『英雄』


 

――塵から現れた小さな蠍を手に乗せて、スバルは静かに肩を震わせる。

 

救いたかった。

彼女を、この寂しい砂の塔から連れ出してやりたかった。

 

助けてやると、そう約束をした。

それなのに、約束を守ってやれなかった。

 

ナツキ・スバルはいつも、できない約束ばかりをしている。

 

「――――」

 

砂の上に蹲り、無言のスバルに誰も声をかけられない。

傍らのベアトリスも、背後のユリウスやメィリィも、かける言葉が見つからない。

ただ、嗚咽すら忘れて涙するスバルを慰めるように、手の上の蠍が腕を伝い、スバルの肩をよじ登って、その首に体を寄せてきた。

 

この小さな蠍が、いったい何なのかスバルにはわからない。

『紅蠍』の巨体、その崩れた塵の中から現れたこの蠍は、はたしてシャウラとどういう関係があるのか。あるいは、この蠍は彼女そのものなのかとも思うが――、

 

「――それは、ない」

 

最後の最期、スバルがシャウラと交わした言葉があった。

あのやり取りが、実際に彼女と交わせたものなのか、それとも別れ際にスバルが見た白昼夢だったのか、それは定かではない。

だが、あれは確かにあったことだと、スバルは悲しい確信を抱いていた。

 

シャウラは、失われた。

その存在は、このプレアデス監視塔のルールそのものと結び付いていて、究極的にはレイドや、三層のモノリス同様――『試験』を進行するための舞台装置。

故に、監視塔がそれまでの役割を終えれば、彼女も退場しなくてはならない。

最後の最後まで、彼女はその『舞台装置』の役割に殉じたのだ。

 

ただの『舞台装置』ではありえない、そんな風穴をスバルの胸に開けていって。

 

「――――」

 

あのあけすけな笑顔も、触れ合いを求めるウザったさも、お師様お師様と心当たりのない親愛を込めた声も、何もかもが失われた。

シャウラが泣き喚いて、消えたくないと叫んでくれたなら、スバルは全力でそのための方法を探したし、何度でも命を投げ出し、助けにいった。

 

でも、彼女はそれを望んではくれなかった。

笑いながら、また出会ってほしいと、それだけを言い残して消えてしまった。

その方法も、それが本当に可能なのかも、わからない。

わからないが――、

 

「わかった。……きっといつか、俺はまたお前と出会う。だから」

 

晴れ晴れしい笑顔で、愛してると言ってくれた彼女の願いを叶える。

そのために――、

 

「――だから、今はさようなら、シャウラ」

 

砂風が、赤い塵となった彼女の想い、その残骸を連れ去っていく。

それを見届け、スバルは息を吐いた。見れば、スバルの首元に身を寄せた蠍が、まるで元気を出せと言わんばかりにその鋏でスバルの耳を摘んでいた。

 

「いてっ」

 

鋭い痛みがあって、へこたれているなと背を押された気分だ。

その痛みで涙目になりながら、スバルは「わかったわかった」と頷いて、首元の蠍を掴み、耳から引き剥がそうとする。

しかし――、

 

「いたっ!いや、わかったから、もう放していいって……いってぇ!おい、これ、耳から血が出る……こいつ!こいつ、本気で……!」

 

「……お兄さんったら、何やってるのよお」

 

耳を挟んだまま、ちっとも引き剥がせない小紅蠍に危機感を抱く。

危うく、耳の柔らかい軟骨までがっつりいかれそうになるスバルだったが、そこに助け舟を出したのはメィリィだった。

呆れた様子の彼女は、ひょいとスバルに変わって小紅蠍を小さな手で掴み、

 

「ちっちゃくても魔獣ちゃんなんだからあ、迂闊に顔に近付けたりしたら、目とか鼻とか食べられちゃっても知らないわよお」

 

「目とか鼻!?けど、こいつがそんな真似……」

 

「魔獣ちゃんよお、お兄さん。――あの、裸のお姉さんじゃないわあ」

 

「――――」

 

そう言って、メィリィは小紅蠍を自分の頭の上にぽんと乗せた。

先ほどのスバルへの暴虐と違い、小紅蠍はメィリィの頭で悪さを働かない。メィリィの『魔操の加護』の影響下に入り、その獰猛さを潜めたようだ。

それは言わずとも、小紅蠍がメィリィの加護の通じる魔獣であることの証であり――シャウラとしての自我がないこと、その証明でもあった。

 

「スバル、傷の治療をしないとなのよ」

 

また俯きかけたスバルの袖を引いて、ベアトリスが優しく体を案じてくれる。

その配慮に唇を噛み、スバルは深く頷いた。いつまでも、砂海に長居していられない。

 

「――スバル!みんな!」

 

遠く、監視塔の入口の大扉を開け、エミリアがこちらに駆けてくる。

その彼女も、かなりの大波乱に巻き込まれた装いで、楽な道のりではなかったことが窺えた。それも含め、全員で言葉を交わそう。

 

話さなくちゃならないことも、済まさなきゃいけないお別れも、多すぎるのだから。

 

△▼△▼△▼△

 

「……シャウラは、すごーく頑張り屋さんだったのね」

 

事の顛末、シャウラがその場に見当たらないことの説明を聞いて、エミリアはその塵さえも散ってしまった砂海を見つめ、彼女らしくその喪失を悼んだ。

そっと、白い指がメィリィの頭の上の小紅蠍に触れる。メィリィに暴れないよう命令されているとはいえ、エミリアの指を受け入れる小紅蠍の様子は、表情や仕草はわからないながらも気持ちよさそうにして見えた。

 

「エミリア様、一層の方はいかがでしたか?無事、『試験』を終えられたのでしょう?」

 

シャウラの説明を終えて、沈んだ顔のスバルにエミリアが憂いの目を向ける。

だが、そこであえて話題を進めることを選んだのはユリウスだった。そのユリウスの呼びかけに、エミリアは「ええ」と頷いて、

 

「よくわからなくて大変だったんだけど、何とか終わらせられたみたい。……それと、ユリウスも、私のことちゃんとわかる?」

 

「――。そう、ですね。確かに、はっきりと思い出せます」

 

おずおずと尋ねたエミリアに、ユリウスはハッとした顔でそう答えた。

自分の口元に手を当て、ユリウスは「エミリア様」と改めて反芻、自分の中に消えたはずのエミリアの存在があることを確かめ、頷いた。

 

「ベアトリス!私のこと、わかる?メィリィは?」

 

「……心配しなくても、思い出したかしら。というか、忘れてたことを言われるまで忘れかけてたくらいなのよ。薄気味悪い感覚かしら」

 

「わたしも、ちゃあんと覚えてるわよお。お姉さんの方こそ、わたしのこととか、した約束とかちゃんと覚えてくれてるう?」

 

「もちろんよ。忘れたりなんて絶対しないわ。よかった。ラムとパトラッシュちゃんも思い出してくれてたから、大丈夫とは思ってたんだけど……」

 

ベアトリスとメィリィの答えを聞いて、エミリアがホッと胸を撫で下ろす。

そんな彼女たちの反応に、スバルは「待った」と声をかけた。

そして、皆の注目を自分に集めると、スバルは喉を鳴らし――、

 

「ものすごい朗報だけど、ちゃんと整理したい。つまり?みんな、エミリアたんのことを無事に思い出したのか?それは、ええと……」

 

「――ラム女史が、ライ・バテンカイトスを討ったということだ」

 

「――――」

 

結論を引き取り、そう断言したユリウスにスバルは目を見開く。

ライ・バテンカイトス――『暴食』の大罪司教、その三人の内の一人であり、スバルやラムにとっては最も因縁深い仇敵とも言うべき存在。

この塔においても、エミリアの『名前』を喰らい、それ以外にも大暴れして幾度も辛酸を舐めさせられた相手だった。

それが倒れたと聞かされ、スバルの喉がひどく強い渇きを覚えた。

何故なら、ライ・バテンカイトスが倒れたということは――、

 

「あいつが、奪ったモノが戻ってきてるってことか……?だったら」

 

エミリアの『名前』が戻ったなら、それ以外の『暴食』の権能の効果も解けるはず。

『美食家』を気取り、バテンカイトスはあまりに多くを奪い続けてきた。その、奪われたモノが解放されるとしたら、水門都市プリステラの人々も――、

 

「――――」

 

そこまで考えて、スバルは首を横に振った。

欺瞞はよそう。自分の心に蓋をして、嘘をつこうとするのもやめだ。

この瞬間、ナツキ・スバルはひどく利己的に、エゴイスティックな希望を抱いた。

ライ・バテンカイトスが討たれ、その権能の影響がほどけるなら――、

 

「――レムを、思い出してくれたのか?」

 

誰からも忘れられ、その存在の大きさでスバルの胸に大穴を開けた少女。

この旅は、奪われたモノを取り戻すための旅であり――スバルにとっては、レムを救うための旅路そのものであった。

そのための知恵を求めた監視塔へ、『暴食』が襲来するという皮肉な形となったが、それでももたらされる成果が同じであるなら関係ない。

 

そんな、逸る希望に急き立てられ、スバルは一同の顔を見渡した。

そのスバルの問いかけに、しかし――、

 

「……ごめんなさい、スバル。まだ、私はレムのことを思い出せてない」

 

「――っ!どうして!」

 

「ベティーも、なのよ。ラムの妹のことは、まだ思い出せてないかしら。それに……」

 

「それに?それに、なんだ。まだ、何があるんだ?」

 

エミリアに否定され、ベアトリスもそれに続いてスバルは瞠目する。

芽生えた希望を拒まれ、スバルは言葉に詰まったベアトリスに詰め寄った。そのスバルの必死な目に、ベアトリスは白い顎で後方、ユリウスを示す。

 

「まだ、ユリウスのことも思い出せてないのよ。『暴食』の被害の、全部が戻ってきてるわけじゃないかしら」

 

「ユリウスの……」

 

ベアトリスの話を受け、やはりエミリアも同じように頷く。

元々、『名前』を奪われる前のユリウスを知らないメィリィは肩をすくめるが、エミリアたちが嘘をつく理由もない。

ならば、レムもユリウスも、『名前』は戻っておらず――、

 

「その点に関してだが、私の『名前』が戻らない理由の想像はつく」

 

困惑するスバルたちの中、他ならぬユリウスがそう言った。

そうして、ユリウスは切れ長な瞳でスバルたちを見つめ返し、続けた。

それは――、

 

「――『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドは生け捕りにしてある。厳密には、私の『名前』は彼に奪われたモノだ。だから、まだ戻らないのだと思う」

 

△▼△▼△▼△

 

大正門を通り、プレアデス監視塔の中へ戻ると、五層にはスバルたちを砂の塔へと連れてきた竜車が置かれており、その傍らで手を振る人影に出迎えられた。

 

「エミリアさん、それにナツキくんらも、ずいぶんと久しぶりやねえ」

 

「……まさか、アナスタシアさんか?」

 

