『生者たちの塔』


 

――考えろ。

 

考えて、考えて、考えて、考えて、考えなくてはならない。

 

「――――」

 

硬い、ざらつく鱗の感触に全身で抱き着きながら、ナツキ・スバルは思考する。

自分の身に起きている出来事、塔内でいったい何が起ころうとしているのか、自分を殺そうとする人間、自分以外の誰かを殺そうとする人間、敵と、味方の区別――。

 

「スバル、もういいのよ?そろそろ落ち着いたかしら?」

 

「――――」

 

ふと、錯綜する思考の後頭部から声をかけられ、スバルはゆるゆると振り返る。見れば声をかけてきたのは、蔦のベッドに腰掛けるベアトリスだ。

不機嫌そうな顔の少女は、並んで座ったエミリアと手を繋ぎながら、足をぶらつかせてスバルの方を睨みつけている。――その視線に、微かに頬が強張った。

 

ほんのわずかでも、負に相当する感情を向けられた心地で――、

 

「こーら、ベアトリス。そんな言い方しないの。スバルだって寝起きで驚いちゃったんだろうし、パトラッシュに抱き着いちゃうのも仕方ないと思うの」

 

しかし、そんなスバルの見当違いな考えを、エミリアが微笑みながら否定する。彼女の指摘を受け、ベアトリスはぷいと顔を背けると、

 

「別に、怒ってるわけじゃないのよ。ただ、釈然としないだけかしら。スバルを心配してたのはベティーやエミリアも同じで、その地竜だけ特別ってわけじゃないのよ」

 

「ふふっ、そうね。心配かけられたのはホント」

 

顔を背けたベアトリスの頭を撫でて、エミリアが眉尻を下げながらスバルの方を見た。その紫紺の瞳の輝きを見て、スバルは息を詰める。

深い、親愛が覗く眼差しに胸が痛んだ。――同時に、奇妙な焦燥感も募る。

 

思い出したのだ。自分がここで、『ナツキ・スバル』を望まれていることを。

そして、その重荷を背負い切れないと不安に駆られていたことも。

だが、しかし――、

 

「――ええと、心配かけて悪かった。ごめん、超謝るよ。なんか、寝惚けて女の子に抱き着くってのも俺のキャラじゃないし、これも照れ隠しってことで」

 

硬くなった頬を柔らかくして、スバルは弛緩した笑みを浮かべてそう答える。その返答にエミリアとベアトリスは顔を見合わせると、

 

「でも、パトラッシュも女の子よ?」

 

「うぇ!?いや、ほら、パトラッシュは特別枠っていうか、そういう対象とは別の絆を結んだ対象っていうか、シード枠で無条件二回戦進出っていうか」

 

「む、それは聞き捨てならないかしら。そうやって、その地竜だけ特別扱いされるなんて納得がいかないのよ。釈明を求めるかしら」

 

「同じ土俵に立とうとすんなよ!その、地竜……とさ!」

 

ますます不満げな顔をし始めるベアトリスに、スバルは二人の反応を慎重に窺いながら答えを返す。その受け答えに、二人はさしたる違和感は抱いていない様子だ。

そのことに安堵しつつ、スバルは首筋を撫で続けていたトカゲ――否、パトラッシュへと振り返り、

 

「……ホントに、お前だけは特別枠だよな、パトラッシュ」

 

「――――」

 

小さく喉を鳴らして目をつむる、黒い地竜の頭にスバルは額を合わせた。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「それでスバル、本当に体調は大丈夫なの?」

 

「ああ、大丈夫大丈夫、ノープロ。心配かけて悪かった。たぶん、疲れが溜まってたんだと思うよ。寝落ちなんてよくある話だからさ」

 

「そう。……でも、疲れてるなら言ってね?無理は禁物だから」

 

軽く手足を回しながら、調子よく答えるスバルにエミリアが念押ししてくる。その言葉に「了解、隊長」とおどけて返事しながら、スバルは思考をフル回転させていた。

 

今、スバルはエミリアとベアトリスを連れ、塔の四層を歩いている。

目的地は四層の広間であり、目的は食事――つまるところ、火急の要件は抱えていないという体で三人は歩いていた。

 

今回、スバルは意図的に、前回までとは違った行動を取ることを心掛けている。

すなわち――自分が記憶喪失であることを、エミリアたちに打ち明けていないのだ。

 

「――――」

 

それは言い換えれば、他人に成り済ますに等しい状況だ。

高まる緊張に乾く唇を舌で湿らせ、スバルはつぶさにエミリアたちの様子を観察する。

まだ、彼女たちにとっての『ナツキ・スバル』がどんな人物像なのか、万全に見極められていない。そんな状態で他人をトレースすることなど不可能なはずだが、本来ならば成立しないだろう条件、『自分に成り済ます』であれば話は別だ。

 

――どこまでいっても、『ナツキ・スバル』はナツキ・スバルでしかない。

 

一年、異世界で過ごしたところで、その人間性の根幹は変わったりはしない。ならば、あとは関係性にだけ注意すれば、十分に同じ人物像をなぞれるはずだ。

そして、『ナツキ・スバル』をトレースしながら、何が起きるか逆に見極めてやる。

 

この塔で何が起きて、誰がスバルを殺し、誰が誰に殺されるのかを。

 

