『舞と歌の合間に』
ユリウスとの重要かつ他愛ない話し合いを終えたスバルは、エミリアとベアトリスの二人を連れて『水の羽衣亭』を後にしていた。
「庭のところで、ユリウスとすごーく仲良さそうに話してたけど、何を話してたの?」
「あいつと仲良くってのがまず間違いだけど、何を話してたと思う?」
「今度、どこに遊びにいく?とか」
「学校の友達!?」
エミリアが言うほど気安い関係ではないし、仮にユリウスとスバルが同じ学校に通うような仲だったとしても、学内ヒエラルキーに隔絶した差が表れるため同じグループには絶対にならない。学校内とはわかりやすい格差社会だ。
ある意味、貴族社会にも近い排他的なものがあるのではないだろうか。
「そう考えると、ここも向こうも世知辛さは変わらねぇな……」
「ね、ね、何を話してたのー?」
「敵情視察狙いで、ちょこちょこ最近の話とか聞いてただけだよ。座敷での話の発展形。何にはまってる?とか、アレってどうした?とかそんなん」
「それって友達じゃないの?」
エミリアが不思議そうに首を傾げ、スバルも「はて」と首を傾げる。
確かに他愛のなさを考えると友達っぽい気もするが、自分とユリウスなのでそうではないはずだ。友達ではなく、もっとおぞましい何か。
具体的にそれがなんなのかは言葉にならないが、
「まぁ、友達じゃないよ。それだけは間違いない」
「意地っ張り……」
エミリアが呆れた顔で、隣にいるベアトリスの方を見る。その視線にベアトリスは言葉ではなく、無言でため息をつくことで答えとした。
二人して、わかり合っている雰囲気がなんとも疎外感を感じさせられる。
ともあれ実際のところ、ユリウスと庭で話した内容――ラインハルトとヴィルヘルム、そしてあのハインケルを取り巻くアストレア家の問題。
それをエミリアにありのまま伝えるのは、スバルの心が咎めていた。
他所の家の事情を軽はずみに口外するのを躊躇ったのもあるが、最大の要因はエミリアに不必要な思い煩いをさせたくないというものだろう。
どうにもならない類の、難しい問題。
根深く刻み込まれたアストレア家の呪いは、他人が易々と触れていいものではない。
ユリウスもそれがわかっていて、スバルにだけ明かしたのだろう。この程度の配慮はできるようになったと、スバルを認めたということでもある。
――なんだか、胃がむかむかするむず痒さだ。
「それで、スバル。お散歩に誘ってくれたのは嬉しいけど、何を企んでるの?」
「――――」
スバルが言葉にできない苛立たしさと格闘していると、ふと微笑むエミリアがそんなことを口にした。
一瞬、驚きに言葉を封じられたスバルは、目を瞬かせてから肩をすくめる。
「人聞き悪いよ、エミリアたん。企むも何も、純粋に美しい水の都をエミリアたんと一緒にラブラブぶらぶらしたいって俺の願望を実行しただけだよ?別に水竜が水を引っかけるスポットに誘い込んで、濡れ透けエミリアたんを鑑賞したいなんて邪まな企みはちょぴっとしか抱いてないさ」
「ふーん、そんなこと言うんだ。スバルってホントに意地っ張りの頑固者なんだから。私にだって、そんなふわふわしたことが理由じゃないことぐらいわかるもん」
「…………」
エミリアが拗ねたように頬を膨らませ、スバルは弱った顔で額に手を当てる。助けを求めるようにベアトリスを見ると、エミリアとスバルの間を歩く少女はスバルの方を見上げて、エミリアと同じ顔と目つきでスバルを咎めていた。
味方なしの孤軍奮闘に、スバルはすぐに諦めて両手を掲げる。
「わかった、降参。ごめんなさい。エミリアたんの濡れ透け作戦は諦める」
「ス・バ・ル」
怒った声で名前を呼ばれて、スバルは挙げた両手を下ろして今度こそ降参。
「スバルのエッチ」
「教えた俺が言うのもなんだけど、完璧なタイミングだぜ、エミリアたん。ただ、今の俺にはご褒美でしかない……はいはい、本当のところね」
「もうっ」
手を上げて、叩く前の素振りを見せるエミリアにスバルは苦笑。
「別に隠すってほどでもなかったんだけど、驚かせようと思ってさ。今、プリステラの都市公園に向かってんだけど、昨日はそこで『歌姫』と出くわしたんだ」
「わ、あの『歌姫』さんだ。えっと、じゃあ、もしかして今日も?」