はんなりと微笑み、ゆるゆると手を振る人物を見て、スバルは凝然と目を見開いた。

その仕草や態度、表情に至るまで自然体なのを確認する。それは、人工精霊であるエキドナが扮し、トレースし切れなかった人間性の完全再現――否、再現ではない。

元々の本人の性質なのだ。それを、再現とは言わないだろう。

つまり――、

 

「アナスタシアさん!起きられたの?」

 

「そうそう。もう、長いこと居眠りしててしもたみたいで、心配かけて悪かったわぁ。この何ヶ月か、どうしてたんかはエキドナに聞かせてもらったわ」

 

「エキドナも、無事なんだな」

 

「何とかね。自責の念以外では、ボクが死ぬようなことはひとまずなさそうだ」

 

エミリアの問いに答えるアナスタシア、その首元の襟巻きが動いて、白い狐が申し訳なさそうな様子で項垂れる。

そんなエキドナの頭を撫でて、「こーら」とアナスタシアは叱りつけると、

 

「またそうやって自分を責める。言うたやん。ウチが自分で選んだことなんやから、それでエキドナが凹む必要なんてないんよ。そう思うやろ、ユリウス」

 

「私ですか?……そうですね。正直、アナスタシア様のご決断にはずいぶんとハラハラさせられたもので、その通りですとお答えしづらいのですが」

 

「しづらいけど、なに?」

 

「己の内に閉じこもられていた理由を聞いては、騎士冥利に尽きるなと」

 

唇を綻ばせ、優美に答えるユリウス。その答えを聞いて、アナスタシアは「まぁ、言いよるやないの」と自分の口に手を当てて笑った。

ずいぶんと息の合ったやり取りだ。この主従らしいと言えば主従らしいが、

 

「本当に、アナスタシアさんはユリウスを忘れてんだよな?そのわりには、やけに馬が合ってるみたいなんだが……」

 

「元がどんな関係か忘れた……それ自体、ウチにとってはもう、お腹の中からむしゃくしゃして辛抱でけんことなんやけど……!なんやけど……!」

 

「ぐっと堪えて、この姿勢というわけだよ。幸い、この二ヶ月で知ったユリウスのことならボクからも話せる。どうやら、ボクはそのために生まれたようでね」

 

「……お前も、変な方向に振り切れたみたいなのよ」

 

わなわなと唇を震わせるアナスタシア、彼女の首元で自らを定義したエキドナに、ベアトリスがほんのりと優しく言葉をかける。

それを聞いて、エキドナも狐の鼻をすんと鳴らし、「ああ」と頷いた。

 

過去のない人工精霊エキドナ、アナスタシアの代理として監視塔へやってきた彼女も、何やら思うところがあり、前向きな結論を得たようだ。

無事、アナスタシアが自分の体を取り戻していることも、その一環なのだろう。

 

アナスタシアのオド、それを削って活動したことの後悔や、その生まれながらに抱える問題の解決など、それらがクリアされたわけではないが――、

 

「それを俺たちがつつくのは野暮な話、か」

 

アナスタシアとエキドナの間の問題は、彼女たちが話し合うべきことだ。

もちろん、助けを求められれば一緒に悩むし、解決に協力もする。そのぐらいの絆は、この二ヶ月の砂の旅路が育んでくれたと思っていいはずだ。

 

「――ねえ、アナスタシアさん。無事に戻ってくれたのはすごーく嬉しいし、話したいこともたくさんあるんだけど……」

 

「わかってるて。ユリウスがやっつけた大罪司教のことやろ?ユリウスがあれこれやって、竜車に放り込んだままになっとるよ」

 

「ユリウスがあれこれ……」

 

肩をすくめ、アナスタシアが背後の竜車を示す。

その言葉を反芻するエミリアの隣、スバルは息を呑んで竜車を見た。この中に、『暴食』の大罪司教ロイ・アルファルドが捕らえられている。

 

「――――」

 

竜車の裏に回り込む前に、繋がれた地竜――ジャイアンの首を撫でる。

太い四足を持ったアガレス種の地竜は、シャウラとの最後の戦いにおいて、スバルたちの勝利を演出してくれたまさかの立役者だ。

最善の結果は得られなかった。だが、それでジャイアンの心遣いが台無しになるわけではない。ましてや、メィリィの生存はジャイアンの心意気の成果だ。

 

「お前のおかげで助かった。……このあと、何かあっても助けてくれ」

 

「――――」

 

太い首を撫でられるジャイアンが、荷が重いと言いたげに鼻息をこぼした。

それにわずかに苦笑して、すぐ頬を引き締めたスバルは竜車の客車へ。そして、エミリアたちと頷き合い、その中を覗き込んだ。

そこに、『暴食』の大罪司教が――、

 

「――これって」

 

緊張感をみなぎらせて竜車を覗いたスバルは、中の様子を見て肩透かしを食らう。

竜車の中、確かにアルファルドはいた。ただし、その拘束のされ方はスバルが想像したものとは一味違う。

ロイ・アルファルドは、全身を黒い結晶のようなもので包み込まれ、白目を剥いた状態で拘束――否、封印されていたのだ。

 

「相手は大罪司教……ただ、身動きを封じるだけでは不十分だろう。だから、可能な限り厳重に固めておいた」

 

「固めるって……これ、どういう原理なんだ?」

 

「原理的には、陰魔法の応用かしら。シャマクで相手の意識を切り離して、そのまま固めてあるのよ。……これ、えげつないやり方かしら」

 

「じゃあ、この黒いの、シャマクの塊ってことか……」

 

ベアトリスの説明を聞いて、スバルはぎょっとしながら改めて封印を見やる。

シャマクは、スバルがベアトリスと契約する前、最もこの世界で頼りにしていた存在と言っても過言ではない魔法だが、それがもたらす効果と、その効果を応用したユリウスの封印の手口には舌を巻くしかない。

そんなスバルの反応を見て、ユリウスは「誤解しないでもらいたいが」と前置きし、

 

「何も、これは私が編み出した手法というわけではない。世界で最も有名な封印も、これと同じ術式を採用している。規模は桁違いだとしてもね」

 

「世界で一番有名な……それってまさか」

 

「――『嫉妬の魔女』、よね」

 

固められたアルファルドを観察していたエミリア、彼女の言葉にユリウスが「はい」と深々と頷いて肯定する。

アルファルドの封印、それはこの監視塔からさらに東――彼の地に封じられる『嫉妬の魔女』、その四百年の眠りと同じ方法であるのだと。

つまりは信頼と実績の方法、封印を施したのがユリウスとなれば、より信頼度は高いと言うべきだろう。ただし、問題はそこではない。

 

「問題は、どうしてこいつを生かしておいてるのか、だ」

 

「スバル……」

 

封印されたアルファルドを見つめ、そう言ったスバルにエミリアが眉尻を下げる。

その視線に胸を痛めながら、スバルは「だってそうだろ?」と振り返り、

 

「『暴食』の片割れ……バテンカイトスが死んで、エミリアたんのことはみんなが思い出した。だったら、残りの『記憶』だってこいつが死ねば……」

 

「戻ってくる確証はない。私が彼を処断しなかったのも、それが最大の理由だ」

 

「――――」

 

「バテンカイトスをラム女史が討ったことに疑いはない。だが、エミリア様の『名前』が解放されたのは、本当にただ討つだけで成立したことなのか?何か他の、能動的に奴に戻させた……そうした可能性は拭い去れない。早まれば、全てを失う可能性もある」

 

逸るスバルを窘めるように、そう続けるユリウスの言葉はいちいち正論だ。

スバルも、ぐうの音も出ないような正論。

だが――、

 

「だったら……だったら、『死者の書』はどうだ?」

 

代案としてスバルが提示するのは、この監視塔にしか存在しない手法。

他者の思想を暴く手段として、およそ『死者の書』よりも裏のないものは存在しまい。なにせ、その人間の生涯そのものを追体験する代物なのだ。

 

「仮にあいつに尋問したとして、本当のことを吐く保証はない。それなら、『死者の書』を使ってでも、奴の内心を暴いた方が……」

 

「スバル、それは……そんなの、良くないと思うわ。そのやり方は……」

 

「でも、確実のはずだ。これなら……」

 

「あんな?ちょっと口挟んでもええ?」

 

『死者の書』の利用を提案するスバルに、エミリアが消極的な姿勢を見せる。それにスバルが食って掛かろうとすると、挙手したのはアナスタシアだ。

彼女は鼻白むスバルを見やり、胸の前で白い手を合わせると、

 

「ウチもエキドナから聞いた話やし、あちこち抜けがあるかもしれんのやけど……その『死者の書』やっけ?過信するんは危ないんちゃう?」

 

「危ないって、どうして」

 

「どうしても何も、それはナツキくん自身がいっちゃん体感したことやろ?ウチが寝とる間に、ナツキくんも自分がなくなったりしてたって話やないの」

 

「――――」

 

短時間でどれだけエキドナと話せたのか、アナスタシアは痛いところを突いてくる。

しかし、スバルの記憶喪失と、『死者の書』の危険性は厳密には一致していない。スバルの記憶がなくなったのは、『死者の書』の影響というわけではないからだ。

ただ、それで『死者の書』の危険性が全くなくなるわけではない。

 

事実、スバルはメィリィの『死者の書』を読むことによって、思考や感情の一部を彼女というパーソナリティに塗り潰されかけた。

スバルは自分が特別メンタルが強いとも、自我が強いとも思っていないが、それでも、影響を受けやすい人間ならどうなるかはわからない。

あるいはその結果、ロイ・アルファルドの精神を引き継いだ、新たなロイ・アルファルドが誕生しないとも言い切れはしなかった。

 

「じゃあ……じゃあ、アナスタシアさんも、こいつを生かしておくのが正しいって、そう言うのか?こいつが今まで、どれだけのことを!」

 

「正しい正しくないの話をするんなら、ウチやって大罪司教なんて生かしとくんが正しいやなんて思わんよ。この御人を殺して、ウチの中のユリウスの『記憶』が戻ってくるならそれもええと思う。でも、ウチにも持論があってな?」

 

「持論……?」

 

「命のあるなし、取り合い奪い合いは最後の手段。――人を簡単に死なせる人間は、碌な結末を迎えない。ホーシン語録やなしに、ウチの言葉」

 

アナスタシアの言葉に、スバルは目を見開いた。

この、剣も魔法もあるファンタジー世界で、何を甘いことをと反発心が起こる。だが、同時にスバルの中の倫理観は、それを正しいとも感じていた。

 

スバルだって、人死には少ない方がいいに決まっていると考えている。

味方はもちろん、敵だって人死には少なく済む方がいい。

しかし、その理屈は、あくまで相手が温情をかけるに値する場合だけだ。

 

「大勢を不幸にして、今だってみんなを苦しめてる。……そんな奴でも、アナスタシアさんは殺すなって言うのか」

 

「殺さなならんときは殺すよ。そう決断するし、いざとなったら手も汚す。でも、衝動に任せるんは違う。――ナツキくんも、こっち側の人間やと思う」

 

「そんな、ことは……」

 

「せやから、いなくなった誰かのために涙も流せる。……ウチは、血も涙もない非情なナツキくんより、そっちの方が末永いお付き合いがしたい思うわ」

 

