『それぞれの、誓い』


 

――寝台に横たわる彼女の表情は安らかで、まるでただ眠っているだけのようにスバルには思えた。

 

閉じた瞼を飾る睫毛を見て、ずいぶん長いのだなとぼんやりと思う。普段は意図して無表情を保つ顔も、気を張る必要のない寝顔となれば歳相応の柔らかさだけに満ち溢れていた。考えてみれば、彼女の寝顔を見る機会など一度もなかった。

 

いつだって彼女はスバルより早起きだったし、彼女より遅く床につく機会などあることもなかった。スバルの知る彼女はいつも毅然としていて、自分を律しながら歳相応を隠した。その頑なな姿勢も、スバルの前では崩してくれることが多くて。

驚いた顔も照れた顔も、拗ねた顔も泣きそうな顔も、そのあとで仲直りしてから見せてくれる微笑みも、これから何度だって機会はあったはずなのに。

 

「――レム」

 

名を呼びかけて、その白い頬に触れても彼女からの反応はない。

ベッドに寝かされた彼女は見慣れたメイドのエプロンドレス姿ではなく、空を映した綺麗な青髪を飾るホワイトプリムもそこにはなかった。

働き、戦うときの彼女のスタイル――それはもう、今は彼女に必要ないのだから。

 

「ここにいらしたんですね」

 

静かに動きのない部屋で、停滞の時間を過ごすスバルに声がかけられた。

ゆっくりと、億劫な動きで背後を見れば、そこに立つのは長い髪をやわらかに揺らす女性だ。派手さのない、しかし高級感に溢れた濃紺のドレスをまとっており、こちらへ歩み寄る楚々とした仕草にすら気品が溢れている。

ただし、それらの行いにはかすかであるが戸惑いと躊躇が先立っており、持ち合わせた品位と合わせると不思議とちぐはぐな印象を覚える。スバルも同様に、彼女と接するにはその違和感を覚えずにはいられなかった。

 

「彼女は……」

 

「なにも変わってないですよ。なにができるってわけでもないのに、俺はここにいただけです。不甲斐なくて女々しい話ッスけど」

 

「そんなことは。彼女も、それを喜んでくれているんじゃないでしょうか」

 

顔を俯かせるスバルに、女性は気後れした様子ながら慰めを口にする。が、それを聞いたスバルの反応は苛烈だ。

顔を上げ、彼女の発言に意識を尖らせて、その顔を睨みつけてしまう。意識して視線を鋭くしたつもりはないが、そうなることも堪えられない。結果、スバルの反応に女性は口元に手を当て、「すみません」と謝罪して、

 

「出過ぎたことを言ってしまいました。お気に障りました、よね」

 

「いや、こっちこそすいません。単なる八つ当たり……逆恨みッスよ、今のは。これじゃ、レムに本気で怒られちまう。『そんな風に人に当たって傷付けて、ダメじゃないですか、スバルくん』って感じに」

 

肩をすくめて、声を細くしてレムの口調を真似る。

脳裏には彼女の声で、今の発言をそのままトレースすることができた。それももう、スバル以外の誰にも伝わらない行いなのが悲しかった。

まったく似ていないモノマネも、それをそう指摘してくれる誰かはいない。

 

スバルの空しすぎる挙動と空虚な声に、目の前の女性は痛ましげに瞳を伏せ、己の左腕を右手で抱くように支えながら黙り込む。

沈黙が部屋の中に落ち、互いの意識に影が落ちた。その慣れた感覚に浸りながら、スバルはこれではいけないだろうな、と内心で首を横に振った。

このまま失望感の海に身を浸し続けるのはきっと楽で、鋭い痛みを伴わずに済むのだと思う。けれど、それはナツキ・スバルのするべきことではない。

レムが信じて、愛してくれた男のすることでは、決して。

 

「なんか、俺に用事があったんじゃないですか?」

 

「はい。一度、皆さんで顔を揃えてお話がしたいと。談話室の方に集まっていますので、できればその……」

 

話題を切り出して話を促すと、女性は救われた面持ちで頷いて言葉を続けた。その言葉が途中で詰まり、彼女の気まずそうな表情に眉を寄せて、遅れて気付く。

 

「ナツキ・スバル、ですよ」

 

「……ごめんなさい。ナツキ・スバル様、ですよね。ちゃんと覚えます。多大な恩のある方だと聞いているのに、失礼をして申し訳ありません」

 

「仕方ないですよ。今は覚えることが多すぎるとこでしょうから気にしません」

 

本当にすまなさそうに頭を下げる女性。

そうして淑やかに、言ってしまえば女性らしく振舞われるたびに違和感が胸に突き刺さる。それを口にする野暮は、さすがのスバルもしなかったが。

 

首を振り、スバルは彼女の謝意も自分の中の違和感も投げて立ち上がった。

最後、寝台の少女を振り返り、その額にかかる前髪をそっと指で払ってから、

 

「じゃ、またあとでな、レム」

 

かすかな息遣いと、確かにここに存在する体。

――誰の記憶からも失われた彼女にとって、それがゆいいつ残された自分。

 

そんな彼女を背後において、スバルは女性と向き合うと扉を示し、

 

「談話室でしたっけ。待たせすぎても悪いし、いきましょうか」

 

「はい。そうしましょう。ナツキ・スバル様」

 

小首を傾け、薄く微笑む儚げな女性。長い緑髪がその動きに流れて、ひどく彼女の女性らしさが際立たされていた。

それを認めるのが嫌で、スバルは顔を背けて本心を愛想笑いの裏に隠しながら、

 

「迎えにきてもらってすみませんでした――クルシュさん」

 

と、もはや別人のようになった彼女の名前を呼んだのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――スバルが王都へ辿り着いたとき、全ては終わってしまったあとだった。

 

道中でのエミリアとの会話も、ほとんど頭の中に残っていない。

ようやく救い出せたと達成感に満たされながら彼女の隣にいたはずなのに、駆け抜ける竜車の中でスバルの意識を支配していたのは別の少女の存在だけだった。

 

