『茶会の対価』
雄叫びが聞こえた。
空腹感に右手から滴る血に舌を伸ばしていたスバルは、遠いところでその声を聞いた。怒り、怒りだ。憤激だ。誰かが怒っている。誰かが憤っている。誰かが、なにかのために怒り狂っている声だ。
――どうでもいい、今はただひたすらに、この空腹を満たしたい。
咀嚼して、咀嚼して、咀嚼しても、足りない。
指の二本でなにが満たされる。流れる血でどの程度、この渇きを潤せる。
足りない。足りない。まったく足りない。
右手を貪り尽くしても、残った左手を貪り尽くしても、己の体を食らい尽してもなお足りない。食欲に限度などない。ただ欲するものを欲する。そのために――。
「――ふんがぁー!!」
「――――どなるどっ!?」
寝転がる頭部を真上からの打撃が貫き、スバルの体が衝撃波を上げながら地面にめり込む。あまりの威力に大地が大きくたわみ、めり込むスバルを中心に丘にクレーターが発生する。
そしてその打撃の主は、拳をめり込むスバルの後頭部に当てたまま荒い息をつき、
「もうやだ、どうしてみんな争うの……?暴力振るうなんて最低……最っ低……っ」
半泣きの声が空から降ってきて、土の味を確かめるスバルの意識が現実に舞い戻る。同時、後頭部に水滴が当たり、導かれるように顔を上げる。
金髪の少女の輪郭がぼやけて、涙顔の人物が消えていくところだった。
――自分の身になにがあったのか、上体を起こそうと地面についた右手が健在になっているのを見て気付く。
だからとっさに、スバルは消えゆく少女に、
「な、治してくれてありがとう……!」
「……つーんだ」
顔を背けて、魔女が拗ねたような顔で消失する。
消える直前、こちらを見ていない顔が赤く、頬が嬉しそうに緩んでいたのを隠せないままに。
そうして金髪の少女――『憤怒』の魔女がその場から消えると、代わりに現れるのは再びの無骨な棺桶であり、
「ネルネルってばぁ、ほんとーにお節介なんですからぁ。ちょぉっとしたお勉強じゃないですかぁ、ねぇ、すばるーん」
なんでもないことのように棺の中から語りかけられて、スバルは跳ぶように起きると即座にクレーターから飛び退き、ダフネに対して警戒心露わな表情。
見えないダフネはそのスバルの反応に鼻を鳴らし、
「そうそう、それぐらい警戒しなきゃダメですよぅ。だぁって、この世は食べるか食べられるかの関係でしかないんですからぁ」
「そこまで殺伐としたもんだとは思いたくねぇよ……!今のはなんだ!ほんの短い間だったけど……確実に、俺は狂ってたぞ」
「気が狂うほどの飢餓ってやつですよぅ。極まった飢餓は人を獣以下に変えちゃうってことですねぇ。右目も見たら、もぉっと面白いことになりますよぅ?」
「……ふざけろ」
魔眼、おそらくはそれに類するものだろうとスバルは判断。
ラムの千里眼が、スバルの知る眼から出力する能力に当たるが、彼女のそれがあくまで攻撃的な能力が皆無だったのに対し、ダフネのそれは凶悪に過ぎた。
『空腹の魔眼』か『飢餓の魔眼』とでも呼ぶべきか。左目と目を合わせた時点で、スバルは無意識の飢餓で自分の右手の指を貪り食っていた。
痛みすら置き去りにする空腹感は、目に見えるもの全てが満たされない空腹感を満たすための餌だ。つまり――、
「まさか、あれが大兎が見てる景色ってことか……?」
「あの子たちはぁ、特にダフネのお腹ぺこぺこなところをぉ、見習って生まれちゃいましたのでぇ……お互いを食べ合っちゃう気持ちもぉ、わかりますよねぇ」
「あっけらかんと言いやがる……そもそも、そんな生き物を生んで心痛まねぇのか。俺に偉そうにレクチャーしたってことは、お前もあの空腹感を知ってるってことなんだろうが。自分が生んだ子ども……ああ、子どもにそんな思いさせて……」
「――?大兎がお腹空いても、ダフネのお腹は別に空いたりしませんよぅ?」
「……聞いた俺が馬鹿だったよ」
平行線だ。どこまでいっても、この魔女とはわかり合えない。
彼女にとっては生んだ子どもである魔獣たちですら、自分が空腹感を覚えたときにちょっと摘ませてもらうための非常食に過ぎないのだ。
