『怠惰一閃』


 

「魔女教の中でも特に有名なのは『怠惰』と『強欲』の二人だろうね」

 

地竜で隣り合って走りながら、ユリウスがスバルにそう言った。

スバルの方はわりとパトラッシュに懸命に跨っているのだが、騎乗に慣れたユリウスは颯爽としたものだ。俯瞰して自分が惨めに思えるので並ばれたくないのだが、ユリウスはそんなスバルの葛藤を知ってか知らずか、

 

「大罪司教の名前は知れているけれど、実際に彼らの活動資料で名前が上がるのはその二つだ。頻度は怠惰の方が多いが、被害の大きさは強欲の方が上だね」

 

「碌なもんじゃなさそうだけど……どれぐらい知れ渡ってんだ?」

 

「それほど、詳細が知れているわけではないよ」

 

渋々と話に応じるスバルに、ユリウスは揺れる前髪を撫でつけて流し目を向けてくる。彼は強張る形相で揺れに耐えるスバルを見下ろし、

 

「話の続きをしても大丈夫かな?」

 

「気遣われる理由がねぇよ。俺の地元じゃこうやって地竜は乗り回すんだ。なぁ、パトラ……てめぇ、揺らすんじゃねぇよ!トカゲ野郎!」

 

「地竜との信頼関係が足りていないのではないかな。地竜は君の足であるが、所有物ではない。信頼を預け、風を任せなければ息を合わせることは……」

 

「御託いいんだよ。それよりさっきの話、続き、聞かせろ」

 

いちいち上からのユリウスに舌を出して、パトラッシュに呼吸を合わせる努力をしながらスバルは話の続きを促す。そんなスバルの素直でない態度にユリウスは一度深い息を吐き、それから立てた指を左右に振ると、

 

「大罪司教『怠惰』は、魔女教が活動する場面での参戦率が非常に高い。およそ、魔女教が各地でもたらす被害の半分以上に『怠惰』の名前が関与している」

 

「でしゃばり野郎ってことか」

 

「一番槍を務めることに、並々ならぬ執着心があるのだと推測されている。『怠惰』を名乗るわりにはずいぶんと、勤勉な働き者であるのだね。――その活力の向かう先が異端の所業でなければ、といったところではあるが」

 

ペテルギウスがひたすらに、自身に勤勉であることを、他者にもまたそう努力することを強いていた姿を思い出す。

『怠惰』を担当してこそいたが、奴自身は正しい意味での『怠惰』を嫌悪しているようですらあった。その反骨心の表れこそが、魔女教における異常なまでの『怠惰』の活動頻度ということになるのだろうか。

 

「でも、そんだけ頻繁に顔出してきてやがるのに、詳細わからねぇのかよ。騎士団で追い詰めたりとか、そういうことってなかったのか」

 

「基本的に、魔女教の活動は兆しすら感じ取ることはできない。起きた被害の現場にあって初めて、それが魔女教の行いだったと知れる、そういう輩の集まりだ。居合わせて命を繋ぐことすら、簡単な話じゃない」

 

「ですが、今回はそうはなりませぬ」

 

スバルの問いかけに悔しげなユリウス。が、その優男の答えを力強く否定したのは、ユリウスとは反対側からスバルを挟む別の騎乗者――ヴィルヘルムだ。

老人はその瞳に静かな戦意をたたえたまま、腰の宝剣の鞘を滑らせ、

 

「出かかりが押さえられるのであれば、それは正しく地力の争いになりましょう。私や隊の残り、リカード殿にユリウス殿が加われば、それに劣るとは思いません」

 

「そう、だな。俺もそう思う」

 

彼我の戦力差を冷静に分析して、スバルはヴィルヘルムに肯定の返事をする。

純粋な戦力を比較するのであれば、ペテルギウス率いる魔女教の戦闘力は数で勝るこちらと渡り合うことはできないはずだ。付け加えて、ペテルギウス自身の戦闘力はそれほど高いわけではない。

懐に飛び込みさえすれば、素人のスバルの攻撃すらかわすことができないのだ。飛び込んだのがヴィルヘルムであれば、一瞬で首すら飛ばすことも可能だろう。

 

