『敗戦処理』
遠く、遠く、声が木霊している。
誰のものかわからない声。どこから聞こえているのかわからない声。
男か、女か、上からか、下からか、わからない声。
『――――』
雄叫びのような声だった。
嘆きのような声だった。
糾弾されているようでもあった。
啜り泣きのようにも聞こえた。
声だった。
声が滝のように降り注ぎ、高波のように押し寄せ、渦のように掴んで離さない。
まるでようやく出会えた誰かに、ずっと抱え込んでいたものを伝えるように。
声の濁流に押し流されて、自分がどこにいるのかを見失う。
手も足も、頭も尻も、胸も背中も、全部一緒だ。溶けて、溶けて、溶け合って。
いずれはかろうじて理解できた自分という存在すらも、垂れ流される膨大な量の声の中に呑み込まれて、飛散するように体を失っていく。
黒い澱みが、感じる世界を飲み干していくのがわかった。
そのまま全ての澱みが、肉体を侵し切ろうとして、抗うことのできない緩やかな終わりに身を委ねようとして、気付く。
決して解かれ得ぬほどに絡みついた糸が、その浸食を拒んでいるのを。
散り散りに、飲み干すのに、覆い尽くすのに、決して阻まれまいと主張する糸に。
体の内側で蠢くモノ。絶対に、どちらかが肯定的というわけではない。
ただ人の体の中を戦場に、互いの存在を主張し合うだけの澱みだ。
それはやがて、やがて――。
※※※※※※※※※※※※※
「――――」
最初に耳に飛び込んできたのは、誰かの怒鳴り声だった。
ひどく甲高いそれを耳にして目を開ければ、視界に白い天井が浮かび上がる。同時に自分が固い床に、手足を投げ出して寝転がっていることに気付いた。
「――い、役立たず!」
意識が覚醒し、先ほどよりはっきりと罵声が形として捉えられる。
聞くだに堪え難い怒りに装飾されたその声は、感情の炸裂に行動まで伴っていた。平手が肉を打つ、渇いた音が響き渡る。
「やめるんだ!そんな風に責めてどうなる。誰か一人に責任があることじゃない。それは君もわかっているはずだ」
「うるさい!そんなおためごかしが聞きたいんじゃない!外野は黙ってて!」
もみ合う気配と、収まらない憤激。
反響する声の感覚から、広い部屋だが同室の出来事だとうっすら感じ取る。そのまま手を伸ばし、左手が壁に触れるとそれを支えに体を起こそうと試みる。
途端に、頭蓋を釘打ちするような鋭い痛みが走り、息が止まった。眼球に裏に火薬を仕込んだように視界が破裂し、意識が真っ赤に染まる。
痛みと衝撃に打ちのめされながら体を起こせば、どうにか上体を起こした先ではもみ合いの現場がそのまま展開されていた。
――部屋の真ん中で組み合うのは、三人の男女。否、三人の男だ。
涙目のフェリスがヴィルヘルムに掴みかかろうとするのを、必死にユリウスが制止している。先ほどの渇いた音はヴィルヘルムが頬を打たれた音だったらしい。頬をわずかに赤くした老人が、力なくフェリスの視線に首を落としていた。
「……申し訳の、しようもない」
「言い訳してよ!何か理由があって、だから仕方なかったんだって、そう言って私を納得させてみてよ!謝ったって、謝られたって、何にもならない!」
「フェリス、それでは筋違いだ。ヴィルヘルム様だって、悔やんでおられる」
「悔やむ……!?悔やんで何になるの?役立たず!意気地なし!みんながみんな……どうしてなの……?なんで誰も、クルシュ様を……」
声を荒げ、フェリスの視線がヴィルヘルムを、ユリウスを突き刺し、すぐに矛先を見失ったようにその場に膝から崩れ落ちる。
涙声のフェリスの糾弾に、二人の男は何も言うことができない。そんな二人に見下ろされながら、フェリスはその白い手で床を掻き毟り、
「何が『青』……こんなときに、お役の一つにも立てないで何が……!役立たず……役立たず役立たず役立たず……っ」
