『氷炎の結末』
立ち上る紅蓮の炎を両腕に宿し、怒声を張るシリウスの形相は悪鬼めいている。
包帯越しにそう感じるのは、常軌を逸した激情に支配される双眸が原因だ。
平時なれば吸い込まれそうなほど澄んだ薄紅の瞳は、両腕を焼き焦がす炎のような熱を帯びて、憎悪のままにスバルたちを睥睨している。
否、それは正しくはない誤った表現だ。だって、
「臭う。臭う臭う臭う臭う臭う臭う臭う臭う、売女ァ……!」
呪詛をばら撒くシリウスの眼中に、スバルの存在など微塵も入っていない。
シリウスが一心不乱に眼光で射殺そうとしているのは、スバルの前に立つ二人――エミリアとベアトリスの二人に他ならなかった。
「なんだ、あいつ。これまでと全然違うじゃねぇか……」
激昂するシリウスの様子に、スバルは動揺を隠せない。
短期間に三度、スバルは正常――そう言っていいかは疑問だが、シリウスと対峙してきた。その邂逅の中でシリウスの様子は、決して常識人とは言えないまでも、理性を飛ばして激情に支配された存在ではなかった。
あくまで理性的に、トチ狂った持論を押し付ける破綻者であったはずだ。
それが目の前のシリウスはどうだ。
明らかに平常心を失い、激怒に支配されるその姿は。まさに『憤怒』担当を名乗るに相応しい姿ではないか。
「蛆蝿みたいに焼いても焼いても湧き上がり続けて……何の恨みがあるんだ、ええ!?私には悲しみに暮れて、喪に服すだけの自由もないって言うのか?」
「……あなたが何を言っているのか、私にはわからない」
「はあ!?」
唾を飛ばし、難癖としか思えない言い掛かりをつけるシリウスにエミリアが物怖じせずに応じる。それに対するシリウスの返答も苛烈だが、エミリアは怯まない。
彼女は手にした氷の剣の先端を、シリウスの背後に並ぶ群衆へと向け、
「あなたが私に怒ってるなら、話を聞くわ。いきなり仕掛けたのはこっちだから、あなたが怒るのも当然だもの。でも、周りの人は関係ない。解放してあげて」
「上から目線で物事言ってんじゃぁない!譲ってほしいなら態度で示せ!!怒るのが当然ン?なら謝れよ!謝って謝罪して這い蹲って泣き喚いて許しを乞うてその上で、尻の穴から火を入れて内臓を焼き焦がしてやる!」
「お腹を焼かれるのは困るわ。――だから、話し合いしやすくしてあげる」
激昂するシリウスが、エミリアの声が低くなったのを聞いて首を傾げる。
その直後、エミリアはわずかに上体を前に倒して、その細身を前へと飛ばした。白い腕が氷の長剣を、まるで重みがないかのように軽々と振るう。
鋭い先端が光を浴びて煌めきながら、シリウスの肩口を狙って放たれた。
「エミリアたん!?」
「――ちぃっ!」
スバルの驚愕の声と、シリウスの舌打ちが重なる。
振るわれる長剣を前に、シリウスはとっさに左腕を掲げ、燃え盛る炎でもってエミリアの氷剣へ対抗しようとする。しかし、
「クソ半魔ぁ!」
「そんなに何度も言わないで。汚く思われちゃう」
飛ばした唾が蒸発するほどの炎を浴びながら、エミリアの氷剣は溶けなかった。
青白い切っ先は炎に負けず、シリウスの炎に包まれた左腕を直撃――ただし、そこにはシリウスが雁字搦めに巻いた鎖がある。
甲高い軋る音が鳴り響き、氷剣と炎腕がマナの輝きを散らして激突。ほんのわずかな拮抗の後、エミリアの氷剣が音を立てて砕け散った。
「ざ、まぁ――!」
柄だけになった氷剣を見て、シリウスが勝ち誇った顔で腕をエミリアへ叩きつける。炎の熱を帯びた腕の鎖は、殴った相手の傷口を焼いてズタズタに抉る凶悪な代物だ。
あわやエミリアの美しい顔が傷物になる――寸前、
「よしょっ!」
場に見合わない掛け声がして、今度はシリウスの腕が下から上に弾かれる。