アナスタシアが指で自分の頬をなぞり、スバルの涙の跡を指摘する。

瞬間、シャウラを失わせた傷が疼いて、スバルは静かに俯いた。アナスタシアの、その言い方は卑怯だ。だが、間違いなく効果的ではあった。

 

「……スバル、私もアナスタシアさんとおんなじ意見。ユリウスや、眠ってるレムのことを考えたら、急いで解決してあげたいけど……」

 

「少なくとも、私のことはお気遣いなさらず。事ここに至れば、拙速さよりも確実性を優先すべきだ。……弟のこともかかっている」

 

プリステラに残してきたヨシュア、その記憶が蘇る瀬戸際でもあり、ユリウスの意見は慎重の極み――だが、前述の通り、それが正論なのだ。

失った痛みを埋めたいがために、成果を性急に求めている。今のスバルの心境は、まさにそういうことなのだろう。

 

「まとめよう。アナとユリウスの意見は、ロイ・アルファルド……『暴食』の大罪司教を王都へ移送し、権能の犠牲者を救う方法を聞き出すこと。その後、恩赦が下ることはないだろう。極刑は免れないはずだ」

 

「年齢を理由に酌量するにも限度がある。最終的にはそうなるやろね」

 

握った拳の力を解くスバルを見て、エキドナとアナスタシアが話を整理する。

アルファルドの処遇について、エミリアも反対意見はない。その身柄は封印された状態で王都へ運ばれ、ある意味では先に連行されたシリウスと同じ立場になる。

 

「エミリアさんらも、それでええ?」

 

「ええ。私も、ちゃんと忘れてしまった人たちのこと、思い出したい」

 

アナスタシアの意思確認に、エミリアは顔を上げ、堂々と答えた。

異を挟ませない彼女の言葉に、頼もしさと同時に苦いものを覚え、スバルは竜車の大罪司教から目を逸らし、そこで不意に膝をつく。

 

「あれ……」

 

「スバル!ああもう、やっぱり無茶しすぎたのよ!あんな気持ち悪いのずっと抱えてて、こうなって当然かしら!」

 

頭が重くなり、視界がぐらつくスバルの肩を支え、ベアトリスがそう怒鳴る。

その可愛い声がきゃんきゃんと頭に響いて、スバルは自分が思っていた以上に消耗していたのだと自覚した。

 

当然と言えば当然か。

記憶を失い、その間に何度も死に、その後にも何度も死に、記憶を取り戻すために己と向かい合い、目覚めては塔を襲う五つの障害と激突し、権能で仲間たちの負担を引き受けながら戦って、最後にはシャウラを失って――。

 

心身共に劇的な消耗があった。

それこそ、ほんの数日なのに、五年以上もこの塔で過ごしていたみたいに。

 

「――ぁ、俺」

 

「スバル、平気、大丈夫だから。今は、少しだけでいいから休んで?また、起きたらちゃんとお話ししましょう。私も、話したいことたくさんあるから」

 

ぐったりと力が抜け、その場にへたり込んだスバルをエミリアが正面から抱きとめる。柔らかい感触と甘い香り、いつもなら身を硬くするはずのそれが、今のスバルには劇薬のように効果的で、意識がすっと闇に落ちていく。

 

もし、このまま闇の底で命を落としたら、またこの塔を取り巻く奔走の場所に戻って、そこでシャウラを救う方法を探せるだろうか。

そんなものはないと、半ば理解していながらも、望まずにはおれないまま。

ゆっくりと、スバルの意識は闇に呑まれていった。

 

△▼△▼△▼△

 

「よいしょっと」

 

意識をなくしたスバルの体を抱き上げて、エミリアはそう息をつく。

ぐったりと瞼を閉じたスバル、その死んでしまいそうなくらい深い寝息は、この監視塔の問題解決のため、彼がどれだけ頑張ってくれたのか、その証だ。

 

エミリアたちを救うため、スバルがどんなに必死だったことか。

自分も記憶をなくして大変だったのに、バテンカイトスに『名前』を奪われ、みんなに忘れられてしまったエミリアのところに彼が駆け付けてくれて、どれだけ嬉しかったか。

そういうことを、ちゃんと伝えてあげたい。

頑張り屋さんのスバルが、自分で自分を責めすぎてしまわないように。

 

シャウラのことはスバルの責任ではない。

エミリアたち、全員の責任であり、もっと言うなら――、

 

「――お師様の、フリューゲルが悪い人だと思う」

 

『賢者』としての功績をシャウラに押し付け、そして、プレアデス監視塔の役割の一新と共に、彼女を眠りにつかせた張本人。

仮に、彼が世界を救った三英傑の一人だったとしても、シャウラを寂しがらせ、スバルを泣かせた時点で、エミリアの中では極悪人の仲間入りだ。

当然、会って話す機会もないから、このもやもやは誰にも晴らせない。

 

「見たところ、消耗は激しいようですが……大事はありません。休ませれば回復するでしょう。このまま、あの『緑部屋』に?」

 

「ええ。ラムたちもそこにいるし……私を助けにきてくれる間、アナスタシアさんがレムのことを見ててくれたんでしょ?」

 

「そんな大げさな話でもないよ?ただ、ウチが自分を取り戻したあと、ナツキくんを助けにいくユリウスと、エミリアさんらを助けにいくラムさんとを見送っただけやし。……生憎、レムさんの方に変化はなかったわ」

 

「そう……」

 

『緑部屋』で待機しているラムとレム、それにパトラッシュらのことを思い、エミリアは形のいい眉を顰める。

バテンカイトスの撃破、それはある意味、『記憶』と『名前』を奪われたレムの敵討ちを果たしたと言える。しかし、重要なのは彼女が目を覚ますことであり、それが果たされていない以上、敵討ちの成否は些事でしかない。

少なくとも、ラムは憚ることなくそう言うだろう。重要なのはレムの帰還だと。

 

「それについても、ロイ・アルファルドから聞き出せることに期待しましょう。まだ、この監視塔……いえ、大図書館プレイアデスについても不明点が多すぎる」

 

「何でもわかる大図書館……それがシャウラの言い分だったのよ。適当な娘だったけど、だからこそ、言われた話を捻じ曲げたりはしないはずかしら。ここが大図書館だと、そう言い含められていたのは間違いないのよ」

 

その大図書館としての機能が、『死者の書』を意味しているのか、それ以外にも可能性があるのか、それを確かめなくてはならないだろう。

その上で、エミリアはベアトリスたちに話さなくてはならないことがあった。

 

「あのね、スバルを『緑部屋』で休ませてあげたあとなんだけど、みんなには一緒にきてもらいたいところがあるの。……会ってもらいたい人がいて」

 

「……もしかして、それって一層と関係があるのかしら?」

 

一層へ上がり、エミリアが最後の『試験』を突破した。

それ自体はベアトリスたちも知っている話。問題は、まだ話していないその先だ。

具体的に、一層に何があり、誰と出会い、エミリアがどうしたのか。

それは突飛で超越的で、言葉にするのが何とも難しい出来事だったから――、

 

「話すと長くはないんだけど、ややこしいから、直接会ってみてくれる?」

 

と、自分の頭上、はるか上の塔のてっぺんを指差して、エミリアはそう言った。

 

△▼△▼△▼△

 

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

 

「――――」

 

エミリアに案内され、プレアデス監視塔の最上層――一層へ辿り着いた面々は、その巨大な龍の出迎えに圧倒され、言葉を失っていた。

そんな一同の様子を見て、エミリアは「ビックリ仰天でしょ?」と首を傾げ、

 

「一層に上がってみたら、ボルカニカが待ってたの。私、すごーく驚いちゃって……」

 

「まま、待つのよ、待つかしら。お、驚くで済ませていい問題じゃないのよ!?」

 

青い鱗に覆われた『神龍』を前に、ベアトリスが泡を食って声を裏返らせる。

パタパタと手を上下に振り、落ち着かない様子のベアトリス。しかし、動転しているのは彼女だけではない。

 

「これ、は……」

 

「はぁ~、さすがにウチもこれは予想外やったわ。なんやの。『神龍』さんて、大瀑布の向こうにいるって話やなかった?」

 

「そのはず、だったね。『竜歴石』の予言によれば、王選が決着する年、改めてルグニカ国王となったアナと盟約を結び直しに現れると聞いていた」

 

絶句するユリウスの隣、泰然としたアナスタシアもさすがに冷や汗を隠せない。彼女の首元のエキドナも、声がわずかに上擦っていた。

ただ、そんな女性陣の反応に遅れて、ユリウスは「失礼を」と姿勢を正し、

 

「偉大なる龍にして、我らが王国を守護せし『神龍』。長きにわたり、盟約を遵守し、多くを与えてくださった救済の担い手、ボルカニカ様にご無礼をいたしました」

 

『――――』

 

「このような形ではありますが、お目にかかれて光栄です。私はルグニカ王国近衛騎士団所属、ユリウス・ユークリウス。御身の逸話の数々、この胸の奥にしかと」

 

その場に跪いたユリウスが、腰の剣を外して床に置く最敬礼。

そして、親竜王国に仕える騎士として、神聖なる龍に誠心誠意の礼儀を尽くした。それを受け、ボルカニカは金色の目を細めると、

 

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

 

「は!我が身、我が信義の全ては、こちらにおわすアナスタシア・ホーシン様へ捧げております。次代の王、次なる盟約は必ずや、アナスタシア様が……くっ」

 

「ゆ、ユリウス、泣いてるん?」

 

跪いたまま、感涙を堪え切れないユリウスにアナスタシアが動揺する。その主の言葉に「申し訳ありません」とユリウスは手の甲で涙を拭い、

 

「『三英傑』の一角、レイド・アストレアと言葉を交わせただけではなく、ついには『神龍』ボルカニカと対面できたのです。ルグニカ王国の騎士として、これ以上の誉れがありましょうか。……ここは、なんという塔なのか」

 

畏れ多いものに触れたことで、ユリウスが声を震わせている。

そんな彼の感動に水を差すようでとても悲しい気持ちになりながら、エミリアは「あのね……」と言いづらそうに切り出した。

 

「ユリウス、すごーく喜んでるから言いにくいんだけど……」

 

「――。申し訳ありません、エミリア様。アナスタシア様とエミリア様を差し置いて、私が勝手に『神龍』と対話を試みてしまい……」

 

「ううん、それはいいの。ただ、ボルカニカなんだけど……」

 

なんと説明すべきか、ユリウスを傷付けないように言葉を選ぼうとエミリアは苦心。すると、そんなエミリアの頭を飛び越して、

 

『――汝、塔の頂へ至りし者。一層を踏む、全能の請願者』

 

「……ちょい待ち。今の台詞、ウチ、さっきも聞いた気がするんやけど」

 

繰り返された言葉を聞いて、アナスタシアが最初に不信感を抱く。

しかし、同じ疑問は他の面々にも伝播した。当たり前と言えば当たり前だが、同じ口上を繰り返すボルカニカの異変に、全員がすぐに気付く。

そして――、

 

「ボルカニカなんだけど、ここで長く待ちすぎちゃったせいでボケちゃったみたいなの。体は元気だから、すごーく暴れたりするんだけど……」

 