床に涙をこぼし、フェリスの弾劾は呪うように続く。
だがそれが、怒りのぶつけ先として周りの誰かに向けられているならまだマシだった。それがどうしようもない、自分への怒りだと気付いてしまえば、誰も彼の悲嘆に言葉を差し挟めなくなるのも道理だった。
「――――」
啜り泣くようなフェリスの声に、ユリウスの嘆息が入り交じる。ヴィルヘルムは黙したまま何も語らず、沈鬱な雰囲気が三者を中心に部屋に立ち込めていた。と、
「よォ、大将。目ェ覚めッたのかよォ」
そんな三人を為す術なく見ていたスバルに、扉をなくした入口を抜けて顔を出したガーフィールが気付いた。そのガーフィールの声に、ユリウスらもスバルの目覚めにこちらへと振り返り、安堵の表情を浮かべる。
「よかった。スバルも目覚めてくれたようだ。フェリス」
「……わかってる」
ユリウスの呼びかけに、乱暴に袖で顔を拭ったフェリスが立ち上がる。彼は今しがたの醜態を感じさせない素振りでスバルへ歩み寄り、戸惑うスバルの体にてきぱきと触れて、最後にじっと目と目を合わせると、
「ん、大丈夫そう。意識も平気、だよね。自分の名前と出身、言える?」
「名前は、ナツキ・スバル。出身は日本だ」
「聞いたこともない田舎だね。……私はクルシュ様のところにいるから」
スバルの返答につまらない冗談を聞いた顔をして、尻をはたきながらフェリスはとっととこの場を立ち去ってしまう。すげない言葉に応答することもできず、全員が無言でその背を見送る。
ただ、ヴィルヘルムだけがフェリスの後ろを追うように歩き出した。部屋を出る直前に、老人は目礼だけをスバルへ残してフェリスと一緒に去ってしまう。
そうして二人が出ていってしまうのを見届けると、ようやっと部屋の中からピリピリした空気が薄れていくのがわかった。
ただし、代わりに沈鬱な雰囲気の方の存在が増すのも痛いほど感じてしまう。
「体ァ無事でも、無理はすんなよ、大将」
「……お前の方こそ、顔色が最悪だぞ」
壁に背を預け、足を投げっ放しにしたスバルにガーフィールが声をかけた。その顔を見返し、憔悴した色の濃い少年にスバルは声の調子を落とす。
顔と金色の髪に渇いた血がこびり付き、衣服にも複数の裂け目がある。顔色の悪さは負傷したミミを連れて避難所へ現れたときと同じか、悪いぐらいだ。
そこまで考えて、ようやくスバルは遅れてきた思考に一つの帰結を得る。
「死んで、ねぇってことらしいな」
「あァ。俺様ッも大将も、きちっと生き残ってんぜ。たァだ、それで全部が大歓迎ってェわけにゃァいかねェよ。くそったれ」
掠れたスバルの呟きを肯定し、ガーフィールが忌々しげに牙を鳴らす。
それを横目にしながら、スバルは改めて自分の生存――つまり、『死に戻り』の不発と、都市庁舎奪還作戦の終端を見届けていないことを理解する。
当然、生き残ったからには誰かに救出されたはずだが――、
「都市庁舎は……どう、なった?俺はどうやって、ここに……」
「どうも何もない。君もいるこここそが、その問題の都市庁舎だ。魔女教徒は建物を放棄し、私たちは目標の建物を奪還した。結果だけを見るのであれば、そう言うこともできるかもしれないな」
途切れ途切れのスバルの問いかけに、正面に膝を落とすユリウスが答えた。
近くで見れば、『最優の騎士』の有様もずいぶんなものだ。髪は乱れ、頬や首筋には打たれた痕も見える。騎士服の装いも血に汚れ、無事とは言い難い姿だ。
何よりその整った顔立ちに、らしからぬ悔恨と屈辱が色濃く刻まれている。
「まず、君が目覚めて何よりだった。この上、君までどうにかなってしまえば、我々の士気は取り戻しようがなくなるところだったのでね」
「……いらねぇ話は飛ばせ。何があったんだ。士気がどうとか、そういうのはどうでもいい。魔女教が建物を放棄とか、何が……いったい何が!」