――奴の攻略において、もっとも問題となるのはやはり『見えざる手』なのだ。

黒い靄のようなどこまでも伸びる掌を、掻い潜って奴に接近できるかどうか。それが明暗を分けるといっても過言ではない。そして、あの『見えざる手』に対抗できるのはスバルだけなのだから。

 

「それ込みでの作戦だ。当てにしてるぜ、ヴィルヘルムさん」

 

「御意に」

 

厳かに顎を引き、短く応じるヴィルヘルムからは頼もしさしか漂ってこない。

思わず自分の全てを預けてしまいたくなる衝動に駆られるスバルの隣、ユリウスは「その通りですね」と何度か頷き、

 

「私も、現実、剣を交える段階に持ち込めるのであれば負ける気などありません。これまではその機会を逸し続けて悔しい思いをしてきましたが……今回は、そうはならないことでしょう」

 

ふつふつと、静かな怒りを双眸に宿すユリウス。

彼もまた、近衛騎士団に所属する身として、これまでのらりくらりと拿捕の機会を逃れ続けてきた魔女教に、穏やかならぬ感情を抱いていたのだろう。

それに関しては、スバルもまったく同意見であった。

 

「ちなみに怠惰トークが盛り上がったけど、もう片方の有名な『強欲』ってのは?」

 

「強欲は怠惰と違って、それほど報告例があるわけではない。なのだが、名前が残った事件の被害が大きすぎた」

 

「でかすぎる被害……?」

 

ぴんとこないスバルの言葉に、ユリウスは真剣味を横顔に風を浴び、考え込むように瞳を閉じると、

 

「王国の南にあるヴォラキア帝国。その堅固さから城塞都市と呼ばれたガークラという都市を、攻め落としたんだよ。――たったひとりで」

 

「落とした!?都市を?ひとりで!?」

 

「兵は常に精強たれ――その精神が国土に息づき、あの国は一兵卒ですら修羅のひとりです。そんな兵たちが守る城塞都市を、『強欲』を名乗る大罪司教はひとりで攻め落とした。ヴォラキアの英雄、『八つ腕のクルガン』すらも打ち倒して」

 

驚愕に口が開きっ放しのスバルに、追い打ちをかけるようにヴィルヘルムが続ける。彼は強欲の手で倒されたとされる英雄の名前を口にして、ふと白くなった眉を寄せると郷愁のような感情を瞳に浮かべた。

その色に気付いたスバルが口をつぐむと、その反応を横目にして老剣士は小さく首を横に振り、

 

「クルガンとは幾度か剣を交えた関係でして。――あれは良い使い手でした。八つある腕の六本まで切り落とし、代わりに腹を串刺しにされた。互いに瀕死で痛み分けとして、決着はつかず終いになりましたな」

 

「さらっと壮絶な昔話が出た――!」

 

剣鬼の現役時代のエピソードは、正直いってかなりラノベ的で心が落ち着かない。詳しくそのあたりを掘り下げたい気持ちもあったが、その好敵手が討たれた事実を語るヴィルヘルムにそれをする無神経さはさすがのスバルにもなかった。

とはいえ、『強欲』の話は純粋にスバルにとっても気が重い話で。

 

「怠惰に強欲。おまけにあと四つ……いや、暴食抜いて三つか。前途多難だ」

 

「――すでに先を見据えておられるのですな」

 

「嫌々だけどさぁ、可能性はだいぶ高いような気がして」

 

魔女教と事を構える場面を目前にして、スバルは未来を見据えて遠い目をする。

『怠惰』のペテルギウスとの決戦は、向こうがちょっかいを出してくることも含めて回避できない事態だ。そして、ペテルギウスと雌雄を決するということは、魔女教との決定的な対立を意味するわけで。

 

「必然的に、次の大罪なんとやらとぶつかる局面もくるだろうよ。……腹の立つ逆恨み展開だけど、ひとり倒したらダチ連れて違うのがくるのは不良漫画のお約束パターンだしなぁ」

 

