『彼なりの歓待』


 

今さらではあるが、エミリア陣営の本拠地であるロズワール邸は、以前の焼け落ちた屋敷とは異なり、場所をメイザース領の本邸へと移している。

とはいえ、屋敷の間取りは以前と変わらず、中央に本棟を置き、その左右を西棟と東棟で固めた馴染みのものだ。屋敷自体の広さなどもほとんど同じであるため、屋内を歩き回っても戸惑うようなことは滅多にない。

 

ただ、少しばかり似すぎているせいもあって、近くにアーラム村がないことを失念しがちになるのが問題だ。スバルなどは何度か、寝起きの勢いで村までラジオ体操しにいこうとして、長い街道の途中で気付いて途方に暮れたこともある。

そのたびにベアトリスがあくせく追いかけてくるので、すごく怒られるのだ。

 

ともあれ、そんなロズワール邸に帰還し、変わらぬペトラやラムの歓迎を受け、屋敷の主であるロズワールの待つ応接間に入ったわけだが――、

 

「やーぁや、お帰りなーぁさい。無事のお戻り、何よりだーぁね」

 

応接間のソファに腰掛け、手を打って帰還を歓迎するロズワール。その喜色満面の歓迎ぶりに、スバルとエミリアは思わず度肝を抜かれた。

やたらと友好的な笑みを見て、二人は顔を見合わせる。

 

「……エミリアたん、なんか手紙におかしなことでも書いた?」

 

「し、知らないってば。それよりスバルこそ、変な贈り物でもしたんじゃないの?ほら、スバルとロズワールってたまにこしょこしょ内緒話してるし……」

 

「んな馬鹿な!ロズっちにわざわざ贈り物なんてするぐらいなら、その時間とお金を俺は日頃の感謝を込めて、エミリアたんとベア子とペトラとフレデリカとパトラッシュと一応ラムに還元する方法を考えるよ」

 

「女の名前ばっかりだったかしら」

 

「オットーとかガーフィールに贈り物とか男同士で恥ずかしいじゃん!?」

 

不機嫌なベアトリスに応じて、スバルはエミリアのじと目に苦笑して誤魔化す。

ちなみにレムを抜いたのは意識的な問題で、周りに気遣わせないためなのであしからず。ともあれ、そんなやり取りを見ているロズワールが肩をすくめ、

 

「なーぁんとも心外な反応だね。私が君たちの安否を心配し、その無事を喜ぶことのなーぁにがおかしいというのかな?全部、当然のことでしょうに」

 

「それは、そうなんだけど……ロズワール、今まであんまりそんなところ、私たちに見せたことなんてなかったし……」

 

「この一年で、私にも色々と考え方の変化があったということですよーぉ。私が協力的になることは、エミリア様にとっても喜ばしいことのはずでは?」

 

「うーん、そうよね」

 

いけしゃあしゃあと言ってのけるロズワールに、エミリアが彼女らしい寛容さで変化を受け入れてしまう。そのエミリアに頷きかけ、掌をひらひらと振っている姿など見ていると、スバルはイマイチ信用が置けないのだが――、

 

「あれの考えを理解しようとしても、それは常人と違いすぎて理解なんてできないのよ。スバルは……スバルもちょっとアレだけど、あれのアレさはそれ以上かしら」

 

「お前、ちょっと今の台詞は指示語多すぎるぞ」

 

あれそれと老化が進んできたみたいな発言をするベアトリスの頭を撫で、スバルはエミリアに続いて応接間に足を踏み入れる。

上機嫌のロズワール――訝しんだものの、その魂胆はなんとなくわかっている。

実際のところ、ロズワールの思惑は今しがた、彼自身が口にした通りだ。

 

ロズワールは本気で、スバルやエミリアが無事帰還したことを喜んでいる。

『叡智の書』を無くした今、立ち塞がる障害を突破するスバルの行動、それだけがロズワールの、未だ語らない目的に到達するための最善手なのだから。

 

「そう思ってるなら思ってるで、もうちょい協力的だと助かるんだがな」

 