「キラキラした目ぇして可愛いね。そ、噂の『歌姫』とコンタクトが取りてぇなと。まぁ、オットーの交渉力を信用してないわけじゃねぇんだけど、俺は土壇場以外ではしくじるあいつの不運さも同じぐらい信じてるつもりだ。だから保険の意味で」
「そっか。『歌姫』さんと仲良くなっておいて、『歌姫』さんの口からキリタカさんに魔鉱石を譲ってもらえるようにお願いしてもらうんだ」
「その通り。よくできました」
スバルが正解と頭の上で丸を作ると、エミリアが無邪気に喜ぶ。
実際のところ、エミリアが言うほどクリーンなやり取りではないはずだが、それを指摘して彼女のやる気を折る必要もないだろう。
エミリアは純粋に、リリアナと親しくすることを楽しみにしている。裏でうごめくなんやかんやは、スバルが秘密裏に担当すればいい。
「あとはエミリアたんとリリアナが、化学反応起こしそうなところを警戒すればいいか……」
「化学反応って?」
「エミリアたんとリリアナ、なんか相性よさそうだなって思って」
「そう?ふふ、そうだといいな」
純粋に楽しみにしているエミリアには悪いが、スバルはすでにこの先に訪れるだろう疲労感を予想してちょっとぐったりだ。
目指す公園にリリアナがいることを祈りながら、いないでほしいなぁと思う気持ちがないでもないという不思議な状況。
もちろん、いてくれなければただエミリアとデートしただけになるので、それは避けたいのだが。――ただのデートでもいい気がする。
「エミリアたん、俺と一緒に水竜のクルージングしない?その方が有意義で、二人の今後のためにもいい気がしてきたんだけど」
「くるーじんぐがなんだかわからないけど、それが船のことだったらスバル酔っちゃうじゃない。私、スバルをおんぶするのは疲れそうだから嫌」
「それにもう公園も目の前なのよ。諦めるかしら」
往生際の悪いスバルを引きずるように、手を繋ぐベアトリスがずんずん前へ。
今回は迷わず目的地に辿り着き、スバルも公園の入口が見えてくれば抵抗を諦めるより他にない。
中央に噴水を置いた都市公園は、朝と昼の合間にあるこの時間から盛況だ。
というのも、昨日よりも公園の奥に集まっている見物客の数が多い。
「早くきたから、リリアナがいない可能性も考えてたんだが……」
人だかりができているところを見るに、その心配は杞憂だったようだ。
今日も今日とて歌姫のリサイタルは好評らしく、熱狂する聴衆の手拍子や合いの手がひっきりなしに聞こえ、公園の空気を支配している。
「手拍子と合いの手?」
「今日は昨日と違って、ずいぶんと賑やかにやっているようなのよ」
スバルと同じ疑問にぶち当たり、ベアトリスも大いに首を傾げる。
今朝の魔法器での放送もそうだったが、リリアナの歌声は基本的にはしっとりと心を絡め取り、聴衆から現実感を奪い去る。そういう認識だっただけに、目の前の熱狂には違和感が大きい。
本来あるべきものに、違うものが混ざっているような違和感が。
「みんな楽しそうね。さすが歌姫さん」
エミリアが喧騒を眺めて期待を瞳に浮かべているが、スバルはどことなく嫌な予感を覚えていた。
前を塞ぐ観衆、彼らが囲むその場所に行くと、後悔しそうなそんな気が。
「――――」
だが、言葉は具体的な形を帯びず、スバルは制止の声をかけられない。
それにエミリアは、目の前の光景を楽しみにしている。あの期待に煌めく紫紺の瞳を裏切れるだろうか。スバルの決断は、少なくとも間に合わなかった。
群衆の熱狂、手拍子がやがて万雷の拍手へと変わる。
それはつまり、彼らが囲む何かがフィナーレを迎えたということだ。そして立ち上がり、興奮に頬を染める彼らの視線が集まる場所が見えるようになるということ。
そしてそこには、
「とても良い踊りでした!私、尋常でない足さばきに思わず失禁しかけましたよぅ!」
「貴様の方こそ、なかなかに妾を興じさせる歌と演奏であった。大義である。芸事でこれほど興が乗ったのは久方ぶりのことじゃ」
そう言ってがっちりと握手を交わす、『歌姫』と赤い女の姿があった。
嫌な予感通りだった。
※※※※※※※※※※※※※
今日も聴衆がひっきりなしに、リリアナの演奏と歌声に対する感想を涙声で伝えていくのを見届ける。
昨日と違う部分があるとすれば、リリアナの隣に立っているプリシラに対しても、「踊りすごかったです」「感動しました」「次も見にきます」といった声援が投げかけられていることだろう。それに対してプリシラも上機嫌に、手にした扇子で自分を煽りながら鷹揚に頷き返していた。