ぶつかり合って、決着をつけてはい終わり、とならないのが現実の問題だ。

どちらかが壊滅状態になるまで終わらないというのなら、スバルがエミリアの傍で前を向こうと思い続ける限り、大罪司教と相対する機会はやってくるのだろう。

 

「もうすでに、強欲の話聞いてぽんぽん痛いけどな。助けてくれ」

 

「まだきていない先の話で、そこまで消沈されると言葉にしづらいね。――スバル、今は目の前のことに集中すべきだ」

 

「わぁーってるよ。怠惰が目前で、ちょっぴりナーバスになってるだけだ」

 

たしなめるユリウスの言葉に顎を引き、スバルは気を引き締め直す。

その直前、ユリウスが小さく「怠惰……?」と口にしたのが聞こえたが、大したことではないとスバルはそれを切って捨てた。

 

夜が白み始め、暗がりの空の向こうからわずかに陽光が昇り始めている。

目指すメイザース領にはすでに足を踏み入れており、討伐隊と獣人傭兵団を合併した対魔女教連合は意気高く騎獣を走らせていた。

 

進路の先にあるのは領主であるロズワールの屋敷――ではない。

真っ直ぐにロズワール邸へ向かい、村の人間と屋敷に残るエミリアたちを全員で護衛に当たる、というのもひとつの作戦としてスバルは考えていた。

おそらくは彼女らを守り通すという意味で、そちらの方がリスクを低く取れるだろうという打算もできないわけではない。だが、

 

「絶対にくるってわかってるのは俺だけで、そのタイミングも俺らが護衛に入ったらずれちまう。そうなったらもう、未来はわからない」

 

武装した集団が屋敷に入れば、さしものペテルギウスも方針を見直すかもしれない。あの狂信者ならばそれすらも呑み込んで、無理を通すような気はするが、それすらもすでにスバルの知る未来の形とは違ってしまう。

白鯨を下し、今この連合の士気は非常に高い状態にある。だが、その士気もいつくるかわからない敵を前に、どれだけ維持できるかは難しいところだ。

敵対者に怯え続けて士気が弱り、そして守られ続けるエミリアや村の人間たちにも相応の負担を強いることになる。確実とは、言えなくなる。

 

「なら、俺の知ってる未来に沿った形でうまくやる方法はひとつ――先制攻撃で一気に持っていく、のみ!」

 

いつくるのかわからない相手に怯えるのなど、未来を見てきたスバルの取るべき手段ではない。本来ならばあるべきではない死に戻りで得たチャンスを、最大限に活かす道を探るべきなのだから。

ならばその方法は、可能性は――。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

落ちた草葉の感触を足裏に感じながら、スバルはゆっくりと歩を進める。

 

足場の悪い地面を踏み、スバルが踏破するのは薄暗い森の中だ。

日差しはすでに高い位置まで上り詰めていて、捧ぐ太陽光が木々の隙間から差し込んできている。吹き抜ける風は湿り気を帯びていて、早まる心臓の鼓動を意識するスバルに、額に浮かぶ汗の冷たさを実感させた。

 

――今、スバルはひとりきりだった。

 

風の冷たい森の中を孤立して歩くスバルは、街道を一緒に駆け抜けたパトラッシュすら連れていない。手の中は空で、億劫そうに肩を揺らして歩く姿はいかにも頼りがなかった。

 

「――パトラッシュは置いてきた。この戦いにはついてこれそうにないからな」

 

小さく笑い、そうこぼすスバルはわずかに息を切らしている。

もう、けっこうな距離をこうしてひとりきりで歩いていた。細い木々の間を抜け、落ちた枝を踏み折って鳴らし、滑る坂道を転ばないように注意して下る。道ならぬ道は獣道と呼ぶのも躊躇われ、ひたすら純粋にスバルの道行を邪魔してみせた。

 

こうしてこの森を歩くのは、これで三度目になるだろうか。

一度目も二度目も、腕の中に誰かを抱えていたことを思えば、今の自分はそれよりずっと身軽なはずだった。なのに、あのときよりもずっと今の方が足取りが重く感じられるのは、向けた足の先に対する気持ちの問題だろうか。あるいは腕の中にいた誰かが、スバルに疲労を忘れさせるような相手だったからか。

