『魔女教の要求』


 

首をもたげ、こちらを見つめる瞳にスバルは呼吸すら忘れてしまっていた。

 

「大体において予想通りの反応ではあるけど、あんまり驚かれるのも良い気分ではないね。ボクもこう見えて、性別的には女……いや、精霊に男女の区別があるかは難しいところだから、精神的には女性寄りとでもいうべきかな?」

 

白い体毛に、細められた黒い眼。

中性的な声音に、ひどくかしこまった迂遠な物言い。その姿を白と黒の二色で表現できるところなど、なるほど確かに記憶の中のあの魔女の姿と合致する。

だが、だとしても、

 

「何の、悪い冗談だ。お前がエキドナ……?」

 

『聖域』の『試練』で遭遇した、スバルを茶会へ誘う『強欲の魔女』。

甘く優しい言葉で茶会の招待客を誘惑し、自らの意のままに傀儡にし、その上で自分では見ることの叶わないあらゆる結果を求める好奇心の権化。

もう二度と、顔を見る機会もない相手と思ってばかりいたのに。

 

「そのお前が、狐の格好になって出てきただと?冗談はよせ。こんな危ないことばっかの状況で、今度は何を企んでやがるんだ」

 

「ちょい待ち。あんまり、一人でカッカせんと話聞いて欲しいんよ」

 

最初の衝撃から立ち返り、スバルは目の前のエキドナを名乗る白狐に詰め寄ろうとする。が、前に踏み出しかけたスバルを、その白狐を首に巻いたままのアナスタシアが咎めるような声で止めた。

スバルは白狐に向けていた敵意を、アナスタシアにも同じように向ける。

 

「カッカするななんて無茶言うな。あんたも、そいつと一緒になって何を……たぶらかされてやがるのか?そもそも、そいつは『聖域』から出れないはずで」

 

「何のことやらわからんけど、ウチがエキドナと初めて会ったんはもう十年以上前の話。それからずっと、ほとんど手放さずに今日までやってきたんや。ナツキくんが言うてること、ちょっと辻褄が合わんのと違う?」

 

「十年以上……?」

 

そんな前から表社会をうろついて、好き放題にやっていたのかと怒りが湧く。

もともと、あの夢の城からエキドナが出てくることができないと聞いたのも、思えば彼女本人の証言でしかなかった。あの時点から謀られていたのだとしたら。

 

「ずっとそうやって、何も知らない人たちのことをせせら笑ってやがったのか」

 

「……やれやれ、ずいぶんと根深い嫌われようだ。解くのに苦労しそうな誤解だけど、おかげではっきりしたこともある」

 

「そうみたいやね。エキドナの言うてた通りや」

 

エキドナへの怒りを深めるスバルと対照的に、アナスタシアと白狐の二人は納得したような呟きを交換している。

そのことにスバルが眉を寄せると、白狐が妙に人間臭い仕草で首を横に振り、

 

「さっきから君が度々、『エキドナ』への不信を口にしているところ恐縮だけど、ボクにはそのことの心当たりがない。というより、もっと事は深刻だ」

 

「どういう意味だ」

 

「簡単な話だよ。ボクは、自分以外の『エキドナ』のことは何も知らない。自分が人工的に作られた精霊だという自覚と、名前の記憶はある。けれど、それだけだ。それ以外は自分を推測する何一つも持っていない。そういうことさ」

 

「――はぁ?」

 

何を言い出すかと思えば、白狐はエキドナらしからぬ戯言をほざいた。否、相手がエキドナだと思えば、何を言い出すのもこちらをおちょくるための策謀か。

人工精霊であり、『エキドナ』を名乗り、この場面でスバルと接触しているにも関わらず、自分には記憶がないなどとどうして信じられる。

 

「なんや、全然信じとらん顔やね、ナツキくん」

 

「当たり前だろ。エキドナって奴がどんな奴だったか、知ってる俺からすれば当然の反応だ。それはそっちだって……ああ、知らないって主張するんだったな」

 

