『城郭都市グァラル攻防戦』


 

――目をつむれば、スバルの脳裏に蘇ってくる光景だった。

 

鬱蒼と木々の生い茂る森の中、ぬかるんだ土と物々しい男たちの空気。

それを断ち割るように響き渡った魔獣の咆哮と、戦いの始まりに昂る戦意。そして、それを招いたナツキ・スバルへ向けられる激しい凶気――。

 

それはスバルが自ら、意識して、自覚して、やろうと決めて、やった行為だ。

自分の中に天秤を置いて、大切なモノとそうでないモノとを比べ、実行した。

危害を加えると、そう決意しての行動だった。

 

魔獣との戦いに慣れていないものたちが、魔獣と戦ってどうなるかはわからない。

一瞬で制圧したかもしれないし、深手を負ったものがいた可能性もある。

考えたくないことだが、それだけでは済まず、命を落としたものがいたかもしれない。

 

――否、いたと仮定すべきなのだ。

 

自分のしたことを正当化し、やると決めてやったからには認めるべきだ。

ナツキ・スバルは天秤を傾け、相手が死ぬかもしれない作戦を実行したのだと。

 

魔女教徒や大罪司教ではなく、悪意から他者を害する邪悪の徒ではない人々。

上からの命令に従い、生きるための仕事として武器を持つことを選んだ相手を、会話することも、立場次第では友好関係を築けた相手を、攻撃した。

 

ならば、これは当然、必然、自然な出来事なのだろう。

 

ナツキ・スバルの行動のツケは、ナツキ・スバルが支払わなければならないのだと。

 

△▼△▼△▼△

 

「――旦那くん、しかめっ面はいけないよ」

 

「――――」

 

「笑顔と余裕のないものの下には、幸運は訪れ――だ、旦那くん!?」

 

頭蓋に斧の先端がめり込んだ直後、硬い音と共に視界がクリアになる。

その鮮明になった視界、飛び込んでくるのは眉間に指を押し当てるフロップの姿だ。

前髪の長い細面の美青年、その頭部が割られた十数秒前の出来事が回想され、スバルはとっさに自分の口を覆い、その場に跪いた。

込み上げる嘔吐感と、我が身に降りかかった凶気的な出来事の連鎖――心臓が爆発しそうに跳ね、締め付けられる内臓とうるさい耳鳴りがスバルを苦しめる。

スバルを心配するフロップの声も遠く、音が全く頭に入ってこなかった。

 

「――トッド」

 

激しい耳鳴りと五臓六腑の悲鳴を聞きながら、スバルの唇が短い音を紡ぐ。

それはヴォラキア帝国で知り合った相手の名前であり、ナツキ・スバルが初めて純粋な敵意を向けた相手であり、そして――、

 

そして、直前の凄まじい惨劇を実行に移した凶気の襲撃者だ。

 

「――――」

 

燃え上がる酒場と、立ち込める黒煙。

次々と酔客が斧の餌食になったのは、煙に含まれた刺激性の物質が原因だ。おそらく、刺激の強い香辛料を混ぜ込んだ簡易の催涙弾のようなものだが、効果は覿面だった。

魔石を使って火災を起こし、出口を封じて生き残りを裏口へ誘導。扉を塞いで、それが破られた安堵感に乗じて一番の腕利きを不意打って始末する。

そして、自らは濡らした布で煙から身を守り、直接、確実に、スバルを殺した。

 

最後の言葉と声、何より布越しに見えた瞳が男の正体を物語っていた。

あれはトッドだ。――バドハイム密林で、死んだはずの男だった。

 

「いや……」

 

それも、あくまで未確認の情報だった。

アベルの率いた『シュドラクの民』の攻撃で、帝国兵の野営地は壊滅状態へ陥った。多くの、百人以上の犠牲が出たと聞いて、スバルは傷を負うことを恐れるあまり、それ以上の情報を入れることをシャットアウトした。

そして早々にレムを連れ、アベルたちから離れることを決断したのだ。

 

だから、襲われた野営地の生き残りがいるなどと、考えようともしなかった。

ましてやそれは、『シュドラクの民』の攻撃と無関係の、スバルが自ら攻撃することを選んだトッドたちに対しても同じ――。

 

「ここが密林から最寄りの街ってんなら、生き残りが逃げ込んでるのは当たり前だ」

 

野営地を攻撃され、命からがら逃げ延びた帝国兵がグァラルへ向かうのは必然だ。

なのに、スバルはそんなことにも考え及ばず、のこのこと自分から敵が待ち受けている都市へと足を踏み入れてしまった。それも、レムを連れて。

 

「……敵」

 

頭に浮かんだ単語、それを改めて舌に乗せてその苦さを味わう。

元の世界で過ごしていた頃、敵なんて言葉は漫画やゲームの中にしかなかった。異世界に召喚されてからも、その対象は魔女教徒や魔獣といった害敵だけ。

だから、そうではない相手を『敵』と呼ぶのはこれが初めてのこと。

それもこの『敵』は、他ならぬナツキ・スバルが自分の行動で作った『敵』だった。

 

「――ッ」

 

ガチッと硬い音を鳴らして、スバルは強く奥歯を噛みしめた。

頬肉が齧られ、鋭い痛みと血の味で意識の胸倉を掴み、現実へと無理やり引き戻す。足りなければ、口の中の肉を全部噛み千切っても構わない。

絞られる内臓とうるさい耳鳴り、震える手足と痺れた脳は必要ない。

 

今は、凶気と恐怖に打ちのめされてはいられないのだ。

それが虚勢だったとしても、状況を変えるまでは剥がされるわけにはいかない。

 

「旦那くん、しっかりしたまえ、旦那くん!水を飲むかね?」

 

「――っ、大丈夫だ。悪い、フロップさん、心配かけた……!」

 

大丈夫では全くない顔色と声色だったと思うが、スバルは自分にそう言い聞かせながらゆっくりと立ち上がる。

膝の震えと、竦んだ内臓の不快感は残っている。しかし、いつまでも蹲ってはいられない。スバルがそうして脆弱さに甘えている間も、時は進んでいる。

この間も虎視眈々と、トッドの襲撃計画は進行中のはずなのだから。

 

「なぁ、頼みがあるんだ、フロップさん。宿に戻って、レムから俺の持病の薬を受け取ってきてもらえないか」

 