ひとまず、スバルは『記憶喪失』である事実を伏せることで、自分を『死』に追いやるトリガーの可能性を一つ検証する。すなわち、相手はスバルが記憶喪失だから殺すのか、それともそれが関係ないのか、だ。

とはいえ、正直これにはあまり期待していない。スバルの記憶の有無――あっては困るが、なくなって困るという状況は想像しにくいためだ。

ただ、そこには一部、例外もある。

 

「犯人が、俺の記憶が戻られたら困る奴だった場合とか」

 

以前、何かの映画で見た覚えがある。

殺人現場を目撃した目撃者が、何らかのショックで記憶をなくしてしまう。現場を見られた犯人は記憶が戻られては困る。だから、その目撃者を殺そうとする、的な映画だ。

同じような状況が、今のスバルの身に起きている事態は十分に考えられる。そもそも、スバルが記憶を喪失した経緯が曖昧で――、

 

「エミリア、俺は三層の書庫で倒れてるのを見つけたんだよね?」

 

「うん、そうよ。書庫の床に倒れてて……ベアトリスと、大慌てで緑部屋に担ぎ込んだの」

 

「まぁ、エミリアがスバルをひょいと担いでくれたから、ベティーは後ろで応援してるだけだったのよ」

 

嘆息まじりのベアトリスの補足に、スバルはエミリアの細腕を見やる。

落ち着いて考えると、この二人があの書庫からスバルを緑部屋へどうやって運んだのかは謎だった。ベアトリスが力仕事に役立つ気配は微塵もないし、今の台詞を真に受けて、このエミリアがスバルを軽々と運んだなんて眉唾を信じるのもどうかしている。

 

「――?どうかした?」

 

「ううん、何でもない。とにかく、助かったよ。何度も言ってるけど、ごめん」

 

「ごめんじゃなくて、ありがとうの方が嬉しいってば」

 

謝罪に頭を下げると、エミリアが下げようとしたスバルの額を掌で押さえる。そのすべらかな指の感触に目を丸くして、スバルは「そうかもね」と何とか返事した。

これまでにも思ったが、エミリアの距離感はスバルには少し刺激が強い。わりと遠慮なく近付いてきたり、触ってきたりする。

考えてみると、スバルは目覚めた瞬間、彼女の首に両手をかけたりもした。それでも、彼女はきょとんと、平然とした顔でスバルを見つめていたが。

 

「いったい、ここでどんな生活をしてれば、この子とそんな距離感になるんだよ……」

 

あるいは、エミリアは恐ろしく整った外見に反して、異常に馴れ馴れしいだけか。きっと誰に対しても優しく、愛されて育ったために壁を感じていないのだろう。

苦労知らずの箱入り娘――そんな印象を持てば、この距離感にも納得がいく。

辛い目に遭ったり、後悔の一つも背負ったことがなければ、他人の善心だけを信じて、綺麗な目をしたままでいられる。――あるいは、それすらもポーズなのか。

 

「――――」

 

隣り合ったエミリアやベアトリスを眺めながら、スバルは深く考え込む。

単純に、そう単純に考えた場合、前回の塔の惨劇とスバルの最期において、一番警戒に値する容疑者は、このエミリアとベアトリスの二人なのだ。

 

シャウラの死体を、エキドナの死体を、ラムと、ユリウスとメィリィの死体を見た。

パトラッシュに助けられ、傾く塔の外へ連れ出されたスバルは、そこで背後に立った何者かに首を刎ねられ、命を落とした。――二人の死を、見ていない。

 

無論、二人が共謀したところで、残った五人の殺害が可能かはわからない。それでも難しいのではないか、というのがスバルの見立てだ。

だが仮に、ここにもう一人――三人目が加われば、話は変わってこないだろうか。

 

『――次、当ててみなよ、英雄』

 

知らない声が、最後にスバルにそう言ったのを覚えている。

激動の最中、混乱の渦の中、もう終わってしまいたいと絶望する中で、聞いた声。

あれが、エミリアとベアトリスに協力する第三者――書庫から、緑部屋へとスバルを運び込んだ見えない三人目の正体ではないのか。

だから二人は、そんな出鱈目な嘘なんかついて――、

 

「あ、スバル、いきすぎよ?」

 

「う、お?」

 

考えながら歩いていたせいで、どうやら目的の部屋を通り過ぎていたらしい。部屋の前で立ち止まったエミリアが、前を行くスバルの肩を掴んで引き止める。

瞬間、スバルは奇妙な違和感を覚え、自分の肩を掴むエミリアの手を見た。それから、彼女の手を取って、握手する。

 

「スバル?いったい、何をしてるのかしら」

 

「いや、ちょっとした実験……エミリア、力比べしないか?」

 

「え、危ないからやめた方がいいと思うけど……」

 

握手自体には何の抵抗感もなく、エミリアが力比べには拒否感を示す。その態度に、スバルはますます確信を得て、力強く「頼む」と言った。

エミリアの細腕にスバルを担ぐ力がないなら、先の推論はかなり強固に保証される。そして今、エミリアは自分が疑われているとは思っていないはずだ。

このアドバンテージを活かすには、この瞬間しかチャンスがない。

 

「頼む、必要なことなんだ」

 

「……スバルがこんなに真剣なんだから、きっと大事なことなのよね」

 

スバルの懇願を受け、悩んでいたエミリアが唇を引き結ぶと、決意の表情で頷く。

それを見て、スバルは「かかった」と内心で拳を固めた。あとは彼女の非力を証明してやれば、スバルの推論は大きく前進する。

 