そうして、一通りのファン交流を終えると、残るのは件の二人とスバルたちだけ。ポツンと所在なさげに立つこちらに気付き、リリアナのツインテールが跳ねる。どういう原理だ。
「おややぁ!そこにいらっしゃるのはナツキ様とエミリア様ではありませんか!それにナツキ様の幼女様までご一緒なんて、どうなさったんですです?」
「幼女様って何かしら。スバル、説明するのよ」
「言った本人に説明させろよ。ほら、飴玉やるから大人しくしてろ」
「こんなんでペロペロ……誤魔化されないかしらペロペロ……」
口の中で甘いものを転がしているベアトリスは放置して、スバルはぐるんぐるんと犬の尻尾のようにツインテールを振り回しているリリアナに歩み寄る。隣のエミリアは歌姫の過剰反応に目を丸くしているが、リリアナの本領はまだまだここからだ。
「昨日ぶりだけど、今日も盛況だったな。今朝もキリタカに追い出されてきたってことでいいのか?」
「いぃえぇ!まー、そんなとこです。愛され系の私としましても、あれだけ誠心誠意お願いされたらお応えするのが女の見せ所かなと思いましてっ」
「で、ほっぽり出された先でリサイタルしてたはいいとして……」
ない胸を張って存在しないヒゲを弄るアクションをするリリアナの横、そこで豊満な胸を腕で抱くプリシラを見る。彼女はスバルの視線に気付くと、明らかに見下した様子で鼻を鳴らして、
「先ほどからなんじゃ、貴様。妾の舞に目を奪われるまでは許しても、なおも卑猥な視線を向けるなど無礼であろう。妾の色香に惑うのは男の性と目こぼししても、その発露を許すのは喉を鳴らし、妾の残り香を嗅いで夢想に励むことのみである」
「踊り見てねぇし、興奮もしてねぇよ。俺はエミリアたんみたいに清楚なのが好きなの。お前ぐらい体のアピールがすげぇとかえって気持ちが萎えるタイプ」
「妾より貧相な半魔が好ましいとは、さすがに擁護のしようがないの。とはいえ、妾も世の中に悪食というものがいることを許さぬほど狭量ではない。ましてや真に美しいものを知らぬとあれば、貴様の浅慮も仕方なしといったところよ」
ああ言えばこう言うプリシラの口に、スバルは反撃することの無為さを悟る。
価値観の相違だ。世界の真理は己にあると信じるプリシラに、スバルの常識的な思考では太刀打ちできない。
ともあれ、
「舞ってことは、プリシラが踊ってたってことなの?」
「見逃したことを悔いるがいい。妾とて興が乗らねば滅多に踏まぬ。それをさせるだけのものが、この芸者の歌にあったということではあるがな」
驚いた顔のエミリアに、プリシラがリリアナを示して答える。
その答えにスバルは驚き、リリアナは白目を剥いた。そのまま泡を吹きそうなリリアナのリアクションは余所に、スバルはじろじろとプリシラを見て、
「お前が踊った、ねぇ。にわかには信じられねぇけどな」
「なれば、先の愚物共の熱狂をなんとする。そこな芸者の歌声には魔性こそ宿っておるが、妾の踊りなくば聴衆はただ聞くばかりの人形と化す。それも歌の楽しみ方ではあるが、妾は好まぬ。どうせ彼奴らめは愚かな蒙昧なのだから、それなりの行いで妾の心に色を差し込むがよい」
「……つまり、馬鹿は馬鹿なりに馬鹿騒ぎした方が楽しいってこと?」
「ほう。凡愚なりに頭を回したようじゃな」
感心したようなプリシラの言葉だが嬉しくない。
それにそもそも、プリシラは下手をすると座敷でスバルを見たことすら忘れている気配がする。エミリアを覚えていてくれれば、支障はないと言えばないが。
「でもでも、プリシラ様とエミリア様。今をときめく話題の方々が、揃って足を運んでくださるなんて私、感激ですっ」
険悪になりかける雰囲気を、かろうじて保ってくれるのはリリアナの反応だ。
さすがに両者の敵対関係を知る彼女は、スバルたちがやりづらい空気のバランサーを務めてくれているらしい。とぼけた発言も意図的なものだろう。
「げへへ。それだけ私の歌が素晴らしいってことですかぁ?もうもうっ、照れちゃうなぁ、えっへっへっへっへ」
「いや、これ素だな」
図と調子に乗ってデレデレ状態のリリアナに、スバルは思い過ごしだと肩を落とす。それからふと、スバルはプリシラの周囲に誰もいないことを目に留め、
「お前、一人なの?アルとかクソ野郎とか可愛い執事くんとかは?」
