『塔共同生活のすゝめ』


 

――結局のところ、二層『エレクトラ』攻略会議の結論は先送りとされた。

 

話し合いの流れで具体的な打開案が出なかったこともあるが、結論を先延ばしにした最大の原因――それは、スバルの腹の虫である。

 

「考えてみたら俺、二日も意識なかったところから復活して、その足ですぐ塔の攻略始めてたじゃん……そりゃ、お腹と背中がくっつくわ」

 

会話が停滞したところで盛大に腹の虫が絶叫し、そこで初めてスバルは自分がどれだけ空腹の状態に置かれていたのかを自覚した。

腹が減っては戦はできぬ、ではないが、空腹は思考力にも影響する。結果、スバルの腹の虫の訴えを契機に、ひとまず、その場はお開きとなったのだ。

 

「正直、腹の虫が鳴いてくれて助かった部分もあるしな……」

 

二層の打開案はともかく、何となく監視塔における『試験』の出題傾向。

その、出題者の意地の悪さが見えてきたところで、同時にほのかに明らかになったシャウラの危険性――元々、彼女の戦闘力は危険視すべきだったのだが、当人の頭空っぽな態度と、スバルに馴れ馴れしく接する姿に緊張は薄れかけていた。

 

『――ここで、あーしと一緒に楽しくやっていったらいいッスよ!』

 

何日でも、何年でも、何百年でも――。

そう、臆面もなく言い切ったシャウラの様子に、その忘れかけていた危険性をようやく思い出すことができた。そういうべきだろうか。

 

「やるつもりはねぇけど、もしも塔の攻略を中断して脱出ってなった場合、あいつが敵に回るのは確実ってルールもあるみたいだしな……」

 

脳裏を過る、シャウラの口にしたプレアデス監視塔攻略における複数のルール。

『試験』の途中退場、『試験』のルール違反、書庫への不敬、塔の破壊。いずれかに反すれば、シャウラは監視塔への入場を阻んだときのように、再び敵に変貌する。

それは避けたい。戦力的にも、心情的にもだ。

 

「ただ、な。シャウラの言ってたみたいに、ここで何年も過ごすなんてのは現実味もねぇし、願い下げって話なんだが……」

 

塔の攻略に目を向ければ、あらゆる点から自然と不安が首をもたげてくる。

すでにスバルたちは、このプレアデス監視塔への旅程に一ヶ月以上を費やしているのだ。とんとん拍子に『試験』を片付け、塔の攻略が終わったとしても、プリステラへの帰還に同じだけ時間をかけると考えれば、最短でも三ヶ月近い旅となる。

 

無論、長引くから中途で手を引くなんてことは、シャウラとの敵対のことも含めてしたくはないが、エミリアやアナスタシアの参戦する王選には期限がある。

全体で三年――すでに一年と少しが経過し、残す期限は二年を切っているのだ。

費やせる時間はもちろん、積むべき時間も、無限ではありえないのだから。

 

「でも、そんな明日の明日の心配ばっかりしてても埒が明かないのよ。まず、大事なのは今日を踏まえた明日のことかしら。そのためにも……」

 

「今は、お腹いっぱいご飯を食べておけってか」

 

「それなのよ」

 

ぴしっと、スバルの言葉に指を立てたのはベアトリスだ。

腹の虫を切っ掛けに話し合いが終了し、食事の準備が整うまでの時間をスバルは塔の散策――居住区とされている、四層の見回りに費やしている。

そのスバルに同行し、きゅっと手を繋いで歩いているのが件のベアトリスだ。

定期的に手を繋ぐのは、ゲートに不調のあるスバルから、契約精霊であるベアトリスが直接マナを徴収するためである。が、そんなお題目を抜きにしても、スバルはベアトリスと手を繋ぎたがったし、ベアトリスもそれを拒むことはなかった。

 

「それにこの二日、俺が寝込んでる間はお前も不安だっただろ?今日は安心して、俺にべたべた甘えてくれていいからな」

 

「馬鹿なこと言ってるんじゃないかしら。これは、スバルが寝込んでいた間、サボっていた分のマナ徴収を多めにしてるだけなのよ。特に、この塔の中では常にベティーは万端の状態でいたいかしら。準備不足は避けたいのよ」

 

「とは言いつつ、マナ徴収しない間も寝込んでる俺の手を握ってたってのは?」

 

「それはマナと関係なく、ベティーの心の充足のためだから関係ないかしら」

 

マナ徴収とは無関係、と胸を張ったベアトリスだが、かえってそっちの方が微笑ましい上に恥ずかしい気がすることにスバルは触れなかった。

 

ともあれ、ベアトリスの考えにはスバルも諸手を上げて賛同する。

二層の『試験』のことがあるのだ。まさか、その上の一層までもが戦闘力を必要とする試験内容とは考えたくないが、可能性は捨て切れない。

それに、スバルとベアトリスのコンビの強みは戦闘に限った話ではないのだ。戦闘以外の部分で小細工するためにも、ベアトリスには万全であってもらいたい。

 

「よし、ベア子。俺のことはいい。ぐんぐん、俺からマナを吸って肥え太れ……!」

 

「別にたくさんマナを徴収しても、ベティーはぶくぶく太ったりしないのよ!それに、意気込んでもスバルの元々持ってるマナの量はたかが知れてるかしら。そのなけなしのマナを引っ張って、倒れられても困ってしまうのよ」

 

「おいおい、それじゃ、どうすりゃいいってんだよ」

 

「だーかーら!せめて、お腹いっぱい食べて、ゆっくり休んで体力の回復とマナの貯蔵、あとベティーの相手に勤しむかしら。それがスバルの使命なのよ」

 

「完全に病み上がりみたいだし、やっぱり放っておかれてて寂しいお前の本音がちょっぴり混じってたじゃねぇか……っと」

 

歯痒さ半分、微笑ましさ半分で器用な表情を作ったスバル。その足が、通路の奥からやってくる人の気配に止まった。

靴音を立て、向こうから姿を見せたのはエミリアだ。彼女はスバルとベアトリスに気付くと、「あ」と目を丸くし、駆け寄ってくる。

その手には銀色をした金属製の容器――バケツが握られていた。

 

「バケツか。エミリアたんってば、こんなときでも精が出るね。歌の練習?」

 

「ふふっ、何言ってるのよ、スバルったら。確かにバケツ先生にはいつも歌の練習を手伝ってもらってるけど、今はそんなときじゃないことぐらいわかってるでしょ」

 