「じゃあ、危なくないように引っ張りっこってことにするのよ。それでいいかしら?」

 

「ああ、OKだ」

「ん、わかった」

 

ベアトリスの指示に従い、スバルとエミリアは握手したまま距離を開ける。互いの右腕を握り合ったまま、二人は真っ直ぐに互いの瞳を見つめた。

そして――、

 

「レディ、ゴーなのよ!」

 

ベアトリスの掛け声があり、スバルは力一杯にエミリアの腕を引き寄せた。

 

「うおおおおお――っ!!」

 

リンゴを握り潰す握力、特に目標もなく竹刀を振り続けた握力、腕立て伏せは何となく欠かさずに続けた腕力、男と女の身体能力の差、その全てを戦いに込めた。

 

――エミリアの腕は、びくともしなかった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

エミリアとベアトリスを疑うスバルの推論は振り出しに戻った。

 

ただ、それはあくまで、エミリアたちが第三者の力を借りなくとも、スバルを緑部屋へ運ぶことができたということが裏付けられただけで、彼女たちの容疑が晴れたことを意味するわけではない。相変わらず、スバルは彼女たちの死体を見ていないのだ。

あの、塔の大虐殺――その事態の犯人が、別にいるとはまだ決まっていない。

 

「結局、純粋に、あの最後に出てきた奴が犯人ってことなのか?」

 

あれが、スバルを殺したことは間違いない。

しかし、塔を呑み込んだ影や、その手前にあった皆の虐殺まで奴が犯人なのか。殺されたものは皆、殺され方がそれぞれ違っていた。あの説明はどうなる。

パッと見てわかりやすい死に方は、鋭いものでバッサリとやられたエキドナと、傷が重なったユリウス、失血死したメィリィといったところか。

皆が、誰かと戦って死んでいたことは疑いようがない、はずだが。

 

「それで、あの悪ふざけはいったい何だったの?」

 

と、考え込むスバルに呆れたような声がかけられる。

それは、朝食の準備をしているラムだ。合流した彼女は保存食と水を配膳しながら、スバルのやっていた実験――エミリアとの力比べの説明を求めてくる。

 

推論を立証するための力比べは、スバルがエミリアに惜敗する形で幕を閉じた。その終わりの切っ掛けをくれたのが、広間の前で合流したラムだ。

彼女は顔を赤くするスバルの奮闘を見ると、「馬鹿じゃないの?」の一言でそれを終わらせたのだった。

 

「あれは、スバルにお願いされたの。よくわからないけど、きっとすごーく大事な意味があったのよ。ね、スバル」

 

「そうですか。ラムには理由をつけて、エミリア様の手を握りたかっただけのようにしか見えませんでしたが」

 

「それは穿った見方すぎるだろ!何なら、次はお前が俺と力比べするか!?」

 

「いやらしい」

 

「なんでだよ!」

 

スバルを庇おうとしたエミリアに、ラムがひどく俗悪な印象で物を言った。それを払拭しようと突っかかると、余計に立場が悪くなる。まさしく悪循環。

 

「ハッ!」

 

そう鼻で笑い、ラムは配膳の方へと意識を戻した。その後ろ姿を眺めながら、スバルは自分の、今の態度が違和感を与えていないようだと密かに安堵する。

まだ、彼女たちの知る『ナツキ・スバル』から乖離した態度は取っていないらしい。それにホッとする反面、呆れもする。

そうやって、少しでも意識を別の方向へ傾けておかないと――、

 

「うぷ」

 

一瞬、込み上げてきた嘔吐感を堪え、スバルは口に手を当てる。

その原因は、こちらに背を向けてせっせと作業しているラムだ。――彼女の後ろ姿が、スバルの瞼に焼き付いた、あの死に様と瞬きするたびに重なる。

 

後ろから、片腹が吹き飛ぶような一撃を受け、絶命していたラム。

憤怒と無念が塗り固められた死相は、彼女の可憐な表情を呪いで引き歪め、目にした全てを八つ裂きにせんとする慟哭を魂に刻み込んだ。

その死相の主が、こうして目の前で動き、確かな命を宿している。

 

正直、広間で最初に彼女と出くわした瞬間は、その違和感と現実との齟齬を受け入れるのに必死だった。

直前にエミリアとの力比べで力んでいたおかげで、立ち眩みを起こしたと、へたり込んだことの言い訳ができてホッとしたぐらいだ。

 

ただ、見ておかなければならなかった、ラムの表情を見落としてしまった。

 

「――――」

 

奥歯を噛みしめて、スバルは強い自制を自分へと意識させる。

ここから、広間には続々と塔内の関係者たちが集まってくる。その、一人一人の表情を見落としてはならない。――ともすれば、それが事態を打開する鍵になるのだから。

 

「うひゃー、いい匂いッス~!爽やかな朝に贅沢なご飯!あーし、このために生きてるって実感するッス~!」

 

などと、うるさく言いながら最初の一人が広間へと姿を現した。

長く黒い三つ編みを揺らし、豊満な体を惜しげもなくあけすけに晒した美女――その首から上を、確かに胴体と繋げたままで、シャウラが広間に現れた。

 

彼女はラムの用意する食事を眺めていたが、部屋の奥にいるスバルに気付くと、

 

「お師様!おはようッス!昨日はよく寝れたッスか~?」

 