「頭っから信じる気はない、と。時間も限られてるゆうのに、困ったさんやなぁ」

 

警戒を露わにするスバルに、あくまでアナスタシアは余裕の態度を崩さない。

エキドナに組している存在、という意味でアナスタシアへのスバルの警戒心は跳ね上がっている。ユリウスやリカードには悪いが、彼らへの信頼度も修正する必要があるだろう。

頭と手足の意思が統一されていないと、希望的観測を抱けるほど余裕はない。

 

「お前に記憶がないなら、どうして俺に名乗り出てきた。俺が『エキドナ』を知ってるって確信以外で、そうする理由なんて何もないはずだぞ」

 

名を明かし、素性をばらしたことがすでに自分が『茶会のエキドナ』であることを証明しているではないか。そして彼女が『茶会のエキドナ』であるのなら、ロズワールが求める『棺のエキドナ』とは違う人物であり、スバルが知る方の『エキドナ』であることも間違いない。聞きたいことは、山ほどあった。

今、この瞬間はそんな話をしている場合じゃないとわかっていても。

だが、そんな逸るスバルに対し、アナスタシアが疲れたような息をつき、

 

「放送の話、聞いてへんからややこしなっとるんやろね。面倒臭いなぁ」

 

「放送?魔女教の放送が、どうしてここに関係してくるんだよ」

 

「――彼らの要求の一つが、『人工精霊を差し出すこと』だからさ」

 

端的に、スバルの疑問に白狐が答える。

その内容にスバルは一度思考に空白を作り、すぐに理解が追いついた。

放送、魔女教の要求、人工精霊。それは――。

 

「まさか……」

 

「信じたくない要求ではあるけどね。彼らは人工精霊――つまり、ボクか君の連れの少女の身柄を要求している。故に、相談したいと考えるのは道理だろう?」

 

「ベアトリスが人工精霊って、お前はどうして知ってる」

 

「見ればわかる、としか言いようがないな。こればかりは説明できる感覚じゃないんだ。彼女の方も、ボクが動いて喋るところを見れば気付いたと思うよ」

 

白狐は淡々と、スバルの挙げる疑問を丁寧に一つずつ潰していく。

少なくとも、旅館でアナスタシアと遭遇しているはずのベアトリスから、狐の襟巻きに対する言及をスバルは受けていない。ただ、ベアトリスはあれで色々と抱え込むところがあるので、確信を得ていない情報を口にしなかった可能性もある。

どうして何でも一人で抱えてしまうのかと、スバルがベアトリスに伝えたらブーメランと言われてしまいそうなことを考え込んでいると、

 

「君の連れのあの子が気付かなかったことは仕方ないと思うよ。ボクは精霊として欠陥が多くてね。いわゆる契約は真似事もできないし、魔法を駆使して自衛することもままならない。その代わり、気配を隠すのには自信があるんだ。その自信も今回のことで、ちょっと疑わしくなっているけどね」

 

「契約ができないって……それじゃ、アナスタシアとは」

 

「ウチとこの子との関係は精霊使いの関係とはちゃうよ。精霊と契約者の間で交わされる、契約とは本質的な意味で違う……言うたら、共犯者やね」

 

「ボクはこの子の行く末を見たい。そのためにこうして、無理を言って何年も付きまとっているわけさ。時々、相談相手なんかを買って出たりしながらね」

 

白狐がそう言って笑みを浮かべると、アナスタシアの指先がその喉元をくすぐる。仲睦まじい様子からも、二人の間に一定以上の信頼が結ばれているのがわかった。

 

「どうして、そんな内情を俺に打ち明ける。戦う力がないとか、そんなこと」

 

「相手に信用してもらおうとしたら、こちらの情報を開示するのは当然だろう?ましてや今は都市の存亡も懸かった一大事……重大な役割が求められている場面で、おかしなことをして味方で言い合いは避けたい」