「薬?旦那くん、何か悪い病気なのかい?」

 

「ああ、持病のくるぶしツヤツヤ病がかなりひどくなってるんだ」

 

「なんと!未知の病名だ!」

 

適当な病名を告げられ、目を見開いて驚くフロップ。

彼の善良さにつけ込むのはいい気分ではないが、この場は仕方ないと目をつぶる。今は一刻も早く、フロップをスバルから遠ざけるのを優先だ。

 

トッドの狙いが復讐ならば、スバルとフロップが別行動すれば、スバルの方を追ってこざるを得なくなるはず。

フロップの安全を確保したら、スバルは自分の身を守る方に集中できる。

まだ、どうするのが正解かは選び切れていないが――、

 

「酒場でロウアンと合流して、奇襲を避けるために酒場を出る。そのあとは……」

 

かなり行き当たりばったりな行動にならざるを得ない。

しかし、足を止めてゆっくりと思案する時間もない以上、思い浮かんだ最善手を実行に移して僥倖を拾いにいくしか手はないのだ。

 

「レムなら……」

 

フロップが宿に得体の知れない病名の薬を取りに帰れば、スバルの身に何らかの異変が起きたと察してくれる、はず。くれると思いたい。

そうすれば、フロップを現場に戻すことはなく引き止めてくれる、と信じたい。

希望的観測ばかりだが、これが今のスバルが思いつく限界だ。

 

「フロップさん、頼む!」

 

「わ、わかった!ここで待っていたまえ!気を強く持つんだ、旦那くん!」

 

演技ではないスバルの必死さに打たれ、フロップが宿へときた道を戻る。そのフロップを見送り、スバルは代わりに酒場へ急ぐこととした。

最速で酔い潰れたロウアンを正気に戻し、金貨を叩き付けて雇い直す。不意打ちで倒されたロウアンだが、正面切っての実力はあると、これも信じたい。

運命に縋り付いてばかりだが、頼む、ロウアンよ、ヴォラキア最強であれ――。

 

「――ぁ?」

 

祈るような心地で走り出そうとしたスバルは、不意に背後で掠れた声を聞いた。

人気のない路地のため、聞こえた声の該当者は一人しかいない。問題は、その声がどういった心情から紡がれたもので、それが何に結び付くのか。

だが、それが決して穏当ならざる結末へ辿り着くことはすぐにわかった。

 

「う、うああああ――っ!!」

 

掠れた声に続いたのは、裏返ったフロップの悲鳴だった。

とっさに振り向いたスバルは、道の先でフロップがひっくり返っているのを発見。仰向けに倒れたフロップが掲げた右足、その太ももを小型のナイフが貫いていた。

深々と刃元まで埋まったそれが、フロップから走る力を奪い去っている。

 

「フロップさん!」

 

走り出した体勢から慌てて振り返り、地面で足を滑らせたスバルは唇を噛んだ。そのまま地面を蹴り、足をやられたフロップの下へ駆け寄る。

 

また、いきなり想定を外された。

二手に分かれれば、当然、優先してスバルを狙ってくるものと思っていた。なのに、いきなりフロップが狙われたのは計算外だ。

そもそも、この場で即座に攻撃を仕掛けてくることも予想外だった。

 

「フロップさん!すぐに手当てできる場所に連れていく!」

 

諸々の後悔と反省を抱えたまま、スバルはフロップの下へ駆け付ける。足の痛みに悶えているフロップだが、すぐに手当てする余裕はない。

肩を貸して、人のいるところに――否、また大通りで轢殺されたのと同じ状況を招きかねない。無理をしてでも、酒場へ引きずっていくのが最善手か。

不幸中の幸いなのは、ナイフを受けたのが足だったこと。これならば、太い血管がやられていない限りは命に別状は――、

 

「――――」

 

そこまで考えたところで、スバルの頭に不意に疑問が湧いた。

フロップが命に別状がないのは朗報だ。だが、何故そうなったのか。酒場での虐殺の手口からして、敵は殺しの手腕に精通している。

にも拘らず、フロップへの攻撃を足にとどめたのは何故なのか。

 

これは漫画の知識だが、狙撃手の戦闘におけるテクニックの話だ。

隠れ潜み、遠くから相手を一方的に攻撃するスナイパーは、集団を相手にするとき、わざと狙った相手を仕留めず、負傷にとどめる。そして、撃たれて倒れた仲間を救出しようとするものを誘き出し、次々とその魔の手にかけていくのだと。

 

負傷者を見捨てられない、仲間意識を利用した悪夢の手口。

何故、それをこの瞬間に思い出したのか。それは――、

 

「しま――っ」

 

嫌な予感が過った瞬間、倒れるフロップのすぐ傍の路地で暗い光が閃いた。

直後、とっさに頭を庇うように腕を掲げたスバルを、正面から叩き付けられる鋭い一撃が吹き飛ばす。

 

「があっ!?」

 

硬い衝撃をもろに喰らい、吹っ飛んだスバルが後頭部を地面に打つ。視界が白み、再びの耳鳴りがうるさく鳴る中、スバルは転がる勢いに任せてさらに後ろに一回転。

衝撃の正体と距離を取りながら、殺し切れなかった一撃で熱を訴える額に手を伸ばす。おそらく、硬い一撃で額が切れたと考えられ――、

 

「――ぁ?」

 

額に触れようとした右手が、手首と肘の間の前腕部分で吹っ飛んでいた。

 

「ぎ、ああああ――っっ!」

 

汚い切断面を晒した右腕は、白い骨と桃色の筋繊維が覗き、拍動に合わせて勢いよく血が噴き出していた。慌てて傷を押さえて止血しようとするが、左手の方も掌が縦に割れ、ひしゃげた指がそれぞれ違う方向を向いている。

不格好に、相手の一発を受けてしまった証だ。

それを言い出すなら、そもそもフロップの下へ無防備に駆け寄ったのが間違い。

間違い、間違い、間違い間違い間違い間違いミスミスミスミスミス――、

 

「――ふむ」

 

だくだくと溢れる血を押さえながら、痛みと喪失感でパニックに陥るスバル。

そのスバルの前で小さく喉を鳴らしたのは、片手に斧を下げた男――路地から姿を現したのは、橙色の髪をバンダナでまとめた青年、トッドだった。

 