パッと表情を明るくして、まるで子犬のような元気さでこちらへ駆け寄ってくる。そしてスバルの腕を取ると、その胸にぎゅっと抱きしめてきた。

 

「う……」

 

「ちなみにあーしはめちゃめちゃよく寝たッス!久しぶりに昔の夢とか見ちゃったッスよ~。あーしとお師様と、かか様とそれからそれからぁ……」

 

「あー、わかった、待て。夢の話はそのうちちゃんと聞いてやるから。……お前、今朝の俺を見て、なんかないか?」

 

「えー、またそれってえらくふわっとした質問ッスね。めっちゃお師様!」

 

抱きしめられた腕を何とか振りほどいて、スバルはシャウラから逃げつつ質問。それを受け、シャウラはにへらと悪意を感じない顔で笑い、

 

「ショージキ、お師様見て何がどうってことはないッス!いつも通り、昔の通り、あーし的には最高に色男ッス!プロポーズ四百年待ちッス!」

 

「気が長ぇ話だな。……冗談はともかく、何もないならいいんだ」

 

「――?そッスか?なら、あーしも気にしないッス~」

 

望んだ反応はなく、スバルはいくらかの落胆と、それ以上の安堵を覚えながらシャウラへの疑念を引っ込める。

そうしていると、続けて次の容疑者、メィリィが部屋にやってきた。

 

「ふわあ……おはよう。今朝も眠たいわねえ……」

 

入口を抜ける少女は、口に手を当てて可愛らしく欠伸などしている。それでも、面倒な身嗜みなどちゃんと済ませてあるあたり、少女の美意識には頭が下がる。

顔を洗い、髪の毛を乱しておくだけでいいスバルとは大違いだ。

それはともかく――、

 

「おはよう、メィリィ。今朝はお寝坊さんだったのね」

 

「落ち着いて考えると、わたしがお姉さんたちに合わせて寝起きしてあげる理由ってない気がするのよねえ。別に、この塔のことってわたしに関係ないんだしい」

 

「性格の悪いことを言い出す娘なのよ。大体、ベティーたちが塔を出るための試験を終わらせなきゃ、お前だってこの塔を出られないかしら」

 

「まあ、それはそうなんだけどお……あ」

 

欠伸の言い訳を聞き咎められ、ベアトリスの意見にメィリィが唇を尖らせる。と、彼女はその途中で壁際のスバルとシャウラに気付き、微笑みながら手を振った。

その様子にスバルは眉を上げ、それから手を振り返す。

 

「さすがに、死んでた子どもまで疑うのは考えすぎ、か……?」

 

「お師様、困ったときは基本に立ち返るッスよ。まずは、ジャブの打ち方からッス」

 

「……それ、何の教えだ?」

 

「お師様の教えッス」

 

「道理で役に立たないと思った」

 

独り言を聞きつけられ、スバルは内心ひやひやしながらシャウラの軽口を躱した。

ともあれ、メィリィからも望んだ反応は得られなかった。となれば、残すところ、この方策が実を結ぶか試せるのは二人だけ――、

 

「――おはよう」

 

そこへ、一行の最後の二人が一緒に広間へやってくる。

エキドナと、ユリウスの二人だ。白い狐の襟巻きをしたエキドナは、ユリウスを引き連れて堂々と広間へ足を踏み入れる。

代わる代わる、エミリアやラムたちが彼女に挨拶し、朝の一言を交わしていく。

そんな中だ。

 

「――――」

 

エキドナの後ろに続いたユリウスが、部屋の奥に佇むスバルを見て、頬を硬くした。それから、彼はふいと視線を逸らし、スバルを意識の外へ追いやった。

 

「――お前か」

 

その反応は、スバルが求めていたそれにかなり近い。

そして、他の人間が誰一人、そうした反応を見せなかった以上、最も可能性が高いのは、露骨な反応を見せた彼であると言わざるを得ない。

 

「……シャウラ、ちょっと頼みがある」

 

微かに、にじるようにスバルはそう呟いた。

そこには、絶えることのない怒りの炎と、煮詰めたような憎悪の名残りがあった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

――広間での朝食は、エキドナ=アナスタシアの説明会へと終始した。

 

驚くエミリアたちの反応を横目に、初耳だという顔をしながら、スバルは自分の『記憶喪失』の話がない場合、こうした風に世界は進むのかと感心していた。

ここまで、現実感のなさや事実の誤認が重なり、スバルは『死に戻り』をする自分の特性をほとんど把握できていない。ただ、よく物語にあるタイムリープと同様に、スバルと関与しない問題は同じように進み、関わった問題には変化が生まれるのだと理解する。

 

つまり、前回までは『記憶喪失』として話に中核で関わってきたため、アナスタシアという少女の体にエキドナという存在が宿っている事実、そこを深く掘り下げる話題にはなかなか入り込めなかった。

もっとも今回も、その問題の解決法が見出せるようなことや、新たな事実が判明するようなことは起きない。変化は、スバルの行動でしか発生しないと考えられる。

劇的に事態を進めたいなら、積極的にスバルが行動し、関わる以外にないのだ。

だから――、

 

「――ユリウス、ちょっとお前に話がある」

 

