『お嫁にいけない』


突然のエミリアの来訪に、スバルは思わず心が弾むのを感じていた。

意外とアクティブな格好が新鮮で嬉しい驚きだが、それ以上に嬉しいのはこの場に彼女の存在があったことだ。

立て続けに知らない人間――特に最初のひとりにはひどい目にあわされただけに、異世界召喚後に最初に優しくしてくれた彼女には格別な想いがある。

 

「もはやこの想い、刷り込みみてぇなもんだな。もう片時も離れたくないよ、母さん!」

 

「血が足りてないところにベアトリスから悪戯されたって聞いたから、ちょっと心配してたんだけど……するだけ無駄だったみたい」

 

「寝起きパネェのは生まれつきでな!そんでもって聞くのとかちょっと恐かったりするんだけど……」

 

訝しがるエミリアに対し、スバルは両手の人差し指をつんつんと合わせ、上目づかいにおずおずと切り出す。

 

「その……あの、俺のことってちゃんと覚えてる?」

 

「その仕草、すごーく嫌。それに変な質問するのね。スバルぐらい印象が強い相手って、そうそう忘れられないと思うけど」

 

ささやかに口元をゆるめて名前を呼ばれて、スバルの肩が安堵に下りる。+して女の子から下の名前を呼び捨てされている事実に、スバル的には珍しいぐらい素で照れる。耳まで赤くなる勢いだ。

 

そんな若干、初々しいスバルの態度をさて置き、エミリアの登場に追いかけられていた双子がその側へ駆け寄る。彼女らは二人してエミリアの後ろに回り込むと、左右から顔だけ出してスバルをうかがい、

 

「聞いてください、エミリア様。あの方に酷い辱めを受けました、姉様が」

「聞いてちょうだい、エミリア様。あの方に監禁凌辱されたのよ、レムが」

 

「あなたたちにそんな悪ふざけ……スバルならやりそうだけど、できるはずないじゃない。ラムもレムも、病み上がり相手に遊び過ぎないの」

 

「はーい、エミリア様。姉様も反省していますわ」

「はーい、エミリア様。レムも反省したと思うわ」

 

ラムとレム、と名前を呼ばれた二人は反省の欠片も見えない反省を宣言。そんな彼女らの態度に慣れているのか、エミリアはさして気にする様子もなくスバルを見やり、

 

「それで体の調子は大丈夫?どこか変だったりしない?」

 

「ん、お、そういや寝る前は全身火傷したみたいで死ぬかと思ってたのに、そんな感覚も全然ねぇな。逆に寝過ぎてちょっとだるいくらい」

 

「そうね。スバルと会ってからほとんど一日経ってるのに、その半分以上は眠ってたぐらいだし」

 

「そんなことないだろ」とこれまでの経緯を思い出しながら反論しようとして、グッとスバルは己の言葉に詰まった。

スバル自身の感覚としては、そもそも昨日を乗り切るまでにかかった時間の合計はおそらく二十四時間を超えるという矛盾。

彼女からすればスバルとの邂逅は小一時間にも満たなかったはずだ。交わした言葉の数も、決して多いとはいえないだろう。

ぐっすり眠れて満足、とかやってる場合ではない。本来ならば得ていたはずの彼女との会話イベント、それをこなさなくては。

 

「寝過ぎてだるいってのも考えもんだな。……しかも朝に起きてるなんて、俺的には超珍しいし」

 

「それってどんな生活送ってるとそうなるの……?」

 

「いやほら、夜の方が余計な雑音とかないからゲームとかはかどるじゃん?ぶっちゃけ、ひきこもってっと日の高い時間は完全に睡眠時間だわな」

 

「なんだか聞くだに残念な感じが増すのよね、スバルって」

 

意味の大半は理解できなかっただろうに、本質は理解してくれたのかわかりやすく呆れをため息で表現してくれるエミリア。

彼女の反応のひとつひとつに小気味よいものを得ながら、スバルはふとラフな彼女の服装の方に話題を向ける。

 

「そういや、ずいぶん印象違う格好してんな。なにしてたんだ」

 

「あー、あんまり服のことには触れないで。私も不本意なの。……なにをしてたかって言われると、これから朝の日課に出るところだったんだけど」

 