『――レムって、誰のこと?』

 

不思議そうに、困惑して、彼女はそう口にして首を傾げた。

その仕草と言動に、彼女らしい冗談めいた素振りが欠片でも見えたのなら、スバルもその冗談に乗っかって軽口を叩き合うこともできたかもしれない。

けれど、スバルは彼女の様子に一片の希望も見出すことができなかったし、愕然とするスバルの前でエミリアが「冗談でした~」とおどけてくれることもついぞなかった。

 

ペトラも、他の子どもたちも誰も彼女を覚えていない。

竜車の中にいた面々にそれだけ確認して、スバルは決死の表情で御者を急がせ、王都へとひた走っていった。

 

なにかの間違いだと思いたかった。そんなはずはないと信じていた。

だって、全てはうまくいったはずなのだ。スバルは最善を掴み取ったはずだった。誰も彼も救い出し、目的を果たし、辛いこと苦しいこと悲しいこと色んなことを乗り越えて、消えない傷を負ったりもしたけれどどうにかできたはずなのだ。

それなのに――。

 

「あ、スバルきゅんだ。さっすが、クルシュ様。気まぐれな猫を探すのはお手の物ってことですよネ」

 

談話室に向かいながら、廊下を歩く二人を見つけて声を上げる人物がひとり。

短いスカートを揺らし、騎士の装いから解放されたネコミミを揺らすフェリスだ。彼は弾む足取りでこちらへ歩み寄ると、立ち止まるクルシュの手をそっと取り、

 

「フェリスさ……」

 

「フェリス、ですよぅ。フェリちゃんとクルシュ様との長いにゃが~い付き合いで、今さらさん付けだにゃんて水臭いし、寂しいじゃにゃいですかぁ。もう、いけず」

 

手を取るのと反対の手でクルシュの肩をいじらしげに突くフェリス。その親近感に溢れる態度にクルシュはかすかに戸惑いを浮かばせながらも、基本的には受け入れ姿勢のようで「ごめんなさい」と頭を下げ、

 

「前みたいに、とは簡単にはいきませんけど、頑張りますね。フェリス……はい、フェリス」

 

「急がにゃくて大丈夫ですヨ。フェリちゃんはいつだってクルシュ様の味方ですし、いつまでだってお傍にいますから。それにこうしてしおらしいクルシュ様とご一緒できるのも、新たにゃ魅力発見って感じで幸せみたいにゃ?」

 

取った手を上下に振ってきゃいきゃいとはしゃぐフェリス。その姿を横目にしながら、スバルは内心に小さな苛つきを覚えるのを堪えられない。

これほど変わり果ててしまったクルシュに対し、接し方を変えない彼のあり方がスバルには理解できないのだ。その笑みの裏側にどんな葛藤があったのか、スバルから察することはできないが、それでも人間味のなさが際立って感じられた。

 

「スバルきゅん、談話室においで。エミリア様もヴィル爺も、もうそこに集まってるからネ」

 

「……ああ」

 

不服の感情がそのまま声に乗るが、フェリスはそれを気にも留めない。彼は「さ、さ、クルシュ様」と彼女の手を引いて談話室の方へ足を向けた。

スバルとフェリスの間に流れた奇妙な雰囲気に、クルシュはその眉を困惑にひそめて二人を見たが、けっきょくはなにも言葉にできないままフェリスのあとに続く。

 

息を吐き、スバルは小さく唇を噛んで目をつむった。

尖っている。誰に対しても、今はひどく荒んだ感情でしか向かい合えない。それを仕方ないことだと、自分を慰めることはしたくなかった。

この荒み切った感情を、彼女のせいにすることだけはしたくなかった。

 

二人に続いて歩き出し、談話室へと遅れて入る。

視線が自分に集まる気配を感じながら、スバルは部屋の中をぐるりと見渡す。中にいるのはスバルを除いて四名――エミリアとヴィルヘルム。それにスバルの先に入ったクルシュとフェリスを加えた面子だ。

スバルでここへ集まる面子は最後なのだろう。扉を後ろ手に閉めて、特に勧められたわけではないが自然な流れでエミリアの隣に腰を下ろす。

 

「スバル……」

 

「大丈夫。もう落ち着いてるよ、エミリアたん。――俺は、大丈夫だ」

 

気遣わしげなエミリアの呼びかけに、スバルは小さく口元をゆるめて応じる。ただ、視線を彼女の方へ向けなかったし、真っ直ぐ彼女を見つめることもできなかった。

今、エミリアと接していると、自分の嫌な側面をまざまざと見せつけられそうな気がして、それがたまらなく恐ろしかったからだ。

 

「じゃあ、主立った顔ぶれも揃ったし、お話しようか」

 

手を叩き、全員の注目を集めるフェリスがその場を仕切る。

クルシュが現状、進行役を担当できない以上はその立場を彼が引き継ぐしかない。彼は席に着く面子をざっと見渡し、ひとりだけ部屋の前に出て手を上げると、

 

「反対もにゃいみたいだからさっそくだけど……状況の確認、しよっか?」

 

と、微笑みながら誰もが求めている議事を進行し始めたのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――レムやクルシュたちが見舞われた状況は至ってシンプル、魔女教の大罪司教による同時襲撃、それも二人同時の出現という話だった。

 

白鯨戦後、白鯨の頭部だけを切り出して王都へ帰還する途中、負傷者共々凱旋中だったレムたちは大罪司教による襲撃を受けた。

その襲撃で帰還中だった討伐隊の半数は死亡。同行していた獣人傭兵団は個々の判断で即時撤退し、難を逃れたとの話だった。

 

「話によると、副長たちが王都の騎士団を連れて街道に戻ったときには、もう大罪司教のどっちも残ってにゃかったってお話。残ってたのはうちの騎士の死体と……」

 

「私と同じような境遇の方々だけ、ですね」

 