「そりゃそうだ。じゃあ、なんでバケツ?」

 

「それは、バケツ先生に本来のお仕事をしてもらうためなのです」

 

スバルの疑問にえへんと微笑み、エミリアが手にしたバケツを突き出す。と、バケツにはなみなみと水が張っており、なるほど、バケツ先生本来のお役目復帰だ。

ただ、そのお役目が果たせたこと自体に疑問が浮かぶ。

 

「これ、水ってどっかから湧いてるの?塔の周りって砂海しかないんじゃ?」

 

「あ、それは勘違いよ、スバル。塔のずっとずーっと向こうまでいけば、大瀑布があるはずだもの。そこには水がすごーくいっぱいあるから……」

 

「そこまでして、ほんのバケツ一杯の水を汲んできてくれたのか。俺のために」

 

「スバルのためならそのぐらい全然してあげるんだけど、そうじゃないの。実はね、あの緑部屋の精霊が綺麗な水を出してくれるのよ」

 

すごいでしょ、とエミリアが何故か自慢げだが、スバルとしてはその真相の少し手前にあった彼女の一言が嬉しかった。

スバルのために大瀑布に水汲みすることもいとわない。それは、嬉しかった。

 

「その喜びを噛みしめつつ、だけど……あの部屋の精霊ってホントすげぇな。傷の治療だけじゃなくて、そんなことまでしてくれんのか」

 

「水を出すだけなら、私やベアトリスも魔法でなんとかできるんだけど……」

 

「砂丘や監視塔の周囲は瘴気の影響が濃すぎるかしら。その瘴気に長く触れたマナを飲み水に使うのは、できれば避けた方が賢明なのよ」

 

「っていうことなの」

 

「なるほどな」

 

エミリアの説明をベアトリスが補足し、スバルはその内容に納得する。

ここまでの旅の道程、普通の旅路であれば重要視されるべき飲料水の確保、この問題はかなり魔法の力に頼ってクリアさせてもらってきた。

マナさえあれば、わざわざ重たい水を必要量運ばなくても、容器だけ用意しておけば自由に作り出すことができるのだ。魔法の利便性ここに極まれり、である。

 

「大気汚染じゃないけど、瘴気が原因になるマナ汚染みたいなことって考えられるのか。やっぱり、飲み水とかで取り込むと体に悪かったり?」

 

「体に劇的な変化があるかはわからないかしら。でも、たくさん取り込めば、その分だけ内に瘴気を溜め込むことになるのよ。そうなったら、最悪、スバルのみたいに魔獣を引き寄せる体質になってもおかしくないかしら。身震いするのよ」

 

「自分で言うのもなんだけど、この体質って結構生きづらいからな……」

 

要所要所でこの体質を活用している感のあるスバルだが、土壇場以外でこの体質が役立つことはまずない。それどころか、ちょっとハイキングで山に入ったら、うっかり魔獣に囲まれかねない危険性だってあるのだ。

魔獣を引き寄せる体質など、ないならない方がずっといいに決まっている。

 

「それで、水はできるだけ緑部屋の精霊が浄化してくれた湧き水を使ってるの。スバルが寝てた二日間も、そうやって過ごしてたのよ」

 

「へー、そうだったのか」

 

プレアデス監視塔内の、知られざる生活環境の説明にスバルは感心しきりだ。

と、その湧き水の話を聞かされて、今さらながらスバルの中に当然の疑問が浮上する。それは先の、シャウラへの警戒とも無縁ではない内容だ。

 

「水はいいとして、食べ物はどんな感じなんだ?食料は一応、砂海越えのために街で買い溜めしてきたけど、トラブルもあったし」

 

「安心して。あの騒ぎがあっても、食べ物がどこかに飛んでっちゃったりしなかったから。全部、ちゃんと竜車に残ったまま。だけど……」

 

「それをどううまく分配しても、一ヶ月もてばってとこだよな」

 

飲料水を除いても、竜車に積載できる重量には限りがある。それに、食糧が必要なのは乗員であるスバルたちだけではない。騎竜である、パトラッシュやジャイアンにも食事は必要だ。それを踏まえて、積み込んだ食糧は暫定一ヶ月分――。

命からがら、塔を脱出できればいいという話ではない。このプレアデス監視塔を正しい意味で攻略し、無事に最寄りの街へ帰り着くための期限が一ヶ月なのだ。

 

それが、このプレアデス監視塔を攻略するために使える、スバルたちの期限。

 

「――――」

 

「つっても、一ヶ月もこんなところにいるつもりないけどね」

 

「スバル……」

 

一瞬、不安げな目をしたエミリアにスバルは笑いかける。

期限はあり、難題は多数、しかし、それに尻込みしていても始まらない。

 

「なにせ、たった一日で……まぁ、俺はスタート出遅れてるから、正確には塔について三日目だけど、それで一個目の『試験』はクリア、二個目の『試験』もエミリアたんが楽々と突破してんだ」

 

「楽々、ではなかったけど……」

 

「ここははったりを利かせる場面だから、楽々って言っていいの」

 

真面目なエミリアに偉そうに指を立て、それからスバルは繋いだままのベアトリスの手を引くと、正面に立たせた少女の頭に自分の顎を乗せた。

そして、スバルとベアトリス、二人の視線がエミリアを見上げる。

 

「相手が、過去最強の『剣聖』だろうと関係ねぇよ。あんな眼帯セクハラ箸野郎、俺の小細工とベア子の力でけちょんけちょんにして、さっさと突破してやるぜ」

 

「そうかしら。けちょんけちょんなのよ」

 

「けちょんけちょん……」

 

「けちょんけちょんってきょうび聞かねぇな」

 

「ズルい!今の!スバルとベアトリスが言ったのに!」

 

スバルとベアトリスの連携した罠に、エミリアが顔を赤くして怒る。

馴染みのやり取りに新たなパターンを混ぜ込まれたエミリアは、ほんのりと不満げな様子を引きずりながら、仕方ないと言いたげに吐息をこぼした。

 

「ん、わかった。わかりました。なんだか、スバルに言われるとそれが簡単なことみたいに聞こえちゃう。でも、それがすごーく頼もしいのよね」

 

「ああ、信じて期待して頼みにして愛してくれていいよ。俺、そのための君の騎士」

 

「そうよね。頼りにしてます、私の騎士様」

 

