『聖域への道中』


 

「わたくしは同行できませんが、どうぞ道中お気をつけてくださいまし。旦那様にも、フレデリカがお屋敷をお守りしているとお伝えいただければ」

 

出発の朝、屋敷の正門前に竜車をつけたところで、見送りに出てきていたフレデリカがそう言って腰を折る。

姿勢のいい彼女のお辞儀は惚れ惚れするほど美しく律されたものであり、向けられる側も自然と背筋を正してしまいそうになる威圧感がある。

ともあれ、それを受けたスバルとエミリアの二人は互いに顔を見合わせ、

 

「こっちこそ、慌ただしいときなのにごめんなさい。ロズワールがいないんだし、本当なら領主代行で私がいなくちゃいけないんだと思うけど……」

 

「なにせそのあたりの実務に関しちゃ俺もエミリアたんもからっきしだ。雑務はこなせても数字関係は門外漢丸出し。オットーにぶん投げて整理してもらったけど、それも焼け石に水だよなぁ」

 

この二日間の成果を思い浮かべて、スバルは手応えの浅さに苦笑する。

雑然とした執務室をオットーと二人でうろつき回った結果、得られた情報は「責任者の説明なしじゃ無理」の一言で片付く成果でしかなかった。

多少、フレデリカは心得があるようだったが、現場を離れていた数ヶ月の情報の齟齬を埋める時間も必要だろうし、なにより屋敷の維持の面でかかる負担を思えばこれ以上の作業を増やさせるわけにもいかなかった。

 

いくつか、単純に処理できる類の案件をエミリアが細心の注意を払って処理し、あとのことは後回しにしたツケがいずれくるとわかっていながら耳を塞ぐ他にない。

 

「夏休みの宿題を全部やらないで登校日を迎えた気分だな。俺、なんだかんだで宿題未提出とかやらないタイプだったんだけど」

 

「よくはわからないけど、いいことなんじゃないの、それ?逆に私は今、すごーく胸が苦しい。罪悪感じゃないんだけど、悪いことだってわかって放置してるなんて」

 

「俺らのせいじゃねぇし。って俺は開き直れるんだけど、エミリアたんには難しいかなぁ。目に見える範囲で物事が悪くなってくのがわかるってのが居心地悪いのは俺もわかるし」

 

放置しておいていいものでない問題を放置しておくしかない歯がゆさ。エミリアが抱えるその罪悪感には同意できるが、それを補う手がないのもまた事実。

けっきょく、力足らずなのだ。だから、力が足りてる相手を呼びにいくしかない。

 

「地竜の準備、できましたよ。あれだけの大仕事からほんの数日だっていうのに、ナツキさんのパトラッシュはずいぶんとやる気満々なご様子で」

 

「働き者のいい子だろ?現飼い主じゃなく、たぶん元の飼い主の気質が大きいよ。道案内とか、問題なくいけそうか?途中で迷って遭難とかお話にならないけど」

 

ふと、会話に混ざったのはそれまで竜車の御者台で二頭の地竜――パトラッシュとフルフーに声をかけていたオットーだ。

『言霊』の加護はオットーにのみ働く加護であるので、傍目からだと地竜と言葉を交わす彼の姿は完全に頭いっちゃった人の風体なのだが、そこには言及しない。

スバルが生温かい視線を送っていたことには気付かず、オットーは素直にスバルの質問内容だけ受け止めて「ええ」と頷き、

 

「フレデリカさんの教え方が良かったみたいで、問題なさそうですよ。半日とかからず到着できると思います」

 

「そかそか……でも、本気でお前もついてくんの?」

 

「当たり前じゃぁないですか!」

 

太鼓判を押すオットーにスバルが頷いたあとで疑問を口にすると、彼は板張りの床を高く踏み込みで鳴らして目を見開き、

 

「なにせ僕は辺境伯とは初対面になりますからね。紹介してくれるようお願いしたのは僕ですが、僕のいないところでナツキさんがどうやって紹介してくれるのかと想像したら……もう、恐ろしくてとても任せきりになんてできませんよ」

 

「おいおい、そんな信頼されると照れるぜ」

 

「ええ、確かに、短い付き合いなのに十二分に信頼してますよ――ナツキさんが僕のやってほしくないだろうってことを的確にやってのける人材だってねえ!」

 

ずいぶんな言われようにスバルが唇を曲げると、それまで黙って聞いていたエミリアが突然に「ふふっ」と噴き出す。

その笑みに男勢が揃って目を向けると、彼女は小さく手を挙げて、

 