 

「ウチはもうちょぉっと考えた方がて止めたんやけどね。この子、言い出したら聞かんとこあるんよ。せめて、他の人らには席外してもらったけど」

 

エキドナ、と名乗っていなければ素直に頷けそうな主張をする白狐と、その白狐の意見を補足してくれるアナスタシア。そこまで聞いて、ようやくスバルはさっきまでのアナスタシアの冷酷な態度が、スバルと一対一で話すための環境作りのための振舞いであったことに気付いた。

スバルの意識を己に引き、ユリウスやガーフィールを人払いするための。

 

「魔女教の要求に従うんはもっての外。せやけど、ウチとナツキくんが白を切り通したら、他のみんなは『人工精霊』がなんなんかわからんままや。拒否するにしても事情がわからな、みんなを納得もさせられんからね」

 

「テロリストの要求が聞けねぇってのは同意だ。……でもまだ、その狐がエキドナだって聞いて疑いが晴れたわけじゃねぇ」

 

「名前に拘るなぁ。ナツキくんの知ってる『エキドナ』って、そんなに性質の悪い人やったん?ウチの子と一緒にされるん困るんやけど」

 

「まったくの別人ってなら俺も謝るとこだけどな。話し方といいタイミングといい、エキドナ本人らしすぎて否定の要素が見つからねぇ。それに……」

 

「それに?」

 

首をひねるアナスタシアに、伝えるべきかスバルは悩む。

『人工精霊』が具体的に、どういった存在であるのかスバルにも判然としない。わかっているのはベアトリスやパックがそうであり、二人を作ったのが魔女エキドナであるという事実だけだ。

当然、目の前の白狐も人工精霊であることが事実なら、その存在は魔女エキドナの手で作られたものと考えて間違いあるまい。

 

永遠の命を欲して、エキドナは複製体を作り上げる仕組みを生み出した。

今となってはその主張もどこまでが正しかったのか疑わしい部分があるが、仮にその主張が事実であれば、精霊になるという結論は合理的なものだ。

肉体を失い、寿命という概念から解放される精霊――そんなものに自らの存在を昇華できるのであれば、あらゆる全てを知りたいという魔女の強欲にきっと適う。

 

故に、この白狐が『エキドナを名乗る人工精霊』である点は疑っていない。ただ焦点となるのは、記憶をなくしたという証言の真偽それだけだ。

アナスタシアは十年以上の付き合いだと言った。だが、それだけで信じる理由にはならない。十年以上、時間をかけて準備してきたとしてもおかしくない。

全ては今、この瞬間にスバルを陥れるためだけに――。

 

「こらあかんね。よっぽど酷い目に遭わされたみたいや」

 

「ここまで嫌われると、いっそそのもう一人のエキドナとやらに興味も湧くけど……ひとまずそれは置こう。君がボクを信用できないというのならそれもいい。ボクの言葉は聞き流してくれて構わない。アナ、話をお願いするよ」

 

押し黙り、疑心暗鬼に入り込むスバルに白狐が諦めた口調でこぼした。促されたアナスタシアが肩をすくめて、気を取り直すように手を叩く。

 

「はいはい。とりあえず、その疑惑は後回し。大事なんは魔女教の要求、こっちが優先や。魔女教は他にも、三つの要求を突きつけてきとる」

 

「他に三つ……ってことは、全部で四つ?」

 

「そ。都市庁舎はウチらに返したから……ま、残りの制御搭の数だけってことやね。全部ふざけた内容やったけど、怒らず聞いてな」

 

ふざけた要求、と聞かされても今さらだ。

すでに魔女教への印象など最悪の下に最悪を敷き詰めてもまだ足りない。この上何を言い出したとしても、欠片も印象が揺らがない自信があるほどだ。

 

無言で先を促すスバルに、アナスタシアは白狐の尾を手で撫でつける。それから軽く唇を舌で湿らせ、

 