「私の手助けの有る無しに関わらず、君は君の目的を達する。そうであると信じているからこその、君の力の及ばない部分での協力だ。実に対等な関係じゃーぁないの」

 

「助っ人キャラが普段から使えない、RPGのお約束喰らってる気分だよ、俺は」

 

その時点では強すぎる助っ人キャラが、スポット参戦しかしないのはお約束だ。

ロズワールの戦闘不参加も、そんな感じの扱いに近い。彼の場合はスバルが追い込まれれば追い込まれるほど、『死に戻り』による運命改変力を信じる根拠になるため、ますます大喜びで窮策するスバルを見物し続けることだろう。

食えない輩のままだ、と舌打ちしたくもなる。

 

「――そろそろ、うちらもご紹介してもらってええかな?」

 

「と、待たせて悪かった。ロズワール、お客さんだよ。詰めて座ってくれい」

 

「聞いているよ。それにしても、面白い顔ぶれだね」

 

入口に立ったままの会話に、廊下で待たされる少女が声を上げる。その相手に軽く謝り、スバルはソファに座るロズワールを手振りで奥へ追いやった。

立ち上がり、上座にロズワールが深々と腰を下ろす。そうして、来客用のソファを客人二人に勧め、スバルたちはその対面にゆっくり腰を下ろした。

 

「遠方よりはるばるようこそ。こうしてまともに顔を合わせてお話するのは、論功式以来のことですねーぇ」

 

「ほんまやね。それにあのときも、言うほどちゃぁんとお話したわけやなかったし……実質、これが初めていう感じになるんやないかな」

 

話題に挙がった論功式とは、正式に『白鯨』の討伐が認められた際の、エミリア陣営・クルシュ陣営・アナスタシア陣営が合同で評された式典のことだ。

王都の王城で行われた小規模の式典ではあったが、当然、各陣営の代表者が集うことになったため、『聖域』の問題解決直後のメンバーは全員参加している。

 

緊張で青い顔のオットーと、城に目を輝かせるガーフィールが記憶に鮮やかだが、あれだけやらかした後でしれっと参加するロズワールも大したタマだ。

まぁ、緊張というか、あたふた加減ではエミリアもいい勝負だったから今さらなんとも言えないが。エミリアにしてみれば、身に覚えのない功績で褒められることになったわけなので、さもありなん。

 

ともあれ、それ以来の顔合わせであり、互いの挨拶もそこそこに行われる。

そして話し合いはさっそく、本題である都市プリステラでの報告になり――、

 

「――それで手紙にあった通り、オットーくんとガーフィールの負傷離脱と。なーぁるほど、了解しました。実に、頼もしい功績です」

 

報告を聞き終えたロズワールが、感嘆の吐息とともにそう吐き出す。その内容にエミリアが眉を上げ、「ちょっと」と少しだけ強い語調で、

 

「二人は大ケガして、帰ってこれないぐらいなの。それなのに、そんな風に言うなんてどういうことなの」

 

「どーぉうか早合点されずに。二人の負傷は確かに痛ましいことですし、しばらく離脱を余儀なくされるのは痛手に違いありません。ですがその反面、陣営に致命的な被害を被ったものはいない。他陣営を含め、複数の大罪司教と遭遇していながらこの結果……実に奇跡的な巡り合わせです」

 

「――――」

 

「無論、大罪司教の残した爪痕は早急に対処すべき事柄ではありますが、エミリア様や都市防衛に尽くした諸氏は最善の行動で被害を最少に留めた。そのことは少なからず、ご自分で認められてよいことだと思いますよーぅ」

 

「……そう、ありがと」

 

口の回るロズワールに、釈然としない顔でエミリアが礼を言う。

事実として、彼の言葉には正論の色が強いはずなのだが、発言者の印象というものは大事なものである。スバルにも胡散臭く聞こえたので、全員そうだろう。

 

「まーぁ、皆さんに私がどう思われるかはこの際いいとして、話を進めるといたしましょうか。――ちなみに、そのような騒動が起きた都市プリステラに、エミリア様方を招いたのはアナスタシア様のはずですが……その点、どう思っておいでですか?」