「言葉通りだよ。魔女教徒が建物を放棄し、都市庁舎は私たちの手に戻った。その姿を人ならざるものへ変えられた人質たちと、目的を達した魔女教徒の全員を取り逃がしたことを度外視すれば、喜ぶこともできたかもしれないな」
焦りに声が逸るスバルに対し、あくまでユリウスは淡々と事実を伝える。
しかし、その声音の固さと伏せた眼差し。何よりも、口にした事実の重々しさはユリウスをして義憤の色を声から隠し切れないほどだった。
そして、伝えられた内容にスバルが愕然となるのも隠せない。
「人、ならざる姿……ってのは」
「庁舎の最上階、君も見たはずだろう。あれは悪夢だが、夢で終わらない」
首を横に振り、ユリウスが残酷な現実を肯定する。
スバルの脳裏を鮮やかに、赤く光る複眼と助けを乞うような羽音の響きが蘇った。とっさに嘔吐感を堪えることができたのは、その悪夢の光景の真実が救いを求める人々が並んだ姿だったことに考えが思い至ったからだ。
心臓が締め付けられるように痛み、同情とも恐怖ともいえない感情が湧き上がる。
忌まわしき魔女教の怪物、大罪司教『色欲』のカペラは人間の尊厳と価値観を踏み躙り、それを嘲笑う最悪の存在だ。
あの怪物が弄んだのは、人の命だけでも心だけでもない、もっと尊いものだ。
「広場、そして庁舎の内部と最上階。個々の分断から時間稼ぎに至るまで、全て魔女教の掌で踊らされたと言っていい。じわじわと、その気になれば奴らは私たち全員を嬲り殺しにすることもできただろう。そうならずに済んだのは、君の機転と黒竜にされた人物の尽力があったからだ」
「俺の、機転……?」
「連絡用に持っていた対話鏡を、最上階への突入時点からずっと他の二つと繋いでいただろう?結果、アナスタシア様とフェリスに都市庁舎の状況が伝わった。『鉄の牙』の援軍と、フェリスの到着が間に合ったのは君の功績だ」
「そんなこと、慰めになると思うか?」
「……慰めのつもりなどないよ。私は事実を伝えただけだ。それをどう受け取るかまでは、君の心に任せることにするさ」
いちいち気取った答えだと、スバルはユリウスに苛立ちを感じる。だが、突き放すようなユリウスの応答も、彼が平静であれていない証拠だろう。
互いに精神状態も状況もよくない。スバルは深々と息をついた。
「さっき言ってたもう一個、黒竜の尽力ってのはなんだ?」
「最上階の出来事だ。君以上にはわかりかねるが……『色欲』の権能で、身代わりにされた人物がいただろう。権能のおぞましさもさることながら、驚くべきはその再現性か。黒竜と変化した人物は瀕死ながらも最上階へ這い上がり、『色欲』へ息吹を浴びせて手を引かせた。君が命を拾ったのも、その天の差配のおかげだろう」
ユリウスが語るのは、大部屋でクルシュに斬り裂かれ、そのまま外へ投げ出されたはずの黒竜に違いあるまい。
カペラの権能が変異・変貌であるなら、あの黒竜は都市庁舎にいた人質の内の一人だったはずだ。助けを求める声を聞き入れず、スバルたちはその人物を斬り捨てようとしたことになる。それほどの状況でなお、死力を尽くして戦ったならば。
「その黒竜の人は、今は……」
「死なせねェよ」
安否を案じるスバルに、ガーフィールがふいに静かな声で割り込んだ。
眉を上げるスバルにガーフィールは向き合わず、ただジッと天井を睨みながら、
「死なせねェ。死なせるなんて絶対にダメだ。助けねェと……じゃァねェと」
「ずっとその調子でね。どうやら、顔見知りの人物らしい。匂いすら別物になっているらしいが、確かにガーフィールにはそうした挙動を見せている。治療も、今は済んでいるよ。いくつか不安があるので、奥で休ませているが」
「顔見知りって、ガーフィールのか?いつの間に。この都市に知り合いなんて」
「――――」
スバルの驚きにも、視線を合わせないガーフィールは無言を守った。