それを為したのはエミリアの氷剣、だったものだ。
「ああ、あああ!あああああ!煩わしい!」
シリウスが絶叫し、燃える両腕を頭上で交差する。
その交差した腕の中心に叩きつけられるのは、エミリアが振るった一撃だ。
氷剣の柄から刀身だった部分にあるのは、剣から形を変えた氷の槌だった。両腕で振り下ろす打撃の重さに、シリウスが歯軋りしながら後ずさるのをエミリアが追う。
「えい!てい!やっ!それ!うりゃ!うりゃうりゃ!」
「クソが!半魔が!蛆蝿が!虫けらが!苛立たしい腹立たしい!」
遠心力と絶妙な体捌きで、想像以上の近接戦闘力を発揮してみせるエミリア。
振るわれる氷の槌の打撃に、シリウスは炎をまき散らしながら防戦一方だ。完全にエミリアが押しているのを見て、このままならば勝てると第三者目線からスバルは判断する。判断するが、
「って、呆けてる場合じゃねぇ!エミリア、ダメだ!」
「スバル、今は気を引いたらダメなのよ!」
エミリアがシリウスを撃破すれば、その時点で周囲に『死』が共有される。
その危機感からスバルは声を上げたが、とっさの判断をベアトリスが非難した。何事か、とスバルはベアトリスを見て、彼女の視線の先の剣呑さに気付く。
「――クソ虫が」
「やべ」
そこには顔を真っ赤にして、常軌を逸した目でスバルを睨む群衆の姿があった。
スバルとベアトリスの二人を見て、口汚く罵る姿はシリウスの姿そのものだ。群衆は完全に、シリウスの『憤怒』を共有しているものと思っていい。
そして彼らの怒りは今まさに、スバルたちへと向けられようとしている。
「感情の共有だけじゃなくて、自分の手駒みたいに洗脳することもできるのかよ」
「言ってる場合じゃないかしら。打開策がない以上、逃れるしかないのよ!」
厄介さにスバルが呻き声を漏らした直後、ベアトリスがスバルの背中に飛びつく。軽い体に手を添えて支えたスバルへ目掛け、群衆が一気に押し寄せてきた。
「エミリア!長引かせてくれ!」
「あんまり無茶、できないからね!」
エミリアの力強い応答を得て、スバルは群衆から逃れるために後ろへ加速。幸い、正気をなくした人々の足取りは平常とは程遠い。
スバルを求めて両腕を突き出し、虚ろに怒りの言葉を漏らす姿は、ある種、ゾンビのようなものに見えなくもない。違いは意識があることと、スバルを食らうのではなく引き裂くのが目的であることぐらいか。
「このまま時間を稼げば、異変を察して誰かが……」
「辿り着いても、状況を打破する条件が見えない間は意味がないのよ。ラインハルトが辿り着きでもしたら、それだけで事情は詰みかしら」
「とりあえず、すぐに呼び出される心配はねぇよ」
なにせ、ラインハルトを呼び出す要員であるラチンスは、顔を真っ赤にして絶賛スバルの追っかけ中だ。周りにいる人々を押しのけて、一、二を争うほどのやる気を見せようである。
シリウスの共有を受ける前の、スバルに対する心象の影響があるのかもしれない。
「とかなんとか考え事してるとぉ!!」
「クソ虫がぁ!」
真横から伸びてきた腕に捕まりかけて、スバルはとっさに頭を下げる。真上を抜ける相手の懐に飛び込み、足を払って転ばせると、その体を前へと蹴飛ばした。
無思慮に突っ込んでくる群衆が、足下を転がる男にぶつかって大きく転倒。まるでボーリングのピンのように頭の空っぽな様子に、スバルは首をひねり、
「怒り心頭のあまり、頭がちっとも回ってねぇぞ?」
「けど、今のやり口もあまりおススメできないのよ。あの雰囲気だと、うっかり仲間を踏み殺すことも何も躊躇いそうにないかしら」
「それは困る!」
犠牲者は出したくない。