「ホント、二人ってすごーく仲良しね。いつ見てもそうやって仲良く喧嘩してるんだから、羨ましくなっちゃう」

 

「お望みならエミリアたんとだって仲良くして、でも喧嘩はしないでいちゃつくよ。エミリアたんとの喧嘩分はオットーとのコミュタイムに譲って、代わりにオットーとのコミュタイムの方から仲良し成分ちょっぱってくるから」

 

「それしたらもはや僕とナツキさんの間には罵り合いと殴り合いしか残りませんね!?」

 

口の達者さというか悪さというか、そちらにはわりと自信のあるスバルだが、肉弾戦ではオットーと戦うにも不安が残る。というのも、優男風に見えるオットーだがそれなりに鍛えている人物であるのを身をもって知っているからだ。

以前のループで罵り合いの果てにぶん投げられた経験がある。相手が素人でないと情報を得ている現状でも、正面切ってやり合うと負けそうだ。

 

「そうやって考えると、俺の武力値って本当に低いな。知ってたけど凹む」

 

前述通りオットーに負け、当然ながら魔法有りのエミリアにも勝てない。フレデリカには見事なまでに一本取られており、眠るレムと引きこもったベアトリスも言うに及ばず。そうなると、屋敷のランキングでスバルの勝てる相手は――、

 

「あれ、そういえば俺がゆいいつ勝てそうなペトラが見当たらないけど、どうした?」

 

「どういう流れで勝つ勝たないの流れになったのか恐くて聞けないけど、ペトラちゃんならさっきまで屋敷で……あ、出てきた」

 

消去法で空しすぎる勝利を得かけるスバルに呆れつつ、屋敷の方を見たエミリアの紫紺の瞳がかすかに揺らめく。つられてそちらを見れば、ぱたぱたと真新しい給仕服の裾を揺らして駆けてくる少女の姿があった。

 

「待って、待ってください。スバ、スバル様……っ」

 

「そんな焦んなくてもいきなり出発したりなんて性格悪い真似、オットーじゃないんだからやったりしないって。なぁ、オットー」

 

「三秒前になに言ったか覚えてますか!?」

 

膝に手をついて息を荒げる少女に笑いかけ、スバルはオットーを引き合いに出して軽口を叩いて息が整うのを待つ。と、額を軽く拭ったあとでペトラが顔を上げる。

紅潮した頬とくりくりの眼が愛らしい。彼女は長い息を吐いて疲労を抜くと、その天使の造形を笑みの形に変えて、

 

「ご出発になる前にこれをお渡ししたくて。お持ちください」

 

と、そう言って彼女が差し出してきたのは、なんの変哲もない一枚のハンカチだ。

白い布地の縁を金色で彩ったそれは、質の良さと精緻な作りを指先に伝えてくる。受け取り、それを引っ繰り返してみれば、

 

「刺繍……か。へぇ、上手なもんだな」

 

白い布地の表面に、おそらくはペトラが縫いつけたものと思われる刺繍が施されていた。灰色と桃色、そして黒の糸で描かれるそれはスバルにも馴染み深い見覚えのあるものであり、それを横合いから覗き込んだエミリアが「あは」と小さく笑い、

 

「スバルが描いたパックの絵、よね。すごいすごい、上手にできてる」

 

「俺のデフォルメパックがよくできてんな。そんな見るチャンスもなかっただろに」

 

「ラジーオ体操のあとのスタンプ、ちゃんと毎朝押してもらってたもん」

 

敬語を忘れたペトラが首元から引っ張り出すのは、スバルが作って村の子どもたちに配ってあげたスタンプカード――毎朝のラジオ体操に参加するたび、芋判に彫った絵をスタンプしてあげていたそれだ。

最新がパックのデフォルメ『憂鬱な月曜日』で止まっているそれを手本に、一生懸命にちくちくと縫ってくれたのだろう。

 

「にしてもよくできてる。これは裁縫マイスターとして俺も負けられないな」

 

「もらってくれる……ううん、もらってくれますか?」

 

「もらってくださいますか、だな。――もちろん、ありがたく受け取る。血と汗と涙を拭くにはちょっと心が咎めるけど、お守り代わりに懐にな」

 

ハンカチを丁寧に畳むと、それを大事に大事に胸の内へしまい込んでペトラを見る。それから精いっぱい優しく――傍目からは凶悪な目つきを細めて、歯を剥くような悪い笑顔を彼女に向けた。それを受け、ペトラは赤くなる頬に両手を当てて顔をそらし、