痴呆の進んだボルカニカ、彼の龍の強さは本物だが、その頭が長い時間の経過にやられてしまったのも本当の話。

『神龍』は一層の『試験』のためか、柱へ挑むエミリアの妨害にものすごい力を発揮していたが、エミリアがモノリスに到達し、『試験』を乗り越えたと判断すると、またしても元の曖昧な状態に逆戻りしてしまった。

おまけに『試験』は終わったのに、まだ『試験』の話をずっとしている。

 

「偉大な『神龍』が、ボケてしまった……?」

 

「ゆ、ユリウス、落ち着き?ほら、ちょっと疲れてるやろ?座ってもええのと違う?」

 

そのエミリアの話を聞いて、大きな衝撃を受けているのはユリウスだ。

レイドに続いて、遭遇した二つ目の伝説も聞いていた話と違い、膝が震えている。

エミリアも、目をキラキラ輝かせているユリウスをガッカリさせたくなかったので、なんだか自分の胸がしくしくと痛むような気がしていた。

しかし――、

 

「エミリア、たぶんそうじゃないかしら。これはボケてるんじゃないのよ」

 

「え?」

 

「エキドナ、お前も感じるはずかしら。これはボケてるんじゃなくて……」

 

「ああ、そうだね。最初はわからなかったが、今は感じる。これは精神の摩耗ではない。魂が虚ろなんだ」

 

「魂が、虚ろ……?」

 

ベアトリスとエキドナ、わかり合う人工精霊同士の会話にエミリアは首を傾げる。

ユリウスとアナスタシア、二人も怪訝な顔をする中、ベアトリスが「簡単な話なのよ」と指を立てて前置きした。

 

「魂が虚ろ……つまり、中身が入ってないかしら。だから、決められた発言と、限られた反応しかできない。九割寝てると思えばいいのよ」

 

「九割……でも、すごーく強かったのよ?」

 

「魂が入っていたら、その比ではなかっただろうね」

 

命拾いした、というニュアンスのエキドナの言葉に、エミリアはゾッとする。

氷兵たちの協力もあって、ギリギリの攻防をかろうじて生き抜いたのがエミリアだ。そんなボルカニカとの対決も、彼からすれば寝惚けていたも同然と。

ボケたのと寝惚けたのとでは、似ていてもその質が全く異なってくる。

 

「ただ、魂が虚ろでも、『神龍』の肉体には違いないかしら。それなら、プリステラの人間たちを助ける方法はあるかもしれんのよ」

 

「――!みんなを助ける方法?それってどうしたらいいの?」

 

「――なるほど。『神龍』の、龍の血を手に入れるんやね」

 

指を鳴らしたアナスタシア、彼女の言葉にベアトリスが頷く。

その話を聞いて、エミリアも「あ」と目を丸くした。

 

『神龍』ボルカニカの血、それはルグニカ王国に伝わる様々な逸話の発生源。

龍の血は涸れた大地を蘇らせ、豊穣を約束し、病やケガによる血をたちどころに遠ざける妙薬であると、とにかくすごい効果の数々が記録されている。

そして、他でもない。その龍の血は、エミリアにとって聞き逃せない要素――、

 

「ボルカニカから、血をもらえたら……」

 

エミリアの、王選に参加した目的――ルグニカ王国が保存する『龍の血』を獲得し、その血を使ってエリオール大森林の凍土、その凍結を解く。

あの森で、エミリアの力の暴走によって氷漬けとなった同胞たち、その身柄を解放するために、エミリアは王選への参加を志したのだから。

 

「――――」

 

その、エミリア参戦の最大の目的が、この瞬間に叶う可能性が浮上した。

そのことにエミリアは動転し、息を詰める。

ここでボルカニカから血をもらうことができれば、エミリアが王座に就こうという理由は失われることとなり――、

 

「私、は……」

 

「……エミリア、混乱させて悪かったかしら。ただ、エミリアが考えてる『血』と、このボルカニカの血は違うものなのよ。だから、そっちは叶わないかしら」

 

王選への参加の意義、それを失いかけたエミリアにベアトリスが言った。

その言葉に、エミリアは「え?」と目を丸くする。

 

「叶わないって、どういうこと?私、すごーくちゃんと勉強したのよ。みんなの、あの森の氷を溶かすには、お城にある『龍の血』がいるって。それで……」

 

「その考えは間違ってないのよ。ただ、さっきも言った通り、ルグニカ王城にある『龍の血』と、このボルカニカの血は厳密には違う。……城の『龍の血』は、死した龍の最後に脈打った心臓からこぼれた血、かしら」

 

「最後の、心臓の血?」

 

聞いたこともない話を聞かされ、エミリアは形のいい眉を顰めた。それに静かに頷くベアトリスに対して、「よろしいですか」とユリウスが挙手する。

魂の有無を聞いて、先の衝撃からかろうじて立ち直ったらしきユリウス、彼は反応の変わらない『神龍』を見上げながら、

 

「お言葉ですが、ベアトリス様、今のお話はどこで?私も、ルグニカ王国の近衛騎士団に所属した騎士です。王国の大事の多くは耳に入ってくる。しかし、今の話は……」

 

「――最後の心の臓の響き、龍の心血として器に注がれたり。その血、真の龍の血として王城へ託され、人と龍との盟約の証とならん」

 

「――――」

 

「知らないのも無理ないのよ。今の話は禁書庫に封じられた記録……もはや外の世界に名の残らない、『強欲の魔女』エキドナが残した記述の一文かしら」

 

ベアトリスのその答えに、ユリウスが瞠目し、息を詰めた。

王国騎士である彼も知らない、しかし、ベアトリスの嘘とは到底思えない内容。そしてそれが事実だとしたら――、

 

「では、ルグニカ王城に保管されている『龍の血』とは、どの龍の血なのですか?最後の心臓の鼓動ということは……」

 

「その血を残した龍は死んでないとおかしい……そうなると、そこで頭の中空っぽでも生きとる『神龍』さんやと筋が通らんねえ」

 

ユリウスとアナスタシアの疑問、それももっともなものだった。

『龍の血』が最後の心臓の鼓動だとしたら、それはボルカニカのものではなくなる。そして、それでもなお絶大な力を持つ血であるなら――、

 

「残念だけど、そこまでは書にも書かれてなかったのよ」

 

「……半端なことをするものだね。察するに、その『強欲の魔女』というのが、ナツキくんがボクに冷たく当たる最大の原因だろう?そのせいであまりいい印象がなかったが、今のでよりその印象を強めたよ」

 

「お母様の悪口は許さんかしら。口を慎むのよ」

 

「二人とも、そうやってケンカしないの!でも、うん、そうなんだ……」

 

エキドナ性の違いで対立する二人を叱り、エミリアは静かに俯いた。

城の『龍の血』と、ボルカニカの血が違うものであるという話は初耳で、驚きだった。ただ、それと同時に少しだけホッとしている自分もいて。

 

「……そんなの、すごーく変なのに」

 

森のみんなを助けることが、エミリアにとって一番の目的だ。それは今も、いつだって変わっていない。だから、ここでボルカニカの血をもらい、それが解決策になるなら、それでエリオール大森林を解放するべきだった。

しかし、それをしたいと思う反面、エミリアは迷ったのだ。

 

――ならば、自分は別の手段でエリオール大森林の永久凍土を溶かせるなら、もう王選に参加することを辞退し、舞台から降りるのかと。

 

「――――」

 

「……エミリアさんの関心はともかく、ベアトリスさんの話が本当なら、このボルカニカさんの血ぃで何とかなるん?期待外れの可能性が高いんやない?」

 

「腐ってもボケても、魂が抜けても『神龍』かしら。その血が大きな力を持つことには違いないのよ。ただ……」

 

「みんなの氷を溶かしてあげられるほどじゃない、のね」

 

エミリアの問いかけに、ベアトリスが申し訳なさそうに頷く。

その、エミリア以上に落ち込んでいそうなベアトリスの様子を見て、エミリアは「大丈夫よ」と唇を緩め、へこたれていないと顔を上げた。

 

「すごーく残念なのはホントのことよ。でも、いきなりのことだったから、驚いちゃったのが大きくて、実感が湧いてなかったから……私は、へっちゃら」

 

「ごめんかしら。話しておくべきだったかもしれんのよ。……まさか、こんなところに『神龍』がいるとは思わなかったかしら。痛恨だったのよ」

 

「ええ、そうね。お騒がせものなんだから」

 

ベアトリスに沈んだ顔は似合わないと、エミリアはしっかり胸を張った。

がっかりした気持ちは、正直ある。でも、ベアトリスに言ったことも本当だ。むしろ、近道やズルはできないのだと、そう言われたも同然だと思える。

 

「では、改めて話を戻そう。この『神龍』の血があれば、プリステラで『色欲』の権能が姿を変えた人々を元に戻せる可能性がある。ベアトリスの言う通り、魂がなくとも、血に宿る絶大な力自体は残っているはずだ」

 

「城の『龍の血』は一滴でも荒れ地が蘇ったって話やね。劇薬にならん?」

 

「だから、数千倍に希釈する必要があるだろうね」

 

「ですが、何の方法もなかったときと比べれば大きな進歩です。万事に効く霊薬であるという話が本当なら、試してみる価値はある」

 

エキドナとアナスタシア、そしてユリウスの話し合いを聞いて、エミリアも改めて、その話に希望が湧いてくるのを感じる。

あの、大変な目に遭った人たちを助けるためにアウグリア砂丘を渡ったのだ。

『暴食』のことも『色欲』のことも、解決する方法を持ち帰れるならそれが一番。

そうでなくては、スバルがあんなに傷付いてしまったことに報いれない。

 

「なんて、私ったらすごーく勝手……」

 

シャウラの犠牲に意味を持たせようなどと、とても身勝手な考えだ。

彼女には彼女の意思と願いがあって、この塔で長い時を過ごし続けた。それに意味を持たせるのはシャウラ自身であって、エミリアではない。

 

「ん、わかった。ボルカニカにお願いしてみましょう。もしかしたら、全然話は通じないかもしれないし、血をもらおうとしたら大暴れするかもしれないけど」

 

「それを聞くとげんなりするかしら。エミリア、お前はプレアデス監視塔の新しい管理者の権限を得たはずなのよ。それでどうにかならないのかしら」

 

「管理者の権限……全然、その自覚がないのよね……」

 

三層の謎を解き明かし、二層のレイドを突破して、一層のボルカニカに志を示した。

それらの条件だけ見れば、確かにエミリアは監視塔の踏破者と言える。だが、それがエミリアにわかりやすい変革をもたらしたかというと、それはノーだった。

ぼんやりとわかることは――、

 

「もう、この監視塔にくるための砂丘も、誰も拒まないってこと……かな」

 

「それが、エミリアさんが選んだことなん?『死者の書』ってのもずいぶんと厄介な代物みたいやし、それもだいぶ賭けみたいな話やない?」

 

「危ないこともあるかもしれないけど、それこそちゃんとみんなで気を付けて使ったらいいと思うの。私たちだけじゃ、判断できないこともたくさんあると思うし」

 