スバルがこうして何度も奮戦するのも、その最大の目的があってこそだ。
無論、スバルとて手が届かない範囲があることは理解している。
守りたいものがたくさんある。だが、守れるものには限りがある。
それは全知全能ではないナツキ・スバルにとって、当たり前のことだ。
「でも、その『限り』を自分で決めるつもりはねぇよ!」
「それでこそ、ベティーのスバルなのよ!」
背中から最大の声援を受けて、スバルは腰の裏から愛用の鞭を引き抜いた。
命はできる限り助ける。なので、多少のダメージは勘弁してねがスバルの心情。突っ込んでくる群衆の足下を狙い、スバルの鞭が音を裂いて発射される。
小規模の雷が落ちたような音が鳴り、群衆の足下の石畳に亀裂が走った。
いかに非力で殺傷兵器ではない鞭とはいえ、手加減抜きに全力で振るえば相手から抵抗力を奪う程度の威力は出せる。
できるならその威力を目の当たりにして、大衆が怯んでくれれば御の字だが、
「そううまくはいかねぇ、か!」
ならば仕方がない。
群衆の足下を打ち抜いた鞭を即座に引き、スバルは今度は先頭の人物に狙いをつける。中肉中背、薄く青みがかった髪に鋭い目つき。っていうか、ラチンスだ。
知り合いだ。さすがのスバルも心が痛む。
「痛むけど、顔も知らない人よりはマシだ!悪い、チン!」
「俺はチンじゃ、はぶっ!?」
条件反射で叫ぶラチンスの足を、鞭で絡め取って一気に引っ張り上げる。その場で軽々と半回転するラチンスの体が、周囲の人々を巻き込んで一気に将棋倒しだ。
それをやりながらも、スバルは自分の体を群衆の進行方向から大きく左方へ。将棋倒しになる一団が踏みつけられないよう、後続の足の踏み場を別へ誘導する。
「理性が欠けてる分、これなら意外と俺でも時間が――」
稼げる、と言おうとした瞬間、スバルのうなじを寒気が駆け上がる。
その感覚はまるで、スバルにとっては一方的に親しくされている鬱陶しい隣人のようなものだ。出くわしたくないにも拘わらず、出くわすたびに有益なものをスバルに教えてくれる類の、難しい関係。
――つまりはそれを、『死』の気配という。
「あっぶっ!!」
「蛆蝿がぁ!」
恐ろしい風切り音を上げて、スバルの頭上を大剣が振り抜かれる。
それは集団から跳躍一つで飛び出し、スバルの首を一足で狙った獣人の男だ。尖ったイヌ科の耳に突き出した鼻と口だが、よく見れば老獪な愛嬌のある顔立ちが狐に似ていることにスバルは気付く。
狐男は腰から伸びる豊かな白い毛の尾をピンとさせ、空振りにめげずにスバルの首を切り離そうと斬撃を幾重にも放ってきた。
「ベア子!」
「シャマク!!」
「――!?」
まともに相対しては五秒で手足が切り落とされる。
彼我の戦力差を一瞬で判断し、スバルはベアトリスの名前を叫んだ。それだけでベアトリスはスバルの意図を察し、狐男の顔面を中心にシャマクを展開。
細身の長身と大剣が黒い靄の中に呑み込まれて、一瞬で戦闘力を喪失する。
「これで他の人との感覚共有のリンクが切れたんじゃないのか!?」
「手応えがないかしら!戦闘力は奪えても、リンク自体は切れてないのよ!たぶんあの変態が死んだら、道連れにされる呪縛は解けてないかしら!」
「どうする!?」
「一生懸命考えてるのよ!」
謎の解明はベアトリスに任せるしかない。
スバルにできることは、ベアトリスに考察の時間を与えつつ、彼女の手を煩わせずに怒れる群衆の魔の手から逃れ続けるのみ。
「エミリアたんの方は――」
シリウスと真っ向勝負のエミリアが気にかかり、スバルはそちらへ目を向ける。
この一年で、エミリアが政務の傍ら自らを鍛え上げ続けていたことは知っている。その戦闘力がスバルより明らかに高いことも、意欲が強いことも承知の上だ。