「まず、要求の一つが『人工精霊』を差し出すこと。これが『暴食』の要求」

 

「暴食……っ」

 

「色々と思うとこあるやろけど、後でな。それから次が『憤怒』の要求。――この都市に持ち込まれた、『叡智の書』の回収」

 

「――!?」

 

またしても想像の外から衝撃を受けて、スバルは目を見開いた。

そのスバルの反応に、アナスタシアが浅葱色の瞳を薄く細めて、

 

「その顔からすると、ナツキくんは聞き覚えのある単語みたいやね」

 

「…………」

 

「いや、よかったわ。これも困ってたんよ。ウチもようわからんし、エキドナも知らん言うから。当然、ユリウスや他の人たちも一緒」

 

「……本当に、その狐は知らないのか?『叡智の書』だぞ」

 

未知の要求に困っていたところ、助け船を見つけたようにアナスタシアが微笑む。無論、微笑みの裏でそんな可愛らしい感慨が溢れているはずもない。

ただ、続くスバルの問いかけに、怪訝な顔をしたのも本音だろう。

 

「いや、知らない。これも本当だ。……察するに、その『叡智の書』とやらは君の知るエキドナと関係があるものらしいね」

 

「ああ、そうだ」

 

「こうなると、なんや知らん顔でいるのも無理みたいやね。そのナツキくんが知ってるエキドナって何者なん?魔女教と無関係やないやろ?」

 

とぼけているのかと思いたくなるほど、アナスタシアと白狐の認識は当事者に近い立場にありながら図抜けたものにスバルには思えた。

しかし、彼女らがそう考えるのも仕方ないことなのだ。

 

白狐の主張を信じるなら、『エキドナ』の名は白狐の個体名を示すものでしかない。人工精霊の創造主がエキドナであると知るのはスバルだけで、何より魔女たちの名前は『嫉妬の魔女』のもの以外は、一般に記憶されるほど残ってすらいないのだ。

 

その名前に危機感を覚えるのは、あくまで彼女の存在を断片的にでも知っているエミリア陣営の関係者たちだけなのだから。

 

「――エキドナは、大昔の魔女の名前だ。『嫉妬の魔女』以外にも、過去には魔女がいたんだ。その魔女の一人で、本人はとっくに死んでる。ただ、魂だけになったそいつと会った経験があってな。それで警戒してる」

 

「ナツキくん、熱でもあるん?結構なケガしたいう話やし」

 

「寝惚けてもいねぇしおかしくなってもねぇ。そういう不思議な連中だ、魔女は。人工的に精霊を作り出したりするんだから、そのぐらいもあり得るだろ」

 

「なるほど。……そのエキドナが、このボクの生みの親でもあるわけだ」

 

苛立ち混じりの応答で、迂闊なスバルの言葉の裏を白狐が読み取る。別段、隠していたわけではないが、はっきり断言しなかったことがスバルに後ろめたいものをそっともたらしていた。

そんなスバルの内心が顔に出たのか、白狐は小さく喉を鳴らして笑い、

 

「意外なところで自分の出生の秘密に触れる、それも人生の楽しみだ。機会があればぜひ、詳しく話が聞きたいところだね」

 

「……お前は、精霊ってわりには思ったより内情を知らないんだな。うちのベアトリスだってもうちょいちゃんと知ってた。いや、そもそもベアトリスからお前の存在を聞かされたこともねぇ。どういう経緯で生まれたんだ」

 

「残念だけど、それもわからない。ボクは自分が生まれた経緯はおろか、目的意識などもないんだ。ただ興味を惹かれたこの子に、ずっとついているだけでね」

 

スバルの指摘に白狐がアナスタシアを見る。その視線にアナスタシアが小首を傾げ、それからゆっくりとスバルを見つめると、

 