 

「無事にお帰りになるのをお待ちしています。あ、お姉ちゃんとうるさい人も」

 

「なんか私、おまけみたい」

 

「今、僕の評価かなりひどくありませんでした!?」

 

さらりとエミリアをついで、オットーをさらについでのように扱うペトラに苦笑。恐いもの知らずはある意味で微笑ましいが、ペトラの背後で彼女を見ながら濃密なプレッシャーを吐き出し始めるフレデリカを見るとそうも思っていられない。

きっとスバルたちの出発後、フレデリカのメイド教育は厳しさを増して少女に襲いかかることと思う。ペトラ、強く生きろ。

 

「さて、んじゃ名残惜しいけどそろそろ出発とするか」

 

「あんまりここで話してても、朝早くに出る意味がなくなっちゃうものね」

 

いつまでも話が弾んでしまいそうな雰囲気に見切りをつけて、スバルは竜車に足をかけると荷台に乗り込む。それから下へ手を差し伸べて、

 

「どうぞ、エミリアたん。俺の胸の中に」

 

「たまには御者台から景色を見るのも気持ちいいかもね?」

 

「ああん、つれない!E・M・K(エミリアたん・マジ・小悪魔)!――と、わ!」

 

すげなく扱われて引っ込めそうになった手を強引に引かれて、前のめりになるスバルの横を軽やかにエミリアが通り過ぎる。

踊る銀髪に鼻先をくすぐられて、小さな音とともに彼女の肢体が竜車へ着地。そのままスバルの対面にそっと座り込み、ジッとそれを見るスバルに小首を傾けて、

 

「どうしたの?」

 

「うんにゃー、別にー?」

 

言いながら、スバルは心なしか足音を強く立てながら彼女の隣へ向かい、そこへどっかりと腰を下ろす。広い車内、なのに狭苦しいスペースの使い方にエミリアは微笑。

その二人のやり取りを見ていたオットーが「付き合ってられませんよ」とぼやくように言って御者台に座り、手綱を握り込んで正門を振り仰ぐ。

 

「それでは出発します。舌とか、噛まないようお願いしますよ」

 

「お前こそあんまり揺らすなよ。急ブレーキかけるときはあらかじめ決めた合図と一緒に頼む。じゃなきゃうまくエミリアたんを押し倒せねぇから」

 

「そんなこと考えてるの?」

 

「僕!その悪巧み聞いてませんけど、いつの間に共犯にされたんですかねえ!?」

 

エミリアが軽蔑に近い眼差しをスバルとオットーの両名に向けると、オットーが冤罪を叫ぶが取り合ってもらえない。つくづく、ああして理不尽に叫んでいるのが似合う人となりだなぁと他人事のように考えながらスバルは手を挙げ、

 

「じゃ、『聖域』目指して出発進行――!」

 

「どの口が言うんですかねえ!?」

 

御者台で口を曲げるオットーに「ノリが悪ぃなあ」とぼやきつつ、スバルは窓から顔を出して見送りの二人へ顔を向け、

 

「それじゃ、留守を頼んだ。それと……レムのこと、よろしく頼む」

 

「お任せくださいまし。その代わり、エミリア様や旦那様をどうぞよろしくお願いいたします」

 

「気をつけて、無事に帰ってきてね」

 

別れ際に際してふざけた感情の消えたスバルの声に、フレデリカとペトラの二人がスカートの端を摘まんでお辞儀する。

馬鹿に丁寧なそのやり取りを経て、スバルは今度こそ心おきなく――とは、残念ながらいかないまでも、屋敷から意識を切り外して、

 

「おい、まだ出発してねぇのかよ、オットー。とろいぞ」

 

「納得いかないなあ、この扱い!!」

 

と、出発前に緊張をほぐすやり取りを終えたのだった。

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「敬語とお辞儀の仕方、もう一度、ちゃんと教え直さないといけませんわね」

 

「申し訳ありません。ちょっと……少しだけ、甘えてしまいました」

 

ぺこり、と頭を下げるペトラの所作は、フレデリカの教えをほぼ完璧に踏襲している。物覚えが速くて呑み込みがいい、実に教えがいのある生徒。

さっきまでの素振りこそ、歳相応なのだから目くじらを立てる必要もないのだが。

 

「あなたが先日までスバル様やエミリア様と親しくしていたのはわかっていますわ。それでも、今は使用人と雇い主との関係、それを意識から外してはなりませんの」

 