エミリアたちが、この少ない人数で結論を出すには監視塔の抱えるものは大きすぎる。

良くも悪くも、ここをどうにかする権利はエミリアたちにはない。だから、もっと多くの人間で知恵を持ち寄り、一番いい方法を探すべき。

 

「そう思うんだけど、ダメ?」

 

「……いささか他者に期待しすぎな気はするが、君らしい結論だ。ボクは、アナやユリウスが反対しないなら反対しないさ」

 

「ありがと、エキドナ」

 

最初に賛意を示したエキドナに、エミリアがそう礼を言う。

すると、アナスタシアも「わかったわかった」と手を振って、

 

「ウチも、反対はせんよ。実際、せっかく隠しておいても、これは扱い切るんに苦労するし……それなら、発見と開拓の手柄を山分けした方がずっといいわ。『暴食』の件と、龍の血も持ち帰れるのかもしれんのやし」

 

「多くを、ましてや卑に染まって望んではならない。何より、この塔の一番上へ辿り着かれたのはエミリア様です。そのご意思を尊重しましょう」

 

「アナスタシアさん、ユリウスも、ありがとう!」

 

二人の合意を得て、エミリアは笑いながらお礼を言った。それから、最後にまだ意思表明をしていないベアトリスを振り返り、

 

「ベアトリスは?無責任だと思う?」

 

「責任無責任の話をするなら、調べもせずにここを放棄する方がよっぽどなのよ。ベティーは反対しないかしら。個人的に、興味深くもあるのよ」

 

「よかった!」

 

一番身近な身内に反対されないかと、ハラハラしていた胸を撫で下ろした。

きっとみんなの知恵を持ち寄れば、この監視塔の上手な使い方も見つかるはずだ。

 

「よし、それじゃ、あとは血ね。……ボルカニカが一緒にきてくれたら、それが一番簡単に話が進むんだけど」

 

「ウチ、それはそれで問題が多発しそうな気がするわぁ」

 

確かに、ボルカニカはとても体が大きいので、連れ回そうとするとあちこちにぶつかってしまって大変かもしれない。でも、ボルカニカは飛ぶことができるので、街に入るときはずっと飛んでいてもらったらぶつかる心配はいらなそうだ。

 

「ねえ、ボルカニカ。あなた、私たちと一緒にこられる?それとも、ここにどうしても残るなら、ちょっと血を分けてほしいんだけど……」

 

『――――』

 

「ボルカニカ?」

 

期待半分諦め半分、ボルカニカから『試験』の繰り言があるものを思って話しかけたエミリアは、そのボルカニカの反応に眉を上げた。

一層の床、柱に寄りかかる最初の姿勢に戻ったボルカニカ、その『神龍』がゆっくりと首をもたげ、塔の外に視線を向けたのだ。

 

やってきたエミリアたちに話しかけるでも、攻撃を仕掛けてくるでもない態度。

それが明確におかしな態度だと、少なくともエミリアだけは感じ取った。

そして、それと同時に――、

 

「――なに?」

 

ゾクッと、背中を冷たい指でなぞられるような感覚があり、エミリアは慌てて悪寒の原因――ボルカニカの眺める方、塔の東側へと目を向けた。

塔の東側、そちらには砂海のさらに果て、大地の終わりである大瀑布が――否、大瀑布と、特別な地が存在する。

それは――、

 

△▼△▼△▼△

 

「う……」

 

ざらついた感触に顔を撫でられ、スバルは呻きながら瞼を開けた。

ぼやけた視界、それが何度かの瞬きでまともな輪郭を帯びてくると、視界に飛び込んでくるのはざらついた感触の原因、赤い舌でスバルを舐めるパトラッシュの顔があった。

 

「……パトラッシュ、か」

 

「――――」

 

「心配かけて悪かった。……お前、また頑張ってくれたんだろ?いつも悪いな」

 

愛竜の憂い顔へとそっと手を伸ばし、鋭い面貌を撫でながらスバルは唇を緩める。

この漆黒の地竜には、いつもいつも危ないところを助けられる。記憶をなくしたスバルを救ってくれた恩義はもちろん、この最後の周回でも、パトラッシュが任された役割はとても大きい。なにせ――、

 

「パトラッシュがいなかったら、レムは危ないところだったもの。この子を連れ帰ったことが、バルスの生涯最大の功績でしょうね」

 

「否定し切れないからやめれ。ベア子を連れ出したり、エミリアたんのために徽章を取り戻したりもしてるから。どっちもロズワールが関与してたけど」

 

厳密にはベアトリスの問題にロズワールは無関係だが、こう言ってやった方が相手への反撃になるので、あえてそう言ってやった。

案の定、それを聞いたラムは「ちっ」と忌々しげに舌打ちする。

その、『緑部屋』の壁に背を預け、己の腕を抱いたラムの姿を見て、スバルはその満身創痍ぶりに痛々しく目を細めた。

 

ライ・バテンカイトスとの戦いは、当然だが激戦になってしまったようだ。

途中、メィリィの負傷があったとはいえ、スバルが引き受けられる負担が激減してしまったのも、彼女の苦戦の理由の一端だろう。

口ほどにもなかったと、そのことをスバルは詫びようと口を開いて――、

 

「なあ、ラム。俺のせいで、そんなケガを……もががっ!」

 

「馬鹿を言わないで。ラムが傷付いたのがバルスの責任?ラムの人生において、バルスが何かの要因になることなんて一欠片もないわ。おぞましい」

 

「おぞましいは言いすぎだろ!人の口に草の塊詰め込むお前の方が怖いわ!」

 

剥がした蔦の塊を口にねじ込まれ、青臭さに涙目になるスバルがそう抗議する。それを聞いて、ラムは「ハッ」と悪びれない態度。

と、そんなスバルとラムのやり取りに、「くすくす」と笑う気配があった。

 

「お兄さんとお姉さん、ホントに仲良しよねえ。姉弟を見てるみたいだわあ」

 

そう言って、草のマットレスが敷かれた床に足を投げ出していたのは、頭の上に小紅蠍を乗せたメィリィだ。

含み笑いのメィリィ、彼女の言葉にラムはわかりやすく顔をしかめて、

 

「バルスが弟……?百歩譲って、血の通わない出来の悪い弟だとしても、そんな役立たずは鬼の里じゃ口減らしに遭うわよ」

 

「鬼の里、そんなシビアなの?鬼じゃなくてホッとしたわ……」

 

「嘘よ。ただ、ラムがおぞましさに耐えかねて口減らししただけね」

 

「仮定の話に仮定の話を重ねてややこしくするなよ!」

 

相変わらずのラム節に、スバルは唾を飛ばしながら怒鳴り返す。

とはいえ、今のがラムの遠回しな気遣いであるのはスバルにもわかる。彼女は、自分の負傷はスバルの判断が原因ではないと、そう言ってくれているのだ。

その配慮に甘えるのは辛い。が、意地を張って自分の責任だと言い続ければ、かえってそちらの方がラムの怒りを買う可能性が高い。

 

「お前は、本当に厄介な女だな、姉様……」

 

「さっきのメィリィの妄言のあと、ラムを姉様なんて呼ぶのはやめなさい。いい加減、初対面の人間に誤解されたら困るでしょう」

 

いつも通りのすげない返事、それにラム感を感じながら、スバルは室内――『緑部屋』の面子を見回した。いるのはスバルとパトラッシュ、それからラムとメィリィwith小紅蠍。そして、部屋の奥のベッドに寝かされる『眠り姫』――、

 

「――レムは、起きてないか」

 

「生憎と、ね。憎たらしい無礼者の首はねじ切っておいたわ。それで、エミリア様のことは戻ってきたみたいだけど……」

 

「ユリウスのことも、レムのことも戻ってきてない。……何かが足りないのか」

 

ぐっと掌に拳を押し付け、スバルは苦々しい感情を噛みしめる。

意識を失う直前、エミリアたちと話したことの再確認。――結局、『暴食』の被害を完全に根絶するには、奴らから直接話を聞き出すしかないのだと。

 

「ここにいるのは、ケガが重かった順番か?エミリアたんたちは?」

 

「お姉さんやベアトリスちゃんなら、会わせたい相手がいるって上に向かったわよお。一層だから、ずっとずっと上……誰がいるのか、ラムお姉さんは知ってるんでしょお?」

 

「大したことじゃないわ。ただ、体の大きいボケ老人がいるだけよ」

 

「監視塔のてっぺんにいるボケ老人って、絶対重要なキーキャラじゃん……」

 

ここにきて新たな登場人物がいると聞かされ、スバルは眉間に皺を寄せる。

ボケ老人とラムが説明した人物、それが何者なのか。あるいは、それが二層でのレイドのように試験官だとしたら――、

 

「――フリューゲルじゃ、ないだろうな」

 

「バルス」

 

「もし、そこにフリューゲルがいるんなら、俺は絶対に許さねぇぞ。あいつには、言ってやりたいことが山ほどあるんだ。そうでなきゃ、シャウラは……」

 

「バルス、落ち着きなさい」

 

「落ち着け?お前、ラム、そんなこと、シャウラは……」

 

膝に力を込め、塔の最上階にいる老人の正体を突き止めようと、血気に逸ったスバルの頬が弾かれる。理由は、歩み寄ったラムの平手だ。

頬を叩かれ、スバルは唖然と目を見開いてラムを見る。

 

「自分の無力の腹いせに、シャウラを使うのはやめなさい」

 

「――――」

 

「シャウラのことは聞いたわ。うるさくて品がなくて、バルスを慕うなんて目が完全に腐り切ってしまっていたけれど……消えなくちゃならないほどではなかった」

 

そう言いながら、ラムがそっと、スバルの叩いた頬に手を添える。

打たれた頬は熱を持つが、触れてくるラムの掌はひんやりと冷たかった。その熱を感じながら、息を呑むスバルにラムは続ける。

 

「惜しむなら、怒りではなく、泣きなさい。バルスの八つ当たりの理由にされるより、寂しいと泣かれた方がシャウラは喜ぶわ。――ラムもそうだから」

 

「ラム……」

 

「強く想う相手だけは間違えていると、今でもそう思っているけれどね」

 

最後に一言付け加えて、ラムの額を指で弾かれる。その、痛くもない威力に尻餅をつかされ、スバルは「悪い……」と弾かれた額に手をやった。

冷静になれば、一層にいるのがフリューゲルというのはスバルの願望であり、さらに言えば被害妄想のようなものだ。

仮に本当にフリューゲルがいたとしたら――、

 

「バルスが何かする前に、ラムやエミリア様が半殺しにしてたわ」

 

「……エミリアたんはともかく、ラムのそれは信じられるわ」

 

シャウラのことを思えば、フリューゲルに対する怒りは少なからず、この塔にいる全員が持ち合わせる自然な感情だった。

それをラムに肯定され、スバルは長く息を吐く。

そうなると、一層にいるボケ老人というのが何者なのか大いに気になるが。

 

「ひとまず置いておきなさい。仮にボケ老人が何かの役に立つとしても、それは話に聞く『色欲』の大罪司教の被害者の方で、『暴食』の方ではないわ」

 