「エキドナと魔女との関わり合いはウチも気になる。それもきっと、魔女教と無関係やないやろから。それで、話を『叡智の書』に戻したいんやけど……」

 

「『叡智の書』は、魔女教が持ってる福音書のプロトタイプ……元になった完全版って話だ。未来が記される預言書で、竜歴石ってやつと同じような仕組みとかって」

 

「竜歴石と……せやったら、信憑性は高そうやね。それも、ひょっとして魔女のお手製の本やったりするの?」

 

「当人はそう言ってたな。でも、現存してた二冊は燃えたはずだ。それ以外の本があったとは、少なくとも俺は聞いてないし知らない」

 

エキドナから『叡智の書』を持たされたのは、ベアトリスとロズワールの二人だ。それぞれが所持していた二冊の本は、いずれも一年前の事件のときに焼けてしまったことが確認できている。

 

ベアトリスの『叡智の書』は焼け落ちる禁書庫と共に灰になり、ロズワールの所有していた『叡智の書』は未来を危ぶむラムの手で焼失した。

どちらも消えた以上、現存する『叡智の書』は残っていないはずだ。

 

「ただそれも、その魔女エキドナの口から聞いたって但し書きがつくんと違う?」

 

「……そうだ」

 

スバルの断言を、アナスタシアが鮮やかに一刀両断する。

歯切れの悪い返事をするしかないのは、スバルにもその信憑性の薄さがわかったからだ。ただ、エキドナがあのとき、嘘をついていたようにも思えない。

こればかりは直接、魔女と対話したスバルしか共感できないものだと思うが。

 

「――――」

 

「その相手のことは信用してない。でも、その相手の言うことを信用してる。ナツキくんにとって、やけに面倒な間柄の人やね」

 

「自分でも、そう思った。そうだよな。俺はあいつのことを信じないつもりでいるのに、これについては信じてるなんて矛盾してる」

 

エキドナの行いは、スバルを自分の傀儡にするための演出だった。

しかし、全てが嘘偽りで塗り固められていたわけではない。そう感じるのはスバルがそう思いたいからなのだろうか。まだ、あの魔女に心を揺さぶられたままなのか。

 

「ナツキくんの気持ちはともかく、それやと『叡智の書』のことで考えられる可能性は三つ。一つはその魔女が嘘つきで、『叡智の書』はまだ他にある」

 

「二つ目は、『叡智の書』が燃えたことを知らない魔女教の奴らが騒いでるだけ……ってことだよな。でも、三つ目は?」

 

「嘘以外で、『叡智の書』が残ってる可能性があるんなら理由は一個――『叡智の書』は燃え切ってない。焼け残りがあるんと違う?」

 

「――な」

 

『叡智の書』が焼け残った可能性、それは考えたことがなかった。

絶句するスバルに、アナスタシアが立てた指を振り、

 

「現物をよう知らんけど、魔女が作った本なんやろ?燃えづらかったり、それどころか元通りに復元したり……ありえんとも言い切れんと思うよ?」

 

「た、確かにそれがないとまでは言わねぇ。言わねぇけど……でも、実際問題、復元したとしてもそれを誰が持って」

 

「その本が燃えたのを、見てたりして回収できた人……かなぁ。これはちょっとウチも考えすぎやと思うから、普通に二つ目の可能性が高いと思うわ。どっちにしろ、奴らの要求に乗るつもりはないんやし」

 

考え込み、可能性を挙げるアナスタシアにスバルは口に手を当てて考え込む。

『叡智の書』が燃えたとき、それを拾える立場。禁書庫のものは無理だ。あれは屋敷が焼け落ち、禁書庫の焼失に呑まれている。

だが、ロズワールの書の方はどうだ。そちらはラムが魔法で燃やしたと結果は聞いたが、その後はエミリアの魔力で積雪した『聖域』のどこかに灰を散らしたはずだ。

それが焼け残っていたとしたら。あまつさえ、本当に本に復元能力があったとしたら。誰かが所持していても、おかしくはない。おかしくはないが、

 

