『終焉の獣』
――血反吐も涙も、体の中から今度こそ絞り尽くしてしまったのではないだろうか。
いったい、どれほど泣けばいいのだろうか。
いったい、どれほど苦しめばいいのだろうか。
自分はそんなにも、許されないことをしてきたのか。自分の行いのなにがそんなに気に食わなかったのか。なぜ、ひと思いに楽にしてくれないのだろうか。
傷を負い、心を踏みにじられ、大切な人を奪われ、守るべき人たちを救えず、もっとも大事な人の命はこの手で無残に散らすこととなった。
――これはいったい、誰に対する罰なのだろうか。
「お、れは……」
間違っていた。勘違いしていた。調子に乗っていた。
自分の魂にこびりついた『魔女の呪い』を、一度ぐらいうまく逆手に取れたぐらいで利用できるものと考えた。死んでも戻れるという軽率な考えがそれを助長し、『魔女』という忌むべき存在を軽視する結果を招いた。
それらの積み重ねが今の、目の前の惨状だ。
崩れ落ち、膝の上にエミリアを乗せてスバルは虚ろな瞳をさまよわせる。
エミリアが、その命が失われてからどれぐらいの時間が経ったのだろうか。触れる彼女の体はいつしか冷たくなっていて、彼女の口からスバルに浴びせられた鮮血も熱を失って冷え切っていた。
柔らかな肢体のどこもかしこも固くなり始めていて、目の前のそれがもはや否定する要素のない現実であるのだとスバルに理解を押しつけてくる。
それでも、それを理解してもなお、感情が動き出す理由が浮かばない。
もう疲れてしまった。これだけ苦しんだのだから、もういいではないか。スバルほど苦しい思いをした人間が、この世のどこにどれだけいる?
以前までの自分と比べれば考えられないほど頑張ったし、なんとかしようと努力も重ねた。それでも最悪は避けられず、災厄はこちらを嘲笑う。
なにをしても無駄で、無為で、無意味なら、もう、ここで終わっても――。
「――まるで、俺が世界で一番不幸だ。とでも言いたげな顔なのよ」
それは呆然と佇むスバルを見下し、軽蔑を隠さない声音として響いた。
誰もいなかったはずの部屋で、スバルは幻聴のように響いたそれに顔を上げ、部屋の入口の方へ視線を向ける。
ゆるゆると、もどかしいほどの遅さで巡る首。そうしてようやく焦点の合った視界の中、ひとりの少女がスバルを見ていた。
クリーム色の長い髪を二つにわけて大きく巻き、まるで西洋人形が着るような豪奢なドレスを着こなす美しい少女だ。
この屋敷に住まうもので、これまでの繰り返しの日々、屋敷にいるはずなのに顔を見なかった最後のひとりでもある。
「べあとりす……」
「しばらく見ない間に腑抜け面がさらに腑抜けた面になったかしら」
辛辣に言い捨てて少女――ベアトリスは細い腕を組み、軽く顎を持ち上げて部屋の惨状を見渡す。血に塗れた床とスバル、そして血の海に沈むエミリアを見て、
「ずいぶんと、派手にやらかしたもんなのよ」
ひどくあっさりと、吐息まじりにその状態を彼女は評する。
動かなくなったエミリアを、その彼女を空虚な目をして抱きかかえるスバルを、それを見てそんな風な感想しか浮かばないのか。
そんなささやかな反感すら、今のスバルには湧いてこない。
この惨状を生み出した張本人であるところの自分には、義憤に駆られるような資格などありはしないし、激情に身を任せたところで疲労感が増すだけだ。
そういう意味ではかえって、血相を変えて問い詰めてきたりしない今のベアトリスの態度はスバルにはありがたかった。ありがたついでにこのまま、スバルをひとりで打ちひしがらせておいてくれればなおよかったのだが。
「にーちゃ、は出てこれないかしら」
言いながら、すぐ傍らに歩み寄った少女が膝を屈める。小柄な彼女がそうして姿勢を低くすれば、座ったままのスバルと頭の高さはほぼ同じだ。
少女は虚ろな目のまま動けないスバルを見やり、その横顔を変わらず軽蔑した視線で射抜くと、
