『サソリ座の女』
――初めてシャウラの名前を聞いたとき、何も思わなかったわけではない。
それは何も、『シャウラ』の名前自体に特別な思い入れがあったからではない。
ただ、その響きにスバルは覚えがあった。
『シャウラ』とは、スバルの知る夜空に輝く星の名前――さそり座を意味する単語。
さそり座の名を冠する人物の正体が漆黒の甲殻を纏った大サソリとは、実にひねりのないシンプルな回答だ。ひねりがなさすぎて、名付けた人物のセンスが疑いたくなる。
だが、目下、そのセンス不足の第一候補は『お師様』扱いのナツキ・スバルだ。
記憶の有無と無関係に、シャウラに名前を付ける機会がスバルにあったとは思えないことと、それを悠長に検証している余裕が今の自分たちにないのが問題だが。
「――――」
眼前、エミリアとラムのタッグが、『暴食』の大罪司教であるルイ・アルネブと熾烈な戦いを続けている。その戦場を間に挟み、通路の奥では漆黒の大サソリが凶悪な鋏を鳴らして、赤い複眼でこちらを見据えている。
殺戮のために進化した天然の大鋏、禍々しく擦れ合う刃の音の重みは、人体など骨や内臓ごとあっさりと断ち切るだろう鋭さを予想させた。
赤い複眼、禍々しい二本の大鋏、巨躯を支える複数の足と、鉄の鎧もかくやという強度を誇る甲殻、全てが洗練された破壊と暴力の象徴だ。
事実、その戦闘力は外見の凶暴さを一切裏切らない。
すでにそのことを、スバルはここまでの戦いで、これまでの世界で、幾度もこの目で確かめ、あるいは自分自身の肉体で実感してきたのだ。
「お……」
その自覚が芽生えた瞬間、スバルの脳裏を前のループでの出来事が過った。
大サソリの猛攻を退け、どうにか一時的に撤退させたと思った直後、スバルたちは凶獣の残した置き土産の炸裂を浴び、ベアトリスとエキドナの二人の命を奪われた。
あのとき感じた耐え難い怒り、それは忘れられない。
抱いた憤怒は何もできない自分自身の無力さへの憤りであり、同時に、あの殺戮を行った大サソリへの抑えようのない怒りでもあった。
――その憤怒の対象であった大サソリ、その正体が仲間のはずのシャウラだった。
そうわかった今、スバルの心中を占めるのは行き場のない激情と、疑念の嵐だ。
何故、シャウラが大サソリの姿をしているのか。
何故、シャウラはスバルたちを攻撃し、殺そうとしているのか。
何故、シャウラはこの局面で本性を現し、戦いに横槍を入れてきたのか。
何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故――。
「――スバル、落ち着くのよ。まず、深呼吸するかしら」
「――――」
あれこれと衝撃的な事実に思考を埋め尽くされるスバル。そのスバルの名前を柔らかく呼んで、正気に引き戻してくれたのは傍らのベアトリスだ。
彼女の小さな掌に手を握られ、スバルは初めて自分が呼吸を忘れていたことに気付く。ゆっくりと、指示に従い、スバルは深々と息を吸って、吐いた。
そして、
「それでいいのよ。――あれが、シャウラだっていうのは事実なのかしら?」
ベアトリスの問いかけに、スバルは改めて自分自身に確かめる。
『コル・レオニス』――芽生えたばかりの、その特性を把握したての権能だが、これが仲間の居所をスバルに伝え、味方の不調を引き取る力であることは間違いない。
故に、スバルは塔内にいる仲間たち、エミリアやラム、ベアトリスやユリウス、メィリィにエキドナといった面々の居場所をぼんやり把握することができているのだ。
そして、その仲間たちに感じる淡く温かな感覚を、あの大サソリにも感じている。
現状の塔での仲間たちの位置関係を思えば、他の候補者は考えられない。
だから、あの大サソリは間違いなく――、
「絶対にシャウラだ。なんでかわからねぇが、でかいサソリに化けてやがる……」