それでもスバルはエミリアが心配だった。どっちが強いとかの話ではない。スバルが男で、エミリアが女であることが全てだ。
人によってはつまらないと言い切られるそんな心配。それは、
「てりゃ!そや!そぉい!」
相変わらずどこか気抜けする掛け声を上げながら、猛攻でシリウスを追い込んでいるエミリアにはどこ吹く風といった様子だった。
身を回し、エミリアが手にした氷の双剣をシリウスへと叩きつける。焼けた鎖を旋回させ、シリウスは口汚く何かを叫びながらそれを撃墜。
甲高い音と氷の飛沫を上げて氷剣が砕け散るが、屈んだエミリアが真下から両腕を突き上げたとき、そこには氷の槍が握られていて、先端が防御するシリウスの体を豪快に弾き飛ばした。
自身の膨大なマナの貯蔵量を活かした、壊れること前提の氷の武器の錬成。
『アイスブランド・アーツ』とスバルが名付けた戦闘技法は、その砕け散る氷の儚げな美しさもあって、まるで妖精が舞を踊るような幻想的さを孕んでいる。
戦いの中で砕かれたいくつもの氷の残骸、それがエミリアとシリウスの激突の激しさを物語っている。散らばる氷を置いた舞踏場で、二人の戦士は炎と氷という相反する武器を手に、死闘を演じ続けていた。
「えい、やっ!」
吹っ飛ぶシリウスを追い、氷槍を回すエミリアが石突を突き上げる。宙でその一撃を受けるシリウスは巧みに足を捌き、打撃の先端を逸らして石突を掴み取った。
「滾る灼熱!心の震え!ああ、あああ!ああああ!『憤怒』ぉ!」
「きゃっ!?」
シリウスの叫び、それに呼応するように熱エネルギーのプラスとマイナスが逆行。
エミリアの氷槍が一瞬で炎の槍へと姿を変えて、その熱にエミリアは思わず手を離す。途端、炎の槍を構えるシリウスが着地し、一気に逆襲にかかった。
「男を誘う紫紺の瞳!男を誘う鈴の音みたいな声!男を誘う柔らかな銀髪!男を誘う色白の肌!男を誘う愛らしさを装う顔!ああ、淫売め!売女が!汚らわしい!いやらしい!そうまでして、男を骨抜きにしたいのか!そうまでして、私からあの人を奪うのか!この泥棒猫め!泥棒半魔め!」
「やっ!ちょっと、変なこと言わないで!」
顔の横を抜ける熱波に目を細めて、エミリアは再び手の中に氷剣を生み出す。
三又に割れた炎の槍を、氷剣が真っ向から噛み合って止める。
激しく軋る音がして、牙を剥く怪人と強い眼光を宿すエミリアが睨み合った。
「この目も、声も、銀色の髪も!全部、私が大好きな人と同じもの!世界で一番、格好いい女の人と同じものだわ!それを変な風に言うなんて、怒ったわよ!」
「怒る!?怒るだと!?冗談じゃない!それは私のものだ!私があの人からもらった大切なものだ!この役割も、名前も、全てはあの人からの贈り物だ!それを勝手に、身勝手に、私から奪おうだなんて……やめろ!やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめてよぉ!!」
最後になるにつれて、悲痛に裏返るシリウスの絶叫。
怪人は腕の中の炎の槍をへし折り、短くなったそれを両腕で交互に叩きつける。炎剣の打撃に対し、エミリアも氷の双剣を生み出すことで対処。
だが、エミリアもシリウスの叫びに何かを感じ取ったのか、その横顔には先ほどまでの苛烈な使命感のようなものが薄れていっているように思えた。
「――マズイ」
そのエミリアの横顔を見て、スバルは直感的に状況の悪さを感じ取った。
根拠はない。しかし、確信があった。
エミリアの表情の変化は、つまりはシリウスに対する感情の変化だ。
