『浅慮の代償と老人の意思』


 

その人物が連行されるのを目にしたスバルを貫いた衝撃は、あるいは王座の間で受けたあらゆる衝撃の中でも群を抜いていたかもしれない。

 

エミリアの力になりたい一心で中央に進み出て、その上で醜態をさらしてきた。

彼女の力になるどころか、その足を盛大に引っ張り、挙句の果てにはその様をエミリアに失望の眼差しで見届けられたのだ。

 

それらは全て、スバルに対して耐え難いほどの痛みをもたらした。だが、それらに対してスバルは全部が全部、自身に非があったなどと認めていたわけではない。

自分の発言が本心からの本心であったことに偽りはないし、騎士という名誉に凝り固まったユリウスの発言を丸ごと全肯定するなどもってのほかだ。感情論でまとまりに欠けてこそいたが、自身の発言の全てが間違いであったとは思わない。

有体に言えば、言葉を尽くしてもわかってもらえなかったことに対する不満が、少なからずスバルの内側には取り残されたままだった。

 

それでも身を引いたのは、あの場でそれ以上、胸の内をさらけ出すことに何の意味もないとわかっていたからだ。

あの場面ではスバルに発言権などなく、なにを言っても梨の礫になることは目に見えていた。そんな状態でも我を通すのがナツキ・スバルという人間であったはずなのだが、そうするだけの心すらも折られていたのが現実だ。

だが、

 

「おい、おい……」

 

その一方で、目の前をロム爺が拘束されている姿には、スバルの己の軽挙妄動さの全てを糾弾するだけの意味が込められていた。

騎士はその巨躯の老人を指して、王城へ忍び込もうとした不審者と呼んだ。貴族街で、ラインハルトの邸宅を探してフェルトを連れ出そうと目論んでいたロム爺に、王城へと忍び込むような理由などあるはずもない。

もしも貴族街へとやってきたのが、彼ひとりであったのならば、だ。

 

「まさか、俺を……」

 

追ってきたのか、という決定的な一言を言葉にすることはできなかった。

 

だが、胸中で生まれたそんな疑問は、答えなどなくても確信に近い。

そも、考えがあまりに浅かったのだ。スバルは彼の老人がどれほどお人好しで、どれほど裏町のあくどい環境に見合わぬ性格なのかを見知っていたはずだ。

だからこそ貴族街への侵入にも口八丁手八丁で手伝わせたし、その後の単独行動に関しても老人の気の良さを利用して互いを分断させた。

 

その後のリスクに関しては、全ては自分の行いの結末だ。仮にどんな事態に陥ったとしても、スバルは自分の身だけならば最低限どうにかできると踏んでいた。最悪でもロズワールの名前を出し、彼に尋常でない迷惑をかけたとしても、命は拾えると最低の保障だけは持っていたのだ。

 

だが、そんなスバルの浅ましい保身に関して、なんの説明もなく別れたロム爺が知っているはずがない。

見捨てることだって、彼にはできたはずだ。彼には彼の大切な人間が、大事な目的があったはずだ。だから別れたあとも、なんだかんだでスバルのことなど優先順位の問題で切り捨てて、自身の目的のために動くとばかり思っていた。

 

そうして他者の気持ちに配慮することを怠った結果が、今の目の前の光景だ。

スバルを無謀な侵入に向かわせてしまったことを悔やみ、ロム爺がその身を案じてこうして王城にまで乗り込んできてしまったことは想像に難くない。むしろ、この老人の性格を鑑みれば簡単に想像がつきそうな話だった。

 

「ロム……」

 

「――――」

 

とっさに、その名前を呼ぼうとスバルの唇が動きかけた。

が、その動きを止めたのは他でもない。それは連行されながら、廊下の端で騎士に守られるスバルの姿に気付いたロム爺であった。

彼はスバルがこの場にいることに気付くと、その灰色の瞳にわずかな驚きを浮かべたあと、はっきりとスバルにだけ伝わるような安堵の色を双眸に宿した。

そして自分の名前を呼ぼうとするスバルにだけ見えるように、唇に人差し指を当てて「黙っていろ」と指示したのだ。

 