「探せ、と言っても聞かなそうなのよ。……手が汚れるから本当は嫌なのかしら」
小さな声で気が進まなそうに呟き、ベアトリスが仰向けのエミリアに手を伸ばす。そのまま死したエミリアになにかしてくれるのだろうか、とぼんやり思うスバルの前で、彼女の小さな手は滑るようにエミリアの懐へ。
ごそごそと、その中を探る彼女の手や仕草からは、魔法的な要素は一切感じられない。本当にただ、エミリアの体を物色しているだけだ。
その挙動に言い知れない不快感があって、スバルはそれを咎めようと口を開きかける。が、渇き切った唇は掠れた吐息を漏らすだけで、意味のある言葉を形作ろうとはしてくれない。そしてそんなスバルの奮闘を余所に、
「あったかしら」
衣服から手を抜いたベアトリスが掌を上に向けると、そこには緑に輝き結晶が乗せられていた。見覚えのあるそれは、エミリアが所持する結晶石のひとつ。
彼女の契約する精霊――パックが依り代として用い、エミリアが肌身離さず持ち歩いていたものだ。
その結晶石が今は、
「割れ、て……」
「割った張本人が白々しい……といっても、お前に自覚はなさそうなのよ」
掌の上で真っ二つになったそれを寂しげに見て、ベアトリスはそれを床に落とす。軽い音を立てて、石は落ちた床の上で血の中に沈んだ。煌めいていた緑の光が鮮血の色に濡れ、くすんだ光がいつしか消え失せる。
――割れた結晶石と、その中にいたはずの精霊はどうなったのか。
今、こうして自分の腕の中で眠る少女を『娘』と称し、誰よりも愛していたあの精霊はどうなってしまったのか。どう思っているのか。
「心配しなくても、にーちゃは死んだりしないかしら。依り代を失ったから、こっちにくるのに少しだけ時間がかかるだけなのよ。――猶予は、そんなにないかしら」
無言のスバルの疑問に当然のように答えて、ベアトリスは長い髪を背中に流す。彼女の縦ロールが弾むように揺れるのを横目にしながら、スバルは安堵していた。
あの精霊が生きているならば、この場所へやってくるというのなら、きっと。
「――なにか、言いたいことはあるかしら」
ひどく場違いな安堵感に息をついたスバル。その彼と視線の高さを合わせたまま、ベアトリスはスバルに穏やかな声で問いかける。
その声の平静さに、スバルは彼女がその状況に対してなんら感慨を抱いていないことへの疑問を得た。だが、それを口にしようとする気にはならない。
もごもごと口を動かし、スバルの口が紡いだのはそんな不可解なベアトリスへの質問ではなく、もっと純粋に利己的な、
「ころしてくれ」
彼女の優しさに甘えて、縋って、好意を無碍にする言葉だった。
※ ※※※※※※※※※※※※
今すぐに殺してほしかった。
もうなにもかもにうんざりした。あらゆることに疲れ切った。全てのものに愛想を尽くされた。この世界にはもう、なんの希望もない。
いっそ死にたくなった。死んで、全てを終わりにしてしまいたい。死んでやり直せたとしても、きっとまた同じ結末を迎えるだろう。死んでやり直せたとしても、やり直せなかったとしても、少なくとももうこの世界にはいたくないのだ。
エミリアが死に、レムは存在を消され、スバルはなににも報われない。
だから、
「殺して、くれ……」
終わりだけが今のスバルの救いだった。
憎むべき対象を憎むことも、守りたいと思った対象のために行動することも、もはや自分の心を生かすための言い訳にもならないのなら。
なにか頼みを聞いてもらえるのなら、このどうしようもない命を啄んでくれ。
関わる命の尊厳を踏みにじり、想いを無為にし、なにもかもに見捨てられた哀れで愚かなこの身を焼き尽くし、滅ぼしてくれ。
目の前の、超常の力を持つ少女にならばそれができるはずだった。
彼女はスバルを嫌っていただろうし、そんな彼女が願いを聞いてくれるというのなら、きっとスバルを惨たらしく、愚行に相応しい最期を与えてくれるに違いない。