「――はい。本当に、申し訳ありません」

 

先の振舞いがわがままであったことも含めて、少女はきちんとわかっている。

あの場で教え通りにそれらしく振舞い、スバルたちを見送ることもできたはずだ。それでもあえて彼女が使用人としての役割を外して、ただの少女としてスバルたちの見送りをしたのには理由があるのだろう。小さい、けれど譲れない理由が。

 

「そこに触れるのは無粋ですもの。その分はちゃんと、午後の書き取りの方に上乗せさせていただきますわ」

 

「わぁ……課題、増えるんですか?」

 

「そのぐらい覚悟してのことですわよね。それで済むとちゃんと計算しているあたり、あなたは未来が楽しみな生徒ですわ」

 

言ってから手を叩き、フレデリカは「さあ」と言葉を継ぐと、

 

「エミリア様たちが留守になさっても、屋敷にはベアトリス様がおられます。食事とお掃除にも手は抜けません。早く終わらせないと、お勉強の時間がなくなってしまいますわ。ペトラ、急いで仕事を」

 

「はい、先生。すぐに終わらせてきまーす!」

 

ぱたぱたと走り出す少女を見送り、フレデリカの口元がかすかにゆるんで牙が露出する。その笑みを慣れた仕草で手で隠しつつ、フレデリカはすでにどこにも見えなくなった竜車の姿を――屋敷を出たエミリアたちの方を見て、

 

「これでお言いつけ通りですわ、旦那様。『聖域』を越えられるかどうか、あとはエミリア様とスバル様次第」

 

瞳を閉じて、彼女は風を浴びながら、

 

「エミリア様は越えられますの?魔女の血に縛られた、あの逃れ得ない行き詰まりの楽園を――」

 

※※※※※※※※※※※※※

 

「じゃ、やっぱりパックの奴はずっと顔出してないんだ」

 

「うん、そうなの。何度も声はかけてるし、結晶石にも存在は感じるんだけど……こんなに長く表に出てこないの初めてだから、ちょっと心配」

 

快調に飛ばす竜車の中、隣り合うスバルとエミリアの会話だけが車内に響く。

『風除け』の加護の影響下にある竜車にあっては、風の音や外の騒音といった雑音系統も大概はシャットアウトされる。こうしてかなりの速度で走っているにも関わらず、揺れも最小限で音もしないとなれば一種の夢でも見ているような感覚だ。

あるいは新幹線の特等席などだと、こんなリッチな気分が味わえるのかもしれない。もっとも、スバルは特等席どころか自由席にも乗り込んだ経験がないが。

 

ともあれ、そうした静かな車内にあっては二人の間で交わされる言葉だけが確かな音である。そして、交わされる内容はここ数日の異変――本来ならば常にエミリアの傍らにあり、彼女にアプローチするスバルをことごとく邪魔する父親役の小猫の不在が話題に上がっていた。

 

「思い返すと、屋敷に戻る前から顔出してないよな。最後に見たのって……」

 

「私は王都で、クルシュ様のお屋敷にいたとき。いつも通りだったと思ってたんだけど、どうしてか朝から姿が見えなくて。呼びかけても、顔も見せてくれないし……怒らせちゃったのかなって、不安になってたんだけど」

 

俯き、エミリアは顔をスバルに見せないようにしながら自分の髪の先端を指で弄ぶ。ここ数日、彼女の髪型は銀色のそれを三つ編みにするのに固定されている。

スバルがジッとそれを見ていると、彼女はその視線の意図を察したように「うん」と頷いて、

 

「パックと話した日の最後の契約が、『髪型は三つ編み』だったから。そのあとはどんな風にするか言われてないから、今はこれを守ってるの」

 

「髪型がパックとの契約ってマジだったんだ。ずいぶん軽い……軽いか?髪は女の命とも言うし、だったらパックの契約は命握ってんのと同じ意味が」

 

「すごーく、軽い対価だと思う。森を出るまでは知らなかったけど、パックぐらいの精霊と契約するのに、今みたいな条件なんて軽すぎるってロズワールも驚いてたもの。本当ならもっと莫大な量のマナとか、複雑な条件とか必要なんですって」

 

力なく口元をゆるめるエミリアに、スバルは考え込むように一度頷く。が、それからすぐに彼女のその弱々しい笑みを振り切るために口の端をつり上げ、

 

「ま、エミリアたんの時間の一部を束縛してるってだけで、それはもう俺からしたらとんでもなく重い対価といってもいいけどね」

 