フェリスが語る内容の最後を引き取り、クルシュが唇を噛んで眉根を寄せる。その表情に浮かぶ苦悶は、自身の不甲斐なさに起因しているものだろう。

なにせ彼女は、今の話をまるで他人事のようにしか思えていないのだろうから。

なぜなら――、

 

「自分の記憶が消されてる……か。これも、大罪司教の仕業だと思うか?」

 

「十中八九、ネ。これまでにも、クルシュ様と同じような症例の患者は何人か診たことがあるんだヨ。本人の記憶が急にさっぱり消えちゃって、フェリちゃんの魔法でも復元できにゃいみたいにゃことが。今までは原因不明ってことになったけど……」

 

「『暴食』の大罪司教――その権能と見て、間違いないでしょうな」

 

重々しく頷くのはヴィルヘルムだ。老人は険しい顔つきの中、鋭い眼光でクルシュを見つめる。その鋭さにクルシュが身を小さくすると、その反応を見てヴィルヘルムは「すみません」と謝罪し、

 

「クルシュ様に含むところがあるわけではないのです。怯えさせてしまい、申し訳ありません。まだまだ、私も未熟ですな」

 

「いえ……私の方こそ、不甲斐ない主ですみません。ヴィルヘルム様のことも、思い出したいと努力はしているのですが」

 

ヴィルヘルム様、とクルシュに呼ばれる老剣士の表情にかすかな痛みが走る。剣を捧げた主の痛ましい姿と、それを守れなかった己を恥じる従者の責任感だろう。同じような気持ちはスバルも抱いているだけに、彼の老人の心中が今のスバルには手に取るようにわかった。

逆にわからないのは、最愛の主の変貌にさしたる反応を見せないフェリスの方だ。

彼はそんなスバルの内心を完全に無視し、

 

「『怠惰』の大罪司教を片付けたと思ったら、すぐに『暴食』と『強欲』だにゃんてお話ににゃらないよネ。働き者にもほどがあるって話じゃにゃい。まーあ、魔女教徒がこれだけ一斉に動き出すにゃんて珍しいことも、こうしてエミリア様が台頭してくるような珍事あってのことのはずだけどネ」

 

「わ、私……?」

 

ふいに名前を出されて、エミリアが驚いた顔でフェリスを見る。その彼女に頷きかけながら、フェリスは「だってー」と体を振ってしなを作り、

 

「ハーフエルフであるエミリア様の存在を、魔女教の奴らが見逃すはずにゃいじゃにゃいですかぁ。いつもは不気味なぐらい静かに隠れてる奴らにゃのに、あいつらが大騒ぎするときは決まってそれ絡みにゃんですから」

 

フェリスの言い分を聞きながら、スバルは腕を組んで以前の会話を思い出す。

白鯨との戦いの前夜、スバルはフェリスやクルシュと魔女教が出張ってくる可能性について話し合い、彼女らはそれに対して肯定的な返答をした。

そのあたりの思考の帰結は、そういった前例があったからこそなのだろう。

だが、

 

「その……私、その魔女教っていうのについてよく知らないんだけど……魔女っていうのは、『嫉妬』の魔女のことよね?」

 

と、おずおず手を上げるエミリアの口から驚くべき発言が飛び出した。

スバルはその言葉に耳を疑い、ヴィルヘルムとフェリスですらも表情を固くするのが見える。驚いていないのは、エミリアと同じぐらいに状況に置いてけぼりにされているクルシュぐらいのものだろう。

三人の反応にエミリアはさらに気後れした様子で、

 

「ごめんなさい。それが知っていなきゃいけないことだっていうのはみんなの反応でわかるんだけど、知らされてないの。本当に」

 

「でも、エミリアたんは確か『嫉妬』の魔女については知ってたはずだ。だって俺はそれで……」

 

最初の出会いのとき、偽名にサテラと名乗ったエミリア。まだループを知らずにいたスバルは死を遂げたあとで彼女を同じ名前で呼び、その怒りを買った記憶がある。つまり彼女は『嫉妬』の魔女と、それが忌み名であることは知っているのだ。

しかし、エミリアはスバルの言葉に首を横に振り、

 

「住んでいた森の近くの集落で、その……『嫉妬』の魔女と似てるって理由で嫌われてたの。だから、『嫉妬』の魔女がどんな扱いをされる存在なのかはわかっているつもり。でも、魔女教なんて人たちのことは……」

 

「エミリア様がどんにゃ生活をしてたのかはこの際、置いておこうか。それにしても……当事者がこれっていうのはどうにも、お話ににゃらにゃいね」

 

肩をすくめて両手を掲げ、フェリスは皮肉げに言うと吐息を漏らす。その態度にスバルは苛立ちを感じ、舌打ちしてから彼を睨みつけると、

 

「そんな言い方はねぇだろ。わからないことをわからねぇって言うのに、どんだけ勇気がいるか考えたことあんのか?必要なこと聞いて、なにが悪いってんだ」

 

「スバルきゅんが言うと説得力があるよネ。ホントに、主従揃って」

 

そのスバルの苛立ちにすら皮肉を隠さないフェリスの言動。そこに今度こそスバルははっきりと憤慨して立ち上がりかける。だが、

 

「フェリス。今の言い方は聞き捨てなりません。謝罪しなさい」

 

膝に力を入れかけたスバルより先に、そうしてフェリスをたしなめる声の方が早い。その声を発したのは誰であろう、状況の推移を見守って沈黙を守っていたクルシュだ。

ドレス姿の彼女は先ほどまでの弱々しい顔つきを一転、以前の彼女のように凛々しく鋭いものにして、自身の騎士をその眼差しで射抜き、

 

「ナツキ・スバル様の言葉の通り、知らないことを聞く姿勢に笑われるような点はありません。あなたにそれを嘲る資格もない。わかりますね」

 

「……はい、クルシュ様」

 