「――。元々、正体不明の娘だったのは事実なのよ。その正体が、ちょっと大きめの虫だったくらいじゃ驚くに値しないかしら」
「すげぇ胆力だな……」
サソリを虫と言い切り、ベアトリスはその衝撃を理解力ではなく対応力で受け流した。その対処法に舌を巻きつつ、スバルは今一度、大サソリを睨みつける。
どこを見ているのかわからない赤い複眼、それに真っ向から視線を突き刺して、
「何とか答えたらどうだ!もう、てめぇの正体は割れてんだぞ!!」
「――――」
「言い訳とか、獲物を前に舌なめずりとか、やることがあんだろうが……っ」
怒声を張り上げると、気怠い体調不良の頭がひどく痛む。が、スバルはその痛みを無視して、大サソリの返事を求めた。
しかし、大サソリは意思疎通不可能な外観のままに、一切の返事をしようとしない。
「言い訳一つ、してくれねぇのかよ……」
弱々しく呟いて、スバルは嘔吐感と戦いながら思考する。
先も蘇った記憶の通り、スバルはこの大サソリに何度も辛酸を舐めさせられた。
あの天真爛漫で野放図で、スバルに対する好意なのか親愛なのかを一切隠そうとしなかったシャウラ――その彼女に騙され、謀られていた事実が鋭く胸を突く。
あの笑顔も、言葉も、態度も何もかも、作られた偽物だったのかと。
彼女は、スバルたちを騙していた裏切り者だったのかと。
「いや……」
裏切り者、という表現を浮かべて、スバルは微妙な違和感に頬を硬くした。
シャウラが裏切った。――その考え自体は現状を鑑みれば仕方のない結論だ。だが、はたして本当にシャウラの全てが偽りだったのか、そこには議論の余地がある。
無論、シャウラのこれまでの言動全てが演技で、笑顔もスキンシップも何もかもが騙すための詐術だった可能性はありえる。
ありえる。が、何のために――?
演技してスバルたちの懐に潜り込むなら、その目的はスバルたちへの敵意だ。
しかし、シャウラにその気があったなら、こんな局面で戦いに割り込んでくるような真似をしなくても、ここまで何度でも寝首を掻くタイミングがあったはずだ。
それこそ、スバルたちの懐にあれほど深く入り込んでいたのだから、同行中、ゆったりとした時間の端々でそっと毒を差し込むチャンスは無限にあった。
その機会を逃してまで、どうしてここで裏切りを露呈したのか。
そんなの、全く合理的ではない。
わざわざ迂遠な真似をして、スバルたちの仲間の振りをする意味がどこにある。
スバルの頼みを聞いて、メィリィを止めるのに協力してくれたのも、バルコニーで魔獣の群れを相手に超魔法を披露しているのも、意味がわからない。
何もかも、筋が通らないではないか。
「そう考えたくなるのは、俺があいつのホットパンツから見える白い足に魅了されちまってるからなのか?」
「それでスバルの考えが甘くなるんなら、シャウラの作戦も捨てたもんじゃないのよ」
「だな。俺の気持ちはエミリアちゃん一直線だから……って、うおわ!?」
シャウラの行動への違和感を共有したところで、不意にベアトリスに腕を引っ張られる。それは抗議ではなく、強引な救出行動だ。
思わず踏鞴を踏んだスバルの頭上を白光が突き抜け、間一髪で命を拾う。
「どうやら、くっちゃべってる暇はないみたいかし、ら!」
言いながら、スバルと繋いだのと反対の手を掲げ、ベアトリスの周囲が淡く輝く。
展開されるのは紫色の光を纏い、その先端を鋭くした大量の結晶だ。スバルたちを囲い込むようにして展開する紫矢、それが真っ直ぐ、大サソリへ向けて射出される。
瞬間、同じく前方から飛来してくる白光と紫矢とが激突、光が乱舞する。
「うおおおおおお!?」
「頭下げてるのよ!直撃されたらヤバいかしら!」
煌めく紫の光が荒れ狂い、ガラスの砕けるような音が通路に美しく連鎖する。
その目を焼くような煌びやかな光景と裏腹に、大サソリから放たれる閃光――否、その鋭い尾針の一撃は、容赦なくスバルの命を串刺しにせんと狙いを定めていた。
