それを見たバテンカイトスの目が見開かれた。

 

「はァ!?」

 

理解できないものへの驚き、そこにいたのは血塗れの水竜だ。

首を伸ばして、石畳を猛進した水竜がバテンカイトスに食らいついている。一度は戦闘不能まで追い込まれた水竜が、最後の意地を貫いて。

 

五つの魔石のうち、三つ目の魔石の使い道だ。

一つ目で強烈な、しかし不発に終わったウル・ミーニャ、二つ目が緊急回避用のムラクに使用され、そしてムラクで弾かれた先にいた瀕死の水竜を、三つ目の魔石で回復。

四つ目でシャマクを放ち、五つ目でオットーの痛みを遠ざけた。

 

それがベアトリスの五手、勝利を掴むための魔石の使い道だ。

 

「――ぁぁ!痛い痛い、痛いぃ!」

 

喉が嗄れるほど叫び、絶叫の中に水竜への呼びかけを隠したオットーが、役目を果たして今度こそ自分の痛覚のために泣き叫ぶ。

ベアトリスの治療を受けた直後、即座に求められるところを理解するあたり、オットーは本当に優秀だ。不本意にも戦いに巻き込まれることの多い、エミリア陣営の内政官は彼にしか勤まるまい。

 

「よくやったかしら、天職なのよ!」

 

「なんかわかんないけど嬉しくないんですが!」

 

ベアトリスの滅多にない称賛を浴びて、涙を流すオットーがそう応じる。そして二人の眼前、水竜に足を食らいつかれたバテンカイトスが地面に引き倒され、どうにかその牙を外して立ち上がろうとする。

しかし、それらの反応全てが、切り札を前に間に合わない。

 

「――準備、万端。よく稼いだぜ、チビッ子」

 

勝ち誇った声がして、硬い音を立ててミーティアの尻が地面を叩いた。

腰溜めに杖を構えて、フェルトはその先端をバテンカイトスへ向ける。彼女の手の中でミーティアはうっすらと光を帯び、その余波が包みを吹き飛ばした。

 

白い包みが外されると、そこから露わになったのは純白の細長い杖だ。

柄の長さは槍といっても通じるほど長く、凝った意匠もなければ、目を惹くような機構が組み込まれているわけでもない。

実用性一辺倒のその造りは、まさに造物主の精神を反映しているといえる。

 

道具に道具以上の価値を求めない、エキドナという『魔女』の精神そのものを。

 

「お母様……」

 

ベアトリスは実際に、エキドナがその杖を振るうところを見たことはない。それでもその杖の製作された目的と、その威力は知っている。

神龍ボルカニカへの嫌がらせ――神龍に干渉し得る、そうした兵器であると。

 

とはいえ、使用にはいくつかの条件がある。

その条件を満たすことが難しいのと、使用者の問題もあり、その底無しのスペックの全てを発揮しきることは厳しいが――。

 

「さぁ、ラインハルトさんにも通用する威力、味わってみろやぁ!」

 

条件を満たした状態で、マナが満タンのフェルトが使用者ならば期待値は十分。

握る所有者のマナをぐんぐんと吸い上げて、ミーティアは際限なく力を溜め込み、先端へ集まる光がバテンカイトスへ照準を定めた。

 

「――ッ」

 

さすがのバテンカイトスも、その威力には余裕を保っていられない。

致命の可能性があると見るや、バテンカイトスは即座に足を拘束する水竜の鼻面を短剣で一撃、牙がゆるんだ瞬間に足を引き抜き、裂傷を負いながら飛びずさる。

その瞬間、ミーティアが一際強く瞬いた。

 

「いっけ――っ!!」

 

ミーティアの先端で光が膨れ上がり、白光がバテンカイトスへ放たれた。

とっさに水竜の拘束を逃れたバテンカイトスは、その傷付いた足でどうにかその射線上から転がり出る。そのまま光は狙いを外し、水竜へと衝突――する直前、軌道が曲がった。光は複雑な軌道を描き、バテンカイトスへ追い縋る。

 

「な――ッ!?」

 

逃れる自分へ追い縋る光弾に、バテンカイトスは声を上げた。そのまま鋭い身のこなしと跳躍で、再接近する光弾の軌道から外れる。

しかし、無駄だ。光弾はバテンカイトスが逃れても、転がっても、跳躍しても、弧を描き、円を描き、追い縋り、直撃を狙う。

 

あれがエキドナの生み出した魔法兵器『ミーティア』の、最大の強み。

照準と定めた対象への、永続的な追尾機能だ。

 

エキドナが神龍ボルカニカへの『嫌がらせ』のために作った兵器。凝り性のエキドナが本気で、ただ『嫌がらせ』のために道具を製作すれば、それはその目的のために妥協を許さないものに仕上がって当然だ。

