『クウェインの石は一人じゃ上がらない』


 

開き切らない目、血の巡りが悪すぎて血管が詰まっている気がする。

なのに鼻や傷口から滴る血の勢いは止まる様子がなく、血が足りているのかいないのか。少しぐらい抜けた方が、熱くなりすぎる頭にはちょうどいいのかもしれない。

 

殴られすぎて少しばかり、世界の認識が遅れる頭を振って、スバルはそんな風に思う。

 

ほとんど、殴られるために立ち続けていた気がする時間だった。

棒立ちのつもりはないが、殴り返しても蹴り返してもこちらの攻撃は当たらない。やられるたびに血を吐き、痛みを噛み殺して、お前の攻撃なんて効いていないとばかりに得体の知れない笑みを浮かべて立ち上がる。それを繰り返した。

 

効いてないわけがない。

体の中も外もすでにガタガタで、腹の中の内臓は全部が弾けて混ざり合っている気さえする。体を支えている骨も、あちらこちらが砕け散って粉になってしまったような錯覚があり、今も手足の四本が意識に従って動いてくれるのは奇跡としか言いようがない。

 

ただし、それもこれも、奇跡の産物などでは決してない。

意識が飛びそうになるたび、落ちそうになるたび、消えかける意識の首根っこを掴み、こちらへ引っ張り込んでくる痛烈な叱咤がスバルを襲う。

懐からチリチリと焼きつく鋭い痛み――スパルタすぎる方針に、脳が焼けそうだ。

 

こちらから頼んであったこととはいえ、手加減のないやり口に頬が歪む。

意識の喪失は小細工で防ぐ。それでも、ガーフィールにはスバルを止める方策はいくらでもあった。

それなのに、無謀にも立ち上がるスバルを、完全な意味で行動不能にするようなダメージを負わせられないのは、全てガーフィール自身の判断だ。

 

万全な状態のガーフィールの一撃をまともに食らえば、スバルなどひとたまりもない。それこそ一撃で、体はグズグズの肉塊へと早変わりすることだろう。

もちろん、そうならない理由にはオットーやラムの奮戦により、ガーフィールが甚大な被害をこうむっているという事実も関係している。しかし、負傷の身を押してもここへやってきたガーフィールには、スバルを一噛みで殺す牙が、一振りで切り裂く爪がある。

そうなっていないのは、自分の状態がどうあれ、他者に致命の一撃を振り抜くことのできないガーフィールの判断なのだ。

 

結局のところ、ガーフィールは優しすぎる――そういうことなのだろう。

 

リューズたちも、フレデリカも、ラムすらもガーフィールをそう評した。

普段の気性の荒さや、行動の粗雑さなどからは想像もできないほど繊細な心。暴力的な発言をする一方で、彼の力は常に内側に、守る方向へと向かって育てられてきた。

 

それは自分にとって許し難いもの、『聖域』を壊しかねないもの。

そんな相手を目の前にしても、命を奪うという決断へと踏み切れないほどに。

 

「――――」

 

そのガーフィールの気性に、優しさに、つけ込んでいる自覚がスバルにはある。

もとより、ガーフィールとの相対において、彼の性格を利用するのは大前提だ。優しさで振り切れないガーフィールが相手ならば、『殺されない』というある種の確信がスバルにはあった。

 

とはいえ、満身創痍のガーフィールを相手にこのやられっ放しの状態だ。

万全の彼を相手にしていれば、この程度では到底済まなかったことだろう。そこは、スバルの思惑の外側で奮闘してくれたオットーとラムに感謝だ。

 

――二人とも、まさか死んではいないだろうか。

 

スバルを殺す決断ができないガーフィールの性格上、二人を殺しているとは考え難い。仮にそうなってしまえば、ガーフィールは態度でそれを隠せない男だ。

何より、仮に彼がラムを殺してしまったとすれば、スバルを止める場面に人の形で参じる理由がない。割り切って、獣の姿をさらしているのが自然なことだ。

 

殺せなかっただろう、というスバルの言葉に、彼は否定を返さなかった。

ならば、オットーたちとガーフィールとの戦いの決着は、それが全てだ。

 

「――ォォォォォォォ」

 

スバルの眼前で、自分の体を抱きかかえるガーフィールの肉体が変化する。

腕が、足が、一回りどころか二回りは太く大きくなり、その胴体も厚みとサイズを強大なものへと変えていく。爪と牙が刀剣のように鋭いものになり、面貌が人のものから猫科の猛獣のものへと音を立てて変貌。

露出した肌を金色の体毛が覆い尽くし、地面についた四肢で体を踏ん張る。

 

――そこに現れたのは、細められた瞳孔にスバルを映す、金色の大虎だ。

 