その押し寄せる殺意の一矢ならぬ百矢を、ベアトリスが紡いだ魔法の力で受け流し、打ち払い、撥ね除けることで守ろうとしてくれている。
しかし、その物量が圧倒的だ。
「ぐ、マズいのよ……!このままだと、すぐにこっちのマナが尽きるかしら……!」
「尽きるとどうなる!?」
「ベティーとスバルが仲良く一本の針で串刺しなのよ!」
仲良しはともかく、その状況はいただけない。
襲ってくる猛攻に対し、ベアトリスの余力が長持ちしないのは本人の自己申告通りだ。このままじり貧で押し潰される前に、何とか状況を打破する必要がある。
そうした危機感に、スバルが歯噛みした直後――、
「――さっきから、人の頭の上でビュンビュン危ないじゃない!」
銀鈴の声音が強く言い放って、強大な氷の礫が大サソリの甲殻を豪快に殴った。撃音が通路に響き渡り、サソリの無感情な赤い複眼が驚愕を得たように映る。
そしてその反応を引き出したのは、通路に生み出した氷壁を蹴り、サソリの懐へと果断に突っ込んだエミリアだった。
銀髪をなびかせ、壮麗にサソリへ飛びかかる彼女は氷の長剣を振りかざし、
「スバルたちを狙って……弱いものいじめなんて卑怯よ!」
「――――」
唐竹割りに打ち下ろされる氷の剣撃、それを巨大な鋏で打ち払い、大サソリが複数の足を蠢かせて高速で後退する。が、エミリアは逃がすまいと巨体を追いかけ、狭い通路を縦横無尽とした、美少女とサソリの三次元的戦闘が始まった。
「てや!えい!うりゃぁ!」
生み出される氷の長剣、双剣、槍、大槌が軽やかな音と共に砕かれ、きらきらと散った氷片の舞う中をエミリアが舞い踊る。
大サソリの強靭な鋏、その力は圧巻で、受け止めた相手の武器を容易く砕き、断裁する剛力を秘めている。だが、エミリアにはその武器破壊が通用しない。
エミリアのアイスブランドアーツは、彼女の魔力で無数の武器を作り出す戦法だ。
使い捨ての氷の武器は、エミリアにとって仮初の愛用品。いくら砕かれ、切断されようと、エミリアは痛くも痒くもない。
「そ、やぁ!!」
振り回される鋏と尾針、それを回避したエミリアが宙に浮かせた氷杭を射出する。それがサソリの放った白光と正面から衝突、光が散る。
それは人と人外の、圧倒的な力を持つもの同士の攻防だ。
驚嘆すべきはエミリアのセンスで、人型の相手とは大きく対処法の異なるだろう敵に躊躇いなく飛び込み、食い下がっている。
本能的な戦い方をよしとするエミリアにとって、敵の姿かたちは絶対ではない。積み上げてきた鍛錬ではなく、その身に有り余る戦闘センスがモノを言うのだ。
故に、エミリアと大サソリの攻防は一進一退、五分五分の状況が成立する。
だが、エミリアが大サソリと戦うことで、別の戦況は大きく影響を受けざるを得ない。
例えばそれは、あくまで二人同時に攻め込むことで成立していた、『暴食』の大罪司教ルイ・アルネブとの攻防――それが、ラム一人へと委ねられたように。
「ラム!!」
「いちいち怒鳴らなくても聞こえるわよ。黙りなさい。気が散るから」
その身を案じるスバルの声を、無体な返事がすげなく払う。
一人、通路の中央でルイと対峙するラム。彼女はこちらへ背中を向けたまま、凄まじい圧力を発している巨躯と真っ向からぶつかっている。
当然、エミリアが抜けた分、戦況は苦しくなったはずとスバルは見るが――、
「しっ!」
「ひぎゃはっ!姉様ってばひどいひどい!」
粘着質な笑みを浮かべ、頭を振った巨躯が後ろへ飛びずさった。
顔面へ受けた肘鉄、その衝撃を散らすための後退だ。そうする巨躯の前、鋭く身を回したラムが、『拳王』を名乗る達人へと果敢な超接近戦を仕掛ける。
ルイの使用する格闘技は、『拳王』の名に恥じない殺傷力を有している。しかし、ラムはその極まった戦技を、常軌を逸したセンスだけで圧倒していた。