苛烈な言い方の後、最後の部分に柔らかさが宿るのが今のクルシュだ。その言動の端々に、これまでの彼女らしさの片鱗が垣間見えてスバルは驚く。フェリスもまた、その驚きを隠しきれない瞳のまま、

 

「エミリア様、失礼を謝罪します。スバルきゅんも、メンゴ」

 

「お前は……いや、もういい。それより、魔女教の話をしよう。エミリアたんも聞きたがってるし、ぶっちゃけ俺も細かいとこまでは知らないから」

 

諦め気味なスバルの言葉に、フェリスは「了解りょうかーい」と気楽に応じる。それから彼は唇に指を当て、スカートの裾を揺らしながら、

 

「まず、魔女教っていうのはエミリア様の仰った通り、『嫉妬』の魔女を崇める集団のことです。四百年前、魔女が台頭してた頃から活動してる筋金入りの狂信者。騎士団にとっても、即時滅殺の掟があるぐらいの極悪人の集まりです」

 

「即時滅殺って……そんなひどい命令が通るような、人たちなの?」

 

「目的のためなら、村だろうが都だろうが平気で敵に回す連中にゃんですよ。実際、今回も辺境伯のお屋敷の近くの村は危にゃかったですし、南のヴォラキア帝国でにゃんか都市ひとつ、今回出張ってきた大罪司教に落とされてますヨ?」

 

信じられない、と目を瞬かせるエミリア。その彼女の反応に同意しつつも、スバルは奴らの恐ろしさをすでに骨身に沁みるほど知っている。

ペテルギウスの例を筆頭に、他の連中の異常さも測れようというものだ。もっとも、『強欲』は話を聞く限り、ペテルギウスとは戦闘力の点で比較にならない相手のようだが。

 

「ちょっと話が一足飛びましたけど、魔女教には大罪の名を冠する六人の司教――いわゆる、組織の幹部ってのがいるってお話です。それぞれが『嫉妬』の魔女とは別にいたという六人の魔女、彼女らの大罪の名を背負っているとか」

 

「六人の魔女……『怠惰』『強欲』『暴食』『色欲』『憤怒』『傲慢』の六人、よね」

 

「はい、そうですネ。その中でも特に有名なのが『怠惰』と『強欲』。強欲はさっき言ったように、都市を滅ぼした大暴れで有名。怠惰は逆に、魔女教の騒ぎが起きた場合は大抵がこの司教の仕業だってことが理由でした。でも、その怠惰に関しては今回の討伐隊の活躍で見事に討伐成功……というわけです。だよネ、スバルきゅん」

 

「ああ……『怠惰』のペテルギウスは確実に死んだ。俺がこの目で、霧散するところまで見届けたから間違いない」

 

フェリスに顎を引いて応じて、スバルは憎きペテルギウスの最期を思う。

憎悪に満ちたスバルの名を呼ぶ絶叫。尾を引くそれが耳から離れない。怨嗟の呪いのような叫び――あれが今、スバルに過酷な運命を強いているのだろうか。

 

「その大罪司教の残りが五人。その内の二人が今回、クルシュ様たちを襲ってくれやがった下手人ってことです。魔女教徒は神出鬼没で、しかも活動していにゃいときの潜伏手段は一切が不明。根絶は四百年たっても進んでにゃい。奴らの目的は……『嫉妬』の魔女の復活、だにゃんて言われてますネ」

 

「魔女の、復活……!?」

 

聞き捨てならない発言に、椅子を蹴ってスバルは立ち上がる。

そのスバルの挙動に女性陣が驚く中、スバルは大きく手を振りながら、

 

「復活って、そんなことできるのかよ。『嫉妬』の魔女ってのは四百年前に死んだんだろ?それを生き返らせるなんて……」

 

「スバル殿、『嫉妬』の魔女は死んでなどおりません。いまだ、その命は世界の端にて繋がれております。忌々しいことですが」

 

声を荒げるスバルに、ヴィルヘルムが静かな声でそう告げる。

愕然と目を見開いてそちらを見れば、ヴィルヘルムはその表情に険しさを宿しながら瞳を細めて、

 

「大瀑布の近くにあります、封魔石の祠。魔女は今もそこに、滅ぼし切ること叶わず封じられたままでいるのです。賢者と龍、そして剣聖の力があってなお、彼の存在を滅し切ることはできませなんだ」

 

「封印……いや、そういえば聞いたことが……でも、それならなおさら、復活だなんて方法は祠をぶっ壊せばいいだけの話じゃないのか。なんでそれをしない?」

 

以前に誰かから、そういった話を聞いた覚えがあったことを思い出す。しかし、そうなれば代わりに浮かぶのは今の疑問だ。

封じられているなら、封印を壊して出してしまえばいいだけの話だ。それをせず、ハーフエルフが出るたびに破壊と虐殺を振りまく魔女教徒の目的がわからない。だが、スバルのその指摘は再びヴィルヘルムの否定の首振りに遮られた。

 

「まず、祠に近づくのがほとんど不可能である点ですな。大瀑布の傍ではマナの働きが著しく低下します。その中、祠にいる魔女の瘴気に耐えることのできる存在はまずいない。また、物理的に賢者の監視網を抜けることもできない」

 

「賢者……?」

 

「賢者シャウラ。初代剣聖や神龍ボルカニカと共に魔女の封印に尽力した英雄、ですな。今も大瀑布近くのプレアデス監視塔で隠遁されているとか。もっとも、隠遁とは名ばかりで、魔女復活を目論む輩がいないか目を光らせている――というのが、実際の話でありましょう」

 

「ずいぶん、長生きなんですね……」

 

四百年前からいるとすれば、それもまたずいぶんと息の長い賢者であるものだ。

いささか引っかかる部分がないではなかったが、首を傾げてスバルはその疑問は置き去りにしておく。それから改めてフェリスを振り返り、

 

「魔女が引っ張り出せない理由は、まぁわかった。でも、それだけじゃやっぱり復活云々って話とは関連性が弱いと思うんだが……」

 

