『異世界ぶーときゃんぷ』


 

涙を拭いてエミリアと合流し、今度はちゃんと果てがある廊下を通り抜けて、スバルは案内された屋敷の庭へと降り立っていた。

ちなみに双子は屋敷の仕事があるらしく、途中でそそくさと消えている。

 

「しかしやっぱでけぇな。屋敷もそうだけど、庭っていうより原っぱだ」

 

金持ち屋敷の庭園――漫画やアニメでたびたび登場する、立食パーティなどが行われる舞台に該当する場所だ。それらの場面そのままの情景に感嘆の息を漏らし、スバルはさっそくとばかりに屈伸運動を始める。

リズムに乗るスバルを見ながら、傍らのエミリアは不思議そうな顔をして、

 

「珍しい動きしてるけど、なにしてるの?」

 

「あん?準備運動の概念ってないの?体動かす前にあちこちの筋をほぐしとかねぇと、思わぬとこで靱帯損傷!アキレス腱断裂!とかするぜ」

 

「ふーん、あんまり見たことないかな。でも、確かに体を温めないで急に動かすとケガしやすいものね」

 

「準備運動しねぇのか、この世界の人間は。んじゃ、仕方ない。教えてやろうじゃあーりませんか。俺の故郷に伝わる、由緒正しい準備運動をな!」

 

自信満々なスバルの気迫に呑まれたのか、エミリアはややたじろぎながらも「そ、そう。じゃあ、ちょっとだけ」とこちらにならう。

スバルはそんな彼女に自分の隣に並ぶように指示。二人で横に並ぶと、屋敷に背を向ける形になりながら、太陽を正面に大きく息を吸い、

 

「ラジオ体操第二~!ちゃんちゃんちゃちゃんちゃんちゃんちゃん♪」

 

「え、うそ、なに?」

 

「手を前に伸ばして、のびのびと背伸びの運動~!俺に続け、フォローミー!」

 

戸惑うエミリアを叱咤しつつ、スバルは全国的に有名なラジオ体操をアカペラ。最初は怪訝な様子で真似していたエミリアだが、次第にやる気になってきたのか真剣な顔つきで運動に没頭。最後の深呼吸までしっかりやり通し、

 

「で、最後に両手を掲げて、ヴィクトリー!」

 

「び、びくとりー」

 

「よし、以上。初めてにしちゃ上出来だ。エミリアたんには『ラジオニスト初級』の称号を授ける。今後も励めよ!ファイト!」

 

異世界において、ラジオ体操第二の伝承者としてのスバルの人生が始まる。その記念すべき最初の弟子であるエミリアは、そんなスバルの熱意に対して微妙に白けた顔で吐息をこぼし、

 

「スバルの発言はともかく、運動がちゃんとしてたのは事実ね。体の中、マナが綺麗に循環していくのを感じるから」

 

「広めてくれていーぜ。ただし、ちゃんと歌と歌詞を正しく広める条件で」

 

あの音楽と掛け声あって、初めて成立するのだ。そこは譲れない。

いつになく真剣なスバルの態度に気圧され、エミリアは頷く。

 

「えっと……ちゃんちゃんちゃららら♪だっけ?」

 

「違う!ちゃんちゃんちゃちゃんちゃんちゃんちゃん♪だ!」

 

しばらく二人で「ちゃんちゃんちゃらちゃん」言い合う時間が続き、最終的にスバルが歌詞を紙に書くことで決着する。

その結論に達してふと、スバルはこちらの文字が向こうに通じるのか不確定である事実に思い至る。とりあえず、スバルがこの世界の文字を読めないのは確定しているのだが。

 

「あとで確認すっか。俺が書けるのなんて日本語とちょっぴ英語と……ギャル文字ぐらいだけど」

 

意外と熱心な暇つぶしの果てに会得しましたギャル文字。使う機会がけっきょく一度もなかったのが、スバル的にはかなりおいしい無駄スキル。

 

「それにしても、スバルってけっこう、体鍛えてるのね」

 

手首と足首を回して関節をいじめるスバルに、ふいにエミリアがそう呟く。

じろじろと上から下まで眺められて、治療目的ですでに全裸を見られた間柄だというのに、改めてそうされるとまたも照れる。

十分前の究極の恥辱も蘇り、スバルは頭を掻きながら、

 

「あー、まぁ、多少。ひきこもりだし、体鍛えるくらいやっとかねぇと」

 

「その、ひきこもりっていうのよくわからないんだけど。スバルってかなりいい家柄の出でしょう?武術とかならってたんじゃないの?」

 