今も、繰り出される彼女の白い拳が、相手の正中線へと容赦なく撃ち込まれる。
「すごいね!すごいな!すごいよね、すごすぎるね!姉様ってば知ってた以上に強すぎるッ!何これ何これ、なんでそんなに動けるの!?」
「知ったような口を利かないで、黙って死になさい」
猛烈な打撃を浴びて、痛みに身悶えしながら歓声を上げるルイ。
今のルイは右腕をへし折られ、腕の一本を封じられた状態にある。その状態ではいくら徒手空拳を極めた男の肉体だろうと、そのスペックを発揮することができない。
『拳王』の培った武術の経験値、それも不調の消えたラムの前では形無しだ。
それほどまでに、ラムの生来のスペックは敵を圧倒している。
しかし、そうしてラムが奮戦すれば奮戦するほど――、
「ぐ、ぶ」
込み上げてくる嘔吐感、無制限に高まっていくような体温。頭の中で銅鑼を打つような冒涜的な耳鳴りと頭痛を感じながら、全身の気怠さにスバルは抗う。
これが、常日頃、ラムが味わっていると思われる絶不調。
それが容赦なく、スバルの心身を鑢がけして削っていく。慣れるどころか、一秒ごとに重くなっていく悪寒、それはラムのボルテージが上がれば上がるほど、その重みを顕著なものにしていった。
「――――」
だが、その嘔吐感を、頭痛を、倦怠感を、スバルは奥歯を噛んで耐え忍ぶ。
この権能のおかげで、ラムの苦しみを引き取り、彼女に戦う力を与えることができる。ここでスバルが苦しむぐらいの反動、呑み込むべき代償だ。
全身がだるく、手足が軋み、耳鳴りがうるさく、切り裂かれた腿が痛み、殴られた腹が苦痛を訴え、力の行使による消耗に息が上がり、視界が赤と白に明滅しようとも。
――このぐらい、屁でもないと虚勢を張れ。
「――馬鹿ね」
そうして、ベアトリスの背後で膝をつくスバルの方をちらと見て、ラムの唇が小さく何かを呟いたのが見えた。
が、権能は負担を引き受けるだけで、相手の全てがわかるわけではない。
短く呟かれた言葉は聞き取れず、スバルの眉を顰めるだけの結果となった。
しかし――、
「いい加減に倒れなさい。あまり長引かせると、うちの雑用係が昏倒するわ」
「つれないね、つれないな、つれないじゃない、つれないったらないんだから!姉様、姉様!もっと遊びましょう!楽しもうよ!あたしたちって姉妹なのに、こんな風に取っ組み合ったことも一回もなかったじゃないッ!」
「――なら、望み通りにしてあげる」
冷たく目を細めて、ラムがはしゃぐルイの横っ面を平手で打った。
そのまま流れるように、同じ頬へと肘鉄を入れ、高速回転しながら無数の打撃をルイの全身へ叩き込む。
防戦一方となるルイ、その顎を真下から掌で跳ね上げ、ラムは相手の胸倉を掴むと横手の壁に力ずくで顔面をぶち込み、その後頭部に可憐な膝を叩き込んだ。
「ぷ、げ」
石壁と膝で顔面を挟まれ、鼻面を潰されるルイが血をこぼしながら倒れる。そのルイの剥き出しのうなじへと、ラムは躊躇いなく掌を向けた。
その掌には、極々小規模な風の刃が渦巻いている。だが、その大きさを侮るなかれ。掌に生じた風刃の渦は、人体の急所を抉るだけなら十分な威力がある。
壮大な破壊など必要なく、人体急所を抉って敵を仕留める最低限の攻撃。それを首へ浴びれば、いかに『拳王』とやらの太い首でもひとたまりもない。
そうして、ラムの一撃が勝負を決めようと――、
「――ったく、人が寝てる間に勝手なことするんだからさァ。これだから、末妹ってのはわがままでいけない。姉様も、上の立場として同意見でしょ?」
「――っ」
うなじへの一撃が決まる瞬間、『拳王』の姿が変化し、ラムの掌打が外れた。
直後、ラムの細い胴を正面から捉えたのは、著しく背丈が低くなったルイの――否、ライ・バテンカイトスの後ろ蹴りだった。
「スイッチ……!?」