その指示の示すところは明白だった。

城への不法侵入で捕まってしまったロム爺。そんな不審者であるところの自分と、知人である事実を口にしてはスバルの立場が悪くなる。――今のスバルの立ち位置を見て、一瞬でそう判断してのことだった。

 

「捕まったのは儂の間抜けが原因じゃ。お前さんが気に病むことじゃない」

 

言葉にされたわけではないのに、唇に指を当てるジェスチャーのまま、静かに首を振るロム爺の内心の声がスバルにダイレクトに届いた気がした。

そんな感覚に惑わされた結果、スバルは通り過ぎる一団に声をかけるタイミングを見失う。騎士に厳重な囲みを受けたまま、ロム爺の姿は通路の向こうへ消えていく。

そのまま、広間へと引きずり出されて弾劾を受けるのだろうか。そうなってしまえば、いったい事情を知らない誰が彼を擁護してくれる。

そしてなにより、

 

「どうして俺は今、なにも言わなかった……?」

 

実際に口に出して制止されたわけでもなければ、その後に脳裏を過った言葉だってスバルの妄想が形になっただけでしかない。

ひょっとしたらロム爺は助けを求めていたのかもしれないし、求められていなかったとしても、そうするために行動しなくてはならない理由がスバルにはあった。

彼をこんな場所に侵入するような心境にして、巻き込んでしまったのは他でもないスバルだったのだから。

 

「――待ってくれ!」

 

踏ん切りがつくのに時間がかかったが、どうにかスバルの喉はそう叫んでくれた。

通路の向こうに消えかけた集団の足が止まり、怪訝にこちらを見る気配がする。制止することができた。最悪の状態ではあったが、最低以下になり下がるのは避けられた。あとの問題は、ここからどうするかだ。

 

「どうされましたか?」

 

「ちょっと今の爺さんに用が……」

 

同行していた騎士の気遣う声に応じて、スバルは集団の方――拘束されるロム爺へと歩み寄る。

一団は接近してくるスバルのことを、どう扱うべきかと決めかねている様子だが、スバルと同行する騎士が「候補者の関係者だ」と告げると、一斉に姿勢を正してスバルの方へと敬意を向けてくる。

 

それを負担に思いながらも、今ばかりはありがたいと目礼して前へ。すぐ側、ロム爺のところへと辿り着き、

 

「――――っ」

 

手を伸ばせば届く位置にまで近づいて、スバルはなにを言うべきか言葉を見失った。

行き当たりばったりはいつものことだが、今回の場合は事が簡単ではない。王城への不法侵入を見咎められたロム爺への言葉は、まかり間違えばスバルの不法侵入の自供に他ならない。

故に慎重を期する必要があったのだが――またしても、ノープラン。

 

見知った老人を前に手をこまねくしかない自身の状態に、スバルは自分が思いのほかその場しのぎで生きる人間であったのだと思い知る。自分ではそれなりに後先考えて行動する冷静沈着なタイプだと勝手に思っていたのだが、今日の様々な行動の過程と結果を思えば、どの面下げてそれが言えるものかと笑い話だ。

今にしても、なんと声をかけるべきか欠片も思い浮かばない。

 

「――スバル殿?」

 

唇を震わせて、なにも言葉を紡ぐことができないスバルを訝しむ声。

自然、周囲の騎士たちのスバルを見る視線が厳しいものになり始める。高まる警戒心が肌を刺激するのを感じ、スバルはなにか言わなくてはと頭を動かし、

 

「ふん、お貴族様とやらはずいぶんと趣味が悪いもんだの!ドジ踏んで捕まった老いぼれの間抜け面を見て笑おうとは、同じ血の通う生き物とは思えんわい!」

 

そんなスバルの焦燥感は、通路の端から端まで響くような大声にかき消された。

唾を飛ばし、ガラの悪い口調と顔つきでそう言い放ったのは、誰であろうロム爺だ。彼は拘束されたままの身をひねり、スバルの顔を真下から行儀悪く見上げると、

 