彼女がいかに心優しい性格の持ち主であるとはいえ、戦いの最中にこうも容易く情にほだされるようなことがあるはずがない。それ以前に、情にほだされるような会話も成立していなかった。にも拘らず、あの反応があるのは、
「シリウスの術中に、エミリアが嵌まりかけてる」
だが、即座に手の内に落ちたわけではない。
シリウスの攻撃に対して、防戦に陥りつつあるもののエミリアは応戦している。群衆のように正気をなくしてもいないし、可愛いままだ。
それに今さらすぎる考察ではあるが――、
「そもそも、スタート時点で俺もエミリアもベアトリスも、シリウスの感情リンクの影響を受けてないってのは、なんだ?」
ラインハルトが抵抗できたように、エミリアやベアトリスにも抵抗力があるのか。あの感覚共有に個人差があるのかは議論の余地がある。ラインハルトが無事だったのは、ラインハルトだったからで思考放棄していたのも事実だ。
だがもしもそこに、それ以外の理由があるとしたら、それが条件だ。
三度、シリウスの権能の餌食になったスバルが今、こうして抵抗できていることも条件の加えていいはずだろう。
そこが突破口になるなら――、
「ベア……」
「スバル!!」
閃いた情報を伝えようとした瞬間、焦燥に駆られた声が耳朶を打った。
何事かと目を剥いた直後、衝撃がスバルの右の脇腹を突き抜ける。
「ごぇ――っ」
打撃の威力に体がくの字に折れかけるのを、スバルはとっさに左に身を飛ばすことで回避。多少なり一撃の衝撃を逃がしながら、胃液を吐いて今の一撃の確認。
そこに滑るように接近していたのは、影のような身のこなしをする眼帯の女。無手の女の掌底が、気を逸らしたスバルの胴体を打ち抜いていったのだ。
「スバル!死んじゃダメかしら!」
「いくら俺でも、今の一発でガメオベラするほどじゃねぇよ……ああ、クソ。でも効いた……っ!」
あばら骨が軋むが、骨も内臓も傷付いてはいないとスバルは判断する。判断したい。たぶん大丈夫だ。血が出てなければ怪我じゃない。そう言い聞かせる。
「どいつもこいつも、敵に回ったときばっか厄介な気がする……っ」
「敵が強いから頼りにならないように見えて、スバルが弱いから敵対すると強いように感じるだけなのよ」
「真理だ……!」
追い縋ろうとする眼帯女の足下を鞭で弾き、下に注意を向けたところで女の顔面に砂を投げつける。ただでさえ視界の悪い隻眼に砂を浴びて、悶える女を肩からの体当たりでひっくり返した。
「平均的に戦闘力が下がってるのが救いだ。まともにやったら半殺しにされてるだろ、俺だったら」
「……それを大歓迎できない理由が、どうやら増えるみたいかしら」
眼帯女を退けて一息つくスバルに、再びベアトリスの嫌な言葉。聞きたくないと思いながら首を傾ければ、ベアトリスが眉間に皺を寄せて顎をしゃくる。
彼女の示した方向、そちらは広場の外の大水路へと続いているが、
「嘘だろ……」
呻くスバルの眼前、大水路側の通りから続々と、赤い顔をした人々がよたよたと危うい足取りでこちらへと迫ってきているのだ。
「騒ぎを聞きつけた、野次馬だと思うのよ」
「それが効果範囲に入って、リンクに呑まれた……冗談じゃねぇぞ。あいつの権能は範囲型の上に伝染するのかよ」
――パニックは、狂気は、人から人へと伝染する。
シリウスの感情・感覚の共有はそれを如実に反映した結果をもたらしている。
ああ、なるほど。その被害の大きさの悪辣さは、ペテルギウスすら超える。
「逃げるほど被害者が増える……どうすりゃいいんだよ!」
「でも、いくつか変な部分もあるかしら。スバルがひっくり返した女や、シャマクを食らった狐男。それにチンカラホイのダメージが周りにいってないのよ」