「違う違う違う違う違うってッ!そんな狙ってやったわけじゃァなくてさ、たまたま目が覚めた瞬間、妹が劣勢だったってわけ。お兄さんならわかるんじゃないの?兄弟がやってるゲームが下手で、見てられなくってコントローラーを取り上げちゃう気持ちがサ」
だらりと舌を伸ばして、焦げ茶色の髪をした悪辣、ライがスバルに笑いかける。
そのライの凶笑の裏側では、土手っ腹に蹴りを受けたラムが大きく後ろへ下がっていた。そして、彼女はその一発に頬を歪め、荒く重たい息を吐く。
同時、スバルは彼女の足を止めた原因、それを権能で引き受けた。
そうして――、
「ぐ、ぎあぁぁぁぁ――っ!」
焼けつくような痛みが腹部で発生して、耐え難い灼熱にスバルが絶叫する。
まるで、腹を火掻き棒で掻き回されるような激痛に苛まれる。衝撃に視界が白み、体内の臓器がいっぺんに悲鳴を上げたのがわかった。
「はあん?やっぱりね。動けるわけない姉様が動けたのって、お兄さんのおかげだったわけだッ!姉様ったら、妹がいない隙に妹の想い人と絆を深めたわけ!?」
戯言を口走るライが、絶叫するスバルを見ながら踵で床を打つ。その足下、踵から刃先の短い隠し刃が覗いており、その先端をラムの血で濡らしていた。
刺された。その痛みを、スバルがラムから引き取って苦しんでいる。
あるいはこの灼熱、刃には何か毒でも塗ってあったのかもしれない。ゾッとするほどの勢いで体温が低下し、全身からおびただしい汗が流れ始める。
「スバル!?」
「バルス、やめなさい!」
絶叫するスバルにベアトリスが驚愕し、ラムが状況を察した形相で叫ぶ。
腹を刺され、流血する腹部の傷。その痛みが和らいで、動きに傷と失血の影響がないとなれば違和感を抱いて当然だ。だが、スバルは必死に首を横に振った。
この苦痛はラムには返せない。返した途端、ラムは動けなくなる。
当然の流れだ。これらの痛みはスバルのところにあるのが一番いい。そうしておけば、まだ誰も負けずに済む。戦える。戦うのを手伝える。
「まだ……」
「ベアトリス様!バルスを連れて下がってください!邪魔なだけです!」
うわ言のような声を漏らすスバルの様子に、ラムが素早い判断を下した。
彼女は脱いだ上着を腹の傷に巻いて止血すると、その上で戦闘の続行を決断。その代わり、スバルをこの場から離脱させるようベアトリスに促した。
そのラムの判断に、ベアトリスがスバルの袖を引いて従おうとする。
「スバル!ラムの言う通りかしら!今はここから離れて……」
「だ、ダメだ……!俺が、ここから離れたら……」
袖を引くベアトリスに首を振り、スバルはこの場に踏みとどまろうとする。
今、ここで戦域から離れると、『コル・レオニス』の効果が切れ、ラムが支える戦場が一気に瓦解してしまうかもしれない。
そうなれば、ここからスバルが離脱して、いったい何の意味がある。
「く……!エミリア様!一度こちらへ!」
「え?あ、うん!わかったわ!」
居残ろうとしたスバルを見て、ラムがエミリアを呼びつける。
その呼びかけに、大サソリとの戦いに集中していたエミリアが大きく後ろへ飛びずさった。それを大サソリが追ってこようとするが、その追撃は通路を埋め尽くすような強大な氷壁によって妨げられる。
無論、大サソリの鋏の前には氷壁など一秒ともたないが、エミリアの後退にはその一秒で十分だった。
そこへ――、
「おいおいおい、ちょっとちょっとちょっと!そんな調子で戻られても、はいそうですかって見逃すとでも思って……」
「――うるさい」
「うひぇ」
舌なめずりしたライが、下がるエミリアの背中に短剣を振り上げる。それを、低い姿勢から忍び寄るラムの足払いが豪快に払いのけた。
そうしてひっくり返るライの頭上を、ハードルを飛び越えるようにエミリアが乗り越える。その結果、ライが通路で立ち上がると――、
「――――ッ」
「ちィ!はははッ!なんだなんだ、やってくれるじゃないかッ!」