殺さなくてはスバルを止められない。

幾度も拳を振り抜いた先に、ガーフィールはようやくその結論に辿り着いた。

そして殺さなくてはならないスバルを殺すために、ガーフィールは決断する。

 

自身の内側に眠る血、獣の本能を呼び覚まし、大虎となってスバルの命を奪う。

理性をなくした獣の姿で、決断の瞬間を見なくて済むように。

 

「でも、それは間違ってるぜ、ガーフィール」

 

相手を殺すことができず、拳を振り抜くことができないのは優しさだ。

自分と周りの人たちの心を守るために、『聖域』という場所を守る決断も優しさだ。

 

だが、殺し切れない相手を殺すために、自分の行いを見ずに済む場所へ逃げ込んでしまおうとするそれは優しさとは関係ない。それは、ガーフィールの弱さだ。

 

そしてその弱点につけ込むことを、ナツキ・スバルは躊躇わない。

 

「頼むぜ、俺の体。こんなことで、潰れてくれるなよ!」

 

獣の姿へと変貌したガーフィールが、その猛る敵意にスバルを映した。

四肢のたわむ気配、それは猛獣がスバルを食い破ろうと飛びかかってくる前兆だ。

故に決断のときはここにしかなく、スバルは奥歯を一度噛みしめたあと、自らの体のど真ん中――丹田に繋がる門を意識して、声を上げる。

 

「――シャマァァァァク!!」

 

「――――」

 

大虎が口を開いた直後、全霊を込めた叫びに世界が呼応する。

スバルと猛獣の間で爆出する黒煙が、見上げるほどの獣の巨体を覆い尽くす。呑み込まれる寸前、煙を振り払うようにして伸ばされた腕は、しかし何にも届かずに煙の向こうへ消えた。

 

広がる深淵の闇に呑まれたとき、強制的に展開する無理解は生命を終わりへ引きずり込む。

 

「ぅ、あ……っ」

 

見届けた直後、頭を横殴りにされたような衝撃がスバルの頭蓋に襲いかかる。

頭の中と外から同時に錐を打ち込まれたような鋭い痛みに、視界が真っ赤に明滅して光が飛び散る。ガーフィールに殴られる鈍い痛みとは異なる、スバルの魂を削り取るような苛烈すぎる痛み――それを、どうにか呑み込んで咀嚼した。

 

使うな、と言われたゲートの酷使。

王都最高の治癒魔法の使い手から、二度と魔法を使えなくなるかもしれないとまで念押しされた言葉を裏切り、スバルは再びそれを行使する。

目には見えないゲートの焼き付く感覚。体の中心にあった門、その根本が大きく揺らぎ、スバルの肉体とは別の遠いところで何かが千切れる。

 

乱暴に、乱雑に、毟り取られる痛みが。

取り返しのつかない喪失感を伴って、スバルの心に理解をもたらした。

 

「ありがとうよ」

 

これまで何度も、頼りに頼ってきた線が切れる。

構わない。もともとなかったはずの選択肢が、本当の意味で潰えただけのこと。

ただそれでも、ここまでこれたのはその力のおかげで、そのことに感謝はしている。

 

だから、これでさようならだ。

 

「――――」

 

前を見る。

振り絞られた最後の魔法は、ガーフィールの巨体を包み切れていない。もっとも必要な頭部を中心に覆い、しかし包み切れない体は右半身を覗かせている。

 

渾身の力を尽くしても、そこまで止まりの自分。

鼻から息を吐く。途中、詰まっていた鼻血の塊がこぼれ落ちた。乱暴に袖で拭い、崩れ落ちそうになる足を前へ踏み出す。

 

懐に伸びる手。固い感触を手に取り、ここまでの乱戦でそれが壊れていなかったことに密かな安堵。これがなくなっていたら、勝機もクソも何もない。

 

「――――

 

目の前、徐々に薄れ始めている黒煙。

魔法を行使して何秒がたったか。十秒?五秒?もっと短いかもしれない。本当に魔法の才能なんて、欠片もなかったのだ。でも、今はそのことに感謝したい。

 

大虎の右半身が見えている。無理解の世界に囚われて、動けずにいる体が。

今は不完全な魔法だったことが、逆に狙いに迷う必要をスバルから奪った。

 

だから、踏み込む足が向かう先は迷わない。

右足、左足。走るというには遅すぎる。だが、勢いだけはある遅々とした疾走。

そして、触れ合うほどの距離まで近づいた巨体に、

 

「俺の土俵まで降りてこい。――ガーフィール」

 

その太い右肩に、スバルは懐から抜いた青く輝く結晶を押し込み――突き刺した。

 

光が、溢れ出した。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

『エミリアとの契約が切れた後、お前はフリーの精霊に戻る……そうだよな?』

 