朝食が終わり、各自が広間を出ようとしていたところで、スバルはユリウスを呼び止めた。呼びかけに足を止めたユリウスが、スバルの方へと振り返る。

やや彼の方が背が高いため、間近で向き合えばスバルが相手を見上げる形だ。だが、その威圧感に負けじと、スバルはいっそ胸を張り、ユリウスと睨み合った。

その意気を見て取り、ユリウスは薄い唇から疲れたような吐息をこぼすと、

 

「何かな?エミリア様の提案で、昼までは休息とするはずだが?」

 

ユリウスの言葉は、朝食の席でのエミリアの提案を受けたものだ。

どうやらエミリアは、スバルが疲れて書庫で眠っていたという意見を殊の外重く受け止め、全員の見えない疲労の蓄積を気遣ってくれたらしい。

 

実際、スバルの記憶にはないが、この一行は数日前に砂漠越えを果たしたばかり。

ほんの数歩でスバルが挫折する羽目になった砂漠越えだが、それを成し遂げるには相当な苦労があっただろう。エミリアの意見に異を唱えるものはいなかった。

これも、スバルの発言から引き起こされた変化と言えるだろう。些細な一言が、その日のスケジュールを狂わせることもある。言動には気を付けなくてはならない。

 

その反省を胸に、スバルはユリウスと真っ向から対峙する。そして、彼の言葉に対して顎を引くと、言った。

 

「昨日の夜のことで、話がしたい」

 

その一言の効果は劇的だった。

 

「――――」

 

スバルの言葉を受け、ユリウスの黄色い瞳を複雑で膨大な感情が過っていく。

その効果覿面といった反応を見て、スバルは自分の推論に確信を深めた。

 

「きな。場所を変えようぜ」

 

「――わかった」

 

顎をしゃくったスバルの誘いに、ユリウスが観念した風な様子でついてくる。

そのまま、スバルはユリウスを連れ、四層の適当な部屋を会談の場所に選んだ。当然、他の人間は割り込ませない、内密な話し合いだ。

 

「さて、何から話すかな……」

 

それほど広くない部屋の中、スバルは振り返ってユリウスと対峙する。

微かな緊迫感はあるが、それを表に出すようなポカはしたくない。ある程度、精神的に優位に立っているはずという考えが、スバルに勇気を奮い立たせた。

一方、ユリウスの方の表情は複雑で、その内心を読み解くのは難しい。ただ、穏やかならぬ心地にあることは、先の朝食の場からずっと引き続いていると見えた。

 

「とりあえず、昨日の夜のことか」

 

ひとまず、と前置きするような素振りで、スバルはいきなり本題へと切り込む。

現状、精神的な優位はこちらにあるが、情報的優位は圧倒的に相手にある。そもそも昨夜の出来事は、スバルにはあまりに未知な部分が多い。

ただ、おそらく昨夜、スバルとユリウスは書庫で何かあったに違いない。

その『何か』の結果、スバルは記憶をなくしたのではないか、そう考えていた。

 

「昨夜のこと、か」

 

スバルの言葉を繰り返し、ユリウスが長い睫毛に縁取られた瞳を閉じる。瞑目する美丈夫を前にしながら、スバルは意識的に深く長い呼吸を繰り返した。

呑まれてはならない。少なくとも、気持ちは負けられないのだ。

 

「あの話はあの場で終わったものと、少なくとも私は考えているが、君は違うのかな?」

 

「――。ああ、違うね。全然全く、俺は納得しちゃいねぇよ」

 

話に乗ってくるユリウス、それを受け、スバルが会話を合わせる。

ユリウスの声は抑揚を殺し、言わば、感情を必要以上に出さないように注意したものだ。当然、それを受ける側のスバルは、こうして噛みつく選択肢を選ぶ。

 

「納得、か。なるほど、君らしい言い分だ。つまり、こちらの心情は後回しにして、自分の方の問題を解決したいと?それは、いささか勝手が過ぎるのでは?」

 

「微妙に食い違うな、そんな話をしてるわけじゃねぇ。確かに俺は納得しちゃいねぇが、お前が納得してるって面かよ?両方とも腹にイライラしたもんを抱えてるってのに、そんなことはありませんって平気な顔でいろってか?できるかよ」

 

「――ならば、いったい他にどんな選択肢がある」

 

静かに、感情を抑制するユリウス。しかし、徐々に声には感情が溢れ始める。

スバルの方も、詳しい事情を知らないままながら、ユリウスの表情と声色に、スバルに対する隠し切れない激情、その余波を感じて腹の底が燃えてきた。

 

どんな選択肢が、それを聞きたいのはスバルの方だ。

ユリウスはその激情を抱えたまま、スバルに対してどんな選択肢を取ったのか。そしてスバルはユリウスに、どうやってその選択肢を選ばせたのか。

 

「私の想いは昨夜も告げた通りだ。そして、それ以上を伝えるつもりもない。君と、アナスタシア様……エキドナとの密通に、私はまるで気付かなかったのだから」

 

「俺と、エキドナの密通……?」

 

思わぬ事実が飛び出してきて、今度はスバルが虚を衝かれる。

今のところの情報では、スバルはあくまでエミリアをトップとした集団に加わっている身のはずだ。ユリウスとエキドナ――この場合、エキドナの体の本来の持ち主であるアナスタシアとが主従であり、大きな目で見れば彼女らとは敵対関係にあるとも聞く。

だが、そのエキドナと、あろうことかスバルが密通していたというのは。

 

「君に悪意がなかったことはわかっている。エキドナとも、十分とは言えないが言葉は交わした。彼女は信頼できる……いや、彼女を信じる以外に術はない」

 