猛然と、エミリアに追いつこうとする大サソリが、戦域に置き去りを食らったライと激突する。大サソリの複眼は本命のスバルへ向いているが、それでも途中に立った邪魔者を無視して通り過ごせるわけではない。
大サソリの鋏が振るわれ、ライがそれを短剣の驚異的な剣技で受け流す。脆い刃など野生の一撃に容易く砕かれそうだが、ライの技量はそれを易々と実現していた。
そのまま、敵と敵とがぶつかるのを尻目に、
「エミリア様!バルスを!」
「任せて!」
通路を駆けてくるラムの一声を聞いて、エミリアが蹲るスバルを抱きかかえる。エミリアの細腕に担がれ、「うおわ!」とスバルが驚きの声を上げるが、
「ごめんね、ちょっとだけ大人しくしてて!」
「女の子に担がれて、プライドが傷付く……」
「傷付く矜持なんて今さらないでしょう。大人しく荷物扱いされなさい!」
減らず口を叩くスバルを担いだまま、エミリアの速度は一向に落ちない。
背後ではライと大サソリの激闘が繰り広げられており、どうした決着を迎えるにせよ、しばらくは両者の足止めは続くはずだ。
とはいえ――、
「――シャウラの狙いはスバルのはずなのよ。目を離すと、どこから仕掛けてくるのかわからない方が危険かしら!」
「それが問題です、ベアトリス様。――あれが、本当にシャウラなんですか?」
スバルを担いだエミリアと並走して、ラムとベアトリスが状況を交換する。
ラムからの問いかけは、スバルが確信を得ている大サソリの正体への確認だ。それを受け、ベアトリスはスバルを横目に頷くと、
「スバルが確信してるのよ。あの、光を飛ばしてくる攻撃も、符合するかしら」
「……バルコニーや、砂丘を抜けるときに見せた攻撃ですか」
ベアトリスの分析を聞いて、ラムも思わしげに眉を寄せる。それから彼女はスバルの方を見ると、エミリアの腕の中で揺られるスバルの額を叩いて、
「バルス、何をしているかわからないけど、それを解きなさい。そのままだと……」
「お、俺が耐えかねるってか?言っとくが、俺は男の子だぜ。やせ我慢と強がりは、俺たち男の特権……」
「それだけボロボロで、エミリア様に担がれていてよく言えたものね」
「うぐぅ」
ラムの言葉にぐうの音も出ない。
実際、ラムの不調を引き取った影響で、全身が気怠くて呼吸すら辛い。秒単位で負債が増していく疲労感は、まるで命を蝕まれる呪いを受けたかのようだ。
そんなスバルの強がりに、エミリアが「やっぱり」と呟いて、
「スバル、何かしてるんでしょう?途中から、私もすごーく体が軽くなったし、打たれたところも痛くなくって……ベアトリス、もし、スバルに無理させてるなら」
「ベティーじゃないのよ。これは、スバルが勝手に……権能でやってることかしら。ベティーだって、やめさせられるならやめさせたいのよ」
「権能……?」
苦言を呈したエミリアに、ベアトリスが自分の関与を否定しながら渋い顔をする。彼女が口にした響きに、エミリアとラムが揃って眉を顰めた。
権能と、ベアトリスはスバルの操った力に心当たりのある様子だが――、
「ベアトリス様、権能というのは?」
「――。加護の、上位互換みたいなものかしら。スバルはかなり無茶してそれを使っているのよ。エミリアとラムの調子も、それが原因かしら」
「――――」
その話を聞いてエミリアが息を呑み、ラムの視線が鋭くなる。
状態的には楽になっているはずなのに、ラムの薄紅の瞳に宿るのは強い怒りだ。その瞳のまま、ラムはスバルを睨みつけ、
「ラムの責任を勝手に持ち去ろうだなんて、いつからそんなに偉くなったの?」
「悪いな……紳士なんだ。だから、女子の荷物はスマートに持ってあげちまう……」
「その結果が女子の荷物代わり?何度も言うけど、本末転倒ね」
続いたラムの嘆息は、どこかスバルの姿勢に諦めを感じたものだった。彼女にも、スバルがこの負担を返還するつもりがないことが伝わったのだろう。