 

「騒ぎの真ん中に引き入れてしもたことは、申し訳なかったって思うとるよ。謝れ言われたらちゃぁんと謝る、その心の準備はできてるから」

 

「そして、真摯に頭を下げればびた一文払わずに済む……と。ああ、私への謝罪はなくて結構。エミリア様も、すでに断ってしまわれたのでしょう?」

 

「だって、魔女教が悪さしたなら、悪いのは魔女教でしょう?ただ呼んだだけのアナスタシアに責任があるはずないじゃない。それに私たちの場合、プリステラに呼んでもらった目的は果たせたわけだし……」

 

ロズワールに横目にされて、エミリアが自分の首元のペンダントに触れる。

そこには新たな大魔石がはめ込まれており、今も昏々と眠り続ける大精霊が復活のときを静かに待ち続けている。パックの依り代となる高純度の結晶石の入手――それが目的だった以上、確かに陣営の目的は達成されているのだ。

 

「あと、たまたま私たちがいたから魔女教を追い返せたのかもしれないじゃない。そう考えたら、むしろアナスタシアのお手柄だったんじゃ……」

 

「さすがにそこまで考えられるのは、他陣営への肩入れすぎるので止めますよーぅ」

 

エミリアの前向きさに、アナスタシアが何故か救われる形になる。

とはいえ、今の追及はロズワールも言ってみただけの牽制だ。実際のところ、魔女教の狙いのその大部分は、スバルたちがプリステラに持ち込んだ可能性がある。そこを指摘されてしまえば、魔女教悪しに違いなくても気分は重たくなる。

ので、一致団結して魔女教が最悪!と意見を固めておくのが吉だ。

 

「そのあたりに関しちゃ、他の三陣営も納得済みだよ。大罪司教も一人は死んで、一人は捕縛……魔女教としちゃ、もうガタガタだろうよ」

 

「組織力、については疑問の余地があるけどね。奴らの場合、連携やら団結といった言葉と無縁の無法者集団だ。たとえ味方が一人もいなくなって、最後の一人になったところで狂人の狂人たる精神は晴れない」

 

「……それについちゃ、同意見だがな」

 

ロズワールの見解はスバルと同質で、おそらくその考えは正しい。

魔女教という組織は、もはや組織というより狂人たちの寄合所だ。そこがなくなったところで、大人しくしていようなどと考える可愛げなど奴らにはない。

残る『暴食』と『色欲』の蛮行も、決して止まることはないだろう。

 

「だからこそ、対抗手段がいる。そのための今回のお話ってわけだ」

 

「……『賢者』シャウラとの接触、ねーぇ」

 

「難しいだろうってのはわかるけどな。手段が他に見つからない以上、試せることは試してみるしかない。せっかく全知全能……じゃなくて、全知扱いか。そんな賢者がいるってんなら、話聞きにいくだけ損はないだろ?」

 

「そーぉれをしちゃおうとした結果、命を支払う大損をする羽目になった人間が、この数百年で何人もいるわけだーぁけどね」

 

常識としてそれを語られると、確かに押し返される意見ではある。だが、こちらにはちゃんとそのための隠し玉もあるのだ。

スバルが目配せすると、アナスタシアが鷹揚に顎を引いて、

 

「そこで、うちの出番なんよ。幸い、うちはその『賢者』の監視塔に無事に到着する手段を持ってる。せやから、道に迷う心配はないよ。安心したってな?」

 

「言葉だけで信じろ、と言われましてもねーぇ。そもそもその手段があるのなら、大金を支払ってでも欲しがる輩が大勢いる。何故、あなただけがそれを?」

 

「うちは商人で、もちろんお金は大事や。――やけど、金銭にも代えられんもんかてあるんよ。これは、そんな中の一個やって話やね」

 

薄い胸に手を当てて、アナスタシア――襟ドナは堂々とそう嘯いた。

アナスタシアを装っているにも関わらず、その一言には不思議と力がある。彼女が今、本来の彼女でないことを知るスバルでさえ、気圧されるような力が。

 