「――――」

 

「アナスタシア様をお救いするには、その可能性を求める以外にないんだ。……取り戻せたところで、あの方が私を覚えていなかったとしても」

 

どこか、ひどく寂しげな口調でユリウスがそんな言葉を口にする。

 

ユリウスの、彼の事情はスバルも聞いている。

眠り続けるラムの妹や、別の町の多くの人間がそうであるように、ユリウスもまた、他者に忘れられる呪いのような憂き目に遭っているのだと。

仮にエキドナが体の支配権を持ち主に返せても、そのアナスタシアは、自分の騎士であるユリウスを覚えていない可能性が高い。

それでも――、

 

「――私のすべきことは変わらない。君が、いったい私から何を引きずり出したいのかはわからないが、あらかじめこれだけは伝えておこう」

 

「……なんだよ」

 

「後生だ。……これ以上、君の前で私を惨めにしないでほしい」

 

その弱々しい声に、スバルはとっさに言葉が出なかった。

 

「――――」

 

ただ、ひどく胸の奥がざわつく感覚だけがあり、スバルは押し黙ってしまう。

ユリウスはそんなスバルを見ると、微かに息を抜くように唇を緩め、

 

「どうやら、これ以上は不毛なやり取りにしかならないようだ」

 

そう言って、ユリウスはスバルに背を向け、部屋を出ていこうとする。そうして、部屋を出る直前、ユリウスは一度だけ足を止めた。

そして、こちらに顔を向けないまま、

 

「昨夜の話と言われ、少し怯えたよ。――君が、謝罪を口にしたらどうするべきかと」

 

「俺が、謝ったら……」

 

「そのときは、私は君になんと答えたのだろうね。それも、もうわからないことだが」

 

どことなく、自嘲の響きがある呟きを残し、ユリウスが部屋を出ていく。

その背中が見えなくなるのを見届けて、スバルは長く息を吐いた。ドッと、肩に重石を乗せたような疲れがあり、汗が噴き出してくる。

自分が、猛烈に嫌な人間になったような気がした。

 

「――お師様、あれでよかったんスか?」

 

と、そんなユリウスと入れ違いに、部屋の中を覗き込んだシャウラが顔を見せる。彼女のあっけらかんとした態度に、スバルは「は」と声を漏らす。

それから額に手を当てて、「いいんだよ」と首を振った。

 

「あの調子だと、たぶん、ユリウスは書庫とは関係ないっぽいな。……ただ、自分に対する不信感がまたちょっと募ったけど」

 

「よくわかんないッスけど、あーしはお師様のお役に立てたッスか?」

 

「――。ああ、立った。おかげで、安心してユリウスと向き合えたよ」

 

「えへへへー、そしたらよかったッス~。じゃ、じゃ、じゃ、お師様、お師様……」

 

頬を赤く染め、体をくねくねさせて喜んだシャウラが、スバルの方へ歩み寄ってくる。それから、彼女はおずおずと両手を広げて、

 

「ご褒美に、あーしのことをギュッと抱きしめてほしいッス」

 

「それはやだ」

 

「えええ!?ひどいッス!お師様、ご褒美のレベルを逸脱しなかったら、あーしの言うこと聞いてくれるって言ったッスよ!?」

 

「その願いは、俺の純情を超えている……」

 

スキンシップの過剰なシャウラの望みを、スバルはすげなく突っぱねる。

とはいえ、シャウラが控えていてくれたことが、ユリウスとの対峙で心の余裕を生んでくれていたのは事実だ。

 

ユリウスを呼び出すにあたり、スバルはシャウラを助っ人として隣室に控えさせた。

彼女を選んだ理由は、他の女子メンバーの中では一番運動能力が高そうだったことと、スバルに対する好感度から頼み事を聞いてくれそうだったことと、彼女なら細かい話を聞かなくても手伝ってくれそうだという打算の結果だ。

あとは、最初に死体を見つけた彼女は、容疑者の中でも一番、危険性が低いのではないかと見立てているのもある。

 

ともあれ――、

 

「ユリウスが、書庫で俺の記憶を奪った相手って案は的外れか……」

 

今朝、スバルを見たときの反応から、ほぼ間違いないと思ったが、その考えは外れた。

書庫で何があったにしろ、記憶がなくなるような出来事があったわりに、先ほどのユリウスはその件に全く触れていないし、かといって演技にしては感情が自然すぎた。

 

エキドナとの密通、それが『ナツキ・スバル』のどんな思惑によるものかは定かでないが、少なくとも、今のスバルが昨夜の自分に不信感を抱くには十分な理由だ。

記憶がなくなる以前に、ユリウスやエキドナと穏やかならぬやり取りがあったらしいことも含めて。

 

「お前、いったい何してて、誰に狙われてんだよ、『ナツキ・スバル』……」

 

「お師様ぁ、それなら逆にあーしの胸に飛び込んできてくれるってのはどうッスか?あーしがお師様を、このボインボインな体でハグするッス」

 

「その願い、純情越え」

 

「お師様いけずッス~!」

 

わからないといえば、このシャウラのスバルに対する異常な好感度もわからない。

何故、彼女がこうまでスバルを好いて慕っているのか、どうやらエミリアたち、他の面々もわかっておらず、都合よく使っているとの話だったが――本当にそうなのだろうか。

 