「今、愛してって部分が否定されなかったから動揺する……」

 

「――?」

 

軽口に交えた愛の囁きがすんなり受け流され、肩透かしを味わった。かといってまともに受け取られても動揺するので、やらなきゃいいだけの話なのだが。

ともあれ――、

 

「今さらだけど、エミリアたんに水汲みなんてさせてんのもおかしな話だよね。これこそ騎士の仕事……っぽくはないけど、主従の従側の仕事のはずだし」

 

「いいのよ。スバルは私の騎士様だけど、別に主従の関係になりたいわけじゃないもの。スバルは私の隣にいてほしいの。それだけ守ってくれたらいいから、病み上がりの間は大人しく甘えててね」

 

「なんなの、エミリアたん!そんなに甘やかされると嬉し死にするよ!?」

 

「それに、今日の夕食当番は私だから!一から十まで全部やりたいの!」

 

「どっちも本音っぽいのが、エミリアの難しいところかしら」

 

ふんすっ、とやる気満々なエミリアの発言にベアトリスがため息をついた。それからベアトリスは、スバルの顎を頭に乗せたまま手を振り、

 

「ほら、エミリア。お前がいると、スバルがいつまでも落ち着かないのよ。食事の準備も遅れ続けるし、早くいった方がいいかしら」

 

「そう?わかったわ。それじゃ、またあとで。期待しててね」

 

「『楽しみ』にはしておくのよ」

 

骨抜きにされるスバルに代わり、ベアトリスがエミリアを送り出す。その際、エミリアの言葉へのベアトリスの返事が、両者の微妙な認識の違いを反映していた。

 

「ご飯の準備ができたら呼ぶから、あんまり遠くにいかないでね」

 

「四層にはいるつもりかしら。それでも、聞こえるかどうかは……」

 

「わかった。おっきな声で呼ぶから」

 

「……わかったのよ」

 

ひたすらに微笑ましいやり取りを交わし、バケツ片手に手を振るエミリアが通路の奥へ消えていく。それを見届け、ベアトリスは頭に乗せたスバルの顔を見上げた。

 

「それで、そろそろ落ち着いてくれてると助かるかしら」

 

「……ああ、大丈夫だ。なんだかよくわからないんだが、やたらとエミリアたんが愛おしくてな。まるで、エミリアたん以外の全てが色褪せて見えるような世界を経て、本当のエミリアたんの笑顔と再会を果たしたような気分だった」

 

「いつも以上に何を言ってるのかわからないのよ!それに……」

 

「それに?」

 

決め顔で、エミリアへのほのかな想いをポエミーに語ったスバル。そのスバルにベアトリスは背中を預け、すっぽりと胸の内に収まると、

 

「エミリアばっかりズルいかしら。スバルはベティーのパートナーなのよ。ちゃんとその自覚を持って、振る舞ってほしいかしら」

 

「お前、ホントに可愛いなぁ」

 

「みぎゃーなのよ!」

 

あんまり可愛いことを言うので、スバルはベアトリスを抱き上げて頬擦りし、そのままくるくると廊下で回り始める。

 

「大丈夫、安心しろ。ちゃんとお前も愛おしいぞ。なんていうか、今、世界の全てが美しく見えるんだが、その中でもお前はとびきりだ。ベア子、愛してる!」

 

「わ、わか、わかった、わかったから!わかったから下ろすかしら!もうわかったって、わかったって言ってるのよー!」

 

そうして、顔を赤くして叫ぶベアトリスだが、スバルは下ろしてやらない。

そのままくるくるくるくると、スバルはベアトリスを抱えたまま、四層の廊下を楽しく楽しく回り続けた。

 

二人の楽しそうな声は、エミリアが「ご飯できたわよー!」と大きな声で呼びかけるまで、しばらく長く続いていたのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

さて、そんな食事までの時間、何もくるくる回るだけに費やされたわけではない。

ベアトリスプレゼンツによる四層の散策と案内は、意識のなかったスバルより二日分だけ塔生活の先輩である彼女によって、かなりしっかりやっていただけた。

 

とはいえ、元々、監視塔なんて名前で呼ばれている場所だ。

居住性に気を遣われているはずもなく、実際、居住区扱いの四層にしても住み心地を良くするための工夫は何もない。特別なのは治療用の施設である緑部屋と、三層と二層へそれぞれ通じる階段が設置された大部屋だけだ。

あとは下層へ通じる大階段があるのを除けば、いくつもの小部屋が不揃いな間隔で点在するばかりであった。

 

「地図がないからあれだけど、あったら絶対に気持ち悪い配置だわ、この塔。俺、こういう設計段階でガタガタな感じの建物とかすごい嫌なんだよ……」

 

「何を言ってるやら……大体、『試験』の性質があれだけ意地悪いのに、作った人間の性格の歪みを今さら気にしても仕方ないかしら。今さらすぎるのよ」

 

「あ!今の、お師様の悪口ッスよ!このチビッ子、塔作ったお師様の悪口言ったッス!いいんスか、お師様!チビッ子だからって、甘くしてやったらつけ上がるだけッスよ!ここは大人げないレベルで叱ってやるべきッス!で、余った甘やかしはあーしにくれたらいいッス!どんとこいッス!」

 

「うるせぇ……」

 

鬼の首を取ったような勢いで、ベアトリスの揚げ足を取りにいくシャウラ。というか、ベアトリスの発言は揚げ足でもなんでもないのだが、説明が面倒だ。

いちいち、スバルとお師様と『賢者』の違いを講釈するわけにもいかない。その勘違いを、いいように利用している立場としてはなおさらに。

 

「こーら、いつまでも悪ふざけして騒いでないの。シャウラも、大人しくしてて」

 

「えー、納得いかねッス。差別ッス。チビッ子差別ッス~」

 

「本当に悪いことしたんなら、スバルだってベアトリスを甘やかしたりしないでちゃんと叱ります。そうしないってことは、そうじゃないってことなの。それに、小さい子が大事にされるのは当たり前のことよ。私もシャウラも、それは我慢」

 

「ベティーより年下のくせに、当たり前のように子ども扱いされるのが納得いかないかしら……」

 

「まあまあ、ここは年上の度量を見せつけてやれ」

 

不満げなベアトリスを宥めてやり、スバルは苦笑する。

食事の準備が整ったとのエミリアの呼びかけに、一同が集まったのは四層にある大部屋――食糧など、竜車から下ろした積み荷が置かれた場所だ。

食事の場には一応、意識がないのが原因でこられないレムとアナスタシアを除いた全員が揃い、顔を合わせた形になっている。

あの二人以外の全員、つまり――、

 