そんなアナスタシアに直視され、ロズワールは片目をつむる。そして、その黄色の視線だけでしばし彼女を睥睨すると、

 

「やーぁれやれ、だ。これだから修羅場も鉄火場も噛み分けた人は扱いが難しい。それにこれもどーぉせ、エミリア様はご納得済みなんでしょうしねーぇ」

 

「勝手に決めて、ごめんなさいとは思ってるからね?」

 

「でも、勝手に決めることをやめようとまでは思わない。それでよろしい。あなたは茨の道をあえて選んで行かれる方だ。そこにこそ、彼もついていく」

 

気乗りしない態度のロズワールだが、彼の興味は結局、そこに行き着くのだ。

エミリアが困難な道を選べば選ぶほど、スバルが乗り越えるべきハードルは高くなる。ロズワールにとって、それが今や『叡智の書』に代わる希望であるから。

 

「とにかく、アナスタシアの案内で、そのなんちゃら砂漠を越えてくる。ちょっとばかし、また日数がかかりそうだけどさ」

 

「なんちゃら砂漠ではなく、アウグリア砂丘だ。何度も訂正されているのだから、いい加減に覚えたらどうだろうか」

 

うろ覚えのスバルに、嘆息するユリウスが言葉を差し込んだ。

アナスタシアの隣のソファに座り、これまで話し合いを黙って見守っていた彼は、その理知的な眼差しをロズワールへ向けると、

 

「ロズワール様にとり、非常に心苦しい申し出とは思います。ですが、都市プリステラでは今も、魔女教の暴威に晒され、心身ともに傷付いた人々が大勢いるのです。我々の行動が彼らの心を救う一助になるのであれば、どうかここはお許し願いたく」

 

「ずーぅいぶんと優美な言い回しだ。見たところ、非凡な能力の持ち主だが……私の記憶にないのが解せない。つまり、そういうことだーぁね?」

 

「――――」

 

記憶にないユリウスの存在に、それだけでロズワールは事情を理解する。かすかにユリウスが目を伏せると、ロズワールは肘掛けに腕を置いて頬杖をついた。

そして、どこか楽しげに唇を緩めると、

 

「『暴食』の権能で人々から忘れられ、世界に取り残される焦燥感。君は自ら置かれたその状況を打破するために、か細い希望を求めて『賢者』シャウラを目指すわけだ。べーぇつに誰かのためだなんて、言い訳する必要はないんだよ?」

 

「――っ。決して、そのような私利のために動くようなことは!」

 

「責めてるわけじゃーぁない。むしろ自然なことだし、私はその方が好ましいと思っているしね。何事も、基本的に他人のためより自分のための方が必死になるものだ。結果的に他者が救われるにせよ、その過程に救われ、満足感や達成感、優越感を得る心を否定する必要はない」

 

頬を強張らせるユリウスに、ロズワールはつらつらと続ける。

道化の化粧の奥で、彼の笑みはさらに深くなり、

 

「ましてや現状、君が救われれば他者も同じように救われる可能性が高い。大義名分を背負い、行動するのにいささかの呵責もいらないだーぁろう?」

 

「私は……」

 

「――メイザース辺境伯、そのあたりにしといてもらってええ?」

 

声に詰まるユリウスを手で制し、アナスタシアが代わりにロズワールと向かい合う。彼女ははんなりと微笑むと、愛らしく小首を傾げた。

そして、

 

「うちも、正直なところ記憶にはないんやけど……それでも、この子ぉはうちの騎士様らしいんよ。それがどうしようもないことでいじめられるんは、見ててええ気持ちやないんやね」

 

「記憶から失われても、主従の絆は活きている……と?」

 

「どうやろね、そのあたりのことはうちもよぅわかってへんよ。せやけど、ユリウスに道中、気遣われたんは自然で悪ぅなかったし……それに、や」

 

アナスタシアはそっと、持ち上げた指で対面のソファを指差して、

 

「いつまでもいらんことして、そっちの陣営が割れるんは防いだつもりやよ?」

 

「――これはこれは」

 