ただ、恩人である黒竜の命が繋がれていることには安堵する。他の、あの蝿に変えられた人々の身柄も――。
「無事と言っていいものか軽はずみには判断しかねる。が、身柄は確保している。フェリスにも診てもらった後だ。期待は薄かったが……やはり、ね」
「フェリスに治せるような傷や病気の類じゃねぇってことか。……クソッ!」
思わず床に手を叩きつけて、スバルは己の肉体をなくした人々の心を思う。
いったい、どれほどの恐怖と喪失感が彼らを襲っていることだろうか。人でなくなることは、命を失うこととは別種の恐ろしさと残酷さがある。
命を失えば、そこまで生きてきた自分が終わってしまうことになる。
だが肉体の喪失は、自分が終わってしまったに等しいのに、終わっていないのだ。
癒せない呪いに苛まれる人々も、同じく都市庁舎の中に集められている。
頭上か階下か、いずれかに集められた人々の無念を思いながら、スバルはなおも確かめなくてはならないことの多さに思考を走らせるしかない。
生き残ったことがわかれば、次に疑問として浮かぶのは、
「お前もガーフィールも、怪我はないのか?」
「見ての通り、私とガーフィールに目立った傷はない。リカードも同じだ。屈辱的としか言えないが……手を抜かれていた」
「――――」
声に屈辱への噴気が入り交じり、ユリウスが固く唇を噛んだ。
彼の怒りのほどが伝わる様子と、相対していた相手を思い出してスバルにも同じだけの悔しさが込み上げた。
ユリウスが戦っていたのは、憎き『暴食』のアルファルドだ。
本音を言えば、奴だけはスバルがこの手で八つ裂きにしてやりたい。だが、仮にスバルが討てなかったとしても、討ち漏らしだけは避けたかった相手である。
その仇敵を逃がしたと聞いて、心穏やかであれるはずもない。
「……すまない。任された役目も果たせず」
「それを言い出したら、俺の方だってキリがねぇよ。……放送は、されちまったんだろ?奴らが目的を達したってことは」
「その通りだ。声は同じ、『色欲』のものだった。ただ……いや、これは詮無いことだった。とにかく、要求は行われた。そのことでも話し合わなくてはならない」
その『色欲』が行った放送の要求、それが碌でもないものであったことはユリウスの表情からも窺い知れる。聞きたくない内容だが、耳を塞いで済まされるようなものでないこともわかりきっている。ただその前に、
「放送もだが……もう一つだ。クルシュさんは、どうなった?」
「――――」
「クルシュさんも俺と同じで最上階に……いや、俺よりももっと悪かったはずだ。『色欲』が何かして、それで苦しんでて……」
吐血し、白目を剥いていたクルシュの姿が思い浮かぶ。
外傷もなしに、あれほど被害を受けた姿を晒していたのだ。よほどのことがあったのだと、その生死が危ぶまれるほどだった。
それに、先のフェリスの叫びもある。まさかと、そう思いたいが――。
「フェリスが、縁起でもないこと言ってた気がして、俺は……」
「クルシュ様はご存命だ。それだけは間違いない」
「含みのある言い方、するんじゃねぇよ」
一瞬、希望が垣間見える言い方だったが、それもユリウスの目を見るまでだ。
何か堪え難いものを堪える彼の表情からは、命が救われたことへの安堵など一切が感じられない。それどころか、もっと恐ろしいことが起きているようでもあり、
「フェリスが、ずっと手を尽くしている。しかし、芳しくない」
「芳しくないって、どういうことだ。クルシュさんに何が……フェリスでもダメってそれじゃ、他の人たちと一緒みてぇじゃねぇか!」
「落ち着きたまえ。君が取り乱しても何も変わらない。落ち着くんだ」
顔を青くするスバルの狼狽に、ユリウスが制止の声をかける。
だが、その取り繕った冷静さが今のスバルにはかえって癪に障った。