真面目な場面なので、トンチンカンとチンカラホイを取り違えていることをスバルは指摘しなかった。それに確かにベアトリスの指摘は、シリウスの感覚共有の条件を推察する根拠になりえるものでもあった。
「……一思いに全員気絶させてみるか?」
「スバルにそれができる戦闘力があるなら、それも手段の一つだったかしら。――ベティーのシャマクで、全員の意識を奪ってみるのも手なのよ」
乱暴な手段だが、最初に考慮した手段でもある。
悩んでいる暇はない。スバルが逃げ続けることで、さらに被害者が増えることも避けなければならない。今はベアトリスの案に従って――、
「――う、ぁ!?」
「エミリア!?」
行動に移す寸前に悲鳴が上がり、スバルはそちらに気を取られる。
見ればエミリアが広場の石畳の上に横倒しになり、それを燃える両腕を掲げるシリウスが背を反らして見下ろしているところだった。
「増える!増える!『愛』の迸りが!数は力!束ねる力!一人はみんなのために!みんなは一人のために!人は愛し合い、一つになるもの!想いを共有し、願いを分かち合い、喜びも悲しみも掛け合い分け合い生きるもの!それならこの結末は必定!『愛』の輪に入れない半魔風情、ここで虫のように踏み潰されて消えてしまえ!」
最初は優勢であったエミリアが、次第に戦力が均衡になり、やがて劣勢に陥る。
時間経過するごとにシリウスが力を増したのか、あるいはエミリアの力が減退したのか。おそらくはいずれかであろう結果を前に、シリウスを見上げるエミリアは息を荒げながら悔しげな顔で、
「何か、何かが変よ。あなたの言ってることは、正しく聞こえるのに、間違ってるように思える……なんでなの?」
「真理に辿り着けていないからだ!お前が薄汚い淫売の半魔で、『愛』がなんたるかを知らずに生き、死ぬからだ!半魔は存在そのものが罪悪!お前が生まれたことも、お前の父親と母親が出会ったことも間違い!クソと虫が掛け合わせて、クソ虫が出来上がったクソ塗れの物語、これでおしまいだ!」
「――――っ!」
聞くに堪えない罵詈雑言の果てに、エミリアの瞳に宿る色が変わる。
それは心優しいエミリアであっても、聞き逃すことができない罵声。彼女の存在だけでなく、その両親の出会いと結果すらも貶める最低の雑言。
唇を噛み、エミリアが石畳を叩いて跳ねるように立ち上がった。そして目を剥くシリウス目掛けて、真下から青白い輝きが伸び上がる。
「――――」
青い剣閃が走り、のけ反るシリウスの閉じたコートを刃が浅く斬り裂いた。
踏鞴を踏んで下がる体に、怒りに燃えるエミリアが畳みかけようとする。振り上げた両腕が、氷剣で目の前の痩身を叩き切ろうとし――、
「――え」
「んん~~っ!」
――シリウスのコートの下、鎖で雁字搦めにされた少女を見て動きが止まった。
金色の巻き毛の少女は、いつか見たルスベルと同じように拘束され、口の端から血を流しながら滂沱と涙をこぼしている。その体はしっかりと、シリウスの細い体に括りつけられている。
ティーナと、覚えのある名前がスバルの脳裏を過った。
「――その『憤怒』、お前が持つのは勿体ない」
少女の正体に気付いたスバルと、少女の涙を見たエミリアを同時に怒りが支配する。その瞬間にシリウスはこれ以上ないほど凶悪に笑い、一段と勢いを増した炎の波がエミリアの体を凄まじい勢いで吹き飛ばした。
爆音と爆風が吹き荒び、エミリアの体が軽々と後方へ煙を引いて飛ぶ。
そのまま受け身も取れずに石畳をバウンドし、彼女は大の字に広場の真ん中に転がっていった。
「ぁ、ふ……」
身悶えし、エミリアは虫の息で苦痛の呻きを漏らす。
そのエミリアを見ながら、シリウスは両腕だけを焼いていた炎を、今や遠くからでも見通せるほどに高々と火の手を伸ばして手を叩く。