「それもだいぶでかい話なんだが……そう、か」

 

そのあたり、ラムの中でははっきりと優先順位がついている。それを憚らず、堂々と主張できるところもラムの強いところだ。

そして、スバルも少なからず、彼女の思いに共感できてしまう。

『色欲』の被害者を救える目算が見えるのはとても大きい。だが、と。

 

「でも、ラムお姉さんはさっきの話だと、別の考えがあるのよねえ?」

 

しかし、そう自戒するスバルの横顔に、メィリィがそんな言葉を投げた。彼女は頭の上の小紅蠍を指でつつきながら、

 

「言ってたじゃなあい?『暴食』の影響は、時間と関係してるとか何とかってえ」

 

「――。口の軽い娘ね。そんな調子だと、屋敷に戻ったらきつい躾が必要そうだわ」

 

「きゃあ、こわあい」

 

小さく舌を出して頭を抱えたメィリィ、そんな彼女の頭上で、小紅蠍が彼女を守るように鋏と尻尾をラムへ突き出す。が、ラムの冷たい視線を浴び、蠍はすぐに丸くなった。

その慌ただしい仕草に、元となった彼女の片鱗を感じるが――、

 

「ラム、その仮説か?それって、何の話なんだ」

 

「何のことはないわ。ただ、『暴食』は他人の記憶を食べると話していたでしょう。もし、それが本当に食べ物のような扱いなら、消化に時間が影響すると思ったのよ」

 

「消化……」

 

「エミリア様は、奪われて数時間で取り返すことができた。なら、騎士ユリウスやプリステラの被害者、それにレムは?」

 

「――ぁ」

 

指を立てたラムの仮説を聞いて、スバルはその単純さに目を見開いた。

彼女の言う通り、『暴食』の大罪司教は『記憶』や『名前』の簒奪を食事に例えた。それが比喩表現以上の意味を持つなら、ラムの仮説にも頷ける。

 

奪った『記憶』や『名前』には、消化されるまでの時間がある。

そして、エミリアの『名前』だけが戻り、他のモノが戻らない理由は――、

 

「……まさか、消化され切った?」

 

「――わからないわ。ただ、戻ってくるのにも相応の時間がかかるだけかもしれない。もしそうなら、希望はある。ユリウスや、他の被害者の『記憶』……レムのそれが戻ってくるのにも、希望が」

 

「――――」

 

悪いようにも良いようにも取れると、ラムはそれ以上の説明をしなかった。

スバルも、ラムの考えはわかる。これは、今すぐには答えの出ない問題だ。

ただし、バテンカイトスが撃破され、アルファルドも捕縛した状況下で、スバルには大きな懸念が新たに――否、改めて生まれた。

 

「ルイ・アルネブ……」

 

『記憶の回廊』で出会い、そしてそこに取り残してきた最後の『暴食』。

自らの肉体を持たず、二人の兄の肉体や、ナツキ・スバルに寄生することで悪事を働いたあの少女は、はたして魔女因子の対象なのか。

 

能力自体は、『暴食』のそれと遜色のないものを持ち合わせていた。

しかし、もしも権能の被害を全て取り返すために必要なのが『暴食』の大罪司教の命だとしたら、あの場所にいるルイ・アルネブをどう倒せばいいのか。

そもそも――、

 

「あの場所に、死ぬとか死なないとかの概念があるのか?」

 

物理的な肉体を伴わず、精神的な存在としてあの場所はあった。

漫画やゲームの概念に倣えば、精神の死というものが適用されるのかもしれないが、精神の死が、すなわち魔女因子を解き放つことになるのか。

あの場所も、あの場所に残るルイも、全てが不明瞭だ。

それに、仮にその答えが出せたとしても――、

 

「ユリウスがレイドを倒して、『試験』としての役割が終わった。それなら、レイドの『死者の書』の白紙は、元に戻ってるんじゃないか?」

 

スバルが『記憶の回廊』、オド・ラグナの揺り籠と呼ばれる場所へいけたのは、ちょうどその場所へ通じる空っぽとなった『死者の書』が存在したためだ。

レイド・アストレアの魂が『試験』に利用され、それ故に『死者の書』に空白が生じ、それが『記憶の回廊』へと繋がった。もし、それがなくなったら。

ナツキ・スバルは、ルイ・アルネブを打倒する機会を逃した可能性すらある。

 

「――――」

 

これがスバルの思い過ごしで、レイドの『死者の書』がなおも白紙である可能性は確かめなくてはわからない。それに加え、スバルにはスバル自身の『死者の書』に挑むという方策もある。あれも、スバルと『記憶の回廊』とを繋ぐ切り札だ。

今一度、自分の『死』を見るという地獄を味わう必要はあるだろうが、何もかも可能性が断たれるよりはずっといい。ずっといい、はずだ。

 

自分が取り返しのつかない失敗をいくつも重ねたと、そう諦めるよりは。

 

「――馬鹿ね」

 

「姉様?」

 

「くだらないことに思い悩む暇があるなら、体も頭も休めた方がずっと利口よ。――この塔で最適解を選べなかったのは、バルスだけじゃないわ」

 

首を横に振り、ラムはそっと自分の額に触れた。

デリケートな傷の残るそこは、かつてのラムの角が生えていたはずの場所。その古傷をそっと撫で、それからラムは同じ指をベッドのレムへ伸ばす。

そして、彼女は妹の額を愛おしげに撫でると、

 

「『暴食』の大罪司教を倒すのに、レムの力を借りたわ。結果的に勝てたけど、その代償は大きい。……この子には、かなりの重荷を支払わせたでしょうね」

 

「重荷……」

 

「角があった頃の働きをしたわ。バルスなら、内側から爆ぜていたぐらいの」

 

それが大げさな話でないことは、ラムの普段からの苦しみを引き受けたスバルには十分伝わる。ただ呼吸し、平然と振る舞うだけでラムは地獄を味わっている。

そんな彼女が本気になった。――そのフィードバックはどれほどのものか。

誇張なく、スバルが受けていたら、きっと体のどこかが回復不可能なほどに壊れてしまったに違いない。

 

その負担をレムに負わせたと、ラムは長い睫毛に縁取られた目を閉じる。

しかし、彼女は「いい?」と言葉を継いで、

 

「そのことで、目が覚めたレムに恨まれるかもしれない。でも、悔やみはしないわ。ラムは、レムの姉様だもの。この子が憎もうと恨もうと、それは同じ。……なら、その先を良くしていくために、触れ合うだけよ」

 

「――。レムは、お前を憎んだりは」

 

「そうでしょうね。――よくできた子だわ。自慢の妹よ」

 

そう、自信満々に笑い、ラムはスバルを薄紅の瞳で見つめた。

記憶にないはずの妹、レムのことをスバル伝いにしか知らないはずなのに、彼女の妹を愛し抜くと、そうした心情には迷いがない。

過去を悔やむのではなく、未来を良くするために挑むと。

 

「……それを俺に言うのは、めちゃめちゃ耳が痛いぜ」

 

ラムの思惑と外れたところで、スバルは過去を捻じ曲げるために幾度も奔走した。

究極の前向き思考をするラムからすれば、スバルの『死に戻り』は究極の後ろ向き思考と言って過言ではあるまい。

起きた出来事を変える『死に戻り』は、いつだって過去を悔やんだ結果の産物だ。

 

「結局、使わないに越したことはないんだよな……」

 

ぎゅっと、力の入っていた拳を再び解いて、スバルは苦笑する。

『死に戻り』を使い、みんなと笑い合う未来を掴むために頑張る自分の姿勢は認めた。その上で、『死に戻り』自体に溺れないよう、自分を戒める。

この塔でも、それだけ多くの涙と、スバルを惜しむ声を聞いたから。

 

「よくわからないけどお、お兄さんったら少しは元気になったみたいねえ」

 

スバルの表情の変化を見て、床で膝を立てるメィリィが呟く。体育座りのような姿勢の彼女は、自分の三つ編みを手で撫でながら、

 

「お姉さんとかラムお姉さんがやってくれるでしょうけどお、お兄さんを励ますなんてわたしにはできないんだから、あんまり凹まないでよねえ。ちゃんとした背中、わたしに見せるって約束でしょお?」

 

「ああ、その約束もあったな。おう、今度こそ、守るよ」

 

メィリィと、彼女の頭の上の小紅蠍を見て、スバルは力強く頷いた。

すると、そんなスバルの決意を後押しするように、傍らのパトラッシュが頬をすり寄せてくる。彼女の鱗が強烈な肌も、慣れれば痛みを感じず頬を合わせられる。

そんな親愛の表現に、スバルも心からの親愛を返して、その場に立ち上がる。

 

さっきは耐えきれずに倒れてしまうぐらいの消耗があったが、失われた体力も少しは回復したようだ。『緑部屋』の精霊、その治療様々である。

 

「考えてみると、ジャイアンまで入れての総力戦だったわけだけど、この部屋の精霊にどれだけ助けられたか、ちょっと感謝してもし足りねぇレベルだな……」

 

回復部屋として利用している『緑部屋』だが、元々ここには室内に入った生き物の負傷を治療する物好きな精霊がいる、というのがシャウラの説明だった。

肉体も持たず、対話の意思もない精霊だが、傷を癒す意図だけは明確で、スバルたち一行は生傷の絶えない塔の攻略中、幾度もこの部屋の世話になった。

それこそ、監視塔に到着してからずっと、レムなどこの部屋に入り浸りだ。

 

「まぁ、浸らせたくて浸らせてるわけじゃねぇんだけども」

 

「精霊、ね。バルスの……いえ、言うだけ無駄だったわね。ユリウスの『誘精の加護』の効果で、無理やり実体化でもさせたらどう?」

 

「言いたいことはわかったけど、俺の魅力はベア子特攻だから悔しくないぜ。実際、ユリウスの加護の効果なら、話せたりすんのかな……」

 

ユリウスの持つ『誘精の加護』は、単純に言えば精霊に好かれやすくなる加護。その効果で六体の準精霊――否、現在は精霊に昇格したイアたちと契約しているわけだが、その効果で『緑部屋』の精霊と話せるなら、それも可能性を広げる一つの手だ。

 

シャウラと同じか、それ以上にこの監視塔で過ごした精霊。

名前もないその存在ならば、この監視塔における謎を解き明かす一助に――、

 

「――?」

 

スバルがそう考えたとき、ふと微かな吐息が室内に漏れる。

その吐息をこぼし、形のいい眉を顰めたのはラムだ。彼女は薄紅の瞳を細めたまま、その視線でぐるりと室内を眺める。

 

「ラム?どうした?」

 

「……何か、妙な空気を感じるのよ。これは」

 

――そう、ラムが変調の予感を口にした瞬間だった。

 

「――っ!?」

「なんだ!?」

 

不意に、『緑部屋』の中心に発生した現象――光が溢れ出し、スバルたちが驚愕する。

突然のことに身を硬くし、スバルとラムは弾かれたようにレムの下へ。メィリィとパトラッシュも警戒を露わに、その光から後ろへ遠ざかる。

 

「なになになに、なんなわけえ!?」

 