「――食事の前に一言だけ、よろしいでしょうか、エミリア様」

 

と、そう切り出したのは、一番遅れて部屋にやってきたユリウスだ。

緑部屋に放り込まれる形で治療に専念していたユリウスだったが、食事の場にこうして顔を出したのは何も空腹が理由ではあるまい。

食事を緑部屋へ運ぼうとした提案を断ってまで、この場へやってきたのだ。

そのユリウスの問いかけに、場を仕切っていたエミリアは「ええ」と頷くと、

 

「もちろん、どうぞ。でも、別に私に断る必要なんてないのに」

 

「アナスタシア様が不在の今、この場で最も尊ばれるべき方はエミリア様です。それに、すでに私の勝手でご迷惑をおかけしたあと。この期に及んで、とは参りません」

 

エミリアの言葉を受け、首を横に振ったユリウスの舌が流麗に冴える。

かしこまった態度、律儀な考えはいよいよ普段の彼らしい。だが、その発言に対して、あまり好意的に受け取れない立場のものもこの場にはいる。

 

「殊勝な心掛けね。そのぐらい、前からわかっていてほしかったけど」

 

「ラム……」

 

「無謀で意地っ張りなのはバルスだけで十分よ。特に、まともだと当てにしていた人に先走られては失望して当然でしょう。今後は、ないと思わせてほしいわね」

 

辛辣にユリウスの独断を評したのは、冷然とした面持ちでいるラムだ。

その声と瞳の冷たさはいつも通りだが、表情の硬さだけは普段より強く思える。厳しい言動にも、彼女らしい気遣いが薄れているように思えた。

 

「ラム、今のは言いすぎよ」

 

「……申し訳ありません、エミリア様。以後、気を付けます」

 

その、辛辣さを見咎めたエミリアに、ラムはすぐ謝罪し、ユリウスにも目礼した。そうして引っ込められれば、それ以上の追及はできない。

それに、いつもより余裕のないラムを責めることも間違いだ。彼女はユリウスを嫌っているわけでも、憎んでいるわけでもない。ただ、本気でレムを救いたいと願い、そのために心の全てを費やしたいと望んでいるだけなのだ。

 

「ラム女史にも、他の方々にも、大変なご迷惑をおかけしました」

 

それがわかっているからユリウスも、ラムの辛辣さは自身の行いの報いと戒め、反論せずに頭を下げて事を収めた。

食事の前の時間を取り、ユリウスがしたかったことはこのケジメだ。

ユリウスの独断行動、その真意はスバルにも何となくわかっている。だから、スバルは彼を許せたが、それをユリウス自身が許せるかどうかは別の話だ。

そのための、最初の一歩として、これは必要な儀式だった。

 

「はい!ユリウスは謝りました。私は、その謝ってくれた気持ちを受け入れます。それで、このことで何が悪いってお話は私の中ではおしまい」

 

手を叩いて、エミリアがユリウスの謝罪にそう言った。そのエミリアの言葉に、スバルはもちろん、ベアトリスも頷く。

 

「俺はまぁ、言いたいことは言ってやったあとだし、これ以上は武士の情けで」

 

「ベティーも、ブシノナサケなのよ。このあとの働きで取り返せばいいかしら」

 

「――すまない」

 

二人の返答に、瞑目したユリウスがそれだけ呟く。

そのスバルとベアトリスに続いて、ユリウスの謝意に反応したのはメィリィだ。彼女は床に足を崩して座ったまま、自分のお下げを指でいじくり、

 

「死なずに済んだんだしい、それでよかったんじゃなあい?わたしは別に、騎士のお兄さんのことは気にしてないわあ」

 

「お師様がノープロって言ってるんで、あーしもノープロッス。ノーパソッス」

 

「ノーパソは違ぇだろ……」

 

無関心に思えるメィリィの言葉は、気遣ったものというより本心のようだ。それに追従するシャウラも、おそらく本気でどうとも思っているまい。

塔の関係者であり、スバルと気持ちメィリィ以外に心を開く素振りの見えないシャウラはともかく、メィリィの立場もややこしいものであった。

そして――、

 

「――――」

 

直接の謝罪にも何も言わなかったラムだけは、許すとも許さぬとも言わなかった。

ただ、彼女は羽織った白いローブの前を合わせ、食事に目を落としただけだ。

そしてそれをユリウスも静かに受け入れる。ユリウス以外の、スバルたちも。こればかりは当人同士の問題、余人が口を挟むべきところではないのだから。

 

「――それじゃ、改めてご飯にしましょう。今日は、私とラムで準備しました」

 

「火は使わせていないから、少し男らしい以外はまともなはずよ」

 

「ええ、そうよ。すごーくまともなの。……まともって変な言い方じゃない?」

 

気を取り直し、音頭を取ったエミリアの口上。その後に続いた補足にエミリアは首を傾げたが、ラムは何のフォローも入れなかった。

ともあれ、そんなやり取りを経て、監視塔での貴重な食事が囲まれる。

 

竜車に積み込まれた食糧の多くは、干し肉や燻製などの保存食である。当然、大味であったり、食事の質が偏ることは避けられない――が、ここでも魔法が活躍する。

エミリアの得意な氷魔法を応用すれば、竜車に備え付ける形で簡易的な冷蔵設備を運用することが可能であり、新鮮な食材を用意することもできるのだ。

おかげで果物や生鮮食品も少なからず保存が可能なので、食事事情に関してはかなりの安定性を保つことができている。

 

「それでも、痛みやすい材料から早く使ってあげないとダメだけど」

 

「それを悩めるのも贅沢って話だよ。ホント、E・M・S(エミリアたん・マジ・食の女神)!旅のおかげで、エミリアたんの料理の腕もかなり伸びたし、できれば一生、俺のために味噌汁を作ってほしいぐらいだぜ」

 

「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」

 

とは、旅の間に料理の腕をメキメキ上げたエミリアとのやり取りだ。

エミリア自身の願いもあり、この旅程での食事は各自持ち回りの当番制を採用していた。もちろん、いきなりエミリアに単独で料理をさせるようなやり方ではなく、ちゃんと誰かしらのフォローがつくという形での試みだ。

 