ロズワールがアナスタシアの指摘――噴火寸前のスバルを見て、肩をすくめる。スバルが怒鳴る寸前ということは、当然、エミリアとベアトリスも同じだ。

その様子にロズワールは降参、とでも言いたげに手を挙げた。

 

「はいはい、わーぁたしが悪かったですよ。ただ、そういう側面もあると指摘しただけだったんですがねーぇ」

 

「いらねぇ指摘だろうが。お前、本当にふざけんなよ」

 

「そうかーぁな?結果に恩恵を受ける人間の大小問わず、そうした偏見を抱く人間は必ず現れる。邪推し、口さがなく文句を垂れる輩はね。その自覚がなかったようだから、先んじて忠告しようかと思っただーぁけ」

 

誰かのためでなく、自分のためだろう。

行いをそう罵られた経験は、実はスバルの中にも痛々しい形で傷がある。

 

かつて王城でスバルはエミリアに、彼女のための行動を自分のためだと言い返された。あのときの痛みは忘れ難いし、結果的にそれはおそらく事実だった。

だが、それが事実であろうとなかろうと、傷付ける目的でそれを口にされることはきっとある。しかし、だからといって、

 

「やったことの意味を、正しく受け止める人が減るわけじゃない。こいつがそんなタマかよ、ふざけろ」

 

「仕方ないでしょーぉうに。君と違って、私は彼の人柄を知らないからねーぇ。……君も、数日、旅を同行しただけの間柄には見えないが」

 

いきり立つスバルに、ロズワールが目を伏せた。長い睫に縁取られた瞳が、その瞬間にだけ本格的な悲壮感に暮れて、

 

「また、君だけが覚えているわけだ。あの、レムと同じように」

 

「何の因果か、だけどな」

 

「それは君が特別な証だよ。大事に、大事にするといーぃ。――欲しくても、得られないものが大勢いるのだから」

 

後半の述懐は、ロズワール以外にはよく聞き取れなかった。

ただ、問い詰めても決して口を割らないだろうと、スバルはさっさと見切りをつける。ともかく、伝えるべきことは伝えたはずだ。

あとは――、

 

「手紙で話した通りだ。座敷牢と……」

 

「『眠り姫』は連れ出す、だったね。思い切ったことをするものだ。あれだけ、君はあの子に触れられるのを嫌がっていたはずなーぁのに」

 

「起こす方法がわかるかもしれないんだ。試すさ。当然だろ?」

 

「その手段を最初に、あの子で試そうとするのが意外だったんだよ。君はひどく利己主義者を気取るけど、実情の部分で自罰的だ。心のどこかで、頭の片隅で、自分が最初に救われるべきではないと、そう思ってやしないかい?」

 

「――――」

 

図星を突かれて、スバルは思わず黙り込んだ。

今回のプレアデス監視塔を目指すにあたり、スバルは屋敷に到着する寸前まで、『暴食』の被害者の症例としてレムを同行させるか、悩み続けていた。

それはレムを目覚めさせること、それ自体への忌避などでは当然ない。レムが目覚める可能性があるなら、一日でも一秒でも、早く起きてほしいと願っている。

 

だが、それにナツキ・スバルが救われることの是非は、また別なのだ。

都市プリステラに、あれだけ大勢の人々がレムと同じ被害を受けている。彼らの家族は家族を奪われたことも知らず、眠る人々は案じられる権利さえ奪われたまま。

そう思えば思うほど、スバルの心には奇妙な楔が突き刺さる。

 

多くの人々に先駆けて、救われることの罪悪感だ。

だから本当に今回も直前まで、スバルはレムを連れ出すことを躊躇ったが――。

 

「そのことは、ちゃんと私がスバルを説得したの。だから、問題ないわ」

 

「……ますます、意外ですね」

 

黙り込むスバルに代わり、ロズワールに言ったのはエミリアだ。

訝しむロズワールは、胸を張るエミリアに片目をつむると、

 

「こういってはなんですが、彼女の目覚めはエミリア様にはあまり都合がよろしくないのでは?どう考えても、スバルくんはあの子に強い情がありますよ?事によればそれは、エミリア様への情にも匹敵する……」