『まぁ、そういうことになるね。ただし、フリーといってもボク自身の力はスゴイ大きいからね。そんじょそこらの子じゃ維持するマナを賄えない。それに誰が相手であっても、リア以外と契約する気はボクにはないからね』

 

『そのお前を維持するマナってのは……よっぽどじゃないと足りない?』

 

『そうだね。たとえば仮にスバルがボクを従えようとした場合、大気中のマナの力を借りたとしても……うん、一日ぐらいで干からびるんじゃないかな』

 

『ん……?思ったよりもつみたいに聞こえるな。じゃ、戦うぐらいできんの?』

 

『今の一日は、実体化してないボクを連れてる場合だよ?ボクが実体化したら、うん十秒ぐらいで干上がるんじゃないかな。試してみる?』

 

『お断りだよ。しかしなんだ、精霊との親和性が云々って俺の話はどうなった』

 

『そこいらの精霊となら、って但し書きが必要かもね。それにそういう意味じゃなくても……ボクの場合は事情が特別なんだよ。ボクは本当の意味で、リアのための精霊だから』

 

『――――』

 

『契約が切れたボクを使役して、リアをビックリさせようって計画は頓挫したね』

 

『ビックリさせようみたいなドッキリ企画のために話持ち掛けたわけじゃねぇよ。ただ……そうかよ。当てが外れたな』

 

『ごめんね。それに仮にうまくやれそうでも、依り代の問題が……は、ここならどうにでもなるんだったね』

 

『依り代っていうと……エミリアが首からぶら下げてる結晶石みたいな?』

 

『アレはアレで特殊なものなんだけどね。幸い、この場所には同じ材質のものがあるはずだから、それをちょこっと拝借すればどうとでもなるよ。どちらにせよ、ボクを結晶石に閉じ込めても、その中に閉じ込めておくだけのマナはとても……』

 

『――なぁ、聞きたいんだけどさ』

 

『うん?なに?』

 

『未契約だろうとなんだろうと、お前の協力があれば結晶石の中にお前を入れておくこと自体は可能なのか?その、マナさえ供給できれば』

 

『そうなるね。ただ、そのマナの供給が難事なんだよ。文字通り吸い上げるからね、ボクの場合。行動不能になるまで、ぐいぐいと……』

 

『――――』

 

『……スバル?』

 

『なぁ、パック』

 

『うん?』

 

『お前が言った、結晶石の代わりって、どこにあるんだ?』

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――猛虎の右肩に突き刺さり、そこで凄まじい光を放つ青い結晶石。

 

研磨も整形もされていない、『削り取って』きたような輝きは、その鋭い断面の先端を獣の肌へと突き刺し、そこから生命力ともいえる力を存分に吸い上げる。

 

「――――っづ!」

 

光に煽られ、スバルは風圧を感じたように後ろへと倒れ込む。尻餅をつき、後ずさる眼前ではいまだ、黒煙に呑まれる猛獣は己の肉体に起こる変化に気付いていない。

掌に握り込めるような大きさの結晶石は、突き刺さる生き物からマナを貪欲に吸い上げる。懐にしまい込んでいるだけで、堪え難い脱力感がスバルにもあった。

その影響を直接、肉体にもたらされればどうなるのか――その答えが、目の前にある。

 

「――――ぁ、ああ!?」

 

煙が晴れる。

黒煙による視界の攪乱と、魔力による強制的な無理解。

その両方から解放されたとき、猛虎は――ガーフィールは、その肉体の獣化のほとんどを取り払われて、元の一人の青年の姿へと戻りかけていた。

 

はらはらと体毛が抜け落ち、丸太を束ねたようだった手足が常識的な太さへ戻る。牙と爪が短くなり、体中の骨格が音を立てながら人間の形を取り戻していった。

その変貌を、誰よりも信じられない顔で見ているのは当人であるガーフィールだ。

 

彼は自分の体が獣の姿を失い、元の肉体へ戻ったことに愕然と目を見開いている。両手を持ち上げ、人間のものである掌を震える金色の瞳が見つめていた。

 

「ば、かな……これァ、いったい、何が……」

 

「俺は言ったぞ、ガーフィール。――勝ち目のない喧嘩は、俺はやらねぇってな」

 

スバルの言葉に、ガーフィールが弾かれたようにこちらを見る。

地面についていた尻を払い、立ち上がるスバルは腫れ上がった顔ながら悪辣に笑う。それを目に、ガーフィールは自分の肉体の変調と、なおも自分の肉体に多大な負荷がかかる事実を理解。首を巡らせ、彼は自分の右肩に刺さる異物に気付いた。

 

「こりゃァ……なん、だ?いや、こいつは……」

 