今度は顔を隠していない。

酒場で目の当たりにした凶気の瞳、あれの正体は見間違いでも何でもなかった。

やはりトッドが、スバルを殺すために攻撃を仕掛けてきていたのだ。

 

「うぎ、ぎぃぃぃ……!」

 

噛みしめた奥歯が割れ、血走った目でスバルはトッドを睨みつける。

込める感情は怒りなのか、憎しみなのか、あるいはもっと情けない命乞いなのか、自分自身でも答えのわかっていない眼差しだが、トッドの反応は冷ややかだ。

彼は感情を特に感じさせない表情で、スバルの両腕を破壊した斧の刃を指でなぞり、

 

「もっとちゃんと研がないとダメだな、失敗失敗」

 

と、淡々とした様子で次への反省を口にした。

 

「か、ぁ……」

 

「さて」

 

目を見開き、震える舌で言葉を発しようとするスバル。だが、トッドはそのスバルの言葉に頓着せず、何気ない素振りですぐに斧を振り上げた。

まるでスバルの言葉にも素性にも、何の興味もないと言わんばかりに――、

 

「う、あああ――!!」

「うおっ」

 

しかし、トッドが振り上げた斧を落とす前に、その体に誰かが飛びかかった。

腕を壊され、痛みに呻いているスバルではない。その、一撃で戦闘不能にされたスバルを守るべく、トッドに飛びついたのはフロップだ。

右足にナイフを受け、激痛と戦っているはずの善良な商人は、トッドの背中に喰らいつくようにしがみつき、肩越しにスバルを見た。

 

「旦那くん!逃げるんだ!今すぐ逃げ――」

 

細面に切実さを宿し、強く訴えるフロップの顔が顎を跳ね上げられる。

組み付かれたトッドが肘でフロップを打ち据え、暴力と無縁の青年はあっさりと引き剥がされてしまった。

そして、下がったフロップに振り向き、トッドが斧を振り上げる。

 

「やめ……」

「せーのっ!」

 

止める暇もなく、軽い掛け声のあとに難く鋭い水音が響いた。

肘を受け、上を向いたフロップの顔面が斧の刃を受け、顔ごと頭を割られた青年が呆気なく死体へ変わる。血が流れ、脳漿がこぼれ、手足が痙攣していた。

じわじわと、路地が血で浸されていくのを見て、スバルはぽかんと口を開ける。

 

ただ、痛みと混乱と、蘇る恐怖がスバルから正常な思考を奪い取った。

この、目の前の男は、いったい、何なのか。

 

「俺を……」

 

「うん?」

 

「俺を、俺を恨むのは、わかる……」

 

死んだフロップの血をよけながら、振り向いたトッドにスバルがそう言った。

ボロボロと、涙と鼻水が勢いよく流れ出す。奥歯の割れた口からは血が流れ、さらには自分の右腕から噴き出した血を浴び、スバルの全身はひどい有様だ。

失禁こそしていないが、それは何の慰めにもならない。

 

ただ、またしてもフロップを死なせてしまった。

救おうとした手段で、スバルが足りなかったせいでまた死なせてしまった。あんな、妹のミディアムにすら見せられない死に顔で、死なせてしまった。

 

「でも、周りを……周りを!まき、こむなよぉ……っ!」

 

恨みを買う理由はある。

正当とは言いづらくとも、そうなって当然という経緯がスバルとトッドの間にあった。

だから、スバルを狙ってくるのは必然だ。でも、そのために周りを巻き込むのはルール違反だ。卑怯な行いだ。正々堂々と程遠い。そんなの、悪い。悪ではないか。

 

もはや、相手への糾弾すら理論性を失いつつあるスバル。

そのスバルの訴えを聞いて、トッドは「あー」と小さく唸ると、

 

「お前さん、恨むって何を言ってんだ?」

 

そう、血塗れの路地で、頬に跳ねた血を拭いながら不思議そうに首を傾げた。

そのとぼけた態度と返答を受け、スバルは一瞬息を呑んだが、すぐに堪え難い激情が込み上げてきて、「ふざけるな!」と唾を飛ばしながら、

 

「待ち伏せして、罠を張って……俺を、執拗に……!」

 

執拗に、執拗に追い込まれた。

スバルがどんな行動をしても、確実に殺せるよう前もって先回りし、周到に準備を整えて罠を張り巡らせていた。

それほどまでにスバルを狙い、ここでとぼけるなんて無意味な往生際の悪さだ。

フロップの死に対する冒涜だ。スバルを辱め、鬱憤を晴らしているつもりなのか。

 

「お前は……っ」

 

「何を勘違いしてんだか知らないが、俺がお前さんを殺すのに恨みも何もないだろ。街でヤバい奴を見つけたんだ。問答無用で殺すに決まってる」

 

「――――」

 

「毒蛇を殺すのは恨みじゃなくて怖いから。そのためなら使えるものを使って殺す」

 

それ以上でも以下でもないと、トッドは斧についた髪の毛や皮を丁寧に剥がす。それはフロップの砕いた頭部の破片なのだろうが、スバルは唖然とするしかなかった。

 

笑みさえ浮かべ、平然と答えるトッドの態度に嘘はない。

元より、トッドのこれまでのスバルへの攻撃が、その言葉が本気だと証明している。

 

トッドは、スバルを危険だとみなして殺す気しかない。

だから何も聞かないし、何もさせないし、何も言わせようとしなかった。

そして、あの密林での所業を憎んですらいない。あの行いからトッドがスバルに抱いた印象は、スバルが危険人物であるという認識のみ。

 

故に、トッドは感情的にもならず、淡々とスバルを殺そうとする。

 

「お前さんは俺と同類だ。――時間はやらない」

 

言いながら、トッドがスバルの胸に靴裏を当て、そのまま後ろへ蹴り倒す。抵抗できずに仰向けに倒れ込んだスバル、それを跨いでトッドが斧を振り上げた。

 

目を見開いて、正解の言葉を探した。

『死に戻り』をして、あらゆる場面から後ろへ繋がる可能性を探り出すのがスバルの勝利の掴み方。しかし、大罪司教にすら通じたそれが通用しない場面もある。

それは――、

 

「――ま」

「待たない」

 

――それは、相手が冷酷な殺人鬼であった場合だ。

 

△▼△▼△▼△

 

「――旦那くん、しかめっ面はいけないよ」

 

「――っ」

 

「笑顔と余裕のないものの下には……ど、どうした?急に顔色が真っ青になったぞ?」

 