「そういうこと、あんまり軽々しく口にしてると上滑りしてきちゃう。大事なことならもっと大事なときにとっておいてほしいかな、私は」

 

露骨なアプローチが増え始めたスバルへのエミリアの不満。それを受けてスバルは両手を軽く掲げて首を横に振り、

 

「大事な場面でエミリアたんに伝えるとっておきの台詞は別にちゃんととってあるよ。今のは常日頃から、エミリアたんに伝えてもいい甘い言葉の数々」

 

「ホント、スバルって口が達者なんだから。……やだ、ちょっと顔が赤いかもしれないからこっち見ないで」

 

顔を隠すように掌を向けてくるエミリアに笑い、スバルは目的の達成を確認。それからそれた話題を戻すように「それにしても」と言葉を継ぐ。

 

「パックが不在って話になると、真面目に戦力面で不安があるな、この旅路。オットーも武力面で頼りにはできねぇし、俺は言うまでもなくダメダメ。で、エミリアたんもパックなしってんじゃキツイだろ?」

 

「あ、そういうこと言うんだ。言っておくけど、パックがいなくても私はちゃんと魔法も使えるんだから。パックだけじゃなく、微精霊の子たちとも契約してるもの。その子たちとの意思疎通は問題ないから戦えます。なにかあっても守ってあげる」

 

「やだ、男前。そして俺ってば情けない。その台詞、いずれ俺の方がエミリアたんに言うようになるからちょっと待ってて」

 

「期待しないで待ってることにするわね」

 

エミリアの言を証明するように、彼女が立てた指先に集まるように精霊たちの輝きが漂い始める。ユリウスの準精霊に似つつも、ややあれらより存在が薄弱に感じられる微精霊――パックと比べれば出力は雲泥の差なのだろうが、少なくともこの面子が武力ゼロの集団でないことだけは確かであるらしい。

集団でゆいいつの女の子、それも惚れた相手に頼るしかないというのがなんとも情けない話ではあるが。

 

「それ言い出したらそもそも、白鯨のときから俺の他力本願は変わってねぇしな。レムに頼りっきりだったし、その前も……あれ、俺自力で切り抜けた経験って実はない!?」

 

もちろん、彼視点での話であり、過小評価が過ぎる類の結果に留まる。

ともあれ、この場でそれを聞き咎めるだけの情報量を持つものがいなかったこともあり、スバルの思い出し仰天に関しては彼自身に強い反省の念を抱かせたところで流される形になった。

 

「けど、『聖域』か。実際、どんなとこなんだろうな」

 

ひとしきりの反省を終えたところで、スバルは小窓から外の景色を眺めつつぼんやりとそんなことを呟く。

『聖域』という単語自体を耳にしたのは、おそらくは屋敷でのループ時――この世界において、二度目のループに巻き込まれていた最中だったと思う。そのまま『聖域』について話題にする機会を逃し、ずるずると先延ばしにしてきた結果が今だ。

魔女教からの避難で一度、『聖域』へ向かいかけたときもあったのだが、それもペテルギウスの凶行によって叶わなかった。

結果、スバルにとって『聖域』とは未知数な場所でしかない。通称の響きからして危険なイメージはないが、『聖域』と合わせてフレデリカの口から語られたいくつかの注意事項がそのゆるみかける思考を引き締める。中でも、

 

「ガーフィールに気をつけろ、か」

 

「スバルも会ったことってないのよね。私も、名前だけしか聞いたことなくて。フレデリカも詳しくは教えてくれなかったし」

 

スバルの呟きに同乗する形で、エミリアも整った眉を不安げに寄せる。彼女が思い浮かべるのはおそらく、スバルと同じ場面だろう。

注意すべき人物としてガーフィールの名前を出し、しかしそれ以上の言及について拒んだフレデリカとの一幕。

 

情報を小出しにされることへの不服をスバルが訴えても、彼女は頑なに「誓約だから」の一言を譲らなかった。エミリアなどは、なぜかそれで引いてしまったのだが。

 

「やっぱ聞き出すべきだったよなぁ。危険人物だってわかってる相手のこと、名前しか知らないとか居直りすぎだと思うんだけど」

 

「仕方ないわ、誓約だもの。約定は神聖にして不可侵、決して侵すべからず。契約も盟約も誓約も、それらは重さは違えど固さは同じと扱うべし」

 