「そんにゃこと言われても、フェリちゃん魔女教徒じゃにゃいんだからホントのとこにゃんてわかんにゃいよぅ。捕まえた捕虜が尋問か拷問で、なにかしら利になることを吐くのに期待するしかにゃいんじゃにゃい?」

 

スバルの疑問の答えを、フェリスはあっさりと思考放棄で投げ出してみせた。そこに不満は覚えるが、彼の言い分ももっともなので追及は取りやめる。

ともあれ、そこまでの話を聞いて頷くエミリアは、

 

「そういう、ことなんだ。だから私はああやって……でも、パックはそんなこと一言だって」

 

「パックは今、なんて言ってるんだ?俺も話したいことが山ほどあるんだが」

 

「それが呼びかけに応えてくれなくて。実体化してるみたいなんだけど、近くにいるってことぐらいしかわからなくて……」

 

小さくなってしまうエミリアに、スバルは「いいよいいよ」と声をかけてやることもできない。実際、パックとの話し合いはスバルには必須だ。

なにせ、『暴食』の大罪司教の出現を予期できなかった部分には、パックの発言の影響があったことは事実なのだから。

 

「とりあえず、魔女教についてはそんにゃところかにゃ。じゃあ、それを踏まえた上での今後のお話をまずしちゃおうか」

 

「今後……?」

 

フェリスが話を切り替えよう、と手を叩くのに合わせて顔を上げると、彼はひどく晴れやかな顔でスバルに頷きかけ、その笑顔のままで、

 

「ぶっちゃけ、この同盟の話……にゃかったことにしにゃい?」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――談話室の空気が凍り、代わりにスバルの中の熱は高まっていく。

 

告げられた言葉の内容を受け取り、吟味して、それから唇を舌で湿らせると静かな声でスバルは聞き返す。

 

「今、なんてった?同盟取り消しって言ったか?どういう意図だ」

 

「そのまんまの意味だってばぁ。だって現状、もうお互いに同盟を組み続けるメリットってものがほとんど感じられにゃい気がするんだよネ」

 

スバルが激昂しなかった点に感心するようなフェリスの表情。そこにすらスバルを苛立たせ、交渉を優位に進めようとする意図が隠れているように思えてますますスバルは冷静になることを自身に厳命。もっとも、心の沸騰までは堪えられないが。

 

「採掘権云々はともかく、白鯨討伐への協力って点で合意して、実際にそれはやってのけた。いいとこだけかっさらってサイナラってのは、いくらなんでも醜聞に過ぎるんじゃねぇのか、オイ」

 

「デメリットの方が大きくにゃりすぎた、ってことだよ、スバルきゅん」

 

「あぁ?」

 

喧嘩腰にならざるを得ないスバルに対し、あくまでフェリスは余裕の態度を崩さない。彼は小さく立てた指を振りつつ、

 

「いーい?『暴食』と『強欲』の大罪司教が同時に顔を出した前例ができた以上、『怠惰』を討伐したエミリア様の陣営にはこれまで以上に魔女教がちょっかいをかけてくる可能性が高い。今回、クルシュ様がこうして被害に遭われたのに……それ以上、関わり合いににゃりたいだにゃんて、思えると思う?」

 

「それは……」

 

フェリスの言い分に、スバルは顔をしかめてクルシュを横目にする。

その変わり果てた姿を見れば、真っ向から彼の発言を否定してかかるのはスバルには躊躇われた。同じだけの傷を、スバルもまた負っているのだから。

故に、彼の発言に否定の声を上げたのはスバルではなく、

 

「私は、その意見には反対ですな、フェリス」

 

ヴィルヘルムが座ったままの姿勢で体を前に倒し、フェリスを見つめながらはっきりと言い切る。その言葉にフェリスは瞳を細めると、「へーぇ」と薄く笑い、

 

「それはどういう意図にゃのかにゃ?クルシュ様がこうして『暴食』の被害を受けたのに、それでもエミリア様たちと同盟を続けて魔女教に関わる。そのメリットは?」

 

「『暴食』を……我らの主の報復を、行う機会が訪れましょう」

 

「それって、クルシュ様のお命よりも大事にゃの?」

 

毅然と言い切るヴィルヘルムに対し、フェリスも一歩も引かない姿勢で抗弁。

そのどちらにも、主を思う両者の想いがあるだけに言葉は重い。

 

「魔女教と関わり続ければ、今回みたいにゃことはきっと訪れる。そうにゃったとき、今のクルシュ様には自分の身も守れにゃい。傷も心も、フェリちゃんが癒してみせる……でも、死んじゃったらおしまいにゃんだよ?」

 

「だが、そもそもこんな状況を引き起こした張本人をみすみす逃すことなどできるはずもない。それにクルシュ様の記憶も、その大罪司教を倒せば戻られるやもしれぬ。我々が手を引くのはあまりにも軽率だ」

 

「やった奴を倒せば戻る?にゃに言ってるの、ヴィル爺。失われた記憶を、喰った本人を倒せば戻るにゃんて、夢か絵物語の見過ぎにゃんじゃ……」

 

「――フェリックス!!」

 

鋭い怒声と剣気が室内を席巻し、本当に風が巻き起こったような錯覚をその場にいた全員が感じた。

驚きに誰もが身を竦める中、ヴィルヘルムはその鋭い眼差しを崩さないまま、

 

「フェリックス。今の言葉、スバル殿の前で二度と口にするな」

 

「――ごめん」

 

通称でなく本名で二度呼ばれ、フェリスもまた沈痛な表情で目を伏せる。

その彼らの視線が向くのは、再び椅子に腰を落として下を見るスバルだ。その手は固く強く握りしめられて、血をにじませながら細かに震えている。

それをそっと、上から白い指先が包むように重なった。

 

「……エミリアたん」

 

「大丈夫、なんてわかったようなこと、私は言えない。スバルの気持ち、わかってあげたいけど……忘れてしまったその子のこと、なにもわからない私がなにを言っても卑怯にしかならないと思うから」