真っ直ぐ、自分の顔目掛けて斧が落ちてくるのを見届ければ、大抵の人間の顔からは血の気がさっと引くものだろう。

思わず、自分の顔に手を当てたスバルは、血の気の引いた顔の冷たさと、その冷たさを感じる両手が健在である事実を確かめ、安堵と恐怖で感情が掻き回される。

 

「もう、もう……」

 

どうすればいいのか、スバルには皆目見当がつかない。

 

時間にしてみれば、スバルの身に起こった出来事はほんの二十分ほどの間のことだ。その二十分間で、スバルはすでに五回も命を落としている。

プレアデス監視塔の最終局面、あのときも勝ち筋を見つけるために十五回以上も『死』の経験を重ねたが、あれは一歩ずつ前進している確信があった。

 

それが、今回はない。

積み重なったナツキ・スバルの死体が、勝利に貢献している実感に至らない。

ただ一つ、言えることがあるとすれば――、

 

「――今も、見られてる」

 

すでに、トッドはフロップと一緒にいるスバルのことを監視している。

故にフロップと二手に分かれた瞬間、トッドは容赦なくフロップを撒き餌に使った。

スバルにフロップを囮にできる冷酷さがあれば話は別だが、それができない以上、フロップが襲われればスバルは彼を助けるために全力を尽くす。

 

レムの安全と、トッドたちの安否を天秤にかけたときとは違う。

フロップは見ず知らずのスバルたちに良くしてくれた。彼を見殺しにする選択肢など、スバルの中には生まれようもない。

だから、フロップと別行動する作戦は実行不可能だ。

 

同時に、スバルは宿屋へ戻るという選択肢も奪われた。

トッドがどの時点でスバルの存在を見つけたのかは不明だが、酒場へ向かうためのこの道中で見かけたのなら、宿の場所は、レムの居場所はバレていない。

 

そう、レムの場所はバレていない。これはかなり、信じられる。

もしもレムの居場所がバレていたなら、トッドはレムを使い、もっと計画的にスバルを殺すために利用したはずだ。トッドの狡猾さへの信頼が、逆にレムが彼の手に落ちていないことの証になるのは皮肉な話だった。

 

「とにかく……」

 

唇を噛み、掌で顔を覆いながら、スバルは必死で頭を回転させる。

時間が、とにかく時間が足りていない。

 

フロップと二手に分かれれば、トッドは即座に攻撃を仕掛けてくる。

逆に仕掛けてくるのを待ち構えて反撃――否、初撃を避ければ勝てるという相手でもない。スバルに武器がない以上、一撃で相手の戦闘力を奪わなくてはならない。無理だ。

 

大通りに逃れれば、トッドは竜車を暴走させ、轢き殺してくる。

暴走竜車を避けられても、大通りの混乱に乗じて次なる手を打ってくる可能性が高い。その上、竜車の暴走には無関係な周りの人間が巻き込まれる。無理だ。

 

別の道を選んでいこうとすれば、各所に存在する路地の全てが奴の狩り場だ。

四方八方、ありとあらゆる方角に注意を払うなんて不可能だし、仮に初撃を捌けたとしても、結局は反撃案と同じ、戦闘力の不足が横たわる。無理だ。

 

やはり最善なのは、フロップと一緒に大急ぎで酒場へ向かい、トッドが酒場を襲撃する準備を整える前に、こちらの戦力を整えて迎え撃つことか。

へべれけのロウアンをどれだけ本気にできるかが難関だが、今すぐに思いつくパターンではこれが一番勝算が高い、はず。他の手が浮かばない。

 

「クソ、クソ……」

 

なんて、厄介な相手を敵に回してしまったのか。

これが大罪司教であれば、権能頼りの奴らには強みが弱みになる可愛げがあった。権能のカラクリを解くことで、逆に弱点が浮き彫りになるのが奴らだからだ。

しかし、トッドにはそれがない。使えるものは何でも使う。自分で言った通りだ。

 

何かに頼ることもなく、周囲への被害も顧みない。

スバルを殺したあと、いったい周りになんて言い訳するつもりなのか、それすらも完全に未知数。その後のことなど、一切考慮していない。

殺すべきものを殺すために、余計な思考を挟まない怖さがある。

 

「旦那くん?大丈夫かい?どこか悪いなら、宿に引き返した方が……」

 

「い、いや!それはダメだ!それは、ダメなんだ」

 

勢いよく答えてしまい、スバルのその声にフロップが目を丸くする。

そうしてしまってから、スバルは自分の精神的な脆さを本気で呪った。おかしな素振りを見せれば、トッドに不審がられてしまう。

そうなっては、せっかくの『死に戻り』のアドバンテージが消える。

 

すでに捕捉されている以上、スバルがトッドにつけ入ることができるのは、自分の存在が露見していないと考えているその先入観しかない。

待ち伏せと罠、逃走と反撃、いずれの手段を用いるとしても、スバルが気付いていることをトッドに気付かれてはならない。

それが――、

 

「――待て」

 

ふと、必死でトッド対策を考えるスバルの脳裏にある考えが過った。

何か一つのやり口に拘ることもなく、周囲への被害も顧みないトッド。――だが、彼が顧みないのは『周囲』への被害だ。『自分』への被害ではない。

 

むしろ、『自分』への被害を極端に減らしたがるからこその、奇襲。

言っていたではないか、トッド自身が、自分の口で。

 

『毒蛇を殺すのは恨みじゃなくて怖いから』だと。

だとしたら――、

 

「――トッド!お前がいるのはわかってる!」

 

「わわわ!?」

 

電撃的に走った考えに従い、スバルがそう声を張り上げる。

途端、いきなりのことにフロップが飛び跳ねて驚いた。だが、驚いたのはフロップだけではないだろう。

尾行と監視でスバルたちをつけていたトッドも、驚いたはずだ。

 

その驚きを信じて、スバルは目つきを鋭く、凶悪に頬を歪め、可能な限りの悪人面を作りながらぐるりと周囲を睥睨し、

 

「まったくしぶとい野郎だぜ!あんな目に遭ってまんまと死んだと思ってたのに、生きてやがるとは悪運の強い!だが、今度は逃がさねぇ!ぶっ殺してやる!」

 