「シュルトは散策させると道に迷う。懸命ではあるが、何一つ実を結ばぬところが愛い奴なのでな。アルは傍に置いておくと小言がうるさいので使いに出した。クソ野郎については知らん。酒場にでも出入りしておるのじゃろう」
「クソ野郎ってのは共通言語で通るんだな……」
意外と真っ当に返事してもらえてスバルは驚く。ついでに、自陣営に迎えているはずのハインケルに対する扱いの悪さも。
そう扱われて当然の人物であるという理解はあるが、それならそれで何故に自分のところに引き入れたのか。
「どうせそれも、面白いからとか言い出すんだろうけどよ……」
「わかっておるではないか。ま、引き入れた理由など些事よ。そもそも、妾としては売り込んできた当人が遊興に使えそうと判断したから迎えたにすぎん。邪魔となればいつでも放り出す。彼奴もその程度は弁えておるじゃろう」
「いや、どうかな……弁えてそうにはイマイチ見えなかったぞ」
弁えていなかったからこそ、プリシラの不興を買って叩きのめされたのだと思ったが。あるいはプリシラにとっては、そんなことすら忘却の彼方なのだろうか。
「でもほら、危なかったりとかしないのか?俺のとこもエミリアたん連れて出歩いてる時点であんまり説得力なかったりするが」
「従卒三人がいなくなったところで、妾になんの危険がある。あれらがいたところで利点など、真後ろが見えるぐらいのものであろう」
「あー、さいですか」
戦力として数えられていないアルたちがいっそ哀れになる割り切りだ。が、実際にプリシラの動きを見た後となっては、それが単なる事実のように思えてならない。
座敷で見せたプリシラの動きは、それほど人域を踏み越えていた。
「そういえば、俺も顎蹴り砕かれたことあったっけなぁ」
王都を起点とするループの中、スバルは一度、プリシラの不興を買って顔面を蹴られたことがある。あのとき、部屋の高い天井近くまで体を打ち上げられ、たった一発で半死半生に追い込まれたのは事実だった。
思い出して今になって、割られた顎がしくしくと痛む気がする。
「それでアルたちを置いて歩いてて、リリアナに会ったの?」
「都市の景観だけでも、なかなかに妾の無聊の慰めにはなったがな。王都のようなせせこましい作りとは違い、この都市には見るべきところがある。そうして水の流れを楽しんでいれば、歌が耳に入ってきたというわけじゃ」
「いやー、さすがに最初に突然踊りで乱入されたときはどうなることかと思いました。たまにいるんですよねぇ、無謀にも私の演奏に混ざってきて空気を変にしちゃう人。大抵の場合は歌声で叩きのめして改心させてあげるんですがっ」
「お前、本当に『歌姫』っぽくないよね……」
乱入者を歌で撃退とか、ロックすぎる。
それに唐突に踊りで参入するプリシラの行動力にも正直唖然だ。それで観衆をあれだけ虜にしてしまうのだから、よほどの舞を披露したのであろうが。
「妾を差し置いて人心を引き寄せるなど身勝手もすぎると言うところじゃが、貴様の歌にはそれだけの価値があった。どうじゃ。妾と共にこい。妾の屋敷にて、妾の望んだときに歌を奏でる栄誉をやろう」
「――――」
と、よほどリリアナの歌声が気に入ったのか、プリシラがあまりにもらしい無理難題を彼女へと突きつけている。つまりは専属の楽員として迎え入れようという言い分ではあるが、プリシラのそれは強制的な意味合いが強い。
気に入ったのと同じ分だけ、自分のものにならないことへの怒りは増す。そういう恐ろしげな意味合いが。
そしてリリアナは、
「どもありがとうございますっ!なんとも光栄な評価で、私も嬉しいです!が!が!が!お断りさせていただきますっ」
プリシラの恐ろしげな部分を知らず、空気が読めるタイプでもない。
怖いもの知らず一直線の朗らかさで、プリシラの申し出を断っていた。
「ほう、断るか。何故じゃ」
案の定、応じるプリシラの声のトーンが下がり、瞳の色が変わる。
ぞわりと、刃先で背を撫でられる悪寒が当事者でないスバルにも襲いかかった。
一言、それが命取りになりかねない空気。
緊張感が張り詰めた世界で、リリアナは手にした楽器のケースを撫でた。
「私はリリアナ、吟遊詩人です。今でこそ、こうして乞われて都市に留まっておりますが、いずれは風に流れて再び流浪する旅人の身。土地に縛られず、人に縛られず、それが生業であると生き方を決めております」