スバルという愚かな人間は、九度死んでもなにも変わらなかった。
これで十度目だ。キリがいい。神も仏も女神も魔女も、愛想を尽くすにはいい頃合いだ。だから、
「ここで、殺してくれ」
エミリアの亡骸を抱き、スバルはベアトリスに懇願する。
ここが最後になるならば、彼女の亡骸を抱いたままで終わってしまいたい。わがままばかりを通し、結果として最悪を招いたスバルの最後まで利己的なわがまま。
ギュッと彼女を抱く腕に力を込めて、スバルは目をつむり最期を待つ。
そうして、しばらく沈黙の時間が落ちただろうか。
それは、ひとりだけ身勝手に穏当な時間に身を落としたスバルにふいに響いた。
「……のよ」
「――え?」
小さく、弱々しい、かすれた声だった。
思わず聞き返し、スバルは閉じていた瞼を開けて少女を見上げる。スバルの隣に屈んでいた少女は立ち上がり、スバルを見下ろしている。
その小さな体を己の両手で抱きながら、まるで寒さでも感じているような姿で、
「ベティーにお前を殺せだなんて……そんなの、残酷すぎるのよ……」
泣きそうな顔と声で言われて、スバルはわけがわからなくなってしまった。
瞬きをして、何度もして、隣に立つ少女の表情が塗り替えられるのを待つ。だが、何度それを繰り返しても、彼女の表情に色濃く悲壮なものが宿るのは変わらない。
それはスバルが知る、いずれの彼女の表情とも異なるものだった。
だって彼女はスバルを嫌っていたし、いつもそっけなくしていたし、たまにこちらの気持ちを無碍にできないお人好しな部分が見え隠れしていたけれど、基本的には酷薄に徹することのできる人物だと思っていたから。
あっさりと受け入れてくれることはないにしても、拒否されるかもしれないとは思っていても、それは侮蔑と嘲弄を伴って投げかけられるはずのもので。
「なにもわかってない……お前はなにも、わかってないかしら……っ」
スバルを殺すということを、こんな悲しみをもって拒絶されると思わなかったから。
「べ、ベアトリス……?」
「お前の願い事なんか、なにひとつ聞いてやらないのよ。死にたいなら、死にたいで勝手にやればいいかしら……ベティーは願い下げなのよ」
首を振り、ベアトリスは両目をつむって表情を殺す。浮かんだ涙は流れることなく瞳の奥へと隠され、そして少女が腕を持ち上げると、
「景色が……!?」
歪み始めた。
スバルは自分を取り巻く周囲の空間が歪み、亀裂が走るのを見た。それは世界が崩壊していくような予兆にも思えて、心細さに思わず腕の中の冷たい肢体を抱きしめる。
それを見下ろし、ベアトリスは温度の消えた声で「最低」と呟き、
「どうせもうなにもかもダメだけど、お前にここにいられたら困るかしら。――せめて、この屋敷だけは守らせてもらうのよ」
「なにを……いや、ベアトリス、お前は……」
「――ベティーはロズワールとは違うかしら。たとえ未来を得るためでも、痛いのも辛いのも苦しいのも悲しいのも恐ろしいのも全て、嫌なのよ」
問いかけにならない問いかけに対して、答えにならない答えが返される。
しかし、スバルはその言葉に込められた痛切な感情に言葉を作れず、歪んだ空間のねじれにその肉体を巻き込まれる。――痛みは、ない。
「せめて、ベティーの見えないところで死んでほしいのよ」
最後の呟きは薄情さを装っていながら、ひどく寂しい微笑を伴っていた。
なにも言えない、なにもわからない。ただひとつ、伝わってきたものがあった。
――ベアトリスはスバルの決断を、行いを、悲しんでいたのだ。
歪みが極限に至り、ひしゃげた空間が弾けるように消し飛ぶ。
視界にノイズが走るような違和が刹那の間だけ世界を席巻し、その直後には大気の歪曲はいずこにも見当たらなくなっていた。
あるのは血塗れの床ごと抉られて、消えたスバルとエミリアのいた名残だけ。
消えた二人のいた場所、その傍らに立つベアトリスは疲れたように額に手を当て、その手で目を覆って世界から己を隠す。