 

「どっちも、だろうけど……自慢にゃならねぇな」

 

一度目も二度目も、腕の中にいた誰かを守れなかったからの結果だ。

そして三度目である今が手ぶらで済んでいるのであれば、それ以上の繰り返しは絶対に避けなくてはならない。そのためにこその、今なのだから。

 

「――――」

 

毒々しい色のキノコを踏まないように避け、手近な木の幹を支えに小さく跳躍して、着地した途端、空気が変わったのを肌で感じた。

白鯨との戦いを前に、緊迫感が張り詰めた肌を弾くような感覚とは違う。今の空気は弾くではなく、へばりつくような薄暗さを伴っていて、スバルはつい今まで意識していなかった全身の汗の感覚を否応なく思わされる。

 

「きたな。……こう、静かな部屋の隅で、ふとゴキブリの存在に気付いたみたいな感覚が」

 

動かない黒い物体Xと無言で睨み合い。いつ終わるともしれない孤独な争いの果てに、人はまるで時間が引き延ばされているような永遠感を覚えるものだが。

そのときのものに近い、端的に嫌な感覚が全身を這いずり回っている。

ふと目を凝らせば、右も左も似たような森の風景――そこに、いつか見たことがあったような不可思議な既知感に気付くことができた。

否、本当に、知っている景色に出くわしたのだ。

 

「こんだけ道でもない道を歩いて毎回辿り着けんだから、俺の方向感覚というか勘というか、研ぎ澄まされ過ぎてて軽く笑えるな」

 

あるいは、鼻が利くようになっているというべきか。

魔女教専用に鍛え上げられた猟犬――そう呼べば格好もつくのだろうが、できれば辞退したい類の役回りである。今回だけで、返上したい。

 

「――お出迎え、ご苦労さん」

 

正面の薄闇に目を凝らし、スバルはそう労いを口にする。

そこに額面通りの親しみなど欠片も込められていないが、声を投げかけられたものたちがそんなことを気にするような人間味を持ち合わせていないことなど承知の上だ。今さらになって思うが、彼らはいったいなんなのだろうか。

まるで意思のない操り人形のように、言葉も主張もなしに蠢き続ける、その本意はどこにあるのだろうか。

 

「そのあたり、聞いても答えてくれねぇんだろうな、魔女教徒」

 

「――――」

 

ざっと、スバルを取り囲んだのは闇に同化する黒装束を身にまとった男たちだ。

世界からはいつの間にか風の音が、虫の鳴き声が消失しており、彼らが登場する際の土壌はすでに万端に整えられていた。よって、その遭遇には驚きはほとんどない。あるのは場違いではあるが、狙い通りに顔を出した彼らへの安堵のみ。

 

「詳しい話はお前らの頭に聞くからいいとして……とりあえず、失せてろ」

 

「――――」

 

「よくはわからねぇけど、序列的には俺が上なんだろ?頼むぜ」

 

手を上げて、どこかへ行くように彼らへ指示。

すると、黒装束たちはスバルへ敬意を示すように頭を下げ、その姿勢のまま滑るように再び闇の中へ溶けていく。これも、想定した通りの反応だ。

いささか複雑ではあるが、彼らはスバルに対して敵意を抱いてはいない。こちらから害意を示さない限り、あるいはペテルギウスの指示がない限り、向こう側から襲いかかってくる心配は必要ない。

 

「これでどっか別の国まで引っ込んで、二度と顔を見せるなって命令まで聞いてくれるなら楽ちんなんだけどな」

 

息を吐き、そこまで都合良くは運ばないだろうとスバルは肩を落とす。

ペテルギウスのような指示系統の存在がいなければ、それが通る可能性がゼロとはいえないのが実態の見えない奴らの底知れなさだが、現状での彼らの優先度でスバルの位置はペテルギウスの下だろう。依然、目の上のたんこぶで奴はあり続ける。