自分の体から産み落として自分で食らう、究極の自給自足だ。
「誰にも迷惑かけないように、別次元にでもすっ込んで自給自足してくれてりゃ、誰もなにも困りゃしなかっただろうによ」
「けっきょくぅ、すばるんってダフネになにが聞きたかったんですかぁ?そうやってダフネに悪口言いたいだけならぁ、起きててもお腹が空いちゃうだけなのでぇ、お暇しちゃいたいんですけどぉ」
棺の中でスバルから顔を背けて、ダフネは全身を脱力させて寝る姿勢だ。
彼女がああして移動型の棺桶に収まっていたり、全身を拘束具で封じている理由がようやくわかった。あれは彼女の危険性を外に出さないための檻――ではない。
動くことで、手足が自由になることで、消費してしまうカロリーを少しでも減らすために、空腹感を紛らわすためにやっている単なるファッションだ。
両目の眼帯だけはそうではないかもしれないが、あの眼帯すらも、魔眼を使用することで体力を疲労するのを避けるため、ぐらいの可能性が高い。
徹頭徹尾、彼女の存在は彼女自身だけで完結している。
『食欲』だけの塊――『暴食』の魔女とはなるほど、いい呼び名だ。
「正直、聞いても無駄だとは思うけど……大兎を滅ぼすにはどうすりゃいい?」
「えぇー、大兎、滅ぼしたいんですかぁ?あの子なんて、弱いし食べやすいし増えるしで、ダフネの自信作の中でも傑作なんですよぉ?」
「食うか食われるか、って考えを許容できるんなら、生きるために相手を殺す。食欲だけに因らない、生存本能ってやつも認めてほしいもんだな」
渋るダフネに屁理屈の延長線上の言葉をぶつけるスバル。
本音では、すでにスバルはダフネから情報を引き出すことを半ば諦めている。彼女から有用な話を聞き出せそうもないということと、そもそも彼女とまともな会話が成立する兆しが見えないという点からだ。
一見、ちゃんと会話のキャッチボールができているように見えるところが性質が悪い。実態はスバルの投げたボールを彼女が噛み砕き、欲しい欲しいと投げ返さないで次のボールを欲しがっているだけの状態だ。
だが、
「生きるために食らうんだからぁ、生きるために殺すっていうのを認めなきゃぁ……うーん、それはぁ、うん、それはぁ、確かにぃ、ですよねぇ」
「――え、通じんの?」
「正しいなぁって思ったらぁ、ダフネだって納得しますよぅ。すばるんってばぁ、ダフネのことなんだと思ってるんですかぁ?」
これまで見た中で断トツで魔女だよ、というのがスバルの本音だが、それを言い始めるとキリがなさそうなので無言を貫く。
口を尖らせていたダフネは沈黙を「ふーぅん」と適当に受け流し、
「大兎ちゃんを滅ぼすんならぁ、メトメトかドナドナ、ミラミラなら楽勝ですよぅ」
「待て、お前のその愛称呼びはわかりづらい。ドナドナ……ってのはエキドナだよな?メトメトは……セクメトさんか?ミラミラってのは」
「カーミラ……『色欲』ですよぅ。すばるんには、会いたくないらしいですけどぉ」
「『色欲』なんてエロいの担当に嫌われてんの少し悲しいが、お前のその案じゃ駄目なんだよ。魔女は墓所の外に出てこれない。力は貸してもらえない」
「……ふーぅん、駄目なんですかぁ」
助っ人作戦はスバルにとっても、願ってもない申し出だ。彼女らから外に出てきて、その力を大兎やエルザに対してのみ振るってくれるのであれば。
「仮にお前、外に出られたとして……大兎滅ぼすっていうか、大兎食べるだけで満足して帰ってくれんの?」
「ダフネ、今まで生きてきて、満腹になったことなんてありませんけどぉ」
「だから仮に外に出せても出せねぇんだよ、お前らは」
予想通り過ぎる返事に舌を出し、スバルはダフネの提案を却下。彼女は棺の中で「んー」と喉を鳴らし、
「それが駄目ならぁ、あとは大勢で頑張ってぇ、一匹残らず食べ尽くすしかないと思いますよぉ。あの子たちも、ゼロからは増殖できないのでぇ……はぁはぁ……」
「食べるはともかく皆殺しか……でも、一匹でも残ってたら復活するんだろ。群れで行動してるって話だが、全部いつも一緒にいるのか?」