「――お母様、あとどれだけベティーは」
※ ※※※※※※※※※※※※
――空間の裂け目から放り出されたスバルを受け止めたのは、折り重なり苔むした草木の山だった。
「ぶわうっ」
前置きなく顔からそれに突っ込み、草の味を口の中に感じて顔を上げる。慌てて口から土と葉、前歯に引っかかった虫を吐き出し、
「うぇげっ、ぉえ、はぁっ……ここは……?」
頬を虫に這われる嫌悪感を振り払い、あたりを見回すスバルは眉間に皺を寄せる。
視界に入ったのは薄暗い木々の群れであり、ぐるりと首をひとめぐりした結果、それらの連なりが途切れる気配が見当たらない。つまり、
「森……夜の森だ……」
幸いにも月明かりが遮られていないおかげで、かろうじて視界を確保できる。
風が葉を撫ぜ、虫の鳴き声が支配する世界は宵闇の森に違いあるまい。そこまで考えて、スバルは自分が屋敷で目覚めるまでに丸半日の時間を使ったのだと気付く。
同時に、
「空間転移……みたいな認識でいいのか」
大気が歪み、生じた亀裂に放り込まれて森へ投げ出されたのだ。
ここが屋敷の中に隠された裏庭園とでもいうべきステージでない限り、どこか遠くへ転移させられたのだと考えて問題ないだろう。やったのがベアトリスだとすれば、彼女は自分の書庫と他の部屋の扉を好き勝手に繋げることができる力の持ち主で合ったのだから。
だが、それが理解できたところで彼女の真意はわからないままだ。
殺してくれと頼んだスバルの願いを拒絶した彼女は、無理やりにスバルを空間転移で屋敷の外に飛ばした。――今も、その泣きそうな顔が脳裏を離れない。
断るのであれば、見るのも嫌だと放置されるものだとばかり思っていた。なのに、彼女はまるで、失望でもしたかのようにスバルを見て――、
「それじゃ、まるで……」
期待でも、されていたみたいではないか。
あまりにも自分勝手で、自分本位な考え方だとスバルは首を振って否定する。
すでに自分がなにもできない疫病神であることは理解した、納得した。世界はどうしようもなく無慈悲で、救おうとした人々は揃って無残な最期を遂げる。
それを知っていながら、止めることもできないスバルになにを期待する。
自分で自分に期待できないのだから、誰かが自分に期待してくれるはずがない。
ましてや、嫌われていたはずの相手にまでそれを求めるなんて『傲慢』が過ぎる。
「どうしようもないな、俺ってやつは……」
荒んだ笑みを浮かべ、スバルはゆっくりと膝を立てる。と、それが思ったように動かない段階を経て、あまりにも遅すぎる事態に気付く。
――膝の上には屋敷の一室と変わらず、エミリアの死体が乗っていたのだ。
「えみ、りあ……」
暗がりの世界で、ぼうと月光に照らされる青白い顔。
死相は苦悶でも安らかでもなく、ただただなにが起きたのかわからないといった困惑だけが満ちていた。生きながら、時の止まった世界でふいに心の臓を潰されたのだ。痛みを理解する暇があったかすら怪しい。
ただ、痛みを感じていなかったところでそれが救いになるとは思えなかった。
即死した経験が少ないスバルだが、死んだ経験は常人より九倍ほど積んでいる。そのいずれの死も安らかであったとは思いたくないし、死が救いになることもまたないだろうと思う。――今の自分を除けば、だが。
「ごめんな。ごめん、ごめん、本当に……ごめん」
彼女の顔を見下ろす内、その白い頬に水滴が落ちる。
涸れたと思い込んでいた涙がまたしても湧き上がり、終わることのない責め苦を再びスバルへ押しつけ始めた。
声が聞こえる。自分を糾弾する声が。出会った全ての人たちが、冷たい怒りを込めてスバルに罵声を投げかけてくる。
その中には銀色の髪の少女も、青い髪の少女もいて――。
「誰か……誰でも、いい……」
――殺してくれ。
消えない罵声を浴びながら、スバルはエミリアを両手に抱きかかえて立ち上がる。
そのまま草を踏み、枝を割り、ゆっくりと夜の森を歩き始めた。