額を押さえて言いづらそうに言葉を濁すエミリア。彼女のはっきりしない態度も気にかかったが、スバルが追及したのはそちらではなく、

 

「日課って?」

 

「屋敷の庭を借りて、朝は少し精霊とお話を。それが私にとって、誓約のひとつでもあるから」

 

「精霊と話し合いとはなんともファンタスティック。誓約ってのはイマイチわからんけど……」

 

精霊、と聞かされて最初に思い浮かぶのはやはり灰色の体毛の猫だ。

今回の世界だとあまり接点はないが、それでも彼との再会を心待ちにしている自分にスバルは気付いていた。主にモフモフ分の補給のために。

知らず、手をわきわきと動かしてしまうスバル。エミリアはそんなスバルの奇行を早くも無視する方向にシフトし、

 

「まあ、元気なのはいいことだけど、まだ寝てる人も多い時間だから騒ぎすぎちゃダメよ。ずっと寝てたスバルに大人しくしてなさいってのもひどいけど」

 

「そだよなー。あ、ってか庭ってことはちょい広めな感じ?」

 

「庭、というより庭園って言った方が近いくらいだしね。それが?」

 

「んにゃ、それでエミリアたんが精霊とトークしてる間、俺が庭の隅っこでなんかしてても気にならないって条件が合えばだけど……」

 

「大声で叫び回るとかしなければ別に……え?今、なんて言ったの?」

 

「おし、乗った。俺も行く」

 

「ねえ、なんて言ったの?たんってなに?どこからきたの?」

 

慌てふためきながら問い質してくるエミリアをかわす。さっきの意趣返しに意地悪な態度をとり、スバルは体を大きく回しながらラム・レムに、

 

「へい、メイド姉妹。俺の服って知らない?いつの間にかだけど入院服みたいになってるし、たぶんここで預かってくれてると思うんだけど」

 

これまで言及してこなかったが、今のスバルの格好は赤茶けた薄い布地の作務衣みたいなものだ。入院服というには素材がごわごわしているが、見た目より涼やかで過ごしやすさはかなり優秀。

 

「でも、体動かすにはやっぱジャージに負ける。ってなわけで、どっかにないかな。ひょっとしたら血で駄目になってるかもわからんけど」

 

「わかるかしら、姉様。ひょっとして、あの薄汚い灰色の布切れ?」

「わかったわよ、レム。たぶん、あの血で薄汚れた鼠色のボロキレ」

 

「かなり不敵だな、お前ら……その薄汚い薄汚れたボロだよ。無事なら持ってきてください」

 

双子が了解を求めるようにエミリアを見る。エミリアが仕方ないと目で示すと、双子は頷いてとてとてと部屋を出ていった。

 

「ホントに体調は平気なの?私から見ても、浅くないケガだったのよ」

 

「でも実際、もう完璧のぱーぺきに塞がってるしな。それに俺も体を怠けさせたくねぇんだよ。一日は筋トレサボってるし、取り返すのに三日はかかっかんなー。と、そういやそうだった」

 

思い出したように姿勢を正し、身綺麗にしてからエミリアに向き直る。彼女はスバルの様子に困惑した顔だが、そんな彼女にスバルは頭を下げて、

 

「ケガ、治してくれたのってエミリアたんだよな。ありがとう、助かった。やっぱ死ぬのは恐いわ、実際。一回でいいよ」

 

「普通は一回しかしないと思うけど……ううん、そうじゃなかった」

 

定例的に突っ込みを入れてから、エミリアは首を小さく横に振る。

それから真剣な眼差し――紫紺の双眸でスバルを真っ直ぐに見た。思わず、その輝きに魅せられてスバルは押し黙ってしまう。

 

「お礼を言うのは私の方。あの場所で、ほとんど知らない私のことを命懸けで助けてくれたじゃない。ケガの治療なんて、当たり前よ」

 

真摯な眼差しでストレートに感謝を伝えられ、スバルは「あう」と思わず声を漏らすしかできない。

ここへきて誠実な返答のひとつもできない自分が恨めしい。茶化して誤魔化しながらでないと、彼女と向き合うことなどできそうもなかった。

 

助けてくれた、という彼女の言に「そうじゃない」と言い返せればどれだけ楽だろうか。先に助けてくれたのはエミリアなのだと、もはやその世界の残滓はスバルの中にしか残っていないのだけれど。