「いますよぅ。数はいますけどぉ、意識は一個なのでぇ。一個の意識をぉ、群体が共有してる感じなんですねぇ。ばらけるとかぁ、そんな知恵はないんですよぅ」
「そう……か。それなら、駆除したあとに残ってたのからまた増える……みたいなパニックホラーオチはないか」
被害をもたらす化け物を退治しても、地下などで化け物の残りが繁殖して『窮地は終わっていない!』というのがモンスターパニックもののお約束のオチだ。
大兎に関しては少なくとも、そういった知恵といったものは無縁らしいが。
「ちなみになんだが、大兎ってのは平均でどれぐらいの数でいるもんなんだ?共食いするってことは、ある程度の数に抑えるシステムになってるんだと思うんだが」
「……さぁ?すばるんって、霧が出たときに水滴の数を数える人ですかぁ?」
「そのレベルかよ……いや、お前が当てにならないのはわかった。自分の目で確かめる」
スバルの体に群がった数を考えれば、あの場面だけで百匹以上。『聖域』全体を食らい尽すことを考えると、その数は数万近い可能性が高い。
皆殺しにするにも、方法と手段を考慮する必要がある。
スバルが討伐方法を考え込む一方、ダフネは大きく欠伸して退屈を表明。彼女は黙ってしまったスバルにもごもごと口を動かしながら、
「すばるんがぁ、そうやって謎々をお考え中ならぁ、ダフネはそろそろ消えてもいいですかぁ?存在してるのって、お腹減るんですよねぇ」
「腹が減るから存在してたくないってすげぇ暴言だけどな。ああ、経過はともあれ参考にはなったよ。ありがとうよ。――それと」
投げやりな礼の言葉を投げて、それからスバルは最後に付け加える。
ダフネが不思議そうな顔をするのに対し、できる限りの嫌味な声で、
「大兎の野郎は俺が滅ぼす。白鯨も、もう殺したあとだ。文句つけんなよ、お母様」
「…………」
「四百年、お前が良かれと思ったんだかなんだか知らない理由で生み出した奴らが暴れた時間だ。もう十分だよ。――跡形もなく、消してやる」
「たかだか、ニンゲンが」
スバルの宣戦布告、それに対してダフネがこれまでにない反応を見せる。
彼女はその口を大きく横に引き裂き、初めて『食欲』以外の明確な感情表現を浮かべながら、
「やれるものならぁ、やってみたらいいですよぉ」
鋭すぎる歯が並ぶ口腔から、赤い舌を出して『暴食』の魔女が笑った。
※※※※※※※※※※※※※
強い風が吹きつけて、スバルは思わず上げた腕で自分の視界を遮る。
突風に足下の草原が煽られ、緑の葉が風に巻かれて吹き散っていく。それを目で思わず追いかけ、空にそれが吸い込まれたのを見届けて視線を戻すと、
「無理言って悪かったな、エキドナ」
「ボクとしては、ああなりそうなのがわかっていたから止めたんだけどね」
「仕方ねぇだろ。拘束解いたのも眼帯外したのも自発的にやられたぞ。体に触らなかった点だけ褒めてほしいもんだね」
「そうだね。ダフネに触れていたんならあの程度では済まなかった。左目だけならダフネはそれほど脅威じゃない。ダフネの恐ろしさは右目と、『喰われて』からが本番だからね」
空恐ろしい発言が飛び出してきて、スバルはどん引きするしかない。
正直、その『それほど脅威じゃない』部分だけで、スバルにとっては十分すぎるほどの異常を味わったのだが。
「……もう、すでに討伐終わってる相手のステータス紹介とかいいよ。あいつと似たような化け物と戦う予定があるんなら聞いとくべきだと思うけどな」
「化け物、ね」
ダフネに対する負の印象が拭えず、そう口走ったスバルはエキドナのどこか渇いた呟きに、自分の失言を悟る。
彼女にとって、ダフネは友人と呼べる関係らしい。あれと友人付き合いができる時点で、エキドナもさすがは魔女といった印象は拭えないが、それはそれ、これはこれだ。まして、魔女の前で他の魔女を化け物扱いというのは、
「あー、さすがに今のは俺の配慮が足りなすぎた。悪い。ちょっと気が立ってた。俺からお前のお友達に対しては、ノーコメントだ。これしか言えねぇ」