 

ちらと見上げた先、エミリアの紫紺の瞳が悲痛な感情に揺らめいている。

彼女の瞳に弱々しい顔つきの自分が映り込み、それが今の彼女に見えているナツキ・スバルの姿なのだと思うと、自分で自分が腹立たしかった。

そんなスバルへの彼女の気遣いに救われる気持ちで、スバルは首を振り、

 

「大丈夫なんて口が裂けても言えねぇが、今は大丈夫だ。フェリスも気にすんな。俺は……希望を欠片も捨てちゃいねぇ」

 

「ホント、スバルきゅんてば諦め悪いよネ」

 

気にしていない、という体を装うスバルにフェリスもまた相好を崩して同じように振舞う。ともあれ、彼の主張は先ほどと変わらず、

 

「フェリちゃんは、同盟の継続に賛成しにゃい。クルシュ様の記憶は、フェリちゃんがきっと戻してみせる。だから、『暴食』への報復にゃんて放置でいい」

 

「どうすべきか、どうなさるか……それも全て、クルシュ様のご判断だ。我々が勝手に、軽々しく判断していい事柄ではない」

 

けっきょく、落とし所はそこに落ち着くより他にない。

二人の視線が自分に集まると、クルシュはそうなるのがわかっていたという態度でしっかりと頷き返し、

 

「今は、まだ私にはわからないことばかりです。なにひとつ、以前の自分が思い出せません。皆さんにとっても、私と接することは戸惑いばかりだと思います。……それでも、私を尊重してくださる皆さんにまずは感謝を。そしてできるなら、そのご期待に応えたい。そのための努力は、し続けるつもりです」

 

記憶をなくしてなお、毅然とした態度であり続けるクルシュ・カルステン。

人の意思、本質というものはどこまでその人間の芯にあり続けるのか。記憶を失うという現象を経て、それでもこうあれる彼女を見るとそう疑問せざるを得ない。

ともかく、同盟に関しての話し合いは保留とするより他にない。

 

「どっちにしても、実務的なお話はエミリア様の陣営の内情がちゃんとわかってる……ロズワール辺境伯あたりじゃにゃいとできにゃいしね。まずは辺境伯も交えて話し合いのできる場を設けて、それからってことにしようか」

 

「ああ、それでいい。それで、今回のことは……」

 

「他言無用――それだけは、同盟云々は別として守ってもらうよ」

 

鋭い視線でスバルを見つめて、フェリスはらしくない低い声で告げる。

思わず息を呑み、だがスバルは反対する理由もないと首を縦に振った。彼らの判断としては当然だ。クルシュの今の状態が外部に漏れれば、『王選最有力候補』であった彼女の立場は間違いなく失われる。

それは『白鯨討伐』の栄誉と天秤に乗せて、どうなるかわからないほど大きな災禍だ。そのために、今回の会談にアナスタシア陣営を交えていないのだから。

 

「ユリウスはともかく、アナスタシア様は間違いなくこの状況を利用する。クルシュ様の容体が、あっちの子たちに見られることがなくてよかったヨ」

 

「……功績の話し合いに関してはあいつらもいなきゃ駄目だろ、そこはどうすんだよ」

 

「クルシュ様の体調が思わしくにゃいってことにして、フェリちゃんでどうとでもするよ。スバルきゅんたちはただ黙ってくれてればいーの。おわかり?」

 

それ以上は望まない、というよりはそれ以上の関わりを許さないといったフェリスの態度に、スバルは頑なさを感じながらも頷くしかない。

けっきょく、話し合いはそれ以上の進展を見せずに終わるしかなかった。

状況の絶望的さの確認と、今後に不安の残る両陣営の足並み合わせ――そんな形で、締めくくるより他に。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「ヴィルヘルムさん、さっきはありがとうございました」

 

談話室での会談が終わり、部屋の外へ出たところでスバルはヴィルヘルムを呼び止めていた。足を止めたヴィルヘルムはスバルを振り返ると、「いえ」と言葉を継ぎ、

 

「大したご助力もできず、至らぬ我が身を恥じるばかりです。なにより今回のことも、お力になれなかった」

 

「そんなこと、ないですよ。ヴィルヘルムさんがいなきゃ白鯨だって倒せなかったし、そのあとでエミリアたんたちだって安心して任せられなかった。感謝してます」

 

まぎれもない本音で、含むところなど一切ない。しかし、スバルのその感謝に対してもヴィルヘルムの表情は晴れない。

義理堅く、他人の痛みまで背負ってしまう損な人柄なのだ。この人物もまた、優しすぎる手合いだ。スバルはそんな彼に笑いかけ、

 

「状況は落ち着いてないけど、奥さんのお墓参りとかはするんでしょ?まだまだ安心だなんて言えないけど、少なくとも仇は取れたんですから」

 

「――ッ」

 

スバルが話題を変えようと言ったとき、ヴィルヘルムの表情が大きく崩れた。

そこに浮かんだ複雑な感情の波が見えたとき、スバルは困惑するしかない。そのスバルの戸惑いに気付いた様子で、ヴィルヘルムは大きく腰を折り、

 

「スバル殿、私はあなたに謝らなければなりません」

 

「ちょ、やめてくださいって。さっきのことなら俺はなんにも、むしろ感謝しかヴィルヘルムさんには……」

 

「いいえ、そうではありません。私は先ほど、スバル殿のことを思ってあなた方に味方したわけではなかったのです。私は浅ましくも、自分本位な感情であなた方との同盟を継続しようとした。そしてそれを押し隠す己の恥知らずが、今になって恥ずかしい」

 

ヴィルヘルムの言葉の意味がわからず、スバルは眉を寄せるしかない。

そうするスバルの前でヴィルヘルムは体を起こすと、自分の上着を脱いで袖をまくった。そうしてまくりあげられた袖の下、左腕の肩付近に包帯が巻かれている。そこには今も傷が残っているのか、じっとりと内側から染み出す血で赤く染まりつつあるのがわかった。