 

「そうね、そうだと思う。レムが目覚めたら、スバルはしばらくその子にかかりきりになっちゃうだろうし、私のこともどうでもよくなっちゃうのかも」

 

「いや、それはいくらなんでも……」

 

ない、はずだ。

エミリアへの想いが揺らいだことはないし、今後もそれは誓える。

ただ、それとは別の部分で、レムへの強い感情があるのも事実なのだ。そしてエミリアの言う通り、レムが目覚めれば、かかりきりになるのは間違いない。

 

だが、エミリアはそんなスバルに「いいの」と言って、

 

「それでスバルにそっぽ向かれるなら、私が今度はこっちを向いてもらえるように頑張るだけだから。今さら、スバルがいないなんて困るもん。だからどんなにレムが可愛くて夢中になっても、私の方にもきてもらいます」

 

「え、エミリアたん!?」

 

「それが私の覚悟と、私の決めたこと。それに、誰もスバルが救われたって文句なんて言わないわ。――だからいいの。レムを、起こしてあげましょう」

 

強い言葉で、エミリアがスバルの決断を後押しする。

その言葉の、ある種の告白のような響きに、スバルの方が驚き、膝が震えた。これまでにも何度か、エミリアから好意のようなものを告げられたことはある。あるが、それはどれも彼女の、親愛の域を出ていなくて――。

 

「私に、レムに、ベアトリスに、ペトラにパトラッシュに、オットーくんとガーフィール!スバルはすごーくすごーく、幸せ者でいいの」

 

「後半に地竜と男が混じってたんですがそれは」

 

あと、真ん中にロリも混ざっていた。

ともあれ、それを受けて、スバルの隣に座っていたベアトリスに脇を突かれた。スバルが「うひっ」と横を見ると、ベアトリスがいつもの憮然とした顔で、

 

「別に、今さらスバルの浮気性に文句を言うつもりはないのよ。……でも、片手はいつも空けておくかしら。それは、ベティーだけの特権なのよ」

 

「……お前、アホほど可愛いな」

 

「当然かしら。ベティーの可愛さは、天地神明に響き渡るのよ」

 

天地の神々がどう思うかまでは知らないが、スバルの心には響き渡った。

エミリアとベアトリスに後押しされて、スバルはレムの目覚めに尽力する。

――今はもう、そうすることに躊躇いはない。

 

「ってわけだ、ロズワール。愛されすぎてて悪いな。レムは、連れてくぜ」

 

「エミリア様もベアトリスも、その変わりように驚かされるばーぁかりだよ。いーぃとも、好きにしたまえ。元より、止めるつもりもないからね」

 

「じゃあ、さっきまでの問答なんだよ」

 

「行いの意味を解しているか、老婆心ながら確かめただけさ。そちらの名無しの騎士殿にも、悪いことをしたねーぇ」

 

「いえ」

 

最後の最後まで、揶揄するようなロズワールの物言い。それに対してユリウスは小さく息を吸い、それからスバルとアナスタシアを代わる代わる見ると、

 

「私はユリウス・ユークリウス。今は彼の記憶にしか形がありませんが、ルグニカ王国の近衛騎士が一人。この程度のことで、心を乱すほど未熟ではあれません」

 

そう言い切り、邪悪な魔法使いの邪悪な嫌がらせを、見事に跳ね除けたのだった。

 

「……ぐらぐらだったけどな」

 

「君はどちらの味方なのだろうか?今、背中から刺された気分だが」

 

と、最後にそんなやり取りがあったことだけ、こっそりと付け加えておく。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

話し合いが終わり、スバルたちは応接間を退室していった。

これからアウグリア砂丘を目指すにあたり、重要な鍵を握る可能性がある人物との接触のため、屋敷の東棟に存在する『座敷牢』へと向かったのだ。

そこには約一年前、前の屋敷が焼け落ち、この屋敷へ住人たちが移動してきたのと同じタイミングで運び込まれ、ずっと繋がれている存在がいる。

本来、接触など勧められる関係性の相手ではないし、安全でもないのだが――。

 