「いや、俺はマジ普通の中流家庭出身だけど……俺が名家出ってどこ情報?高貴な家柄っぽい雅な気風が溢れ出してた?」

 

「好奇な感じは確かにするわね」

 

うまいこと仰る、とスバルは両手を挙げておどけてみせる。

と、エミリアはその掲げたスバルの両手を素早く掴み取ってきた。意図せぬ勢いで女の子に指を触れられ、スバルの喉が「ぁぅ」と凍る。

 

「この指もそうだけど、肌とか髪の見た目が理由。庶民とは暮らしが違いすぎる手よ。筋肉のつきかたも仕事でついた感じじゃないし……」

 

ふにふにと掌を弄ばれて、赤面しながらもスバルは納得。

髪や肌、とそれまで話題に上らなかった点を指摘されて自分の間抜けさを大いに思い知るところだ。

ただの異邦人、では済まない見た目の範疇を話題にされて、めまぐるしくスバルの頭は回転する。その間にもエミリアは、

 

「黒髪黒瞳。南方の流民に多い特徴だけど、ルグニカでその状態でしょう。見当たらなかったけど、従者とかもいたんじゃないの?あの衣装だって、見たことない材質だったもの……どう、当たりでしょ」

 

押し黙るスバルに勝ち誇るようなエミリアの微笑み。

その美しい見た目相応に妖艶な感じにそそられるものを感じつつ、内容を吟味してスバルは厳かに頷き、

 

「違うか違わないかで言ったら全然違うんだけど、どう言ったら傷付かない?」

 

「違うなら違うではっきり言ってくれなきゃ、私が恥かくだけじゃないっ」

 

「だいじょぶじょぶじょぶ。俺もなんだかんだで無知っぷりを連発してっから気にしない。むしろ二人で仲良く赤っ恥かこうぜ!」

 

「一緒に恥をかくのを恐がらないほど、関係を深めた記憶がないんだけど。話進まないから素直に聞くけど、スバルってなんなの?」

 

恥も外聞も取っ払った質問が飛んできて、スバルは「ふむ」と思い悩む。

ここで素直に「異世界召喚された穀潰しッス、サーセン」と言ってもいいのだが、この手の召喚ものでその発言をするのは『頭残念な人』認定される登竜門みたいなものだ。

ご都合主義満載の二次元なら、頭おかしい奴でも放り出されることはないだろうが、目の前のエミリアの真剣さを見ると、下手な答えで氷の彫像ぐらいはやらかしそうではある。

 

「となると、ここは妄想パターンBでいくのが最善かな」

 

「ぶつぶつ言ってるなんて、すごーく感じ悪い。答えるつもりないの?」

 

「あるよ!超ある!でも残念だけど、その答えの持ち合わせが俺にはないんだ。……なぜなら俺、記憶喪失で自分のこともなにもわからないから」

 

「ナツキ・スバルって名乗ってたじゃない」

 

「やべぇ!詰め甘ぇ!揺さぶりなしで異議られた!」

 

「まともに答えるつもりはなし、と。――まあ、事情があるなら詮索なんてしないけどね」

 

自分の浅薄さに頭を抱えるスバルを、意外とあっさりと見逃すエミリア。彼女は「さて」と一言残し、懐から緑色の結晶を取り出した。

 

「あ、それって」

 

「精霊が身を宿す精霊石よ。パックのことは、知ってたわよね」

 

「肝心な場面で居眠りこいた灰色の猫だろ?その後の俺の活躍とか、寝てたから知らないんじゃないの?」

 

エルザ迎撃の戦いの最中、姿を消した精霊の寄り代だ。

この世界で見るのは初めてだが、一回目ではちらと確認している。

その緑の結晶がふと、スバルの悪態に反応するかのように輝き出し、

 

「あいにく、ちゃんと騒ぎが片付いたあとでリアから話を聞いたからね。ずっと寝こけてたわけじゃないよ、スバル」

 

結晶から漏れ出した光が結集し、次第に小さな輪郭を作り出す。

頭部が生まれ、胴体が現れ出し、四肢が備わると体毛に覆われる。と、数秒後にはエミリアの掌に小型の二足歩行猫が出現していた。

 

「や。おはよう、スバル。いい朝だね」

 

「俺にとってはわりと波乱万丈の夜から朝にかけてだったけどな。無限廊下と尿意、そして乗り越えた先でエミリアたんに嫁にいけない体に……」

 

「人聞き悪い言い方しないの」

 

咎めるように言われて、スバルは「うぇーい」と曖昧な返事。彼女はそれに諦めたように目をつむり、それから掌のパックを見て、

 