「その光に見覚えはあるだろ。俺も、お前も、それに関しちゃ知ってるはずだ」

 

「どこッから、こいつを……てめェ……!」

 

「もちろん。――リューズ・メイエルのクリスタル。その機能維持のためだかに、溜め込まれてた結晶石の一つだよ」

 

――森の奥にある研究所。

『聖域』を守るために、結界の礎となったリューズ・メイエル。彼女を永遠の結晶の中に閉じ込めるクリスタルは、その機能の維持を複製体の一部に依存していた。

定期的に、発光するクリスタルの下部の動力を組み替えるリューズの複製体。無論、そのための結晶石とて無限ではない。『聖域』の中にいては、いずれは枯渇して機能を維持できなくなるときがくる。

 

「それこそ定期的に食料とかと一緒に運び込まれてたはずだ。ロズワールの支援の一つがそれなら、一個ぐらいくすねるチャンスは余裕であったさ」

 

「けッど、それぐらいでこんな……俺様に突き刺したぐらいで、こんな風に力ァ、抜けてッくわけがねェ……何の、からくりを仕込んで……」

 

「さてな。……その結晶石の中に、とんでもなく腹ペコな怪物でも入ってるんじゃないか?」

 

息切れし、言葉も途切れ途切れのガーフィール。

彼は己の右肩に手を伸ばし、その結晶石をどうにか引き抜こうとするが、青い結晶はまるでその指先を拒絶するように、彼の肉体に食い込んだまま剥がせない。

 

深い息を吐き、スバルは全身を脱力させながら背後に首を向ける。

見上げた先、そこからエミリアが二人の戦いを黙って見下ろしている。直前まで、彼女の目にもスバルは絶望的な状態に見えたことだろう。

それでも彼女はスバルの戦いを止めようとはしなかった。かつて、彼女にも自分にも真っ当でない意地で戦いを続けたとき、あれほどスバルを止めようとした彼女が。

 

そこにあるのが、信頼とは言い切れない何かであることはスバルも理解している。

じゃあ、それが何なのかは、きっとまだ二人にとって言葉にも形にもならない何かだ。

 

ガーフィールの動きを縫い止めた結晶石。

その輝きを見て、エミリアは何かに気付いただろうか。それはわからない。だが、わからないままでいい。今、この瞬間は。

 

「俺を見ろ、ガーフィール」

 

「あァ……?」

 

「俺を止めたきゃ、お前の手で止めろ。わけわかんなくなっちまうような、そんな体の中の血になんか任せるんじゃねぇ。お前の方こそ、どれだけ人を馬鹿にしてんだ」

 

足を踏み出す。

全身は軋み、どこからか止まっていない血が滴っている。

命は流れ出している。だが、止まるつもりも、止められるつもりもない。

 

「俺たちを止めようとするお前を、俺は止める。――エミリアは墓所に挑む。『聖域』は解放される。足踏みしてる暇は、俺たちにはない」

 

「勝手ばっかり、抜かしッやがるんじゃァねェ!誰が頼んだ!誰が許した!?ここはこのまま、こうして、変わらないままでいいッ!」

 

「変わらないまま、停滞したまま、ずっとこのままなんてあるわけねぇだろ。そんなこと……何百年もこのままになる前に、誰かが気付いてるべきだったんだ」

 

「変わらないことを!望む!望み続ける奴だっているだろうがァ!」

 

「そうやって、何もかもが変わらないように守り続けるお前が、ずっと永遠にこの場所の守り手として君臨できるんならそれもいいんだろうよ。……けどな、お前一人がどれだけ気張っても届かないことがある」

 

時間も、時代も、ガーフィールをいずれは置いてけぼりにする。

変わらない『聖域』という場所を、守り続ける力はいずれは失われる。

 

「俺たち総がかりでお前が追い込まれてるみたいに、一人じゃどうにもならないときが必ずくるぜ。今、このときにも」

 

歩くスバルの姿が、ガーフィールの目前へと辿り着く。

右肩の結晶石を掴み、息切れするガーフィールはそれでも力を失わない目でスバルを睨みつける。その眼光を、真っ向から睨み返す。

 

互いに、言葉をぶつけるだけでは足りないことを、もう知っている。

ならば――、

 

「ぶっ倒されろ、ガーフィール。数の力を、思い知れ」

 

「もっと他に、言い方がァ、あんだろうがァ!」

 

吠えるガーフィール。

下から伸びてくる拳。だが遅い。活力を根こそぎ吸い上げる結晶石に、ガーフィールの力はもうほとんど残っていない。余裕をもって首を傾けて――思い通りに動かなかった横っ面に拳を食らう。視界が、大きく揺らいだ。

 