「どういう結果を持って帰ってくるやら。そのあたりに期待させられてしまうのは、わーぁたしもまた感化されているということなーぁのかな」

 

ソファの背もたれに体重を預け、深く腰を沈めながらロズワールはそうこぼす。

一人、応接間に残り、先ほどの話し合いの余韻を確かめる魔導師は、その脳裏に誰を浮かべたのか小さく音を立てて笑い、

 

「これは私も、彼に好意的なメンバーの仲間入りなのかな?どう思う?」

 

「……気色悪いこと言い出すんじゃないかしら、と思うのよ。お前の場合、本気でやってやれないこともないから、怖いとしか言いようがないかしら」

 

「さすがにこの体で迫るほど、節操のないつもりはなーぁいとも」

 

「女だったこともあるのよ。十分、警戒はしておくかしら」

 

ロズワールがますます楽しげに笑うと、返事をした少女――ベアトリスはつんと澄ました顔のまま、自分の縦ロールを引っ張って弄り出した。

手持ち無沙汰か、あるいは苛々しているときの癖だ。

 

「スバルくんたちは座敷牢だろう?君も彼の傍にいないと危ないんじゃーぁないの?」

 

「牙の抜いてある野良犬より、牙を磨いてる飼い犬の方が厄介なのよ。だから、ちゃんと釘を刺しておこうと思ったかしら」

 

「飼い犬とはまたひどい。先生の、なら望むところなんだが」

 

「救いようのない変態なのよ。……ロズワール、あまりスバルを試すんじゃないかしら。余計な刺激、ベティーが許さないのよ」

 

どこか淫猥なロズワールの笑みに、渋い顔をしたベアトリスがふいにそう告げる。すると、ロズワールは笑みを引っ込め、いつものように片目を――青い目をつむり、黄色だけの視線でベアトリスを見つめ返した。

 

「君と私では立場が違う。腰の軽い君と違い、私は一途でね」

 

「それで母様に掠りもしてないところを見ると、スバルの手を握れるベティーの方が数百倍マシだからムカつきもしないかしら」

 

「言うようになーぁったものだ。禁書庫の司書気取りの君は、せーぇいぜい幸せになるといい」

 

「当然なのよ。だから、その幸せを守る動きもさせてもらうかしら」

 

ソファに座ったままのロズワールと、その正面に立つベアトリスが、同じ視線の高さで火花を散らせる。そんな丸い瞳の少女、その胸中を覗き込もうとするように、ロズワールは目を細めて、

 

「大罪司教を一人、倒した。スバルくんの中に、これで二つ目が入ったはずだ」

 

「……候補は、スバル以外にだっているはずなのよ」

 

「だが、どれも彼より近くも重なりもしない。掠るだけの方と重なる方と、どちらが選ばれるかは自明の理だよ。つまらないお為ごかしはやめたまえ」

 

「――これ以上は、やらせないかしら」

 

ロズワールの物言いに、ベアトリスが決意を秘めた声で応じる。

少女はギュッと、自分の腕の袖を掴み、ロズワールを睨みつけた。

 

「ベティーは、スバルのものなのよ。だから、スバルはスバルのままかしら」

 

「君の頑張りを邪魔するつもりはなーぁいとも。私としては、数が減っていれば減っているほど助かる。それだけの話だーぁからね」

 

「――ッ」

 

キッと、最後に強くロズワールを睨みつけ、ベアトリスは扉へと向かう。

居残っての話し合いも、これで終わりだ。

 

「ベアトリス」

 

その遠ざかる少女の背中に、ロズワールが声をかける。

ベアトリスは足を止めた。しかし、振り返らない。

 

「私はね、君には幸せになってほしいと、少なくとも他の有象無象と比べればずっと強く、そう思っているんだよ。君は……妹のようなものだからね」

 

「――ゾッとしない話なのよ。それに、お母様ほどじゃないかしら」

 

「それが愛というもの、だーぁろう?」

 

返事はなかった。

ただ、扉が開かれて、閉じる音だけが応接間に静かに響いた。

それきり、応接間に続く音は何もなかった。