遠く、獣の遠吠えが響くのが聞こえる。
今だったら、あの角の生えた黒い魔犬に出会うことを笑顔で受け入れられそうな気がする。血肉を、マナを、根こそぎ食い散らかして殺してほしい。
エミリアのような綺麗な死に方など、今の自分には相応しくない。
惨たらしく、人の形など、尊厳など失うほどに、踏みにじって殺してほしい。
そうでなければ、そうしなければ、ナツキ・スバルは救われないのだから。
※ ※※※※※※※※※※※※
森を歩いている内、スバルは気付いたことがあった。
「ここ……この溝を、越えて、それで……」
下り坂を慎重に降り、突き出した根を階段のように使って踏破。両腕が使えないハンデは予想以上に体力を蝕むが、なぜだろうか疲れを感じない。
体力の限界を越えて酷使された体が悲鳴を遠ざけ、摩耗した精神が集中力を研ぎ澄ませている。下半身しか使えない夜闇の踏破はよどみなく、数メートル先すら見通せないはずの視界は光が射したかのように鮮明だ。
それらはスバルの肉体が燃え尽きる寸前の炎のように力を尽くしているから――だけではない。単純な話、見覚えがある道のりなのだ。
そこは――、
「ああ、いたな」
安堵したような、的外れな感慨による微笑が口元に浮かんだ。
それは血がこびりつき、精神をすり減らした人間だけが浮かべる狂笑だ。向けられたものは嫌悪に身をすくめ、遠ざかる選択肢を選ぶだろう禍々しい笑み。
だが、それを向けられた彼らは、その狂笑に慣れ親しんだものたちだった。
――スバルを取り囲んだのは、全身を闇に同化する黒の装束で包んだ一団だ。
森の影の中から浮かび上がるように湧いた彼らはスバルを囲み、声もなく、音もなく、存在感すら薄れさせたままジッとスバルを見つめている。
敵意も好意も悪意も善意も、意思という意思が感じられないその視線を浴び、スバルは一番最初に彼らに遭遇した世界を回想した。
そう、あのときは――、
「同じ、だな……」
回想した映像を踏襲するかのように、黒装束たちが一斉に頭を垂れてみせた。
意思という意思がなかった彼らが初めてスバルに見せる、『敬意』だ。
なぜ、そんな感情を向けられるのか、スバルには細かいところはわからない。ただはっきりとしているのは、彼らが魔女教の信徒であり、スバルが身にまとう闇がその魔女とやらとなにかしらの関係があるということだ。
「――どけ」
聞きたいことが、本当ならたくさんあったのだと思う。
こうして全てに諦観してしまう前ならば、問い詰めたいことは山ほどあった。けれど、今はそんな感傷すらも無用の長物でしかない。
短いスバルの命令に、黒装束たちは異を唱えることもなく、滑るように下がって闇へと沈み込んでいく。
視界から彼らの存在が消えると、もともと音のなかった世界にさらに静けさが満ち満ちていったような気がする。
気付けば、虫の鳴き声も風の音も聞こえない。
生けるものは全てが彼らを嫌悪しているとでもいうのか。以前の世界でも、魔女教の現れる場面では虫の声ひとつ聞かなかった覚えがあった。
あるいは魔女教と、スバルが同席しているのが唾棄すべき状況という意味であるのかもしれない。――その方が、今の自分には似合いの評価に思えた。
障害とはいえない障害が消えて、しかしそれらのおかげでスバルは確信を得た。
もともと迷いの薄かった足取りからは完全にその気配が消え、根を越え、土を踏むスバルの進みは止まらない。
その歩みはやがて森を開き、断崖絶壁が続く岩場へと辿り着いた。
――そこには大岩によって道を塞がれた洞穴があり、
「お待ちしておりましたデス。寵愛の信徒よ」
痩せぎすの男が、スバルと同じ係累の狂笑を浮かべて出迎えていた。
※ ※※※※※※※※※※※※
「おぉやおや?しかもしかもしかもしかもかもかもかもかもかも、その腕に抱いているのはひょっとして……半魔の少女ではないデスかね?」