おかげで、もうここにはダイスキヤキを真っ黒に焦がしていた少女はいない。

何故なら、火を使わせない調理を主に担当してもらっていたからである。

 

ちなみに、今回の旅のメンバーでまともに料理ができたのは、一年間の使用人生活で料理スキルを身につけたスバルと、何をやらせてもそつなくこなすユリウス。そして意外なことに、まともな料理もやれば作れるラムの三人だった。

なお、プリステラへ向かう道中では、スバル・オットー・ガーフィールの男三人がジャンケンで料理当番を決める方式だった。

それはともかく――、

 

「――じっと見て、何か文句でもあるの?」

 

「……いや、一ヶ月も旅しててあれだが、いまだにラムが料理できるの慣れねぇなと」

 

「何を言い出すかと思えば……」

 

意味深なスバルの視線と言い訳に、ラムが呆れを隠さず嘆息する。

 

「屋敷でラムが厨房に立たないのは、できないからじゃなくてやらないだけよ。蒸かし芋ならいざ知らず、普通の料理に腕を振るうつもりはないわ。その仕事は、フレデリカとペトラに譲ってあげる」

 

「そか。……まぁ、そうだな」

 

「ええ、そうよ。……なんで、蒸かし芋だけは特別なのかしら」

 

自分の発言に自分で疑問を抱いた風に、ラムが難しい顔をしている。その横顔を眺めながら、スバルもまたほのかな嘆息をこぼした。

 

あらゆる家事技能において、ラムはレムに後れを取っていた。

だが、レムの記憶が世界から剥がされたのを切っ掛けに、スバルはその関係性が額面通りの意味ではなかったことを悟っている。

事実、ラムはメイド仕事に留まらず、何をやらせても相応にうまくやるはずだ。そしてそのことと、レムの喪失とは能力的にはおそらく関係ない。

 

つまり、ラムはレムが健在だった頃から、やろうと思えば今と同じようにやれていた。そうしてこなかったのは、彼女の生来の怠け癖が原因――では、あるまい。

 

「――――」

 

そのことを、スバルはあえて掘り起こしたいとは思わなかった。

今のラムには、きっとわからないこと。そしてその真意は、レムが無事に戻ってきたあとも、語られる必要などないことなのだと、そう思う。

それにしても、だ。

 

「想像ついたけど、お前の食い方には品が欠片もないな」

 

「もぐもぐ……あ?お師様、今、なんか言ってたッスか?」

 

顔をしかめたスバルに、頬袋をぱんぱんにしたシャウラが目を瞬かせる。

この世界、とかく自分の美少女性を無駄遣いする人物が少なくないが、シャウラはその中でもトップクラスだ。リリアナに匹敵すると言っていい。

手掴みで食事を口に運ぶシャウラ、その様子にスバルは頭を掻いた。

 

「食いながら口を開けて喋るな。食うか喋るかどっちかにしろよ」

 

「じゃあ、お師様とお喋りするッス!あーし、お師様となら永遠に話せるッス!」

 

「この流れでお喋りの方を選ぶテンプレ外しか。……静かに食べろ」

 

「あーい、ッス」

 

てっきり、食べるのを続けるかと思いきや、スバルとのお喋りを優先しようとする忠犬精神には頭が下がる。実際、指示に素直に従う様子といい、扱いやすいという意味ではシャウラの危険度は大きく低下するのだ。

本当に、当人の性質と実力と危険性と、それが釣り合わない相手だ。

 

「裸のお姉さんってばあ、すごい食べっぷりよねえ。そんなにお腹が空いてたのお?」

 

「減ってたってより、これがうますぎるッス!あーし、あんまし食に執着ないと思ってたッスけど、この味のためなら半魔に弟子入りすんのもいとわねッス!」

 

「え?弟子入りって私に?料理の?」

 

メィリィの指摘にも手を止めず、シャウラは口の中のものを一気に飲み下し、エミリアをびしっと指差した。それに驚くエミリアへ、シャウラは何度も頷くと、

 

「これだけの料理、なかなかのものッス。あーしの目は誤魔化せないッス。あーしも料理の腕上げて、お師様の胃袋をぎゅっと掴んで今夜は寝かさないぜッス」

 

「野心が駄々漏れねえ」

 

「シャウラ、あなたの気持ちはわかったわ。でもね、料理の道はすごーく厳しくて険しいのよ。それでも覚悟があるなら、私も、真剣に弟子のこと、考えてみる」

 

「エミリアたんも変なとこでたまに図々しいな」

 

大体、今日の料理も七割ぐらいはラムの手柄だろうに。料理の極意を知った風なエミリアと、素人料理に感銘を受けすぎなシャウラがわりと滑稽だ。

 

「言っちゃなんだが、世界にはまだまだうまいものがたくさんあるぞ。エミリアたんの料理はそりゃ……愛情だけで俺の中では満点だが、そこを除いたらまぁ普通だ。お前、普段はどんな食生活なんだよ」

 

「よくぞ聞いてくれたッスね、お師様。あーしの食生活は、それはもう尋常じゃないッス。大体、仕留めた獣を焼いて食うだけッス」

 

「仕留めた獣って……外の魔獣とか?」

 

スバルの疑問に、シャウラが腕を組み、豊満な胸を張って深々と頷く。

その、魔獣中心の食生活の悪環境は言うに及ばずだ。スバルはベアトリスに振り返り、「どうなの?」と直球で質問した。

 

「さっき、瘴気汚染のマナで作った水は飲めないみたいな話したばっかだけど」

 

「魔獣の肉が、体に良いか悪いかなんて考えたくもないのよ。ただ、すぐに悪影響があるってほど、危険なものとも言われてはいないかしら」

 

「記録によれば、過去に魔獣を食することを目的とした研究者がいたそうだ」

 

ベアトリスの眉間に寄った皺をスバルが指でほぐしていると、興味深いと同時に結構あれな事例をユリウスが説明した。

彼は無言ながらも、先を促すスバルたちの視線に片目をつむり、

 

「承知の通り、魔獣は人間に襲いかかる習性がある。行軍中や旅の道程、食糧に窮することがあったとしても、危険地帯を縄張りとする魔獣は容易に発見できるんだ。なにせ、隠れ潜むという考えがない。魔獣は必ず襲いかかってくる。それを倒せば、安定して食糧が得られると、そう考えたものがいても不思議はない」

 

「で、うまくいったのか、それは」

 

「食糧事情などの改善を求め、紆余曲折の試行錯誤が重ねられたらしい。だが、安定した成果は上がらなかった。無論、食べて毒となるわけではないが……」

 