精一杯ドスを利かせた声で、悪意と敵意をふんだんに塗り込めながら悪罵を飛ばす。

路地のどこにトッドが潜んでいたとしても、確実に声が届くよう、ナツキ・スバルがお前の存在に気付いていると、それが伝わるように。

 

「お前が俺に勝てるとでも思ってんのか?とんだ笑い話だぜ!笑ってやるよ、はっはっはっはっは!また見てぇぜ、お前が無様に逃げ回るところをよぉ!」

 

挑発と嘲弄の二枚看板をひけらかし、スバルが路地の真ん中で哄笑する。

舞台度胸のある方でよかったと、このときばかりは自分の図々しい性格に本気で感謝した。そうでなければ、声に震えが、表情に脅えが、瞳に恐怖が現れていた。

それが出ないで済んだのは、ナツキ・スバルの性根の悪さのおかげだ。

 

「だ、旦那くん……?」

 

「し。フロップさん、黙っててくれ」

 

スバルの突然の豹変に呆気に取られたフロップを黙らせ、スバルは彼の腕を引きながら堂々と歩き出す。

きた道は戻らない。ひとまず、トッドがそちらに潜んでいるのは確実、のはず。

だから、歩く途中で足を止めて、首だけで路地の後ろを振り向きながら、

 

「ああ、仕掛けてくるならいつでもどうぞ。お望み通り、八つ裂きにしてやるよ」

 

通じるか不明だが、あえて中指を立てて最後の挑発を加えておく。

そうして、スバルは心臓の爆音を隠しながら、不敵な笑みを浮かべて路地の先へ。

 

「――――」

 

正直、完全に賭けだった。

もしかしたら、スバルの挑発に逆上し、路地から飛び出してきたトッドが斧を振り回すシナリオも十分考えられたことだ。――だが、スバルはそれはないと信じた。

トッドは逆上しない。あの男は淡々と、最善手を模索し続けるタイプだ。

 

だからこそ、スバルの今のハッタリがトッドには通用すると考える。

街中でスバルを見かけ、殺そうと考えたトッドの思考を辿れば、大元にあるのは危険因子であるスバルの排除に繋がる。その行動が奇襲という勝利を手繰り寄せる手段と結び付くならいいが、そうでないなら次の手を選ぶはずだ。

 

トッドは、やり口に拘泥していない。

大罪司教とはそこが違う。そして、それ故の柔軟性を利用させてもらう。

 

「あとは……」

 

とっさに飛びついた作戦を実行したが、この先の行動は未知数だ。

トッドがスバルへの警戒を強めてくれたなら、次の攻撃への時間が空いたはずだ。この隙にスバルは、戦うか逃げるか選ばなくてはならない。

 

戦うなら、酒場のロウアンを引き入れる必要がある。他の手立てが浮かばない以上、彼の力を借りるのが最もベターな選択肢だ。

逃げるなら、宿屋へ向かってレムの手を掴み、都市を飛び出す必要がある。悪いが、フロップたちにも同行願わなくては、彼らも危険だろう。

そして、都市からの逃走を選ぶ場合、スバルがいける場所は――、

 

「――そういう、ことか」

 

「旦那くん?」

 

背後の路地を警戒しながら、しかし、スバルはその瞬間、目を血走らせた。

このときばかりはトッドへの恐怖も、フロップへの申し訳なさも、レムへの心配も、エミリアへの愛しさも、ベアトリスの恋しさも、一通りを忘れる。

忘れて、浮かんだ感覚を握りしめ、スバルは強く目をつぶった。

そして――、

 

「――今すぐ、グァラルを出る。俺のハッタリが見破られる前にだ」

 

△▼△▼△▼△

 

次の方針を決めてからの、スバルの行動は早かった。

路地を出て行動を始めても、トッドが仕掛けてくることはなく、あのスバルの挑発が警戒を強めるのに作用したことは間違いないだろう。

だが、あんなハッタリは一時しのぎに過ぎない。

 

「すぐに見破られるに決まってる。今すぐ、あいつの手の届かないところに……」

 

逃げなくてはならない。

そう心に決めて、スバルは説明もそこそこにフロップを連れ、出たばかりの――五回の死を迎える前に離れた宿へ戻り、階段を駆け上がった。

そして、レムたち女性陣のいる部屋の扉を叩いて、急いで駆け込む。

 

「レム!無事……うお!?」

 

「おわぁ!なんだ、あんちゃんたちか!危うく殺すとこだった!」

 

扉を開け放ったスバルの首に、ぴたっと当てられたのは蛮刀の冷たい刃。その蛮刀を握ったミディアムが、「ごめちごめち」と謝りながら武器を引っ込める。

そのミディアムの後ろ、部屋の奥にいるレムはその攻防に目を丸くしながら、

 

「い、いきなりなんなんですか。出ていったと思ったらこんなに早く……」

 

「レム!」

 

「――っ」

 

驚いていたレムが、血相を変えたスバルの帰還に憎まれ口を叩く。しかし、スバルはそれを全部は聞かず、早足にレムの下へ駆け寄り、その体を抱きしめた。

細い体を正面から抱きしめられ、レムが肩を縮めて息を詰める。

そして、

 

「……離してください」

 

「……う、ごめん。つい、感極まって……」

 

「それは、わかりました。今の様子を見れば、ただならない事態なのはわかります」

 

彼女の無事を確かめ、感極まったスバルを冷静にレムが引き剥がす。

てっきり、勢い任せの行動をレムに罵倒されると覚悟したのだが、レムは長くため息をつくと、「それで?」と今の無礼には触れず、

 

「何があったんですか?」

 

「……マズい奴に見つかった。今は何とか時間を稼いだけど、長居はできない。きたばっかりで悪いんだが」

 

「街を出る、ですか。わかりました。ルイちゃん、荷物を持ってください」

 

細かい説明をする時間が惜しいと、そう考えるスバルの意を察したように、レムがすんなりと置かれた状況を呑み込んだ。

あろうことか、レムの指示を受けたルイまでも、「うー!」と言いながら、ひょいと荷物を背中に背負い上げたくらいだ。――否、おかしい。

 

「なんで、荷解きしてないんだ?宿に入ったのに……」

 

「――――」

 

「まさか、レム、お前……」

 

押し黙ったレムは、スバルの疑惑の眼差しに何も言わない。

ただ、その無言を貫く姿勢が、スバルの疑いを肯定しているも同然だった。

 