 

「痛そう、ッスね。でも、傷があるならフェリスに早く治してもらえば……」

 

「この傷は治りません。相手に治癒することのない傷を与える、『死神』の加護を帯びた斬撃の結果です故」

 

「治らないって……それじゃ、ヴィルヘルムさん!」

 

塞がらない傷を背負うことがどういうことなのか、スバルにだってわかる。

常に出血が止まらないとなれば、それは命に刻限を設けられたことと同じことだ。しかし、焦燥感に満たされるスバルと違い、ヴィルヘルムは落ち着いた態度で首を横に振ると、

 

「私の命はこの際、問題ではないのです」

 

「そんなわけないでしょう。どうすれば……その傷は」

 

「これは昨日今日、負った傷ではありません。ずいぶん前に負ったものが、再び開いただけのことです。そしてそれが、今の私にはあまりにも大きい」

 

ヴィルヘルムの静かな声を聞きながら、スバルは小さく体が震えるのに気付いた。自分の体の反応の意味がわからないスバルは、そのまま歯の根までかちかちと噛み合わなくなるのに気付く。そして、その原因が目の前の剣鬼から溢れ出す、途方もない肝が冷えるほどの剣気が原因であることも。

彼は静かな声で続ける。

 

「『死神』の加護の傷は、加護を受けたものが相手の傍にいればいるほどにその効力を増す。傷を負わせた相手に近づけば、塞がった傷も再び開く、そういう傷です」

 

「じゃあ、ヴィルヘルムさんに昔、その傷を負わせた相手が近くに……」

 

「私にこの左肩の傷を与えたのは、先代剣聖」

 

その言葉に、スバルは息を詰めてヴィルヘルムを見た。

彼はスバルを見る瞳に、凍てつくほどに冷え切った感情を灯しながら、言う。

 

「テレシア・ヴァン・アストレア。我が妻の剣傷が開いた。――私はそれを確かめるために、魔女教に関わり続けなければならないのです」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

わからないことだらけの状況で、スバルはまたしてもレムの眠る部屋へ足を運んでしまっていた。

 

クルシュの屋敷に戻って以来、暇があればこうして彼女の傍にきてしまう。

ないこととわかっていても、彼女が目覚めてくれるのではないか、とそんな期待を抱いてしまう自分の弱さがここにはあった。

今の心持ちで、エミリアと向かい合い続ける勇気も気力も、スバルにはない。エミリアもまた、そんなスバルのどうしようもない感情を理解してくれているのだろう。今は傍にいるのも辛くするだけだと、スバルが求めたとき以外ではひとりにする時間を与えてくれている。自分も、不安で仕方ないだろうに、だ。

 

またしても人に甘えて、自分の弱さを慰めようとしている。

そんな自分の弱さを嫌っていながらも、割り切ることもできずに今もいる。

 

「俺は強いってお前は言ってくれたけど……お前の前でなきゃ、そうやって強がる俺ってのも見つからねぇみたいだよ、レム」

 

横たわるレムの姿は、談話室へ行く前の様子となにひとつ変わらない。

寝息はある。心臓の鼓動も打っている。だが、それ以外の生命活動はなにひとつ行われていない。いるのに、いない。今の彼女はもう、スバルの中にしかいないのだ。

なのに、

 

「――お前がここにいるなんて、どういう風の吹き回しなんだよ」

 

「ボクがここにいたらそんなにおかしいかな?ボクだってこの子とは関わりがあったんでしょ。それなら、ふらりと様子を見にきたっていいんじゃないかな」

 

「どの面下げて、お前がそういうこと言うんだよ……」

 

レムの寝顔の額に触れて、スバルは真横――そこに浮遊する、長い尾を揺らす灰色の小猫を睨みつける。

談話室では姿をくらましていたこの精霊が、こうしてこの場にいるのは違和感以外のなにものでもない。スバルの険がこもった視線にパックは心外そうに、

 

「どうしてそんなに睨むの?ボク、なにかしたかな?」

 

「……今のお前は、なにもしてないだろうよ。エミリアたんが探してたぜ、こんなとこでうろちょろしてていいのかよ」

 

「いいのか、って言われたらちょっと微妙だね。ボクはリアに自由を制限されてるわけじゃないけど、あの子を困らせたいかって言ったらそれは違うから」

 

己のヒゲを弾きながら、パックは気楽な様子でそう呟く。が、そのあとで「でも」と言葉を継いでスバルの顔の前にやってきて、

 

「今はスバルと話をしておいた方がいいと思ってね」

 

「……そのなんでもお見通しって態度、腹立つぜ」

 

舌打ちして視線をそらすと、それでもパックは黙ってスバルを待っている。吐息をこぼし、その思惑に乗るのが癪だとは思いつつも、

 

「お前、魔女教のことエミリアに教えてないだろ。なんのつもりだ」

 

「なんのつもりもなにも、知らなくても生きていけることなら知らなくてもいいじゃない。聞かれたら答えるけど、リアも別に聞かなかったし……あんな連中、関わらなくていいなら関わらなくていいんじゃない?」

 

「そうだな。知らなくていい場所で、知り合う理由がないなら関わり合いにならないのが一番だろうよ。でも、今のエミリアは違うだろうが。あの子は森から出て、王様になるために国で勝負に出たんだ。なら、あいつらとの接触は免れない。――お前はそれを、知ってたはずだぞ」

 

声を低くして、スバルはパックのその真意を問う。しかし、小猫はスバルのその剣幕をゆらゆらと揺れながらあっさり受け流し、

 

「魔女教が出てくる、っていう予想はしてたね。でも、やっぱりそれをリアに伝えるかどうかは別問題だと思うけどな」

 

「エミリアも、その周りも危険にさらすかもしれないってのにか!お前がどう思ってるか知らねぇが、今回だってほっといたらエミリアは……!」

 