「なんでてめぇはそんな落ち着いてられんだよ!惨敗もいいところなんだぞ!?あんな奴らにいいようにされて、腹が立たねぇってのか!」
「――怒っても嘆いてもいる!当然だろう!」
とっさに腕を伸ばして掴みかかろうとするスバルを、ユリウスの腕が振り払った。声を荒げたユリウスの、その激情に揺らぐ瞳を見てスバルは声を失う。
「……乱暴をしてすまない。自制もできないようでは、私も未熟だ」
腕を払われて倒れかかったスバルを支え、ユリウスが自分を恥じるように謝罪する。その謝罪を聞きながら、スバルこそが自分が恥ずかしかった。わかっているくせに、ユリウスの態度に突っかかる自分の浅さにうんざりする。
「クルシュ、さんは」
「……『色欲』に何かをされたのだろう。体の中に溶け込んだ異物が、その身の内側で暴れ回っている。フェリスの取り乱しようは、見ていられないほどだ」
声の調子を落とすユリウスに、クルシュの深刻な様子がはっきりと目に浮かぶ。
体の内側に潜む魔の気配に、血肉も骨も、魂も削られるような苦痛の限りだ。あんなもの、人間が味わうべき苦難では決してない。
それをどうにもできないことが、先ほどのフェリスの態度に繋がるのだろう。
目覚めの前後、フェリスはヴィルヘルムを責めていたように思えた。あれはきっと戦場に同行し、主人を守ることができなかった老剣士への叱責だ。
きっと、やり場のない癇癪に過ぎないことを、責めたフェリスも責められたヴィルヘルムもどちらも理解していた。
だからこそヴィルヘルムは打たれたままに黙り込み、フェリスも自分の弱さを憎むように啜り泣いていたのだから。
先に部屋を出た二人のことと、今も苦しんでいるだろうその主人。
彼女ら三人のことを考えると、ますます敗北感が胸を突くのがわかった。
ただ、そんな感慨に胸を痛めるスバルにユリウスが、
「――スバル、確かめたいことがある」
「なんだ?」
「こんなことを尋ねるのは、少し気が咎めるが……気付いていないようだからね」
遠回しなユリウスの言い方に、スバルが首を傾げた。
そのスバルに目を細めて、ユリウスがそっと寝転がるスバルの体に触れた。何事かとそちらを見れば、足に触れたユリウスの手は徐々に下がり、右足の大腿部へ。
そろそろと視線で何気なくそちらを追いかける。
このとき、スバルは本当に何気なくだった。クルシュが都市庁舎最上階でカペラに撃破されたのを思い出していながら、都合よくスバルは自分のことを忘れた。
意識を失う寸前に、自分がどんな目に遭っていたのか。
『死に戻り』しなかったことに安堵したということは、死にかけたことを無意識が理解していた、それ以外にないはずなのに。
「な、ぁ――!?」
息が詰まり、喉が凍り、スバルは自分の目を疑う。
視線の先に自分の右足が、ある。だが、
――そこには、黒く蠢く醜い肉の継ぎ目と、その蠢きに浸食されつつある右足が存在していて。
「繋げたのはフェリスじゃない。治癒魔法ですらない。君の足は、千切れた足を自ら繋ぎ合わせて、その状態になっている。痛みも、見たところないようだ」
「――――」
ユリウスの言う通りだ。
醜いこの右足は、痛みも違和感もない。繋がっていないのかと思えば、スバルの意図した通りに膝が曲がり、指を動かすこともできる。
ただ千切れた部位を繋いだ傷口部分がどす黒く変色し、斑の血管が伸びるように足の上下に浸食を伸ばしているのだ。
「スバル、改めて確かめたい」
「…………」
自分の足の壮絶な変化に、スバルは声も出すことができない。
ユリウスの問いかけに、スバルはゆるゆると顔を上げて、そして、
「君は、本当に大丈夫なのか?」
※※※※※※※※※※※※※
繋がった右足は恐ろしいことに、立って歩くことすら支障がなかった。
「あのフェリスって姉ちゃんも言ってッやがったが、大将の足のそれァ傷でも病気でもねェ。だァから、俺様が治癒魔法かけようとしても結果は一緒だ。治ってるって感触しか戻ってこねェ」