「ないが?」

 

「かなり、味に問題があるらしい」

 

味の問題、と言われてスバルは呆れた顔をした。

味など最悪、香辛料でも何でもぶっかければ誤魔化せるのではないか。確かに雑食性の動物の肉は生臭いと聞くが、毒でないならもう少しやりようがあったはず。

 

「あくまで文献で見た限りの話だ。シャウラ女史、実体験ではどのような感想を?」

 

「汚水に浸した砂みたいな味がするッス」

 

「あ、香辛料じゃダメなやつだ」

 

「お師様が食べたいなら、今度、あーしが餓馬王の丸焼き作ってあげるッス。クソマズくてやみつきになるッス。嘘ッス」

 

想像のつかない味わいらしく、シャウラの食事の勢いもこれでは責められない。

餓馬王の丸焼きについては丁重に辞退させてもらった。そもそも、丸焼きにする以前にあの気持ち悪い魔獣は全身が燃え上がっていたし。

 

「しかし、食糧事情は悩み所だったんだが……」

 

ぽつりとこぼし、スバルは頭を抱える。

視線の先では、泣き出しそうな満面の笑顔で食べ物を口に詰め込むシャウラと、そのシャウラの食べっぷりに母性を刺激され、料理を追加しかねないエミリアがいる。

 

一ヶ月、食糧の残量も含めた試算の制限時間だったが。

シャウラがこのペースで食事に励まれると、もっと減るかもしれないなとスバルは思った。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

食事が終わり、湧き水を使った水浴び(主に体を拭くだけ)が済むと、この日は解散、就寝時間が訪れる。

 

状況を鑑みれば、夜通し塔の攻略会議に紛糾するのが正しい攻略組としての姿なのかもしれないが、現状、それで打開案が出るとも考えにくい。

明日のことは、明日の自分に期待――とは、少し調子のいい考えかもしれないが。

 

「実際、ぽんと解決案が飛び出る問題ってわけでもねぇ。時間は取りたいとこだ」

 

『試験』の内容が内容だ。最悪、明日も無策で二層に挑む可能性も考えられる。

考えるより、当たって砕けろ作戦――本当に砕かれては困るが、少なくとも、あの試験官である初代『剣聖』に、こちらを殺すつもりはひとまずないと思えた。

あるいは、会話から攻略の糸口を見つけ出せるかもしれない。エミリアが、結果的に話し合いで譲歩の点を引きずり出してくれたように。

 

「そうするにも、回る頭の余地は残しておかねぇとだ。だから、しっかり食って、しっかり休んで、万端の状態で臨まないとな」

 

両手で頬を張り、スバルは様々な不安要素を噛み殺し、そう考える。

おおよそ、エミリアたちもスバルの意見に賛同――というより、消極的に今はこれしかないといった状態であった。

そんなわけで、今夜は解散。各々、寝室として使える竜車に戻り、そこで明日に備えて眠りにつく流れになるのだが。

 

「スバル、ベティーはエミリアたちと一緒に竜車にいるのよ」

 

「おお、わかった。悪いな、ベア子。夜更かしするなよ。背が伸びなくなると、小さいままになって……それ可愛いな。よし、夜更かししろ、ベア子」

 

「心配しなくても、ベティーはこれ以上大きくなったりしないかしら。ずっと可愛いままなのよ。だから、早く寝てもへっちゃらかしら」

 

欠伸をして、ひらひらと手を振るベアトリスと別れる。去り際、ベアトリスはエミリアと手を繋いで、今夜はおやすみとスバルの下を離れていった。

 

「エミリアたん、ベア子をよろしく。また明日」

 

「ん、また明日ね。……スバルも、あんまり夜更かししちゃダメよ」

 

夜更かし自体は責めずに、エミリアはそれだけ言って、大階段を下層へ向かった。それを見送り、スバルは軽く背伸びすると、四層の通路を靴音立てて進む。

目的地はわかりやすい。蔦に覆われた扉のある、緑部屋だ。

そこで――、

 

「スバルか?」

 

「……と、お前か」

 

部屋の前、そこで鉢合わせになったユリウスが、スバルの姿の目を丸くする。

ちょうど、彼も緑部屋に入ろうとしていたところで、やってきたスバルの様子に目を細め、すぐに納得した風に顎を引いた。

 

「なるほど。どうやら、君も私と同じ目的でこの部屋へきたようだ」

 

「目的の相手は違うだろうけどな。……俺は、今夜は譲ろうか?」

 

「いや……」

 

スバルの提案にゆるゆると首を振り、ユリウスは閉じた扉へ目を向ける。それからしばしの沈黙があり、ゆっくりと黄色の双眸がスバルへと戻された。

そして一歩、扉を譲るようにユリウスが後ろへ下がる。

 

「この場は、私こそ君に譲ろう。思えば、君は今朝まで二日も意識がなかった。その無事の報告だけはできたが、きっと、彼女も夜を焦がれていたことだろう」

 

「……まぁ、譲ってくれるっつーんなら素直に譲られるけども」

 

典雅な言い回しに頭を掻いて、スバルはちらとユリウスを見やる。

その顔に無理をしている素振りは見つからないが、元々、スバルは他者の気持ちを推し量るのが苦手だ。表情の裏に真意を隠されれば見抜けない。

 

「お前はそれで平気なのか?傍に、ついててやりたいだろうに」

 

なので、スバルは仕方なく、嘆息と共に素直な考えを口にした。

それを受け、ユリウスは「そうだね」と薄く微笑み、

 

「できれば、アナスタシア様が目覚めるのを傍で見守りたいのは事実だ。……ただ、目を覚まされたとき、最初になんと声をおかけするか。それに、迷いを抱いていることも事実だよ。情けないことだが」

 

「第一声は、心配してました。起きてくれてよかった、じゃねぇの?問題は第二声からだろ。それは……まぁ、お前次第だな」

 

「ふ」

 

「なんで笑ったんだよ。結構真面目に答えたってのに」

 

それなりに真剣な答えだったのだが、ユリウスのお気に召さなかったご様子だ。その反応に心外な顔をするスバルに、ユリウスは踵を返し、背を向けた。

 

「君の発想は自由だ。――それが、私は羨ましい」

 

「馬鹿って言われてるみたいでカチンとくるな。おい、どこいくんだ?」

 