永遠に抱えていることは正直しんどいが、それでも、戦いの間ぐらいは――、
「――そう、だ」
そこまで考えたところで、スバルはようやく自分の腹の奥底――不調を訴える内臓各員ではなく、もっと別の部分へ意識を張り巡らせた。
意識は自分という肉体を通過し、知覚できる範囲を大きく広げる。そして、『コル・レオニス』によって把握していた、仲間たちの状態と居場所へと繋がった。
変わらず、『タイゲタ』にはエキドナとレム、それからパトラッシュがいる。少し離れて階下にジャイアンがいて、それから――
「やっぱりだ」
「やっぱり?何がやっぱりなの?」
「メィリィは、今も、バルコニーで魔獣を押しとどめてくれてる……」
わずかに距離を離れはするが、四層のバルコニーでちらつく淡い光はメィリィだ。シャウラを欠いた状況ながら、彼女は自身の力を総動員し、魔獣の群れに対処している。
その奮戦ぶりには心底感心するし、感謝もするが――、
「あの娘は、シャウラに襲われてないってことになるのよ」
「その通り」
ベアトリスの一言を、スバルはエミリアの肩の上から肯定する。
各所での戦いが始まった直後、スバルは監視塔へ押し寄せる魔獣の群れの対処をメィリィとシャウラの二人に任せていた。
その後、シャウラが大サソリの姿でスバルたちの襲撃に現れた以上、当然、一緒にいたはずのメィリィの安否が気遣われたが――彼女の無事は、スバルが感じ取っている。
つまり、
「シャウラがああなったのは、メィリィと別れたあと。いずれにせよ、メィリィにシャウラは手出ししてない……」
そのことと現状にどんな関連性があるのか、働かない頭では考えられない。
その上、このまま逃げ続けるにしても――、
「起きてる問題を解決しないと、逃げてても追い詰められるばっかりになっちゃう!」
嘆くようなエミリアの叫びが、今のスバルたちの現況を見事に言い表している。
五つの難題の内、魔獣の群れにはメィリィが、大サソリと『暴食』は今はお互いに食らい合いを続けており、そして漆黒の影の到来はまだ兆しを感じない。
しかし、理不尽な神の鉄槌である暴力装置レイド・アストレアは――、
「――っ、止まりなさい!」
「――!?」
先頭を走っていたラムが、後ろに手を伸ばしてエミリアたちを制止する。とっさに立ち止まった三人の正面、一瞬遅れて衝撃波が突き抜けた。
衝撃波は石造りに見える通路を斜めに両断し、石材と噴煙が立ち込める。
破壊は不可能と、そうした触れ込みだったはずの監視塔が破壊されるのは、スバルの記憶によればこれで三度目――ただ、影による圧搾以外では、初めてのことだ。
そして、その破壊の正体は――、
「ラム女史……それに、エミリア様とベアトリス様か」
「ユリウス!?」
噴煙を破り、大きく後ろ飛びに姿を見せたのは白い装いを血と埃に汚した美丈夫、ユリウス・ユークリウスだった。
その場で足踏みした彼は衝撃を散らすと、ちらとその黄色い瞳で背後を振り返り、エミリアの肩の上にいるスバルを見やると、
「別れてほんの数分だと思ったが、ずいぶんと手酷くやられたようだね」
「うるせぇ……一応、無傷だよ……」
「無傷の人間の脂汗には見えないが……」
青白い顔色と、息も絶え絶えに憎まれ口を叩くスバルにユリウスが片目をつむる。察しのいい彼にも、さすがに『コル・レオニス』の権能の効果までは読み解けまい。
それに生憎と、そのことについて落ち着いて話し合いをする時間は残されていない。
「頼むから、レイドの首は刎ねてきたって言ってくれ……」
「事実と異なる報告をするのは、騎士として非常に苦しい選択だ」
「……もはや、それが答えになってるかしら」
祈るようなスバルの訴えが、生真面目な返答によって言外に否定される。希望が絶望に塗り替わる感覚を味わいながら、苦い顔になるスバル。
その鼓膜を、砕けた壁の破片を踏みしめるゾーリの音がして、