「ふふふっ、そこまで魔女に気遣う必要はないよ。聞き慣れた排斥の言葉だしね」
「……ダフネに関しちゃあんまり安い言葉は使えねぇけど、お前を化け物とは思ってねぇよ。そこだけは、ちゃんと言葉にして訂正するぜ」
スバルの言葉に、エキドナがきょとんとした顔で目を丸くする。
そんな反応から視線をそらすスバルは、自分の胸中の打算的な考えに辟易とした。
今のはわかりやすすぎるぐらいの、ご機嫌取りの発言だ。無論、本心である部分も半分程度はあるだろうが、協力的な魔女に悪印象を与えたくないといった側面を意識しないわけにはいかなかった。
もちろんその程度、歴戦の魔女ならお見通しではあると思うが。
「ダメだよ、もう。そうやって耳心地のいい言葉で誤魔化そうとしても、ボクは誤魔化されてはあげないからね。お茶とクッキーのお代わりいるかい?」
「そんなうきうきしながら言われても説得力ねぇよ!なんなの、お前のチョロインっぽさって。人恋しいとかいうレベルじゃねぇよ」
こんな見え見えのおべっかにまで乗ってくるエキドナの将来が心配だ。
すでに彼女にそれがないことをわかっていても――じくりと、胸の内が疼く。
「お前の体液と、なにが混入されてるかわからないクッキーは辞退しておくとして」
「髪の毛とか入れてないよ?」
「もはやお前の発言一つ一つを疑わずにはいられねぇよ!」
今後、この場所では二度と、飲食はしないようにしようと決意。
疑わしい目を向けるスバルに、エキドナは苦笑。それから彼女はじっと、こちらを観察するような目を向けてくる。時たまするその目は、なぜか居心地が悪い。
「そうやって俺の中身まで見透かそうとしてるみたいな目つき、好きじゃねぇな」
「覗き込むだけでその人の全てが見透かせるのなら、ボクは君を焼き焦がすほど見つめてもいいんだけどね……それにしても、君は自覚があるのかないのか」
「なんの話?自覚とか無自覚って」
「ボクの拙く狭い想像力で思考するとだけどね、さっきの君の状態は人間にとってそれなりに衝撃的な場面だったはずなんだよ。飢餓感に負けて、自分の肉体を食むなんてなかなかあり得るものじゃない」
エキドナの淡々とした物言いに、スバルは先ほどまでの自分の状況のひどさを再確認。持ち上げた右手に指がちゃんと五本あるのは、豪快な治療法でスバルを辻斬りならぬ辻癒ししていった魔女のおかげだ。
彼女に感謝を伝えてほしい、とスバルが伝えるとエキドナは片目をつむり、
「ミネルヴァに関しては、ボクの呼びかけ無視して飛び出してきただけだけどね。傷を見かけたらなりふり構わず飛び出していく……長生きできない性分だったよ。実際、ボクたちの中で最初に殺されたのは彼女だったし」
「魔女の最期……か。お前ら全員、『嫉妬』の魔女に食われたって聞いてるけど、聞いてもいい話題か?」
「死者に死因を聞く、というのを無神経と疑うかどうかは難しいところだろうね。あまり前例のあることではないから。ボク個人の気持ちとしては……うん、そうだね。全てを語り尽くすつもりはないかな。他の五人の名誉にも関わる」
死因については口をつぐむエキドナに、スバルはそれも仕方ないと納得。
スバルだってすでに何度も死んでいるが、それらの死因を笑って話せるかといえばそれは無理だ。『死』というものは、それほど深く重いものなのだから。
「そういう意味で考えると、俺のこの感覚が共有できる数少ない相手ってことになんのかな、お前らは」
「……いや、それはどうだろうね。確かにボクらは一度、死んでいるけれど、それでも君と同じ考え方ができるかどうかはわからない」
いくらかの共感が得られるのでは、と思ったスバルの言葉が否定された。
すげない態度にスバルはエキドナに物申したいと思ったが、それは彼女の深刻な表情の前に霧散する。彼女はスバルの方を見て、いくらか痛ましげに眉根を寄せ、
「さっきの自覚の話にも通じるが……君は、自分が今、歪な状態だと気付いているかい?」
「歪……?」