「こんな面で良ければたんと見ておくがいいわい。お前さんのような恵まれて育った若造にはとんと縁のない、貧民街の垢に塗れたジジイの顔をな!」

 

唖然、呆然、とにかく衝撃で完全に思考が停止してしまった。

聞くに堪えない罵声を浴びせかけるロム爺に、その矛先を向けられるスバル。周りの騎士たちもしばし硬直していたが、数秒の後に正気に戻った彼らは、

 

「――口を慎め!」

 

「ぐぅっ!」

 

要人であるスバルに無礼な口を聞いた犯罪者に、拳の制裁が振り下ろされる。

手枷をはめられ、身動きを封じられる老人にそれを防ぐ手立てはない。為す術もなく拳を振るわれ、今の身份を弁えない発言の代償を支払わされる。

目の前で行われる過剰な制裁、それに驚きを隠せないまま、しかしとにかく止めなくてはとスバルは手を伸ばし、

 

「待て、そこまでする必要は……」

 

「お優しいことじゃな、若造が。ほぅら、どうした、騎士様共よ。お前さんたちの大好きな飼い主の命令じゃぞ、尻尾振って聞いたらどう……ぐっ」

 

「まだ言うのか、この浮浪者が!」

 

だが、スバルの制止の言葉はまたしてもロム爺の罵声に遮られる。罵倒を上書きしたロム爺に対し、制裁はより苛烈さを増して襲いかかった。

 

なぜ、と疑問が脳裏に滂沱と押し寄せ、そのまま口からまろび出そうになる。が、寸前でスバルの言葉を押しとどめたのは、暴行を受けながらもひたすらにスバルの瞳から目をそらさない、ロム爺の理知的な双眸に意図を察したからだ。

 

――ロム爺はこの場においてなお、スバルを庇おうとしていた。

 

不法侵入の現行犯で捕まったロム爺を擁護するということは、現状のスバルにとって痛い腹を探られる理由を作る切っ掛けになりかねない。

問い詰められれば都合が悪い立場であることは自覚があり、それをまたロム爺も熟知している。それ故にロム爺は必要以上に悪態を叩いて不仲を演じ、自分とスバルの間にある接点を消そうとしているのだ。

 

痛恨の思いが胸中を覆い尽くした。ロム爺をこの窮地に追いやったのがスバルの軽率な行動の結果ならば、ロム爺に苦渋の決断を選ばせた今の状況もスバルの考え足らずが招いた事態なのだ。

スバルの行動のその尻拭いを、ロム爺が負う羽目になっているのだ。

 

「スバル殿、この場はもう」

 

「ああ……いや……」

 

立ち尽くすスバルの肩に触れて、騎士がこちらを気遣う声をかける。

罵声を浴びせられ、スバルがショックに打ち震えているものと勘違いしたのだろう。スバルはその声に曖昧な応答を返し、それからロム爺の目を見つめ返す。

 

――どうにかして俺がこの場から。

 

そんな思いを込めて。具体的な方法などなにも思いついていやしないけれど、それでも、やらなければならないのだからと義務感が押し寄せるままに。

しかし、スバルのその意思に対するロム爺の答えは、無言で首を横に振るという拒絶であった。

 

「――余計なお世話じゃ、若造が」

 

小さく、かすれた呟きは先ほどの罵声の続きのようであり、騎士たちに文脈の不審さを感じさせはしなかった。が、スバルにだけははっきりと、それがこの場でロム爺が口にした言葉の中で、ゆいいつ欺瞞のない本音であるとわかった。

 

それきり目をそらされ、スバルは言いかけた言葉を飲み込んで話の終わりを悟る。

差し伸べかけた手を拒絶されて、スバルはまたしても自分を否定された気分になっていた。広間のときと同じだ。なにかをしなくてはならないと焦燥感だけがスバルの背中を押す――それなのに、肝心の相手にはそれを必要とされない。

 