右足の裾をまくり上げると、スバルの右足は大腿部の傷口を起点に黒い血管が張り巡らされたような有様だ。浮かび上がる文様は触れるとわずかに弾力があり、質感は肌のそれと比較的近い。色さえ無視すれば、血管が浮かんでいるの一言で片付けてしまってもいいぐらいだと思いたいところだが。
「勝手に繋がった……そう聞くと、とてもじゃねぇけど安心なんかできねぇ」
言うまでもないことだが、スバルの体は勝手に千切れた部分が繋がるほど再生力に特化していない。足が吹っ飛んだ経験が二度目だが、一度目のときはくっつく気配すらなかったというのが記憶の証言でもある。
当然、何かしらの干渉があったと考えるべきだが、思い当る節は一つだけだ。
「カペラの奴が、俺の足に垂らした血……か?」
右足が吹き飛び、大量の出血の痛みに意識が霞んでいたときのことだ。
はっきりと断言できるほど信用のおける記憶ではないが、カペラが自らの手首を傷付けて出血し、その血をスバルに浴びせたことは間違いないと思う。
そのときに確か、気になることを言っていた気がする。そう、確か――。
「クルシュさんにも、俺と同じことをした」
「その、傷に血を垂らすということを?あまり愉快な行いではないが、儀式的な意味合い……というには、直接的な影響が出すぎているな。呪術や呪いには、本来の魔法とは違った手順を踏む必要もあるとは聞いたことがあるが」
「呪い……そうだ、呪いだ。血の呪いとも言ってた。いや、確かもっと別の……血の呪い、じゃなく、龍……そう、龍の血だ。確か、そう言ってた!」
ユリウスの訝しげな視線を受けながら、スバルは記憶を探り当てて手を打った。
カペラは確か、血を浴びせたスバルが苦しむのを目にしながら、自分の血に龍の血が混じっているなどと言っていたはずだ。
それが妄言か戯言か虚言かは別として、異常性の取っ掛かりにはなるはず。
「龍の血……それは、王家に授けられる龍の血潮のことだろうか?」
「詳しいことはわかんねぇよ。でも、そういうアイテムがあるのか。城には」
「ある、とだけ。神龍ボルカニカとの盟約に従い、授かりし宝の一つ。枯れ果てた大地に豊穣の恵みをもたらす龍の血。その伝承は有名だ」
「ずいぶん万能だな、龍の血。……実際、それが関係あるかはわからねぇ。ひょっとすると、謎かけとかの可能性もあるが」
カペラが自分でルグニカ王家の家名を名乗っていたのも気にかかる。ヴィルヘルムから実際に、エメラダ・ルグニカが実在したと聞かされればなおのことだ。
まさかとは思うが、本物の王族と言い出すのではあるまいか。龍の血がどうしてそこに混じるのか、それは甚だ疑問ではあるが。
「いずれにせよ、血に可能性があるなら朗報だ。手詰まりのフェリスにも、何かの助けになるかもしれない」
「あ、ああ、そうだよな。なら、さっそく……」
「大将ァ、いかねェ方がいいと思うぜ」
ようやく何か好転するかもしれない情報。
それを届けようと息巻くスバルに、壁際で腕を組むガーフィールが水を差す。振り返るスバルの咎める視線に、ガーフィールは首を横に振った。
「大将ァまだ見てねェんだ。なら、見る奴の数ァ少ねェ方がいい」
「……そりゃ、どういう意味だ」
「そのッまんまだよ。美人の姉さんだったかんなァ。その方が辛ェよ」
スバルの押し殺した問いかけに、ガーフィールは視線を落とすばかりだ。
ただひたすらに不安を煽られる形になり、スバルはとっさにユリウスへと目を向ける。だが、ユリウスもまたガーフィールと同じ目でスバルに首を振った。
「事実だ。クルシュ様も、今は人目に触れることを望まないだろう。高潔な方だからこそ、弱っている姿など見せたくないはずだ」
「本当にそれは、弱ってるからって理由か?」
「――――」