「『死に戻り』という特殊な環境がそうしたことは間違いない。だから、その原因がわかるボクにはひどく痛々しいとしか思えないけれど、それが自覚のないことならなおさらだと思ってね」
「要領を得ねぇな。つまりそりゃ、どういう……」
「君は、自分が自分の指を食わされた相手と、その傷が治ったからといって当たり前のように会話ができる状態が平常であると思っているのかい?」
「――――」
一瞬、スバルの息が詰まる。
エキドナは動きの止まったスバル、その様子をその双眸でじっくりと観察。そのまま忘れていた呼吸をやり直すスバルに、
「無自覚、ではなかったようだね」
「……意識の、仕方の問題だと思うけどな。確かに正直、今の俺の考えはだいぶまともじゃねぇって自覚はあるよ。一番大事なもんのために、他のことを削ぎ落してる感じはある」
「他のこと、というと?」
「今の俺にとっちゃ、手詰まりの状況を打破するのが一番の目的なんだ。屋敷のこともそうだし、『聖域』のことも、エミリアのことが一番そうだ。相変わらず、八方ふさがりでどっから手をつけていいのかわからなくて困ったちゃんだけど……」
鼻から息を吸い、スバルは空を仰ぐ。
青い空、白い雲が流れていく、どこか長閑な空気。それを視界に入れながら、そんな景色をゆっくりと、現実でも見上げる退屈に浸るために、
「そのために使えるもん、それを使い倒す覚悟が決まったからかね」
「……『死に戻り』を、肯定するのかい」
「肯定するわけじゃねぇよ。ただ、もともと使える道具の少ない俺には、それぐらいしか取り得がない。……勘違いしてほしくねぇけど、やりたいわけじゃねぇよ」
こちらの真意を読み取っているらしいエキドナに、スバルは意味がないとわかっていながら念押しする。
「望む未来に手を届かせるために、俺の命を費やして届くならそうする。『死に戻り』の回数限度が、とりあえずは俺の正気が維持できる限りはって保証ももらえた。それならあとは、根性なしの俺が根性振り絞って限界伸ばすしかねぇよ」
「『死』を重ねて、それで指先を届かせる。――常人にはできない覚悟だね」
「死に過ぎたからな。……どっかしらで、俺も頭がおかしくなり始めてんだろうな」
『死』を軽んじているわけではない。むしろ、スバルは自らの『死』の経験を積み重ねてきたことで、それが取り戻せない恐ろしいものであるという確信を強めてきた。それは間違いない。『死』に対する恐怖は、以前より増している。
それでもなお、スバルが自らの『死』を利用しようと思えるのは、簡単なことだ。
自分の『死』を積み重ねて、結末としてそうなるしかなかった世界を見てきたせいで、スバルは自分の『死』以上に、見知った人々の『死』に耐え切れなくなった。
彼女らを、あるいは彼らを、その『死』の逃れ得ない運命から救い出せるのなら、取り返しの利く『自分の命』などいくらでも費やしてやる。
痛みも、苦しみも、恐怖も、全て呑み込んで、死んで生き抜いてやる。
――それが今、ナツキ・スバルの歪と称された覚悟の根本だ。
「払う犠牲が俺の、心を砕くだけでいいんならそうする。『死に戻り』ってのはなるほど、無力で無知で他力本願な俺にぴったりな力じゃねぇか」
「…………」
「そこまで自分を卑下することはないよ、的な慰めが入るかと思ったけど?」
「君の周りに立ちふさがる障害を思うと、気軽にそうは言えないね。事実、君が今の状況をどうにかしようと望むなら、それを活用しない道はないだろう。ボク個人としては、『嫉妬』に頼らなくてはならないことは不満でしかないけど」
安易な慰めを口にしないあたり、エキドナは事情がわかっているタイプだ。
心強いわけではないが、こうして蹴っ飛ばしてくれる相手がいるのはありがたい。
傷だらけになることがわかっている道を歩くことにも、張り合いが出る。
「けっきょく、『死に戻り』を繰り返しながら選択肢総ざらいするしかねぇか。こうなると、あとどれぐらい痛い目見るかおっかねぇな」
「…………」
「解かなきゃな謎の一つ、『聖域』が実験場で、そこでお前がなんの実験をしてたのか……ってのは、教えてくれる気はないんだよな?」