「わからねぇ!とにかく、俺たちから離れるな!何が起きても……うお!?」

 

慌てふためくメィリィを背後に庇い、注意を促す言葉が中断される。

部屋の光がひと際強くなり、スバルの目を焼いたことが原因だ。そして、腕で顔を覆いながら、スバルはおそるおそる、光の方へ目を凝らす。

今の強い発光を受け、光は徐々に弱まり、消えつつあった。そのことに安堵と警戒、どちらを抱けばわからないまま、スバルは『それ』を目の当たりにする。

 

「――は?」

 

眼前、光の消えた地点に現れた『それ』を見て、スバルは意味がわからない。

絶句し、驚愕し、改めて絶句する。

 

「……女の子?」

 

スバルの隣で、同じものを見たラムが怪訝そうに呟いた。

その認識は正しい。スバルも、彼女と同じものを見ている。ただし、彼女とスバルとでは、その『女の子』に対する知識が明確に違っている。

スバルは、その『女の子』の名前を知っていた。

何故なら、『緑部屋』の床に横たわる彼女の名前は――、

 

「――ルイ・アルネブ」

 

△▼△▼△▼△

 

『緑部屋』の中央、床の上に光と共に現れた少女、ルイ・アルネブ。

『暴食』の大罪司教である三人兄妹の末妹にして、肉体を持たないはずの『飽食』――それが、こうして現実に姿を現したことに、スバルは絶句していた。

ただし、そのスバルの言葉を、隣のラムは聞き逃さない。

 

「ルイ・アルネブ……『暴食』の、最後の一人の名前ね」

 

この周回、スバルは『死者の書』を通して出会ったルイについて、詳しいことをラムたちに話せていない。触りを話した程度だが、ラムの記憶力は確かだった。

その問いかけに、スバルは動揺を残しつつ、

 

「あ、ああ、そうだ。あいつは、『暴食』の最後の一人……ルイ・アルネブ。バテンカイトスとアルファルドの、妹って話で……」

 

「――。見たところ、意識はないようね」

 

冷静にルイを観察し、ラムの言葉にスバルも彼女が眠っているのを確認する。

眠り、というべきなのか、具体的な状況は全く不明だ。そもそも、どうしてこの場に肉体のないはずのルイが現れたのか。

あれほど、スバルを恐れ、恐怖し、『死に戻り』に絶望した彼女が、あれから数時間で立ち直り、再び挑んでくるとは考えにくい。

 

――『死』とは、そのぐらい人の心に深い傷を残すものなのだから。

 

「考えてても埒が明かねぇ……メィリィ!エミリアたんたちを呼んできてくれ!俺とラムで、こいつは見張ってる!」

 

「もお、人使いが荒いわねえ。……勝手に死んじゃわないでよお?」

 

そろそろと後ずさり、メィリィが『緑部屋』の入口へ。そこから外へ抜け出す前、念を押すようなメィリィの言葉に、スバルは親指を立てた。

そのメィリィの頭の上、小紅蠍が真似するように鋏を立てるのを見届け、彼女はさっと身を翻し、エミリアたちを呼びに一層へ。

そして、代わりに部屋に取り残されるスバルとラムは――、

 

「何事もないと思いたいが、とりあえず、適当に蔦を使って縛り上げておくか?」

 

「下手な刺激はしたくないところね。……それとバルス、気付いている?」

 

「――?何にだ?」

 

ルイの処遇を相談するスバルに、肩を引き止めながらラムが問いかける。その問いかけの意図がわからず、首を傾げるスバル。

すると、ラムは顎をしゃくり、『緑部屋』の天井――否、部屋を示して、

 

「――部屋の治癒の効果が切れてる。精霊が、いなくなったのよ」

 

「え……な、嘘だろ!?」

 

「嘘じゃないわ。バルスでも、集中すれば感じるはずよ。ここが空っぽになったのを」

 

ラムの言葉に動転し、スバルは部屋の中を見回した。

集中と言われても、スバルが精霊の存在を感じる方法は、抱き上げたり、頬ずりしたり、一緒に添い寝したりといった方法が主で、やり方がわからない。

ただ、ラムの言う通り、全身を淡く包んでいた優しい波動を感じない。

 

『緑部屋』の精霊の消失、それは確かに起こった出来事のようで――、

 

「だとしたら、あの大罪司教と無関係ではないでしょうね」

 

「――――」

 

ラムの推測をスバルは否定できない。

スバルも、同じことを考えた。『緑部屋』の精霊がいなくなり、代わりにルイ・アルネブがこうして現れた。それは、あるいは――、

 

「――。とにかく、結論を急ぐのはやめましょう。エミリア様やベアトリス様が戻るのを待つべきだわ。エミリア様たちが戻ったら――」

 

改めて、ルイについての対処を話し合おう。

おそらく、ラムが続けようとしたのは、そんな言葉であったのだと思う。

しかし、そのラムの言葉は続けられなかった。

 

それよりも早く――黒い終焉が、プレアデス監視塔へと襲いかかったからだ。

 

「――っ!?」

 

どん、と大きな爆発が足下で発生したように、スバルたちの体が浮かび上がる。

直後、思い切り全身を天井や壁に打ち付け、スバルは「ぐあ!」と悲鳴を上げた。そして、何が起きたのかと頭を振り、気付く。

 

――全身の総毛立つ、おぞましい気配の接近に。

 

「ま、さか……」

 

そんなはずがないと、感じた予感を振り払いながら立ち上がる。だが、悪寒はますます強くなり、スバルの疑念をより確かなものとして刻み込もうとした。

それは、こないはずと考えた障害――事実、この瞬間まで起こり得なかったはずで、それにも拘らず、それは膨大な破壊となってこの場へ訪れた。

 

「パトラッシュ!ラムを――!」

「――ッッ!」

 

床に這いつくばり、立てずにいたラムの体を抱き上げ、スバルはとっさにパトラッシュへと彼女を投げ渡した。

それを、全身におびただしい傷を負いながらも受け止め、パトラッシュはスバルの意を察して猛然と部屋の入口へ駆け寄る。

 

「バルス、この馬鹿……!」

 

そう勝手に動かれたラムの恨み節だが、耳を貸している暇がない。

スバルは揺れる足場を強く踏みしめ、とっさに蔦のベッドにいるレムへ駆け寄った。そして、彼女の体を抱き上げると、パトラッシュを追って部屋の入口へ――、

 

「――――」

 

――その直前、草の上を転がっているルイの姿が視界の端を過った。

 

「――っ!ああ、クソ!クソったれ!!」

 

憤激に罵声をつきながら、スバルはボロボロの体で火事場の馬鹿力を発揮。レムの体を右腕で抱え込み、空いた左手でルイの腕を強引に掴む。

どちらも軽い体だ。非常時の、この状況なら重さを度外視で運び出せる。

 

そう、二人を抱えたまま、スバルが『緑部屋』を飛び出す寸前だった。

 

「――――」

 

その入口とスバルたちとを分断するように、『緑部屋』の床を突き破って黒い影が室内に流入してくる。――そう、黒い影だ。

こないと信じていたかった、五つの障害の最後の一つ――スバルに執着する、『魔女』の黒い影が、この期に及んで監視塔へと襲いかかってきていた。

 

「ラム――!」

 

吠えるスバルは、その影の隙間からレムだけでも外へ逃がそうとする。

だが、黒い影はスバルの視界の前面を覆い尽くし、決して隙を作らない。その上、黒い影の流入は止まらず、正面だけでなく、左右も、背後も影が呑み込んでいた。

 

「クソ……ここまで、きたってのに……!」

 

迫りくる影を見ながら、脱出路を探すスバルの胸中を悔しさが支配する。

影に呑まれれば、スバルは命を落とし、『死に戻り』する羽目になる。もし、この監視塔で『死に戻り』すれば、リスタート地点が更新されていない限り、スバルは己の内側にルイ・アルネブを抱え込んだまま、やり直すことになる。

 

そうなれば、この白い少女の姿をした大罪司教に支配され返される。

それを恐れ、だからこそ、このループが最後の機会だと全力を尽くしたのに――。

 

「――バルス!しっかりなさい!レムが泣くわよ!!」

「――ッッ!!」

 

黒い影の向こうから、ラムとパトラッシュの必死な声が飛んでくる。

それに答えるために息を吸い、しかし、言葉を吐き出すことができなかった。

 

――それより早く、黒い影がナツキ・スバルを丸ごと呑み込んでいたからだ。

 

△▼△▼△▼△

 

――莫大な黒い影に呑まれ、スバルの意識は闇の中をゆっくりと揺蕩う。

 

「――――」

 

手が、足が、血が肉が、自分という存在が解体され、概念化される感覚。

何か、途轍もなく巨大な感情に呑み込まれ、自分が塗り潰されていく。

 

『――愛してる』

 

そう、誰かが何もない、真っ暗な闇の中で囁いてくるのが聞こえた。

それが、ずいぶんと懐かしい声に思えて、ナツキ・スバルの意識は自嘲する。

 

愛してると、そう呼びかけられることに慣れているなんて、まるで六体の精霊に愛されるどこぞの優美な騎士様のようだ。

生憎と、スバルにそこまでの甲斐性はない。与える愛も、両手と背中で精一杯。それもかなり無理しての話だが、

 

「その、無理がしたいんだよ……」

 

『――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる』

 

「悪いが、それには答えられねぇよ。……今は、その言葉は俺に地雷なんだ。そう言ってくれた相手の手を、掴み損ねたばっかなんでな」

 

『――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる』

 

「……聞く耳持たないのはお互い様か。なら、とっとと飲み干してくれ」

 

何もない空間、事ここに至って、ここから生きて出られる希望は皆無だった。

ならば、ナツキ・スバルはこの闇の中、無情にも命を落とすのだろう。

 

それを、悲嘆ではなく、怒りと奮起に変えて、受け入れる。

 

「戻ったら、最悪の状況が待ってるかもしれない。頭をすっきり切り替えたルイが、今度こそ『死に戻り』を奪おうとするかもだ」

 

『――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる』

 

「けど、負けねぇよ。俺は、負けない。何度でも、戦う。何度でも何度だって、戦う。今度こそ、約束を守る」

 

『――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる』

 

「――明日の明日のために、何度だって戦ってやるよ」

 

愛してると、そう幾度も繰り返される言葉に、押し潰されない。

悪いが、その言葉で傷付く心なら、ほんの少し前にすっかり傷付けられ切った。今さらそんな愛情で、ナツキ・スバルは縛れない。

 

だが、重ねられる愛の言葉は、そんなスバルの拒絶さえ意に介さない。

まさしく、盲目的な愛の言葉が世界そのものを塗り潰さんと押し寄せ、ナツキ・スバルの存在は、闇の中へと呑み込まれ――、

 

『――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛し』

 

『――我、ボルカニカ。古の盟約により、頂へ至る者の志を問わん』

 

次の瞬間、直上より降り注ぐ凄まじい青い光が、世界を包む闇を直撃した。

そして、猛烈な光が闇を喰らい尽くし、世界は一気に色を変えて――、

変えて――、

 

変え、て――。

 

△▼△▼△▼△

 