「そういうことか……。道理で、すんなりついてきてくれたと……」

 

「――旦那くん、思うところがあるようだが、それどころではないんだろう?」

 

「フロップさん」

 

レムの態度に割り切れない思いを味わい、額を覆ったスバルの肩をフロップが叩く。その真剣なフロップの表情に、スバルは行動を促された。

せっかくの、一世一代の大芝居が作り出した時間を無駄にしてはならない。

 

「妹よ、この三人と一緒に僕たちも街を出るぞ。何でも、この旦那くんを狙っている危険な間男がいるらしい!奥さんと姪っ子ちゃんを逃がしてあげなくては!」

 

「うええ、そうなの、あんちゃん!でも、あたし、もうブーツ脱いじゃったぞ!?」

 

「履き直すんだ、妹よ!靴は、履けば何度でも使える!それが強みだ!」

 

「おおお!すげえや、あんちゃん!靴の天才か!」

 

フロップの果敢な説得を受け、納得したミディアムが慌ててブーツを履き直す。

兄妹間のやり取りなので部外者は口出ししないが、それで話が通ったのかは甚だ怪しいと感じつつ、スバルはレムの体を抱き上げた。

 

「ちょっと!せめて背中に……」

 

「緊急避難だ!背負子はフロップさんたちの牛車に積んじまったし……フロップさん!牛車はどこに!?」

 

「宿の厩舎だ!言っておくが、ファローのボテクリフは僕たちの三人目の兄妹と言っても過言じゃない!置いてはいけない可愛い弟だ!」

 

「あんちゃん!ボテちんはメスだよ!」

 

「可愛い妹だ!」

「うー!うー!」

 

差し迫った状況にも拘らず、ものすごい騒がしい面々を引き連れ、スバルは大急ぎでレムを抱いたまま一階へ駆け下りる。

 

「騒がしくして悪かった!宿代はもらっておいてくれ!」

 

宿の受付を通り過ぎ、宿泊しなかった分の返金を求めずにスバルたちは飛び出す。

そのまま厩舎へ向かい、繋がれた牛車の中からフロップたちのものを見つけ出した。

 

「ファローって、全力で走ったらどのぐらいの速度だ!?」

 

「ははは、全力で走らせたことなんて一度もないな。妹よ、どのぐらいだと思う?」

 

「わかんないけど、たぶん、あんちゃんよりは速い!」

 

頼りにならない答えを聞きながら、スバルは牛車の荷台へレムを押し上げた。そのままレムの隣に、駆け込んでくるルイを放り込み、厩舎の入口を開放する。

御者台にフロップとミディアムが乗り込めば、脱出の準備は完了だ。

あとは――、

 

「あの、間男ってなんですか。フロップさんにどんな説明をしたんです」

 

「今、それどころじゃないから!フロップさん、ボテクリフを全力で走らせてくれ!」

 

「ああ!心得たとも!走れ、ボテクリフ!!」

 

荷台に乗り込んだスバルの袖をじと目のレムが引くが、スバルは彼女の疑問に答えずにフロップの背中に声をかけた。

それを受け、フロップが手綱を振るい、強く勇牛――ボテクリフの背中を打つ。

そして、牛車が走り出した。ゆっくりと。

 

「全然遅い!歩いてる!」

 

「ボテクリフ!走ってくれ!兄の言うことを聞いてくれ、ボテクリフ!」

 

「兄ではないと思われているのでは……」

 

レムの一言が真理な気がするが、ボテクリフの走る速度――否、歩く速度は変わらない。このままでは、スバルがレムを背負ってみんなで走った方がずっとマシだ。

と、そうスバルの切迫感が募っていく中――、

 

「ボテちん!走れー!でなきゃ、晩御飯にしちゃうぞー!」

 

「――ッッ!!」

 

抜いた蛮刀を頭上に掲げ、擦り合わせて音を鳴らしながらミディアムが叫んだ。

満面の笑みで、そう言ったミディアムの態度に本気を感じ取ったのか、次の瞬間、ボテクリフが大きく太い鳴き声を上げ、猛然と道を走り始める。

 

「うおおおあああ!!」

 

凄まじい加速と揺れに振り回され、荷台の上でスバルが悲鳴を上げる。

厩舎を飛び出し、大通りへと駆け込んだボテクリフがドリフト気味に方向を転換、危うく荷台から放り出されかけるスバル、その手をとっさにレムが掴む。

 

「あ、危ねぇ!助かった、レム!手ぇすべすべだな――」

 

「は?」

 

「急に離さないで!」

 

勢いで余計な感想が漏れ、手を離されたスバルが荷台に頭をぶつける。が、幸い、振り落とされずに済み、走るファロー車に全員乗り込んだ状態だ。

そのまま、ファロー車は勢いよく通りを駆け抜け、衆目を集めながらも右へ左へ、他の竜車や牛車、犬車を躱しながら大正門へと向かっていく。

 

「このまま大通りを抜けたら、検問のあった正門に……」

 

「いえ、そう簡単にはいかないみたいです」

 

「なに?って、おいおいおいおい!」

 

勢いよく走るファロー車の先、レムの指差したものを見てスバルが目を見開く。

進路上、大通りを塞ぐように展開したのは、剣狼の国印が刻まれた鎧を纏った男たち。帝国兵が、スバルたちの進路を阻もうとしている。

 

「トッドか……!方針転換して、仲間を呼びやがったな!」

 

待ち構える帝国兵の列にトッドの姿は見えないが、彼らがスバルたちの道を阻もうとしているのは、間違いなくトッドの関与があってのことだろう。

路地での挑発を受け、一人では分が悪いと考えたトッドは仲間を集った。実に合理的で必然の判断だ。憎たらしいぐらい、的確――、

 

「――てめえら!逃げられると思ってんじゃねえぞぉ!!」

 

そして不在のトッドに代わり、展開した兵たちの先頭に立つのは見た顔だ。

粗野で粗暴を絵に描いたような風貌の、右目に眼帯をした男――ジャマルだ。トッドと同行し、やはり密林でスバルが罠にかけた男だった。

トッドが生きていた以上、彼が生きているのも不思議はないが――、

 

「よくも魔獣なんぞけしかけてくれやがったな!ぶっ殺してやる!」

 

「……あいつはシンプルに俺を恨んでるのか。その方がホッとするぜ」

 