「持ち込めるとしたら、俺の身内の誰かだ。けど、拾ったその本のことを話さない意味がねぇ。『叡智の書』は、この都市にはねぇよ」

 

「そか。それなら別にええんよ。ウチもよう知らん本のことでもやもやしたないだけやったから」

 

確信、そう呼ぶには信じたいという気持ちが勝ちすぎているだけの意見だ。

しかし、アナスタシアはそれを指摘せず、『叡智の書』についての話題を引っ張ろうとはしなかった。代わりに、

 

「したら、次の要求やな。あとの強欲と色欲の要求はわかりやすくて、それだけに話し合う価値もなしって感じなんやけど……」

 

「あいつらか……いや、暴食と憤怒も大概だから今さらだが、何を」

 

『色欲』のカペラにも、『強欲』のレグルスにも最悪の印象しかない。

カペラには直前の、そしてレグルスにはエミリアを連れ去られたままになっているという負の念が強い。――自分の右足の変貌と、エミリアの続報が何も聞けていないことが胸を締め付けた。

 

「あんな、あんま怒らんで聞いて欲しいんやけど……」

 

「内容次第」

 

不安になるアナスタシアの前置きに、スバルがそう即答する。

アナスタシアがその答えに「せやろなぁ……」と諦めたように吐息し、

 

「色欲の要求は、なんや他のとは違って単なる嫌がらせ。ええと、『相思相愛の男女を二十組、制御搭に届けろ。――絶対に危害は加えない』って感じやった」

 

「嘘くせぇにも程がある。何が危害は加えない、だ。あいつ、自分が人を蝿や竜に変えたことを忘れてるんじゃねぇのか!」

 

カペラのぶれない邪悪な要求に、スバルが怒りを露わにする。

愛し合う男女を二十組――あの醜悪な愛を謳う怪物が、そんな男女を前にして何をしでかすのか想像することすらおぞましい。

 

「大罪司教の認識からしたら、姿が変わったぐらいは危害の内に入らんのやろね。傷は付けてない、の一言で片付けるんが目に浮かぶわ。それで、強欲の方の要求やねんけど……」

 

「――――」

 

黙って、怒りを瞳に灯したままスバルはアナスタシアの言葉を待つ。

その態度にアナスタシアがいくらか口ごもり、なかなか本命を吐き出せずにいた。

そこへ、

 

「強欲を語る人物の要求はこうだ。『自分と銀髪の花嫁の結婚式を行う。婚礼のための準備の一切を邪魔するな』とね」

 

「エキドナ……」

 

「アナが語りづらそうにしていた。出すぎた真似ですまない」

 

切り出せないアナスタシアに代わり、その首を守る白狐が先んじて応じる。

その互いを思い合う二人のやり取りが、今のスバルには入ってこない。

 

――銀髪の花嫁と結婚式を行う。

 

『強欲』のレグルス、その男が婚礼を交わす花嫁が誰のことを指しているのか、考えるまでもない。

 

「――ふざけるな、あの野郎!」

 

故に、噴出した怒りをそのまま舌に乗せたスバルの爆発は正当なものだ。

アナスタシアが顔をしかめ、白狐が毛を逆立たせる。それほどまでに、スバルの怒りは純粋で真っ直ぐなものだった。

 

脳裏に浮かぶ、白髪の男。

エミリアを連れさらい、彼女の価値を見た目が全てと言い切った、ただただひたすらに憎たらしい超越した力を持った凶人。

ただ強大な力を持っただけの勘違い男が、何をふざけたことを言っているのか。

 

「ベアトリスも、『叡智の書』も、エミリアも!誰一人何一つ、奴らにゃやらねぇよ!ふざけやがって、大概にしろ!」

 

「……そういう反応するやろなぁ思てたけど、その通りすぎて気持ちええくらいやわ」

 