「おはよう、パック。昨日は無理させてごめんね」

 

「おはよう、リア。でも、昨日のことはボクの方が悪いと思うよ。危うく君を失うところだ。スバルには感謝してもし足りないくらいだね」

 

パックはその丸い瞳でスバルを見上げ、小さな首を傾げて、

 

「お礼をしなきゃいけないね。なにかしてほしいこととかあれば言ってみるといいよ。大抵のことはできるから」

 

「んじゃ、好きなときにモフらせてくれ」

 

大きく出たパックに対して、スバルもまた即答で返す。

返事の速さもそうだが、その内容も驚きだったのかもしれない。目を丸くしたのは元から丸いパックだけでなく、聞いていたエミリアもそうだ。

彼女は少しだけ慌てたような態度で、

 

「ちょ、もうちょっと考えて決めてもいいんじゃない?こんな小さくて弱そうな見た目だけど、パックの力は本当にすごいのよ?」

 

「少し引っかかるけど、そうだよ。こう見えて、ボクはけっこう偉い精霊なんだ。だから欲張っても構わないんだけど」

 

「おいおい、俺みたいな一流のモフリストからしたら、モフりたい対象をいつでもモフれる権利ってのは、ある意味じゃ巨万の富と引き換えても余りある対価だぜ。モフモフ権――それは人の心をさらなる高みへ導き、荒み切った魂すら浄化するモフモフモフモフモフモフ」

 

言いながら権利を履行して、エミリアの掌の上のパックを思う存分にモフり続ける。腹に顎、トドメは耳だ。

 

「耳ヤバいな!もう俺はお前のモフっ子ぶりにメロメロだ」

 

「ふーむ、スバルのすごいところは本気で言ってるとこだね。うすぼんやりと心が読めるからわかるんだけど」

 

手指で自由に弄ばれながら、パックは愉快げにそう言った。

戯れる二人の様子にエミリアははっきりと呆れのため息をついて、

 

「なんだかもう、スバルを理解しようとするのって疲れるわね」

 

「諦めんのよくないぜ。人生物事、対人関係は相互理解の精神から成り立ってくもんだ。でも、そう簡単に俺を理解できるなんて思わないでよねっ」

 

「なにそれ、すごーく癇に障る」

 

腕を組み、顔を背けて片目だけでツンデレってみた。最高に不快感をあらわにするエミリアの態度に、今後の封印を固く決める。

と、彼女はスバルの指先からパックの体を回収。軽く手を振りながら庭の外れの方へ足を向けて、

 

「それじゃ、私は誓約を済ませちゃうから……スバルはえっと、そっちの方で静かに草むしりでもしててくれる?」

 

「よーし、張り切ってむしっちゃうぞー。って、俺そんなことやるために庭まで下りてきたわけじゃねぇよ!?」

 

「冗談、冗談」と笑いながら離れていく銀髪を見送り、スバルは軽く地面を均してからその場に四肢を突いた。

準備運動は済ませてあるから、あとは日課の筋トレだ。すでに昨日は一日サボってしまっているので、二日分をこなすのが筋だろう。

 

腕立て百回・腹筋百回・スクワット百回。

スバルが実家でひきこもりながらも続けていたのは、主にそんな基本的な筋トレだ。たまにそこに気まぐれで木刀の素振りなどが加わったりもしたが、概ねはそんな感じである。

 

腕立てをこなし、腹筋を痛めつけ、スクワットで汗を流す。

しばしのインターバルを置いて、再度それらを一巡。ほんの十分程度で終わる過程だが、毎日それを続ける馬鹿みたいなマジメさがスバルにはあった。

 

「若干、物足んねぇなぁ。せめて木刀とかあればもうちょいマシに……」

 

「どうぞ、お客様」

「使って、お客様」

 

ふいに現れた姉妹がいそいそと、スバルの手に木剣を渡していった。

思わず「どうも」とか敬語で受け取り、すぐさま消える二人の神出鬼没さにしばし唖然。ともあれ、手の中には望み通りの木剣がある。

 

形状はこちらで一般的な両手剣を象っていて、木刀とは少しばかり趣が違う。とはいえ、扱いに関しては根本は一緒だ。

確かめるように軽く振り、重さもちょうどいいと判断。

 

「万能メイドに感謝だな。んじゃま、久々にブンブンするか」

 

構えて振って、構えて振って。

スバルが剣道部に在籍していたのは中学生の間だけだが、一応は段位を習得する程度には修めている。その後も振り続けることだけはしていたので、鋭さに関しては現役時代とそう変わるまい。