ユリウスは何も言わない。静かに、視線をスバルから逸らしただけだ。
その仕草一つで、十分すぎるほどそれは答えだった。
「……俺のせいだ」
「スバル、それは」
「俺のせいだ!俺は……俺だけは、あいつらのヤバさをわかってなきゃいけなかった!もっと準備して、やれるだけの準備して挑まなきゃいけないって、俺だけはわかってなきゃならなかったんだ!」
クルシュの身に何が起きたのか、想像しかできないことが恐怖を加速する。
その重大な精神への呵責がスバルにもたらしたのは、無力な自分への怒りと、無策で挑んだ軽挙への後悔だった。
魔女教大罪司教、その恐ろしさは身に沁みてわかっていたはずだ。
ペテルギウスだけではない。都市庁舎に攻め込む前に、スバルはシリウスとレグルスの二人に立て続けに遭遇した。なのに、どうしてカペラを軽視できた。
周囲の戦力がこれだけあれば、仮に劣勢になっても退くことはできるなどと慢心以外のなんだと言える。全部、自分の判断ミスのツケだ。
「全部、俺が……」
「――はいはい。泣き言も負け惜しみもそこまでや。うるさいから黙っとき」
全ての重圧を抱え込み、自己嫌悪の海に沈みかけるスバル。
そんなスバルの耳に飛び込んできたのは、沈むスバルを優しく引き上げるような声ではない。沈むスバルを冷たい目で睨み、退屈な吐息を漏らす冷酷な声だ。
「――――」
視線を、大部屋の入口へ向ける。
するとそこに手を叩き、部屋の視線を一身に集めた人物――柔らかな紫色の髪と、温和な顔立ちを引っ提げた女商人が立っているのが見えた。
彼女はその柔和な顔に見合わない、ひどく殺伐とした目つきでスバルを睨み、
「アナスタシア……」
「負け戦してお通夜の気分になるんはわかるけど、それでちくちく反省点やなしに愚痴だけ言われても周りも困るんよ。アホらし。それで取りこぼしたモノも時間も返ってくるわけやないんやから、踏ん張ってもらわなね」
アナスタシアはそう言って、敗北感に打ちひしがれるスバルを罵る。
一瞬、何を言われたのかわからずスバルは硬直したが、理解が追いついた次の瞬間には怒りが込み上げた。だが、
「アナスタシア様、取り消していただきたい。最も近くで魔女教の悪意に触れたスバルには、悔やむことも嘆くことも……」
「らしないなぁ、ユリウス。まだ鉄火場は続いてるんやで?なのに、感情論優先やなんて……友達とお遊び気分ならヨシュアの方がマシやよ?」
「……っ」
スバルを庇おうとしたユリウスが、主の冷徹な視線に沈黙させられる。その姿に思考が過熱していたスバルも冷や水を浴びせられた気になり、アナスタシアの出方がわからずに困惑することになった。
と、そうして言葉を見失うスバルたちを見やり、アナスタシアは自分の首を飾る狐の襟巻きを弄りながら、
「……ま、ええわ。ユリウス。なんや、クルシュさんらのところに用事があるんやろ?それ、済ませてき。そっちの金髪の子も、ちょっと出ててもらってええ?」
ユリウスとガーフィールに退室を促し、アナスタシアがスバルを見る。
部屋には四人、その二人がいなくなってしまえば、スバルとアナスタシアの二人が一対一で対峙することになるが。
「悪いようにはせぇへんよ」
アナスタシアが可愛くない微笑みを浮かべ、そう約束する。
すると、ユリウスが一礼して先に歩き出し、ガーフィールも警戒の眼差しをしながらもその後ろに続いた。最後までガーフィールは、気遣わしげな視線をスバルへと送っていたが、退室する寸前に頷いてやると振り切るように出ていく。
「ガーフィールくん、可愛いとこあんなぁ。最後までちらちらとナツキくんのこと心配してて、お兄さん冥利に尽きるのと違う?」
「……そんな世間話がしたくて、俺を残したわけじゃねぇんだろ」
出ていったガーフィールへの感慨をこぼすアナスタシアに、直前のやり取りもあってスバルは棘のある対応をしてしまう。