「う……」

 

ざらついた感触に顔を撫でられ、スバルは呻きながら瞼を開けた。

意識が、ゆっくりと浮上してくる。それに合わせ、開いた瞼の向こうでぼやけた視界、それが徐々にまともな輪郭を帯びてくる。

その間も、なおもスバルの頬にはざらついた感触がずっとあって。

 

「ぱと、らっしゅ……わか、った。わかった、から。起きた。もう、起きたよ……」

 

ぐいぐいと圧し掛かり、顔を舐める感触にスバルは声を絞り出す。

どれだけ疲れ切っているのか、喉から漏れる声は信じられないほどか細くて、うまく意図が伝わらないのか、そのスキンシップが終わる様子を見せない。

 

「いや、どんだけ甘えんだ……お前、そんな可愛いとこ見せて、次のヒロインレースでトップに躍り出る気……」

 

「あーぅ?」

 

「あー、う……?」

 

カラカラの口の中で唾を呑み込み、どうにか言葉を作ったところへ返答があった。

だが、その返答が予期したものと異なり、スバルは頬を硬くする。べろべろと舐められた頬、ゆっくりと視界のぼやけが取れ、そこに浮かび上がるのは――、

 

「う、ぁー?」

 

――スバルに馬乗りになり、顔を舐めているルイ・アルネブだった。

 

「う、おわあああ――っ!?」

「うあんっ!」

 

そのありえない光景に驚愕し、スバルはとっさに目の前のルイを突き飛ばした。その動作に押され、悲鳴を上げたルイがゴロゴロと転がる。

それを見ながら、スバルは必死に後ろに尻を滑らせ、

 

「な、な、な、なんだ、てめぇ!?何のつもりだ!?また、俺をおちょくって……」

 

「うー、うー?うあー」

 

「うあーじゃねぇ!何が、何があった……俺は、死んで……?」

 

愕然と、ルイを睨みつけながら、スバルは必死に声を震わせる。

そのスバルの前で、ルイは草むらで仰向けになったまま、手足を子どものようにバタつかせて唸っている。

意図がわからない。狙いも――否、それ以前に、

 

「ここ、どこだ……?」

 

ルイから視線を外さず、スバルは警戒を強めながら周囲の様子を確認する。

すると、目に飛び込んでくるのは鮮やかな緑の平原――草花がちらほらと風に揺れているそれは、広い草原のような場所だった。

 

「――――」

 

アウグリア砂丘にはありえない光景。

正確には、花魁熊の群生地には花畑のようなものもあったが、これはそういった不自然の産物ではなく、確かな自然の植生としてここにあるものだ。

 

遠く、少し離れた場所には森があるのも見えて、スバルの思考を混乱させる。

ここは、アウグリア砂丘ではない。かといって、ルイと対峙した『記憶の回廊』というわけでもなさそうだった。

 

「草にも、実体がある。味も……ぺっぺっ!草だ!」

 

毟った草の匂いと味を確かめ、スバルはそれが本物であるのを確かめた。

それから、自分の負傷や服の破れ具合から、直前の戦闘――プレアデス監視塔を取り巻く戦いの痕跡、それが残っているのを確認する。

つまり、あの戦いは確かにあったことで、スバルはまだ死んでいない。

『緑部屋』を襲った膨大な黒い影、あれに呑まれながらも生き残って――、

 

「――そうだ!レム!レムは……」

 

目の前にルイがいるのなら、あの瞬間、同じように抱えていたレムもいるはず。

その思いからルイを放置し、スバルは草原の景色にレムを探した。そして、程なく、背の低い草むらの中、静かに横たわる彼女の姿を発見する。

 

「レム!ああ、よかった……ちゃんと、ちゃんと無事だ……」

 

レムに駆け寄り、スバルはその無事を確かめ、安堵でその場にへたり込む。

見たところ、レムにも外傷はない。体の熱も、静かな呼吸もずっと見てきたままだ。そのことに心の底から安堵して、スバルは額の汗を拭った。

 

「はぁ、安心した。レムに何かあったら、姉様に殺されるからな……」

 

それでなくても、スバル自身が自分を許せなくて自裁したくなる。

そんなことを考えながら、スバルは「それにしても……」と顔を上げ、

 

「ここはどこで……塔はどこにいったんだ?エミリアとベア子たちは……」

 

ぐるりと周囲を見回すが、遠目にも見えるはずの監視塔の存在が確認できない。

四方どちらを見ても、それは同じことだった。

 

「エミリア――!!ベア子!!ラム――!!」

「うー、あーっ!」

 

見えないまでも、返事があることを期待してスバルがエミリアたちを呼ぶ。

しかし、声は空しく響き渡り、返事をしたのは草むらに寝そべるルイだけだった。その事実にも腹が立つが、彼女の存在を無視できないのも本音だ。

何を企んでいるのか、間違いなく持て余す状況下、しかし、レムを守れるのは自分しかいないと、スバルはルイに対処するべく立ち上がり――、

 

「――――」

 

――立ち上がろうとする腕を、そっと誰かに引かれた。

 

「――え」

 

片膝をついて、立とうとしていたスバルは掠れた息をこぼした。

腕を、服の袖を引く力はそれほど強くはない。しかし、動けなくなった。

 

「――――」

 

ガクガクと膝が震え、スバルの全身がわけのわからない汗を掻き始める。

本当に、それはわけのわからない衝動だった。内臓が一斉に動き始め、ナツキ・スバルという人間の全部が、その現象に打たれ、暴れ出している。

 

それは、言葉にならない衝撃だった。

それは、たとえようもないほどの激情だった。

それは、この世で味わった驚愕の中でも飛び切り強い大波だった。

 

「――ぁ」

 

ゆっくりと、瞼が震えて、薄く開き始める。

その向こうに閉ざされていたのは、湖のように澄んだ薄青の瞳。

 

楽しげに華やぐそれが、好きだった。

時に悪戯っぽく輝くそれが、好きだった。

胸を締め付けるほどに懇願するそれが、好きだった。

 

――ずっと、ずっと、ずっと、その輝きに焦がれていた。

 

「れ……」

 

心臓が弾み、喉が震え、まるで何かを詰まらせたみたいに声が出ない。

詰まらせた。そうだ。そうだとも。この胸、どれほどの想いが詰まっていたことか。

 

伝えたい言葉も、話したい話題も、交わしたい願いも、積もるほどにあった。

それを求めて、ナツキ・スバルは――、

 

「――レム」

 

唇を震わせ、名前を呼んだ。

情けないことに、たったそれだけのことをするために、何度も失敗してしまった。

はっきりと、彼女に伝わるように言えただろうか。もしかしたら、言えたと思ったのはスバルの幻想に過ぎなくて、大切なことは伝わっていないのでは。

それが怖くて、喘ぐように呼吸しながら、スバルは何度も繰り返す。

 

「レム、レム……レムっ、レムぅ……れ、む……れむぅ……!」

 

ボロボロと、彼女の名前を一度呼ぶたびに、滂沱と涙が溢れ出した。

そうして涙が溢れるたびに、彼女の姿がぼやけてしまう。そうして、彼女の姿が曖昧になったら、またしてもこの手を滑り落ちてしまいそうで、それが怖い。

だから、スバルは顔面を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、必死で自分の顔を袖で拭って、彼女の顔を見失わないように必死になった。

 

「――――」

 

パチパチと、静かに瞬きして、薄ぼんやりとしていた瞳に確かな光が宿る。

ここまでくれば、これはスバルの願望が見せたまやかしなんかではないとわかる。

間違いなく、ここに彼女が――レムが、いる。

 

「――ぁ」

 

弱々しく唇を動かし、レムが何事か口にしようとする。

その声の、掠れた一音が聞けただけで、スバルは胸がはち切れそうな思いだった。

 

ずっと、彼女の寝顔に語りかけ、寝息を立てるその命が繋がっているのを確かめた。

必ず取り戻すと心に誓い、幾度も幾度も朝と夜を迎えてきた。

だが、その間、ただの一度も、彼女の声は聞けなかった。

 

目をつむれば、彼女がかけてくれた言葉が、名前を呼んでくれたことが、様々な場面でのことが思い出された。――でも、それは全て過去のことだ。

今を、明日を、新しい彼女の声が聞きたかった。

 

それが今、ようやく叶う。果たされる。

 

「れ、む……大丈夫、だ。ゆっくりでいいから……」

 

「――ぅ」

 

もごもごと、もどかしげに彼女は唇を動かす。

本当なら、彼女のために水の一杯でも汲んでくるべきなのだろう。しかし、近くに水場は見当たらないし、彼女から目を離せない。

一言でいい。彼女がもう一度、スバルを呼んでくれたら。

その一言が聞けたら、スバルは――、

 

「――たは」

 

「……レム?」

 

静かに、レムが唇の動きを溜め、渇いた口内に微かな潤いを求める。

分泌される唾液で舌を湿らせ、何とかささやかな力を取り戻し、レムは口を開いた。

そして、その青い瞳にスバルを大きく映しながら――、

 

「――あなたは、だれ、ですか?」

 

「――――」

 

唇から紡がれる声、それが確かな音と意味を結び、スバルの脳に浸透する。

――アナタハダレ、と。

 

「――――」

 

膝をついて、レムの顔を覗き込んでいたスバルは息を詰めた。

それから、肺の奥に苦々しく溜まった息を吐いて、自分の胸を強く叩く。

強く、強く、二度三度と叩いて、己に訴えかける。

 

――この可能性は、予期していたはずだ。

 

目覚めたレムが、スバルのことを覚えていない可能性は考えていた。

『暴食』の権能のことを考えれば、それは自然な成り行きだ。彼女が自分の『記憶』か『名前』を失い、目を覚ますことは十分にありえた話だった。

そう、十分ありえた話だ。だから、考えないわけではなかった。

 

もちろん、それでスバルの受ける衝撃が、痛みがゼロになるわけではない。

それでも、運命を呪って絶望したり、不条理に怒りをぶつけて悲劇の主人公ぶるほどに自分を憐れまなくて済んだ。

 

何より、ナツキ・スバルはすでに言われている。

 

『かっこいいところを、見せてください。スバルくん』

 

「――俺の名前はナツキ・スバル」

 

ぐっと、強く奥歯を噛みしめて、スバルは嘆きかけた顔を下ろし、頬を歪めた。

ぐしぐしと顔を拭い、精一杯虚勢を張って、スバルはレムに笑いかける。

 

ナツキ・スバルらしい、晴れ晴れしいほどに根拠のない笑みで。

 

「今はまだ、思い出せないかもしれねぇ。でも、俺は……」

 

「あなた、は……」

 

レムの掠れた問いかけに、スバルは一度言葉を切り、ぎゅっと目をつむった。

それから、その青い瞳を黒瞳で見つめ返し、続ける。

 

「俺は、お前の英雄だ。――レム、会いたかった」

 

そう言って、誓いを立てた少女のために、今一度、ナツキ・スバルは英雄を名乗った。

傷だらけの英雄像を背負い、少年は少女のため、再びそう名乗った。

 

――もう一度、誓いをここに。ゼロから、彼女との物語を始めるために。