押し黙るスバルの前でロム爺が身を振り、「もういいじゃろ」と立ち止まる騎士たちに先へ進むよう促す。

騎士たちはスバルの方をうかがうような目を向けたが、当のスバルがなにも言えないまま俯いているのを見ると、「失礼します」と声をかけて行軍を再開する。

 

そのまま、ロム爺が連れていかれる。

巨人族の大きな体を小さく丸めて、痛めつけられ血のにじんだ顔を背けて、ロム爺はスバルの前から引き離され、スバルは最後の機会を素通りする。

 

「スバル殿、行きましょう。あとのことは団長が判断してくださいます」

 

静かな、しかし義憤を隠せずにいる騎士の声がかけられる。

彼はスバルが黙り込んでいる理由を、ロム爺からの謂れのない罵倒が原因だと思っているのだろう。それは事実の一端を掴んではいたが、本質的な意味ではまったく違う。だがそれを説明することは、ロム爺の心意気に水を差すことになる。

 

――それは言い訳でしかない。

 

ロム爺の配慮を慮る?このまま放置しておけば、ロム爺を待つのは広間の騎士団による糾弾と弾劾――その上で、どんな処罰が下されるかわかりはしない。

少なくともこの場でスバルがロム爺の罪過について言及すれば、少なからず王選関係者としての立場を流用することはできたはずだ。

 

「巻き添えになっただけ、か……」

 

ロム爺の思惑に乗らなければ、しどろもどろになったスバルにも嫌疑がかかったことは間違いない。その後の抗弁でロム爺を解放に導けるほど話術に長けていれば、極端な話、広間から退室するような目にも遭わずに済んだだろう。

それすらも、言い訳に過ぎなかった。

 

「俺は……」

 

またしても、必要とされなかったのだ。

エミリアに拒絶され、ロム爺にも拒絶され、伸ばした手は行く先を見失い、

 

「俺はどうして、こんなところに……」

 

連れていかれた先で、ロム爺はどうなってしまうのだろうか。

首を横に振り、スバルは嫌な想像を振り払う。広間にいる面子の顔を思い浮かべて、少なくともこの場でスバルが騒ぎ立てるよりはマシな状況になる、と自分を慰めるように言い訳を積み上げていた。

 

あの場にいる人間で、ロム爺の顔を知る人物は三人。それも全員が王選の主役である候補者たちだ。その内のひとりにとって、ロム爺という人物がどれだけ大事な人物なのかをスバルは知っている。だから、悪いようにはきっとならない。

 

きっとならない。ならない、だから。

 

「俺はなんのために……俺は」

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

ざわめきが王座の間に広がり、押し開かれた大扉の向こうからひとりの老人が姿を現す。手枷のはまった老人を先導するのは、一度外に連れ出された騎士団長であるマーコスであった。

 

王選の最中、ひとりの騎士が団長のマーコスを呼びに入ってきたのは数分前だ。

指示を仰ぎたいと申し出る部下に対し、マーコスは賢人たちの前であるのを理由に難しい顔をしたが、部下の急いた様子を前に断りを入れて退室した。

そして議事の進行を止めて待たせること五分――今の状況が生まれていた。

 

「ふぅむ、そちらの御仁はどなたですかな?」

 

マーコスが引き連れる老人を目にして、壇上のマイクロトフが疑問の声を投げかける。それはこの場にいた全員の気持ちの代弁であり、全員がその人物を連れてきたマーコスの意図を測りかねていた。

そんな困惑雑じりの視線を一身に浴びながら、マーコスは恭しく一礼してみせ、

 

「お騒がせして申し訳ありません。この者、どうも王城への侵入を試みた不逞の輩のようなのですが」

 

「そんな者をどうしてこの場に連れてきた。無関係……いや、場違いであろう」

 

マーコスの説明に不愉快そうな表情を隠さないのは厳つい老人――ボルドーだ。この場にいる他の面々もおおよそは同意見らしく、マーコスの行動の真意が読めずに皆がその表情を曇らせている。

そんな中、マーコスの意図はわからないまでも、周囲の人々とは違う表情、驚きを得ているものが三名いた。

 