エキドナとの密通、昨夜の行動の不鮮明さ、そもそもの彼女たちとの関係――今、対話できない間柄なのも含め、スバルにとって最も未知の存在は『ナツキ・スバル』だった。

彼はいったいどんな思惑で、彼女ら彼らに相対していたのか。

 

――本当に、『ナツキ・スバル』は彼女らの仲間だったのだろうか。

 

「ヤバいな、考えが煮詰まってきた。……ちょっとパトラッシュのところにいくか」

 

とりあえず、落ち着いて考えられる場所にいきたい。そう考えたとき、今のスバルの脳裏に最大の味方として浮かび上がるのは、あの漆黒の地竜なのである。

ああも命懸けで守られてしまえば、記憶の有無に拘らず信じる以外にない。

 

「えー、あの地竜のとこッスか~?あの地竜、あーしのことぎろって睨むからあんまし好きじゃないッス」

 

「お前、パトラッシュの悪口は許さねぇぞ。この世の誰の悪口が許される世界になったとしても、パトラッシュへの悪口だけは俺が許さねぇ」

 

「お師様、あの地竜にどんだけ骨抜きにされてんスか!?」

 

シャウラが悲鳴のような声を上げるが、スバルはそれを一顧だにしない。

ともかく、今はパトラッシュの傍で安寧と思索に耽りたいのだ。どのみち、昼食後には本来の目的である塔の攻略が始まってしまう。

記憶がないことを隠している以上、それを止める手立てもないのだから。

 

「というわけで、俺とお前もここで解散だ。またあとでな」

 

「うえー、ご褒美もなあなあにされたッス。でも、あーしはそれでも挫けないッス。お師様にとって都合のいい女、それがあーしの存在意義ッス」

 

「――――」

 

部屋の前で別れようとしたところ、シャウラがそんなことを言ってビシッと敬礼する。その彼女の発言を受け、スバルは息を詰めた。

彼女に背を向けたまま、スバルは俯いて目をつむる。

 

「……そこまでする価値が、ナツキ・スバルのどこにあるんだよ」

 

「――?お師様?」

 

「――っ!ああ、クソ!」

 

湧き上がる苛立ちを堪え切れず、スバルはガシガシと自分の頭を掻くと、小首を傾げていたシャウラに向かって振り返った。

そして、棒立ちの彼女へ歩み寄ると、両手を広げて思い切りに細い体を抱きしめる。

 

「――っ」

 

「都合のいい女とか、そういうことは考えなくていい。俺が悪かった」

 

一方的に利用だけしようとして、スバルは『ナツキ・スバル』と同じになるところだ。

それを拒絶したスバルの行動に、シャウラが息を詰め、体を硬くした。

 

シャウラの身長は高く、背丈はスバルとそれほど変わらない。

それでも、腕を回した彼女の体は細く、しなやかさや柔らかさは自分の体のそれとは段違いだった。そんなこと、意識するような心の余裕はなかったが。

 

「お師、様……」

 

「お前がいてくれて助かった。……そんだけだ」

 

「――――」

 

たっぷり、三十秒ぐらいはシャウラを抱きしめていただろうか。

スバルは、そろそろいいかとシャウラの体を解放する。正直、照れ臭くはあったが、達成感の方が強い。あのまま、ただ貰い物を貢がれるだけの奴になるぐらいなら。

『ナツキ・スバル』と同じになるぐらいなら――、

 

「お師様ぁ……」

 

そう考えるスバルを見て、頬を赤くしたシャウラがふらふらと近寄ってくる。彼女の瞳は潤み、吐息はどこか熱っぽく、視線はスバルの唇を見つめていて、

 

「お師様、ついにあーしのこと、愛してくれる気に……」

 

「純情越え!」

 

「ぐえ!」

 

近付いてくる顎を掌で押し上げて、スバルはシャウラを正気に戻した。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「ご褒美をやったらやったで調子に乗るのか……塩梅が難しい奴だな……」

 

興奮したシャウラを何とか宥め、どうにか状況を脱したスバルはそう嘆息する。

結局、シャウラはあのあとも夢見心地のままだったが、「引き際を見極めておくのもいい女の条件ッス。シークレットメイクスウーマンウーマンッス」と引き下がった。

正直、そういう意味では全然ないのだが、突っ込むのも面倒臭かった。

 

「世の中にはニードナットゥノウってこともあるからな」

 

ともあれ、そんな呑気な一幕とは裏腹に、スバルの状況はあまり芳しくはない。

せめて、書庫で何があったのか、ユリウスをつつけば出てくるものと期待したが、それも見当外れに終わった今、またしても振り出しに戻ったも同然だった。

あるいは当初の想定通り、スバルの記憶が抜けたことに他者の関与はないのか。あとは表情を確認できなかったのはラムだけだが――、

 

「あいつが泣きそうだったのが、嘘泣きだったってなったらもうわからねぇよ……」

 

スバルが記憶をなくした話を、強硬に信じようとしなかったのがラムだ。

無論、それが演技である可能性や、何らかの関与があったことを認められない一心という可能性もないではないが、それを言い出せばキリがない。

何かを信じなければ、何かを疑うことも始められないのが実情なのだ。

その、ひとまずのスバルにとっての根幹が――、

 

「――今はパトラッシュ、ってことか」

 