ともあれ、素直に連中が撤退してくれたことは朗報といえた。仕込みは上々――場合によっては布石が破綻し、戦端がこの場で開かれていた可能性もあった。今の接触も余裕を装ってはいたが、かなりギリギリのラインだったといえる。

そんな場面でも怖じず踏み込める程度には図太くなったものだ、と小胆だった自分の変わりようが少しばかり可笑しい。覚悟が決まったというより、やけくそに近いものだと自己分析しているが。

 

「まぁ、悪い流れじゃないだろうよ。もうちっと、頼むぜ、俺のレバー」

 

姿を消した黒装束たちを確認して、それからスバルは改めて土を踏む。

自身の息遣いと足音だけが支配する世界を進んでいると、まるで時間が止まり、延々と終わらない闇の中を孤独に歩いているような錯覚すら覚える。だが、そんな感慨はわりとすぐに、木々が開けて断崖絶壁が覗くことで終わりを告げた。

 

高く切り立った岩壁が正面に広がり、森が巨大な爪痕でも刻まれたかのように途切れている。大岩が崖のすぐ下の地面を塞ぎ、いかなる原理かそれにスバルが触れれば隠された洞穴への道がこの身を冷たく暗い壁の中へ誘う。

だが、岩に触れるより前に、スバルを出迎える影がこちらを見る方が早い。

 

「――お待ちして、おりましたデス。寵愛の信徒よ」

 

両手を広げて、その表情に歓喜を浮かべる男がいる。

こけた頬に落ちくぼんだ瞳。深緑の髪は不健康的な色艶をしており、黒の法衣の下から覗く手足は枯れ木のようにか細く弱い。歳の頃は三十代半ばといった風情に見えるが、全体的に虚弱さが伝わってくる姿は五十代と言われても驚きではない。

ただ、変わらずこちらを見つめてくるぎらついた双眸の輝きだけが、狂気的な光を灯してスバルを舐め尽くすように注ぎ込まれていた。

 

「私は魔女教、大罪司教『怠惰』担当。ペテルギウス・ロマネコンティ……デス!」

 

伸ばした舌の先から涎を垂らし、狂人――ペテルギウスがケタケタと笑って、スバルを出迎えていた。

 

※ ※※※※※※※※※※※※

 

仇敵であるペテルギウスを前にして、スバルは自分がひどく落ち着いている事実を実感していた。

 

おそらくは自分の短い人生の中で、この男ほど憎悪した相手は存在しないだろう。

この男を殺すことだけを考え、目の前が真っ赤に染まり、思考が殺意で焼き尽くされるほどに憎み続けた。

大事な人間を、親しく接した人々を、容赦なく無残に殺害せしめる最悪の災厄。

必ず、その首をこの手でへし折ってやるのだと息巻いていたはずだったのに、その枯れ木のような凶相を前に、今のスバルが抱いたのは幾許かの安堵。

 

――それは先頃、魔女教徒と無事に接触できたときのものと同じ類のもので。

 

「歓迎いたしマスよ、魔女に愛されし愛し子!素晴らしい。素晴らしい。素晴らしぃぃぃぃぃぃぃっ!その身にまとう愛のなんと深きことか!その身を包む愛のなんと高きことか!その身を抱く愛のなんと熱きことか!この場において!アナタのような、ような、うなうなうなうなななな!寵愛の信徒が新たに顔を見せるとは!なんと、いと素晴らしきことか!」

 

そんな感慨を得るスバルの前で、ペテルギウスのギアはすでにトップに入っている。頭を振り乱し、骨の浮いた手の甲を掻き毟り、自傷で盛大に血をこぼすペテルギウスは歓喜の激情を抑え切れないでいる。

一度目は恐怖で、二度目は敵意で、見届けたそれは三度目になって、ようやく嫌悪という当たり前の感情へと至った。ペテルギウスの生き様に、スバルが抱くのは理解できない存在に対する未知なる嫌悪感だけだ。

 

頬が思わずひきつりそうになる感覚を堪えながら、スバルはペテルギウスの前で深く息をつく。気を落ち着け、軽く手を掲げると、

 

「大歓迎してもらって恐縮だよ。イマイチ、実感に欠けるとこなんだが」

 