故にあの魔法器は、対象を逃さず、外れず、確実に届く兵器に成り果てた。

 

「ぬ、っぐ……なら、これはどうかなァ!?」

 

逃げても逃げても限度のない光弾の追跡に、業を煮やしたバテンカイトスが逆襲に打って出る。魔法力が高まり、バテンカイトスの周囲が凍り付いた。

浮かび上がる複数の氷柱が鋭い先端を光弾へ向け、嵐のような弾幕が白光へと飛び込んでいく――だが、その抗いは間違いだ。

 

氷柱は白光に当たる寸前、その先端からマナへと還元されて、命中する前に粉々になって光弾へ呑み込まれてしまう。それだけに留まらず、光弾は迫ってきた魔法迎撃を全て吸収して、ますますその威力と規模を拡大して対象へ迫るのだ。

 

「クソ、こんな……こんなッ!」

 

転がり、軌道からなんとか逃れ、バテンカイトスが悪態をこぼす。しかし、その左足の傷は深く、万全な跳躍を可能とはしない。

あるいは機敏に動ければ、ベアトリスたちの方へと光弾を誘導したり、フェルト本人を狙うことが可能だったかもしれないが、そこまでの余力はない。

 

やがて光弾は転がるバテンカイトスの周囲を回り、その逃げ場を塞ぎながら、ゆっくりと嬲るように『暴食』の体を破壊の力に押し包み――、

 

「こんな、馬鹿みたいなことで、僕たちが俺たちが――!」

「ごちゃごちゃうるさい。さっさと、日食を切ればいい」

 

直撃の瞬間、みじめったらしい声をバテンカイトスが上げ、それがまたひどく冷めた声に塗り潰された。そして、光が炸裂する。

 

「――――」

 

眩い白光が大広場の中央で膨れ上がり、これまでで最大のクレーターが生じる。

膨らんだ光は世界を白く塗り潰し、塗り潰された部分は色を失ったかのように消失してしまっていた。

丸い球状に大広場が抉られて、水路へ通じたそこに水が流れ込む。

だが、

 

「やれやれ、まったく。本当に出来の悪い兄弟を持つと苦労する」

 

その破壊の惨状の横で、水路を覗き込んでいる影がある。

焦げ茶の髪を長く伸ばし、傷だらけの体をした人物だ。その肉体的特徴は言うまでもなく、相対していたライ・バテンカイトスに他ならない。

如何なる方法でか、あの光弾の攻撃を回避したのか――しかし、この場でもっとも驚きに値するのはそこではない。

 

「どういう、ことかしら」

 

ベアトリスの呟きは、攻撃が当たらなかったことへの驚きではない。

そもそも、攻撃の当たる当たらないの問題ではないのだ。光弾が当たるべきはバテンカイトスであって、バテンカイトス以外には当たらないのだから。

 

だから、そこでこちらに背中を向ける、筋骨隆々とした大男には当たらなくて当然。問題はその男が、いったいどこから現れたのか。

 

「あれは『暴食』……ですか?」

 

苦しげに顔を上げて、同じものを見るオットーがそうこぼした。

否定してやりたいところだが、今のベアトリスにはそのための言葉がない。押し黙るベアトリスたちの視線に、ふとその大男が振り返った。

 

そこにいたのは、バテンカイトスとは似ても似つかない厳つい顔つきの男だ。

四十路に迫ろうかという見た目で、あの冒涜者と重なる部分は微塵もない。目を細めるベアトリスの前で、その男は自分の顎に手を当てて、

 

「そう不思議そうな顔をする必要はないわ。私たちはただ、こうしただけ」

 

と、見た目を裏切る女言葉で言って、男は自分の長い髪を軽く手刀で断つ。パラパラと髪の毛が舞い散り、それを見たベアトリスは光弾の回避方法を理解した。

 

ミーティアの追尾は、命中したという判定が為されるまで成立する。

あの威力だ。体の一部分にでも当たれば、十分に全身を巻き込むことができる。その点を逆手に取られた。

 

男――おそらくバテンカイトスは、自らの髪の毛を切断し、それを光弾に『肉体への接触』と錯覚させたのだ。そして、攻撃範囲から全力で逃れて、被害を免れた。

あるいは成立しない可能性もあった方策だが、今回に限れば満点の回答だ。

 

もともと、ミーティアに標的を定めさせるためには、標的となるものを識別するための『照準』を合わせる必要がある。

対象のオド、あるいはゲートと繋げて狙わせるのがベストだが、今回の場合は緊急的な措置として、戦いの最中に落ちたバテンカイトスの髪の毛を利用した。その分、髪の毛の囮の方に光弾の方も逸れてしまったのだ。