激情に声を荒げるスバルを見て、アナスタシアがいっそ楽しげに笑う。

だがその笑みは、決して朗らかな感情から溢れ出したものではない。もっとその裏に別種の、スバルと同質の激情を滾らせているが故のものだ。

 

「人工精霊云々で、ウチもエキドナは差し出せんのは一緒や。せやけど、それ以外でも連中に精神的に負けてるわけには絶対にあかん。クルシュさんもエミリアも、ウチが都市に招待したんや。その人らぁを、こうも傷付けられて……面目潰されて黙ってるやなんて、できるわけない」

 

「好戦的だね、アナは」

 

「勝負所がわかっとるだけ。逃げたらあかんのがわかってる。魔女教の奴らを根こそぎ取っ捕まえて、損害の賠償を要求せなならんのや」

 

不手際、面目、損得勘定。

あらゆる言葉で装飾しながら、アナスタシアは戦意を決して緩めていない。

ユリウスやガーフィール、ヴィルヘルムやフェリスまでもが悲観していた状況下で、大罪司教の恐怖を肌で実感していないから言える大言壮語だと言うこともできた。

 

だが、スバルはそうしなかった。

この状況で味方の士気を折るような発言に意味はない。それどころか今、こうして報復に燃える彼女の存在は、間違いなく頼りにできる。

 

「みんなちっちゃなっとる。せやけど、先手取られて二手目も取られて、それで盤面終わりで誰が納得するん。負けの言い訳作りはあの世でやれ」

 

「――――」

 

「生きてる限り今と次がある。人生投げるな。そんなん自分が可哀想や」

 

穏やかな顔立ちに、獰猛な笑みを浮かべてアナスタシアが布告する。

小柄な少女の体から迸る鬼気は、彼女が戦場に身を置く存在ではないことを忘れさせるほどのものだった。否、彼女は歴戦の兵だ。

彼女の職業が戦火を交える戦場において、百戦錬磨の兵なのだ。

 

「クルシュさんも、姿を変えられた人たちも、『色欲』本人やったら治せる可能性は十分にある。捕まえて、その気にさせたらええ。ナツキくんも、大事なお姫様を取られたままにしとく気やなんてないんやろ?」

 

「ったりめぇだ!エミリアは俺が嫁にする。暴食をぶっ殺してレムの記憶を取り戻す。シリウスはウザい野郎と俺を重ねてやがるからブッ飛ばす。カペラは土下座させて全員元の姿に戻させる。それで撃退だ!」

 

「アナもナツキ少年も、無理を当たり前のように通そうとする。そういうところがボクが君たちを好ましいと思う最大の理由だろうね」

 

アナスタシアの発破にスバルが呼応し、それを見た白狐が満足げに頷いた。

目覚めた直後と、この話し合いを始める前までの沈んだ気持ちをひとまず置き去りにして、スバルはアナスタシアの戦意に乗せられる。

 

一戦目、二戦目で負けたからなんだ。

次がある。まだ誰も死んでいない。死なせていない。

最後に勝つ、勝って生き残る。それが達されれば、スバルたちの勝ちだ。

 

「リカードが周辺探って、ヨシュアや他の子ぉらを探してくれてる。もうちょっとしたら戻るはずや。そしたら改めて、全員で作戦会議といこか」

 

「今の町の状況と、制御搭がどうなってるのか確かめる必要もあるな」

 

「抜かりないよ。頭、回るようなってきたみたいやね」

 

やることが決まった、だから心も決まった。それだけのことだ。

 

アナスタシアの言葉に顎を引きながら、スバルは都市庁舎の外へ視線を送る。

都市の一面だけが見える窓、そこからも高く伸びる制御搭の姿が見えた。

 

それが東西南北、どの塔であるかまでは区別がつかない。

だがいずれかの場所にエミリアが、レムの記憶が、仇敵が、怪物がいる。

 

――都市を、大切な人を、救うための戦いはまだ、続いている。