「無理もないことデス!ワタシも始まりは突然だったのデス。誰しも、ある日を境に自分が『愛されている』ことに気付く。そして、一度気付いてしまえばもうその愛を手放すことなどできはしない。――愛こそ、全てなのデスから!」

 

話の取っ掛かりを掴もうと話題を振ったスバルに、ペテルギウスが嬉々として乗ってくる。彼は差し出した両手を、血の滴る両手を震わせながら広げ、他者の命を易々と踏み躙る自身を顧みず、愛を謳ってみせる。ひどく、歪な愛情を。

 

「愛に!与えられた愛に対し!ワタシは、我々は、勤勉をもって応えなくてはならないのデス!故に試練、試練を与える。試練をぶつける。この世界、この時代、この日々に、この時間に、この一瞬に、この刹那に、ワタシが魔女の寵愛を受けたことに意味を見出すために、愛に愛に愛に愛に愛に愛に愛に愛に愛に愛にににににににににににぃいぃぃ!!」

 

「怠惰じゃ、いけねぇんだな。愛に誠実に報いるために、勤勉でなきゃ」

 

「その、通り――デス!!」

 

発言への理解を示したことに、これ以上ないほどにペテルギウスが喜びを表情へたたえて振り仰ぐ。

狂人の意見に賛同も、理解もしたくないのだが、スバルは湧き上がる嫌悪感をなおも噛み殺して向かい合い続ける。時間と、少しでもなにかを得るために。

 

「あー、えっと、俺はこの場でそちらに合流……でいいのかな。なんか手続きとか、印鑑とか押さなきゃいけない書類とかある?実印ないから拇印でいい?」

 

「この場でワタシの傘下に加わるには、アナタの身に与えられた寵愛は色濃く出過ぎている気がしマスがぁ……これだけ芳醇な魔女の香りはワタシにすら与えられていないのデス。『色欲』や『憤怒』あたりならばさぞや羨むでしょうが……ひょっとして、アナタは『傲慢』ではありませんデスかね!?」

 

「傲慢……?」

 

「大罪司教の六つの席の内、『傲慢』のみがいまだ空席なのデスよ!相応しきものが現れるまで、大罪は揃うことがなかったのデスが……魔女因子はすでに次代の傲慢の下へ至っているはずなのデス。――アナタ、『福音』は受け取っていマスかね?」

 

一歩、ペテルギウスがスバルの方へ距離を詰め、その首を九十度傾けて問う。

その問いかけの求める先が、スバルには困惑しか返すことができない。『傲慢』ではないのか、との問いかけに対し、スバルは答えを持っていない。かといって彼が語る『福音』とやらがなんであるのかも、理解の及ばない領域だ。

下手な答えを返せず、さりとて無言で場を流すことも許されず、押し黙ってしまったスバルをペテルギウスが怪訝に眉を寄せて、

 

「――脳が、震、える」

 

小さく、掠れた声でペテルギウスがそう呟く。

だが、そのか細い声からは震えが、先ほどまでの歓喜の激情の一切が消失し、残されているのは聞くものに不安と怖気を催させる空虚さの極み。

向かい合うだけで不安感が掻き毟るように巻き起こり、スバルは自分の呼吸がいつしか速くなっている事実を思い知る。

 

心臓が高く弾み、胸骨を叩くように軋ませて痛みすら感じさせる。

膝下が小刻みに震え出し、まともに立つことさえ意識を払わなければ不安定になりかねない威圧感の風――その中で、ペテルギウスが首を反対に傾けて、持ち上げた右手の指を口の中に差し込み、噛み潰す。

 

「『福音』の提示を。寵愛の、証を――」

 

黒の法衣の内側に左手を入れて、取り出されるのは漆黒の装丁の本だ。

元の世界の辞書程度の大きさのそれを片手で器用に開き、めくられるページにペテルギウスの血走った瞳が走らされる。そして、

 

「ワタシの福音に、アナタの記述はないのデス。さて、アナタはいったい、何故にこの場に現れ、訪れ、どういった意味合いをワタシにもたらすのデスか」

 