 

「――――」

 

そこまで考えたところで、ベアトリスは状況の悪さに歯噛みする。

切り札であったミーティアを、まさかそんな方法で回避されるとは思わなかった。魔石は使い切り、手元にあるのは自活用であり、パックのために温存したい一個。

オットーや他の男たちも戦えず、ミーティアにマナの大半を吸われたフェルトも、その場に崩れ落ちて荒い息をついている。

 

万事休す――そんな考えが浮かびかけるが、ベアトリスは首を横に振る。

敗北を受け入れるのは死んでからにすべきだ。スバルが絶望的な状況でこそ活路を見出すように、自分もそうしなくてはならない。

 

だからベアトリスはキッと顔を上げ、その男を睨みつけた。

視線を向けられて、バテンカイトスは目を丸くする。それから彼は腰に片手を当て、もう片方の掌で顔を覆った。そして、

 

「いい、いいわ、いいわね、いいわよ、いいじゃない、いいじゃないのさ、いいだろうからこそ……私たちも、あたしたちも、『食す』価値をあなたに見る」

 

「――っ」

 

告げられる戯言にベアトリスが反論する前に、バテンカイトスの体に変化が生じる。音を立てて骨が歪み、痛々しく血が噴出、大男の体が萎んだ。

新たに生じた傷口から大量の血を流し、息を荒げるのは少年の姿を取り戻したバテンカイトスだった。

バテンカイトスはその満身創痍の状態で、しかし狂的な笑みを浮かべる。低く喉を鳴らしながらこちらを見る『暴食』は、嬉しそうに両手を広げた。

 

「私たちの名前は、魔女教大罪司教『暴食』担当、ルイ・アルネブ」

 

「ルイ……?」

 

ライ・バテンカイトス、それが奴の名前のはずだ。

ふいに違う名前を名乗る意図が読めず、ベアトリスは眉を寄せる。と、その戸惑いの隙間を縫って、バテンカイトスは右足だけで強く地を蹴った。

何事かと身を固くするベアトリスだが、『暴食』は広場の端っこへ飛び、そこに落ちていたボロ切れを回収すると、傷だらけの肌を隠すようにまとう。

その上で、

 

「残念だけど今日はここまで。ライもロイも消耗しすぎたから。これ以上は産み落とすのに支障をきたすわ。また会いましょう、可愛いお嬢ちゃん」

 

「――!逃がすと、思っているのかしら!」

 

「強がりはやめなさいな。『蝕』はこの体じゃまともに扱えないけど、それでも全滅させるぐらいはできるのよ。そうしないのは、食卓が整っていないから」

 

踏み込もうとするベアトリスに、指を突き付けてバテンカイトスは首を振る。

ひどく女性的な仕草――否、実際、今のバテンカイトスは女性なのかもしれない。その本質の部分で、理解しがたい何かが起きている。

嫌悪感と警戒心から足の止まるベアトリスに、バテンカイトスは頷いた。

 

「美食のライも、悪食のロイもなァんにもわかってない。だってそう。食事は『何を食べるか』じゃない。『誰と食べるか』だもの」

 

「――――」

 

「じゃァね。次はきっと、あなたの大切な人と一緒に会いにきてね」

 

「待――」

 

待て、と呼びかけるより早く、バテンカイトスは大広場の影に滑り込んで消えた。あとを追いかけることは、負傷者だらけの状況でベアトリスにはできない。

深追いして、『暴食』の有利な状況へ引き込まれるのも無謀だ。

 

切り札であるミーティアが外された時点で、こうなる他にない。

 

「……してやられたって、ことなのよ」

 

舌打ちしたい気持ちを堪えて、ベアトリスは周囲を見渡す。

痛みにオットーは意識を朦朧とさせ、傭兵たちとフェルトの従者は気絶、失神。フェルトは悔しげにしているが、今にも倒れ込んでしまいそうだ。

 

そしてそれはベアトリスも例外ではない。

キリタカの必死の訴えに応じて、どうにか死者を出さずに済んだことだけが、ベアトリスがこの戦場へ参じた結果と受け止めるべきか。

いずれにせよ――。

 

「胸を張って、スバルに抱っこしてもらうわけにもいかなそうかしら……」

 

逃がした獲物――ライ・バテンカイトスの中に、少女の魂が眠っている。

そのことに確信を得て、それをスバルにどう伝えるべきか。

 

ベアトリスはひどく重苦しい悩みを抱きながら、朦朧とするフェルトに声をかけるためにそちらへ足を向けたのだった。

 

皮肉にも、大罪司教の離脱によってこの戦場の戦いも終息し――、

 

水門都市の戦場も、残すところあとわずかであった。