「てめェの方こそ、とっとと寝ちまえ!その後であの墓所を叩き潰して、てめェも他の連中も、まとめて死ぬまで中で飼い殺してやらァ」

 

「お前、そんなこと計画してやがったのか……よ!」

 

お返しに、落ちそうになる膝を伸ばして拳を真下から突き上げる。避けられないガーフィールの顔面に、思いきりにパンチがねじ込まれた。この戦い、始まって以来、スバル側から初めてのクリーンヒットだ。

 

へっぴり腰で、体の芯のブレブレで、まともに腕も伸び切ってないヘタクソなパンチ。

当然、期待通りの威力など望むべくもないが、今のガーフィールには十分な一発だ。

 

「――ぐ、が」

 

全身に負ったダメージの数々に加えて、肉体を支えるマナを根本から絞られる。すでに戦闘不能の崖っぷちに立つガーフィールにとって、スバルの一発はそれだけで崖向こうへ押し出す決定打になり得る。

だが、

 

「効ィきゃァ、しねェ!」

 

「ごぇっ!」

 

両足で地面を思い切りに踏んで、腰を落とすガーフィールの肘がスバルの鳩尾を抉る。苦鳴を上げ、スバルは頭を下げる要領でガーフィールの額に頭突きを打ち込む。頭蓋が痺れる威力に二人が同時にのけ反り、同時に頭を戻しながら拳を打ち出し、相打ち。

 

互いの頬に拳をめり込ませたまま、両者の鼻孔から鼻血が溢れ出す。

スバルは物理的なダメージの限界、ガーフィールは精神的なものも含めてもダメージの臨界。

 

ガーフィールの右肩、結晶石の輝きは徐々に徐々に大人しいものへ変わりつつある。

ガーフィール自身のマナの枯渇が近い証拠か、つまりは決着が間近にある証拠だ。

 

「――ぐば!」

 

「なァに、余所見ィしてやがる!」

 

気が緩んだ直後、当てられた拳を開く挙動で顔面が弾かれる。

気の緩みに乗っかる一発に、意識が一瞬でどこかへ飛んだ。とっさに歯を食い縛り、ひび割れていた歯の一本を噛み砕いた痛みで意識を覚醒する。

もう、意識を飛ばさないための小細工は力を貸してくれない。もっと別の形で、これ以上ないほどに貢献してくれている。自力で、全ての痛みに耐え抜く他にない。

 

油断、慢心、馬鹿げている。

いつだってスバルは弱者で、挑戦者で、優位に素直に立つことなんてありえない。

 

「だから……手なんざ、抜けるわけねぇ!」

 

「がォッ」

 

振り下ろした左腕が、ガーフィールの首に巻きつくように当たり、体を支えきれないまま二人して地面に倒れ込む。全身を打ち、痛みに顔をしかめて体を起こそうとするスバル。その地面についた左腕を、強烈な激痛が突き抜けた。

見れば左の二の腕に、ガーフィールの牙が食らいついている。

 

「ぎ、ぃッ!」

 

「――ぐぐぐ」

 

「っらぁ!離せ!痛ぇっつんだよ、馬鹿!」

 

噛みつく顔面を殴りつけて牙を外す。ずぐり、と音を立てて左腕が解放されるが、骨まで貫かれた腕は動かない。そして右腕も、

 

「掴ん……だァ!」

 

左腕を取り戻すために伸ばした右腕、その肩をガーフィールの掌が掴んだ。腕を振る力も、蹴りを放つ力も失われていても、握る力は失われていない。

岩をも抉る握力が、スバルの右肩を骨ごと破壊する。

 

鈍い軋む音が響き、スバルが声なき絶叫を上げた。

左腕は二の腕からの裂傷、そして右肩は骨が破壊されて活動不能。両腕の機能を奪われて、目を見開くスバルをガーフィールが蹴り倒す。

 

「終わりッだ!こうなりゃァ、もう何もできやしねェ!最初ッから、こうして……跳ねるだけの雑魚にしッちまやァよかったんだ!」

 

地面の上でのたうち回るスバルを見て、ガーフィールが今度こそ勝利の愉悦に頬を歪める。ふらつく足で立ち上がり、ガーフィールは空を仰いで喉を震わせる。

獣の雄叫びを上げ、勝利の凱歌だ。そして、あとは踏みつけられるのを待つだけのスバルへトドメを差そうとして、

 

「……俺の終わりを、お前が決めんなって何回言わせんだ!」

 

真下から上がってきた頭突きに、鼻面を潰されてガーフィールの目が回った。

踏鞴を踏んで下がる眼前、両腕をだらんと下げたスバルが立っている。あり得ない。馬鹿げている。意思の力がどうとか、そういう次元の問題じゃない。

 