言い切ってから、まるっきり人間不信に陥った人間の結論だなと自分で呆れる。

だが実際、その側面が強いことは事実だ。他人だけならまだしも、自分さえも信じ切れなくなった今、『人間不信』は根深いとしか言いようがない。

 

「いっそ、パトラッシュとか地竜だけがいる楽園で暮らせた方が幸せなんじゃ……」

 

「――あ、聞いちゃったあ」

 

「うえ!?」

 

と、そんな独り言を口にした瞬間、通路の曲がり角からぴょんと少女が飛び出した。青い三つ編みを躍らせ、くすくすと口に手を当てて笑うメィリィだ。

つまらない独り言を聞かれたと、スバルは彼女の姿にげんなりと肩を落とした。

 

「冗談か、戯言みたいなもんだ。まさか真に受けちゃいないだろ?」

 

「そりゃあねえ。でも、別にそれがお兄さんの本心でも笑ったりしないわよお。わたしだって、悪い動物ちゃんたちとだけ暮らしていける場所があったら、そこで暮らしたって構わないと思ってるものお」

 

「……ふーん」

 

バツの悪いスバルの言い訳に対して、メィリィはスカートの裾を摘まんで、上品なのか奔放なのかわからない仕草でそんなことを言う。

その返答を受けても、スバル的にはなんと答えたものかわからない。ただ、その気のない返事が彼女的にはお気に召さなかったらしく、

 

「あ、生返事するんだからあ。せっかく人が真面目に話してあげたんだから、ちゃんと聞かないのは悪い子の証拠だと思うわあ」

 

「そりゃ申し訳ねぇな。……お前、一人か?ベアトリスと一緒じゃないの?」

 

「やあだ、なんでわたしがベアトリスちゃんと?それって、むしろわたしの方がお兄さんに聞く質問だと思うけどお」

 

単純に、同じ年代の少女同士、つるんでいるものかと思っただけなのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。

確かに、ベアトリスはエミリアと行動を共にしていることが多い。――だから、疑惑についても二人はセットで、切り離して考えることができないのだが。

 

「まぁ、それならそれでいいや。とはいえ、俺もお前と遊んでやってる暇はないんだ。悪いけど、話し相手が欲しいなら別を探してくれ。向こうの方にシャウラがいるぞ」

 

「半裸のお姉さんと話すのもいいんだけどお、今はお兄さんに用事があるのよお」

 

「俺に?」

 

パトラッシュとの逢瀬、ならぬ考え事の時間を邪魔されたくなかったスバルだが、メィリィの思わぬ誘いに目を丸くしてしまう。

思えばシャウラ同様に、メィリィもスバルの中では何となく、エミリアたちと比べれば接しやすいポジションにいる少女だ。前回の最期でも、彼女の亡骸は見るに堪えないなんてほど壊された状態ではなかった。

眠るように亡くなっていた少女だったから、こうして直接相対していても、ショッキングな映像がそれほどダブらないで済む。心臓の鼓動も、落ち着いていた。

 

「俺に用事ってのはなんだ?手短に済む話か?」

 

「ええ、別に長くは取らせないわあ」

 

そんな安心感があって、スバルはメィリィの話に耳を傾ける気になった。そして、聞く姿勢になるスバルに、メィリィは自分の唇に指を当て、その指先を舌で舐める。

子どもらしい見た目に合わない、どこか艶めいた仕草、それにスバルが眉を顰めると、

 

「――昨日の夜の話だけど、わたしはどのぐらい真剣に受け止めたらいいのかしらあ?」

 

そう、艶然とした微笑のままに、少女はスバルに言ったのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

 

「――ん、あ?」

 

ふと、スバルは奇妙な意識の閉塞感から解放され、自分の首を押さえた。

息苦しさ、いがらっぽさのようなものが喉にあって、咳き込む。

 

「げほっ、げほっ……」

 

喉に触れながら、スバルは渇きに痛むような感覚を味わいつつ、何度も咳をした。

そうして、不意に気付く。

 

「あれ、俺は……」

 

――何をしていたのだったか。

 

確か、直前までユリウスと話していて、それからシャウラとの茶番があり、パトラッシュのところへ向かおうとして、途中でメィリィと――、

 

「いてっ……」

 

考えながら、自分の腕をさすったスバルは鋭い痛みに舌を鳴らした。

見れば、スバルの手――それも両手だ。右手と左手の両方、手首の上あたりに引っかき傷のようなものが刻まれ、痛々しい血が滲んでいるのがわかった。

 

「づっ、なんだこれ……!」

 

傷は結構に深く、しかし、傷口自体は歪な印象だ。

引っ掻き傷の表現は当たらずとも遠からずで、鋭利な刃物の傷では決してない。深々と爪を立て、肉を抉るような勢いで、力を込めた傷。

こんな傷、いったいどこで負ったのか――、

 

「――ぁ?」

 

痛みに顔をしかめながら、何か宛がえるものがないか、スバルは周囲を見回した。そして、自分が四層に多数ある、似たような石造りの一室にいることに気付いて、それから、それに気付いてしまった。

 

「――――」

 

床に、白い足が投げ出されている。

足は動かず、だらりと力が抜けた状態だ。視線を、その足先からゆっくりと上へ向けていくと、すぐにスカートがあり、上半身が見えて、それから。

それから――、

 

「――は?」

 

それから、そこに、ぴくりとも動かなくなった少女が、倒れていた。

 

――メィリィが息絶えた状態で、スバルの眼前に倒れていた。