「その本のタイトルが『福音』だっつーんなら、アレだ。ちょっと色々とあって、その本は今は手元になくてさ」

 

「色々、デスか?」

 

「ああ。――鍋敷きに使って汚れたから、ばっちくて捨てた」

 

――ここが、分水嶺だ。

 

スバルのふざけた答えを耳に入れた瞬間、ペテルギウスの表情が凶相に変わる。

直後、狂人の影が爆発するように広がり、そこから無数の黒い魔手が空へと伸び上がる。いずれの掌も、人体を易々と引き千切る膂力を備えた悪夢の顕現だ。

それは空高く舞い上がり、首をもたげた蛇のようにスバルを睨みつけると、一気に急加速してこちらを絡め取ろうと飛びかかる。

――直前、

 

「フォロー、ミー!!」

 

ポケットから抜いた掌に、握っていた魔鉱石を天上へ放り投げる。

赤の色に染まるそれは攻撃色でありながら、向かう先はペテルギウスではなく空だ。高く上り、朝焼けの空に投じられた魔石が弾け、光を放つ。

同時、スバルの体は後方へ全力でバックステップ。正面のペテルギウスからわずかでも距離を取り、こちらの四肢をもごうと迫る黒の掌の射程から少しでも離れる。

 

「甘いの、デス!甘い甘い甘い甘いまいまいまいまいまいまいまいいいいいいいいいい!!デス!!」

 

そうして逃走の体勢に入るスバルへ、踏み出すペテルギウスが『見えざる手』を伸ばして襲いかかる。

七本の魔手は上下左右から渦を巻くようにスバルに迫り、魔女の寵愛を無碍にする背信者へ天誅を下さんと息巻く。

だが――、

 

「わ――!」

「は――!!」

 

重なり合う遠吠えが、大気を鳴動させて膨大な破壊を大地に巻き起こす。

岩肌の地面がめくれ上がり、土塊が風に巻かれて噴き上がり、生じた地割れが蜘蛛の巣のような亀裂を大地に生み、断崖絶壁に爪痕を刻みつける。

 

「な――!?」

 

振り返るペテルギウスの眼前、一対の獣人の姉弟の合わせ技が、崖下にうず高く積まれた大岩を中心に爆ぜ砕かせる。――つまり、それは岩の裏に隠されていた魔女教の集会場のひとつを塞ぐ行いでもあり、

 

「生き埋め上等だ。――てめぇらの行いを詫びて苦しめ」

 

中指を立て、歯を剥いて獰猛に口上を叩きつけるスバル。

震えるペテルギウスの目の前で、岩壁は生じた亀裂からの破壊を支え切れず、その大部分を脆くも崩壊させ、その下に押し隠していた魔女教徒たちを丸ごと叩き潰す。

粉塵が上がり、衝撃が足下を地響きとなって伝う中、孤立したペテルギウスが口を大きく開き、その眼に滂沱と涙の滴をたたえて、

 

「なんたる……なんたる、事を……ッ!!」

 

持ち上げた両手で自身の頭を掻き毟り、指を詰めて毛髪を引き抜く。乱暴な所作に千切れる髪、頭皮から血がこぼれ、なおも尽きぬ激情に地団太を踏み、

 

「ワタシの指先を……こうも、無残に、無慈悲に、無秩序に、無作為に、無造作に、無意味に、殺害して殺して滅殺してせしめるとは……ああ、ああ、ああ!脳が!脳が!脳がぁ……震える、えるるるるるるるるぅ」

 

「うひー、なんかおっかないよあのオッサン~」

「魔女教徒は誰彼かまわず、あんなものですよ、お姉ちゃん」

 

子供のように悲嘆に暮れるペテルギウスを見やり、気味悪そうに声をひそめ合う獣人の姉弟――ミミとティビーの二人だ。

気配を消し、スバルの後方から同道していた二人が、スバルの投じた魔鉱石の光を合図に飛び出し、打ち合わせ通りに援軍の道を即座に塞いだのだ。

 