ひとりは傲慢な少女だ。

老人の顔に見覚えがあることに気付いた少女は、しかしその老人と己が知己である事実を従者にすら告げず、その場の状況を口の端を酷薄に歪めて見つめている。

スバルがこの場に参じていれば、彼女の動向もまた変わったかもしれない。が、彼女と老人の接点を知る唯一の人物が退室している今、彼女の心を動かすほどの理由はこの場には依然存在しない。

 

ひとりは懸命な少女だ。

一度、思い出すのに時間をかけた少女は、その老人の素姓に気付くと素早く視線を別の方向――ひとりの候補者の方へと走らせた。彼女の知る限り、その人物と候補者の間には切っても切れない関係性があったはずだからだ。

城に侵入を試みたと聞いて、彼女はすぐに老人の思惑にその候補者が関係していることに気付いた。その上でどう行動すべきか、迷うように唇を震わせる。

もしもなにか起きたとしても、即座に動き出せるように意識を高めながら。

 

そして、この場にもっとも見合わぬ評価を受けていた少女は。

 

「――ロム爺?」

 

目を見開き、金色の髪を揺らして、少女は驚きに瞳を揺らして老人を見ていた。

そこには望外の喜びが、理解不能の驚愕が、様々な感情がない交ぜになり、言葉にできないものが渦巻いているのがうかがえた。

老人の名を呼ぶ彼女の声は口の中だけで呟かれたものだったが、それを耳ざとく聞きつけたものは少なからずいた。

 

「――フェルト様、このご老人とお知り合いですか?」

 

確信を臭わせる口ぶりで切り出したマーコスも、その内のひとりだった。

彼の問いかけにフェルトは一度口を閉ざし、それから威勢よく前に出て、

 

「白々しいんだよ、アンタ。それを知ってっから、こんなとこまで連れてきたんだろーが」

 

「……鵜呑みにしたわけではありませんが、こちらの老人があなたの名前を口にしておりましたので。試すような物言いになったことは謝罪いたします」

 

「くだらねーっての。けど、ふざけた真似しやがって」

 

表情を変えないまま頭を下げるマーコスに、フェルトは苛立ちを隠さず吐き捨てる。それから彼女は拘束されているロム爺を見やり、

 

「お互い、変なとこで顔合わせちまったな、ロム爺」

 

口の利き方は相変わらず蓮っ葉なものであったが、そこに込められた親愛の情はその場の全員が感じ取ることができただろう。これまでこの広間において悪態しかついてこなかった少女が、初めて親しみを込めてそう口にしたのだ。

それを受け、拘束される老人が顔を上げる。二人にとっては実に十日以上の期間を空けての再会だ。さぞ、そこには万感の思いがあるはずの対面。

だが、

 

「おい、ロム爺、その面はどうした?」

 

殴られ、血の跡のにじむ顔を持ち上げた老人の顔を見て、少女の顔つきがさっと変わる。勝気なつり目がちの瞳を怒りに鋭くし、彼女が睨むのはロム爺の手枷に繋がる鎖を握るマーコスだ。

その怒気の込められた視線を受け、しかしマーコスは表情を変えないまま、

 

「城への侵入を試みた際、制止した兵士ともみ合いになった結果でしょう。部下たちは職務を果たしただけで、非難されるいわれはありませぬ」

 

「はっ、ご立派なことを言ってくださるな、騎士団長様は。アタシの方からなにか言う前に言い訳するってことは、ヤバいって思ってるって証拠じゃねーのか?」

 

「部下が無用な非難を受ける可能性がありましたので、小心なこの身をお笑いください。そして、誹るのであれば自分だけにしていただきたい」

 

役者と場数が違うというべきか、挑発するフェルトにマーコスは揺るがない。その態度にフェルトはそれ以上の口論は無駄だと悟ったのか、ため息ひとつで憤慨を棚上げにすると、

 

「もういい、わかった。とにかく、ロム爺を離せよ。別になにか物を盗んだりとか、誰か殺したりとかしたわけじゃねーんだろ」

 