「故に妾の誘いには乗らぬ、と」
「母も、その母も、そのまたさらに母も、私の一族はそうしてきました。私たちは形あるものを残せず、歌のみを人の心に残して生きる一族。風を囲うことは、歌を遮ることは何者にもできません。ですから」
「――――」
「お誘いは嬉しいのですが、お断りいたしますです。私の歌が響く場所は、私自身すら知らず、風に任せるままにしておりますので」
楽器を掲げ、誇らしげに語るリリアナの表情には迷いがない。
そこには常に彼女が浮かべている、世の中を舐め腐った戯けた色も、他人の神経を呼吸するように逆撫でする雰囲気も存在しない。
ただ、吟遊詩人――歌で物語を語り継ぐ、そういう生き物の誇りがあった。
リリアナの答えを聞き、プリシラは腕を組んだまま片目を閉じている。そして残った片方の目、煮えたぎるマグマのように赤い瞳がリリアナを真っ直ぐ射抜く。
そうして、揺るがないリリアナの表情にプリシラはふっと息を漏らし、
「――良い。その信義、一興である。許せ、無粋は妾の方であった」
「いぃえぇ、そんなことは。私の方こそ、申し訳ないですよぅ」
唇を綻ばせるプリシラに、当たり前のようにリリアナが応じる。
その二人のやり取りに、スバルは正直に唖然となる他にない。そのスバルの間抜けな顔を横目にして、プリシラが不愉快そうに眉を寄せた。
「なんじゃ、凡夫。その面は何を思ってのものであるか」
「何をも何も、驚き以外のなんだと思ってんだよ。俺はてっきり、断ったリリアナをお前が真っ二つにするもんだとビビってたってのに……」
「馬鹿馬鹿しい心配じゃな」
鼻を鳴らして吐き捨てるプリシラだが、とてもそうは思えない。
リリアナの答えを聞くまで、プリシラは間違いなく彼女を殺すつもりだったはずだ。少なくともスバルの目には、あの猶予の時間はそれを決めかねているようにしか見えなかった。リリアナが助かったのは、たまたま天秤に揺れが悪い方へ傾かなかっただけの幸運だったのではないか。
「でも、私もちょっと意外だったかも。プリシラって、欲しいものは何でも手元に置いておきたがる人なのかなって思ってたから」
と、スバルが踏むのを堪えた地雷を、まさかのエミリアが踏み抜く。
ストレートにプリシラの印象を口にするエミリアに、スバルは思わず背筋を伸ばしてプリシラの様子を窺う。が、プリシラはエミリアの言葉に片目をつむり、
「戯けたことを抜かすでない、半魔風情が。貴様の如き曇った眼で、妾の何をわかったように語る。無礼侮辱にも程があるぞ」
「口先ばかり達者な娘なのよ。他人のどうにもならない出自をあげつらう暇があるなら、誰からもそう思われている自分の言動を省みるかしら。その方がよほど、互いのために有意義だと言ってやるのよ」
「ベアトリス……」
プリシラの容赦ない罵倒に、困った顔をするエミリアの手をベアトリスが握る。エミリアの代わりに言い返したベアトリスに、プリシラは初めて気付いたとばかりの表情で眉を上げ、
「童女がずいぶんと言ってくれるものじゃな。言っておくが、妾が寛大を示すのに年齢は関係ない。自分の幼さが無礼を見過ごされる理由になると思い違いをしておるのであれば、今すぐに態度を改めることじゃ」
「余計で大きなお世話かしら。言ってやるのよ、小娘。お前の方こそ、ベティーを見た目通りだと思うなら痛い目を見るだけかしら」
ピリピリとした敵愾心が、ベアトリスとプリシラの間で弾けている。
ドレスをまとった二人の少女は、どうやら相性は最悪と見ていいらしい。ベアトリスが負けるとはスバルは微塵も思わないが、そもそも取っ組み合いになった時点で問題が発生する組み合わせ――候補者とは、そういう間柄だ。
「よせ、ベア子。プリシラがムカつくのは事実だが、やり合ってもしょうがねぇ」
「止めるんじゃないのよ、スバル。お前、エミリアがあれだけ馬鹿にされて腹が立たないのかしら。男の証拠を引っこ抜くのよ」
「怖いこと言うのやめてくれる!?それに……」
ベアトリスが怒っているのは、エミリアの存在が軽んじられたからだ。自分への罵声など後回しにして怒るベアトリスに、スバルは場違いな感傷を覚える。
そしてそれは、他でもないエミリアも同じことだ。
「ベアトリス。私は大丈夫だから」