値千金のお手柄を成し遂げた二人を、ペテルギウスがゆっくりと睨みつける。

スバル側からは後ろ向きで見えないその形相になにを見たのか、これまで一度たりともネガティブな感情を覗かせなかったミミが、

 

「うひゃ……」

 

と、小さな声を上げ、竦み上がるようにその肩を震わせて目を見開いた。

隣に立つ弟のティビーも、姉に良く似ていながらも理知的な眼差しに嫌悪と恐怖をない交ぜにし、声も出せずに体を硬直させる。そして、

 

「『怠惰』であれ――」

 

ペテルギウスがそれを口にした瞬間、黒い靄が爆発的に世界に広がる。

視界を覆い尽くすような勢いと速度、抗う手段を用意していなかったスバルは眼前、こちらを押し潰すように迫りくる漆黒に喉を凍りつかせる。

まさか、『見えざる手』以外にこんな隠し種が――。

 

「あ?」

 

間の抜けた声が喉から漏れて、スバルは持ち上げた掌を見て首を傾げる。

こちらの全身に叩きつけられたはずの黒い靄。それはスバルの全身を間違いなく撫でていったはずなのだが、なんの異常も感じられない。

 

「なん、だ?」

 

影響のない手足を確認し、スバルは困惑を口にして目を瞬かせる。だが、そうしてなんら被害のなかったスバルに対し、

 

「――ぁぅ」

 

と、苦しげな声を漏らして、二人の獣人がその場に崩れ落ちた。

ミミとティビーの二人は顔を強張らせ、その顔に多量の汗を流しながら、呼吸すら困難な様子で喘いで口を開閉させている。

今しがたの、ペテルギウスの行いによる被害だ。

 

そして、動きの止まる二人に対し、ペテルギウスの伸び上がっていた影が再び蠢き出し、その黒の魔手が指先を二人に向け――、

 

「――てめぇ、コラァ!シカトこいてんじゃねぇぞ!お前の相手は俺だ!」

 

「……あぁ、そう、デス、ね」

 

地面を踏みつけ、唾を飛ばしてスバルが吠えたける。と、それを聞きつけたペテルギウスが自身の即物的な反応を反省するように振り返り、そのなにも映さない虚ろな眼差しでスバルを見つめる。空虚の瞳が、ぼうとスバルを映し、

 

「やはり、効き目がないのデスね」

 

「はぁ?」

 

ミミたちと違い、今のペテルギウスの宣告の影響がないスバル。

そんなスバルをペテルギウスは一転、激情が過ぎ去った穏やかな表情で見据え、

 

「いいデス。いいのデス。――それで、良いのデス!デスデスデスデスデスデスデスデスデスデェェェェッゥゥゥゥッス!!」

 

頭を前のめりに下げ、跳ね上げるように背をそらし、声高に叫んでケタケタと笑い出す。ひとしきり笑い、ペテルギウスはこれまでにない快活な素振りでスバルを指差し、その先端の潰れた指から血をこぼしながら、

 

「良いデス。わかったのデス!やりましょう、やるとするデス。ワタシとアナタと、どちらが寵愛に、愛に、魔女の情熱を受け入れるに相応しいか、競い合うとしましょう!ああ、愛に、愛に、愛にぃぃぃぃぃ!!」

 

「……盛り上がってるとこ悪いんだけどよ」

 

爪先で地面を叩きながら、スバルは声高に勝負を謳うペテルギウスを見やる。

彼はそんなスバルの、戦意とは程遠い態度に訝しげに目を細めると、

 

「なんデスかね!?今!まさに!ワタシは!自らの命運を賭け、試練に挑まんとするところで――」

 

「お前の相手は、他に任せてある」

 

指を突きつけ、なおも言い募ろうとするペテルギウスに、スバルは酷薄に伝える。

その答えにペテルギウスが目を見開き、疑問の声を投げかけようとした瞬間――、

 

「ぢぁぁぁぁぁぁぁ――ッ!!」

 

木々の隙間を縫って飛びかかり、袈裟切りに落ちる刃がペテルギウスの右肩から侵入――左脇から飛び出し、その体を老剣士の斬撃が斜めに両断していた。