話はそれからだ、とばかりに手を振り、フェルトはマーコスにそう命令する。

とにかくはロム爺と言葉を交わし、事態の収拾を図りたい。フェルトの言葉にはそんな意図が含まれていた。だが、それに対するマーコスの答えは、

 

「――残念ながら、従いかねます」

 

低く固い声音で、はっきりとその命令を拒否するというものだった。

 

「――あ?」

 

その答えにフェルトの表情がひきつり、その額に青筋が浮かぶ。赤い双眸は驚きと、直後に憤怒の感情に彩られ、震える唇から炎となって噴き出すのも時間の問題だ。

そんな少女の怒気を孕んだ視線にも、マーコスは動じることがない。その頑なな姿勢にフェルトが怒声を張り上げるより先に、騎士団の列に控えていた赤毛の青年が前に足を踏み出し、

 

「団長、それは少々言葉が足りないかと……」

 

「ラインハルト、お前は黙っていろ。剣を捧げると定めた主の意思に反する私に、お前が言いたいことがあるのはわかる。だが、それはお前の主と目した相手が剣を受け取る意思があって初めて成立するものだ」

 

「――――」

 

とりなすようなラインハルトの忠言は、しかしこれもマーコスの言葉によって撃ち落とされる。団長であるマーコスの言い分は正論であり、ラインハルトも無闇な抗弁をすることはできず、ただ黙ってフェルトの様子をうかがうばかりだ。

 

そうして丸め込まれてしまうラインハルトに失望するでもなく、怒りに打ち震えるフェルトの目には今のやり取りは入っていない。

彼女の怒りはただただ一心にマーコスへと向けられており、そこには今の自分とのやり取りだけでなく、この場に連れてこられるまでの紆余曲折の間にあった様々な鬱屈をまとめて煮詰めたような、濃厚な怒りの色があった。

 

「もういっぺん言うぞ、ロム爺を離せ。話はそっからだ」

 

「お断りします」

 

枷を外して噴出しそうな怒りを押さえながら、フェルトは静かに言葉を作る。

が、簡潔に応じるマーコスはその彼女の気概に欠片も気を払っていない。

いよいよ広間全体に不穏の空気が広がり始め、フェルトの方の堪忍袋にも限界が訪れかけていた。

 

「――騎士マーコス、少々不敬がすぎますな」

 

その拮抗した事態に割り込んだのは、やはりこの場でもっとも事態の収拾に長けた権力を持つ人物であり、本日幾度目になるか知れない吐息をこぼす老人。

マイクロトフは王候補者であるフェルトに対して、無礼打ちすら視野に入れねばならないほど強硬な態度をとるマーコスをたしなめ、

 

「城への侵入を試みた人物――その解放は少々、命令として問題のあるものではありますが、拒否するにしてもその物言いは無礼でありましょう。少なくとも、御身にはその不躾な態度の釈明をする義務がありますな」

 

「御意に」

 

それまでの頑なな態度が一転、マイクロトフの指示にはあっさり従うマーコス。その変わり身の早さがさらにフェルトの癇癪に一撃加えていたが、そんな彼女の激情は真っ直ぐにマーコスがその瞳を見つめてきたことで勢いを失う。

フェルトの赤い双眸が憤怒の炎にたぎっていたとすれば、マーコスの瞳に広がるのは波ひとつ立たない澄んだ湖面の静謐さだ。

まさしく冷や水を浴びせかけられたような心境のフェルトに、マーコスは「失礼ながら」と前置きした上で、

 

「この王選の議事進行の過程において、フェルト様は自らが王選に参加される意思がないことを公言されております。その資格を放棄なされるということは、この場で我ら騎士団に対して命令する権利をも放棄されるということ」

 

朗々とした声で、マーコスは自身が彼女の命に従わない理由を口にする。

暴論、といえばそれまでだが、これまでのフェルトの態度がこの場に集まる文官や騎士たち、また賢人会の顔ぶれにも好印象を与えていなかったことがここで仇になり始める。自然、マーコスの弁に頷くものが多く、そこに賛同を示したためだ。