そのスバルに振り返り、アナスタシアは自分の髪を撫でつけながら部屋の中をきょろきょろと見回し、半壊した部屋の倒れた椅子を立てると、そこに腰を下ろした。
「せっつくんやね。こんな風にナツキくんとゆっくり話すんは、なんや……白鯨を討伐する前の夜ぐらいまで遡るのに」
「そのときだって事務的な話しただけだ。あのさ、こんなことしてる場合じゃないんじゃないか?都市庁舎は取り戻したって言っても、状況は何も……」
「そう、何も変わってない。むしろ、悪なってる。それをどうにかせんと」
それまで、どこか和やかに状況を忘れたようだった呑気な声が、一転して刃の鋭さを纏ったことにスバルは気付かされた。
思わず背筋を伸ばすスバル、アナスタシアはそんなスバルの足を眺めて、
「千切れてくっついた聞いたけど、足は大丈夫なん?ずいぶん、見た目がごっつい風になっとるよ」
「幸い、飛んだり跳ねたりには支障なさそうだ。それが逆に気持ち悪いけどな」
「そ。飛んで走り回れるんやったら、何より。まだまだきっと、やってもらわなならんこといっぱいあるもん。……でもその前に」
話の取っ掛かり程度にスバルの負傷を用いて、アナスタシアが息をつく。
本題に入る気配にスバルが眉を寄せると、彼女は指で天井――否、上を指差し、
「ナツキくんたちが攻め込んだ後の、三回目の放送は聞いた?」
「いや、聞けてねぇ。だから奴らが何を言ったのか……たぶん、要求ってやつを突きつけたんだと思うけど、聞いてない」
「三回中二回、聞き逃すやなんてうっかりすぎるなぁ、ナツキくん」
くすくすと口に手を当てて笑い、アナスタシアはスバルの唇を不満に歪めさせる。ただ、そのまま彼女は口元を手で隠したまま視線を上げ、
「要求の一つ、それはきっと――ウチと、ナツキくんにしかわからんことや」
「俺と、アナスタシアさんにしか?」
どういう意味だ、とスバルは脳裏に疑問符を浮かべる。
スバルとアナスタシアとの間で、共通点などこれまでに感じたことがない。そもそも、こうしてちゃんと話し合うことすら今が初めてのようなものだ。
そんな希薄な関係性で、どこに互いの共通点を知る方法が――、
「――やれやれ、アナ。時々、君のもったいぶった素振りはもどかしさしか生まないことがある。今回なんかはまさにそうじゃないかな」
「――っ!?」
考え込んだスバルの鼓膜に、唐突に響いた第三者の声。
スバルのものでもアナスタシアのものでもない声は、どこか中性的な響きを伴う声音だった。
慌てて視線を巡らせるが、周囲にはそれらしい人影はない。ユリウスとガーフィールが出ていった後、入口に人が近寄った気配も形跡もない。
ならばその声は、どこから届いたというのか。
「そんなん言うて、ウチとおんなじになってるやないの。ナツキくん、わけわからんくて大混乱やないの」
「そうか、これは悪いことをしたね」
「何を、誰と……!?」
アナスタシアが当たり前のように、その第三者の声と会話を行う。
それがスバルの驚愕を解消する手助けにならず、スバルはこの混乱の正体をさっさと明かすように訴えようとして、息を呑んだ。
「驚かせてしまって、すまない」
「――――」
目が、合っていた。
声を上げた第三者。唐突に、この場に割り込んだもう一人の声の主。
否、その声の主は割り込んだわけではない。最初から、この部屋にいたのだ。
アナスタシアと一緒に、この部屋に入り込んでいた。
「ボクの名前はエキドナ。まぁ、何と言うべきか……一種の人工精霊というやつだ」
「えき……っ!?」
二重の衝撃に呑まれるスバルの前で、それが器用に微笑みを浮かべる。
口の端を持ち上げ、目を細めるそれはきっとおそらく、笑みだったのだ。
――アナスタシアの首で、襟巻きに擬態していた狐が笑みを浮かべている。
忘れ難い魔女の名と、自らの出生を精霊とそう名乗りながら。