 

「――んじゃ、お互いに助け合ってプラマイゼロってことで、どうよ」

 

「ぷらまい……?」

 

「互いに貸し借りなし!そんなわけで仲良くしようぜ、兄弟!」

 

貧民街の相手なら、ここで肩のひとつでも気安く組めたのだが、スバルにできたのは勢いで羞恥を誤魔化すことだけだ。

そんなスバルの虚勢にエミリアは小さく笑みをこぼすと、

 

「私、こんな変な弟はいらないかな」

 

「わりと辛辣なコメントですね!?」

 

しかもさりげなく目下扱いされているこのがっかり感。頼れる部分なんて欠片も見せていないから、仕方ない評価だと諦めるしかないが。

 

「持ってきましたわ、お客様」

「持ってきたげたわ、お客様」

 

そうこうやっている間に、双子がジャージを持ってくる。桃色が上着、水色がズボン。幸い、鮮血の痕跡は残らず洗濯してもらえたらしい。

パッと見、変化のないジャージの帰還に安堵するスバル。と、駆け寄ってきた二人はいそいそとスバルの衣服を脱がそうとしてくる。

 

「おいおい!いいって、ひとりでできるもん!ちょっと嬉しいけど」

 

「まあ、恥辱より快楽が勝るなんて本音が出てますわ、姉様」

「あら、屈辱より幸福が勝つなんて心底から変態だわ、レム」

 

「微妙に桃髪の方が口悪いよな!着替えるから、HA・NA・SE!」

 

もみくちゃしてくる双子の手を振り払ってジャージを奪還。

いそいそとそちらに着替えようかと思って、ふとある事実に気付く。

 

「そういえば、俺をこの服に着替えさせてくれたのって?」

 

「私だけど。ラムとレムが出払ってて、手当てついでに着替えさせられるのが私だけだったから。あ、軽くだけど体もちゃんと拭いてあげたから」

 

欠片も気にする素振りもなく言い切るエミリア。

スバルはそっと履いている下履きの中を覗き、下着まで取り替えられている事実を確認。その場に崩れ落ち、顔を掌で覆う。

 

「もうお嫁にいけない……」

 

「男女が逆なら納得のいく発言なんだけどね……。時間もないから行くなら早く行きましょう」

 

男らしいぐらいにさばさばと言って、エミリアはスバルの肩を叩く。

彼女があまりにもあっけらかんとしているので、スバルはそれ以上の追及は墓穴だと忘れることにした。

美少女に着替えさせてもらって、全てを見られた。いいじゃない、ある意味ではこれもご褒美と思えなくもない。ポジティブシンキング。

 

そっと心の涙を拭いて、スバルは己の足で立ち上がる。

衣服を持って目配せすると、着替えの意図を察した女性陣がいそいそと部屋を出ていく。

双子が先に部屋を出て、最後のエミリアの銀髪が扉に遮られる。と、彼女のその姿が扉の向こうに消える寸前、ふとその白い横顔が振り向き、

 

「心配しなくても大丈夫。――立派だったから」

 

ぱたん、とそれだけを残して扉は閉められた。

 

部屋の中に残され、とりあえず服を着替えるスバル。作務衣っぽい服はイマイチ構造がわかり難く手間取ったが、どうにかこうにか着替え完了。

きれいに作務衣を畳み、ベッドの上に置く。それから数時間ぶりに袖を通したジャージの感触を確かめ、「んー」と体を伸ばして準備も完了。

 

「さて……」

 

腰を大きくスイングして骨を鳴らし、スバルは部屋の窓を見る。

軽くカーテンを引いた外、まだ早朝の世界を昇り始めた朝日が祝福しているのが見えた。そんな陽光の温かさに目を細めて、それからスバルはベッドの方へと歩を進めて、倒れ込む。

 

「もうお嫁にいけない」

 

枕に顔を押し付けて、今度こそスバルは男の子として泣いた。

最後のフォローが一番、心に痛かった。死ぬかと思った。いっそ死んでやり直してくれればと思ったほどだった。

 

でも心が痛いくらいでは死ぬことはできず、スバルはしばらくの間、男の子的な事情で女々しく泣き続けたのだった。