「……うん、ないよ。言ったはずだよ。ボクは君に、軽蔑されたいわけじゃない」
問いかけに首を横に振り、エキドナはスバルの求めを拒絶する。
それを受け、スバルは「それなら仕方ない」と首の骨を鳴らし、
「お前が教えてくれないってんなら仕方ねぇ。俺が勝手に動き回って、お前が隠したがってる秘密を勝手に暴かせてもらう。その邪魔は、しねぇだろ?」
「……暴かれるのなら、仕方ないね。君が嫌がるボクの秘密を組み伏せて、強引に白日の下にさらすというのなら、粛々と受け止めるまでだよ」
「なんかいけないことやろうとしてる気分になるから言い方変えてくれる!?」
かすかに頬を染めて、スバルから視線を外すエキドナ。
狙ってこちらをからかっているのか、天然でそういった性分なのかがわからなくて困る。茶会の間で見た限り、本気で初心なねんねっぽいのが魔女怖い。
と、そうして話をしていたときだ。
「ん――」
ふいに、スバルは椅子に座ったままでいる頭に眩暈を感じる。立ち眩みに似たそれはしばし連続してスバルの意識を揺らした。それは、
「どうやら、肉体の方の目覚めが近いようだね」
「今回の茶会も終わり、か……有意義といえば、有意義だったかな」
「前回はまさかの、聞きたいことなしという話だったからね。ボクとしても、少しは『強欲』の魔女としての面目を躍如できたといったところかな?」
語りたがりの教えたがりの喋りたがりの魔女からすれば、今回の茶会は大満足といったところか。隠し切れない喜びと、立ち去るスバルに幾ばくかの未練を覗かせる様子に後ろ髪を引かれないではないが、スバルは首を振って感傷を断ち切る。
不思議なぐらいに琴線に触れる魔女だが、肩入れしすぎるのは良くない。彼女は魔女で、おまけに死者だ。どっちがおまけか、わかったものではないが。
「ここにきたいとき、俺はどうしたらいいんだ?」
「茶会の条件かい?いやいやまったく、ダメだよ、あまりボクに頼り切りになるようじゃ。確かに『死に戻り』を打ち明けられる相手が外にいなくて、今のところ、その胸の内をさらけ出せる相手がボクしかいない君の心細さはわかるけれど、あくまでボクは死者で、君は生者でなんだから……ダメだよ、もう」
「そんな予想外に嬉しそうにくねくねされながら言われても説得力ねぇよ!」
久方ぶりの客、というだけで好感度がウナギ登りの現状をどう判断すべきか。
頬に片手を当てて、ちらちらとこちらを見ているエキドナへの態度を決めかねていると、彼女は「ふふふっ」と口元を隠して笑い、
「そんなに困った顔をしないでおくれよ。ボクだって女の子なんだから、こんな風に少しぐらいは浮かれた会話をしたいときもあるんだよ。それだけのことじゃないか。魔女と人の間の溝ぐらい、弁えているよ」
「……エキドナ」
「茶会の条件だけど、墓所で心の底から『知りたい』という欲求を叫ぶことだよ。初回は問答無用で招けたけど、二回目以降は簡単にはいかない。三回目も……難しいんじゃないかな、と思う。上辺の叫びじゃ、ボクに届かないからね」
早口に語られる内容に、スバルは招かれる直前のことを思い出す。
大兎に全身を食い千切られての『死に戻り』を果たし、肉体が『死』の感覚を引きずって悶え苦しむ中、なにが起きたのかと意識は叫び続けていた。
今回はそれを耳にしたエキドナに茶会に招かれた形だ。次にここにきたければ、それと同等かそれ以上の懸命さでなければならないという話だが。
「確かに、それは遠慮したいな……」
「だろうね。だから、ボクと君が顔を合わせられるのはこれが最後かもしれない。もっとも、君が『試練』に挑むようならその限りじゃないけどね」
第一の『試練』のときと同様、第二と第三の『試練』の場にも彼女は居合わせるらしい。スバルがエミリアに代わって『試練』に臨むのであれば、その再会は約束されたようなものだろう。
つまりは、
「また『試練』の間で会おう、ってことか。茶は、そのときにはないだろうけどな」
「君がどうしても飲みたいっていうなら、その場で淹れるのも吝かじゃないけど……」