 

「団長、それはあまりに極論が過ぎます。第一、資格のあるなしに関わらず、フェルト様はこの国の王家の血筋に当たる可能性が……」

 

「可能性は可能性の話だ。らしくない理想論を語るのはやめろ。明確でない資格はここで意味を持たず、明確な方の理由を放棄されるのはご本人の意思だ」

 

ラインハルトの言葉にも耳を貸さず、マーコスは「ご理解いただけましたか」とフェルトの様子をうかがうように視線を送る。

それを受け、これまで沈黙を守っていたフェルトは顔を俯かせ、己の金色の髪の中に手を差し込んで乱暴に掻きむしった。そのまま彼女は苛立たしげに、あるいは鬱憤を晴らすように「あー」やら「うー」やらと呻き声を上げ、

 

「話がややこしいから簡単にまとめると、だ。――アンタはつまり、王選のやる気がねーアタシの言うことなんて聞かないってわけだな?」

 

「――話の根幹としてはそれで正しいかと」

 

「おうおう、初めて話が通じたな。あー、なるほどな。わかったわかった。あー、はいはい。なるほどなるほど……ムカつくな、アンタ」

 

質問内容を肯定したマーコスを、フェルトの瞳孔が細まる猫の目が睨みつけた。

殺気に近い敵意を孕んだ視線の風は、しかしマーコスの巌の表情にそよ風ほどの影響も及ぼすことはできない。

歴戦の勇士と、貧民街でもまれて育っただけの不良少女。役者不足も甚だしい対峙ではあったが、フェルトの方はそれで怯むほど可愛い性格ではない。

 

理由はわかった。そして条件もわかった。

苛立ちは加速度的に積み重なり、爆発する場所を求めて体内を荒れ狂っている。

そのまま売り言葉に買い言葉で、目の前の男の鼻を明かしてやるのも悪くない。

 

そんな短慮が爆発し、フェルトが勢いに身を任せてしまおうとした瞬間――、

 

「そんな話なんぞどうでもいいじゃろうが!――早く儂を助けてくれ!!」

 

これまで沈黙を守り続けていた老人の、悲痛に裏返った叫びが広間に響いていた。

 

その叫びには怒りを噴出しかけていたフェルトも、絶叫の張本人の傍らに立っていたマーコスも、広間にいた他の誰もが即座に反応することができなかった。

そして当人はそんな周囲の反応を気にした様子もなく、

 

「フェルト、儂じゃ!貧民街で一緒にやってきた、クロムウェルじゃ!よくわからんが、今のお前さんならどうにかできそうなんじゃろ?儂を助けてくれ!」

 

絨毯の敷かれた床に膝をつき、老人は媚びた笑みを顔に張り付けて懇願する。もしも拘束されていなければ、そのまま少女の足にすり寄っていきそうな勢いだ。

その醜態に近い素振りにさしものフェルトも言葉を失い、絶句して知人の変貌を見ている。自然と、周囲の視線も惨めな老人の姿に嫌悪感が沸き立つのがわかった。

 

「色々とやってきた、儂とお前さんの仲じゃろう!?なにもわからずにいた幼いお前に、生きていく術を仕込んでやったのは誰じゃ?儂じゃろう?その恩人がこんな目に遭っておるんじゃぞ、どうにかせんか!」

 

唾を飛ばし、己の罪を棚に上げて、早く助けろと喚き立てる。

同情心や憐憫といった感情をそこに抱けるのは、よほど慈悲深い存在だけだ。常人には嫌悪感しか覚えられない、都合のいい発言の数々。

ほんのささやかな時間の中で、老人は場内の大半の人間を敵に回したといっていい。

 

誰もが、そんな身勝手な振舞いに言葉を見失っていた。

その中でただひとり、それらの感慨と無関係に言葉を作った人物がひとり。

 

「――これは、まずいことになるかもしれないな」

 

赤毛を揺らす青年だけが、無様な叫びを耳にしながら、己の胸に込み上げてくる焦燥感に対して、小さく喉を鳴らしていたのだった。