 

「剣と魔法のファンタジー世界だし、ちったぁ役に立つかね」

 

額を汗が伝い、顎から芝生へ滴るのを感じながら素振りに打ち込む。

脳裏、思い出されるのは昨日の盗品蔵の攻防。鈍い刃物のきらめきを交換し合う、ラインハルトとエルザの姿だ。

そこに今の自分が、本物の両手剣を握って乱入するのを思い描く。

 

「食らえ、エルザ。お前の悪行もここま……やーらーれーたー!」

 

飛びかかり、一合打ち合って腹をかっさばかれた。

これじゃいかんと二度目のイメージトレーニングに入るが、今度はラインハルトの斬撃の射線に入って消し炭にされる。

結論、頑張っても頑張っても凡人じゃチートには勝てない。

 

「なんとまぁ、努力の甲斐のねぇ話だな……っと」

 

木剣を肩に担いで小休止。一息つきながらふと、エミリアの様子が気になってそちらの方へと視線を向ける。

彼女は緑の庭園の地べたに足を崩して座り、地面に置いた腕の上にパックを乗せて何事か言葉を交わしている。

話相手は当然、パックだと思っていたのだが――、

 

「見間違えじゃなけりゃ、エミリアたんの周りが光ってんな」

 

座る銀髪の少女の周囲、彼女の手の届くぐらいの範囲ではあるが、その空間がぼんやりと淡い輝きに包まれているのが見えた。

その中をふわふわと漂うのは、まるで蛍の光のように儚げで頼りなく揺れる様々な色の光だ。

 

それは神秘的で、どこか幻想的な光景であった。

人の手が触れることを思わず躊躇うような情景。超自然的な存在に、許されたものだけが在ることのできる聖域、そんな風景にスバルは、

 

「すげーな、これ。ひょっとして、このふわふわしてんのみんな精霊?」

 

「――ひゃっ」

 

わりとずけずけと、構うことなく侵入してエミリアに話しかけていた。

驚きの声は彼女の唇から紡がれ、スバルを見上げる瞳は驚きで反射的に浮かんだ涙の滴で潤んでいる。

そして、彼女を取り巻いていた儚げな輝きたちにも動揺は伝染し、

 

「おー、パニくってるパニくってる」

 

数多の光がおたおたするように左右に揺れ、スバルの意識から逃れようとするようにエミリアの後ろへ回り込もうとする。

気分的には公園で鳩の群れに逃げられたような感じ。

 

「なんかもうすごいな、スバルは。普通は精霊ってもっと触れるのに勇気がいるような存在なんだよ」

 

「それは暗に『ボクをモフれる君は幸せ者だよ』って言ってんのか、知ってるよ!お前にメロメロだっつの、モフモフモフモフ」

 

硬直するエミリアの腕の上、パックの体を今度は背中から攻める。果敢に攻める過程で、さり気にエミリアの銀髪の感触を指に味わいつつ、スバルはいまだに言葉のない彼女に対して首を傾げて、

 

「どったの?そんな油断してるとまーた徽章盗られるよ?」

 

「人の痛いところ突かないの!そうじゃなくて、ビックリするじゃない」

 

浮いた涙を指ですくって、エミリアはスバルの短慮を咎める。

彼女の言に精霊たちが同意するように縦に揺れる。意外とノリがいいんだな、と精霊の反応を眺めつつ、

 

「ほら、精霊見るのとかって俺って初めてだからちょっと舞い上がっちゃってさぁ。見た感じ、危ないようには見えなかったし」

 

「制御下にあるから大丈夫だっただけよ。未熟な精霊術師に今のやったら、精霊の暴走を招いて……ぼかん、よ」

 

声をひそめてこちらを脅そうとするエミリアだが、後半で語彙が不足したのか出てきたのが『ぼかん』だ。マジメに聞いてて肩すかしを食らい、スバルは「大げさな」とパックを見る。

 

「あんなふわっとした感じの光が危ないとか、あんの?」

 

「そうだね。たとえばボクは今、この瞬間にでも君を塵にできるよ」

 

「舐めた真似してすんませんしたぁっ!」

 

五体投地して謝意を表明。

小さな手を振るパックは笑い、エミリアは自分との待遇の違いに少しだけ不満そうに唇を尖らせ、

 

「どうしてその素直さを私の方に向けないのかしら……ねえ、パック」

 

「年季かなぁ」

 

ヒゲをいじりながら長閑な返答。パックの穏当な態度に毒気を抜かれたのか、エミリアはそれ以上の言及を諦めたように吐息したのだった。