「いや、製造過程を見るとますます飲む気がなくなりそうだからいいです」
掌を差し出して拒否すると、エキドナはこれまでで一番の落胆の表情。
なにがそれほど彼女に、自分の体液を押させるのかがわからない。自分の一部が他人の一部になることに快感を覚える、そういった性癖関係だろうか。業が深い。
「そろそろ、消えるか……それじゃエキドナ、世話になったな。また会ったら……」
「その前に、いいかな?」
自分の体の感覚がだいぶおぼろげになるのを感じて、スバルはエキドナに別れを告げようとする。が、それを止めたのはエキドナ自身だ。
彼女は席を立つと、その喪服のスカートの裾を揺らしながらスバルへ歩み寄り、
「茶会に参加し、君にボクの知識の一部を譲渡したわけだけど……なにか、忘れていないかな?」
「忘れ物?」
「対価、だよ」
目を細めて、エキドナは首を傾げるスバルに赤い舌を見せて言った。
その言葉にスバルは目を見開き、「対価……」と口の中だけで呟く。その呟きにエキドナは「そう、対価」と頷き、
「前回も課したはずだけど、魔女との取引にはそれが付き物だ。前回の対価は前回のものとして、今回の対価はなにをいただこうか」
「しゅ、出世払いってのは駄目かな?今、持ち札の少ない俺からすると、持ってかれたり条件が課されたりするのって厳しさが上がっちゃうんだけど」
「魔女と交渉するには、ちょっと話術が足りないかな」
椅子ごと後ずさるスバルを追い詰めて、エキドナは可愛い顔に嗜虐的な色を浮かべる。そのまま彼女はスバルの体を上から下まで眺めて、なにをいただこうかと思案中。
魔女の対価――前回は、現実に戻ったときのエキドナの存在の忘却だった。今回もそれをされると、この茶会の内容事態が消えそうで攻略が遠のく。ただ、他の重い条件を課されても遵守できるかは不明であり、
「よし、決めたよ」
どうなる、と身構えるスバルに対し、エキドナは上体を折ると顔を近づけてくる。あわやその唇がこちらを掠めかけるのにスバルが動揺すると、そのまま彼女の体はさらにスバルの下――胸の内へ進んだ。
ふわりとなびく白髪、至近で身じろぎする魔女からはほのかに花の香りが漂い、スバルは久々に美少女に対する免疫力の弱さでどぎまぎする。
と、エキドナはそんなスバルの内心を無視して、こちらの胸に触れて、
「これを、いただこうか」
「……お、え?」
当惑するスバルの胸、そこから手を抜いたエキドナ――彼女の白い指先に握られているのは、風にひらひらと揺れるハンカチだ。
白い生地の縁を金であしらったそれは、裏地に灰色の大精霊が刺繍されたもので、
「『聖域』の出発前に、ペトラがくれたハンカチ……?」
「君にこれをプレゼントしてくれた人に感謝した方がいいね。これには純粋な、君の身を案じる想いが強く込められている。通す針と糸の一つ一つに、それを媒介にした魔力がこもっているよ。こういうものに宿る力は、非常に興味深い」
「……ペトラが、そうか」
「想われているんだね。想ってくれていた子には悪いけれど、これをいただこう」
裏地に入ったパックの刺繍に頬を緩めて、それからエキドナはハンカチを懐にしまい込む。そしてスバルの体から身を離すと、
「茶会の対価、確かに徴収したよ。またのご参加を、心よりお待ち申し上げる」
茶化した態度でスカートの端をつまみ、上品にお辞儀してみせるエキドナ。
そんな彼女の、せめて気軽に送り出そうとする気遣い――らしくないそれにスバルは椅子から立ち上がると、
「わざわざありがとよ。色々とな。――ごきげんよう」
同じように服の端をつまんでお辞儀して、エキドナを苦笑させてやる。
そして景色が白い光に包まれて――スバルは茶会から退席したのだった。
※※※※※※※※※※※※※
――茶会から意識が舞い戻ったスバルが感じたのは、いきなりな床の冷たさと固さと、そして口の中に入った土埃の不味さだった。
「うえっ!げっぺっぺ!これ、毎回のデフォかよ……っ!」
口の中の異物を吐き出し、体を起こしたスバルは頭を振って意識の覚醒を促す。