「この場は君に譲るんだ。竜車へ戻り、休むとする。今日は少し、疲れたのでね」

 

背中越しに手を上げ、歩き去るユリウスがそう言った。

少し疲れた、と『試験』のことを遠回しに言える程度には回復したのか、それともそれがただの強がりなのか、やはりスバルにはわかりづらい。

わかりづらかったが――、

 

「――ユリウス、やっぱり、お前はアナスタシアさんが起きるのを待った方がいい。俺の方の用事が済んだら起こすから、そうしろ」

 

「――――」

 

「言っとくが、後悔した回数は俺の方がきっとお前より多いぜ。その俺からのアドバイスだ。ちょっとは真に受けてくれや」

 

通路の奥へ消える背中に、スバルは最後までそう声をかけた。それをユリウスがどう受け取ったか、返事はなかった。しかし、ユリウスならば悪い方向には転がるまい。そのぐらいの信用は、少なくともスバル側からはあった。

 

「……邪魔するぞ」

 

首を振り、ユリウスへの配慮を打ち切ると、スバルは扉を押し開け、緑部屋の中へと足を踏み入れる。ぼんやり、淡い光によって照らされる室内は、相変わらず多量の緑に支配されており、蔦で編まれたベッドの上には二人の少女が寝かされている。

手前のベッドにアナスタシア、そして奥のベッドにレムの二人だ。

 

「そして、一番奥にはお前がいると」

 

「――――」

 

見舞いにやってきたスバルを見上げ、小さく喉を鳴らしたのはパトラッシュだ。漆黒の地竜は、まるでスバルがくることを知っていたかのように自然な態度。

おそらく、察しのいいパトラッシュはスバルがくるのがわかっていたのだろう。自然と、自分の寝そべる蔦の寝床を半分開け、スバルが座るスペースを開けている。

 

「お前ってヤツは本当に……傷も、だいぶよさそうだな」

 

苦笑し、スバルはパトラッシュの黒い鱗を掌でなぞった。

地下での餓馬王との一戦、その負傷の形跡も三日間の治療でかなり良くなっている様子だ。元々、パトラッシュは自分の不調をスバルに悟らせないようにするところがあるが、今回は強がりではなく、順調に回復してくれているらしい。

 

「本当に、この部屋の精霊様々だ。感謝してもしきれねぇや。この部屋がなかったら、どんだけ大変なことになってたかわかりゃしねぇし」

 

パトラッシュの負傷を幸いだったとは口が裂けても言わないが、アウグリア砂丘を乗り越えるための被害は最小限に抑えられたのは事実だ。

一行の負傷者はスバルとパトラッシュの二名だけ。それも、この緑部屋の効果で無事に取り返せる範囲、上々以上の成果といえる。

 

二層の『試験』で負傷したユリウスとアナスタシアの治療も含め、緑部屋の存在には救われ通しだ。まるで、誰かがこのために誂えてくれていたかと思うほど。

 

「さて」

 

パトラッシュともひとしきり親愛を確かめたところで、スバルは一度、軽く深呼吸してから奥の寝台――レムの下へと向かった。

ベッド脇にスバルが立つと、しゅるしゅると音を立てて蔦が集まり、寝台のすぐ横に座るための椅子を作り出してくれる。

 

「至れり尽くせりにも程があるな」

 

緑部屋の精霊に感謝が尽きないと言ったばかりでこれだ。これではまるで、よくしてもらうためにおべっかを使ったみたいではないか。

そんなつもりではなかった、とだけ断り、スバルは寝台の横につく。

 

「レムが夜を焦がれた、なんてユリウスは言ってたが……」

 

それは間違いだ。

だって何のことはない。レムに、こうして誰にも邪魔されずに話せる時間を待ち焦がれていたのは、彼女の方ではなく、きっとスバルの方なのだから。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――スバルが異変に気付いたのは、軽く肩を揺すられる感覚が切っ掛けだった。

 

「――う?」

 

俯いていた顔を上げ、スバルはその場で何度か瞬きする。反射的な肉体の行動に反して、意識が追いついてくるのがやけに遅い。

ゆっくりと、浮上してくる意識。それが現実に追いついて、気付く。

 

「寝てた、のか?」

 

顎に手を当て、スバルは自分の意識が眠りに落ちていたことに驚かされる。

場所は緑部屋の室内、スバルの体はレムの寝台の脇、椅子に座った姿勢のまま眠りこけていたらしい。だが、スバルの記憶と、椅子の形状がまるで違っている。

記憶にある蔦で編まれた椅子には背もたれもなかった。だが、今の椅子は眠るスバルを柔らかく支えるために大きな背もたれが作られ、その全身を包むような卵型の形状へと変化している。精霊の、おもてなしの精神が強く出過ぎていた。

おかげで過ごしやすすぎて、うっかり居眠りが本眠りになるところだった。

 

「俺も、そこそこ疲れてたってことか……っと、パトラッシュ?」

 

自覚のなかった疲労感を口にして、スバルは目覚めの原因――スバルの肩に、その長い尾を伸ばして触れたパトラッシュを振り返る。

草の寝床に体を丸めていた愛竜は、何事か訴えかけるようにスバルを尻尾で起こしたのだ。それが何を伝えたいのか、とスバルは眉を寄せ、

 

「――嘘だろ?」

 

パトラッシュの視線を辿り、スバルは椅子から飛び降りる。そして駆け寄るのは、緑部屋の扉側にある寝台――アナスタシアが寝ていたはずのベッドだ。

過去形なのは、そこにいたはずの彼女の姿が見当たらないためである。その事実にサッと、スバルは血の気が引くのを感じた。

 

「あ、あれだけユリウスに偉そうなこと言っといて……」

 

スバルが居眠りしたことが原因で、ユリウスをアナスタシアの目覚めに対面させてやれなかった。それは、字面で見ても格好がつかないどころの話ではない。

――否、問題はそれに限った話ではなかった。

 

「起きて、それで……?どこにいった?トイレか?俺も起こさないで?」

 

トイレに付き合え、などと言われなかったことが疑問なのではない。あのアナスタシアが――正確にはエキドナだが、それが、寝ているスバルに何も言わず、緑部屋を一人で抜け出した行動に疑問があった。

 

二層の『試験』直後、行方をくらますなどと――まさか、ユリウスと同じように、あのままレイドへ二度目の挑戦をしにいったとは思いたくないが。

 

「まだ、ベッドはほんのりあったかい。……探さねぇと」

 