目を血走らせ、怒りを叫ぶジャマルの態度の方が人間的で安心する。

とはいえ、それでジャマルの存在が脅威でなくなるわけではない。ジャマル含め、帝国兵たちの布陣は純粋に脅威だ。

それを、いったいどうやって突破するか。

 

「あんちゃん、しっかり手綱握っててな。頼んだぜい」

 

「ああ、やってこい、妹よ!」

 

しかし、限られた時間の中、スバルが次の行動を選ぶより早く、御者台の方でフロップとミディアムのオコーネル兄妹が答えを出した。

そして止める暇もなく、御者台の先端に足を置いたミディアムが前のめりに倒れ――、

 

「――どーん!」

 

と、御者台を靴裏で蹴ると、まるで矢のような速度で彼女の体が射出される。

そのまま真っ直ぐ、蛮刀を抜いたミディアムが正面の敵の隊列へと突っ込んだ。

 

「おらしょぉ!!」

 

地面を踵で抉りながら、強引に敵陣で制止したミディアムが両腕を振るう。

蛮刀が風を撫で切りながら荒れ狂い、凄まじい衝撃波が生まれ、具足を身につけた帝国兵たちが血をばら撒きながら高々と吹っ飛んだ。

 

「つ、つえええええ――!!」

 

「それが女性に対する褒め言葉ですか?」

 

「他に何を言えってんだよ!これは褒め言葉だろ!ミディアムさん、強ぇ!」

 

素直な感想にレムの冷たい指摘を受けつつ、スバルは思わぬ戦力に声を高くする。

そのスバルの声を聞いて、御者台のフロップは自慢げに指で鼻をこすった。

 

「どうだい、あれが我が妹の実力だとも!僕は戦いはからっきしなのでね!妹と共に補い合い……」

 

「弱点を潰してるんだろ!その意味がわかったぜ!」

 

「わかってくれるか!」

 

スバルの答えが気に入ったのか、フロップが目を輝かせて白い歯を見せる。

そのままフロップの受け売りだったが、それが事実だとこの目で見た。

暴れ回るミディアムが、道を塞ぐ帝国兵を次から次へと撃破し、ファロー車が抜けるための進路をこじ開ける。

 

「これなら……」

 

「――調子に乗ってんじゃねえぞ、クソアマ」

 

「うきゃん!?」

 

光明が見えたと、そうスバルが拳を固めたところだ。

その瞬間、閃いた白刃がミディアムに襲いかかり、蛮刀でそれを受けた彼女の体が軽々と吹っ飛ばされた。

衝撃に驚くミディアム。彼女を弾き飛ばしたのは、彼女と同じように両手に剣を握りしめた男――ジャマルだった。

 

「ただでさえ数減らされたってのに、こんな騒ぎで削られてたまるか!とっとと、てめえらは、オレの足下で、ひれ伏せ!!」

 

「うきゃ!わわ!あんちゃん、こいつ強い!」

 

「マジかよ!」

 

怒り任せに罵声を浴びせながら、ジャマルが双剣を振るい、ミディアムへ仕掛ける。それをミディアムは受けるが、傍目から見ても劣勢とわかる武力差。

こうしてまともにジャマルの戦いを見るのは初めてだったが、スバルの受けた印象よりもずっとジャマルは腕が立つ。――あるいは、森でスバルがけしかけたエルギーナを返り討ちにしたのは、他ならぬ彼であったのかもしれないと思わされるほどに。

 

「マズい!距離がない!」

 

ミディアムの奮戦のおかげで、道を塞ぐ帝国兵の数は減った。

ファロー車の勢いなら突進で突破することは可能そうだが、それも道の中央で仁王立ちしているジャマルがいなければの話。

ジャマルのいる限り、逃げおおせることはできそうにない。

 

「――妹よ!」

 

その瞬間、フロップが叫んだ。

追い込まれるミディアムが、兄の高らかな声にちらと視線を向ける。あるいは、起死回生の助言が飛び出すのかと期待されたが――、

 

「――頑張れ!!」

 

飛び出したのは、紛うことなき根性論だった。

それを受け、スバルの思考が空白を生み、ジャマルも呆気に取られる。

しかし、血の絆で結ばれたミディアム・オコーネルは違った。

 

「頑張る――!!」

 

兄の声援を受け、吠えるミディアムの蛮刀が唸りを上げる。

防御に専念していた姿勢から一転、猛然と攻撃へ移り、振るわれる蛮刀の嵐がジャマルの全身に襲いかかった。

 

「帝国軍人に、破れかぶれの猛進が通用するかよ……!」

 

「うぎい!」

 

しかし、その猛烈な攻撃を双剣で受け流し、ジャマルの反撃がミディアムへ刺さる。

彼女は腕や足に裂傷を負い、血を流しながら痛みに顔をしかめ、それでも防御に回す手数を攻撃に回し、ジャマルの足止めを敢行する。

まさか、このままジャマルの足止めに残る気なのかと、スバルは「それはダメだ」と必死で叫ぼうとして――、

 

「これを」

 

「うお!?レム、何を……ロープ?」

 

叫ぼうとしたスバルの胸に、レムが押し付けたのは荷台にあったロープだった。

見れば、ずいぶんと長いそれは積み荷を固定するためのものらしく、太くて頑丈そうなものだ。ただ、これで何をすればと、そう困惑するスバルの前で、

 

「――眼帯の人!」

 

そう叫び、立ち上がったレムが荷台に積まれた木箱を担ぎ、それを豪快にジャマル目掛けて放り投げた。

呼ばれたジャマルは「ああ?」と振り返り、眼前に迫る木箱を見ると、煩わしそうに腕を振るっていとも容易く木箱を真っ二つにした。

そして、木箱の中に詰まっていた香辛料を全身で浴びる。

 

「ぐおあ!?な、これは……」

 

舞い散る粉末に視界を覆われ、ジャマルが苦しげに腕を振る。その瞬間、生まれた隙にミディアムが乗じようと、蛮刀でその背中を狙おうとするが――、

 

「ミディアムさん!」

 

それより早く、ファロー車がミディアムとジャマルの戦場へ到達する。そして、スバルはレムから渡されたロープを振りかぶり、ミディアムへと投げた。

それを見て、ミディアムはジャマルへの攻撃ではなく、ロープを掴むことを優先する。

 

「捕まえた!」

 

「合点承知!」

 