草を踏み、スバルの腕の中のエミリアを見たペテルギウスが首を傾ける。彼はそうして首の角度を地面と水平にしたまま、愉快げに舌を出して唾液をこぼし、
「なんと、ワタシたちの試練を受けるより前に命を落とすとは……なんたる悲運!なんたる非業!あぁ!そしてそしてそして……アナタはなんと勤勉なることか!我々が動くより前に!半魔の身を!命を!奪ってくれているとは!」
腕を振り回し、オーバーアクションでエミリアの死を叫ぶペテルギウス。
気付けば、いつの間にかぞろぞろと洞窟から這い出してきた信者たちが周囲を取り囲んでおり、全員がペテルギウスの狂態を耳を澄ませて拝聴していた。
狂っている。
「俺が……勤勉……?」
「ええ!そうデス!勤勉!ああ、素晴らしきことデス!アナタは判断が遅く、知恵の巡りが悪く、行動に移す決断力に欠けたワタシたちと違い!魔女の意思をもっとも最初に体現したのデス!」
掠れた呟きを聞きつけて、ペテルギウスは嬉しそうに笑ってスバルに駆け寄り、滑るように跪くと土の上に思い切り両手を叩きつけ、「それに比べて!」と叫び、
「ワタシと、その指先のなんと遅く、愚かで、欠落していることデスか!ああ!お許しを!愛に!報いれぬこの身の不出来を!怠惰であるこの身の不実を!アナタのお与えになる愛に応えられぬこの欠落者を!どうか、どうかお許しください……!」
涙を流し、岩肌に自分の両腕を叩きつけて傷を生むペテルギウス。
激しい自傷行為に血が飛び散り、裂けた手首の傷から骨が見えても彼の凶行は止まらない。周囲の信者もそれを止めるどころか、ペテルギウスにならって跪き、それぞれが己のやり方で心棒する存在への謝意を示し始める始末。
それら狂人たちの狂態を見ても、スバルはなにも感じなかった。
以前ならば、ほんの一日前のスバルならば、なりふり構わず目の前のペテルギウスの命を奪い取りに走ったはずだ。
だが、今、目の前にこうして憎かったはずの男がいるのを見ても、そこにはなんの情動も発生しなかったし、望みが変わることもなかった。
「ああ、あのお方の想いに報いれぬ不出来なワタシに代わり、試練を成し遂げたアナタにワタシはなにができるのデスか。教えてほしいのデス。ワタシはワタシが怠惰でないことを愛に示すために、いったいなにができるのデスか?」
「殺してくれ」
詰め寄り、涙を流して懇願するペテルギウスに、スバルは静かにそう告げた。
唐突にそんな言葉を投げられ、さしものペテルギウスもその表情に唖然としたものを――、
「そんなことでよろしいのデスか?」
浮かべず、ノータイムでスバルを突き飛ばす。
踏鞴を踏み、後ずさったスバルを見つめてペテルギウスは恍惚とした表情を作ると、
「ああ、素晴らしきかな、素晴らしきかなかなかなかなかなぁ!試練を果たし、救いを求める信徒に即座に救いを、愛をもたらすワタシのなんと勤勉なることデスか!ああ、怠惰にならずに済むのデス!アナタに感謝を!ワタシの勤勉さに、愛を!」
スバルの思い詰めた答えになんら疑問なく、己の行動に一切の呵責なく、この世の条理になにひとつ揺るぎなく、ペテルギウスは殺意を解放する。
その狂人の姿を見て、スバルは内心にざわつくものを得ながら目をつむった。
――これで、少なくとも、この瞬間のスバルの想いは報われるのだ。だから、
「それにしても」
殺意が迫る気配を肌に感じるスバルに、ペテルギウスが何事か呟く。
「試練ひとつすら乗り越えられず、あまつさえ大罪のひとつとすら向き合えず、大望を抱いた挙句に最初の石ころに蹴躓くとは……」
それは、
「――ああ、アナタ、『怠惰』デスね!」
それは、エミリアの死を侮辱する発言だったから。
「――――」
目を開けた瞬間、スバルは眼前に掌の形をした黒い靄が迫るのを見た。
一瞬、脳裏を過る苦痛の記憶に心胆が竦み上がる。だが、あのときとは違うことがひとつある。体が動く。足が動く。腕が動く。だから、身をかわせるのだ。