前に出たベアトリスの腕を引き、エミリアが少女の頭を優しく撫でる。その手つきにベアトリスは一瞬、泣きそうな顔をスバルたちにだけ見せた。
それも一瞬のことで、プリシラを睨みつけ直す表情はいつものベアトリスだ。
「命拾いしたことに感謝するかしら」
「それは貴様の方よ。己の愛らしい容姿に感謝するがいい」
ベアトリスが鼻息荒く引っ込み、プリシラも小さく鼻を鳴らす。
正直、プリシラの最後の台詞はベアトリスの容姿を褒めていた気がするが、憤慨しているベアトリスは気付かなかった様子だ。ようは可愛いから見逃した、という解釈でいいのだろうか。よくわからない。
「お前もいちいちわからねぇ女だな……」
「当然であろう。女を、中でも妾を覗き込もうなどと傲慢がすぎる」
「俺が悪いって話なのか……?もともとはリリアナをお前が欲しがって云々ってのが発端だったってのに」
結局、プリシラがリリアナを手元に置かずに許した真意も謎だ。図らずも、スバルがその意図を視線に込めて彼女を見ると、プリシラは扇子で口元を隠し、
「この世の全ては妾のものぞ。ならば美しいもの、気高いもの、それを手元に置く必要なぞない。それはただ、そこに在るがまま在ればよいのじゃ」
「…………」
「この世の全てが妾の庭であれば、囀る小鳥がどこで歌うかなど問題ではない。籠に入れる無粋、外敵から守る無粋、全てが煩わしい」
スバルの考えを愚かと吐き捨てるプリシラの美学。
彼女のその他を寄せ付けない在り方に、スバルは言葉を見失った。
意味は、理屈は、わからないでもない。
しかし、彼女の見ているものとスバルの見ているものとはスケールが違う。
だからスバルには一生、彼女を理解することはできないだろう。
恐ろしいと、素直にそう思う。しかし、こうも思う。
この恐ろしいという感情を、あるいは見上げることに憧れるものもいるだろうと。
アルがプリシラについているのも、ひょっとするとそれが理由であるのだろうか。
「さ、さ、さ!ここは一つ!皆さんも落ち着かれたところで、親睦を兼ねて私が歌をご披露いたしましょうか!ええ、そうしましょうかっ!」
と、それまでの雰囲気を割るように、リリアナが唐突にそう提案する。彼女はケースからリュリーレを取り出すと、その絃を猛スピードで早弾きし、全員の視線を一身に集めながらくるくると回り、
「今度ばかりはプリシラ様も、踊って混じらず歌を純粋にお楽しみいただければっ。私も私の全力全開手加減抜きでの、ウ・タ・ヒ・メ!をご覧にいれましょー!」
「ほう」
リリアナの大言に、プリシラが興味を引かれた顔になる。
「エミリア様も、どうやら先ほどはちょうど歌の終わりにご到着されたご様子。できましたら私が可愛らしさだけを売りにしている歌い手でなく、恵まれた歌声と卓越した演奏技術で小銭を荒稼ぎしている詩人だとご理解していただければっ」
「わ、ホントに?」
「全然華やかさのない理解のされ方だけど、それでお前は満足なの?」
リリアナの主張はともかく、エミリアが彼女の演奏と歌に興味を示しているのは間違いない。先ほどのやり取りに気を引かれながらも、ひとまずリリアナの提案に乗りたい顔のエミリアだ。
エミリアとプリシラが微妙な距離感で立ち、リリアナが演奏の準備に入る。と、その前にリリアナが手招きしてスバルを呼び、そっと小さな声で、
「ナツキ様、ナツキ様。私の見たところ、ひょっとしてエミリア様とプリシラ様は仲があまりよろしくないのでは?」
「見たところも何も、立場知ってるなら当たり前だろ。プラスで、プリシラが基本的に誰に対しても相性が悪いから、エミリアたんをしてあの様だよ」
「それは一大事っ!」
リリアナが驚き、彼女の髪の毛が警戒する犬の尾のように跳ねる。神経でも通っているのだろうか。掴んで引っ張り回したい。
「ではではっ、ここは私が一肌脱いで、お二人を歌の世界で魅せましょう。あ!今、一肌脱いでのところでいやらしい想像をしたんじゃありませんか?ダメですよぅ、そんなふしだらなっ」
「一つの台詞の中で感心させるのと軽蔑させるのと同時にやらされるの疲れるからやめてくんない?」
気遣いのできる狂人ぶりを発揮するリリアナに、スバルは感心しつつため息。悪い空気を歌で一掃、というのはわかる話だ。
互いにリリアナの歌に興味を持つ同士。さすがのプリシラも、気に入っているリリアナの歌の最中にエミリアにちょっかいをかけたりはしないだろう。