「俺の終わりも、お前の終わりも……まだ、ここじゃない」

 

「ふざ……ふざッけんな……立つな。立つんじゃァねェ……俺様ァ」

 

ガーフィールが悲痛に顔を歪めて、立ち尽くすスバルから一歩、後ろに下がった。

まるで、両腕も使えず、立つ以外の力など何も残っていないスバルを恐れるように。

 

「そんッなに踏ん張って、何になるってんだ!ここにいる連中は、全ッ員が全員!もォどうにもならねェ吹き溜まりだ!外に拒絶されて、ここしかいる場所がねェ!そんな奴らを外に出して、どうなる!何になる!」

 

「外に出て、何かになれ。ここにいて、緩やかに終わるぐらいならそうしろ。どっち道、ここにもう居残る道はねぇ」

 

ガーフィールがどれほど力を誇示し、奮戦したとしても変えられない未来がある。

彼一人の力では、『聖域』を餌場とみなす大兎の猛威は止められない。全力を尽くしたとしても取りこぼすものが現れ、その数が増えるたびに彼は力を失い、やがては彼自身も尽きることのない食欲の前に敗北する。

 

あるいはその未来を伝えれば、彼をここから動かすことはできるのかもしれない。

 

だが、それは彼の考えを変えられたわけではない。

ただ、一時的に体を動かしただけだ。心は、この『聖域』の中で閉じこもり続ける。そしてやり過ごしたとわかればここに舞い戻り、また楽園を気取って停滞に沈む。

背中を押す力も、差し伸べられる手も、全部何もかも無視して、ガーフィール・ティンゼルは母の死を悼むふりをして、自分の心を慰め続けるのだ。

 

「外に出ろ、ガーフィール。お前が怖がってるような壁なんざ、どこにもない」

 

「壁はある!俺様がそうだ!俺様が、中と外とを切り分ける絶対の壁だ!俺様も、婆ちゃんや他の連中も!立ち止まった!それでもう、終わりだ!」

 

一度、諦めてしまった。外と繋がることに恐れを抱いて、『聖域』の住人たちはこの自分たちの楽園に逃げ込んで、森の外の世界と触れることを諦めてしまった。

だから、ガーフィールはその閉じた楽園を守ろうとする。守ると言い切る。

それはもう、自分たちの存在を完結させてしまったのと同じだ。一人で、勝手に。

 

「ならその壁は砕いてやる……今ここで、俺たちが!」

 

「あの兄ちゃんも!ラムもおねんねだ!てめェもすぐに楽にしてやる!てめェの言う、俺たちなんざもうどこにもいねェ!俺様もてめェらも、終わりだ!」

 

「諦めるのが賢いとでも思ってやがるのか。諦めねぇ方が格好いいに決まってんだろうが!いっぺん諦めて立ち止まったら、もう歩くのはそれでしまいか!ちょっと休んだら歩き出せ!そのための風なら、とっくの昔にお前にも吹いただろうが!」

 

外の世界を恐怖する結果になった『試練』。

その『試練』を知った後のガーフィールを、リューズやフレデリカはそれでも愛した。

外の世界に踏み出し、いつか『聖域』の結界が解かれたとき、中で過ごす人々が暮らせる場所を作るためにフレデリカは道を選んだ。

フレデリカは振り返り、ガーフィールに手を差し伸べていたはずだ。

立ち止まっていたガーフィールの前で、フレデリカは歩き出す手を伸ばしたはずだ。

当たり前だ。だって、フレデリカはガーフィールの姉なのだから。

 

弟が泣いて立ち止まっていたら、手を差し伸べるのがお姉ちゃんなのだから。

 

「フレデリカが外の世界に出ていって、お前を置いていったって言ったな。でもな、違う。間違ってんだよ、ガーフィール。お前は、結界に縛られてなんかなかった。追いかけようと思えば、いつだって走り出せたんだ。そうしなかったのは、お前だろうが!」

 

「……俺様はッ」

 

「先に手を離したのはお前の方だ、ガーフィール!それをいつまでも姉貴のせいにしてグチグチグチグチ言いやがって!情けないとは思わねぇのか!」

 

胸の奥が熱い。何を言っているのか、自分でも訳がわからなくなってきた。

腹のど真ん中、その中心に蠢く黒い何かがある。

 

丹田の奥にあった、スバルと外の世界とを繋いでいた超自然的な門は機能をなくした。

ならば、今、この体の奥底で、存在を主張し始めたこれは何なのか。

 

自分の頭の中も、体の中も、目の前の男のことも何もわからないまま、叫ぶ。

 

「いつだって!どんなときだって!やりたい!変わりたいと!そう思ったときがスタートラインだろうが!!」

 