「甘美な激情を、虫が抱くな。反吐が出る」
「――っ」
「それじゃ、ありがと。ごめんね」
両腕を頭の上で組んで、シリウスの抱く炎の渦がその凶悪さを一段と増す。
触れるだけで鉄をも焦がす劫火は、振り下ろされればエミリアの存在を影すら残さずにこの世から焼失させるだろう。
今すぐにそれを止めなくてはならない。エミリアを助け出し、この場からの離脱を測らなくてはならない。それがわかっているのに、
「動けよぉ、足ぃっ!」
「んんん~~!」
スバルの足はガクガクと、まるで恐怖に竦んだように動かない。
そのスバルの体の異変は、シリウスの胴体に拘束されている少女の目を見た瞬間から始まってしまっていた。背中のベアトリスも、歯の根を噛み合わせられずにいる。
感覚共有は、精霊にも有効なのだ。馬鹿な。今はそんなことを考えてる暇は、
「え、みりあ……っ」
引き攣る喉が震えて、愛しい少女の名前を呼ぶこともできない。
きっとその声はエミリアに届くこともなかっただろう。
石畳の上で力なく倒れるエミリアは、自分の眼前に迫る劫火を前に何を思ったのだろうか。
――それも、全てが焼き焦がされる音にかき消されてもはや誰にもわからない。
凄まじい熱量が広場の石畳を焼き、熱波が衝撃となって世界を黄金色に染める。
いっそ神秘的な光景を前に、スバルはその場に膝を落として震えていた。
「すば、る……」
背中に乗っているベアトリスが、たどたどしい声でスバルを呼ぶ。
その声に反応することができない。視線を真下に落としたまま、スバルは全身を支配している恐怖に呑まれたまま、現実を直視することを拒否し続けていた。
今、顔を上げれば、炎の落ちた場所を見てしまえば、恐怖に負ける。
否、すでに負けている心が折れ砕けてしまう。
エミリアが焼け焦げて、この世から消えた痕跡など見てしまえば――。
「すば、すばるっ。スバル!」
それでもなおも必死に、ベアトリスはスバルの名前を呼び続ける。
何度も頭を叩かれて、スバルはそれにさえ恐怖を感じる怯えた心を抱えたまま、ゆるゆると首を横に振り続けた。
無理だ。たとえ目の前に怪人が立っていたとしても、スバルは――、
「――間に合った」
だが、その声が聞こえた瞬間に、スバルの心は目を逸らす恐怖ではなく、知ることができない恐怖に負けていた。
顔を上げ、声の方向――エミリアの焼失地点へと目を向ける。
そこに、一人の男が立っていた。
焼け焦げ、今も黒煙がたなびき、石が熱を帯びて弾ける音が鳴る惨状。
そこに、一人の男が悠然と立ち尽くしていた。
そして、その男の腕の中には――、
「えみ、りあ……」
炎の中に消えてしまったのだと、そう諦めた少女の姿があった。
その目を閉じてぐったりとしているが、肉体はどこも損耗していない。
蓄積したダメージと目前に迫った恐怖の象徴に意識を奪われてこそいたが、エミリアは無事だった。無事であってくれた。
「お前は……」
突如として現れて、エミリアを救い出した人物。
エミリアの無事を、恐怖する心が素直に祝うことを拒む中、スバルは震える声でその人物の背中へと声をかけた。
それを聞いた男が反応し、こちらへと振り返る。
そして彼は言った。
「僕は彼女を迎えにきた。間に合って本当によかったよ」
「む、かえって……いったい」
「――妻とする女性の手を取るのは、当然のことじゃないかい?」
突然の言葉に、スバルは絶句する。
息を詰まらせて硬直するスバルに、その男――白髪の青年は薄く笑って、
「僕は魔女教大罪司教、『強欲』担当。――レグルス・コルニアス」
何のてらいもなく、当然の事実を告げる顔で言った。
「約束通り――彼女を僕の、七十九番目の妻にする」