ゆらりと迫る黒い掌を掻い潜り、エミリアを抱いたままスバルは横に飛んだ。行き過ぎた掌が戸惑うように消失し、それを目で追うスバルが荒い息を吐く。と、
「……アナタ、今、見えざる手を見ていませんデスか?」
震える声で、その爛々と輝く双眸を押し開き、ペテルギウスがスバルを見ていた。
彼は枯れ枝のように細い指を口に差し込み、指先を順番にひとつずつ噛み潰す。一本ごとに肉が爆ぜ、骨が割れる嫌な音が響き、血を滴らせながら、
「駄目デス、駄目デスよ。おかしい、間違っている、誤っている、過たっている。ワタシの権能を、『怠惰』の権能を、寵愛によって授けられしワタシの『見えざる手』を!他のものが見ることなど、許されないのデス!!」
血を吐き、口の中に残った爪と骨の破片を咀嚼し、ペテルギウスが血走った目をスバルに向ける。
そこには見紛うことなき殺意が光り、それまでの狂信めいた感情から発せられるものとは一線を画していた。そこに込められているのは純粋に、スバルという存在に対する憎悪を発端とした殺意の感情だ。
――途端、ペテルギウスの背後から湧くように黒い腕が噴き出す。
ペテルギウスの影が分裂し、複数を為したような掌は七本にも及んだ。それはスバルが『死に戻り』を打ち明けようとするときに生じる、呪いの腕にそっくりな代物であり、視界でそれを捉えたスバルの背筋に恐怖で怖気を駆け抜けさせる。
だが、
「見えてるなら……」
かわせないことは、ない。
黒い腕の速度は決して速いわけではない。射程距離の長さと人体を引き千切る膂力こそ恐るべきものだが、本質的に恐ろしいのは『目には見えない』部分だ。
そして、そこが通用しない今のスバルには、命を燃やし尽くした燃えカスとして、常軌を逸した身体能力を発揮するスバルには届かなかった。
「なぜだなぜだなぜだなぜなぜなぜなぜなぜなぜぜぜぜぜ……よけられるのデスか!?見えるのデスか!?これはワタシのぉ……ワタシだけのぉ……!!」
「お前に殺されてやるのだけは、嫌になったんだよ」
身を回して掌をかわし、伸び上がってくる別の指先を前方への跳躍で回避。即座に屈んで左右から迫る腕を避け、転がり込むようにペテルギウスの至近へ。
狂態が驚愕に歪むのを快く思い、暗い快感が喝采を上げる。
――思い出した。自分がこの男を、殺そうと思っていたことを。
「――ぶがぁ!」
飛び上がる勢いで額から突っ込み、ペテルギウスの鼻面に頭突きを打ち込む。無防備に受けたペテルギウスがのけ反って血を散らし、スバルも額に鋭い痛みを感じながら後ろへ飛ぶ。
掌が精密さを失って暴れ回るのを見る視界、額から滴る血が赤く染めた。前歯が当たり、額が切れたのだろう。派手な出血が目に入り、右目が刹那だけ見えなくなる。
――その隙を突かれて、スバルの体は掴まれた足を支点に投げられていた。
大木に叩きつけられる瞬間、スバルは身をすくめるのではなく、腕の中に抱えたままでいたエミリアの体を強く抱いていた。
縋るようにではなく、守るように。
「――ごえっ!」
思い切りに背中から激突し、背骨がいった感触があった。
複数の肋骨が同時にいかれ、修復し立てだった傷口のいくつかも一斉に開いて激痛の大合唱が始まり、落ちた地面で虫のようにスバルが痙攣する。
「無様!無様ではないデスか!ああ、よかった。本当によかった。このままワタシが『怠惰』であるなどとなったら、ワタシの行いが無為になるところデス。ああ、やはりワタシは勤勉に、愛に努め……」
「うるせぇ、よ。間抜け……」
高らかに、自身の優位を笑おうとした狂人にスバルが罵声を投げる。
呼吸の音がおかしく、肺に甚大なダメージがあったのを感じる。腹の中の痛みはどれが一番なのか口々に競い合い、意識は白く明滅していた。
それでも、スバルは口の端から血をこぼしながら、嗤う。
「なにが愛だ、ばぁか。お前がもらったはずの、愛、なんざ……俺にも見えてん、じゃねぇか。……浮気されてら、ざまぁ」