挫折して、何もかもなくして、諦めに浸って足を止めて、膝を抱えて蹲って。

自分への落胆、他者からの失望、大事な人たちに見捨てられる孤独感、そんなものに心底から染め上げられたような気になって、自分は駄目なんだと、そんな風に思い込んでも。

 

「また顔を上げて、前にある道を歩き出すのを、誰がどうして諦めろなんて言えるんだ!」

 

諦めろ、やめちまえ、蹲っちまえ。

くだらない。何もかも、耳を貸すに足りない戯言だ。

 

膝を抱えてた奴がいて、声をかけるような気紛れを働かせるなら、どうせなら応援しろ。

頑張れ。やっちまえ。何がなんだか知らないけど、立って走ればどっかにつく。

 

――胸の奥が、熱い。

 

「そうだろ、ガーフィール……!」

 

目の前の、弱々しく瞳を揺らす、小さく見える男の名前を呼ぶ。

 

――腹の中身が、燃えている。

 

「そうだろ、エミリア……!」

 

背後からスバルたちを見下ろしている、弱さと何かの狭間にいる彼女の名前を呼ぶ。

 

――瞳の奥から、溢れ出すものがある。

 

「なぁ――そうだろ、レム!!」

 

顔を上げ、口を開き、目を見開いて、立ち上がる切っ掛けをくれた人の名前を呼ぶ。

諦めて足を止めたとき、それで終わりのはずがないと、教えてくれたことがあった。

 

そのときにもらった力が、万人に届くべきだとナツキ・スバルは望むから。

 

「――――」

 

スバルのものでない力が、体の奥底で蠢き、産声を上げる。

生まれ出でることを喝采するように、生まれ落ちることを歓迎するように。

 

それはナツキ・スバルという存在を媒介にして、再び世界と存在を繋げた。

 

熱が、溢れ出す。

スバルの体の中心を、貫くように湧き上がっていた熱が燃え上がる。

 

それは血走り、血涙を流すスバルの眼前で渦巻き、形を成し、世界に干渉する。

 

「俺様はァ――ッ!」

 

叫び、ガーフィールの体が飛び出す。

爪を振り上げ、牙を剥き出しにし、ガーフィールはもはや言葉ではなく、行動の全てでスバルの主張を否定しにかかる。

 

言葉を継げず、想いを形にできず、彼にはそれしか方法が浮かばない。

それ以外の方法を知らないのだ。故にガーフィールは、スバルへとその爪を伸ばす。

 

その眼前に、流血するスバルから溢れ出す熱が集まるのに、彼は気付いていない。

自分が飛び込もうとするスバルの目の前に、歪な空間の揺らぎが、あるはずのない世界の罅割れが生じていることに、彼は気付いていない。

 

――そこから伸びる、圧倒的な力の存在に気付いていない。

 

当然だ。彼にはそれは見えていない。否、スバル以外には誰にも見えない。

なぜならそれは、スバルだけが干渉することのできる、『見えざる手』なのだから。

 

「――――」

 

世界がスローモーションに見える。

この感覚は、スバルには覚えがあり過ぎる。死に瀕する瞬間、致命傷を負う直前、禁忌を口にした懲罰の場面、いずれも痛い場面ばかりで気が滅入る。

 

だがそれとは別に、この意識の覚醒は今、スバルのために訪れている。

 

飛びかかってくるガーフィールの姿がよく見える。

敵意剥き出し――しかし、それはまるで、子どもの癇癪の成れの果てのように見えた。

 

その顎の先端に、スバルは視線を集中する。

なぜか、理解があった。行動に起こす前に、納得ができていた。

 

狙いを定めて、引き絞った何かを解き放つだけでいいのだ。

それだけで、それはきっと、完遂される。

 

――だからスバルは、その通りにした。

 

「――――ッ!?」

 

解き放たれる力が快哉を叫び、無防備なガーフィールの体を真下から撃墜する。

伸びる力の奔流は拳の形を、腕の形を取り、それは跳躍したガーフィールの顔面を真下から殴り抜け、その身を高々と吹き飛ばした。

 

「――ァ、はァッ!」

 

まったく予想だにしない一撃を受けて、受け身も取れずに地面に叩きつけられるガーフィール。

大の字に地面に転がるその姿に、スバルは今度こそ決定打を放り込んだことを理解する。

 

同時に、自分の体の中からも、ごっそりと凄まじい量の何かが持っていかれた。

 

「う、ふ……ぉ」

 

膝をつき、体を折って思う存分に嘔吐する。が、もはや血反吐の一滴も出ない。唾液も血の一滴も、無駄なものはもう体のどこにも残っていない。

それほどに死力を尽くした挙句の、最後の一撃だった。

 