立てた指を振りながら、エミリアはスバルに言い聞かせるようにそんなことを言う。

契約に誓約に盟約、と言葉遊びとしか思えないそれらを耳に入れながら、ふと疑問に思ったことをそのまま舌に乗せて、

 

「エミリアたんとパックの間に結ばれてるのは契約。フレデリカがロズっちに義理立てしてんのか譲れないのが誓約。んで、王国がドラゴンと交わしたのが盟約……でいいんだっけ?なんか違うの?」

 

「そこまではっきり使い分けてるわけじゃないけど、私は契約は個々の間の約定。誓約は一方から一方へ誓っての約定。盟約は個人を越えて、時間も越えて結ばれるものだって思ってる。そんな風に教わったから」

 

「なるほど。確かにその認識なら条件には合うか」

 

エミリアの説明に納得の頷きを返し、それからスバルは乱暴に頭を掻いて「でもさ」と言葉を継ぎながら、

 

「ずいぶんと大仰な台詞で飾ったよね。約定は神聖にして不可侵、だっけか」

 

「約定……約束は、大事なものだもの。誓約はもちろんだけど、契約にだって本当ならそれを守らせる強制力なんてないの。ないけど、なくても約束は守る。守るために努力するものでしょ?誰が見てなくても、誰が気付いていなくても約束は守る。相手も自分も、そうするよう尽くす」

 

胸に手を当てて、エミリアは軽い気持ちで問いを放ったスバルをジッと見つめる。その口調は柔らかで、決して責めるような感情はない。それだけに、胸が苦しい。

 

「そう信じているから、交わした約定を果たすために頑張れる。約束って、その信頼を互いの間に結ぶためのものでしょ?」

 

「その節は本当にごめんなさいでした――ッ!」

 

揺れを感じない車内で床に這いつくばり、スバルは真っ向から頭を下げる。

床に額を擦りつけるDOGEZAを前にエミリアは驚いたように目を瞬かせ、数秒後に自分の発言を思い返してスバルの行動に合点がいった様子で、

 

「あ、別にスバルを責めたわけじゃないの。確かにスバルは私との約束を守ってくれなかったし、そのことをちゃんと謝らないで開き直ったりもしたから、私も『なによもうっ』ってなっちゃったのは本当だけど」

 

「痛い痛い痛い耳が痛い!」

 

「あとで一方的過ぎたって私も反省したわ。すぐにスバルと仲直りしに行かなかったのは意地っ張りな私も悪かったもの。ホント、ごめんね」

 

「痛い痛い痛い胸が痛い!」

 

「約定についてだって、私が重く深く考えすぎてたところもあったかも。ほら、私って精霊術師だから、契約のこととか普通の人より身近なの。精霊術師にとって精霊との契約はなによりも尊ぶべきものだから過敏になっちゃって……うん、私にとっては約束ってすごく、すごーく大事なことなの。やっぱりスバル、反省して」

 

「痛い痛い痛い心が痛い!」

 

言っている内に沸々とそのときのリアルな葛藤が思い出されてきたのか、ちょっと拗ねた感じになり始めるエミリアの前でスバルは平身低頭。

王城の控室で、彼女があれほどに憤慨していた理由がこれではっきりした。

ただ約束を破っただけのことに怒りを覚えていたのではない。彼女にとって、約束とはそれ自体がひどく重い意味を持つものだったのだ。それを軽はずみに破ったスバルに対し、心優しい彼女であっても平静でいられたはずもない。

スバルは無自覚に、エミリアの心の大事なものを踏みにじったのだから。

 

「反省、した?」

 

「反省しました。海より深く、山より高く、空より広く、宇宙より壮大に」

 

「それならよし、許しましょう」

 

顔を上げるスバルの額を指で軽く突き、エミリアはその当てた指を唇に当てると薄く微笑む。そこに怒りの感情がないことへの安堵と、続いた仕草があんまり可愛かったものだからスバルは二の句が継げない。

呼吸する魚のように口をパクパクさせるスバルに気付かず、エミリアはふと進行方向の方へと首を向けて、

 

「『聖域』にガーフィール。それにロズワールや村の人たち……話さなきゃいけない人がたくさんいて、今からドキドキしてくるわね」

 

「なぁに、エミリアたんを危ねぇ目には基本あわせないさ。盾2であるところの俺を信頼してくれよ」

 

「二番なの?じゃあ、一番は?」

 

「今、竜車の御者やりながら俺のパトラッシュといちゃついてるよ」

 