「はン!女共が揃ってお出迎えたぁわかってンじゃねえか、オメエ。ちっとばかし遊ンでやって、退屈してきたとこだったンだ。オメエらでオレの相手すっか、あン?」
「……最悪の展開ね」
ユリウスに続いて噴煙から姿を見せたのは、赤い長髪に片袖を着流しから抜いた、長身に筋肉質な体格をした偉丈夫――赤い暴力、レイドの出現だった。
二層ではなく、堂々と四層の通路を踏むレイドの姿に、ラムが低い声で絞り出す。それと同じ驚愕に、エミリアが「あなた……」と声を震わせ、
「どうして、この階にいるの?あそこから出られないはずなんじゃ……」
「おいおい、笑わせンなよ、激マブ。オレはいきてえとこにいって、斬りてえもンを斬って、抱きてえ女を抱く。他人のしきたりなンぞに従ってやるかよ」
「……どこまでも規格外な奴なのよ」
戦慄した様子のベアトリスが、レイドの貫く自分勝手な哲学に舌打ちする。
しかし、事実としてレイドはこの場に現れ、スバルたちの道行きを阻まんと立ちはだかっていた。
これで、正門のレイド、後門の『暴食』と大サソリ。――大修羅場だ。
「言うだけ、無駄かもだが……今、塔で起きてることは……」
「ああ、大騒ぎになってンのはわかってるぜ?けど、オレには関係ねえよ。入ってきた連中が邪魔しやがンならぶった斬るし、道開けンなら追っかけてまでぶった斬ったりはしねえ。――とと、『試験』に参加してる奴らは別枠だがな。いっぺン、オレにケンカ売ってきやがったのは違いねえンだ」
「だったら……」
「――オイ、稚魚。これ以上、面白くねえことくっちゃべるンじゃねえよ」
言葉を弄し、どうにかしてレイドから譲歩を引き出そうとするスバル。その口が、レイドから発される常軌を逸した剣気によって黙らされる。
「――――」
びりびりと、物理的な体の痺れを感じるほどの圧迫感がスバルを――否、スバルだけではなく、通路に佇む五人を。あるいは、塔全体をゆすぶった。
これがただ、一人の男の不興を買った。それだけの、威圧感なのか。
プレアデス監視塔には、この強大な男だけではなく、それ以外の脅威もあって――、
「まだ、『暴食』の一匹と、あの影の対処法が見つかってねぇってのに……」
「――スバル、その件について、私から朗報と悲報がある」
弱々しく呟くスバルへと、立ち上がり、騎士剣を構え直したユリウスがそう言った。その、海外ドラマのような出だしにスバルは頬を硬くする。
いいニュースと悪いニュース、創作物ではよくある表現だが、実際にこうして耳にするとひどく胸を掻き毟られる響きだ。
一度、唾を呑み込み、スバルは「朗報と悲報」と口の中で確かめてから、
「じゃあ、朗報から先に聞かせてくれ」
「君が不安視している、姿の見えない『暴食』の大罪司教の片割れだが、彼を警戒する必要はない。そのことは私が保証しよう」
「――?根拠はわからねぇが、確かに朗報だ。じゃあ、悲報ってのは?」
攻略法が見つかったのか、あるいはそもそも監視塔に出入りしていない証拠を掴んだのか、ユリウスの指摘にスバルは片眉を上げた。
『暴食』の大罪司教が一人だけなら、確かに対処すべき問題が一つ減る。
こちらの手札と、相手の手札とを見比べながら、どうするのが最善なのか、絶不調の体で思考を巡らせるスバル。
そんなスバルに、ユリウスはわずかに息を詰め、続けた。
「『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドはそこにいる」
「……あ?」
真剣な声音で、ユリウスが騎士剣の先端を正面へ向けた。
その剣先が指し示す先に立っているのは、獰猛な鮫の笑みを浮かべる偉丈夫だけ。
他の、何を意味することもない。――鮫の笑みをした男が、立っていた。
そして、呆然となるスバルたちへ、ユリウスは重ねて続ける。
「目の前にいる、初代『剣聖』レイド・アストレア。――彼が、ロイ・アルファルドだ」