力の奔流は、ガーフィールを撃墜した直後に解けて消失した。

おそらく、源流は今もスバルの中に残っているが、引っ張り出せる気がしない。少なくとも今のスバルには、あれ以上のものは差し出せない。

あの手を今以上に使用するのならば、それ以上を捧げることが必要だ。

 

だが、この戦いが終わった以上、今はその必要は――。

 

「おいおい……嘘だろ」

 

「――ァ、舐めん、なァ」

 

崩れ落ちて、今にも意識が吹っ飛びそうな体。

視界の端っこが白み、どの瞬きが現実の最後になるかわからないほどの疲労感。

 

これほどまでに死力を尽くし切って、それでもなお。

ガーフィール・ティンゼルは、おびただしい鼻血を流しながらも、立っている。

 

「お前、ホントにどんだけタフなんだよ……」

 

「俺様がァ、折れなきゃ……終わ、終わら、終わらねェ……」

 

半ば、ガーフィールも意識は飛んでいる。

焦点の合わない視界はスバルを見ているようで見ていない。ただ、執念だけがガーフィールの体を立ち上がらせ、最後の一押しを拒んでいる。

 

きっとおそらく、スバルが一撃小突いてやるだけで、ガーフィールは崩れ落ちる。

しかし、その一撃を放り込むだけの力が、スバルにももう残っていない。一撃を食らうどころか、あと十数秒で意識が消えるのはスバルも同じことだ。

 

互いに全力で、持てる力の全てを出し切った決着。

ガーフィールはもとより、スバルの方も間違いなく、全部の策を使い切った。

 

オットーとラムがガーフィールを削っていてくれなければ、ここまで辿り着くことすらできなかっただろう。

青い結晶石の隠し玉があれば、どうにかなると思っていたのが甘かった。意識の覚醒の手伝いと、ガーフィールの究極的な弱体化。それを重ねても、きっと届かなかった。

 

ガーフィールの右肩で、青い結晶が点滅している。

それは敗北に沈みそうなスバルを激励しているようでも叱咤しているようでもあって、思わず苦笑してしまいそうになった。

 

スバルに、結晶石に、オットーに、ラム。

これだけ力を束ねても、倒し切れなかったガーフィールは間違いなく強者だ。

それを、本当に心の底から認めよう。だから、

 

「てめェは、こォれで……ッ」

 

「悪く……思うなよ、ガーフィール。壁は俺たちが砕いてやるって、そう言ったぜ」

 

「もう、誰もォ……」

 

ふらつく足取りで、ガーフィールがスバルの方へ迫る。

よろよろと持ち上げられる左腕、その先端に、血で汚れた鈍い爪が存在している。

それが届けば、スバルは終わりだ。

 

全神経をガーフィールはその一撃に注いでいる。

だから、彼は気付かない。音を立てて、地響きが、近づいていることを。

 

――ガーフィールを敗北へ追いやる、最後の一押しに。

 

「しまいィ……だッ!?」

 

「――――ッ!!」

 

叫びを上塗りする、細く高い地竜の嘶き。

地響きを立てて頭から突っ込む漆黒の地竜が、無防備に立つガーフィールを思い切りに横合いから跳ね飛ばした。

 

「――ごェ!?」

 

文字通り、全身を持っていかれる衝撃に白目を剥き、ガーフィールは蹴りつけられた小石のように軽々と吹き飛ばされる。

地面を二度、三度と跳ねて、土煙を上げる半獣人の体は、泥塗れになって大地に伏した。

 

その体は、今度こそピクリとも動けない。

 

それを見届けて、無慈悲な最後の一撃をぶち込んだ立役者が、首をもたげて雄叫びを上げる。

 

「どうだ、ガーフィール……」

 

勝利を高らかに叫ぶパトラッシュの傍らで、スバルは地面に突っ伏すガーフィールに声をかける。彼に届くかどうか、わからないほど掠れた声で。

勝負を分けた本命、それは何だったのか。

 

簡単な話だ。

強いガーフィールは一人で戦い、弱いスバルは一人では戦わなかった。

つまり、

 

「これが――数の、力だ」

 

「もっと他に……言い方がァ、あんだろうがァ……ッ」

 

動けないガーフィールが、恨めしげにスバルの言葉に反応する。

その声に、スバルは小さく頬を緩めて、

 

「じゃぁ、みんなの想いを束ねた、絆の勝利だ」

 

「は、ァ……『クウェインの石は一人じゃ上がらない』って、ことかよォ……ォ」

 

言い残して、ガーフィールがついに沈黙する。

それを見届けて、今度こそ、確かな勝利を理解して、スバルは空を仰ぎ、

 

「やっとこ、それらしい格言が聞けたな……」

 

そう満足げにこぼして、意識を投げ出して横倒しになった。