素知らぬ顔でしれっとオットーを肉の盾呼ばわりするスバルに、エミリアは今度こそ堪え切れずに噴き出してしまう。そうして彼女の笑みが弾けたのに満足しつつ、スバルは彼女が口にしたように待ち受ける関門の数々を思う。

 

異世界にきて以来、気の休まる暇もなく次々と問題が連続している。

『聖域』への道中でありながら、心の内に渦巻くのはまだ見ぬ場所への期待よりも不安が大きい。なにせフレデリカ直々にそれを煽られたところもあるし、ロズワール含めて村人が戻らない点など不審も多い。さらにはスバルたち自身もパックが呼び出しに応じなかったり、屋敷に不安要素を残していたりと心残りも多いのだ。

 

「レムさんのこと、考えてた?」

 

「……わかる?」

 

押し黙ったスバルの横顔を見つめて、エミリアがそう首を傾ける。

その仕草に銀色の髪が彼女の肩から滑り落ち、その先端を自らの指で摘まみながら三つ編みの尾を揺らして「わかるわよ」と言い、

 

「スバルが私を見てくれてるのと同じぐらいには、私もスバルのこと見てるって思ってもらってもいいのに」

 

「じゃあ、エミリアたんてば俺のこと四六時中見つめて考えてくれてるってこと?」

 

「あ、やっぱりその半分の半分の半分ぐらいで」

 

「ってことは三時間も……ッ!」

 

「その半分の半分の半分の……」

 

「正確な数値聞くと傷付くからもういいよ!」

 

細かく刻んで現実的な数字を割り出そうとするエミリアに呼びかけ、スバルは小さな吐息をこぼしてから頬を掻き、

 

「フレデリカとペトラに任せてるし、心配はないよ。ないんだけど……ないはずなのに湧き上がってしまうこの不安な気持ちを、俺はうまく言葉にできない」

 

「心配なのは心配なんだから仕方ないことじゃない。それだけ大事ってことだもの。そんなに思われるのって、ちょっと羨ましいぐらい」

 

「言っとくけど、俺は同じぐらいエミリアたんのことも……今、これ言わそうとしたでしょ?」

 

「うん、意地悪しました。ごめんね」

 

舌を出して詫びるアクションだけで全てを許してしまう。

思わず喉を鳴らすスバルの前で、エミリアは「でも」と上目でこちらを見上げ、

 

「もっと心配してるのは、ベアトリスのことでしょう」

 

「……ひょっとしてエミリアたんって、俺と心が通じ合ってんじゃない?これもう完全にエンディングは見えたな」

 

「いつもだったら『心配なんてしてるわけない』って悪ぶるのに、今日はそれも出てこない。すごーく、心配してる証拠」

 

図星を突かれてぐうの音も出ず、スバルは唇を噛んで悔しげな表情。

だがすぐにその表情を別の表情で塗り潰し、

 

「心配ってほどじゃねぇよ?ただ、最後に喧嘩別れみたいな感じになったあとで一回も会えなかったからさ。このまま屋敷離れて会わないまんまってのは、ちびっとだけ具合悪くて。そう、ほんのちびーっと。これっぽっちだけ、先っちょだけ」

 

「なんか卑猥な言い方に聞こえるんだけど、気のせいかしら」

 

「いや気のせいっていうか俺のせいだけど」

 

やや狙った部分への反応があって嬉しいのを隠しつつ、スバルは意味がわからずに首を傾げるエミリアを微笑ましく見守ったまま、

 

「あれでベア子の引きこもりがますます悪化するとなると、元引きこもりとしては非常に責任を感じなくもないというかなんというか」

 

「引きこもり……スバルって、確かそれに詳しいのよね。ベアトリス、出てこれそう?」

 

「難しいとこなんだよね、これが。大した切っ掛けなしに強引に引っ張ってもよくないし、かといって時間かけてじっくりってのは甘やかし過ぎ。本当に引きこもりってやつはどいつもこいつも手を焼かせて……あ!俺もだった!」

 

お決まりのオチがついたところで、話題の方向を修正。

ともあれ、『聖域』へ向かうことになった以上はその決着も後回しである。

 

「戻ったら、ベア子と色々話さなきゃな。けっきょく、聞き出さなきゃいけなかったことも聞き出せてねぇし」

 

「ベアトリスもパックも、なにか知ってて隠してる気がするのよね」

 

「俺も同感。フレデリカもそうだけど、あの屋敷の関係者って思わせぶりなことだけ言って解答編を先送りにする癖とかあるよね。もはや病気。しかも良くない病気。ベア子の奴、福音書返して気になることだけ言いやがって」