「歌の後でのご歓談に向けて、ナツキ様にはオヤツなど用意していただいてはいかがでしょうか。きっと甘いお菓子なんかも用意しちゃったりなんかすると、心も弾んで互いの距離も一気に近づくと思いませんか?思いませんか?」
「思いませんが」
「歌の後でのご歓談に向けて、ナツキ様にはオヤツなど用意していただいてはいかがでしょうか。きっと甘いお菓子なんかも用意しちゃったりなんかすると、心も弾んで互いの距離も一気に近づくと思いませんか?思いませんか?」
「何これ、はいって言わないと進まないタイプの茶番選択肢?」
テンションも台詞も一言一句変わらないリリアナの強引さに、スバルは観念して「はい」を選択。パーっと顔を明るくするリリアナだが、一理なくもない。
他人への配慮なんて高度なコミュニケーション能力を、人類とリリアナ類の間で交わすことができるとは思わなかった。
「というわけで、俺はリリアナの歌の間に摘まめるものでも買ってくる。エミリアたんはケンカしないで、大人しく待っててね」
「もう、心配しなくても大丈夫。私だってプリシラとケンカしたいわけじゃないんだから、心配いらないわよ」
スバルが念のためにエミリアに言うと、ころころと笑う彼女はそんな様子だ。エミリアを疑うわけではないが、そもそもエミリアがケンカを売らなくてもプリシラの方から売ってくる可能性が高いのは否めない。
「ベアトリス。何かあったらエミリアたんを頼むぞ」
「わかってるのよ。あの娘、また何かつまらないことを言うようなら消し炭にしてやるかしら」
「お前もケンカしないようにお願いね?」
ともすればエミリアより血気逸っているベアトリスに後を任せて、スバルはひとまず公園を離れようとする。と、その前に、
「プリシラ、お前、食えないものとかあるか?」
「意外じゃな。貴様のような凡夫に気遣いという機能が存在するのか。まあよい。妾に差し出すのであれば、相応のものを用意せよ。つまらぬものを献上するのであれば、差し出す掌に貴様の首を乗せて返すことになるぞ」
「じゃんけんで負けてパシリするわけでもないのに、なんでそんな酷い条件突きつけられなきゃなんねぇんだよ!」
挑戦的な珍味でも売っていたら、それを差し出してやろうとスバルは考える。
プリシラはプリシラで、スバルの答えに不機嫌に顔をしかめて、
「じゃんけん……じゃんけん?」
などと首を傾げていた。
スバルを忘れていただけに、ひょっとするとジャンケンをしたことすら忘れているのかもしれない。もうなんというか色々な意味で、付き合い甲斐のない少女だ。
「スバル、気をつけてね」
「何かあったらすぐにベティーを呼び出すのよ」
エミリアとベアトリスに二人に見送られて、スバルは手を振る。それからリリアナがウィンクしようとして両目をつぶって見送るのにも、まあおざなりに手を振ってから公園を駆け出した。
少し離れると、風に音に乗ってリュリーレの旋律が微かに届く。
それを背後に聞きながら、スバルは急いで戻って、自分もリサイタルに少しでも混ぜてもらわなくてはと蹴り足に力を込めたのだった。
※※※※※※※※※※※※※
そして、スバルが公園を離れてから十分後。
「俺はヘタレてるよなぁ、本当に」
買い物を終えて店を離れて、スバルは紙袋の中の品を見てため息をついた。
お菓子の準備、という名目でパシリに出たスバルは、適当な店に狙いをつけると早々に買い物を終えた。途中、プリステラ名物の珍味『ギナジェリー』なる珍奇な食べ物に興味を引かれたりもしたのだが、それをプリシラへ買って戻る勇気は出なかった。
互いの陣営の関係悪化を恐れたと言えば聞こえはいいが、純粋にプリシラの反応がおっかなかったというのが本音である。
「しかし、鰻ゼリーに似てたな……味もそんなんだったのかな。確かめる勇気がない自分が情けないけど、嫌いじゃない」
複雑な自分観をこぼしながら、スバルは軽く急ぎ足で公園への道を辿る。
離れたのはほんの十分であるし、ベアトリスの方からは契約者間で繋がるパスによる異変は伝わってきていない。
そうとわかっていても、早めに戻りたい男心――だが、
「おっと、すまねぇ」
急ぎ足で角を曲がり、広場に出た途端に誰かとぶつかりそうになる。慌てて回避したものの、スバルはとっさに振り返って声をかけた。