「なにを!言って……言って、言って言ってってててっててって……脳が、脳が震えるるるるるるるるるっ」
唇の端から泡をこぼし、ペテルギウスが激昂する。
彼はスバルのすぐ側に歩み寄ると、その腕に抱いたままだったエミリアを足蹴にし、その死体を思い切りにスバルから遠ざけるように蹴りつけた。
指先に力が通わず、蹴飛ばされるエミリアをスバルは掴んでいられなかった。
転がり、木々の根にぶつかって止まるエミリア。その彼女の肉体を横目に、ペテルギウスは酷薄に嗤うと、
「ワタシの愛を、侮辱することは許さないのデス!ああ、決めた、決めたのデス!試練を与えるべき半魔は死に絶えましたが、浅ましくもその半魔を匿い、担ぎ上げたものたちの罪が残っているのデス!」
叫び、八つ当たりでしかない怒りを吐き出し、ペテルギウスがスバルを踏みにじる。掌を踵で踏み抜き、絶叫を上げようとするスバルの首を黒い掌が締め上げた。
呼吸を途絶され、首そのものが引き千切られそうな膂力に上体を起こされ、体の芯となる骨がおしゃかになっているスバルは激痛に声も上げられない。
そのスバルの姿にペテルギウスはいくらか溜飲を下げたような顔つきで、
「まずは屋敷の関係者を根絶やしに、次に付近の村人の命を捧げてもらうのデス。なにひとつ残さない、手抜かりは『怠惰』なものの証。勤勉を至上とするワタシとその指先が全てを奪い、全てを下す。――街道の封鎖も、すでに完了しているのデス!誰にも、霧を越えて邪魔などできはしないのデスから!」
興奮状態に唾を飛ばし、ペテルギウスがスバルにがなりかける。
それから彼は「その前に」とスバルに生臭い息を吐きかけ、
「ずいぶんと大事そうに抱えていたようデスが……あの半魔の肉体、破壊したら、どれほどいい声で啼いてくれるのデスかね?」
首を傾け、唇を曲げて、好奇心で目を光らせるペテルギウス。彼の背後から、スバルの首を絞めるのとは別の五本の腕が持ち上がり、それぞれが独立した動きでエミリアの死体へ向かう。
それぞれが四肢を、そして彼女の首をその掌に掴み、
「見えているのデスか?これからなにが起こるのか、わかりマスか?」
「……ぇろ……っ」
見えているからこその恐怖が、今こそスバルを襲っていた。
見えないとき、あの男の黒い腕がレムの体になにをしたのかが克明に思い出される。そして、それが今、エミリアの肉体に向けられていた。
スバルの死生観は渇いたものだ。命を失った肉体は肉の塊であるし、そこに魂の宿る可能性などない。天国も地獄もきっと存在せず、死んだらそれは闇が待つだけ。
そんな風に、渇いた死生観を持つ俺格好いいを抱いたまま生きてきて、この世界に降り立ってからもそうであると考えを変えたことはなかった。
そのことを今、後悔する。
彼女の肉体に彼女の魂が宿っていなかったとしても、その肉体はエミリアなのだ。それを凌辱されることに、魂が悲しみを叫ばないはずがない。
だけど今、スバルにはそれを止める力はなく、ペテルギウスはよりいっそうにその狂笑を深めて、
『――なにをしている』
その声はふいに天から降り注ぐように、その場の全員の鼓膜に舞い降りた。
「――っ」
ペテルギウスが表情を変えて、声の主を探して視線をさまよわせる。
それほどまでにその声には高圧的な力と、身も凍らせるような研ぎ澄まされた怒りが込められていた。
はたして、視線をめぐらせたペテルギウスはそれを見つける。
遅れて、スバルも首の圧迫感を堪えたまま、ぼやけた視界にそれを見た。
『繰り返す』
――空を覆うようなすさまじい量の氷柱を引き連れて、灰色の体毛の猫がいる。
荒げた息が白く、世界を凍てつかせる冷気が森を席巻した。
跪き続ける黒装束たちが、狂笑を浮かべていたペテルギウスが、言葉を失う。
『ボクの娘に、なにをしている――下郎共』
――世界を白く染める、終焉の獣が今、十度目の世界を終わらせにやってきた。