 

ベアトリスに思わせぶりな言葉と一緒に突き返された福音書は、今もちゃんとスバルの手元で保管されている。手荷物になるだけなら置いてきてもよかったのだが、最悪の場合はロズワールに問い質すといった手段もあるからと持ち込んでいる。

不気味なので袋の奥底で、ひっそりと隠すようにではあるが。

 

「――森に入ったみたい」

 

と、ふいに顔を上げたエミリアが額にかかる前髪を指で除けながら、あたりを見回してそんなことを口走る。つられてスバルも顔を上げるが、竜車の中からではその言葉の真偽を確かめることはできない。小窓に歩み寄って外を眺めると、なるほど確かに緑の色合いが濃くなっているのがわかる。

 

「外も見てないのによくわかったね」

 

「混じりだけど、エルフの血も入ってるから。森の一族って言われるぐらい、エルフと森は切り離せない関係で――」

 

そうして、エミリアが儚げな微笑を浮かべながら語っていたときだ。

ふいの感覚がスバルの肌を淡く刺激し、何事かとスバルは周囲を見回す。無論、目に見えるようななにかがあたりに影響を及ぼしたのではなかった。

竜車の中は依然、『風除け』の加護によって外部から切り離されている。

だが、

 

「――!?おい、ちょっと!」

 

「――――」

 

ふらりとエミリアの細い体が揺れて、そのまま無防備に倒れ込みそうになるのを滑り込むスバルが受け止める。

床の上をスライディングするような勢いで抱き止めたエミリアは脱力していて、目をつむる彼女は苦しげな表情で小さく喘いでいた。

 

「え、エミリアたん!?なにが、エミリア!?」

 

返事もできない様子のエミリア。苦しげではあるが、浅く早い呼吸と表情を除けば熱もないし汗も掻いていない。

軽い彼女の体を抱き上げ、スバルは自分では埒が明かないと即座に判断。竜車前方へ駆け寄り、御者台と繋がる小窓へ乱暴に頭を突っ込むと、

 

「オットー!なんかヤバい、エミリアが急に倒れて!なにか薬とか……」

 

「あー、ナツキさん、すみません」

 

焦るスバルの言葉が途切れる。そして、声を投げられたはずのオットーは額に汗を浮かべ、その声から力をなくしてこちらを振り向いていた。

気付いた変化は二つ――まず、竜車が止まっていること。パトラッシュとフルフーの二頭は足を止めて、木々の群れの中で立ち往生している。停車に気付かないぐらい、今のばたばたがセンセーショナルであったということだが、それ以上の問題が今や発生していた。

それが、大きな変化の二つ目であり――、

 

「また正面から堂々と、いい度胸じゃねェか、余所者」

 

吐き捨てるような台詞には、字面と違って友好的な感情が微塵もこもっていない。

たったの一言で、それを言い放った人物の人柄が知れるような発言。

その印象は正しく、竜車の前に仁王立ちする人物の見た目のそれも裏切らない。

 

逆立った短い金髪に、額の白い傷跡が目立つ。鋭い目つきは三白眼と揶揄され続けてきたスバルに負けず劣らず獰猛で、ネコ科の猛獣のような犬歯がやけに白い。猫背に丸めた背丈は男性にしては低く、だが小柄であることを他者に侮らせないぐらいには猛々しい鬼気が全身から漏れ出していた。

 

「どこの誰だか知らねェが、『突き抜ける杭ほど先細って脆い』ってやつだな」

 

「へ、あ?」

 

聞いたことのない言い回しにスバルが呆けた声を出すと、それを聞いた相手はビビっているとでも判断したのか「はッ」と息を抜くように笑い、

 

「あァ?ビビってんなよ、おい。確かにてめェらは運が悪ィ。なにせ、忍び込もうとした場所が場所で、おまけに出会っちまったのが俺様だってんだからな」

 

男は獰猛に笑い、牙を鳴らすように歯を噛み合わせると、己の拳を力強く重ねて身を低くし戦闘態勢。その姿勢のまま、言葉のないこちらを見上げ、

 

「このガーフィール様の前に出たのが運の尽きだ。『右へ左へ流れるバゾマゾ』みたいになっちまいな!」

 

そう名乗ったチンピラが、意図の伝わらない啖呵を切って地面を踏み込んだ。

直後、世界が反転するような衝撃がスバルたちに襲いかかってきた。