まず、自分の体の調子を確認しつつ、目覚める前の出来事を回想。自分が大兎に食い殺されて戻ったことと、直後にエキドナの茶会に招かれたこと。ダフネにひどい目にあわされつつ、覚悟を固めて、ペトラの幼い想いに救われて戻ったこと。
いずれも、記憶の中からは消されていない。それに安堵しながら、
「エキドナは約束を守ったか。今度の茶会は、俺の記憶からも消えてねぇしな」
白髪の魔女のことも、今度はちゃんと記憶に鮮明に焼きついている。
イマイチ魔女らしさに欠ける人物ではあるが、こうして約束を守ってくれたあたり、スバルに対する親身な対応と合わせて数少ない味方と思っていいだろう。
頼れるチャンスがそれほどなさそうなのが残念ではあるが、
「今回はなによりの収穫……って言っていいのかだけど、それがあるしな」
胸に手を当てて、スバルは茶会の出来事――即ち、『死に戻り』を告白できたことを改めて思い出し、救われた気持ちを噛みしめる。
あの場所で、エキドナや他の魔女たち限定ではあるものの、それを打ち明けて、そのことについて誰かと頭を悩ませることができたのはなによりの収穫だった。
『死に戻り』について、スバルよりも異世界事情に詳しい相手の考察を聞けたこともその一つだ。
『嫉妬』の魔女が全ての原因であり、いずれそれと向き合わなくてはならないときがくるのだと、そういう厄ネタを抱えて戻ったという意味でもあるが。
「そんな気持ち新たに、ナツキ・スバル新生だ。今はその魔女の力に頼らせてもらうさ。何回でも、俺の命ぐらい使ってやらぁ」
それで答えに近づけるのなら、望むところなのだから。
「茶会のせいで時間感覚がおかしいけど、今は『試練』直後、だよな」
『死に戻り』の場面が変更されていない、というのはエキドナの言だが、頭を振って周りを見回すスバルの認識でも、ここが墓所であることは間違いない。
彼女の発言が正しかったことを確認しつつ、スバルはまずはこの場からエミリアを連れ出すことを始めなくては、と彼女の姿を探す。
「『死に戻り』直後のこと考えると、三回目だしガーフィールの対応も考えないといけねぇな。……まさかいきなり、殺しにかかってくるとは思わないけど」
それでも、短絡的な人物の行動だ。先は読めない。
彼のことを思い出したことで、直前の『死』。大兎に食い散らかされた直接的な死因と、その前の村人虐殺の場面も思い出し、意図せず暗い感情が湧く。
大兎の撃退、エルザの撃退、『聖域』の謎、そしてガーフィールの落とし前。
起きていない世界の出来事だからといって、スバルはしかしあれを許せる気がしない。なんらかの形で、ガーフィールにも報わせなくては。
内心でそんなことを考えながら、スバルは表にいるだろうガーフィールへの負感情を高めていたのだが、その思考がふいに途切れる。なぜなら、
「……エミリア、どこだ?」
――彼女の姿が、どこにもない。
違和感にスバルは眉を寄せて、暗い墓所の中で懸命に目を凝らす。が、それほど広くない『試練』の間のどこを見渡しても、エミリアの細い体が横たわっているのを発見することができない。
それは、これまでにない異常事態だった。
「俺が『試練』直後なら、エミリアはまだ『試練』の最中のはずなのに……」
本来、第一の『試練』を突破できず、過去と苦しみながら相対しているエミリアがスバルの傍らにいるはずなのだ。
それなのに今、彼女の姿が墓所の中にない。しかし、時系列は間違いなく、スバルを『試練』直後の墓所の場へと戻している。
「…………」
嫌な、予感があった。
この場にエミリアがいないことと、これまでとの状況の違い。
あるはずのない変更は、スバルが行動したことで未来が変わったからだ。だが、目覚めていなかったスバルの行動、それがなんの影響を与えるというのか。
焦燥感に掻き立てられるまま、スバルは『試練』の間から駆け出し、通路へ。そして固い靴音を響かせながら通路を抜けて、そして墓所の外へ。
そして月明かりの下、墓所の外へ出たスバルが見たものは――。