ミディアムの声がした瞬間、スバルはロープにかかる加重に全身で耐えた。足を荷台に突っ張り、ミディアムの体重を支え、彼女の帰還を手助けする。

ロープを頼りに跳躍し、ミディアムがファロー車の荷台へ戻ろうと踏み込む。

それでミディアムを回収し、正門を突破して外へ――、

 

「だから、逃げられると思ってんじゃねえ!」

 

瞬間、香辛料の煙を切り裂いて、激怒したジャマルが飛び出してくる。

そのまま、ジャマルは跳躍の姿勢に入ったミディアムの背中を狙い、双剣を容赦なく叩き付けようとした。

あわや、ジャマルの一撃にミディアムが血の海に沈む――。

 

「ぶ」

「これが、川辺でのお返しです!」

 

そのジャマルの顔面を、荷台のレムが投げた背負子が直撃する。

フロップたちへ譲ったはずの背負子は、ジャマルの顔面と激突してバラバラに砕け、その役目を完全に終えた。

ジャマルがひっくり返り、ミディアムがファロー車へ帰還する。彼女は持っていた蛮刀を荷台に投げ出すと、その場で大の字に寝転がった。

 

「あぶあぶあぶ、危な!危なかったー!あんちゃん、危なかったー!」

 

「おお、そうだな、妹よ!旦那くんと奥さんもよく頑張った!助かったぞ!」

 

「ホントホント、ありがと!助かったー!」

 

「と、とんでもねぇよ。助かったのは完全に俺たちだ」

 

荷台に戻ったミディアムと、それを喝采するフロップ。

だが、兄妹の感謝は見当違い。とにかくこの街では、オコーネル兄妹に最初から最後まで助けられっ放しだった。

挙句、彼らをスバルたちの事情に巻き込んでしまい、なんと詫びたらいいのか。

 

「止まれ――!止まれ!とま……うおお!?」

 

激走するファロー車を止めようと、立ち塞がろうとした門兵が横っ跳びによける。

その脇を勢いそのままに通り抜け、スバルたちを乗せた牛車はグァラルの正門へ。そのまま検問の行列を混乱させながら、一挙に都市の外へ飛び出す。

 

グァラルでの滞在時間、わずか三時間足らずというとんでもない事態だ。

だが、何とか検問を突破し、正門を抜ける。ボテクリフには頑張ってもらい、今しばらくは走り続けて追手を振り切ってもらわなくてはならない。

それから、フロップたちに今後の話を――、

 

「――――」

 

激しい揺れの中、正門を突き抜け、都市の外へ。

視界が開け、だだっ広い平原と地平線が見えて、いよいよ脱出という瞬間だった。

 

――門の真上から、斧を振りかぶった人影がスバル目掛けて落ちてきたのは。

 

「おおおおあ!」

 

振り下ろされる一撃が、スバルの頭頂部に唐竹割りに落ちてくる。

それはレムも、ミディアムも、もちろんフロップもルイも反応できない一撃。予測していなければ防げない、悪夢の一撃だった。

だが――、

 

「――くると思ってたぜ」

 

打ち下ろされた斧の一撃を、スバルはミディアムが荷台に落とした蛮刀で受け止める。

スバルたちの脱出が成功する瞬間、一番気の緩むタイミングを狙い、標的であるスバルの頭に一撃をぶち込んでくると、そう睨んでいた。

 

――トッドならそれをすると、五度の恐怖がスバルにそう確信させていた。

 

「お前さん、やっぱり殺しておくべきだなぁ!」

 

「ぐぐ……!」

 

凶気を目に宿したトッドが、強引に斧を押し込み、スバルを断ち割ろうとする。

スバルも蛮刀で受けたはいいが、衝撃に両手が痺れ、取り落とすのも時間の問題だ。

 

レムもミディアムも、この命懸けの鍔迫り合いに間に合わない。

せっかく致命の一撃を避けたのに、このままトッドに殺されて――、

 

「あーうー!!」

「うお!」

 

その、押し込むトッドの斧の力が唐突に弱まった。

顔をしかめるスバルが見れば、トッドの体に組み付いていたのはルイだった。金髪を振り乱し、ルイがトッドの暴挙を止めようと必死に足掻いている。

 

「邪魔するな、ちびっ子!」

 

「あうっ」

 

そのルイの妨害を振り払い、トッドが肘で容赦なく少女の顔を殴りつけた。肘鉄を喰らい、ルイが悲鳴を上げてひっくり返る。

 

「――ッ、クソったれがぁ!」

 

それを見て、スバルは奥歯を噛みしめ、強くトッドを押し返した。

とっさのことにトッドが踏鞴を踏み、鍔迫り合いの姿勢から距離が開く。だが、それはかえってトッドの射程だ。長柄を振りかぶり、次なる一撃がくる。

その前に――、

 

「――見てんだろ!やってくれ、クーナ!ホーリィ!!」

 

トッドの一撃がくる前に、スバルが血を吐くような勢いで絶叫する。

その声が、どこまで平原に響き渡ったものかはわからない。

わからないが――、

 

『じゃあナ、スバル。忘れるなヨ、アンタを見てル』

『なノー!』

 

その声が返事のようにスバルの頭蓋に響いて、刹那、風切り音が空をつんざいた。

そして、風切り音は真っ直ぐにトッドの横腹へ吸い込まれ――、

 

「か」

 

微かな苦鳴を残し、トッドの体が猛烈な勢いで横にブレ、吹っ飛んだ。

体を荷台に残しておけず、猛然と横回転する勢いのまま、トッドはファロー車から振り落とされ、硬い地面の上に受け身も取れずに転がり落ちる。

二転、三転と転がり、遠く、遠く、なっていく。

 

「はぁ、はぁ……」

 

「い、今のは……?」

 

吹っ飛んでいったトッドのいなくなった牛車の荷台、スバルは蛮刀をその場に落として膝をつき、肘鉄を受けたルイをレムが抱き起こしている。

レムも、何が起きたのかわからないという顔をしているが、スバルにはある種の、門の外へ飛び出すことができれば助力があると、そんな確信があった。

その確信の根拠は――、

 

「あの、性格の悪いクソ皇帝……戻ったら、絶対ぶん殴ってやる……」

 

力なく、荷台に倒れ伏したスバルは、何もかもわかっていただろう性悪男の顔を思い浮かべながら、そう憎々しげに吐き出した。