「悪かった。ぶつかってないと思うけど、大丈夫だったか?」
「おいおい、兄ちゃんよお。それが謝る態度かよ。そういうのはもっと誠意を見せてって、うげ!」
謝罪するスバルに、ぶつかりそうになった男が粗野な声で応じる。そのまま因縁をつけてきそうな素振りだったが、スバルを見て相手の表情が変わった。
同時に、スバルの方も呆れた顔になり、
「なんだよ、チンか。お前、フェルトに雇われてもまだそんなチンピラ紛いのことやってんの?」
「るっせえな!だからチンじゃねえって言ってんだろ!なんでてめえも、こんなとこうろついてやがんだよ!」
そう言って唾を飛ばすのは、昨日も散々チンピラロールを続けていたラチンスだ。フェルトの話では用事を言いつけて、都市の別の宿で過ごしていると聞いていたが、
「トンとカンは一緒じゃないのか?一人なんて珍しい」
「珍しいもなにも、お前が俺の何を知ってやがるってんだよ。珍しく感じるほど付き合いなんざねえだろ。うっせうっせ、どっかいけ」
「そう冷たくするなって。生死のやり取りをした仲じゃねぇか」
「そんな覚えねえよ!?」
馴れ馴れしく接するスバルに、ラチンスはだいぶ嫌々な対応だ。
スバルとしても、彼に対する親近感がこうもあるのは謎だ。たぶん、スバルの中の凡人センサーが、トンチンカンを凡人仲間として捉えているからだろう。
この世界、会う人会う人がすごい人ばっかりだったりするので、たまに彼らのような相手と接すると露骨にホッとする。
一度は殺された相手だというのに、肝が太くなったものだ。
「とにかく!構うんじゃねえよ!俺ぁ今、仕事中なんだ!」
「定職に就かずに迷惑かけてたあんたが仕事だなんて……あたしゃ嬉しいよ」
「誰だよ!」
泣き真似をするスバルに舌打ちして、ラチンスはスバルを振りほどくと人混みの中へ。すげない対応をされて、スバルは頭を掻きながら反省。
どうも距離感を間違う癖は、意識していないとこうしてたまに顔を出す。
人波の中に消えたラチンスを見送って、スバルは改めて公園へ戻ろうと足を踏み出した。その足が、ふと止まる。
「んん?」
首をひねり、疑問に喉を唸らせるスバル。
そのスバルの眼前、足を止めた原因――足を止めた人々の姿があった。
ラチンスが紛れた人混みが、揃ってその足を止めたのだ。それを見て、スバルも思わず足を止めてしまった。ついでに紛れたはずのラチンスが、足を止める人垣に道を遮られて、舌打ちしながら波をはみ出てくる。
「っだよ、どいつもこいつも!何を見てやがる」
苛立たしげに吐き捨てながら、ラチンスは群衆が足を止めて、揃って視線を向けている方――頭上、背の高い建物の屋上を見上げた。
それは一際背の高い建物で、高所の先端に魔刻結晶を嵌め込んだ時計塔のような役割を持つ建物だ。大きな都市や町には当たり前のように設置されているそれは、刻限塔と呼ばれる建物で、一つの町に複数が設置されているのが基本だ。
都市プリステラにおいても、時間を確認するための刻限塔はいくつもあちこちに点在している。そこにある刻限塔も、その中の一つであった。
だが、
「――やあ、どうも皆さん。お騒がせしております。ごめんね」
刻限塔の開放された窓部分から外に出て、危険な縁に立つ人影があった。
その人物は奇妙な出で立ちで群衆の目を引きつけながら、その視線を浴びることに感動するように声を震わせている。
「ありがと。ほんの少しだけ、皆さんのお時間を拝借させてください」
謝罪を口にしていながらも、謝意より己の意思を優先させるどこか独善的な声。
震える声は裏返り、ひび割れ、耳にするものの心をひどくガムシャラに掻き毟るような不快感があった。
そのおかしな感覚はおそらく、その人物の奇怪な外見の影響も多大に受けている。
――その人物は頭部を乱雑に巻いた包帯で覆い、わずかに露出したギラギラと輝く瞳で世界を睥睨している。黒いコートで体をがっちりと包み、両腕には長く歪な鎖を縛り付け、先端を床に引きずりながら、せかせかと塔の上を左右へ歩き回っていた。
その奇態から目を離せないでいる群衆に、その人物は笑み――おそらく、笑みであろうと思わせるように、包帯で隠れた口元を陰惨に歪ませ、
「ごめんね。私は魔女教、大罪司教『憤怒』担当」
恐るべき肩書きを口にして、名乗る。
「――シリウス・ロマネコンティと申します」
【悪意】が、そう言って嗤った。