蔦のベッドには、寝そべっていたアナスタシアの温もりがわずかに残っていた。パトラッシュが呼び起こしてくれたのもある。

おそらく、アナスタシアが出ていったのはそれほど前のことではない。

 

「パトラッシュ!レムを見ててくれ!あと、起こしてくれて助かった!」

 

「――ッ」

 

短く応じる声に手を振り、スバルは緑部屋の外へと転がり出る。

慌てる心中、アナスタシアの行く先は想像もつかない。スバルであれば、一の一番で確かめたいのはエミリアやベアトリスの無事――そう考えれば、彼女が向かう先はやはりユリウスの下になるのだろうか。

 

「いや、今は中身が襟ドナなんだっつの。そんな直球のはずがない。そしたら……」

 

人手が足りない。居眠りした自分の恥はあえて晒すとして、この場はとにかく、他の面子にも声をかけ、アナスタシアの居場所を――。

 

「――は?」

 

探さなければ、と階下へ呼びにいこうとしたスバルはそこで息を詰めた。

それは唖然、呆然とした反応から思わず漏れた吐息だ。あってはならないもの、ありえないものを見たときに漏れる、呆けた声であった。

 

「――――」

 

呆然と見開かれるスバルの視界を、何かが悠然と横切っていく。

それは白い両翼を広げ、さほど広いとはいえない通路を華麗に飛んでいく、一羽の鳥だった。

 

「なんで……塔内に、鳥が?」

 

いるはずのない鳥の姿に、スバルは呆然とそうこぼした。

プレアデス監視塔の壁面に、外と通じる窓のようなものは全くない。塔は完全に外界と隔絶された建物であり、内と外を繋げるのは五層にあった大扉だけだ。

少なくとも、スバルの認識ではそうだし、四層を案内してくれたベアトリスも、外に通じる窓の存在があるようなことを匂わせたりはしていなかった。

 

「――ッ!ま、待て!」

 

強い異変の気配に、スバルは遠ざかる鳥の後ろを慌てて追い始める。

一瞬、躊躇いがあった。この場で鳥を追うべきか、それとも誰かを呼びにいって、アナスタシアの不在と鳥の存在を打ち明け、助力を乞うべきか。

だが、スバルは鳥を追うことを選んだ。ここで鳥を見失うこと、その方がリスクが大きいと、言葉にできない直感の選択に従って。

 

「――――」

 

無論、飛ぶ鳥はスバルの呼びかけに羽を休めるような優しさはない。悠然と、スバルを置き去りにするように通路を飛翔し、奥へ奥へと姿が遠くなる。

それを懸命に追いかけ、追いかけ、やがて――。

 

「――!?消えた?んな、馬鹿な」

 

通路、その最奥へ辿り着いたところで、スバルは声を裏返らせていた。

監視塔の形状に沿って、ぐるりと円を描く形になっている四層の通路。だが、それは一周できるように繋がってはおらず、半周ほどのところで壁に阻まれてしまう。

時計で言えば、十二時の部分に壁があり、左右のどちらからでもそこで足を止められるといった様子だ。

それがわかっていたから、スバルは鳥が扉を開けられない限り、部屋に入り込むこともできず、必ず捕まえられると睨んでいたのだが――。

 

「壁にぶつかって、落ちた雰囲気もない。これは、どうなってる……?」

 

消えた鳥の足取り、ならぬ翼取りがわからず、スバルは困惑に周りを見回した。

残念だが、鳥が逃げ込めそうな部屋は見当たらない。出現も唐突ならば、その退場も唐突。まるで、夢でも見ていたかのように煙に巻かれた気分だ。

ただし、それが夢でないことはすぐ証明される。

 

「――これ、羽根だよな?」

 

通路を少し戻ったところで、スバルは床に落ちている白い羽根を発見する。確実とはいえないが、状況からして、これはスバルの追っていた鳥の羽根だ。

これが、鳥実在の証拠になる。これを持ち帰って、エミリアたちに「塔の中に鳥がいたんだ!」と訴えることも可能だが、何の解決にもならない。

消えたアナスタシアの手掛かりには何も――、

 

「いや、待て……ここに、羽根が落ちてるってことは」

 

何かあるはず。

そう考え、スバルは羽根の落ちていた周辺の床や壁を手当り次第に調べる。ぺたぺたと、石造りの床や天井、近くの部屋などを調べ、壁を押したりもしてみた。

しかし、どこにも仕掛けのようなものはなく、時間だけが過ぎることに焦りを覚える。やはり、人を呼んできた方が――と、思ったときだ。

 

「あ――!?」

 

羽根の落ちていた地点を掌でさらっていたところだった。指が、すぐ傍にあった壁を掠めたと思った瞬間、すっとその壁を素通りする。

目の錯覚ではない。おそるおそる触れれば、壁に触れられなかった。

 

「でも、ここの壁は調べたはず……」

 

調べ損ねたわけではないと、スバルが改めて壁に触れれば、その壁はスバルの腰から上には実体があり、それより低い地点にはまやかしが張られていたのだ。

入口を塞いだように見える幻惑――以前、ペテルギウスの率いる魔女教が、岩窟に作った隠れ家にこうした仕掛けがあったことを思い出す。

 

「――虎穴に入らずんば、虎児を得ず、だ」

 

這いつくばり、四肢をつけばまやかしの壁を潜ることができる。

スバルは一瞬の躊躇のあと、その壁を潜り、向こう側へと挑んだ。おそらく、鳥は低空飛行でここを抜け、この先へいったのだ。

これが外へ通じているか、あるいは塔の別の場所へ続いているのだとしたら――。

 

「ぷあっ!」

 

壁を抜ける暗闇、それは思ったより長く続かなかった。

まやかしの壁を潜り、抜けた先で思わずスバルは水面に顔を出したように呼吸する。理由なく、闇に潜るような心地で息を止めてしまっていた。

そして、その顔に外気が――冷たい風が、触れたことに気付く。

 

「――お」

 

目を開け、ゆっくりと闇から外の世界へ瞳を慣らした。

そこに広がっていたのは、想像を絶するほど高い場所から覗ける夜の砂丘の光景。それを見下ろしている、星が煌めく黒い空。

そして――、

 

「――――」

 

監視塔のバルコニーと呼ぶべき空間で、風に紫の髪をなびかせるアナスタシアと、そんな彼女の周りを囲む無数の鳥たちが待つ光景だった。