「なるほど。それでリアを助けるために頑張ってくれたんだね。その子も、リアを助けるための犠牲ってことだ。それならボクはその子に感謝しなきゃ……」

 

「――――」

 

瞬間、スバルの意思はあらゆる事柄を無視して拳を突き出す動作に凝縮された。

目の前の精霊に対して、スバルは一切の躊躇なく渾身の拳をねじ込む。が、精霊はそんなスバルの一撃すらもあっさりと避け、驚いた顔で顔を洗いながら、

 

「急にびっくりするじゃないか、なんなの?」

 

「二度と、レムに触るな。手でも、口でもだ」

 

自分でも驚くほど、静かな声を出すことができた。

感情が煮えたぎりすぎて、どうにかなってしまったのかもしれない。

そんなスバルの態度をパックは丸い瞳で見つめて、それから「わかったよ」と小さな体を伸ばしながら、

 

「不用意な言葉だったのは謝るよ、ごめんね。言っちゃいけない言葉だった。代わりにと言ってはなんだけど……『暴食』について少し話そうか」

 

「……それ聞いて、どうなるんだよ」

 

「その女の子の、『名前』と『記憶』を喰った存在を知れば、ちょっとはスバルの望みの可能性も上がるかもしれないと思ってね」

 

弾かれたように顔を上げるスバル。そのスバルの反応にパックは頷き、ピンク色の鼻をひくひく動かすと記憶を探るように上を見て、

 

「『暴食』の権能はシンプルに言えば、食べるって力だよ。相手の『名前』を食べて周囲の記憶から奪い、相手の『記憶』を食べて当人の記憶を奪う。両方を奪われれば、それはもう何者でもないヌケガラが残るだけだよね。ヌケガラはなにもできないし、なにもされない。その女の子の状態は、まさにそれだ」

 

「名前と、記憶……」

 

記憶を喰われたクルシュと、両方を喰われたレム。

それが今回の被害の、被害者が受けた権能の結果。ならばそれは――、

 

「『暴食』の大罪司教を倒せば、取り戻せるのか……?」

 

「さあ、どうだろう。食べたものを吐き戻す……っていう表現は嫌だけど、そういうことってできるのかな。そればっかりは本人に聞かなきゃわからないね」

 

「だけど、可能性はある。あるよな。レムを、取り戻せる可能性が……!」

 

振り返る。レムは今も、昏々とした眠りの中にいる。

息をしている。心臓も動いている。体は生きている。心と、名前が悪魔に喰い尽されただけで。それならば、希望はあるということだ。

 

「『暴食』の大罪司教――絶対に、ぶちのめしてやる」

 

「そう簡単には、いかないと思うけどね」

 

最後のパックの言葉も耳に入らない。

今のスバルには、もはやその希望だけが取り縋る最後の砦だった。

 

――王都に戻り、レムたちが襲われた惨状を聞き、彼女の状態を見て、そしてどうにも取り戻せないのだと知ったとき、スバルは迷わず自分の喉を短刀で突いた。

その瞬間の感情は思い出せない。あらゆることを最善で成し遂げて、皆の期待に全力で答えた――そんな時間を失うことへ、なんの未練もなかったことは事実だ。

 

レムを失うぐらいなら、彼女のいない未来へ進むぐらいならば、何度だってあの苦しみを味わってやろう――それだけは、覚えている。

 

喉を突いて、血と痛みと熱と喪失感に自分が失われる感覚。

それが晴れたとき、スバルが見たのは寝台に横たわるレムの姿で――。

 

復活地点の更新。やり直しする場面の変更。それが、スバルに地獄を突きつけた。

もう一度、なにかの間違いだと自害を選ぼうとして、しかしスバルは躊躇した。痛みが、死が恐ろしかったわけではない。ただ、気付いてしまった。

 

仮にやり直す場面が前回の場面に戻ったとしても、スバルはレムを救えない。

ペテルギウスと戦う前に、白鯨との戦いのあとの場面に戻るのであれば、スバルはすでにレムたちと分かれて数時間が経過してしまったあとだ。

帰路で襲われた彼女らに追いつこうとしても、もう間に合わない。なにより、レムを助けるために引き返すということはエミリアを見捨てるということだ。事情をうまく説明して戻ったところで、大罪司教二人を相手に勝てる方策があるだろうか。

ペテルギウスの攻略にはスバルとユリウスが必要不可欠だ。エミリアたちを逃がす場面にも、ヴィルヘルムの力なくして突破はできない。

 

レムを助けるためにはエミリアを、エミリアを助けるためにはレムを――それぞれ犠牲にしなければ、どちらも助けられない。

その残酷な選択肢に気付いてしまったから、自死に動こうとする手はスバルの喉を突く動きを止めてしまっていた。

 

白鯨の『霧』と違い、体はここにあるのに、誰の記憶にも残っていないレム。そんな彼女の傍で、なにをできるわけでもないのに呆然としていた自分。

 

そんな情けない、どうしようもない時間が、今ここで終わる。終わらせる。

寝ているレムの手を取り、スバルは決意する。今度こそと、決意する。

 

――俺は、必ずお前を。

 

「――取り戻す。レム、必ずお前を、俺は取り戻してみせる」

 

言ったのだスバルは彼女に。お前の前で、お前の惚れた男が、最高のヒーローになるところを見せてやると。

ならばまだ、その道筋の途中ではないか。

 

「俺が必ず……お前の英雄が必ず、お前を迎えにいく。――待っていろ」

 

顔を上げる。牙を剥く。敵へ、宣戦布告だ。

上等をかましてくれた奴らへ、触れてはならないものへ、侵してはならない領域へ、手を触れたことを後悔させてやろう。

他の誰でもない、ナツキ・スバルが。

 

「必ず。――必ずだ!!」

 

ゼロから始める日々の中に、彼女との思い出がないことなど耐えられない。

だから必ず、取り戻す。

 

失われてしまった日々を、君と歩いた時間を、君と歩いていく時間を。

もう一度、この手に手繰り寄せてみせるから。